ウィントン氏は、第二次世界大戦前夜、ボヘミア・モラビア保護領成立直後のプラハから、ユダヤ人の子供たちをイギリスに送り出したことで知られている。3月から8月にかけて合わせて669人のユダヤ人の子供たちが、ウィントン氏の準備した列車に乗ってイギリスに出発することで命を救われたのである。ただ、9月1日に出発が予定されていた子供たち250人を乗せた列車は、この日に第二次世界大戦が勃発したことによってロンドンに向けて出発することはなかったという。プラハ駅の像は、ウィントン氏がちょうど100歳を迎えた2009年のこの日、9月1日に除幕されている。
もちろん、ただ単に、ユダヤ人の子供たちをイギリスに連れ出すといっても、当時の保護領の役所、ひいてはナチスの許可が下りるはずがないので、ウィントン氏はイギリスで、子供たちを養子として受け入れてくれる家庭を探し、ナチス側からクレームが付けられないように書類をしっかりと整えプラハに送っていたようである。列車の運行に必要なお金を集めるために、あちこちで寄付をつのる活動もしていたらしい。
一時は、チェコの大学生たちが中心になって、ウィントン氏にノーベル平和賞をという署名活動が行われ、ノミネートされたこともあるようであるが、残念ながら受賞を待つことなく、2015年に亡くなった。享年106歳。本人はものすごく控えめな人で、プラハからユダヤ人の子供たちを救い出したことを、自ら語ることもなかったようだし、ノーベル賞なんぞもらわなくとも、チェコの人々、ユダヤの人々に知られていればそれでいいような気もする。特に最近のノーベル平和賞は、政治的になりすぎて、ウィントンのような人にはそぐわない。
ナチスの行なったユダヤ人虐殺、いわゆるホロコーストに対して、ユダヤ人を救うために活動した人物として、日本でもよく知られているのはアメリカ映画にもなったオスカー・シンドラーと、リトアニアの日本領事館で多くのユダヤ人を含む戦災難民にビザを発給したという日本の外交官杉原千畝の二人だろうか。
この二人、実はチェコに縁があって、シンドラーは現在のチェコのスビタビの出身だし、杉原千畝はドイツの保護領時代のプラハの日本大使館に勤務したことがあると聞いている。ただ、この二人が救ったのはチェコのユダヤ人ではなかったからか、チェコでの知名度はそれほど高くない。
ちなみに、ウィントン像の近くにある駅舎の入り口の両脇に掲げられている記念碑は、1939年から1945年にかけてのナチス占領時代における犠牲者に捧げられたものである。
5月2日23時。
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