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~秋田名物ダイジェスト版~ 秋田名物の筆頭に、秋田美人を挙げておきましょう。国内で最も日照時間が短いのが秋田県(反対に日本一長いのが山梨県)だそうです。そのため女性は肌が白く、きめ細やかです。美人の代表である小野小町も秋田生まれと伝えられ、銘柄米「あきたこまち」の名もそこから来ています。。また「秋田新幹線」の名前も「こまち」ですものね。 2番手は「大ぶき」。生物学上の名はアキタフキで別名オオブキ。名前のように茎の長さは1mから2mにもなります。北海道のラワンブキも同種とのこと。もっぱら県外へ出荷される由。上の暖簾の文字は「秋田甚句」の一節。その後に「手頃なふきの葉ひらっと被ってさっさと出で行がえ」と続きます。つまり秋田では傘代わりにフキの葉を代用する。それくらい大きいんだよと言う自慢です。 秋田の習俗の筆頭は何といってもなまはげでしょうか。正しくは「なまめ剥ぎ」と呼ぶようです。山から鬼の面を被った神の使いが里に下りて来て、怠け者を脅かして戒めるもの。男鹿半島が発祥の地ですが、秋田県内200か所近くの集落で行われる新年行事です。この度「なまはげ」は8県10行事の一つに加わり、「来訪神 仮面仮装の神々」としてユネスコ無形文化遺産へ登録されました。 したがってお土産品にもこんな鬼の土鈴が作られていますよ。おお怖~っ。 秋田県の代表的な工芸品として、「曲げわっぱ」(左)があります。これは秋田杉の板を蒸気で曲げて細工したもので、上は弁当箱です。温かいご飯の湿気を適度に吸い取り、杉の良い香りが移ります。主な産地は大館市。右は樺(かば)細工。樺は桜の皮のことで、これを加工してお盆などの生活用品を作ります。上は茶筒。細工に必要な大きな山桜の樹が、年々減っているのが悩みの種と聞きました。 秋田の食べ物も様々ですが、先ずは高級品の「稲川うどん」。普通のうどんよりも細く、しかも腰が強いのが特徴です。左はその製造過程。こんな太い麺を、徐々に細くして行きます。今回の旅でも3度は食べたでしょうか。 美味しい秋田米を最大限に生かしたのが「きりたんぽ」(左)炊いたご飯を棒に張り付け、タンポン状態にします。これに味噌を塗って焼き、味噌たんぽにしても良し、他の具材と共に煮た「きりたんぽ鍋」も体が温まりますね。右は比内地鶏(ひないじどり)を使った大館名物の「地鶏弁当」。ご飯がぎっしり詰まって満腹感が得られますよ。 ちょっと変わったところで、左の「いぶりがっこ」などはいかがでしょう。「がっこ」は「お香々」。秋田弁で漬物のことです。これは沢庵の燻製なんですよ。独特の噛み応えと香ばしさが味わえます。右の「もろこし」は小豆を粉にして作ったお菓子。噛むとかなり固いのですが、そのうち小豆の香りと仄かな甘さが口の中に広がります。秋田の代表的なお菓子と言えるでしょう。 さて最後に登場するのが秋田犬。「あきたいぬ」と読みます。ロシアのザギトワさんに贈られたのもこのワンちゃん。かつては強い闘犬を作るために、色んな犬種を掛け合わせたそうです。ところがこの犬、体は大きいのに性格が温和過ぎたのです。あの忠犬ハチ公も秋田犬。帰らぬご主人様を渋谷駅前で5年間も待ち続けたと言う話には泣けますよね。ハリウッドの映画にもなりました。 大館市、仙北市西木町、横手市。今回の旅では合計3か所で秋田犬に触れることが出来ました。初めての経験でしたが、どの犬も大人しく頭を撫でさせてくれましたよ。ありがとうね秋田犬くん。なになに?「また来てほしいニャン」ですって?ちょっと違うんだけどなあ。ああ本当は「また来てほしいワン」と言ったのね。最近爺は耳が遠くなってねえ。わはは。<続く>
2019.02.28
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~小さな春見つけた~ クロッカス 夢を見た。なんだかとっても変な夢。木の葉に小さな毛虫がうじゃうじゃうごめく。これは一体何なんだと思う間もなく場面が切り替わり、今度は目の前に畑が現れた。おかしいなあ。自分が耕した畑がいつの間にか他人の畑と入れ替わっていて気分が悪い。そのうち薬指が痛み出した。それで目が覚め、トイレに起きた。そして指輪を外して再び就寝。その翌日も夢を見たが、どんな場面だったかは忘れた。 <鮭(上)とハタハタ(下)のなれ寿司> 先日入浴後に体重を測ったら、現役ランナー時よりも減っていた。ウソ~っ。お正月以来、全然減らなかった我が体重。原因は何かと考えて思いついたのが「発酵食品」の摂取。最近は秋田の旅で買った「なれ寿司」や、新年会でもらったキムチや漬物、そして納豆などを食べていたのが有効だったか。喜んで翌日測ったら、元の木阿弥。レレレ。これは何じゃい。それでも微増なのでマシ。全く油断大敵だ。 蝋梅 近所のお宅の蝋梅が咲き始めたのが、小川の対岸から見えた。そこで早速撮影に行った。その帰り道、2番目の職場の後輩に会った。私を見つめながらじっと立っていたTさん。だが目深な帽子とマスクのせいで誰だけ分からない。おまけに背も縮んでいた。脊椎の圧迫で4cm低くなった由。糖尿病も思わしくなく、2本の杖を頼りに、何とか歩いていると彼。私より1学年下なんだけどなあ。 <フキノトウ> <オオイヌノフグリ> <フユシラズ> T氏の姿を目にしたからでもないが、最近は極力散歩するよう心掛けている。風は強く寒い日もあるが、手を振って歩く。駐車場で小さな青い花を見つけた。オオイヌノフグリ。別名「星の瞳」。一足早い春の使者。ひょっとしてと裏庭を探したら、小さなフキノトウが2つ見つかった。そして庭ではこれまた小さなオレンジの花。いつの間にかフユシラズが咲いていた。おお、ありがとうね君たち。 ヤナギガレイ 週末は買い物の日。運動のためリュックを背負って歩く。1km先の安いスーパー。18品目を買って2千円でお釣りが来た。私も買い物上手になったものだ。ヤナギガレイが6尾で287円。軽く塩を振り、一夜干しにした。マグロの血合いは味噌漬けに。カレー、ポテトサラダ、ほうれん草と小松菜のお浸しも作った。そうそう、買い物からの帰り道、ちらっと遠くに見えたものがあったのさ。 それは青空にくっきり映えた蔵王連峰。家に荷物を置いて、早速撮影に行った。岡の上の墓地が絶好の撮影ポイント。人の目にはくっきりとした雪山が見えるんだけど、デジカメのレンズを通すと、霞んで見えるのが残念。きっと春霞のせいだ。まあ春が近づきつつある証拠で仕方がないよね。そうそう、値下げしたシャツを2枚別の日に買ったこともあった。本当はセーターが欲しかったんだけどねえ。
2019.02.27
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~三都物語~ これが秋田県の地図。今日は3つの市で撮ったスナップ写真を載せますね。題して「三都物語」。北から大館市、仙北市角館、その南にある大仙市大曲の順で紹介します。もし興味があれば地図で当該の市をご確認くださいませ。<大館市> ここは2日目の午前中に訪問しました。「あめっこ祭り」を見物するためですが、お祭りの模様は別途紹介する予定です。 最初は大館市の観光ポスター。左から右へ「きりたんぽ鍋」、大ぶき(フキの巨大なもの)、比内地鶏(ひないじどり)、秋田犬(あきたいぬ)などが見えます。大館は秋田犬の故郷です。あの「忠犬ハチ公」もここの生まれでした。 大館の街中で見かけた看板。呉服屋さんではなく、どうやら染物屋さんみたいですね。 ショーウインドーにはこんな反物も。これを見ると呉服屋さんなのかなあ。 こちらは染め直した生地の見本。やっぱり染物屋さんかな? 記念撮影用のセット。果たしてどんな昔話があったのか? 秋田犬のぬいぐるみと一緒の記念写真。子供たちにはこっちの方が人気だよね。 秋田は米の名産地ですが、日本酒の名産地でもあります。立派な菰樽(こもだる)が積まれていました。<仙北市角館> ここでは3日目の午前中に「武家屋敷」を見学しました。その模様は別途紹介しますね。 角館は元城下町。秋田の佐竹藩の支藩が置かれていました。立派な蔵が目立ちます。 雪道にこんなポストが。集配時間が書かれているので、どうやらまだ現役みたいですよ。 ここにも立派な蔵が。角館の枝垂れ桜(左側)の大半は天然記念物で、その1本1本に指定のナンバーが付されています。 武家屋敷の門。上級武士と下級武士では住む地区が違います。公開してるお屋敷も複数あります。 武家屋敷のある通り。これだけの広い道は、角館以外には江戸にしかなかったとか。この道は忘れ難い場所の一つです。なぜなら「秋田内陸ウルトラマラソン」(100kmの部)のコースだからです。9月の早朝5時半ごろ、最低8回はこの前を走って通ったはず。まだ元気だった頃の良き思い出です。 これが武家屋敷の枝垂れ桜です。100kmマラソンの開催は9月なので、私は一度もこんな光景を目にしていませんが、折角なのでネットから借用して掲載しました。<大仙市大曲> 大仙市へは2日目の夜に宿泊し、3日目の午前中に酒蔵と味噌蔵を見学しました。その模様は別途紹介します。ここは大曲駅近くの裏通りです。 大曲の花火大会は全国的に有名です。3月に開催するのは新作花火を打ち上げて宣伝するため。「大物」が次々打ち上げられてそれは壮大なのだとか。その時に流される曲が「秋田県民歌」。観客はとても興奮すると聞きました。確か夏の大会もあったはずです。 駅前に巨大な花火の模型が鎮座していました。やはり花火の町だけありますね。 大仙市の観光ポスター。春の部は雄物川の堤防と桜並木です。 同じく秋は紅葉の錦秋風景です。 同じく秋祭の風景です。右側に「梵天」が見えていますね。 「梵天」のミニチュアが駅に飾ってありました。巨大な梵天を担いだ氏子が石段を駆け上り、拝殿に勢いよく突っ込む勇壮な祭りみたいです。<不定期に続く>
2019.02.26
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~雪景色その2~ 背後の湖は田沢湖。2日目の夕食をこの湖畔で摂った。ここは若き日の思い出の地。高校の同級生と共に初めて旅したのが秋田県。訪れたのは男鹿半島と田沢湖だった。 時は昭和39年の秋。当時の田沢湖に観光地らしい様相はほとんどなかった。宿はおんぼろで、出された料理と言えば、すべてが食用菊を調理したもの。あれには参った。強風の寒風山も殺風景で、それ以降荒涼とした風景が秋田に対するイメージとなった。 田沢湖は一級河川雄物川水系に属する淡水湖で、直径6kmの円形をしている。夕暮れの湖は静かで、波もほとんどなかった。 最大深度は423.4m。日本一深い湖だ。湖水の標高は249m。一番深い部分は海水面よりも低いことになり、冬でも湖水が凍結することはない。因みに世界一深い湖はロシアのバイカル湖。その湖畔の民族と日本人のDNAはかなり近いと言う研究がある。 かつて田沢湖には固有種のクニマスが生息し、かなりの漁獲量があった。ところが昭和15年(1940年)、国の方針で近くを流れる玉川の水を湖に取り込むことになった。農業と発電のための用水としてだ。だがPH1.1と言う強酸性の源泉を持つ玉川の水を注入したことで、クニマズは全滅し幻の魚となった。 国内では絶滅したと思われた幻の魚クニマスが、平成22年(2010年)山梨県の西湖で発見された。田沢湖から密かに移されて、細々と養殖を続けていた由。この大発見にはさかなクンが一役買っていたそうだ。そしてクニマスだと確認された際、「ギョギョ~っ!!」と言ったとか。 湖畔に彫像が立っている。桶で水を汲む男の像だ。タイトルは「飲水思原像」とあった。「水を飲もうとする者は先ずその源に思いをいたすべきである」との意味。平成13年(1991年)に田沢湖と台湾の澄清湖との間で「姉妹湖」の調印が結ばれた際、台湾から寄贈された由。 その対岸に立つのが「たつこ姫」像。作者は彫刻家の舟越保武で昭和43年(1968年)に除幕された。辰子姫は田沢湖の主で、その実態は龍。この辰子を巡って、十和田湖の主と八郎潟の主が争ったそうだ。だが八郎潟はその後干拓されて姿を消した。困った八郎は田沢湖に移り、今では辰子姫と仲良く暮らしている由。背後の雪山は秋田駒ケ岳だろうか。<写真はネットから借用> 今回の旅では岩手山の雄姿を望むことが出来た。旅の2日目に盛岡の酒蔵見学が組み込まれていたのだ。標高2037mのこの山は岩手県のシンボルで「日本百名山」の一つ。2つのカルデラから成る火山は、盛岡側から見て「表富士」、八幡平側から見て「裏富士」と呼ばれる。別名「南部片富士」。表裏が異なる山容からそう呼ばれるのだろう。十和田八幡平国立公園の一部。 岩手山に関する思い出が2つ。1つ目は岩手のブログ友ニッパさんのこと。山麓の滝沢市にお住まいだった彼は、良くブログに岩手山の写真を載せていた。だが闘病も空しく、帰らぬ人となった。享年は確か74歳。私は間もなく彼の歳を超える。彼には車で盛岡市内を案内していただいた。 2つ目は「いわて銀河ウルトラマラソン」。北上市をスタートして険しい山中を北へ向かう100km。ゴールの雫石町が近づくと、この雄大な山が突然目の前に現れて大感激。もう会えないニッパさんと二度とは走れないウルトラマラソン。どちらも私の大切な思い出だ。<続く>
2019.02.25
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~雪景色~ 岩手県から秋田県へ入ると、さらに雪が深くなったような気がする。山の麓の黒い森は秋田杉の美林。秋田は昔から杉で有名だ。 トイレ休憩で寄った高速道のサービスステーション。トイレの窓から氷柱(つらら)が見えた。寒々しい裸の樹木。そして窓に垂れる氷柱。同じ東北でも雪のない太平洋側に住む人間と、豪雪地帯の多い日本海側に住む人間とでは、きっと「冬」や「雪」や「暮らし」に関する概念が異なるのではないか。 男鹿半島が近まると、遠くに真っ白い雪山が見えた。男鹿には本山、真山(しんざん)と言う神聖な山があると聞いたが、あれがそうなのか定かではない。 日本海の浜辺に数本の風車が立っていて、とてもゆっくりとプロペラが回っていた。あの「東日本大震災」以降、急に自然エネルギーの活用が叫ばれるようになった。だが、この巨大な動力装置は果たして「ペイ」しているのだろうか。 ガイドが「右側が大潟村。かつて八郎潟があったところです」とアナウンス。慌ててそちらを見たらもうとっくに通り過ぎていた。そこで左手の窓の外を見ると、辛うじて八郎潟の「出口」が見えた。今は堰を設けて海水が入らないようにしてる由。日本海は薄暮を迎えようとしていた。 鉛色の空の下で日本海が静まり返っている。冬の初め、雷が激しくなるころ、ハタハタが産卵のため岸辺に押し寄せる。昔は「猫またぎ」と呼ばれたほどたくさんの水揚げがあった。今は乱獲のせいか、それとも海水温が上がったためか、漁獲量がかなり減った由。ぶりこ(ハタハタの卵)の硬いゴムのような食感を思い出す。そして山形県酒田市で食べた、塩焼きの絶妙な味も。 初日の夕食は男鹿の水族館で済ませた。水族館の見学はなく、レストランを借り切っての夕食のみ。早速秋田名物の「稲庭うどん」が出た。水族館の前で、波が岩に打ち寄せていた。遥か縄文時代もこの海を丸木舟が漕ぎ渡り、太古には阿倍比羅夫が日本海を漕ぎ渡って秋田の蝦夷と渡島(現在の北海道)を侵略した粛慎族を討伐に来た。そして江戸時代には北前船がこの海を往来していたのだ。 山形蔵王の樹氷ツアーの時もそうだが、極寒の地を訪ねる旅では「完全武装」が求められる。帽子は2枚重ね。セーターも2枚重ねの上に、厚目のウインドブレーカーを着用。ズボン下、ズボンの上から同じウインドブレーカーのズボン。そしてブーツの中には分厚い毛糸の中敷きを入れた。今回のツアーは夜の屋外での行事が「売り物」だったため、あり合わせのもので防寒対策を立てたのだ。<続く>
2019.02.24
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~幻日環と現実感~ <幻日環> 雪まつり客賑はいし店の軒 賑はいし宿の軒端の氷柱かな *じゅく *つらら 大寒の野鳥畑の葉ついばめり 風花の舞ひ来る庭の雀かな 風花と日輪競ふ日のありぬ 日輪と風競ふとき山眠る 山眠り日輪と風競ひけり 風と日の競ひし季や山眠る 春立ちて野鳥集ひし畑の土 立春や日輪と風競ひつつ 日輪と風競いつつ山眠る 今回はあまり気乗りしないまま俳句教室を迎えた。新聞の俳句欄もほとんど読まず、提出すべき句も低調。理由の一つは季語と季節感の齟齬。俳句の世界では立春を過ぎれば春だが、現実に春めいたものは乏しい。北国ならばなおさらのことだ。 太陽が出ているのに、風に乗って雪が飛んで来る。「北風と太陽」みたいで面白いと感じ、もっぱらそれがテーマになった。教室には最後の句を出したが、講師には不評。文法的に変だと言うが、どう直すかは答えない。そして「競ふ」も好ましくないと言う。 旅行以外は家でじっとしていたこの冬。苦吟の原因だが、その分ブログで頑張ったと自負。サブタイトルと写真の「幻日環」(げんじつかん)は、「現実感」とかけて遊ばせてもらった。
2019.02.23
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<写真はカレンダーから> 先日畑から最後の白菜とキャベツを獲った。どちらも霜でやられ、かなり弱っていた。まだ大丈夫だとばかり思っていたのに、油断した感じ。白菜は外側の葉を剥けば中は大丈夫。だがキャベツは玉が小さくて、かなり中まで腐っていた。凍結と溶解を繰り返し、腐敗したのだろう。それにしてもすっかり畑の野菜にお世話になったこの冬。枝に残ったユズは、小鳥がきれいに食べつくした。 走友会の総会&新年会に出席出来て良かった。行事への参加は約2年ぶりのこと。「幽霊会員だが、今や社会との接点は月1回の俳句教室とこの走友会だけ。後1,2年はこのまま居させてほしい」。私がそう挨拶すると、皆は納得してくれたようだ。ここ8年ほどまともな活動をしておらず、体調を崩した間に走れなくもなっていた。走れないランナーが走友会に所属するなんて普通はないよね。 帰宅してリュックを開けると、たくさんの「おかず」が出て来た。新年会の終了後DKさんに「余ったおかずが欲しい」と告げたら、残りのほとんどを袋に詰めてくれたようだ。早速それを素材にして「から揚げ丼」と「ビビンバ」を作った。どちらも素晴らしい出来具合。あの日出席したメンバーは、ほとんどが昔馴染み。自分としては近況を報告し、かつ仲間の活躍ぶりが知られて良かった。 旅の写真の整理を終えた。約400枚に名前をつけて分類。紹介の案を考えたら、最低でも16回のシリーズになりそう。ほとんどは写真の羅列になるとしても、時にはストーリー性を持たせた紹介も試みたい。それに時々は他の話題も入れたい。まあ気負わずに行くつもり。皆様もどうぞお楽しみに。 県民税市民税の申告に行った。国税の確定申告に比べたら何と気楽なことか。会場までの距離もこれまでとは半分以下で、手続きも簡単。必要な証明書などを持参すれば、後は区役所の係員が処理してくれる。医療費の控除分は次年度に清算される由。毎年の法改正で気が重いが、必要な資料を揃えておけば心配ないと分かった。これで県民、市民としての責任は果たせそうだ。 第3木曜日は「俳句教室」の日。改めて来年度の申し込みが必要だが当選の保証はない。今月はブログに腐心して俳句が疎かになったかも。過日区役所から保険証が届いた。初めて体験する「後期高齢者」用。保険料納入には再度手続きが必要の由。さて「雨水」に合わせて雨が降り、少し春めいて来たように感じる。散歩ついでに蝋梅とフクジュソウを撮影して来た。
2019.02.22
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~幽霊会員の辞~ ある温泉施設で開かれた所属走友会の総会を兼ねた新年会に、過日出席したのである。まあ敷居は高い。もう7,8年ほどまともな活動をしていない私。不整脈の勃発と3度の手術。左足足底のアーチ陥没、自転車事故による頭部負傷と手術、そして熟年離婚。その間、「東日本大震災」の悲劇もあった。小説のネタになるには十分な理由もあったのだが、あえて顔を出した次第。 出席者は23名。風邪による欠席者が1名。総会はとんとん拍子に進んだ。今年度の活動報告、決算報告と監査報告。そして新年度の活動方針案の審議。会費は安くなり、会員の高齢化に伴い、役員を含む会員の負担を極力減らすことで満場一致。若年層への取り組みが弱い一面はあるものの、私には気心が通じる和気あいあいの雰囲気が、とても有難い。新年会開催までの間に、天然温泉を楽しむ。 低料金のため、さしたる料理は出ないのだが、私には質量ともに十分だ。それに別途用意したたくさんの食べ物や飲み物も並んだ。O川会長の挨拶。K山長老の乾杯の音頭に引き続き、一気に懇親会へと雪崩れ込む。体に負担をかけぬよう、極力アルコールは控えよう。その誓いも最初のうちでもろくも崩れ去り、ビール、日本酒、ワインと、注がれるままに飲み干した私であった。う~む。調子は良さそう。 「共同作業」 「母と暮らせば」 「巨匠そろい踏み」 「和やかなグループホーム」 K山長老 M仙人 O川会長 ここから今年の参加予定レースや抱負が、意気揚々と述べられたのであった。(敬称略) S原 S木 M井 K野 A原 Y田 M谷 H郷 S木 K野 Y広 DK T脇 私はカメラマンなので自分のは撮らなかった。それに参加レースの予定もなかった。ただここ数年間の健康状態と家庭の事情を簡単に話し、目下社会と関わるのは月に1度の「俳句教室」と、この走友会へまだ籍を置いていることだけと告げ、後1、2年籍を置かせて欲しいとお願いした。私の抱負は今年も元気で生き抜き、来年のオリンピックを見ることとも。仲間は走れないランナーにも大きな拍手をしてくれた。写真は宴席。一番左でピースサインをしてるのが筆者。既に相当の酩酊ぶりだ。 恒例の記念撮影。筆者は最前列の右端で正座している。 先日の「宮城UMC」創立20周年記念式典でもそうだが、今回の新年会でも出席を迷った。もう一歩も走れない元ランナーが、まだまだ現役で頑張っている仲間の会に、果たして出席する意義があるのだろうかと。今回の挨拶でもそのことを正直に話した積り。それでも仲間は暖かく迎えてくれた。まだランナーの「魂」を失っていないうちは、元ランナーであることを誇りに思うことを許していただこう。 別れ際、余った食べ物をDKさんがビニール袋に詰めてくれた。何も恥じることはない。折角の食べ物を粗末にせず、すべて美味しくいただくのだ。帰宅後、酔っぱらいながら写真整理を始めた私だった。さて今回も期せずしてY田さんと歴史談義をすることが出来た。まさか彼が私と似たような他の趣味を持っていたとはねえ。これもまた奇縁と言うべきだろうか。
2019.02.21
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~江戸開府と土木工事~ 最初に問題。この城の名を当ててほしい。答えは江戸城の天守閣。だが現代人で観たことのある者は誰もいない。なぜなら焼失して既に現存しないからだ。 焼失の原因は「明暦の大火」。明暦3年(1657年)に生じたいわゆる「振袖火事」のもらい火による。この火事には因縁があり、同じ着物を着た若い娘が立て続けに3人死んだ由。当時死体改め人には死人の着物を自由にする権利があった。だが着物を売った後、それを着た2人の娘が立て続けに死んだ。これは凶事と考え着物を火の中に投じたところ、強風に煽られ後世に残る大火となった由。 他に八百屋の娘お七が恋に狂って火をつけたとの話もある。ともあれ天守閣が焼失した後、再建されないままに幕末を迎えた。そのため現在見られるのは天守台の石垣のみである。 さて時代を安土桃山時代末期に戻す。これは秀吉による「北条攻め」以降、家康が下された領地(赤の部分)。それまでの150万石から250万石へ加増となった。それは良かったのだが、実はこの地には大きな問題があったのだ。<もちろん関が原の戦い以降は、大々的な領地の再配分が実施され、常陸の佐竹氏は羽後(現在の秋田県)へ転封され、他の大名も大幅な国替えが行われた。> これは平安末期の関東地方だが、家康が江戸へ移った時期も基本的には江戸湾(東京湾)へ流れ込む川にさほど変化はない。利根川や荒川が直接湾に流入し、大雨の際はたびたび大きな被害をもたらしたのである。この治水が第一の課題だった。 家康は早速土木工事を命じ、荒川を西遷させて入間川につなげた。当然元の下流の水量は減る。一方利根川は2度に亘って順次別の川につなげて東遷させ、最終的には現状のように銚子から太平洋へと流した。長期にわたる難工事の結果江戸の水害は激減し、関東平野には美田が広がったのである。 これが開府以前の江戸。ここへ城下を開くためには大幅な土木工事が必要だった。なぜなら後に江戸城となる台地の目前まで、日比谷入江などの海が入り込んでいたためだ。また元々は沼だった千鳥ケ淵を生かし、濠の一部として使った。こうして次第に江戸の縄張り(都市計画)が実行されて行く。なお江戸の町から生じた大量のゴミは、浚渫泥と共に湾埋め立ての材料となった。現代とまるきり同じ思想だ。 そしてこれが土木工事後の概略図。入江はきれいに埋め立てられ、河川と運河は整備され、城下町に相応しい土地が周囲に広がって行った。かって島だった浅草寺も、このころには陸地だったのが分かる。 そしてこれが「総構え」。つまり江戸の町全体の防御体勢だ。江戸城を中心にして二重の濠で囲い、かつ排水を兼ねた。また生活に不可欠な上水(水道)は、小石川上水、神田上水などを順次整備した。これにより江戸は世界一の人口を誇る都市に成長して行く。今年の正月にこれらの一大土木工事をドラマ化した『家康、江戸を建てる』がNHKから放送されたが、とても圧巻で重要な知見を得た。 さて、260年以上続いた幕府に滅亡が迫る。薩摩から第13代将軍家定に嫁いだ天璋院篤姫(写真左)の尽力、第14代将軍家茂に降嫁した皇女和宮(孝明天皇の異母妹=右)の「公武合体」も、体制維持に役立たなかった。だが、無血開城の一助とはなった。その後の歴史は周知の通りだ。 皇居一般公開の日から2か月半。ようやくこのシリーズが書けた。困難なテーマをなんとか物にするのも、ブロガーの喜びには違いない。<完> <参考>皇居は公開日以外は公開されませんが、常時公開されている箇所があります。その一つが「東御苑」。ここには元本丸、大奥、二の丸 、三の丸などがありました。入り口は大手口(上)など2か所。入場は無料です。美しい広場などがあって楽しめます。ただし月曜日と金曜日はお休みです。
2019.02.20
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~皇居に残る江戸城~ 今日は皇居に残る江戸城の面影を写真で紹介しよう。これは大手口。つまり江戸城の正式な入口だ。私は一般公開で行ったためコースは限定され、撮影したのはほんの一部だけであることをお断りしておく。また掲載は順不同でしかも十分な説明は出来ないが、江戸城の雰囲気を味わっていただけたら幸いだ。 大手濠と渡櫓(わたりやぐら=右) 渡櫓のズームアップ 手前の塀にほぼ隠れている大手門の遠景 十人同心。大手門の内側にある最初のチェックポイント。入城する際の検査をしたのかな。 「十人同心」の側面 超巨大な百人番所。十人同心の次に入城者をチェックしたのだろうか。背後には大手町のオフィス街が見える。 桜田巽櫓(たつみやぐら)。別名二重櫓。例の「桜田門外の変」の桜田門が傍にある。 坂下門。ここが一般公開の入口だったのだが、私はようやくたどり着いたせいか、印象は薄い。 三重の富士見櫓をズームアップした。 表札には「門長屋」とあった。恐らくはこの門から入る者のチェックをしたのだろう。 西詰(にしづめ)橋の遠望。ここから本丸へと入る。 北詰橋遠望。ここからも本丸へ入れた。 乾(いぬい)門。昔は方角を干支で表した。本来は「戌亥」(いぬい)で戌と亥の中間、つまり北西の方向を指す。本丸から見て北西に位置するからだろう。 本丸の天守台から見た北桔梗(きたききょう)門。本丸へ入るにはとても厳重なチェックがあった。この門の内側にあるのが北詰橋だ。各施設の名称は念入りに調べた積りだが、もし間違っていた場合はお許し願いたい。<続く>
2019.02.19
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~江戸と呼ばれた寒村~ 昨年12月初旬のある日、私は皇居を訪ねた。と言っても天皇陛下と会うためではない。その日は一般公開の日であり、皇居内の「乾通り」が通過可能な貴重な日。そこで仙台からのこのこ出かけたのであった。だが「入り口」がどこか分からずに迷って、さんざん歩いたのである。まあ良い運動になった。それにしても皇居は広くて、地理が良く分からずに困った。 大手濠 本丸の石垣と乾(いぬい)濠 乾濠 平川濠 <丸の内にある馬場崎濠> 下道灌濠 皇居は昔の江戸城だから、周囲を幾つかの濠で囲まれていることは分かる。もちろん防御のためだ。だが皇居の中にも濠があった。表示は「道灌濠」。恐らくあの太田道灌に因むものだと思う。それで皇居の詳しい地図を見たら、上下2つの道灌濠があると分かった。それから江戸城の歴史に関する興味が湧いたのだ。これはいつかちゃんと調べてみなければとね。 これは平安末期の江戸近辺の地図。武蔵国豊島郡江戸と言うのが当時の地名。ここに江戸重継が館を構えていた。 江戸氏の先祖は桓武平氏。江戸重継は源頼朝の御家人で、当時まだ寒村だった江戸を所領地としており、それで江戸氏を名乗った。後に江戸城の本丸や二の丸になる高台に居館を構え、平安後期から鎌倉初期にかけて活躍した。右は江戸氏の家紋。後に琉球王朝の尚氏もこれを家紋に用いたのだが、沖縄には元々家紋はなかったのだ。 太田道灌 江戸の地に初めて城を築いた太田道灌は関東管領(かんれい)である上杉氏(摂津源氏の末裔)の一族で、室町後期の武将。歌人としても名高い。あの「山吹」に関する農家の娘の逸話(「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ哀しき」の「蓑」にかけた歌での返事)は作り話だと私は感じている。当時の農家の娘に、そんな教養はなかったと思うのだ。高貴な武将すら知らなかった歌なのに。 この江戸に幕府を開いたのが徳川家康。徳川幕府は265年間続く強固なものであった。その間ほぼ鎖国体制を貫き、独自の高い文化を築き上げた。だが幕末期に先進諸国が開国を迫って押しかけると、第15代将軍慶喜が朝廷に大政を奉還し、幕府は急速に崩壊への道をたどる。 勝海舟と西郷隆盛 官軍は大挙して江戸へ向かった。だが当時世界有数の人口を誇るこの地で両軍が戦えば、町は焼け、大勢の死者が出ることは明白。幕府代表の勝海舟へ、官軍代表の西郷隆盛は江戸城の無血開城を説き、勝はこれを受諾した。慶喜が水戸へ退く代わりに、助命したのである。彰義隊の戦いなど戊辰戦争はなお続くが、新政府誕生後明治天皇が城に入られ皇居となる。そして江戸は東京となった。<続く>
2019.02.18
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~上山から天童へ~ 上山市の「コンニャク番所」ではとても美味しいこんにゃくの精進料理をいただき、心から満足出来た私たちでした。あんなにたくさん食べたのに、カロリーが低いためとてもヘルシーなんですよね。いろんな素材と組み合わせての料理はさすがでしたね。それに心からのおもてなしにも。それでは最後に、室内にあった置物などを幾つか紹介しますね。 平身低頭の福助人形。深々とお辞儀をしていますねえ。 今年の干支(えと)に合わせて、イノシシの置物も。 竹に雀の飾り物でした。 こちらはおめでたい恵比寿様と大黒様でしょうか。 部屋の片隅には5体ほどの招き猫と大きな甕(かめ)。またたくさんの生花が生けられていました。 次にバスが向かったのは天童市の最上川温泉「ゆぴあ」。きっと公共の共同浴場なのでしょう。なお山形県の各市町村には必ず1か所以上の温泉があるのです。ここ天童市も温泉の街として有名です。私たちはここで温かい温泉に浸かって、旅の疲れを癒したのでした。 ここには露天風呂もあるのですが、何せ冬の吹きっ晒しですからねえ。ブルブル。 最後に立ち寄ったのが「天童将棋タワー」。天童市は将棋の駒生産の日本一の街。春は天童公園で「人間将棋」のイベントも行われていますよ。 将棋の駒を彫る職人さん。まさに名人芸そのものです。 縁起物の「左馬」です。馬を逆にすると「まう」つまり「舞う」に通じるからとか。 もちろんオーソドックスな駒もありますよ。名物の「花笠」もありますねえ。 いかめしい表情の鴉天狗の面も壁に飾ってありました。 定番のこけし人形。東北はどこへ行ってもこけしです。 勢ぞろいしたミニ提灯。お祭りには持って来いですね。 最後は紅花のポスターです。山形名産の紅花は最上川舟運で酒田港まで運ばれ、そこから西回り船(北前船)で大坂まで運ばれました。大部分は京都で化粧品の頬紅となり、また腰巻を染める染料となりました。紅花には抗酸化作用や殺菌作用があり、当時の女性の下着には欠かせない存在でした。宮城県産の紅花も峠を越えて山形へ運ばれ、一緒に京の都へ届けられたそうですよ。 それにしても最初の蔵王高原は、蔵王エコーライン経由で自宅から走ったゴール地点(74km)、こんにゃく精進料理を食べた上山市は白石市から金山峠越えで走ったゴール地点(63km)、そして天童市は、関山トンネル越えで自宅から走ったゴール地点(62.4km)でした。まだ元気な時でしたが、こんな思い出があるのは、元ランナーとして最高の喜びでした。<完>
2019.02.17
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~楢下宿こんにゃく番所にて~ 厳寒の蔵王温泉から下山して、次にバスが向かったのは麓の上山市でした。裏道を通って、どこか田舎の方へ着いたみたいです。そこには「楢下宿こんにゃく番所」とありました。私はアッと驚きました。その名前は憶えていました。今から8年前の5月、宮城県白石市駅前から七ヶ宿町を通り、県境の金山峠を越えて降りて来たのがこの前の道。とてもユニークな名前だったので忘れられませんねえ。 この道は旧「羽州街道」だそうです。福島県の国見で奥州街道と別れ、峠を越えて宮城県の七ヶ宿町へ入り、7つの宿場を通って最後の宿から右に曲がると金山峠経由で、この楢下(ならげ)宿へ出るのです。何回か1人で走った「峠越えラン」。あれは68歳の時で最後の峠越えになりました。距離は63km、ゴール地点はJR上山駅でした。まさか、あの時に見たこの店に入るとは感無量。 それにしても「こんにゃく懐石料理」で、本当に腹が膨れるんだろうか。私はそんな風に疑っていたのです。 薄暗い室内からは庭の雪が。くっきりとした明暗の対比です。 古民家風の建物には、こんな間接的な照明がお似合いですね。 こんな部屋には障子がとても良くマッチしています。 まるで「雪見障子」みたいな感じで、北国の冬の景色が丸見えです。 部屋の一角には小さな神棚が祀られていました。それにしても実に立派なしめ縄ですねえ。 一の膳と箸袋です。稲穂は炒ってあり、白くなった米はポプコーンのようで香ばしく、とても美味しく食べられますよ。 なます、生菓子、晒しクジラなど、すべてがコンニャクで出来ています。とても上品な味で、おなかも満腹。大満足でしたね。お土産にはコンニャクと山菜の佃煮をいただきました。 この照明、一体何だか分かりますか。これはきっと山形名物の「玉こんにゃく」でしょうね。丸いこんにゃくを4個ほど串に刺し、大きな鍋でことこと煮るんです。すると醤油が良く沁み込んでねえ。県内の観光地ならどこでも売っています。安くて美味しい山形の「玉こんにゃく」をどうぞ召し上がれ。 すっかり満足したツアー客たちは、バスに乗って次の訪問先に向かいます。 お店の外には「益栄(ますえい)の水」が滾々と流れ出していました。これは蔵王連峰からの伏流水なのでしょう。この楢下宿にとっては昔から大切な生活用水だったみたいです。美味しかったこんにゃく懐石料理にも、きっとこの水を使ったのでしょうね。<続く>
2019.02.16
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~山形の民芸品 その1~ 氷点下22度の地蔵山山頂から寒さに震えて下山し、向かった先は土産物店でした。そこが今回のバスツアー指定の休憩所だったからです。ここで暖を取りながら、私は山形県の民芸品やお土産を写すことにしました。実は山頂では寒さの余り、シャッターがなかなか切れなかったのです。きっとカメラも凍り付いていたのでしょうね。 最初はこけしの特集です。こけしにも地方によって作風が異なりますが、ここには各地のものが並んでいました。言い忘れましたが、ここは有名な蔵王温泉。温泉地でもあるため、昔から大勢の方が訪れる場所でありました。 各地のこけしが仲良く並んでいます。 色使いも形もさまざまなこけしたち。 古典的なこけしは堂々たる風格です。 中にはこんな現代風な作品も混じっていましたよ。 あどけないこけしの表情に癒されますね。 きっと現代的な感覚の若い作家が育っているのでしょうね。 これはきっと伝統的な「笹野一刀彫」を現代風にアレンジしたのでしょう。 音を楽しむ「鳴り独楽」(なりこま)です。 音の出るおもちゃ。伝統の品です。 伝統的な独楽(上)と現代風な創作玩具(下) 愉快な表情の乗り物玩具。 ピエロと曲芸独楽(こま)。独奏的ですね。 こちらは独楽と車の組み合わせですね。 なんだべまず。めんこいわらすこだごど。(あらまあ、なんと可愛い赤ちゃんだこと) 珍しいことに、酒の名前が刻まれた将棋の駒でした。 ずら~り並んだ山形県の銘酒はいかがです? それにねえ。山形は漬物も有名なのよ。野菜の種類が多いし、漬物もいろんなのが売り出されています。これは食用菊が入った一品。山形の漬物の美味しさと安さは、山形で4年勤務したので十分に理解していますよ。本当にお勧めです。<続く>
2019.02.15
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~頂上はガスでホワイトアウト~ ゴンドラの中継点から中腹の建物が見えました。かつてあそこから歩き出して、地蔵山(1736m)まで登ったことがあるんです。家族や愛犬マックスとねえ。 まだ若かったマックスは、喜んで一生懸命頂上まで登りましたよ。今は懐かしい思い出です。 これは巨大なゴンドラを回転させるための装置です。人の生命を預かる重要な部分です。 次々にやって来るゴンドラに乗り込みます。円形のホームなんですよ。 地蔵山頂駅から外へ出ると、こんな案内板が立っています。私は全く滑れない頃、高校時代の級友に連れられて、ここから初滑りをしたのです。「ざんげ坂」は急で一級の難コースですが、当時は怖いもの知らずだったんですねえ。怪我をすることもなく、転倒しながらも下まで降りることが出来ました。まさに「奇跡」でした。「ビギナーズラック」だったかもねえ。 休憩中の人が立てたスキーやボードです。 「幸せの鐘」を鳴らすスキーヤー。無事下山出来ますように、 地蔵山の名の元になったお地蔵様。高さは3m70cmあるのですが、首まで雪に埋まっています。写真を撮ってるのはどうやら中国からの観光客みたいでした。 涙を流し、鼻水を垂らして寒そうなお地蔵さまでした。 零下22度はあまりに寒すぎて、シャッターを切る手がかじかみました。それに頂上はガスでホワイトアウト状態。残念ながら立派な樹氷は目で微かに見える程度で、カメラには真っ白にしか映りませんでした。これは下山の際に窓から撮った、少し下の雪景色です。 これはアオモリトドマツのようですが、頂上付近の「樹氷」ほどには成長していないのです。でも私にはこれでも十分でしたが。 ロープウエイの窓からの眺め(左)と外の様子(右)です。 本物の樹氷をご覧になれなかった皆様のために、ポスターに載っていた樹氷を何点かご紹介しますね。「樹氷」は山形蔵王で初めて発見され、命名された言葉なのです。規模も内容も他に追随を許さない、世界一の樹氷をお楽しめいただけたでしょうか。<続く>
2019.02.14
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~さて、樹氷は見られるのか その1~ 1月末のある日。私はバスツアーで蔵王の樹氷を見に行きました。これは車中から見た山形道。周囲は当然雪景色です。問題が幾つかあります。一つは自分の体調。何せ頂上はマイナス26度の極寒。それに果たして耐えられるのか。そして服装をどうするか。最大の難問は当日の天気。何せ1800mもの高山ですから、吹雪けば何も見えなくなるのです。幸いにも薄日が差して来たのですが。 高速を降りて西蔵王道路に入ると、道の両側にはこんな風景が展開します。一面真っ白。一度雪雲は朝日連峰にぶつかった後なので、蔵王の雪質はスノーパウダー。スキーには最適なのですよね。樹氷を観るのは初めてなので、大興奮の私です。 これが山形蔵王の全体図。たくさんのゲレンデがあるんですよ。これから私たちは地蔵岳の山頂に向かいます。図面の左手のロープウエイとゴンドラを乗り継いで行くのです。 前方に見えているのがロープウエイの乗り場です。乗り場の前に整列します。 これは乗り場に向かう人たち。誰もが重装備です。 ここはゲレンデの最下部。滑って降りて来たスキーヤーがまたリフトなどでゲレンデに向かいます。 ゲレンデを滑降するスキーヤー。なかなかのスピードですよ。 リフトはこんな具合。スキーを履いたまま椅子に座って上まで登ります。 こちらはロープウエイ乗り場の先端部分。乗り込むまで10分ほど待ったでしょうか。 下の方(標高900mくらい)はまだこんな感じです。 これは針葉樹みたい。これでも樹氷とは呼ばないのです。 標高が上がるにつれて、ガスが出始めましたねえ。 これでも樹氷とは呼びません。樹氷はアオモリトドマツに雪が凍り付いて成長したもの。これは多分ブナですね。だから形も違うし、成長もしないのです。十分きれいですけどねえ。 幻想的な銀世界。なかなか滅多にお目にかかれませんよ。 明日もまた寒々しい風景が続きます。しばらく辛抱して、雪とお付き合いくださいませ。<続く>
2019.02.13
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~風邪にご用心~ 2月14日分のブログを8日に書いている。もし無事なら昨夜のうちに秋田から帰宅しているはずだが、それから写真を整理して更新するのは無理。それで都合4日分を予約した次第。 さて、先月下旬に病院に行った。50日分の薬をもらうため。ところが受付の女性に言われた。「インフルエンザが流行っているので、一旦ご帰宅願います」と。それは困る。20分かけて山まで登って来たのに、また帰ってまた自転車で来るのは大変。そこで待合室で1時間待った。 名前が呼ばれて診察室に入り、先ずドクターに聞いた。服用中の薬のうち4種類に「めまい」の副作用があることを知ってるかと。もちろん知っていた。そしてこの日の血圧は上が110。では血圧降下剤の1種を、軽いものにしましょう。薬局でそのことと血糖値がかなり下がったと言うと、「そのうち飲まなくて良いかも」と薬剤師。ほほう、そうか。まあ実際はどうなるかまだ不明だが。 体調も悪くないので、予定通り蔵王の樹氷見学ツアーに行った。まあ美しい雪景色だ。雪質が良いせいか、中国人観光客らしい人が大勢来ていた。ロープウエーとゴンドラを乗り継いで地蔵山の山頂へ。ここは氷点下22度でガス。樹氷はほとんど見えずに、途中のケヤキだけははっきり見えた。コンニャク三昧の昼食と温泉に入って無事帰宅。そこまでは良かったのだ。 その後が大変。喉が痛み出した。あらら。これは風邪かな。私はもう何十年も風邪など引いたことがない。熱はないからインフルエンザではないはず。翌日薬局で喉に効く風邪薬を購入。やはり病院の待合室でばい菌をもらったか。バスツアーのために街へ出かけたのも、良くなかったのだろう。 薬が切れた後はトローチをなめていた。それで軽快したと判断し、「宮城UMC」の記念式典に出席。式典でもアルコールが出、場所を変えた懇親会でも酒。あまり強くない自分が、あの「病み上がり」の身で、良く最後まで持ったものとほとほと感心。トローチが切れた後は、庭のユズにお湯を注いで飲み続けた。そんな状態で沖縄の話を書き終えた。 いつしか季節は節分を過ぎ、立春を過ぎた。ふらつきながらも自転車で買い物へ行く。人間食べないと生命を維持出来ないし、物がなければ料理は作れない。細心の注意を払って県道と国道を横切り、重い荷物を積んで帰宅。そして何種類かのおかずを作る。蔵王の次は秋田へのバスツアー。それも寒い時期ならではの観光行事を観るためのもの。さて、体調はどうなんだろうねえ。ちょっぴり心配。 第2回目の米朝首脳会談の日時と場所が決まった。本当に実りある結論が得られるのだろうか。北方領土の返還はほど遠い。道の何と険しいこと。中国の経済は停滞気味とのこと。米中会談でどんな決着がつくのだろう。ゴーンさん。ますます悪事が広がりますなあ。ようやくフランスも分かって来たみたい。韓国の不評は相変わらず。あんな国は放置するに限る。そして国内ではまたしても行政の大失態。 来週は所属走友会の総会と新年会。ここ数年間何にも参加していない幽霊会員だが、久しぶりにせめて顔だけでも出そうと思ったのだ。きっとけじめにもならず、迷惑だろうけど。それでも大いに恥をさらす。生きてる限りは恥の上塗りだ。そしてブログを書き、春になったら畑を耕し、時たまは散歩もしよう。大した目標などない。先ず今年1年を何とか生き延びる。ただそれだけの話。
2019.02.12
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~静かなる森と動物たち~ はい今日は。今日も爺は秋田へ旅行中でやんす。いや今晩中には帰宅する予定ですがそれからブログの更新では遅過ぎますからね。それで本日も予約機能をお借りして書いています。いえ、飲み屋ででは決してありませぬ。これはいわば「借景」みたいなもので。以下は本当に静かな写真ばかりを載せました。そして特段説明もありませぬ。どうぞご了承を。でははじまりはじまり。 写真A 写真B(Aの一部) 写真C(Aの一部) 写真D 写真E(Dの一部) 写真F(Dの一部) 写真G 写真H(Gの一部) 写真I(Gの一部) 写真J 写真K(Jの一部) 写真L(Iの一部) 写真M 写真N 写真O 写真P(Oの一部) 写真Q(Oの一部) なんだか不思議な写真ですねえ。というよりも、こんなディスプレイをしたお店の勇気に拍手を送りたい気分です。
2019.02.11
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~残り物の写真から~ <浅草の御神輿屋さん(?)で> 皆さん今日は。ここへ来てくれてありがとうね。でも俺、今日も旅行中なの。それで去年の12月に旅した写真の残りを載せるね。浅草寺なんだけど、大勢の観光客でとっても賑わっていたねえ。それも外国人が目立ったんだよねえ。中には着物を着た人もいたなあ。それが最近の流行なんだってねえ。( ゚Д゚) ご存知「雷門」でやんす。すごい人出でしょ? 松下幸之助さんが寄贈された大提灯です。 仲見世の賑わいです。以下2枚続きます。 着物姿を撮らせていただきました。どうもありがとう。 扇屋さんの店先で 仲見世通りに置かれていた天水桶。なかなか粋ですねえ。 豪壮で見事な仁王門ですねえ。 浅草寺の扁額(へんがく)をアップで。 こちらは蟇股(ひきまた)部分の装飾をアップ。 阿吽(あうん)の仁王像。門の名前の由来です。 堂々たる五重塔を見上げました。 本堂前の大きな香炉。線香の煙がすごいですねえ。 本堂の前です さて、浅草寺のご本尊である聖観音菩薩(左)について、こんな寺伝があります。時は推古天皇36年(628年)、河口で漁をしていた兄弟が網を放つと木像がかかった由。捨てても捨てても網にかかったため調べると尊い聖観音であることが分かり、それを祀るために浅草寺を建立したとか。 因みに平安時代の江戸の地図が右。浅草寺の場所は島でした。わが国に仏教が伝来したのが538年。そして聖武天皇の勅命により、全国に国分寺が建てられ始めたのが天平13年(741年)。ですから当時はこの地にはまだ仏像などあり得ないと考えるのが普通。俺って罰当たりなんだろうねえ、きっと。
2019.02.10
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~ウルトラマラソン仲間の会合へ~ 2月初旬の土曜日。県内ウルトラマラソン愛好者の団体「宮城UMC」20周年記念式典へ行って来ました。私がランニングを始めて40年。ウルトラマラソンを始めてから24年になりますが、その間に体を壊してランナーではなくなりました。おまけに一人暮らしで体調も悪い上に風邪まで引いていて大いに迷ったのですが、お世話になった方々にお別れするつもりで出かけた次第です。 <感謝状を受け取るM会長> 記念式典はM会長の挨拶と乾杯で始まり、Kさんから初代事務局長Uさんの近況報告、創立20周年に寄せての思い出をF事務局長、A副会長、K女性代表からそれぞれ述べられました。最高年齢は79歳ですが、会員のほとんどがまだ現役のランナーです。私のようにレースどころかランニングもしてない者には場違いの感もありますが、久しぶりに仲間の活躍ぶりを見て感じるものがありました。 メールで行事の案内をくれるKさん(左)。いつも親切にありがとうね。 私と同学年ながらまだ走っているKさん(右)苦労話、身に沁みました。 身長が4cm縮んだと言いながらもお元気で何より。Aさん(左) 1520kmのレースを完走したOさんは謙虚で誠実な人柄(右) こんなテーブルが4つあり、それぞれ大いに盛り上がりました。私はまさかここでもアルコールが出るとは思ってなかったのでビックリ。風邪のこともあって心配したのですが、案外最後まで持ってくれて良かったです。 元スピードランナーのCさん。(左)アルバイト中の彼に偶然会ったのは何年前だったかな? 百戦錬磨のTさん(右)はどこへ行っても人気者。いつも心配してくれてありがとうね。 宮城UMCの通称「三婆」のKさんとKさん。どちらもまだ現役とはすごいなあ。 この後、M会長の詩吟なども飛び出して大盛り上がりでした。で、最後は記念写真撮影です。 どさくさ紛れの1枚です。私は写っていません。なにせシャッターを切ってたもので。 創立当時の写真をTさんが持っていましたのでそれをパチリ。みんな若いですねえ。なにせ20年前ですから元気そのものです。私は最後列の左から3番目。自分でも探せないほど若かったなあ。(;^_^A 古川グループ 阿佐ヶ谷姉妹(?) 懇親会のスナップ写真です。場所を移して実施された懇親会。ここでも2時間をほどを過ごし、実に良く飲みました。Kさんと1時間以上も歴史談義をしていました。彼は立山「雷鳥荘」の風呂での深夜の歴史談義が印象深かったそうです。相当酔いながらも、無事帰宅出来ました。幹事の皆さん、そして仲間の皆さん、本当にお世話になりました。久しぶりにお会い出来て幸いでした。嬉しかったです。 さて本日早朝より、秋田方面へ2泊3日のバスツアーに出かけます。このため皆様からいただいたコメントへの返事や、皆様のブログにお邪魔することが出来ません。悪しからずお許しを。なお、その間のブログは、写真中心のものを予約機能で書いておりますのでご笑覧くださいませ。では。
2019.02.09
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~苦しみのゴール~ 今帰仁村 ワルミ大橋を渡った先で、「電照菊」をハウス栽培していた。電灯で夜も明るく照らし、早めに花を咲かせて出荷する方法だ。県道72号線から71号線へ出ると、道端で網の修繕。モズク用らしい。高校駅伝県予選大会役員の動きが、急に慌ただしくなった。どうやらそこがゴール地点みたい。間もなく前方から選手たちが走って来る姿が見えた。 <世界文化遺産 今帰仁城平朗門 > 北山高校を過ぎ、今帰仁城へ寄った。ここへ来たのは3回目。入り口に立派な資料館が見えた。世界遺産になって以降、入場料を取るようになったようだ。懐かしい城門を潜り、二の廓、一の廓と順次登って行く。伝説の鍋切り岩も、小川へと降りる裏門も久しぶり。二の廓から東シナ海を見下ろす。この雄大な景色を今でも思い出す。その後豪雨で石垣が崩れたとのニュースを聞いたのは、昨年のことだ。 <今帰仁村立歴史文化センター> 歴史文化センターへ入った。村立にしてはなかなか立派な内容。古代から琉球王朝時代の歴史資料などが展示され、「百按司墓」の写真など興味を引くものがあった。ここは元北山王の根拠地で、中山王に攻め滅ぼされてからは琉球王朝の北の守りとなった城。沖縄の城の中でも好きな方で、平朗門の石組は他の城にはない青みがかった石質だ。疲労が出て、私はここで1時間ほど休憩していた。 フクギ並木 山を下って西へ向かうと本部(もとぶ)町へ入る。県道から本部半島最西端の備瀬崎へ行ってみた。遠回りだが、これが最後のチャンス。この集落のフクギ並木を見たかったのだ。なるほど立派な並木が集落を守るように植えられていた。強い西風を防ぐ防風林なのだろう。浜辺では内地の人が休憩していた。沖縄に魅せられて、ここに長期滞在してる由。海岸に沿って海洋博公園へ抜ける。伊江島タッチュウが遠望出来た。 海洋博公園 海洋博公園(通称)は海洋博覧会会場跡地に出来た国立の公園。最初にAさんに案内してもらったほか、「海洋博トリムマラソン」で2回来たことがあった。公園内がスタート、ゴール地点なのだ。無料地区の浜辺から美しい景色を眺めた。今は「美ら海水族館」が特に有名で、県外からの観光客も多いようだ。沖の小島が伊江島で、尖がった山が伊江島タッチュー。日本語の塔頭(たっちゅう)が語源だろう。 瀬底大橋 公園から一路南へ。海をまたぐ渡久地橋は初めて走って渡った。マラソンコースはここを迂回して渡久港経由だからだ。瀬底大橋の袂まで来たが、島へ渡る元気はなかった。それに夕闇が迫っていた。残された体力で果たして名護市東江(あがりえ)のホテルまで帰ることが出来るのだろうか。本部港を通過した頃には真っ暗に。そのまま古い国道沿いに行くか。それとも海辺のバイパスを行くか。 <国道449号線バイパス> 結局新しく出来たバイパスを選んだ。歩道があって安全と判断したのだ。それはそれで良かった。だが行けども行けども自販機がない。つまりここは通過するだけの道で、人家がないのだ。後は残った飲み物がどこまで持つか。真っ暗ではないものの淋しい道。名護市宇茂佐(うもさ)付近で力尽き、とうとう歩き出した。不整脈も起きている感じ。焦るな自分。ここはまあ、ゆっくり行くしかない。 <名護市21世紀の森公園> 海沿いの細い道を通って国道58号との合流地点へ出た。この先は地理が分かっている。右手に名護市21世紀の森公園の緑地がずっと続く。ゴールはまだ3km先。結局ホテルへ着いたのは夜の8時20分ごろ。第4回63kmの激闘はようやく終わりを告げた。4年かかった沖縄本島一周単独ラン、合計428kmの旅の完成。長く辛い道のりだった。でもそれ以上に楽しい一人旅だった。 やんばるの家族 さて、やんばる関係のTV番組を観て書き出したこのシリーズだが、自分でも驚くほど昔のことを覚えていた。特に30年近く前に読んだ沖縄関係資料や人名、地名などが案外速やかに脳裏に浮かんだ。逆に最近の記憶が定かでないのだ。書きたいことはまだあるが、一旦ここらで筆を置きたい。なおこの翌年、私は不整脈手術を2度受けることになるのだが、この時はまだ知らない。<未完の完> 最後まで付き合って下さった読者の皆様に、この場を借りて心から御礼申し上げます。
2019.02.08
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~古宇利島と本部半島を走る~ 平成23年11月の某日、私は再び沖縄へやって来た。67歳の老ランナーは、既にボロボロ状態になっていた。数年前から不整脈の兆候が現れ、この年も夏の猛暑の中で激烈な肉体労働を送ったのだ。そんな体で沖縄へ行く。私は「忘れものは何か」に気づいた。過去の3年間で沖縄本島を一周した気でいたが、本部半島を走ってないのが心のどこかに引っかかっていたのだ。 沖縄そば 後年知ったのだが、前妻は当時沖縄に私の恋人がいると信じ、娘にも話していたようだ。確かに私には恋人がいた。だがそれは人ではなく、沖縄そのもの。ここで学び、ここで走り、ここで一時は死ぬことを覚悟しながら、この明るい風土に命を救われた1人のランナー。体に衰えが迫っていることも分かっていた。だから何とか最後の思いを叶えたい。たったそれだけのことだったのだが。 本部半島 これが今回の舞台の本部半島だが、コース(地図の薄茶色)には新しく出来た古宇利大橋と古宇利島も入れた。スタート地点は名護市真喜屋(まきや)。右上のそこまではタクシーに乗り、屋我地島、古宇利大橋を渡り、古宇利島を一周して戻り、今帰仁(なきじん)村へ出、今帰仁城を見学後、半島最北端の備瀬集落~海洋博公園~本部町~名護市内へと反時計回りで帰る遠大なコース。距離は63kmだが、不整脈の発症が心配だった。 羽地内海 真喜屋から小島へ渡る。道端に数基のお墓があった。民俗学者仲松弥秋によれば沖縄の各地にある奥武(おお)島は昔から風葬の地で、「おお」は死者を弔う鳴き声だった由。私も4つほど風葬の島を訪ねた。直ぐ左に羽地内海を見ながら屋我地島へ渡った途端、道端にハブの死骸発見。これで2度目だ。青白く長い蛇の姿を打ち消しながら走っていると、途中で道に迷った。 ライオン岩 私が間違って行った先は療養所みたい。恐らくライ病患者専用の病院だったのだろう。何とか道を聞いて、古宇利島方面に向かう。突然道が開け、下り坂の坂の先に「古宇利大橋」が見えて来た。何という長さ。これも沖縄振興の一つ。かつての孤島は、ほとんどが橋でつながっている。橋の左手に岩が見えた。私はその形から「ライオン岩」と名付けたのだが。 橋と島 本当の絶景だった。海の色、空の色、前方の古宇利島の丸い形。橋の上からは沖縄本島北部の青い山々が遥かに望めた。対岸は大宜味村の塩屋湾辺りだろうか。島に渡って、ゆっくりと一周した。坂がきつい。橋の竣工でにわか商売の店が多い。琉球王朝時代の「のろし台」があることも分かった。この島の特産はモズク。その養殖場も見えた。意外に時間がかかったのは、体が動かなかったせいだろう。 うらんだ墓 再び屋我地島へ戻り、今度は逆方向の今帰仁村方向へと向かう。新たな橋の手前で急に走れなくなった。どうやら不整脈が起きたようだ。道端で休憩していると「うらんだー墓」の標識があった。これは是非ともみたい。海沿いの小径を行くと墓。「うらんだー」は「オランダ」だが、外国人のこと。幕末期、沖縄へはたくさんの外国船が水と燃料補給のために寄った。たまたま出た死者をこの地に葬ったのだ。 被葬者はイギリスの船員だった。対岸をみると運天港が見えた。源為朝が昔上陸したと伝わる古来の港。私もかつてその港から伊是名島へフェリーで渡ったことがあった。 これが「ワルミ大橋」。ワルミとは割れ目が訛ったもので、海峡の意味。右上に見えるのが古宇利大橋と古宇利島。ワルミ大橋の上(北)に突き出た小さな半島の先端に、先ほどの「うらんだー墓」があり、その対岸の港が運天港。向かって左側は今帰仁(なきじん)村。そこから本部半島周回コースに入る。私の体と足が、果たしてどこまで持ってくれるのか。<続く>
2019.02.07
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~沖縄本島単独1周ラン第3回~ 沖縄本島南部 平成22年12月初旬の土曜日。私は具志頭(ぐしちゃん)三差路でバスを降り、そこから南部の道を東に向かって走り出した。地図で言うと一番下の国道331号線の印がある付近。そこから知念半島を一周して与那原町へ出る33kmのコース。前年は最北端の辺戸岬から与那原町まで走ったので、その残りと言うわけだ。具志頭三差路から摩文仁公園までの空白区間は、翌日の「NAHAマラソン」(フル)で補おうと言う計画だ。 玉城城 この近辺は別名「グスクロード」と言うくらい、古い城(ぐすく)がある地域。沖縄勤務当時、私は原付に乗ってこの島中の聖地を訪ね回っていた。そこには既に「日本」が失った原始的な匂いがする何者かが潜んでいた。大里城、糸数城、玉城城、知念城、斎場御嶽、沖縄の最初の田んぼと伝わる「受水走水」(うきんじゅはいんじゅ)、板良敷グスク、ミントングスクなどが連なる南岸の道。 シークワーサー 知念村(現南城市)に入って直ぐ、ふと庭を見るとシークワーサーを収穫しているオジーがいた。思わず「ください」と声をかけると、4つほどの果実を渡してくれた。お礼を言って走り出す。これは別名「平身レモン」と呼ばれるミカンの原種。沖縄では一般的な果物で酸味が強く、強い芳香を放つ。私はジュースも果物の香りも大好きだった。ハイビスカスやブーゲンビレアを観ながら走る海べりの道。 知念城 知念城の前を通りかかったが、行くのは止めた。ここの城壁もなかなかの雰囲気がある。その代わりにでもないが、斎場御嶽(せいふぁうたき)に寄った。世界遺産になってからは初めての探訪。チケット売り場や柵まで設けられ、大勢の観光客が来ていた。私が勤務していた当時(平成元年~3年)は人っ子一人おらず、静謐で神秘的な空気が漂っていたのだが。アカハラが棲む水たまりは、今でも健在だろうか。 知念崎 コマカ島も久しぶりに見た。「神の島」久高島もいつも通り扁平な形を東シナ海に浮かべて静まっていた。頂上が切られた台地は知念崎だろうか。私が訪れた20年前は、何もない突先だったのだが。そこから国道は大きくカーブを描き、道は与那原へと続く。 佐敷風景 佐敷のヤシ並木が見えて来た。何と言うことのない沖縄の風景が無性に懐かしい。厳しい暑さも眩めくような光線も、勤務当時を思い出させてくれた。この道を走るのは初めてだが、ヤンバルと異なり全く危険性は感じない。与那原三差路から路線バスに乗って、那覇へ帰った。もちろんランシャツ、ランパンのまま。それでも違和感は全くない。翌日はNAHAマラソンなので練習中の人も多いのだ。 NAHAマラソン 翌日は早めに奥武山公園のグラウンドへ行った。そこがスタート地点で、昔の仲間が集まっている。懐かしい顔ぶれに挨拶。そして沖縄の走友Hさんとスタート地点へ向かう。前と少しコースが変わり、新しい把竜橋を渡った。前日33kmを走った疲れはなく、見事10回目の完走を果たせた。これは沖縄本島単独一周ランの「おまけ」。かつての走友と缶ビールで乾杯し、ホテルへ帰った。 泡盛の古酒(くーすー) 風呂に入って着替えしてると電話。古川グループつまり宮城のウルトラ仲間から「飲みに来い」とのお誘い。早速出向くと、かなり出来上がっていたT田さんほか数名。皆顔なじみばかり。私の「沖縄本島単独一周ラン」の快挙も喜んでくれたのだが、私はそれで終わったような気がしなかったのだ。なぜだろう。まだ何か「忘れもの」があっただろうか。<続く>
2019.02.06
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~一路与那原へ~ <カヌチャベイから辺野古崎(左前方)を望む> 翌朝、早めに朝食を摂った。遥か彼方に辺野古崎が見え、その手前にクジラの姿をした2つの小島が見えた。あそこに普天間から移転すれば、沖縄資本で建てられたというこのリゾートホテルは、離着陸の際はルートの真下になるのではないか。私にはそんな風に思えた。カヌチャには「神着」の漢字を充てていた。沖縄の先祖神が辺戸岬から島の南部へ移動した際も、ここへ寄ったと思わせる地名だ。 汀間の浜 困ったことが起きた。宅急便を頼んだら、今日中に那覇へは着かない由。私は翌日の飛行機で帰る予定で、荷物が送れないとどうしようもない。それで割高の方法を取った。その業者が名護にある他業者の出張所まで届け、そこから那覇へ転送すると言う方法。前夜の宿泊費と言い、今日の運送料と言い、残金はとても厳しくなるが、選択の余地はなさそうだ。高級リゾートホテルに別れ、第2日目のスタートだ。 大浦湾 汀間(てぃーま)を通過する時に、とても清らかな小川が見えた。何という風景だろう。車だと一瞬で通り過ぎるが、走っているからこそ見える風景だ。瀬嵩では月桃で包んだむーちー(餅)を売っていた。何かのお祭りみたい。大浦湾に沿って行くと、やがて湾の最奥部。11月末と言うのに蝉の鳴き声が煩い。小川の中に石で囲んだ「エリ」があった。小魚を誘い込む原始的な装置を初めて見た。 二見集落 湾の向こう側が二見(ふたみ)集落。新民謡「二見情話」。道端にその石碑が建っていた。歌詞にもあるように、とても厳しい坂道だった。途中から抜けられるトンネルの工事中だったが、そこを通ることはもう二度とないはず。坂を登り切ると、国道329号線と合流。右へ行けば名護市内。左折するとあの有名な辺野古崎へ出る。だが、基地の中はほとんど見えない。広大な上、岬の突端にあるためだ。 ゲート前 辺野古の米軍基地、キャンプシュワブのゲート前はとても静かだった。通過したのは午前10時過ぎか。反対派は誰もいない。第1ゲート前、第2ゲート前のそれぞれにバス停があった。前日覗いた東村高江のペリパッドもここ辺野古も、現在ほど騒然としておらず、静寂そのもの。さらに行くと辺野古の集落や国立沖縄高専の新しい建物が見えた。それも北部振興策の一端だ。キャバレー跡 ベトナム戦争当時、辺野古集落のキャバレーは米兵で賑わった。終戦後米兵の足はピタリと止まり、飲み屋街はほぼ廃墟に。そのせいか移転歓迎派の住民が多い由。先日TV番組で、彼らが戸別ごとの補償を要求していることを知った。与那国島への自衛隊基地建設時も、島民は同じ要求をした。それが不可能なことを知らないのだ。ただそれに代わる振興策で、国は莫大な予算を沖縄に注ぎ込んでいるのだが。 後はこの東海岸を国道に沿って南下し、与那原にゴールするだけ。宜野座村惣慶を通過。ここは鳴門勤務当時の上司の故郷で、タイガースのキャンプ地(当時)の球場があった。金武(きん)町の米軍基地キャンプハンセン周辺では、軍人さんが手を振って応援してくれた。前日のような厳しい坂道や、曲がりくねった道はなくなり、ほぼ平坦で見通しの良い国道が続く。 石川市(現うるま市)に入ると、金武町では霞んで見えた「海中道路」がかなりはっきりと見えだした。逆方向から見るのは滅多にない。沖縄市へ入ると沖縄本島の「背骨」に当たる部分を走ることになる。やがて「おきなわマラソン」のコースに出、キャンプ瑞慶覧(ずけらん)の横を走った。そこからは夕暮れとの競争。北中城村の渡口の手前で夜はになった。ただし照明があり、道も知っていた。 与那原の大綱引き ゴールの与那原町に着いたのは午後10時20分ごろ。ようやく2日間で150kmの一人旅が終わった。タクシーを拾って那覇へ。懐かしい風景。かつて住んでいた首里付近も通った。チェックインは11時。辺戸岬から与那原まで走ったと言うと、ホテルマンが驚いていた。さて、その夜は残り物を食べ、風呂に入って眠った。本島一周単独ランの2回目はこうして終わった。実に長い旅だった。<続く>
2019.02.05
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~沖縄本島東海岸一人旅~ 東村 これは東村(ひがしそん)の地図。沖縄本島最北端の国頭村(くにがみそん)の辺戸岬からスタートして、右上の「高江」まで来た。時間は午後の3時20分頃だったか。お握りを食べて走り始める。道端の小父さんと話をすると、イノシシを飼ってる由。コンクリートの地下檻に、まだ大人になってない獣が1匹。この辺には内地からの移住者も多い由。鷹の一種サシバはここでは捕らえて食べたりはしなかった由。 福地ダム ここは沖縄最大の福地ダム。この巨大な「水がめ」に蓄えられた水が、島の中南部まで送られて貴重な飲み水になる。道路から近かったのでちょっとだけダムを覗き、再び県道へ。やんばるの森は豊かで、戦争中は中南部からここまで逃げ、山の中で暮らした人がいたそうだ。その話をつい先日TVで聞いた。「豚便所」もあった由。古来から沖縄に根付いた「フール」。石灰岩で囲いを作ったのだろう。 平良のエイサー 東村平良(たいら)で大宜味村から始まる国道と交わる。東村の役場があり、プロゴルファーだった宮里藍さんの実家がある。手前の給油所に灯りがついていたので、地図を確認しようとして近づくと「近づかないでください」の大音響。どうやら防犯対策用の警戒音のよう。慌てて暗がりのチェーンに足を取られ、転倒した。怪我は擦り傷程度だったのが幸い。ベンチで休憩。既に夜の8時20分ごろで、ホテルまでは18kmほどありそう。 慶佐次通信基地 真っ暗な道をひたすら走る。国道でも歩道などない。所々にある照明だけが頼り。時々道路に黒いものが横たわっている。「すわ、ハブか」。ビクビクしながら近づくと、道路のひびを覆ったコールタールの修理跡。怖がっていると何でもが恐怖の対象。慶佐次(けさじ)の通信所前を通過。以前は米軍の通信基地だったと思うが、現在は自衛隊の管轄になっていた。残りは9kmほどか。 ホテルの夜景 この日の宿泊先であるカヌチャベイホテルに着いたのは夜の10時20分。スタート後14時間が経過していた。急いでチェックインし、代金を支払う。ここはリゾートホテルで4人部屋しかなかった。それで4人分7万2千円を支払う。遅い夕食と入浴。そして翌日の準備。大冒険に興奮しながらも、5時間ほどは眠れただろうか。<続く>
2019.02.04
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~沖縄本島東海岸を走る その1~ <安須森御嶽から辺戸岬を見下ろす> 平成21年11月某日。私は辺戸岬に立っていた。ここへ来たのは5回目。そしてこれが最後になるはずだ。「沖縄本島単独1周ラン」の2回目。今回はここをスタートして本島東海岸を走り抜け、2日間で南部の与那原町までの150kmを走る予定。1回目は7月の猛暑に苦しめられたが、今回はアップダウンと集落の少なさに苦しむはず。この日のゴールは75km先のカヌチャベイホテルと決めていた。 奥小学校 8時25分。ここまで送ってくれたMさんに手を振ってスタート。だが5分ほどで立ち止まった。ランニングシャツでは寒過ぎた。岬の強風で体が冷えるのだ。急いで半袖シャツに着替えてリスタート。坂を下って奥集落へと向かう。国道でハブが車に轢かれて死んでいた。11月でもまだハブは冬眠してないようだ。これは注意せねば。気を引き締めて奥集落を通過。ここから先は県道70号線だ。 <ルート 奥集落から東村までは県道70号線を南下> やんばるの東海岸は傾斜がきつい上に集落がほとんどない。このためよほど足に自信がないと走るのは無理。今回リュックには、名前、住所、電話、連絡先、血液型を書いた札を付けていた。もしもの場合に備えてのもの。だがハブに噛まれたら一巻の終わり。そのための連絡先でもあった。名護の辺野古を過ぎたら後はほぼ平坦だが、1日目の坂道が厳しいはず。 やんばるの森 7kmほどでランナーが前から走って来た。これは珍しい。話を聞くと沖縄のランナーで、奥さんに車で送ってもらい、1回あたり5kmから10kmを走って本島一周を目指している由。回数は50回目近いとのこと。私が辺戸から与那原まで150km走ると言うと、ビックリした顔。ウルトラマラソンの経験がないと驚くのが普通だが、こちらは冒険の積りなのだ。 県道70号線 あれはどの辺りだったか、何やら忙しそうに働いている人がいた。何せここでは人に会うのが珍しいほど集落が離れている。話を聞くと「マングース捕獲用の檻」を設置している由。飛べない鳥、天然記念物のヤンバルクイナを食い殺す犯人だ。本来はハブ退治のため導入されたのだが、目論見が外れたのだ。それに今は野良猫や野良犬もヤンバルクイナの敵。都会の人が犬や猫を捨てに来るとも聞く。身勝手なものだ。 道端に何かの実。傍にフクギの樹があった。沖縄ではどこでも見かける樹。ミカンのようなきれいな実なのだが、枯れて茶色だった。沖縄の染色紅型(びんがた)の鮮やかな黄色い色を出すのに用いられる。楚洲(そす)で休憩し、飲み物を買う。ここは5戸ほどしかない最小の集落。走り出してから「しまった」と思った。那覇の平和通りのオバーが楚洲出身だと思い出したのだが後の祭り。う~む残念。 安波(あは)集落は国頭村の東海岸では割と大きな集落で、500戸ほど家があると言う。小さくてきれいな小川が流れていた。ピンク色のきれいな花が、そちこちで咲いている。どうやら酔芙蓉(スイフヨウ」のようだが、本土の種類とは少し違うみたい。そこからは長い上り坂になった。今日のコース中最も厳しい坂道。それが曲がりくねりながらどこまでも続く。 山道を登り切ったところが東村との境界。そこから下りが始まる。しばらく行くと「ヘリポート建設反対」の立て看板。「ははあ、ここがあの現場か」。そう思って山の中へ入って行った。するとテントが2張り。1つは無人だがもう1つには人がいて、私をジロっと睨んだ。これはナイチャー(内地人)だと分かったのだろう。それにしてもなぜナイチャーがここへ?その目はそう疑っていた。 高江共同店 さらに下ると売店が見えた。写真の一番右が休憩所だが、私はそこで遅い昼食を取った。お握りは早朝名護市で買っていた。自販機が少ないことも考え、飲み物も何本かはリュックに入れてある。他の荷物は既に今夜泊る予定のホテルに送付済み。後は自分の足が最後まで持つことを信じよう。昼食で休んでいる間に寒くなった。走っている間は暖かいが、止まれば汗が冷えて寒くなるのがランニングだ。<続く>
2019.02.03
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~辺戸岬から名護市へ~ 辺戸の御嶽 第3日目。当時の部下Mさんが名護のホテルへ迎えに来てくれた。沖縄本島最北端の辺戸(へど)岬まで送ってもらうのだ。既に食料と飲み物はリュックに入れてある。名護市内を通り58号線とぶつかる伊差川交差点の様子を、頭に叩き込んだ。帰りはここから名護市内へ入る。もし間違えば大変な遠回りになってしまう。国道へ出たら後は楽。真っ直ぐ北上するだけの話。それに道は海岸沿いで平坦なのだ。 辺戸岬 辺戸岬に着いたのは8時半ごろだったはず。Mさんに別れを告げ、岬の売店前から南へ向かって走り出す。ここへ来たのはこの時で4度目。何にもない岬なのだが。私にとっては懐かしくて涙が出るほど思い出深い場所。国道を下らず「茅打ちバンダ」を通ろうと思い直す。そこはAさんが私たち家族を最初に案内してくれた場所。その彼も7年ほど前に心臓病で亡くなった。実に性格の良い人だった。 国頭村謝敷 国道へ出たらもう走れない。日差しを遮るものがないのだ。覚悟を決めて歩き出す。謝敷(じゃしき)は走友Tさんの故郷。民謡「謝敷節」の石碑があった。思い切り手を振って歩く。 クンジャンサバクイの碑 国頭(くんじゃん)さばくいの石碑を見つけたのは、果たしてどこの集落だったのか。何しろ国頭村は沖縄本島で一番広い村。辺野喜(べのき)だったか、与那だったか、はたまた辺士名(へんとな)周辺だったか。ともあれヤンバルは琉球王朝時代から木材の伐り出しで有名な地。首里城もここの木を船で那覇へ曳航して築城したと聞く。だが私の意識は朦朧とし始めた。間違いなく熱中症だ。 <大宜味村喜如嘉集落> 休憩所でアイスを食べた。ともかく水分と塩分の補給が大事。そこからさらに歩いて、隣の大宜味村(おおぎみそん)に入る。喜如嘉(きじょか)集落は長寿と芭蕉布で有名な村。その最初の売店で2度目の休憩。塩分補給のため「沖縄そば」を食べようとしたが、既に売り切れ。仕方なく再びアイスを注文。もちろん塩は持ち歩いている。それもミネラル分が豊富な「アスリートソルト」。宮古島の特産品だ。 糸芭蕉作り 国道を離れて喜如嘉集落へ入った。清潔な佇まい。それに日陰が涼しかった。ここには「芭蕉布」の復元で人間国宝になったオバーがいる。芭蕉布は夏涼しい布なのだが、糸が細くてかつ弱い。それを加工して束ね、糸を作り出すのだ。それで織ったのが「芭蕉布」。あの南国らしい優しい歌が私は大好きだ。塩屋湾に浮かぶ宮城島を通過。小さな風葬の島。橋を渡って犬がやって来た。放し飼いのようだ。 平南橋 平南橋を渡っていた時のこと、突風に帽子を飛ばされた。橋から見下ろすとかなり高い。それに河原に降りるのに時間を食いそう。もう諦めようと思ったが、「いやいや」と思い直した。帽子がなければさらに熱中症になる危険性が高まる。苦労して帽子を拾った。若者たちが河原でバーベキューをしていた。この川の最上流がオオシッタイ。20kmレースを2度走ったジャングルだ。 地図 ようやく名護市へ入った。稲嶺辺りではまだ明るかったのに、親川では完全な日没。気温が少し下がりようやく走り出し、伊差川交差点から名護中心街へと向かう。ところが道端のススキが嫌。真っ暗な上、ハブが出そうで怖いのだ。夢中で駆け抜け、灯りのある場所へ出た。この日の距離は50km程度か。第1回目は合計で140kmほど走り、歩いた。翌年はいよいよ難関の東海岸を走る。 <名護市の名物ヒンプンガジュマル> 今回は平坦な西海岸で、しかも整備された国道58号線だったから安全に歩けたが、東海岸はアップダウンの連続でしかも集落がほとんどない。泊る場所も限定されるだろう。さてどうするか。そこで対策を考え出した。まず夏の暑い時期はダメ、今回は大変な目に遭った。ではどんな時期が良いのか。<続く>
2019.02.02
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~灼熱の道 1回目その2~ 崇元寺山門 2日目。ホテルで朝食を摂った後、ランシャツ、ランパンに着替えて走り出す。荷物は宅急便で名護市のホテルに送るよう依頼していた。32度以上の猛暑の中、リュックを背負って走ったらエネルギーのロスにつながる。少しでも体の負担を軽くしようと思ったのだ。国際通りを北へ直進し、安里三差路で左折。国道58号へと向かう。崇元寺の山門が懐かしい。中は戦火で焼かれ、石門だけが残されている。 今回の計画はこうだ。初日は本島最南端の摩文仁から那覇まで走った。この日はその続きで那覇から名護市までを走る。コースは西海岸沿いに伸びる国道58号線。左上に「こぶ」のように見える半島が本部半島。2日目の今日はその付け根の名護に1泊。第3日目はかつての部下に最北端の辺戸岬まで送ってもらい、そこから名護市まで逆走して繋ぐ。名護から辺戸へ走っても、その後の交通手段がないためだ。 これが国道58号線。那覇市内だと片側5車線ほどもある。8時半ぐらいまでは何とか走れていたがそれでも暑い。道の東側に寄って極力日陰を走ろうとするのだが、太陽が真上に上がるとそれも無理になった。浦添市を抜けるとビルはない。特に米軍のキャンプ地前などは見通しが良いため、直射日光が容赦なく照り付ける。やはり判断が甘かったか。こうなったら猛暑の中を40km以上歩くしかない。 「嘉手納ロータリー」は無くなり、直線になっていた。米軍が統治していた時代の名残で、右側通行の米軍のジープや軍用トラックには好都合だったのだろう。読谷村の楚辺まで来ると「ゾウの檻」が見えない。対中国用のレーダーだったのだが、今はもっと高性能の装置が出来たのだろう。間もなく喜名。そこから左折すると座喜味譲がある。世界文化遺産の美しい城跡。懐かしい思い出だ。 坂を下ると恩納(おんな)村。この村は細長い上に海岸線が曲がりくねっているため、想像以上に距離がある。ある集落で休憩して靴下を脱いだら汗でビショビショ。それを道路に干したら、5分でカラカラに。路上は50度ほどあるはず。歩くのすら殺人的行為。沖縄の人は決してしない。恩納の中心部に来て笑う。「おんな売店」の看板あり。別に女性を売ってる訳じゃなく村の名。昔は恩納ナベと言う歌人がいた。 <名護市許田(きょだ)海岸> 恩納村の大学院前を通過。次第に濃くなる闇。街灯はなく、歩道に飛び出している叢が不気味。ハブは夜行性なので、いつ這い出るかも知れない。ゾッとしながらのラン。気温は28度程まで下がり風も感じる。何とか暗がりを脱出して許田の海岸に。ここは名護市の入り口。堤防のため雑草がない。チヌ(黒鯛)狙いの釣り人が何人か。あの岬を回ればゴールのはず。残りは6km程度か。<続く>
2019.02.01
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