柳田國男の方言周圏論を始めて知ったときには感動したけど、あまり当てはまる言葉がないことを知ってがっかりした。90年代に入って大阪のテレビ局の調査を基にした『全国バカアホ分布考』を読むまで、使えない理論だと思っていたのだ。折口については、昭和天皇の崩御に際して話題になった、天皇の即位後の大嘗祭に登場するらしい「まどこおふすま」とかいうものについての論文を読んだのを覚えている。折口の難解な学説は嫌いではないのだよ。ただよくわからないことが多いだけで。最初に読んだ折口の作品は論文ではなくて小説『死者の書』だったけど、これも高校生には難解に過ぎたなあ。
大学でもさして状況は変わらず柳田や折口の著作は読んだが、それ以外の民俗学者については、意識の外にあった。民俗学的なものを取り入れて論文を書く文学者や歴史学者の論文は読んだけど。だから、宮本常一の存在について知ったのは、比較的遅く九十年代も半ばに入ってからだ。当時一世を風靡していた網野義彦の著作、いや対談集か何かで名前が挙がっていたのだ。
解説などによると収録されたなかでは「土佐源氏」が評判も高かったようだが、一番印象に残ったのは、対馬の村で行なわれる寄り合いの話だった。議長役以外の出席者は必要に応じて出て行ったり戻ってきたりしながら延延続く寄り合いでは、それぞれの議題について、出席者全員が納得するまで話し合いが繰り返される。効率を追い求める近代化の中で失われていった日本の姿は、日本人自身が考えている以上に民主的であった。
当時から、民主主義というものが、議論は所詮アリバイに過ぎず、結局は数の暴力に過ぎないのではないかという疑念を抱いていただけに、この本に描き出された寄り合いの姿は刺激的だった。もちろんこれが日本人の会議好きや悪名高き日本の会議の長さの源流だとか考えることも可能だろう。
しかし、「民主主義の敵」などという言葉を使うことで、馬脚を表し始めた現在のヨーロッパの民主主義を相対化するためにも、もう一度この日本的な民主主義の表れ方は見直されてもいいはずだ。さまざまな意見が存在することを前提とし、その多様性を尊重するのが民主主義であることを考えると、相容れない主張をするからと言って敵対する政治グループを、民主制の枠内で活動している政治グループを「民主主義の敵」とか「民主主義のほうかいにつながる」などと言って批判するのは、それこそ民主主義の理念に対する裏切りである。
もし、本当に極右などという言葉で規定される政党や政治集団の考え方が間違っているというのなら、議論で説得する必要がある。極右の連中は議論ができないという意味で他の追随を許さないところがあるが、それは連中が感情だけで物を言うからで、それに対して「民主主義の敵」などと感情的な非難をしてしまえば、自ら同じレベルに落ちていくことになる。そうなるともう水掛け論にしかならずに、第三者としてはどちらにも賛成の仕様がないと言うしかなくなるのである。
閑話休題。
宮本常一に話を戻すと、90年代の半ばにブームとなった高級文庫、既に絶版になって手に入りにくくなった学術書や、それに順ずる書物の中から、名著の評判が高く再刊に値するものを中心として刊行する文庫のレーベルが、いくつかの出版社で立ち上げられた。老舗とも言うべき講談社学術文庫も含めて、筑摩学芸文庫、平凡社ライブラリーなどで刊行される書物は新書よりも専門性が高く、部数が少ないせいか、文庫本とは思えない値段が付くことも多かったのだが、親本よりは廉価であることが多かったので、収集癖のある読書家にはありがたかった。
たしか、筑摩学術文庫で三分冊で刊行されたのが『日本文化の形成』で、晩年に研究の集大成としてまとめられたこの本の内容もなかなか刺激的だった。全てにもろ手を挙げて賛成というわけにはいかなかったけれども、碩学の経験に裏打ちされた日本文化論の説得力は、他のものとは一線を画していたのは間違いない。
それから『日本残酷物語』が平凡社ライブラリーから刊行されたのも90年代の後半だっただろうか。これは全てが宮本常一の作品というわけではないけれども、編集委員として中心的な役割を果たしたようだ。こちらは『忘れられた日本人』に近いスタイルの、事実によって、少なくとも証言者が信じている事実に語らせるという手法がとられており、かつてあった日本の姿が実感を持って迫ってくる。
今でも、外国にいて、真に日本的な物とは何なのだろうと考えさせられるときに、真っ先に思い浮かぶのは、柳田でも折口でもなく、宮本恒一の著書なのである。しばしば読み返して、良くも悪くもこれが日本なのだ、いや、日本だったのだと再確認する。柳田が外国から取り入れた民俗学を、本当の意味で土着化させた宮本恒一の著作は、外国にいる日本人、とくに外国で日本、日本語について教えている人にこそ読まれてほしいものである。
9月30日16時。
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