まず、大正十五年に刊行された『御堂関白記』の解題である。一編の道長論、もしくは道長賛歌となっているこの解題において、道長が新文学の激励者であり保護者であったとする部分がある。この辺りは、明治期の新しい文学の興った時代に活躍した人たちならではの意見であるような気もするが、大切なのは続けて「紫式部の「源氏物語」は與謝野晶子の考證に由れば道長の全盛期以前に作られた」と、『源氏物語』の書かれた時期を道長の全盛期以前に設定しているということである。この全盛期以前というのが何時を指すのかが問題で、公卿首座についたときなのか、彰子が中宮になったときなのか、これだけでは判断がつかない。
次は、大正十五年十月から五分冊で刊行された『源氏物語』の解題である。この古典全集版の『源氏物語』は、底本としては正宗敦夫所蔵の「元和活字本」という本を使っているが、挿画は与謝野晶子所蔵の『絵入源氏物語』から、印刷できそうなものを選んで採用したという。
それで他に何かないかと探していたら、西田禎元という人の「『源氏物語』と与謝野晶子」という文章を発見した。ちなみに名前はこの漢字で「ただゆき」と読ませるらしい。いやあこれは知らなきゃ読めんわ。この論文は与謝野晶子の「源氏物語礼賛」の歌が主要テーマになっているが、晶子の源氏論についても情報が出ていた。
最初の「紫式部の事ども」という文章は、次の「紫式部と其の時代」とともに、『人及び女として』という大正五年四月に天元堂書店から刊行されたエッセイ集の中に収録されており、文章の末尾にどちらも「一九一五年十一月」と書かれているから刊行の前年に書かれたものであることがわかる。
「紫式部の事ども」では、紫式部と近松門左衛門の二人を日本の文学界の最大の天才だとしている。清少納言、柿本人麻呂、井原西鶴の三人がちょっと下がった二番手の地位にあって、他はみなその下だと断定している。
その後、「久米博士」が源氏物語を紫式部の作ではないと論じたことを批判している。この「久米博士」は、歴史家の久米邦武(1839-1931)だろうか。「婦人」にしか書けない「婦人」の作であることは明白だと強調しているのは、久米博士が男性作家説を唱えたからかもしれない。
その一方で、紫式部の時代を自らが過ごした明治期の新しい文学の生まれた時期と重ねてみているような記述もある。特に「紫式部が小説を書くに至ったのは、今の青年が小説を書くのと同じ」だったのだと記しているのに、新しい文学を作り出そうとしてきた世代の熱を感じてしまうのは、思い入れが強すぎるだろうか。
そして、『源氏物語』が書かれたのは、夫の宣孝が亡くなった後、中宮彰子に仕えるために出仕する前の、式部が廿代半ばだった三、四年だろうとしている。古典全集の『御堂関白記』の改題よりは具体的な時期が出ているのだが、宣孝の没年長方三年(1001)とされているので、それから1005年ぐらいまでの間に書かれたと考えているようである。『源氏物語』を書いたことが評価を高め、道長に請われて彰子に仕えることになったと言うのである。
また、『源氏物語』が書かれた順番についても、まず現在の順番では二番目に来る「箒木」から書かれ、冒頭の「桐壺」は、全体を書き終えた後に、序文のような形で光源氏の生い立ちを記すために加えたものだろうと推測している。それは「箒木」の文章に未熟な点があることと、「桐壺」の文章の円熟ぶりからも傍証されるらしい。つまり、この時点では、『新訳源氏物語』の時点と同様に、『源氏物語』は、紫式部が一人で書いたものだと考えていることになる。
最後に式部の娘について、二人説があるけれども一人だけだと断言する。もともと「越後の弁」として出仕していたのが、「大弐三位」に呼び名が変わったのだと言う。この娘も歌人として才を発揮した「才女」であったと記されるが、『源氏物語』との関係については全く触れられていない。
もう一つの「紫式部と其の時代」は、特に『源氏物語』への言及はなく、なぜ平安時代中期に、式部をはじめとした女性の文人が活躍したのかということを簡単に記すのみである。
なんだか無駄に長くなってきたけれども、今更やめられないので、いつになるかわからないけど続く。
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