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時間の陥穽168 アリストテレスは運動体に「今」が準じているのであって、「今」に運動体が準じているのでなく、運動に時間が準じているのでなく時間が運動に準じているのと同様であると解きます。というのも、運動体によって我々は、運動における「より先・より後」の順序構造を識別し、そこから、「より先・より後」が数えられ得るものであるかぎりにおいて、「今」が成立するからである。従いて、運動体に「今」が準じている場合においては、「今」の存在主体については同一であるとし、運動における「より先・より後」の順序構造に時間の方向性と「今」の特異性を強調します。アリストテレスは「今」の具体的なあり方を「より先・より後」の順序構造を数えられ得るものであるかぎりにおいてと強調し時間の流れを運動の数として認識しています。時間の流れの客観的・具体化させる思惟が成させる結論です。哲学・思想ランキング
2020年05月31日
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「時間存在」167時間の陥穽167 アリストテレスにしてみれば、運動が有する順序構造は、その運動体が位置する地点の順序として識別されると認識します。つまり、現在「今」が成り立つためには、其の今は抽象的なものではなく、具体的なものでなければならないということになります。然し乍ら、具体的な今が炙り顕す先後関係は、運動の順序構造と同じではないこと、運動体によって運動の順序構造が識別されるのであるから、運動体に準ずる今によって、時間における先後関係がそれと知られ、数えられ得るものになるであろうという論理から存在主体が同一である或いは準じる限りに於いては、アリストテレスは運動体に準ずる「今」と時間における先後関係がそれと知られ、数えられ得るものとします。数え得るものが運動であり、時間が其れ準じるのであれば、運動は必ず順序構造を持っているのであるから、今の存在主体はしたがってその点で同一であり、より先・より後に関する運動の数としての時間に関する概念が正当性を帯びます。哲学・思想ランキング
2020年05月30日
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時間の陥穽166 アリストテレスは、空間・運動・時間の三者の系統を鑑み、運動そのものが世界を体現して、「運動体と規定される存在主体」は運動との同一性を保つが、「運動体」はアリストテレスはによれば、点のようなものでも石であっても構わないので多様性が特徴になります。ところが、運動と称される場合、運動が有する順序構造、その運動体が位置する地点の順序として多様なかたちで識別されると。運動そのものが持つ方向性によって布置構造から順序構造への変換が行なわれ過去・現在・未来という時間的先後関係が顕れて、「今」および数あるいは数えるという要素を持ち込んでくる。運動そのものが持つ方向性によって布置構造から順序構造への変換が行なわれるのであるから時間が運動に準じることになります。哲学・思想ランキング
2020年05月29日
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時間の陥穽165 アリストテレスは、場所の空間的拡がりに対応するものとして点を取り上げ、運動に対応するものに、動いている具体的な当のものである運動体を取り上げています。更には、運動が空間的大きさに準ずるように、運動体が点に準ずると述べます。此の論意は、少なくと此の解釈での用いられている「点」という単語は、抽象的な拡がりとしての大いさ、あるいは、拡がりを持たずに位置のみを有するものといった幾何学的な点ではなく、寧ろ、運動体が存在している具体的な場所である空間的な位置、アリストテレスが挙げている例、リュケイオンとかアゴラがそれに相当し、空間的拡がりにおける具体的な「地点」を意味するものです。其の論からは運動の順序構造は運動体が通過する具体的な地点の順序として識別され、運動体そのものは同一性を保つものの、其れがはたして何処に居る或いは在るのか、何処を動いているのかという点ではユークリッド幾何学の二次元上の位置を示すものとは異なっていることになります。アリストテレスは此れを具体化して「存在主体のレヴェル、動いているコリスコンという人物は同一であるが、コリスコンその者がいる語られ方のレヴェル地点、即ち、語られる方の運動体の具体的様は異なっているのる。もっとも、これは先ほど述べたこと、即ち、運動体は運動に内在している目的の実現という方向性に沿った順序を示すということを強調します。哲学・思想ランキング
2020年05月28日
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時間の陥穽164 アリストテレスの「今」の解釈の論理は、空間・運動・時間の三者の系統をより解りやすく具象化するために「点・運動体・今」という系列を持ち込み、「空間的大いさを位置を表す点に、運動を其の質である運動体に、時間を今という現実態」当て込み、此の系列が人間に認識可能なものとすると思惟します。具体的にはアリストテレスの言「すなわち、先に述べたように、運動は大きさである場所の空間的拡がりに準じ、時間は運動に準ずる、というのが私たちの主張である。したがって同様にして、運動体は点に準じ、この運動体によって私たちは、運動およびその運動における「より先とより後」としての順序構造を構成するものを識別するのである。そしてまた、「運動体はそれが点のように小さなものであれ、石であれ、他の何かそのようなものであれ、その存在主体について言えば同一であるが、その語られ方について言えば異なったものになる。それはちょうどギリシアのアテナイを中心に活動した、金銭を受け取って徳を教えるとされた弁論家「ソフィストたちが、リュケイオンにいるコリスコンとアゴラにいるコリスコンは異なっていると考えるのと同様である。」コリスコンという人物は存在主体の水準(level)は、動いているものという規定を受け入れる水準(level)は同一であるが、その人物がいる地点、即ち、語られ方の立ち位置では、 運動体の具体的様相は異なっているのである」とします。「運動体は次々と違う場所にあるということによって異なっているのである」と。哲学・思想ランキング
2020年05月27日
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時間の陥穽163 何も変化が無く時間も流れない世界。とてもじゃないが我々には想像出来得ない。ブラックホールの核内 でさえ時間は流れと変化があるとされます。勿論のこと、何も変化が無く時間も流れない其の世界は形而上・数理上理論または宗教上は神そのものです。当然に数、学的計算によって導き出された理論上のものを確認することは有り得ません。絶対的であれ、相対的であれ、始まりと終わりがあろうとも時間は流れており、伸び縮みしようとも、我々の意識は間違いなく時間の流れを感じています。そして「今」を感じています。「今」言い換えれば「現在に在る」という特異点に関しては、アインシュタインもお手上げだったとさえ云われます。物理科学の理論・実証的にも「今」を扱うことは非常に難しいことは現代に於いても何ら事情の変化はありません。此の「今」の問題を考えるに当たって、アリストテレスは大乗哲学の祖である龍樹の「空論」の時間の取り扱い、人間意識の時間否定のように、「心論」に拘わらず、一般論として時間を考証し「今」を取り上げ「今」の位置を語ります。哲学・思想ランキング
2020年05月26日
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時間の陥穽162 運動は或る方向性と連続性を持った順序を踏むが故に、観察及び観想者は運動を空間的拡がりの中に見いだし、空間的布置構造が観相出来得ます。完全現実態への目的達成のためには順序が必要となるのです。たとえ目的的完全現実態が「混沌/chaos」であるにしても運動そのものが持つ目的へと向かう方向性には影響を与えません。この方向性による順序構造への変換に基づいて、運動における先後関係が規定され、その関係が少なくとも、数的なものでとして取り扱うことが可能となります。運動の数としての時間が「数を持つかぎりでの運動」であるということは、その根本において「順序構造を持つ運動」という意味に解することが可能だということです。それでは、この運動における先後関係が、そのまま時間における先後関係となる得のであろうかが、運動・空間・時間の三者間の関連から、運動における先後関係が、其の儘、時間における過去・ 現在・未来という時間様相の関係的先後関係「かって・今・いつか」の時間的先後関係に対応できる得のであろうかは重要性を帯びます。ここにアリストテレスの「今」の解釈の論理が重要性を帯びる訳です。哲学・思想ランキング
2020年05月25日
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時間の陥穽161 アリストテレスは「動」である運動は、可能性が可能性として現実化されているあり方、彼云うところの完全現実態のことであり、此の「動」にはそれ完全現実態へと向かう目的が備わっている。例えば、「善の研究」で著名な西田幾多郎の哲学の道を辿ってみましょう。西田が詠んだ歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑が建てられた如く、自宅から京大へと向かって、向かう目的が備わって自分の研究室におさまる。この目的を実現するために、運動に順序が導き入れられる。言葉を換えれば、目的達成のためには手順を踏まなければならないのであって、西田は一挙一瞬にして研究棟へ行くことはできない。もし一挙にそれを成し遂げることができたとしたら、そこにはアリストテレスが思惟するような運動や変化は存在しなくなる筈です。此のことは人間の自然界の問題ではなく世界内人間の世界を超越する神の領分になります。時間が神の領分に属するのであれば人間には時間が不可知となること必然です。哲学・思想ランキング
2020年05月24日
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時間の陥穽160 アリストテレスは此処三者の関連、運動・空間・時間から運動の本質を分析します。運動におけるより先・より後は、その存在主体そのものについては運動ではあるが、然し乍ら、その本質は別ものであって運動と同一ではない、主体と本質が別ものだとします。彼アリストテレスは、より先・より後という先後関係の基盤を空間的拡がりにおける位置関係に見立て、そのような空間的区分が運動における先後関係に受け継がれ、其れが更に時間にも受け継がれると思考します。但し、空間的先後関係がその儘其の通りに運動における先後関係に引き継がれるわけではない。空間における先後は、基準点からの距離によって決まるので、事物の並置ないし布置による何らかの同時的秩序の形成が導入される。対して、運動における先後関係は順序を必要とするので継起的秩序となり、両者は必ずしも一致しないのです。換言するならば、空間的先後関係は単なる回路図すなわち布置構造であり、運動的先後関係は、通過地点の順番をその回路図に記(しる)したもの、すなわち順序構造そのものであると云えます。例えば、惑星間有人宇宙船は効率的飛行を考慮する筈ですから、先ずは地球の引力脱出圏、無重力ステーションへの移動、其の次には、エネルギー軽減のために引力圏脱出の動力機関を外しての惑星への接近行動、最後に、惑星への着陸船にての下降となります。運動全体はこのように三つに分節ないし区分され、それによって移動運動が持つ順序構造が明確化されます。然し乍ら、運動自体は空間的拡がりが有する布置構造を基盤としてはいるものの、それを順序構造に変換したうえで、その先後関係を受け入れるのであって、運動に順序をもたらすのは、実相は、空間的拡がりではなく、そのものの運動経過そのものだということになります。然し乍ら、時間の特性が此れで言い尽くされているのであろうかは甚だ疑問です。哲学・思想ランキング
2020年05月23日
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時間の陥穽159 アリストテレスの基底とする運動は場所、空間に占める位置移動を意味していますが、詰まるところ、場所移動としての運動は、空間的拡がりが連続性を有しているがゆえに、それに応じた連続性を手に入れ、その運動が連続しているが故に、時間もまたそれに準じた連続性を手に入れるとアリストテレスは考えていることになります。此の文言から導き出されるのは、連続性に関して三者の間に繋がりがあるならば、逆に区分や分割に関しても繋がりが見いだされる筈だということになります。連続性に関して三者の間に繋がりが見いだされ得るならば、逆に区分や分割に関しても繋がりが見いだされる筈です。アリストテレスは三者の間に繋がりが、区分や分割に関しても繋がることを「より先・より後は先ず第一に場所としての事物を包み囲む空間的拡がりにおいて成り立つ。そこでは位置関係によって先後関係が決まる。大いさとしての場所の空間的拡がりにおいて、より先・より後があるのだから、必然的に運動においても、大きさの場合と同様、類比類推的により先・より後が成り立たなければならない。然らば当然に、時間においてもより先・より後が成り立つのであって、それは其れ等のうちの一方である時間が常に他方である運動に準じているからであるとします。何故なら、時間が常に他方の運動に準じているからだとします。哲学・思想ランキング
2020年05月22日
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時間の陥穽158 連続している対象 連続量は何らかのものを「数える単位」として用い不連続なものへと変換されるのであって、「基準単位」がその変換装置の役割を果たして光と波の光子の類は少々複雑なものとなります。さて、アリストテレスは運動がそこで行なわれる場所の空間的な拡がりと運動および時間の間に連続性の点で依存関係があると考えます。「時間ここにありき」を承認しているようにも想えます。更には、連続性故に時間の流れの存在もです。「運動体は或るものから或るものへと動いて行き、運動が行なわれる拡がりとしてのどんな大きさも連続しているのであるから、運動は大きさに準ずる。すなわち、大きさが連続しているので、運動も連続しているのである。そして、運動が連続しているので、時間もまた連続していることになる。というのも、運動が行なわれた分だけ、それに応じて時間もまた常に、運動することになる。アリストテレス「自然学」における時間の概念「より先・より後に関する運動の数」としての時間に関する論を繰り広げます。此処に、単純な疑問、はたして「時間」は空間を持つのかが俎上します。哲学・思想ランキング
2020年05月21日
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時間の陥穽157 時間の実相が抽象的な数であるとすれば、その様態を持つ「数」は羊を数えるのは勿論人間にもそして数が適用し得る運動に適用可能な筈です。但し、人間が「数」を数える場合には、対象領域の構成要素が、少なくとも互いに明確に区別されなければならないという点、もって不連続なものでなければならないということです。対して、対象が連続的なものである場合はどうなのであろうかという疑問が当然に浮上します。連続している対象の場合、それに人間から楔を打ち込んで対象を分節ないし分割することができ得るならば、その楔を打ち込むものは測るという作業を経て数えるという作業に変換可能となります。そのためには、先ず以って運動を個体性分節を持たない液体等、粒子であって「波の性質」を持つ「光子」ないしは其の眷属である磁力や電波を区分する仕方を明確にしなければならないという面を持ちます。このように、連続量は何らかのものを「数える単位」として用いたときにのみ、不連続なものへと変換されるのであって、「基準単位」がその変換装置の役割を果たしているのです。もっとも、変換装置「数える単位」となり得るものは、数える対象と共通性を持っていなければならないのは当然です。波と粒子の2つの性質を帯びる光はアリストテレス云うところの「運動の数」としての時間の解明は、光の速度と性質を数える対象とする「舌を出す大天才」理論物理学者アインシュタインを待ちます。哲学・思想ランキング
2020年05月20日
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時間の陥穽156 アリストテレス云うところの「運動の数」としての時間は「数を持つ限りにおいての運動」であり、「数えられるもの・数えられ得るもの」としての数と、「それによって私たちが数えるところのものとしての数」であるとします。後者の「それによって私たちが数えるところのもの」というのは、具体化しようとしない抽象的な数、原理数の1を除く2・3・4・5・・・云々のことで、「数えられるもの」「数えられ得るもの」とは、抽象的な数が適用され得る具体的対象の数量、具象化され得る羊が一匹・二匹・三匹・云々等の具体的数を示します。謂わば、此のものは幾つあるかといった問いに対する答えとして呈示されるもので、そこから、アリストテレスは「時間は数えられるものであって、それによって私たちが数えるところのものではない」と述べます。哲学・思想ランキング
2020年05月18日
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時間の陥穽155 アリストテレスは時間が「動の何か」と述べ、其の時間の経緯は人間の持つ知覚の経過の意識に踏み込みます。但し、彼は敢く迄も「時間」を時間を「より先・より後に関する運動の数」とする自己の思考の見出した定義を揺るがしません。彼の論述「時間の定義」が語られる前には、時間の問題は場所移動としての運動ではなく我々が聞き慣れない「運動の数」が運動との関係において規定されていますが、其処には「より先・より後」という先後関係の要素と、加えて「数」という要素が加味されているのがアリストテレスの「時間論」を理解する上では心得ておくことが必定となります。ここにアリストテレスの「運動の数」としての時間論の理解が要請されます。一に「運動の数」、二に「運動における、より先・より後」の解釈です。哲学・思想ランキング
2020年05月17日
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時間の陥穽154 時間は人間が世界を理解する上での立ち位置であり、此れなしには変化や運動が解明できないとする立場は基本的にアリストテレスにとっても事情は変わりません。事情は基本的には、モノの性質的変化・量的変化・場所的変化としての動、其の変化から生じた生成、消滅にも時間は必ず関わっている。然し乍ら、アリストテレスは直接モノの生成消滅の経緯に係る「動」及び「変化」は、変化しつつあるもの、乃至は、動いているものにおいては認められるが時間はいつ如何なる何処にでも、どんなものにでも認められると云います。更には、変化や動には遅速の違いがあるが、既に変化や動には時間に導入、つまりは、底流としての時間が入り込み、逆に、変化や動から時間は拘束されません。一般物理学概念の限界です。特異なのは変化や動には遅速の違いがあるが、時間にはそれがなく、寧ろ、時間が遅速を規定するという点でしょう。アリストテレスの時間概念で重要な疑問点は時間と動および変化が密接な関係にあるのは疑い得ない以上、アリストテレスは時間が「動の何か」でなければならないと考えたことでしょう。哲学・思想ランキング
2020年05月16日
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時間の陥穽153 我々人間は、或る地点から目的地への移動に、目的地さえ持たない「散歩」を除いては目的地に到るのに意識・無意識を問わず時間の長短・輕重を自己に問います。つまり、目的地に着くのにどれほどの時間がかかるか必ず考慮しています。此の様に、時間量を用いてその運動のあり方を示すこは普段も行なわれることであす。総じて何かが何処かへ動いてゆくとき、若しくは、何かが変化しつつあるとき、それには時間が必要だと我々は内心で捉えているのであって、我々の精神活動は変化や運動に必須のこの時間を消去することは出来得ない。その点で、時間と変化や運動は不即不離の関係にあると云えます。とは云え勿論のこと、両者は同じものではなく、龍樹の大乗哲学のように、「人間の精神活動の時間」の流れを「空論」で否定した如く、内精神の時間の流れは仏祖であるシッダールタたる釈迦が「行」を以って乗り越えたと想われますが、外界の運動・変化を左右する力は毛頭ありません。時間は人間が世界を理解する上での立ち位置であり、此れなしには変化や運動が成り立ちが解明できません。哲学・思想ランキング
2020年05月15日
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時間の陥穽152 現代に至っても、アウスグチヌスの「私に誰も問わなければ、私は時間とは何かを知っている。しかし時間とは何かを問われ説明しようと欲すると、私は時間とは何かを知らない。」は現代物理学も解消するまでには到っておりません。我々現代人の人間感性は敢くまでに時間が々と過ぎ去り、流れ去ってゆくと感じとります。換言すれば、我々が物事が変化していることに気づいたとき、私たちはそこに時間が流れ去っているのを感じ取るというこよです。仮に時間が過ぎ去らなかったならば、世界の物事は何ひとつ変わらないであろうし、逆に何も物事に変化がなかったならば、そこに時間があるとは感じられないであろうというのです。ただし、現代生理学は臨床実験に於いて、被験者を賽子の内部のような空間で全く変化なしの環境での行動を観察したところ、外環境に在ったように睡眠サイクルに変化が見られません。此れが体内時計と云われるものなのですが、恐らくは、被験者自身は、ロビンソン・クルーソーのように暦に記す手段がなければ、自分が何日・何年の間、其の環境に居たのかさえ気付かない筈です。此のことから、所謂、、ベルグソンの時間論の論拠である「持続性」が疑われます。哲学・思想ランキング
2020年05月14日
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時間の陥穽151 我々人間は社会生活を送っており、誰に教えられることもなく、時間が時々刻々と過ぎ去り、流れ去って行くようにと感じる感性を「心」に抱いています。「渡り」を行う雁や白鳥の類(たぐい)や蝶が時間の流れを感じているのではありません。まして時刻を生活に取り入れた人類、此れが顕著に表面化するのは英国の産業革命が齎したものです。農業や漁業の第一次産業に見られるように、其れ迄の人間社会は恒星である太陽や、その惑星である地球の公転と自転、其の衛星の月の見欠けで時間の流れを何となく観想していたものが、産業革命は経済活動の一環として集団行為の一致が要求されるために人間の生理的時間(体内時計)に反しても時刻が優先されます。中世では時計塔や振り子時計を、産業革命以降は時間の流れを刻みとして象徴(記号化」する携帯時計、即ち、懐中時計や腕時計を普及させ、社会生活が否が応でも時間の流れを意識化せしめます。其れ故、古代人のように、明日の朝には太陽が昇れば取り入れや漁場に入るといった悠長な時間ではなく、経済社会の維持の要請から猟期がの解禁日が定められています、現代人はのべつ幕無し時間の流れを象徴化した時計に生活を終われ、時間の流れを単に象徴化された時計を観想して日々を過ごしていますが、アウスグチヌスの「告白」が生じます。哲学・思想ランキング
2020年05月13日
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時間の陥穽150 アリストテレスの自然の原理「動」の解釈に「可能態にあるものが、そのようなものとして、完全現実態にあること」の定義を、現実化すれば或る目的的因が作用因を得て目的を成すのを完全現実態としており、其の完全現実態の更なる目的因となる可能性、即ち、新たなる「可能態」となることが論述されてはいませんが、「自然」は敢くまで動や変化のほうに内在的な始原・原因を持つことから、継続・持続性が持ち込まれることは理の当然です。自然は絶えずこのように理解された「動」を響かせており。次次々繰り返され変化していきます。アリストテレスの自然の原理「動」の解釈には「自然」は敢くまで動や変化のほうに内在的な始原・原因を持ち、そこから自然の摂理・原理、運動・位置即ち場所である空間、更には持続性を持った「時間」を取り上げられます。アリストテレスの自然の原理は時間が在るから「動」や「変化」が生じるのではなく、「動の何か」そして属性としての「変化」が「時間の流れ」を観相させるとするのです。哲学・思想ランキング
2020年05月12日
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時間の陥穽149 アリストテレスの自然概念は一言で云えば「静止し常住するものの世界」とした世界内の「神」乃至「常有」を否定するものです。世界内存在の自然には「常住」は無く、不動の「常恒性」も無く、「自然」は敢くまで動や変化のほうに内在的な始原・原因を持ち、そこから自然の摂理・原理、運動・位置即ち場所である空間、更には「時間」を取り上げます。アリストテレスの自然観は必然的に「自然」についての探求が「動」と「変化」は免れ得ないものなので、彼の自然哲学探求は「動」を中心として展開されることになります。然らば「動」をアリストテレスは自然学はどの様に定義しているのか。人間を含めて因果的必然の世界。自然の中に現存する人間が、自然界という相手を認識する営みであるとし、「動」は「可能態にあるものが、そのようなものとして、完全現実態にあること」と定義します。此処に云う「完全現実態」とは、全てが全うされた「完全体」なるものではなく敢くまで新たな可能態であることには注意が肝要です。哲学・思想ランキング
2020年05月11日
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時間の陥穽148 アリストテレスは「哲学の父」と呼ばれるタレスの自然哲学を基にした人間が肉体を通しては見えない世界、彼の登場までは粗方を神の領域に嵌め込み、実行を全て神に委ね疑問を持つことさえしない、或いは、許されない分野に「形而上哲学」に解決を委ねます。即ち、神の行為の分野である「時間」を、史上初めて体系的に解明に努めた人物になります。なかでも、自然科学を取り扱う論文集の「自然学」第3巻・第4巻は「時間の流れ」を探求するにあたって、時間概念の基礎的理解の基底ともなるべきものとして重要な論文ですが、時間論は「自然学」第4巻で集中的に語られており取り分け重要です。彼は世界における自然を、動いたり変化したりするものに内在的な、「動」乃至「変化」の始原・原因と捉え、そのような自然の根本問題として、文字通り自然の原理となるもの及び運動、場所としての現代的には空間、時間等々を取り上げています。然し乍ら、彼の自然の捉え方、動及び変化と自然は密接な関係を持っているので、自然についての哲学的探究は、「動」に関する考察を中心に展開、世界に静止しているものはないとの見解です。仮に静止している「モノ」があれば、其れは「神」や「常有」として存在することになります。哲学・思想ランキング
2020年05月10日
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時間の陥穽147 アリストテレスは紀元前384年- 紀元322年、質疑応答により知識を探求する弁証法を初めて使用した紀元前490年頃-紀元前430年頃の運動のパラドックスで有名を馳せたエレアのゼノンの思想を哲学的に時間を論じた最初の人間だと云えます。同時代の釈迦(しゃか)も、紀元前5世紀前後の北インドの人物エレアのゼノンと同時代です。、仏教の開祖であるガウタマ・シッダールタ漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)は、其れまでのヨーガ思想を哲学的に捉えた人物ですが、説諭は宗教的に昇華され、時間論が登場するには大乗の祖ナーガールジュナ(龍樹)、龍樹は紀元150~250年頃も空論で初めて問題視されいること、アリストテレスはソクラテスと紀元前469年~399年とほぼすれ違いで生き、また、ソクラテス以前の「哲学の父」と呼ばれるタレス(紀元前624年頃~546年頃)もイオニア地方の哲学者、変化する世界を「火」として把握した.ヘラクレイトス(紀元前540年頃~480年頃)も自然哲学の限界を余儀なくされた。「自然哲学」を形而上哲学に範囲を高め抽象化されたものを具象化、敢くまで、観念論的ですが万人が求めれば理解させようと努めたのがアリストテレスです。其の実現がアカデメイア、現在の大学院相当とする学院の創建です。此等の年表系列を鑑みれば、現代世界の思考世界の水準は物理科学技術の現実化を除いては思考論法が確立されていたことになり温故知新が必須となります。哲学・思想ランキング
2020年05月08日
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時間の陥穽146 アリストテレスの著作論文を纏め構成したリュケイオンの11代目学頭アンドロニコスの「自然学」の時間に関しての論意は第3巻・第4巻は「時間の流れ」を探求するにあたって、時間概念の基礎的理解の基底ともなるべきものとして扱っており時間存在の有無、住するならば其の流れの存否を判断するために物理科学の探求、生物学からの生態的時間存在の干渉、人間精神の変化や進展にとっては取り分け重要な課題となります。 然し乍ら、アリストテレスがいかに汎ゆる分野に多能であるにしても、時代は物理科学技術は未だまだ未熟なときであり、物理科学でさえも水準的に形而上学として取り扱わざるを得ませんでした。其の文明段階でありながらアリストテレスの思考の探求は、分野は違えど仏祖シッダールタに匹敵する、あるいは、現代文明に与えた影響はそれ以上のものがあります。なにしろ、仏世界の守護神の毘沙門天像のモデルとなった、その当時までの史上最大の帝国の基を築いた若きアレキザンダーの家庭教師であることからも、偉大さでは劣るところがありません。哲学・思想ランキング
2020年05月07日
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時間の陥穽145 アリストテレスは運動を「可能的にあるもの、そのようなものとしてのエンテレケイア」と定義、エンテレケイアは彼アリストテレスによって提唱された言葉であり完成された現実性という意味で、前者の可能的にあるものとは、現実世界に存在しているデュナミス (dynamis / dunamis) とは、能力・可能態・潜勢態の意味を持つ、アリストテレスの哲学の概念ですが、其れが可能態という形で在るものであり、その可能性を完全に実現して定式化。そして、運動の定義に即した運動変化モデル、デュナミスはエネルゲイアと、さらにはエンテレケイアと相対を成す概念であり、エンテレケイアに向かう実現化の動きと捉えます。此の思考は運動体、運動体の現在の状態、運動が完了するときの運動体の状態という三つの項で構成されることになると解析されます。可能性としての運動体・運動体の現在の状態・運動が完了する完動態とした運動体の状態です。アリストテレスは既に「運動」に「時間の流動」を見込んでいるようにも憶えます。此の概念は「質料」と「形相」のアリストテレスの概念とも関係しています。形相と結びつき得るものとしての質料「可能態」は、すでに両者の結びついた個物「現実態」として現実に存在するものとなる思考法が如実に顕れています。哲学・思想ランキング
2020年05月06日
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時間の陥穽144 第3巻は運動、無限についての考証が全8章に亘っての論証です。「運動について」は第1章-運動の種類。運動の暫定的定義。第2章-運動の暫定的定義を確証するための補説。第3章-動かすものと動かされるもの。それらの現実化された運動の定義。の3章に論説されます。「無限について」の考証は、第4章-無限なものについての先人の諸見解。その存在を認める人々の説と彼らがそれを想定する理由。無限の諸義。第5章-実体としての無限なものを認めるピュタゴラス派の説とそれへのの批判。無限な感覚的物体は存在しない。第6章-無限なものは可能的に存在する。加えることによる無限と分割することによる無限。無限とは何かを問います。。第7章-諸種の無限なもの。数における無限と量における無限。空間的な大きさ及び時間の長さに関する無限と運動の関係。無限は四原因のいずれに関するものか。第8章-無限なものを現実的に存在するとする諸見解に対する批判で構成されます。アリストテレスの「自然学」第3巻第1~3章の運動論は運動の定義の内実を検証します。アリストテレスは運動を「可能的にあるものの、そのようなものとしてのエンテレケイア」即ち デュナミスというのが可能態という形で現実世界に存在しているというものであり、その可能態がそのものの機能を十分に発揮できた状態で存在しているというものがエンテレケイアということであるとしますが、この定義に関しては、果たしてこの定義が静的な事態ではなく、ものが運動しているという事態を指示できているのか、将又、「エンテレケイア」自体が運動を指示しているのではないかといった点で論争があります。哲学・思想ランキング
2020年05月05日
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時間の陥穽143 アリストテレスの論文を今日のような形で整理し注釈を施し今日まで整理し注釈を施したのは、ソクラテスに対するプラトンや孔子に対する孟子とは相違し、現代に云う「校正」に当たり其の編纂には苦労を強いられたことは、直接の面識は無くとも推測されます。余程の心酔があったのでしょう。なかでも、自然科学を取り扱う論文集の「自然学」第3巻・第4巻は「時間の流れ」を探求するにあたって、時間概念の基礎的理解の基底ともなるべきものとして取り分け重要です。第1章から第5章に亘る論述は「自然学」第3巻・第4巻の空間的延長と時間的延長の存在論的位置づけについて記述されています。「自然学」第3巻・第4巻はアリストテレスの運動変化一般と、空間的延長および時間的延長を扱う運動論、無限論、場所論、空虚論、時間論なのです。第3巻は運動、無限等全8章で構成され、第4巻は場所、空虚、時間等全14章で構成されています。哲学・思想ランキング
2020年05月04日
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時間の陥穽142 ロドス出身のアンドロニコス(Andronicus of Rhodes)、リュケイオンの11代目学頭がアリストテレスの著作論文を今日のような形で整理し注釈を施しました。アリストテレスの「第一哲学」が「meta-physics/和名で形而上学」と呼ばれるようになったのも、彼がその関連著作群をまとめて「physics」/自然学」の後ろに配置したことに由来するのですが、宗教史における釈迦やナザレのイエス、儒教における孔子、哲学におけるソクラテスよりは口述筆記でない部分、アリストテレスの思想に私考の入る余地は少なく信頼がアリストテレスの思想を正鵠を射ている可能性があります。其の編纂されたアリストテレスの著作集のなかには、先ず、「カテゴリー論/範疇論」・「命題論/解釈論」・「分析論前書」・「分析論後書」・「トピカ」・「詭弁論駁論」といった六篇の論理学関係の著作が収められ、此等の著作群は、6世紀ごろには汎ゆる学問の「道具」という意味をこめて『オルガノン』と総称されました。続いて収められている「自然学」「天界について」「生成と消滅について」「霊魂論」「動物誌」「動物部分論」「形而上学」「ニコマコス倫理学」「政治学」「弁論術」「詩学」などの論文で、タイトルを見るだけでも、アリストテレスが、いかに現代で言うところの人文科学、社会科学、自然科学のすべてに精通していたということがわかるのですが、此の恩師を家庭教師として薫陶を受けたであろうの英傑アレクサンダー大王への影響も興味津々です。哲学・思想ランキング
2020年05月03日
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時間の陥穽141 ロドス出身のアンドロニコス(Andronicus of Rhodes)とは、紀元前70年頃のロドス島出身の学者であり、逍遙学派(ペリパトス派/Peripatetic school)でアリストテレスが創設した古代ギリシアの哲学者のグループであり、彼の学園であるリュケイオンの学徒の総称、其の名称はアリストテレス等が、逍遙即ち散歩をしながら講義を行ったからだとされます。私事ながら、かって記者も幼児の頃学長辞して隠居していた祖父に散歩を勧誘され牡丹雪の降り頻る中、祖父のマントに包まれ呟いた言葉「散歩って何」の発言を思い出します。帰ってきた言葉の返答は「只ぶらぶら歩くこと」で其の言葉を想い返します。其の散歩の父の話す物語や倫理論が私の人生行路を決めたのですから。現代の時間に囚われて散歩も儘許されない御時世には、自己の観相する時間、世界側で物理的に観相されるとされる時間、神に於ける時間は其々が独立独歩で進行しているのでしょうか、将又、時間が特異な様相を付け加えたのでしょうか。哲学・思想ランキング
2020年05月01日
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