そのとき、古文の先生が一番に勧めていたのが、与謝野晶子訳の『源氏物語』だった。当時はまだ橋本治の『窯変源氏物語』は出ていなかったが、谷崎潤一郎、円地文子、田辺聖子あたりの現代語訳はすでに刊行されていたはずである。与謝野晶子訳を勧めた先生は、一番読みやすくて内容が理解しやすいからと言っていただろうか。国文学者の文法的な分析に沿った逐語訳は、古典文法を勉強するにはいいけれども、大体の内容を理解するのにはそぐわないとも言っていたかな。
そんな助言を受けたからと言って素直に読むような人間ではなく、実際に『源氏物語』を古文の教材や、試験の問題分以外で読んだのは、大学に入って岩波の『古典文学大系』やら、小学館の『古典文学全集』からに触れるようになってからである。といっても、通読したわけではなく、「桐壺の巻」なんかの有名どころをつまみ読みしたに尽きるのだけど。もちろん、現代語訳は読んでいない。ちょっと話題になった『窯変源氏物語』は、手を出したけど、桐壺源氏に終わったのだった。あの文体は全く合わなかった。
訳者の与謝野晶子については、明治大正期から新しい詩歌、特に短歌を追及していた人としてのイメージしかなかったので、『源氏物語』の翻訳をしていたことに驚いた。近代文学に興味を持たない人間には、新体詩を書き、新しい短歌を作った与謝野晶子と古典が全く結びつかなかったのだ。
その印象を覆してくれたのが、大学時代に古本屋で発見して、意外と安かったので購入した『御堂関白記』の日本古典全集版だった。当時は岩波の大日本古記録版が古本屋にあっても価格が高すぎて手が出せなかった時期で、その何分の一かの値段だったので、文庫版サイズで活字も見づらそうだったのを気にもせず購入したのだった。
それにしても恨めしきは岩波のあこぎな商売である。少部数の出版で市場に飢餓感を出して購入欲をあおった上で、予約限定復刻とか大学生には手の出せないことをしやがって、いや『小右記』は清水の舞台から飛び降りる気持ちで手を出したけどもさ。それが今や史料編纂所がネット上で公開しているのだから、時代は変わったものである。正直、岩波の経営が思わしくないとか言われてもざまみろとしか思えんもんな。
とまれ、その『御堂』の奥付を見て、びっくりした。編者に與謝野寛、與謝野晶子、正宗敦夫の三人の名前が並んでいたのだ。與謝野晶子は言わずもがな、與謝野寛は鉄幹の本名だし、正宗敦夫は、このときは白鳥の本名だと思っていたけれども、実は弟の国文学者で歌人でもあった人物である。そんなことよりも、与謝野夫妻が、共にこのような日本の古典作品を出版する叢書に携わっていたという事実に驚かされた。
この三人は、この叢書を刊行するために、日本古典全集刊行会という会社を設立している。奥付によると、住所は東京府豊島郡長崎村で、発行者、つまり刊行会の社長の名前が長島豊太郎。豊島郡の「豊」と長崎村の「長」が名前に入っているのは偶然だろうか。
そして、解題の何かと儒教的な考えかたから批判されがちな道長を擁護する文章と、下巻の末尾に付された与謝野晶子がてづから編んだ「御堂関白歌集」とその解説を読んで、ああこの人は道長のファンだったんだと理解し、『源氏物語』の現代語訳をしたというのもすんなりと納得できる気がした。「御堂関白歌集の後に」と題されたあとがきを読むと、すでに存在する「御堂関白集」と題された歌集に、誤って他人の作品が含まれているのに飽き足らず、あれこれ考証して確実に道長の作品と認められる歌を五十六首、年代順に並べたらしい。解題でも兄道隆や、源頼朝と比較して、道長のすばらしさを讃えている。
また、『小右記』に記録された「この世をば」の歌を激賞するついでに、公任について、このレベルの歌は一首も作っていないと言い、実資のことは有職故実については才があるけれども詩人ではないと切り捨てている。実資も道長の歌をけなしてはいないと思うのだけど、いいとばっちりである。与謝野晶子によれば、道長のこの歌を、その驕慢さを表していると批判し始めたのは、江戸時代の儒家であったという。水戸学の粋を集めた『大日本史』の記述でさえ、漢文で端正に書かれているがゆえに硬すぎて、歌が読まれた当日の打ち解けた情景を表せていないと批判の対象になっている。
解題によれば与謝野晶子は明治四十年に東京大学の図書館に納められた『御堂関白記』を呼んだことがあるようだ。日本古典全集版の『御堂関白記』刊行が大正十五年だから、二十年近く前ということになる。与謝野晶子の古典研究というのは付け焼刃ではなく、かなり昔から続けられていたものなのである。
その後、『御堂』以外の日本古典全集の本も財布と相談して購入するようになったのだった。そのうちの一冊に目を通しているときに、解題か何かに「我々の古典研究はまだ端緒についたばかりであり」とか、すでに出版した源氏物語の翻訳には不備な点が多いので、古典研究の成果を踏まえて改めて訳したいとかいうようなことが書いてあったと思うのだけど、どこにあったのか思い出せない。いや『御堂』の解題にあったと思っていたのだが、今読み返したらなかった。
とまれ、この記憶から、与謝野晶子の『源氏』の翻訳は一回だけではなかったのかもしれないということに気づいて、ちょっと調べることにしたのである。その結果はまた明日。
3月28日22時。
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