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~大仙市大曲の酒造所にて~ 今回は大仙市大曲の酒造所「秀よし」の紹介です。門には国旗が立てられていました。「建国記念の日」だったんですねえ。そして案内してくれたのは右の女性。研修生と言ってましたが、美人で利発そう。それに標準語だったので、地元の方ではないのかも。 庭には小川が取り込んでありました。説明板によれば、大曲は奥羽山脈からの伏流水が湧き出ていて、昔からたくさんの造り酒屋があったそうです。やはり日本酒の命は、何と言っても米と水。その双方に恵まれたこの地は、銘酒の産地に相応しいのでしょう。 建物の入口です。名だたる豪雪地帯なので、建物も頑丈な造りになっています。 むき出しの天井を見上げると、古い看板が掲げられていました。そしてその右上に小さな木片を発見。これは「棟札」(むねふだ)と呼ばれるもので、古い家屋の天井部、大黒柱に建築当時の棟梁が書いた、発注者と棟梁の名前、建てられた年月日などが墨書してあります。 そして壁にはこんな言葉が書かれた額が、さりげなく掛けられていました。案内に先立って、職員の方が勢ぞろいして挨拶してくれたのにはビックリ。盛岡のまるで工場のような酒造所とは大違いでした。 建物内には、職員の方々の働く姿がありました。これもまた良いものでした。 蒸気や湯気が立つ現場は、いかにも日本酒が生き物であることを感じます。 この薄暗い建物内には、きっと米麹(こうじ)菌が棲み付いているのでしょうね。 やがて日本酒はタンクの中で静かに醸成されて行きます。 炊き上がったご飯に米麹菌を混ぜ合わせる職人たち。かつては高温の中、上半身裸で作業していたとのことですが、最近は衛生上清潔な作業服を着てると説明してくれました。 奥の蔵に向かうツアー客。一体何があるのかな? 蔵の入口にも、神聖な注連縄が飾られていました。 蔵の中でも熱心に説明してくれた研修生の女性。 蔵から販売コーナーに戻ります。そしてお待ちかねの試飲があります。 お酒の銘柄が「秀よし」ですから、高級酒の容器はやはり「千成瓢箪」でしょう。 素晴らしい案内と美味しいお酒を、どうもありがとうございました。 敷地内には鳥居や社が。そう言えば、お酒の起源は神様に捧げる神聖なものでしたね。蔵の中の美術品については、改めて紹介する予定です。<不定期に続く>
2019.03.31
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~旅先で見た美と形~ このシリーズでは旅先で見た美術品などを紹介しています。日本の家紋も立派な様式美ですね。 旅先では風景だけでなく、色んな物にカメラを向けます。ブログネタにするためですが、結構忙しいんですよ。ほとんどじっとしてることがないくらいですから。獅子舞の染物です。花は椿でしょうか。 染色の作品が額装してありました。珍しいですねえ。 アールデコ風のガラス作品 児童画のような素朴さですね。以下も同様です。 春爛漫の無邪気な絵です。 自分たちが住む町の様子でしょうか。 虹が架かる空を自由に駆ける子供たち。 これは所属走友会が新年会を行った温泉のある場所の風景です。 大仙市大曲の味噌蔵で。(以下同様) 背景は江戸時代の浮世絵かな? 古ぼけたこけしのお出迎え。 こちらも貫禄のある襖絵でしたが。 ピンぼけになりましたが、衝立と小物のようです。 作り物のブーケを吊るしたみたいですね。 装飾品であふれた店舗内。 <不定期に続く>
2019.03.30
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~まるで研究所か実験室のような~ 2月の秋田旅行で、盛岡の酒蔵を訪ねた。盛岡は岩手県の県庁所在地。旅のレポートはこれまで『秋田・雪の国へ』と言うタイトルで紹介して来た。それなのにシリーズへ組み込むのはどうかと考え、これだけ別にすることにした。 まあ、そこまで厳密に考えることもなかろう。そうも思ったのだが、実は秋田県の大仙市大曲でも酒蔵を訪れている。それが実に対照的で驚いた次第。先ずは盛岡の酒造所を紹介し、少し間をおいて大曲を紹介したいと思う。さて、違うのは何なのか。杉玉や看板がぶら下がる門は一緒なのだが。 建物内に入って驚いた。人がいないのだ。これはどうしたことだろう。酒蔵と言えば杜氏(とうじ)が忙しげに働く姿を想像する。特に南部杜氏は優秀なことで名高い。その姿がどこにも見えない。 実験室のように静まり返った室内(上)や、ステンレススチールで出来たような大型の容器。これは想像していた醸造所や酒蔵とはあまりにも違う。 だからこんな古びた装置が見つかると、なぜかホッとするのだ。 だが、木製の大樽が使用された気配が、どこにも感じられない。その違和感から私はどうしても逃れることが出来なかった。 「杜氏の人はいるんですか」。あまりにも工場のように思えて、私は案内してくれた方に尋ねた。「はい、1人います。職員は全部で3人です」。その人は何事もないようにそう答えた。 そうか、それで分かった。ここでは杜氏の勘に頼って酒造りをしているのではなく、すべてコンピューターがデータを管理し、システムが稼働しているのだろう。それは杜氏の不足や、採用難と関係してるのかも知れない。全てが手作りだった昔とは違うのだ。 販売コーナーに戻ると、色んな銘柄のお酒が並んでいた。いずれも先ほど見学した「工場」と「実験室」で作られた製品だ。ほほう。やはりここは酒造メーカーに間違いなさそうだ。 中には「乳製品」と見間違えるようなお酒もあった。まるでサワードリンクみたい。 濁り酒もあった。「どぶろく」の製造工程があるとは意外だ。 これは旨そう。大吟醸の原酒だもんねえ。試飲は無理なのかなあ。 代表格の銘柄は、各種の賞を受賞しているとか。フルーティーな味が好評の由。 貧乏人は値札を見つめて茫然。世の中にはリッチな人がいるんだんねえ。 試飲用はそれなりのもの。もちろん美味しくいただきましたがね。
2019.03.29
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~わが貧しき句より~ 区の施設からハガキが届いた。来年度の「俳句教室」への応募の返事。何とか募集人数の中に潜り込めたようだ。これでまた1年間俳句を楽しむことが出来そうで嬉しい。以下は3月の教室へ提出した句。 奥つ城の六字名号加賀は春 奥つ城(おくつき)はお墓のこと。六字名号(ろくじみょうごう)は「南無阿弥陀仏」。私は石川県の地方に勤務したことがある。そこは昔から一向宗の強い土地柄で、今で言えば浄土真宗に当たる。何せ約1世紀ほどを一向宗徒の農民や野武士が加賀一国を支配した歴史があるほど。 単身赴任だった私は、毎日のように里へ下りて散歩した。コースの途中に広大な墓地がある。ずらりと並んだ墓石には「南無阿弥陀仏」の名号が彫られ、すべて西方浄土に向かっていた。信仰深い人々は、毎朝お墓に花を供える。一晩に60cmも雪が積もる土地柄でさすがに冬は寂しいが、春ともなれば庭の花を切り墓前に供える。その光景を思い出したのだ。以下は旅の思い出などを詠んだ。 風花や湯立て神事の夜は更けて なまはげの息白々と柴灯祭り *せど なまはげに似たる男や酒臭し 鬼打てる太鼓の音や山眠る 圧雪の道遥かなり柴灯祭り *あっせつ 餅花やあめっこ市の仮宮に *かりみや 凍て星に紙風船は吸はれけり *いてぼし かまくらや水神様の灯の揺るる 福寿草妹背契りし日のとおく *いもせをちぎる=結婚 蝋梅や老ひの歩みの覚束ず *ろうばい :おぼつかず 三月や去り行く友の低き聲 *こえ 妻去りて雛人形も見ざるまま 雛人形捨てて寡の夕餉かな *やもめ みちのくの土も吸はれぬ春嵐 *はるあらし 清明やたましひ洗うごとき雨 *せいめい 清明や父母遠き山の寺 *ちちはは てふてふや天地返しの土の色 *蝶々 春日や遊び疲れし子らの貌 *しゅんじつ *かお
2019.03.28
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~闇と光のものがたり~ <真山神社へ奉納された丸木舟> みちのく東北の民はどこからやって来たのだろう。古代、都の人からは蝦夷(えみし)と恐れられた彼らの中には、きっと丸木舟でやって来た人もいたことだろう。 <角館の武家屋敷にて> 縄文、弥生、古墳そして歴史時代。東北の民はいつも耐えて来た。冬の寒さや夜の暗さ、そして時には政権の弾圧に対しても。 <角館の武家屋敷にて> その忍耐力が人々に知恵を与えた。どうしたら厳しい冬を過ごせるのか。 <角館の武家屋敷にて> どうしたら厳しい風土の中で、飢えずに暮らせるのかと。 <能代のホテルにて> だが終わらない冬がないように、明けない夜もまたないのだ。 <横手の古民家にて> 人々は祈った。暮らしが厳しければ厳しいほど熱心に。 <雪を被った真山神社の狛犬> やがて集落の中に小さな社を建てた。貧しい村の粗末な社。 <真山神社石段> 奥深い山の中の神社は寂しいんだよ。そして冬はとても寒いんだよ。 <真山神社にて開催の柴灯(せど)祭り> でもなあ。神様が毎年わしらの里へ下りて来て恵みをもたらしてくれる。 <真山神社参道のぼんぼり> だからわしらも神様に感謝するんだ。村の祭りとしてね。 <真山神社の篝火(かがりび)> 昔から火は清らかだ。そして明るい。その火が今日もわしらを迎えてくれる。 <燃え盛る真山神社の柴灯> お~いお~い、豊作を祈れ。ほ~いほ~い、家内安全も祈るよ。 <西木紙風船上げ会場の焚火> 火は暖かいなあ。冷え切った体を温めてくれるなあ。 <西木紙風船上げ会場の影> 光があれば、影も出来る。それが道理ってものなんじゃ。 <西木の紙風船上げ> 冬空に放たれた紙風船はゆっくりと上昇し、やがて空の上で丸い小さな輪になった。 <西木の会場に作られたかまくら> 紙風船はわしらの夢と願いを天に届けた。かまくらの水神様にわしらは祈る。この世が幸せであるように。今年が豊作で家々が安全であるように。そして子供らがすくすくと育つようにと。<不定期に続く>
2019.03.27
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~誕生日のこと、スポーツのこと~ 夢を見た。自分の意思と異なり、勝手に足が危険な方に向かう。おいおい、そっちへ行ったら崖だよ。崖から落ちたら大変な目に遭うよ。ようやく場面は切り替わったものの、再び足元が不安定な場所へ出た。寝る前はしっかり「鼻呼吸テープ」を張っていたのに、朝起きたら喉がカラカラ。きっと夢の中で苦しみもがいていたのだろう。でも再び明るい朝を迎えられて一安心。 誕生日だった日曜は風が強かった。強風の中を10kmほど離れた兄宅へ行った。先ずは父、母、姉に線香を上げる。「今日で75歳になった」と言うと、兄はちゃんと知っていた。今年80歳になる兄は、36才の時に脳出血で倒れた。人生の半分以上が病気との戦い。兄嫁はそれを良く支えてくれた。亡くなった従兄弟の話や親戚の話を彼女から聞いた。ずっと親戚づきあいを代表していたのだ。 「一緒に昼食を」と言う義姉の言葉を遮って帰ることにした。「無駄なお金を使うことはないよ」と言う私に、彼女は小さな包みを渡してくれた。それは私が買って仏壇に供えた和菓子の一部。桜餅に鶯餅。そして栗饅頭。口が利けない兄も、餡子だけ舐めた。餅は誤嚥する可能性があるためだ。強風で疲れたが、兄宅を訪れて良かった。兄の風貌に亡き父の面影を感じた。 その夜、私は念願の散らし寿司を作った。「寿司の素」の説明を読んだら、炊き立てのご飯に混ぜるだけととても簡単。刻んだ卵焼き、タコとキュウリのキムチも一緒に混ぜた、数切れの刺身を別に食べた。これが実に美味。一人暮らしのささやかな誕生祝い。健康であることに感謝し、薄い焼酎の杯を挙げた。心は安らかだったはずなのに、その夜もなかなか寝付けず、睡眠薬を半分だけ飲んだのだった。 大相撲の春場所が終わった。横綱白鵬の全勝優勝。42度目の偉業だ。だが私は素直に喜べなかった。表彰式の土俵上で観衆に「三本締め」を呼びかけたのだ。本人は良いことをした積りだろうが、日本人の心には沿わないものだ。力士には力士の「分」がある。出過ぎてはいけない。謙譲と相手を敬う心。それが日本人の魂だ。 関脇貴景勝はプレッシャーに良く耐え10勝目を手にした。ある日のインタビュー時には、必死に吐き気を堪えているのが分かった。場所後は新大関当確のはず。一方敗れた栃ノ心は逆に大関の座から陥落することになった。来場所は関脇だが、10勝して大関にカムバックして欲しい。元貴乃花の顔が柔和になった。きっと心に期するものがあるのだろう。「親方の束縛」がようやく解けたのだと思う。 世界フィギュアで男子の羽生選手は銀メダルに終わった。怪我の影響が少し残っていたのだろうか。だが、翌日のインタビューでは優勝したアメリカの選手を讃えていたのが立派。女子はロシア勢などがメダルを独占し、紀平選手は4位に終わった。それもきっと良い経験になるはず。「いだてん」に出ていたピエール瀧が逮捕された。折角のオリンピック話に傷がついたが、直ぐに代役を立てた由。 イチローが引退した。日本で開幕戦をやれたのも、45才の現役選手として出場出来たのも、すべてはマリナーズの配慮。今後球団では彼に何らかの役職を与えるとも聞く。それらはこれまでのイチローの活躍に対する感謝以外の何物でもない。彼は現役選手としての限界を悟って自ら退き、球団は大選手の長年の貢献に報いた。白鵬に言いたいのは、「評価は人がする」と言う厳粛な事実だ。
2019.03.26
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~旅先などで見た美しいもの~ 今日は疲れたので手抜きしました。説明もつけませんので、どうぞご自由に楽しんでくださいね。 美術品の鑑賞会はいかがでしたか。お陰様で私は楽をさせていただきました。
2019.03.25
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~庭の花々に寄せて~ ムスカリ このところ急に気温が上がって、庭の花が咲き始めた。この冬、いつもの年より雪が少なかった。体は楽で良かったのだが、その分庭も畑も潤いにかけた。ボチボチ庭仕事を始めて、春野菜への準備に取り掛かっている。大根が3本残っているだけで、冬野菜の苗はすべて処理した。だが、空いた畝の天地返しはしていない。初めて植えっぱなしにしていた雲南百薬。果たして寒さに耐えらたのだろうか。 エニシダ 最近あまりよく眠れてないようだ。いや、睡眠時間はそれなりにあるのだが、夕方になると疲れが出る。まあ体を動かしてないため、睡眠の質が良くないのだろう。そして冬から春に変わる今の季節は、体が変調を感じやすい時でもある。きっとホルモンの分泌が変化する影響だと思う。一人暮らしの男に不安がないと言ったら嘘になる。それでも本人は精いっぱい生きている積りなのだ。 豊後梅 先日兄嫁から電話が来た。墓参りに行ったら既に誰かお参りに来ていたので、ひょっとしたらと思ったらしい。日和も良かったため、自分でもついそんな気分になったのだ。この歳になれば、いつ何があってもおかしくはない。庭の花の名前すら、もうなかなかスラスラとは出てこないのだから。「前の年に出来たことがなかなか出来なくなった」。私がそう言うと、「それが普通」と兄嫁が笑って言った。 スイセン 今日、私は75才の誕生日を迎えた。いわゆる後期高齢者の仲間入りで、保険証もこれまでとは全く異なるものに変わった。貧しかった少年時代から青年時代。そして結婚後の転勤暮らし。第2の人生では肉体労働者として汚れ仕事も経験した。そして不整脈の勃発や調停離婚や硬膜下出血に伴う手術など、ずいぶん色んな経験をすることが出来た。そんな経緯を辿っての75才は、なかなかの感慨だ。 藪椿 生命の危機を感じたことも数度。特にこの数年は血圧や血糖値の変動、転倒による怪我やめまい、緑内障に伴う視野狭窄、軽い運動時や就寝時に感じる突然の動悸など、不安だらけの日常だった。一人暮らしになって、ストレスも感じていたのだと思う。そんな中で迎えた75才の誕生日は、私にとって十分なご褒美と言えよう。ただただ、感謝あるのみだ。 クリスマスローズ 先日、市から「豊齢度調査票」なるものが届いた。表現は美しいのだが何のことはない、老化状態をチェックするものだ。記入後に眺め、やはり昨年よりは老化が進んでいることを自覚した。だが元々私はあまり群れない方で、むしろ単独行動を生活の中心に据えて来た。だから孤独には慣れている。社会との繋がりは、名目だけの走友会所属と月1の俳句教室。後はもっぱらネットサーフィンだ。 体にはあまり良くないが、ブログは私の生きがい。書きたいテーマをどう見つけ、どう表現・構成し、どんな写真と組み合わせるか。大げさに言えば、魂が震える作業を連日繰り返していることに他ならない。自分にとっての創造。自分にとっての思索。自分にとっての修行。どんな表現でも良いのだが、これが実現出来ているうちは、まだ認知機能は正常と見て良いはず。 高校時代の今年のクラス会は、喜寿を祝う会になる。満年齢ではなく、祝い事は数え年でやるためだ。3月末生まれの私は、これまで常にクラスで最も若い部類になっていた。中にはほぼ1歳違う級友もいる。得なこともあるが、損なこともあったろう。でも今ではそんなことはどうでも良くなった。魚を焼き、大根おろしを摺り、味噌汁を作り、買い物に行く週末。この平凡な作業を出来るだけ続けよう。 何だか酢飯が食べたいなあ。巻き寿司も良いし、散らし寿司でも良い。いっそのこと、「散らし寿司の素」でも買って来て、自分で作ってみようか。本日から75才。老化と言う名の未知との遭遇。そして2度と引き返せないあの世への一本道。せいぜい苦しみ、楽しんでみよう。そしてこれからも出来るだけ人に迷惑をかけず、静かに生きて行こう。天と地と人に感謝。愉快なり、ああ愉快なり。
2019.03.24
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~角館の武家屋敷・青柳家にて~ 旅の最終日。私たちは仙北市角館の武家屋敷を訪ねました。2月11日のことでしたが、当時はまだこれだけの雪がありました。以前、角館をスタート地点にする100kmマラソンを走った際、その前日に武家屋敷を訪ねたことがありました。そこは下級武士の屋敷で、さほど見るべきものはなかったのです。 でもこの青柳家は上級士族。屋敷の場所もお城に近く、敷地も広いのですよ。従って見るべきものもたくさんありました。なお、建物群は県の指定文化財です。 ちなみに、これは当日配られたパンフレット。天然記念物の枝垂れ桜が見事ですね。 驚いたことに、庭の一角にこのようなものがありました。当家が宣伝用に作った祭りの山車でしょうか。 拡大すると歌舞伎の演目みたいで、「坂田金時」と読めます。どうやら蜘蛛(クモ)の化け物を退治しているみたいです。 昼食後は自由行動の時間で、敷地内の建物を自由に散策します。巨大な蔵の軒場に見事な氷柱が垂れ下がっていました。 見事な甲冑(かっちゅう)と陣羽織が保存されていました。 おびただしい数の甲冑類が整然と陳列されていました。かなりの役職だったのでしょうね。 旗指物(はたさしもの)の一種なのか、家紋が入っています。 鉱石の標本がありました。ちょっと場違いな感じを受けたのですが。 この説明を読んで納得。青柳家は藩命により南部藩との藩境を見回り、かつ各種鉱石の採鉱に関与していたようです。上の鉱石は何の金属かを確認するための標本として、代々青柳家に伝わったのでしょう。採鉱に関して平賀源内から直接指導を受けたと言うのも実話だったようです。後年秋田大学には、国内で唯一「鉱山学部」が置かれました。鉱山が廃れた現在では、学部の名称も変更されています。 物入れ(収納ボックス)の数々。 陶器、磁気の類。 小野寺直武が描いた美人画です。これもごく普通の収蔵品かとおもったのですが。 ところがこの男は、ただの絵師では終らなかったのです。一説によれば平賀源内に西洋の遠近法を学び、自分の絵に取り入れたのみならず絵を愛した藩主の命により、近代絵画の画法を学ぶべく江戸や長崎に出向き腕を磨きます。 写実的な描写も修練の結果得られたものです。 その集大成が「解体新書」の挿絵。近代画法を学んだ彼は、杉田玄白らの要請により誰もまだ手掛けたことのない人体図を初めて描いたのです。日本の医学向上に多大なる貢献をした小野寺でしたが、藩命と違った道を歩んだことを咎められて蟄居(ちっきょ)し、その後悲嘆のうちに死ぬのです。しかしなぜこの青柳家に、このような資料があるのかは不明です。 明治新政府の原動力となった元勲の写真と氏名一覧。秋田の佐竹藩および角館の支藩は当初幕府側でしたが、後に官軍側に付きます。その恩賞でしょうか、廃藩置県後有望な鉱山を持つ旧南部藩の鹿角地方は秋田県に編入されます。幕末から明治にかけて、帰趨を巡って揺れ動いた東北諸藩を象徴する出来事ですが、青柳家がこれらの資料を大切に保存した理由も分かるような気がします。<不定期に続く>
2019.03.23
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~人物評価と是非~ 先日ある映画評を書いたら、走友のkazuさんが監督ゴリの評判を書いてくれた。私なりに考えて返事を書いた積りだが、少し気になった。果たしてゴリは沖縄の基地問題に関して一体どんな態度を取ったのだろうと。ネットで調べたら予測通りで、問題があるようには思えない。故郷を離れると、冷静に沖縄を見られる。彼はごく常識的な話をしたのだと思う。逆に日本のマスコミが過剰なのだ。 我那覇真子さんと言う女性がいる。名護市の沖縄そば屋の娘で30歳前後。最近YOUTUBEで彼女の主張を何度か聞いたが、実に明快で分かりやすい。高校時代アメリカに留学して英語の弁論に出た由。目下沖縄の地方紙の偏った報道に抗議しているが、明快な論理が心地良い。周囲に遠慮し他と異なる意見を言わないのが沖縄だが、彼女は拘らない。さすがは早大弁論部出身だけあると感じ入った。 元外務官僚の佐藤優氏。彼の正体が今一不明。鈴木宗男元議員の事件に連座して失職。専攻はキリスト教神学で確か修士課程修了のはず。旧ソ連政治家に信用され、得た情報を政策に生かした人。だが、彼が説く神学、哲学、科学論は表面上だけで、何の論理性、必然性もないとの指摘。彼の本質は「自分の著書が売れれば良い」だけと喝破する向きもある。なるほどと思った。面妖な外見そのままかとも。 前にも書いたが、池上彰氏に対する批判が厳しい。他の専門家に聞いて知ったことを、自分の意見としてTVで公表するのが彼のスタイル。いわば書籍や論文に引用文献を示さないようなものだ。ずいぶん抗議した人がいるようだが、依然としてそのスタイルは変わっていない。到底知識人の取る態度とは思えないが、事情を知らない人は、「物知り博士」に畏敬の眼差しを向ける。 民主党政権時代の鳩山首相。あの「最低でも県外」発言は酷かった。何の裏付けもなく放った言葉がその後どれだけ混乱をもたらしたか。現在もあたかも国の代表のような態度で、近隣諸国で国益を損ねる謝罪外交を繰り返している。実に迷惑な男だ。 菅元総理も酷かった。メルトダウン寸前の福島原発をヘリコプターで訪れ、現場を大混乱に陥れた。あの時総理に構わず放水を続けていたら、あれだけの災害にはならなかった。旧民主党の総理が期せずして2人共国立大学の工学部卒業と言う事実に驚く。彼らにとって知識や科学とは一体何だったのだろう。 小池東京都知事の劇場型政治には私たちも一時躍らされた。あの「豊洲移転問題」は一体何だったのだろう。「希望の党」にも失望した。今、イギリスのメイ首相がEUからの離脱に苦慮している。自身は離脱反対だったのに、国民投票の「後始末」に大わらわ。ニュージーランドのジャシンダ首相も、この度のテロ事件を受けて銃規制問題解決に乗り出した。どちらも多民族国家の弱みかなあ。女性首相頑張れ。 さて毀誉褒貶の激しさと言えば、「リケジョの星」小保方晴子さんが筆頭か。科学誌natureに載せたSTAP細胞関係の論文を取り下げ、理研を辞職した彼女は母校から博士論文まではく奪された。その後、ハーバード大学(米)とハイデルベルク大学(独)でSTAP現象は再現されたが、彼女が行った方法ではなかった由。5年前のあの「割烹着騒動」は一体何だったのだろう。 彼女はあの後2冊の本を上梓した。そのうちの1冊「あの日」には、自分の実験失敗を反省する言葉はないそうだ。「STAP細胞はあります」。彼女の言葉が蘇る。今後発見される可能性はある。だが、彼女が科学者として相応しい資質を備えていたかは疑問。科学誌「Science」は最初から彼女の論文を受け付けなかった。普通の爺の私は直感でこの文を書いている。まさに「盲蛇に怖じず」だ。
2019.03.22
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~我が家の花など~ 天気が良いので、少し遠い園芸店へ自転車で出かけた。第一の目的はジャガイモの種芋を買うこと。第二は安い野菜や果物があれば買うこと。誕生月の今月は、この店からハガキが届いていた。1つ目が300円分の値引きで、2つ目がボールペンの贈呈。ところが料金が安くて、どちらも使えなかったのが残念。それでもこの日は「5%値引きの日」で、ぴったし500円のお買い物だった。 別な日、天気が良いので父母の墓参りに行った。先ず近くのスーパーで安い花を買い、自転車を預け、地下鉄で墓地へ。最寄り駅から往復4kmほど歩く。どうやら一番乗りだったようで、墓の周囲に散らばっていた杉の葉、線香の燃えカス、花の残骸を始末し、墓石を雑巾で拭いた。そして線香と花を供える。その帰り道、どこかで片方の手袋を落としたようだ。ああ残念。 とは言え、それは10年ほど前に100円ショップで買ったもの。もう十分に「元」は取った。しかし、ボロボロになりながらも貴重な存在だったのだ。適度に暖かく、かつ厚みがないため、冬の撮影用に最適。もっと立派なのが他に3組はあるのだが、やはりあれが一番便利だったのだよなあ。そして、最近探しても見当たらないものが他にもあった。 それは枝切り用の鋏。一番鋭利で使い勝手が良かった。先日剪定枝のユズの棘を切るのに使ったのが最後。それ以降、どこにも見当たらない。ひょっとして積んだ枯れ草の中に紛れ込んだのか。ガッカリしながら3日目にようやくジャガイモを植えた。今回はわずか1kgで銘柄は男爵。数えると11個あり、それを包丁で切って、芋の表面に草木灰をつけた。今後の畑の利用を考えると場所がなかったのだ。 裏庭の空き地に、今回出た腐葉土をかなりの厚さに積んだ。それに消石灰、発酵鶏糞、顆粒状の化学肥料をすき込み、移植用のスコップで穴を掘って種芋を埋めた。残った7個は東の畑のネギを抜き、そこを耕して植えた。地中から太い茗荷の根がゾロゾロ。これで植え付けは終了し、その後は庭と畑の雑草を抜いた。心持敷地内がきれいになったか。 花を見つけたのはその作業中だ。梅の花もほんの少しだが開き始めた。ヒヤシンスにホソバスイセンにチオノドクサ。今年はかなり早いねえ。クリスマスローズが3か所で咲き始めた。そして探していた枝切り鋏が畑で見つかった。きっとブロッコリーを切ろうとしたのだろう。だが手で折れると分かって、そこに放置したままだったのだ。最近こんなことが増えた。だがこれもまた人生。感謝しないとね。
2019.03.21
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~差別するこころ~ 司馬遼太郎の大著『竜馬がゆく』を読み終えてから、次に何を読もうかと迷った。と言っても家の中の本に限られる。新刊を買う必要性は少ないし、図書館は遠過ぎる。以前古本屋で買った中から、灰谷健次郎の『兎の眼』を手に取った。もう何年「積ん読」状態だったろう。あの大著の後では心も容易に反応してはくれないだろうが、まあ一日中パソコンに向かっているよりは良い。 灰谷健次郎(1934-2006)は児童文学作家。神戸で生まれ、貧しい少年期を過ごした。高校は夜間だが、大阪学芸大(当時)を卒業して17年間小学校の教員を務めた。その後退職し、児童文学を志した。と言っても教員時代から児童詩の編集などを手掛け、文学に対する志は強かったようだ。しかし、なぜ彼は学校を辞めたのか。その疑問を解く鍵がこの本に隠されている。 それまでに私が読んだ彼の著作は『遅れて来たランナー』と林竹二先生との対談だけだった。前者は私がランナーだったこともあって、そのタイトルに目を奪われたのがきっかけだ。一時、沖縄の渡嘉敷島で暮らしていたことも雑誌『ランナーズ』で知っていた。その後、再び淡路島へ帰ったことも。恐らくは病気の治療だったのかもと、今になって思うのだ。 小学生に授業中の林先生 対談集を読んだのは林先生が2番目の職場の学長だったためだ。先生の専門は哲学だったはずだが、大学紛争当時も過激派学生が封鎖した校舎の中に一人で飛び込むような人で、後年小学校で特別事業を行う「聖人」だった。「本当の教育とは何か」を追求する二人だけに、心が通じるところがあったのだろう。 さて話の舞台は関西のある小学校。学区内には市の清掃工場と、そこに働く貧しい人々と子弟がいる。教師経験の浅い小谷先生の奮戦ぶりや、「蠅博士」鉄三の成長が心を沸かせてくれる。しかし貧しいことだけで差別を受ける子供も世の中にはいるのだ。小谷先生や鉄三たち清掃工場の子供たちを見守る足立先生の眼差しは真剣だが、子供に対する愛情の深さは格別。だが工場の移転を契機に大問題が勃発する。 騒動の結果までは描かれていないが、市や校長などのうろたえぶり、一部の教育ママたちの異常反応に「やはり」と思わせるものがあった。灰谷の作品は強い反響を呼び、中には部落解放同盟から非難を浴びるものもあった由。実兄の自殺もそれらと関係があったのだろうか。出身地ゆえの差別、貧しさゆえの差別。東北に住む人間にとっては理解不能だが、差別が現存するのを四国勤務時に体験した。 住井すえ著『橋のない川』が、私が差別問題を知ったきっかけ。あまりの実態に驚き、怒りすら覚えたものだ。さて『兎の眼』はミリオンセラーとなり、灰谷の代表作となった。平成18年病没。享年72才。目下彼の著『我利馬の船出』の古本を読んでいる。果たしてこの後どんな展開が待っているのだろう。
2019.03.20
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~沖縄の離島を舞台に~ この映画を勧めてくれたのは、滋賀のブロ友Yorosiku!さんだった。タイトルが示す通り、舞台は沖縄か奄美だなと直感した。粟国(あぐに)島だと彼女は教えてくれた。「洗骨」がどんな儀式かは知っているし、粟国島の場所も分かる。でもなあ。探して見ても東北の映画館で上映してるところはないんだよなあ。ブログにそう書いたら、丁寧にも県内の上映館を教えてくれたのだ。 上映館は分かったが、上映時間が分からない。そこで映画館に問い合わせた。スケジュールが判明するのは次の水曜日とのこと。上映が金曜日なのに時間がまだ決まってないなんて、全く不思議な話だ。それにそんな映画館の名を、これまで私は聞いたことがなかったのだ。ただし場所は知っている。駅のすぐ傍だ。当日は最初に観るべく早めに出かけた。何かの記念日でいつもより700円安くて助かった。 洗骨とは、一旦葬った人の遺体を数年後に墓から取り出し、文字通り水で洗う儀式だ。なぜ今でも粟国で洗骨を続けているのだろう。それは小さな島で火葬場がなく、風葬を行っているためだ。沖縄ではもうほとんどの地区でこの儀式は行われていない。数百年間続いて来た風俗が、戦後衛生上の理由で廃止されたのだ。だが幾つかの離島では例外的に現在でも残っていたのだ。 古謝美佐子が島民役で出演していたのには驚いた。彼女の本職は琉球民謡の歌手。夏川りみが歌った「童神」をカバーし、それがこの映画のテーマ曲になっている。監督はガレッジセールのゴリだが、本名の照屋年之で脚本も書いた由。沖縄出身の彼がこの洗骨のことを知らなかったことに驚いた。粟国のこの行事を知って、最初はコミカルに描こうとしたようだ。 父親役は奥田瑛二。彼は俳優であると同時に監督の経験もある。長女の安藤桃子は映画監督で、次女の安藤サクラは女優。その大先輩に、ゴリ監督はダメだしを続けた。もっとだらしない父親を演じろと。妻を失った男は毎日飲んだくれていた。そこに東京から息子(筒井道隆)、名古屋から娘(水崎綾女)が母の洗骨のために帰郷する。息子は離婚し、娘は身重だった。 この妊婦が超リアルで、お腹を油で拭く場面では「本物」であることを疑わなかった。出べそにもなっていたし。ところがそれはシリコンで、水崎は特に重い材料で腹部を覆い、妊婦を演じていた由。そのため島の人々は、奥田が彼女を妊娠させたのだろうと噂していたそうだ。監督以下スタッフと俳優の誰もが、迫真の演技を行っていたのだ。モスクワ映画祭ほか、複数の映画祭で高い評判を得た由。 複雑な事情を抱えた離島の家族だが、母(妻)の洗骨をきっかけにして、絆が深まる。妊娠させた相手が島に駆け付け、娘は母の墓の前で破水、出産する。鋏で会陰を切開するのは、酒飲みでだらしなかった父。やがて聞こえる産声。ゴリは日大芸術学部映画学科中退で、これまでも10作以上の監督作品がある由。どれも初めて聞く話で、心から驚いた私だった。世界は広い。そして芸術の力は実に偉大だ。
2019.03.19
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~暗がりの中の柴灯祭 その2~ ここは秋田県男鹿市にある真山神社の境内。神楽殿の前には、これから始まる幾つかの神事を見ようと、たくさんの人が押しかけている。 その神楽殿を湯立て神事の場所越しに見ている観衆。 既に鍋には熱湯が煮えたぎっている。祭りの行事は、神官が湯立て神事を行った後に開始される。熱湯に笹の葉を浸し、その湯を観衆に振りかけるのだ。 湯立て神事が終わると、いよいよ積まれた柴に火が点けられる。もうもうと上がる白煙。 神楽殿ではなまはげ行事が始まったようだ。だが遠くて良く見えない観衆は、中継のスクリーンにじっと見入っている。 この日、なまはげ役の青年たちは山から石段を下りて境内へやって来る。まだ素顔のままだ。 神官は予め祈祷を済ませた鬼の面を、青年たちに一枚ずつ手渡して行く。 暗がりの中で、青年たちは鬼の面を付ける。それで初めて人間からなまはげへと化身する。 面を付けた青年たちは、再度石段を登って奥宮へと帰って行く。恐らくこれは毎年繰り広げられるこの地区のなまはげ行事を、私たちに再現して見せたのだと思う。 燃え盛る柴灯(せど)の前で繰り広げられるなまはげの踊り。 この踊りは著名な舞踏家石井漠氏(故人)の振り付けと、子息の作曲で構成されたもの。 柴灯を背にしながら、スクリーンを食い入るように見つめる来場者たち。外国人の方も大勢見えていました。 闇に溶け込む仁王門の背面。私は不安定な場所に立ち、長時間寒さを堪えながら撮影したのだが、2時間半が限界だった。この後「なまはげ館」で暖を取りながら、展示物に見入っていた。自分としてはそれもまた大いなる収穫だったと思っている。<不定期に続く>
2019.03.18
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~暗がりの中の柴灯祭(せどまつり)1~ 旅行初日のまだ明るいころ、行く手の男鹿半島に雪を被った山々が見えたのです。そこには本山、真山(しんざん)と呼ばれる聖なる山があるとか。その麓にある真山神社であるのが「柴灯(せど)祭」。初日のメイン行事はそれを見ることでした。でも初めに「恩荷太鼓」の演奏を見、早めの夕食を済ませたのでしたがね。 私たちが真山神社へたどり着いた時には、既に日が暮れていました。 ここは山の中でしかも深い雪が積もっています。歩いているうちはまだ良いのですが。 山道にはぼんぼりが吊るされ、足元を照らしてくれます。それが心細さを救ってくれます。 神社が近づくと添乗員さんが1人ずつこんなものを手渡してくれました。木で出来た小さな包丁。そうなんですよ。なまはげが手にして脅すあれを真似たもの。実はこれが「入場券」でした。 仁王門の両脇では、古ぼけた仁王様が私たちを出迎えてくれました。 薄明りの中、石段を登ります。幸い除雪してありましたが、凍ったら怖いですよ。 しばらく登って行くと、境内の一角に社殿が見えました。やれやれ。ここが会場かな。 長旅で疲れているし、寒いし、暗いし、寂しいし。そんな時のご神灯はホッとしますね。 受付では巫女さんたちが忙しそうに働いていましたよ。祭の夜は目が回るくらいかもね。 本殿の内部にもカメラを向けました。私の悪い癖です。 これは扁額風のポスターかな。柴灯祭の主役は何と言ってもなまはげですものね。<不定期に続く>
2019.03.17
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~わが日常の記~ シャッターを上げると、屋根に雪が見えた。昨夜の遅い時間帯に、風花が舞ったのだろう。朝食を終え、小さなリュックを背負って自転車に乗る。ヘバはベンチで眠っていた。「行って来るよ」。心の中でつぶやき、広い道に出た。ゴールデンリトリバーが私を見ている。「トム?」私が聞くと、お嬢さんが頷く。じゃれつくトム。頭を撫でる私。「お前も歳を取ったねえ」。そう言い残して病院へ急いだ。 3月12日の夜、8年前の大震災の時に外国人がどう行動したかの番組をBSで観た。米国海軍太平洋艦隊所属空母のロナルド・レーガンは韓国との合同演習の予定を急遽変更して、被災地に向かうことを決断した。艦長の判断を司令官も支持した由。被災地をヘリコプターから確認し、救助物品を届けた。担当場所は自衛隊と協議した由。東南アジアで訓練中の海兵隊も数日後に合流。「トモダチ作戦」だった。 アイルランド報道機関日本支局の記者は、身重の奥さんを東京から安全な場所に避難させ、自分は福島へと向かった。制止を振り切って福島原発の2km手前まで行き、自分の目で被害の状況を確認した。その頃フランスを初めとし、各国の大使館は日本滞在中の自国民を日本から脱出させるのに懸命。だが、彼の正確な報道は世界に発信され混乱が収拾。日本人の奥様もその後帰京し、情報収集に協力した由。 台湾の女子中学生2人が日本の惨状を知り、校内で募金活動を開始。それが広がって全校の協力を得た由。どれも良く知らないことだった。それらに比べたら、その前日の式典で述べられた秋篠宮殿下や安倍総理の言葉は、あまりにも形式的過ぎるよう私には思えた。天皇や皇后が何度も現地で見せた、被災者に対する労りや慰めに比べたら、何とまあ薄っぺらい態度だったろう。 先日の作業中のこと、積まれた枯れ木などを退けた下から可愛らしい巣が現れた。写真はネットから借りたものだが、実際は色も素材もこれよりもっと豊富。気にせずに作業を続けたのだが、後で思うにあれはハツカネズミの巣だったのではないか。夜入浴中に甲高い声が聞こえた。鳥にしては変。ドブネズミでもない。一体何者だろう。そう思いつつ、すっかりそのことを失念していたのだ。 病院での結果は良かった。血圧は正常で、血糖値もかなり下がっていた。もう少し数値が下がったら、薬の服用は止めるとドクター。喜んでコンビニで値下げ品などを買った。起きていたヘバ(雑種メス)の頭を撫でて家に入る。その前の歯科でも、歯の状態が良いとドクターがほめてくれた。この冬は自分でも体調に留意した積り。そして歯磨きもに丁寧に行ったのが功を奏したのだろう。 ハツカネズミの巣のことが気になり、裏庭へ行った。新たに積み直した残骸の山に、巣穴は見当たらない。きっと諦めてどこかへ行ったのだろう。ふと傍を見ると、花が開いたフキノトウが1個。別の場所と合わせて3個の収穫。これではフキ味噌を作るのは無理。いつも通り刻んで味噌汁に入れようか。花壇の水仙の芽が膨らんでいる。朝の淡雪が消え、山からの冷たい西風が庭を吹き抜ける早春の午後。
2019.03.16
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~なまはげ行事と仮面の世界~ なまはげの名前は皆さん聞いたことがあるでしょう。お正月のある日、鬼の面を被ったなまはげが山から里へ下りて来て、1軒ずつ家を訪ねます。そして怖がる子供に「泣く子はいねが」、「怠けている子はいねが」と恐ろしい声で聞くのです。そこで子供は必死に答えます。「泣く子はいません」。「怠ける子はいません」と。 それだけではありません。家の主にも色々尋ねます。「神様を大切にして、家を守っているか」。「嫁は浮気をしてないか」などと真剣な声で。それに対して主も必死に抗弁します。どちらも秋田弁ですから、よそ者にはとても理解し難いのですが、雰囲気は十分伝わりますね。 家主は鬼を上手に宥(なだ)め、そしてお酒を勧めます。なまはげも大好きな物を目の前に差し出されると、つい手を伸ばしてしまいます。そして美味しいお酒の入った杯を、口に運ぶのです。 その珍しい光景を目にした観光客らは、急いでカメラを向けて撮影しようとします。 「男鹿市立なまはげ館」に展示してあったなまはげの絵です。以下のほとんども同様です。 生々しいなまはげの様子です。 以下は秋田県内各地のなまはげの実物展示です。 秋田県内の200近くの集落では、それぞれ独自の面を付けたなまはげが活躍するそうですよ。 これは「なまはげ太鼓」が上演された会館で撮影。 ここからは再び「男鹿市立なまはげ館」にて。なまはげは人々に勤勉を勧め、幸福をもたらす再訪神。怖いだけではなく、実に有難い存在なのです。 だからこそ人々に愛され、今もなお多くの集落に伝統行事として根付いているのでしょうね。 同館所蔵の世界各地の仮面。仮面の世界とも言えましょうか。 この藁(わら)で出来た仮面は、確か日本国内のものだったはずです。 「ひょっとこ」に似たお面は、沖縄のものかもよ。 こうして見ると、仮面の世界もなかなか圧巻でしたね。<不定期に続く>
2019.03.15
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~少しずつ春の花が(2)~ 思わぬところでフクジュソウに出会った。漢字では福寿草と書くおめでたい植物。春の花の中でも、恐らくはかなり早く咲く部類だろう。 何だか奇妙な感じがする植物だ。理由はまだ葉っぱが十分でないこと。そのために花だけがいきなり地上に現れる印象が強い。 それにしても強烈な黄金の花は、長い冬を破るには相応しいのかも知れない。陰鬱な冬を一掃するには、こんな衝撃的な彩りが必要なのだろう。 2月21日。私は近所のお宅に出向いた。と言っても家には入らず、庭に咲いている蝋梅(ロウバイ)を撮影するのが目的だ。まあ、庭と言うよりは小川の土手に咲いているのだが。 花好きと言うか、山好きと言うか、ともかくそのお家のご主人が実生や挿し木でコツコツ増やした蝋梅の木。植えてからかれこれ10年にはなるだろうか。今では20本ほどの見事な垣根になっている。 向こう岸から、花の様子が見える。ああ、そろそろ満開だな。そう思ってこの日訪れた次第。 近所のTさんも田舎から出て来た老親に、この花を見せるために来ていた。 私は邪魔にならないよう速足で現場に着き、そそくさと撮影を開始したのだ。 文字通り蝋細工のような蝋梅の花。近づくととても良い香りが漂って来る。 この日が晴天で良かった。やはり空が青いと、花の色が引き立って見えるのだ。 アングルを決めて、シャッターを押す。その作業を手短に10回ほど繰り返す。 Tさん親子が「現場」に到着する前には、すっかり一連の作業を終えていた。そればかりではなく、別のルートを伝って家に帰った。福寿草を見つけたのはその時だ。隣のお宅の花壇に、その花があった。 3月6日の我が家。庭を見ていてふと気づいた。あれっ、クリスマスローズが咲き出したんじゃないのかな。 近寄って確かめるまでもなく、茎を伸ばした先にその花はあった。おいおい、今年はずいぶん早く咲いたねえ。ちょうど良いや。黄色の花ばかりじゃなんだから、お前も一緒に入れておこうか。間もなく一斉に春の花が咲き出すんだろうなあ。嬉しいなあ。ありがたいなあ。
2019.03.14
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~横手の雪祭り~ 急速に春が近づいているのに雪祭りも何なのだが、遅れたものは仕方がない。こうなったら開き直って淡々と紹介するまでだ。今日は秋田の旅から「横手の雪祭り」を取り上げよう。写真は「かまくら」。ツーリストが案内した集落に、こじんまりとした祭りのコーナーが設置されていた。 秋田県南部の内陸にある横手市は名うての豪雪地帯。そこで繰り広げられるのが「かまくら」などの冬の祭典。豪雪を逆手にとって観光の目玉にしたのだ。だが私は直ぐに違和感を感じた。 <かまくらの中の水神様> なんだかどこにも「生活感」が漂ってないのだ。「ははあ。これは市の観光ではなく、ツーリストの企画だな」。ツアー客に雪国を感じてもらうためにセットしたイベント。そう思うと急に心が萎えた。 それでも来たからには、出来るだけ楽しむしかない。人間あきらめが肝心だ。かまくらの中から外を見るとこんな感じ。しかし「本物の雪祭り」は、どんな雰囲気なんだろうね。 慌てて「会場」へ入る。ここには移設した古民家が4棟あり、そのうちの1棟に集まるよう添乗員から指示されていたのだ。あれまあ。すっかり家の周囲を萱で雪囲いし、入り口には松飾まであった。そうか。これが昔の雪国の様子なのだろう。 玄関の前には注連飾り。そうか。新年は年神様をお迎えする大事な年中行事だもんねえ。 家に入って素早く周囲を見渡すと、立派な注連縄を飾った神棚が見えた。 囲炉裏にはこんなものが突き刺さっていた。秋田名物の「きりたんぽ」に味噌を付けた「味噌たんぽ」。遅れた私は最後に残った1本をもらって食べた。熱々の味噌が単純だが、意外と美味しい。関東から来た別のグループは、「納豆汁」だったようだ。俳句では冬の季語だが、どんな味だったのだろうね。 間もなく「餅つき」が始まった。恐らくは予めツーリストから依頼された地元の方なのだろう。それにしても目の前で餅つきなんて、60年ぶりくらいに見る光景。 搗きたての餅を丸めて「餡子餅」と「黄粉餅」に。それがトレーに入れて配られた。柔らかくて美味しいねえ。さっき「味噌たんぽ」を食べたばかりなのにドンドン入る。これが「別腹」と言うヤツか。「お代わりをどうぞ」の声に甘えて、再び餡子と黄粉をいただく。う~む、極楽極楽。 口の周りをベロで舐め、次なる古民家へ移動。囲炉裏の前には「座敷わらし」ならぬ、1人の老婆、いや失礼老婦人がちょこんと座って待っていた。図々しくも、私はその前に出て行き、囲炉裏の傍に座った。これがまた暖かくて気持ちが良い。そうそう、満腹もしていたしね。 お婆さん、いや老婦人が秋田弁で語り始めたのは民話。最初は「三枚の御札」と言う古典的なもの。これは「まんが昔話」で知っていた。もう1篇は笹の葉の表がツルツルなのに、裏側はなぜザラザラしてるのかというお話。秋田弁は結構聞きづらいのだが、とても優しい語り口で良く理解出来た。 このイベントは最終日の最後のもの。これから仙台に帰るのだけど、まだ薄暮にもなっていない。それでもスケジュール通りの進行で、蝋燭に火を灯す私たち。 まだ明るいので、見え方は今一状態だったが。 たとえツーリストが予め準備したイベントでも、薄暮であっても文句は言えない。 こうしてツアーの全行程は無事終わり、この後バスは一路仙台へと向かった。 ところで私が出遅れたのは、近隣の資料館を訪れていたため。地元の歴史や民俗資料が展示されていた。源氏と岩手の古代豪族安部氏が戦ったのが「前九年の役」。源氏と安部氏の連合軍が秋田の清原氏と戦ったのが「後三年の役」。少しは歴史の勉強になったかも。写真は秋田の地方通信社「たいまつ社」代表むのたけし氏の書。彼の個性が良く表れた書体だった。<不定期に続く>
2019.03.13
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~わが一人暮らしの記~ ピンポーン!チャイムが鳴ったので玄関に行くと、美人が立っていた。一体何だろう。ひょっとして宗教関係者かな。差し出した名刺には住宅メーカーの社員とあった。我が家を建てた会社だ。最近は「無料で家の評価をします」とのハガキが頻繁に届く。いつも無視だ。極力元気でこの家に住み続ける積り。その方が経済的なのだ。それにリフォームなど、投資もしてるしね。 郵便局で自動振り込みの手続きをして来た。近々後期高齢者になるので、保険料引き去りの手続きを改めてする必要があるらしい。届け出の印鑑は持参したのでOK。幾つもあると間違えるため、数年前に銀行員を統一したはずだった。ついでにどれだけの金額を預金可能か尋ねたら、答えは1300万円。そのうちまとめてしまおうか。後日、その金額が来月から倍になるとニュースで聞いた。 最寄りの農協で火災保険の手続きをして来た。2年前にそれ以前のを解約して1年ごとの掛け捨てにしたのだ。残りの人生やいつまでこの家に住むかを考えたら、掛け捨てで良いと判断。ただし地震保険が無くなるが、あの大震災に耐えたのだから今後も何年かは大丈夫。契約を終えたので、現在の書類を捨てたが、新契約までまだ間があった。継続扱いとは思うのだが、火事には十分気を付けよう。 先日の土曜日、気温が16度まで上がると聞いて朝から頑張った。洗濯もの、布団干し、玄関、ガレージ、ベランダの掃き掃除。それから買い物へ。資源ゴミもまとめておいた。午後から洗濯ものなどを取り込み、裏庭へ。畑の野菜くずや剪定した木の枝を積んでいたのだが、その山があまりにも高くなったために、整理しようとしたのだ。山を崩して中から木の枝を取り出す。まあ、出るは出るは。 中でもユズの枝が厄介者。鋭い棘が何本も出ているので要注意。その棘を鋏で丁寧に切り落とす。ゴミ収集の人が怪我しないためだが、その作業中に何度も手を刺す。これがまた痛いのなんの。縛った束は2日間で7束になった。底に残った腐葉土で新しい畑を作り、ブロッコリーの苗を全て抜き、改めて積み直した。玉ねぎの苗には追肥。間もなくジャガイモの植え付けだ。 先だってまでヒヨドリが裏庭で煩かった。どうやらアオキの実を啄んでいたようだ。その前はブロッコリーの葉をがギザギザになるまで食いちぎっていた。その声が最近は聞こえない。このところ急に暖かくなって、彼らも食べ物に不自由しなくなったのだろう。そして私もどうやらこの冬を何とか乗り切って、間もなく後期高齢者の仲間入り。今年も元気で畑仕事をしないとね。
2019.03.12
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~復興に向けて~ 2011年3月11日(金)の午後2時46分。大地は激動し、家も電線も揺れに揺れた。噴き出す地下水。道路には亀裂が入り、ビルは倒壊した。それから何分か後に、どす黒い津波が東北の太平洋側を襲った。特にリアス式の三陸海岸では未曽有の大被害が生じ、福島原発の数基が最終的にメルトダウンした。逃げ惑う人々。津波に飲まれた人々。そして故郷を失った多くの人々。 あれから今日でまる8年。今再び宮城県沖での大地震が予測されている。今後30年以内に、M7の地震が発生する確率は90%以上だそうだ。福島原発に近い大熊町は、全員が強制的に避難させられた。走友Yさんの故郷だ。彼の家族は会津若松に避難し、その間に父親が亡くなった由。今は同じ福島県の郡山に家を建て、やがては彼もその家に帰ると話していた。 震災後JR常磐線は内陸寄りに軌道を変え、駅も新しい場所に出来た。何せ常磐線は原発の直ぐ傍を通るのだ。さらに安全が確認されるまでは全線開通とは行かないだろう。先日大熊町にも帰宅可能地域を設定する由。そのため町役場をかなり山の方へ移動した。それでも果たして帰郷する住民はどれくらいいるのだろう。果たして働く場があるのか。店や病院はあるのだろうか。 大地震当日に起きた黒い津波の実態が分かり始めた。猛烈な津波が狭い湾内の海底を削り、底に溜まったヘドロや油や重金属を巻き込んで黒い凶器になった由。重さが20%ほど増して破壊力が加速され、浮力も強まった。そして強い「引き波」も加わって家やビルが簡単に浮き上がって流されたそうだ。その汚れた海水を飲んで、窒息した犠牲者も多いと考えられるそうだ。泥水が肺に入ったら助からないと聞く。 「三陸道」が9割方完成した。「釜石道」はようやく貫通。だが防潮堤が未だに工事中の市町村も多く、高台に避難した住宅地の造成も全てが完成した訳ではない。40年来の念願だった気仙沼湾の大島への架橋が間もなく完成する。こんな大きな被害が起き、ようやく政府も重い腰を上げたのだ。沖縄の離島のほとんどに、あっという間に橋が架かったのとはえらい違いだ。 宮城県内では、「災害科」を設置した高校もある。海岸沿いの県道では「かさ上げ工事」が進み。海沿いには公園を兼ねた「避難所」が整備された。その一方で住むことを許されない地区もあり、小中学校の幾つかが廃校になった。まさに故郷の消滅だ。「震災」のシンボルとして残された建物は10以上に上るはずだ。だが、浜辺の松原はいつになったら元通り蘇るのだろう。 停電が4日間。給水停止が1週間。そしてガスの供給停止が35日間。それがあの時の我が家。その間の入浴はたったの3回。その時入れた近所の温泉で、隣り合った人がガタガタ震えていた。石巻市で津波に飲まれ、辛うじて助かって避難所を転々とした由。その恐怖が忘れられないと話していた。浮いていたペットボトルを飲んだら油の味がしたとも。あの彼はその後元気になったのだろうか。 あの大震災で家を失った人。家族を失った人。故郷を失った人。借金をし、生きる希望を失った人。思い出を失った人。記憶を失い、病気になった人。運命は過酷で、様々な試練を神は与えた。私はその数年後に家庭を失った。前妻が大金を持って家を出て行ったのだ。それでも生きている分、まだ良い。今も太平洋の海底には、たくさんの瓦礫と身元不明の白骨が累々と横たわっているのだ。 あれから8年。今もなお苦しむ多くの人がいる。仮設住宅住まいの人。被災した自宅で暮らす人。見知らぬ街へ転居した人。入院中の人や施設に入った人。それでも少しずつ漁獲量は戻り、作物の収穫も増え始めた。中には震災を知らない幼子もいる。そして間もなく平成の御代にも幕が下りる。くよくよばかりはしていられない。災害列島日本に住むなら、覚悟がなくちゃね。犠牲者のご冥福を祈り合掌。
2019.03.11
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~少しずつ春の花が~ フユシラズ 2月22日に庭で(以下同じ) 秋に咲いていた椿がまた咲き始めました。 裏庭のフキノトウですが、今頃はもっと開いているかも。 オオイヌノフグリ。2月23日、近所を散歩中に(以下同じ) 枯れ草が邪魔をしています。 クロッカス。 同日小川の土手の花壇で。 黄色いのも咲いていました。 この小さな花壇。お世話をしていたお婆さんが引っ越して、今は勝手に咲いています。 3月7日。もしかして咲いているかと思い、見に行った紅梅でしたが。 この梅が近所では一番先に咲くのです。 やっぱり咲いてましたねえ。それどころか既に枯れた花も。 白梅で咲いてるのは見かけません。我が家のもまだ蕾です。 ここからは少し曇った時間帯に撮ったもの。 曇ったり、日が陰ると折角の色が冴えませんね。<不定期に続く>
2019.03.10
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~大館・あめっこ市~ 今日は大館市の「あめっこ市」を紹介します。大館市は秋田県内でも最北端(地図の赤丸)にあり、北隣は青森県です。少し前にはここが「秋田犬」の故郷で、比内地鶏(ひないじどり)が名産であることを記しました。「あめっこ市」は厳冬期の2月に、大館中心街で繰り広げられるお祭りです。 ここが大館の街中。私は2度この市に来たことがありました。最初は「秋田内陸ウルトラマラソン」の帰り道。ゴールの鷹巣(現在は北秋田市)に泊まり、翌日大館から仙台へバスで帰ったのでした。2度目は数年前の1人旅。途中お金が足らなくなり、JR大館駅での乗り継ぎの際に、改札から出てコンビニでお金を下ろしたのでした。 中心街にはこんな飾りつけがしてありました。「餅玉」(もちだま)と言う旧正月を祝うものですが、所によっては繭玉(まゆだま)などとも言いますね。こんなのを見ると心が華やぎます。 このお祭りには次のような言い伝えがあるそうです。あるところに貧乏な一家があって、母親が病気で臥せっていた。それを何とかしようとした娘が「あめ」を作って売り、それで薬を買ったと。 いつ頃の話かも分かりませんが、その頃「あめ」の原料を手に入れることは難しかったはず。まして貧しい一家ならねえ。まあそこは深く追求せずに、「市」の雰囲気を楽しむことにしましょう。 こうして見ると、元々は農民たちが物を持ち寄って売り買いした市だったようにも感じますね。 ほらね。色んな種類のあめがあるでしょ?大館の「あめっこ市」の日、隣町では「餅っこ市」と言うのを開くそうです。大館に来た観光客の足を、自分の町にも向けようと言う作戦みたいです。ちゃっかりしてますなあ、実に。 店先の様子も、しっかり撮らせてもらいました。 あめだけじゃなく、色んなお店も出てましたよ。ここは餃子屋さんですって。 ビニール袋に入っているのでちょっと分かりにくいけど、これはハタハタの「なれ寿司」。発酵させたご飯に漬け込んで作るんです。琵琶湖の「鮒寿司」が有名かな。北海道では「飯(い)寿司」と言うそうです。私は鮭とハタハタの両方を買いました。それぞれ千円。ハタハタ20匹ほど、鮭は13切れほど入ってました。そしてとっても美味でした。 通りの突き当りには臨時のお宮さんが設営されていました。 大変な賑わいの中を、徐々にそちらへ近づきます。 参拝される善男善女の皆さん。 最後に縁起物の餅玉を再び。これで大館の「あめっこ市」を終わります。<不定期に続く>
2019.03.09
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~維新前夜を読み解く~ 司馬遼太郎著『竜馬がゆく』全8巻文春文庫を読了した。4か月もかかったが、全く飽きることはなかった。この原作を元にした大河ドラマも放送された頃、私は別な歴史小説を読んでいた。いずれも埼玉県のブロ友Cさんから譲ってもらったものだ。それをなぜ今頃になって読んだのかは触れないが、やはり今で良かったと感じた。本の内容を受け入れるだけの素養がようやく備わっていたと思うからだ。 大黒屋光(幸)太夫(左) 元々日本の古代史や考古学関係の専門書ばかり読んでいた私が幕末期に魅せられたのは、吉村昭著の『大黒屋光太夫』を読んでから。伊勢国白子(現在の鈴鹿市)の船頭であった光太夫の乗った廻船が、難破して漂着した先がロシアのアリューシャン列島。帝都サンクトペテルブルクの女帝エカテリーナに日本への帰国を願い出、根室に帰るまでの10年間の苦労と当時の国際情勢が手に取るように分かった。 楠本イネと娘高子 日本初の女医、楠本イネの生涯を描いた吉村昭の『ふぉん・しいほるとの娘』も名著だった。日本への研究心に満ちたシーボルトの実態。日本人妻お滝との間に生まれたイネ。外国勢に開国を迫られる幕末日本の動転ぶりと各藩の動き。その中でのシーボルトの国禁騒動と追放。唯一外国に開かれた港町長崎の姿。女医イネの誕生と苦労。イネの成長を通じて幕末と明治の日本、そして国際状況が学べた。 イギリスの外交官で後に枢密顧問官となったアーネスト・サトウの著『一外交官が見た明治維新』が実に秀逸。彼は幕末期の日本と日本人を冷静な目で観察していた。日本語を理解して候文も書け、各藩の主要人物と交わり、「生麦事件」にも遭遇。『竜馬がゆく』では2人が2度出会ったと書かれているが、実際はどうだったのだろう。明治には駐日公使として来日し、近代日本をつぶさに見ている。 歴史小説は歴史そのものではないが、歴史の一面は捉えている。迫り来る先進国の脅威と各藩の激しい動き。竜馬の脱藩からその死に至るまで、動乱の日本が余すところなく描かれた小説だった。原作は昭和37年から41年にかけて産経新聞夕刊に連載された。これによって竜馬の考え方と生きざまが、あまねく世に認知されたようだ。大河ドラマの脚本もこれに拠ったようだ。 激しく変動する日本と諸外国の動静。慌てふためく各藩の対応。元寇などそれまでも国難はあったが、過去最大の国難が日本に迫っていた。水戸藩、土佐藩、長州藩などでは藩士同士が殺し合い、薩摩と長州では外国船を砲撃して戦争にもなった。それ以前の啓蒙思想家に対する厳罰と安政の大獄。そして戊辰戦争で国内が真っ二つに割れ、新政府誕生後も西南の役などの混乱。(写真は左から岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作) 大城立裕の『小説琉球処分』にはペリーの黒船来航と沖縄が日本に組み込まれる過程が描かれている。だがそこには列強の侵略を乗り切った「内地」の苦難と流血は存在しない。国際認識が違っていたし人物もいなかった。それは現在も同様に思える。島の利益だけ考えていたら、いつかとんでもない事態を迎えるのではないか。『竜馬がゆく』は独創力、判断力と、先を見る目の大切さを教えてくれたように思う。
2019.03.08
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~なまはげ太鼓集団・恩荷(おんが)~ 今日ご紹介するのは男鹿市(男鹿半島赤丸がついた箇所)のなまはげ太鼓集団「恩荷」(おんが)です。実は旅の初日の一番目に向かったのがここでした。男鹿半島の北(上)側の海岸にほど近い場所。確か「男鹿温泉郷」の一角の小さなホールに案内されたのですよ。へえ~っ。太鼓の演奏ねえ。一体どんなものなのだろう。私は極力前の席に陣取りました。出来るだけ良い写真を撮りたかったものですからね。 私たちにこのなまはげ太鼓集団「恩荷」のことを説明してくれたのが、この女性。メンバーで唯一鬼の面をつけずに演奏していました。どうやらなまはげ太鼓の演奏グループは幾つかあるようで、その夜の「なまはげ柴灯(せど)まつり」でも太鼓の演奏があるようです。きっと日ごろから厳しい練習をしれいるのでしょうね。それは激しい演奏を見れば分かります。では、張り切ってどうぞ。 客席の後ろから3人のなまはげが登場します。本物のなまはげは、藁(わら)の装束を身に着けているそうですが、それだと演奏が出来ないため、軽い毛糸の装束にしているとか。それにしても迫力がありますねえ。 いよいよなまはげ太鼓の演奏が始まります。力強いばちさばきとパフォーマンスに圧倒されます。 女性の方も負けてはいませんよ。堂々たる演奏。たくましいエネルギー。まさに女丈夫です。 実は秋田の男鹿半島だけでなく、かつて佐渡島にも「鬼太鼓(おんでこ)座」と言う集団がありました。ランニングなどを交えた訓練を重ね、演奏の場を世界へと広げて行ったのです。その後確か「鼓童」(こどう)と名前を変えたようですが。 それにしても「恩荷」(おんが)とは何なのでしょう。実はこの辺りを根拠地にしていた古代の蝦夷(えみし)の名前が恩荷だったのです。地元民は「おが」と言った積りが都の人には「おんが」と訛って聞こえ、それに充てた漢字が恩荷だったと私は推察しているのですがね。 「それにしても、よくそんな名前を付けたものだ」。私は感心しました。何せここ秋田は古代阿倍比羅夫が蝦夷を征伐した地。その征伐された蝦夷の名である「恩荷」を集団の名前にしたのですから、東北人の意地を感じた次第。 そしてもう一つの思い出。それは数年前、仙台近郊の「国立みちのく杜の湖畔公園」の催しの際に、確かなまはげ太鼓の演奏を見たことがあるのです。無理やり前へ行って写真を撮っていたら、係の人に注意されて建物から出されたことがありました。まあ十分撮った後でしたがね。 そんなわけで、懐かしい気分になった私でした。 この後、彼らは仮面と衣装を脱いでアンコールに応えます。それが3人ともすらりとした体格の青年ばかり。きっと激しい稽古で、無駄な体脂肪が一切ないのでしょうねえ。それは見事な肉体でした。 さらに驚くことには、この激しいパフォーマンスを、その夜に行われる「なまはげ柴灯まつり」で披露することです。その圧倒的な体力に万雷の拍手。こうして今回の秋田の旅は、強い感動から始まったのでした。<不定期に続く>
2019.03.07
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~西木町上桧木内の紙風船上げ(2)~ この紙風船上げが平賀源内から教わったものと聞いたら驚くでしょうか。発明家の平賀源内は秋田藩主佐竹公の招きにより来秋し、藩内の鉱山開発の指導をしたとか。その帰路西木に立ち寄って、部落の人々にこの遊びを伝えたと言う伝説があるのです。 これは熱気球の原理と一緒です。以前は習字用の半紙を張り合わせて作っていたそうですが、最近では次第に巨大化して幅1mの業務用和紙を使用しています。紙風船の大きさは3mから12mまでになった由。 本来は正月の行事として、「どんど祭り」や「虫焼き」と共に行われていたようです。現在は寒さが最も厳しい2月に開催する由。これは墜落して焼けても、周囲に深い雪があれば安全と考えたようです。 風船の下部には直径1mから3mの竹の輪を取り付け、タンポ(石油を沁み込ませた布玉)を固定して火を付けます。やがて風船内の空気が熱で膨張し、揚力を得た風船が空に舞い上がると言う原理です。ひょっとして巨大な物には、揚力を上げるためガスバーナーが使用されているかも知れませんが。 戦争中には中断されていたこの伝統行事を復活したのは昭和49年(1974年)のこと。そして復活させたのは村の青年だった由。それが今では立派な観光事業となりました。 UFOではありません。全部紙風船です。中には墜落して燃えたものもありました。 寒い中ずっと立って見ていたのですが、最後は花火が上がりました。 花火と紙風船のコラボレーションを必死に追いかけたのですが、出来栄えはどうかな。 これなんか、まあまあの出来でしょ? 実はこの旧西木村も私にとっては思い出の地。「秋田内陸ウルトラマラソン」100kmの部は早朝に角館をスタートし、一路北へと向かうのですが、この桧木内集落はコースの途中にあるのです。20km地点くらいだったかな。細長くてどこまでも続く西木村には苦労したものです。これで2回に亘った紙風船上げは終わり、次は別な行事を紹介しますね。<続く>*今朝は未明の予約時間に更新されておらず、朝慌てて公開した次第。初めての珍事です。
2019.03.06
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~西木町上桧木内の紙風船上げ~ 秋田県の地図の赤丸がついたところが仙北市。旧角館町などが合併して出来た市です。そこに西木(にしき)町と言う地域があります。元の名は西木村。その集落の一つに上桧木内(かみひのきない)と言うのがあります。「ない」と言うのはアイヌ語で「沢」の意味。この辺にはかなりアイヌ語の地名が残っています。マタギ(狩猟をする人)の言葉にも、アイヌ語が残っているとされています。 ここであるお祭りを見て来ました。「冬祭り」とありますが、さてどんなのでしょうね。 んんん?看板に「紙風船上げ」とありますねえ。変だなあ、夜なのにねえ。 ほらほら、これが紙風船なの。テントに比べたらどれだけ巨大か分かるでしょ? この紙風船には浮世絵みいたいなのが描かれていますねえ。 左の紙風船には雷神が描かれていますが、右の紙風船には赤ちゃんの名前が書かれてますよ。 左は「夢」で右は「家内安全」ですか。中には青年団の名前や会社の宣伝もありましたよ。 役者絵に美人画ですか。なかなか優雅ですねえ。 蔵の絵に武者絵。デザインも様々なんですねえ。 一斉に飛ばされた様子をプロのカメラマンが撮った写真で。<明日に続きます。>
2019.03.05
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~ハノイの2人~ トランプさんは静かにハノイに来、かつ慌ただしくハノイを去って行った。2回目の米朝首脳会談。ハノイを希望したのは北朝鮮だった由。金正恩氏はピョンヤンからベトナムまで列車でやって来た。会談の決裂後も直ぐに帰国せず、ベトナム首脳に謝意を示した。帰路は北京に立ち寄る可能性もあるそうだ。今回の4500kmもの列車での長旅は、祖父金日成の故事を見倣ったとも言われる。 会議直前のトランプさんにはとても余裕があって、「私たちは急がない」と重ねて表明した。これに対し若いエリンギは「私たちには時間がない」と焦り気味で、表情に落ち着きがなかった。あの時から腹の探り合いが始まっていたのだろうが、結果を知ればトランプ氏の落ち着いた態度にも納得が行く。 <ベトナムの国花であるハスと地図> 両国が事前協議したわりには齟齬が目立った。まず米国の「報道センター」が会談当日になって急にホテルから追い出された。そこは北朝鮮ご一行様のお宿だったのだ。次の齟齬は2日目のランチミーティングと共同発表が、突然中止されたこと。会談の決裂にはビックリ。世界中の誰もが唖然としたことだろう。ひょっとして驚かなかったのは、米国サイドだけだったかも。 今回トランプ氏は苦戦したのではないか。かつての個人弁護士であるマイケル・コーエン氏の公聴会が、当日議会で開催されたのだ。例の「ロシア疑惑」や過去のセクハラのもみ消し疑惑だ。コーエン氏の証言の模様は、ハノイの2人も確認していたみたいだ。トランプ氏は「これではうかつな決着は出来ない」と判断し、一方エリンギ君は「相手には弱みがある」と、多少楽観視していたはずだ。 彼が今回旅立つ際は「捕らぬ狸」を思ってたのか、珍しくオープンな報道だった。交渉にかなりの自信があった証拠だろう。一方トランプ氏は議会対策や中国との貿易戦争、IT企業ファーウェー幹部拘束への対応など難問が山積していたこともあり、北朝鮮の要求を飲む確率がかなり高いと予測されていた。 だが土俵際でうっちゃった背景には、ポンペイオ国務長官らの懸命な説得があったと聞く。ここで安易な妥協をすれば多少の成果は得られても、北朝鮮の核の危険性は未来永劫解決しないと。その北朝鮮は寧辺(ニョンピョン)の核施設閉鎖などを提案し、その見返りに経済制裁の解除を求めたようだ。だがそれくらいの譲歩で引き下がるトランプ氏ではなく、即座に席を立った。役者が一枚上だった。 アメリカは偵察衛星などで、北朝鮮国内の核施設や実験施設を確実に掌握していた。会談ではそれをほのめかし、外国による査察検証及び施設の破壊を求めたと言われる。ミサイル発射と核実験休止はこれまで通り約束済み。このまま経済制裁を続ければ北朝鮮はさらに窮すると読んでいた。「我々は急がない」と重ねて強調したのは、そう言う意味だったのだ。 これにはエリンギ君も参った。今回はかなりの「戦利」が得られると読み、意気揚々と国を出て来たのに、手ぶらで帰国する惨めさ。途中、中国には何と説明するのか。さて、北朝鮮国内で今後どのような報道がなされ、国民がどう落胆するかが見もの。「あれがトランプ氏一流の駆け引きか」と、エリンギ君は改めて自分の若さを認識したのではないか。 今回の結果に一番ショックを受けたのは文大統領ではないか。何せ南北融和と経済援助を勝手に演出・推進していたのだから、韓国の株価が急降下したのも当然だ。また日米の結束の固さにも青ざめたはず。「独立100周年」も失速した。背筋がゾーっとしたのは習さんも一緒。トランプ氏の本気度を、今回改めて感じたはずだ。90日間猶予されていた貿易と関税に関する3度目の交渉が間もなく始まる。 会談前の2人 安倍総理は帰国中の大統領専用機の中から、会談結果の報告を受けた。北朝鮮の経済発展には日本との講和と拉致被害者の解放が欠かせないとエリンギ君を2度説得したことも。北朝鮮の核放棄問題は五里霧中。解決への道のりは遥かに遠く、我が国もその影響を受け続ける。間もなく貿易と関税に関する米国との協議が始まる。国会議員には国際情勢に目を向け、高い見地からの審議を望みたい。
2019.03.04
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旅先で見たひな人形 今日3月3日は桃の節句のひな祭り。折角なので旅先で撮ったお雛様の写真を載せることにしましょう。その代わり、詳しい説明はありませんけどね。 山形県上山市のこんにゃく料理店で見たひな人形です。(以下同様) 秋田県男鹿市で見た壁掛けです。 大仙市大曲の酒蔵に飾られていたひな人形。(以下同様) 生地に織り込まれたおひな様 吊るしびな。吊るし飾りとも言いますね。 「押絵」のおひな様とは珍しい。 こちらも押絵なのでしょうね、きっと。 こちらは小ぶりなセットでした。 内裏様の後ろの金屏風も少し古めかしい雰囲気です。 上のものをアップしてみました。 こちらは端午の節句の押絵かもね。 優雅な「立ちびな」の飾り物ですね。 お内裏様のセット(上)と右大臣(下左)と左大臣(下右)。 老舗の酒蔵の扉の前に並んだおひな様。貫禄がありますねえ。 横手市の古民家にて。 大仙市角館(角館駅)の武家屋敷にて。(以下同様) 五人囃子の一部みたいですね。 最後は角館の観光ポスターから気品のある姫君のお顔。ひょっとして「大名雛」かもね。 <不定期に続く>
2019.03.03
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~朝鮮史と周辺諸国~ 「加害者と被害者の立場は千年経っても変わらない」と言った女性大統領がいた。「盗人猛々しい」と言い、天皇陛下の謝罪を要求した国会議長がいた。レーダー照射は実在せず、事実に反する従軍慰安婦を叫び、徴用工裁判を強行する国。数百人の高校生が溺死した「セォル号事件」はうやむやになり、大統領が辞職後に逮捕されるのはごく当たり前。あの国は赤化へ一直線に向かっているとしか思えない。 <中国、日本、朝鮮の時代区分対比図 その1> そこで朝鮮半島の歴史と、民族の特性に関心を持った次第。箕氏朝鮮及び扶余は中国がつけた名前で、韓民族ではないようだ。韓国はその存在を認めず、「檀君神話」を創作して歴史を6千年ほど遡らせたが、周囲の国は無視してるようだ。 <4世紀ころの朝鮮半島> 高句麗は満州族(騎馬民族)の国。このため中国は中国史に含めると主張し、韓国は反論している。楽浪郡、帯方郡は中国の管轄地。馬韓、弁韓、辰韓は韓人が住み農業に従事。弁韓には倭人が多数住み、後に倭国の朝鮮半島の根拠地になる。濊(わい)は本来北方の民。糞尿の意味で中国が付けた蔑称。なお倭は小人の意味。背が小さかったことから日本人をそう呼んだ。 <6世紀頃の朝鮮半島> 漢に進貢した倭の奴国は皇帝から金印を授かる。だが属国扱いの高句麗、新羅、百済は小ぶりの銅印しか下されない。隋の時代半島で動乱が生じる。隋は隣接する高句麗を滅ぼすため新羅と手を結ぶ。だが新羅は出兵中に百済に襲撃されることを恐れ、まず百済を滅ぼすことを提案し隋は了承。驚いた百済は倭国に援軍を求める。だが白村江の戦いで大敗し百済は滅びる。新羅は高句麗を破り、半島を統一する。 <月桂洞2号墳> <三国史記> 時代が前後するが、近年韓国で前方後円墳が発見された。韓国人は大いに喜び、「それ見ろ。前方後円墳は朝鮮半島から日本へ伝えたのだ」と主張。ところが発掘調査の結果、我が国の前期の物より2世紀ほど新しいことが分かると口をつぐんだ。かつて倭国の軍が侵攻したことを記した「好太王の碑文」を改ざんした手口同様、10数基発見された前方後円墳の中にはその後変形されたものがあるようだ。 <歴史年表の続き> 明治時代、朝鮮半島に大韓帝国が誕生する。これは日清戦争で日本が勝利した結果、清国に朝鮮の独立を認めさせて出来た国家。それ以前は約2千年ほど中国の属国か、もしくは直轄地だった朝鮮。だからソウルにあった「独立門」は中国からの独立を意味するもので、日本からではないのだ。それまでは地方の王扱いだった朝鮮半島の国々。日本はとっくの昔に遣唐使を送るのを止め、法治国家になっていた。 <韓国の歴史ドラマ> <日本統治以前のソウル風景> 韓国の歴史ドラマを観ると、その艶やかさに驚かされる。だがそれらのほとんどは虚構。当時の李氏朝鮮は明や清に従属し、産業はほとんどない。儒教を重んじ、物作りを蔑視したのだ。だから針一本作れなかったのが真相。中国への進貢は人。数年ごとに美女を中国皇帝に差し出し、男は宦官となる運命。 右は日本併合以前の風景。都の南大門の真ん前に立ち並ぶ民家。色鮮やかな染料が日本から届いたのは併合以降。ハングルの復活も小学校を数多く建てたのも日本。それで識字率が10台%から60%に上がった。日本の統治下に入った朝鮮では不潔な環境が一掃され、人口が倍増している。日本は国家予算の2年分を朝鮮の振興に充当した。搾取どころではないのだ。その真実すら国民に隠している韓国。 <韓国の国花 ムクゲ> <日本の国花 桜> 以下は韓国の逸話。「お前は泥棒だ」と訴える者があったら、逆に「お前こそ泥棒だ」と言い返すそうだ。それが韓国式の論法。正しいか正しくないかは問題じゃない。大きな身振りで怒鳴り合い、怯んだ方が負けと言う論理に驚くが、それが実態ならばこれまでの疑問が解ける。恥を知る日本人とは精神構造も文化も異なるようだ。どれだけ意を尽くしても、これでは彼の国には通じまい。 <済州島の石像トルハンバン> 以下は韓国済州島の伝説。かつて独身の3男神が寂しく暮らしていた。それがある時、船に乗って3人の女神が島にやって来たと。3組の男女神は結婚し、島は栄えたと言う。この島は一時モンゴルの直轄地になったり、李氏王朝時代は罪人の流刑地になるなど悲惨な歴史があるのだが、世界でこの島と日本にだけ海女がいると言う不思議さ。娘3人は宗像大社の3女神か。石像が明日香村のものにそっくりだ。 実は朝鮮の正史である「三国史記」(写真掲載済)には、倭人が百済と新羅の王になったことが明記されているようだが、南北はその事実を隠匿している。 <日本書紀> <古事記> 韓国、朝鮮が否定する任那の日本府の存在と、半島における日本人の活動ぶりが古事記や日本書紀には事細かく記されている。一方韓国の歴史学者は真実を書くことが許されず、書けば学会と社会から白眼視されるそうだ。あの民族は古来どの大国に付いたら得かを第一に考え、自国の内乱さえ外国に鎮圧を依頼し続けた変節の歴史がある。そしてこれからも歴史のねつ造を続けるのだろう。 国会議長の暴言をきっかけに調べ始めた朝鮮の歴史だが、国家成立当初から今日に至るまで常に「虎の威を借るキツネであることが分かった。平気で嘘をつくのは民族の習性で、生き残るための「知恵」だったのだ。南北朝鮮は今後統一に向かうのか。それともまだしばらく混沌の時を過ごすのか。どちらにしても「コウモリ外交」では世界の信頼を得られまい。多くの政治難民が生まれないことを祈っている。
2019.03.02
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~日本と中国~ <はやぶさ2と小惑星リュウグウ> 日本の探査ロケット「はやぶさ2号」が小惑星リュウグウへ無事着陸した。リュウグウの直径は約600mで地球からの距離は3億4千万km。地球と火星の間を楕円形の軌道で回っている。ほとんど平らな場所がないため着陸出来ず、JAXAでは作戦を立て直していた由。ようやく見つけたのが直径6mの平地。はやぶさ2号がギリギリ着陸出来るスペース。地表下の鉱物を採取するのが今後の使命だ。 辺野古基地埋め立て問題に関する県民投票が沖縄県で実施された。反対の意見が有権者の25%以上に達したため、県知事は今後条例に従って安倍総理と米国政府に、沖縄県民の意思を伝える由。今回の投票には試行錯誤があり、賛成、反対の他、選択肢に「どちらでもない」を加えることでようやく全市町村が実施に踏み切ったとか。この結果に関わらず、政府は埋め立てを進める意向のようだ。 ある識者は言う。選択肢が「辺野古移転」、「普天間基地残留」、「移転先は県外が希望だが話し合いが着くまでの間は普天間残留」の3つだったらどうかと。もっともな意見だが、玉城県知事がそんな項目を考える訳がない。内蒙古、チベット、東ウイグルを略奪し国土を2倍以上に広げた中国。今も反対する少数民族を虐殺し続けている中国。その本質を沖縄県民を含めた国民が再認識すべきと思うのだが。 <在位30年記念硬貨(左)と式典における両殿下> 先日催された天皇陛下在位30年記念式典における出来事に私は胸を打たれた。それは皇太子時代に初めて沖縄を訪れた際に詠まれた琉歌。訪問前、陛下は外間守善氏からこう忠告された由。「沖縄では何が起きても驚いてはいけません」。それに対して答えたのが「すべて受け入れます」の言葉。外間氏は当時法政大学沖縄文化研究所の所長で、沖縄学、沖縄文学の教授だったはず。 ユウナの花 御製琉歌の歌詞は以下の通り。 だんじよかれよしの歌声の響き 見送る笑顔目にど残る だんじよかれよしの歌や湧上がたん ゆうな咲きゆる島肝に残て 琉歌は8886の30音で成立する短詩。御製は琉球王朝時代の正しい表記法だが、実際の歌はうちなー口(琉球方言)で30音となる独特の歌。とうてい素人が作れる作品ではない。恐らく外間教授が添削されたのだろうが、それにしても見事な出来栄えで驚いた。 <熱唱する三浦大知さん(左)と玉城知事> 驚いたことにこの歌を曲にされたのが皇后陛下。この歌を両陛下の前で三浦大知さんが歌った。完璧な琉球音階、そして素晴らしい歌声。それは涙が流れるほどだった。沖縄で暮らした者にしか分からない感慨だろう。三浦さんのお父様は自衛官で、沖縄にも勤務したことがあるようだ。それで彼も沖縄出身としてるのだろう。 御製は沖縄の国立ハンセン病院を訪れて帰られる際に島の人々が歌った「だんじゅかりゆし」に感激して作られた由。奇遇だった。その病院は私の沖縄本島単独一周ランの最終年の走ったコースにあった。たまたま迷子になったのがその病院。普段は誰も行かない奥地だった。 <首里城「守礼門」の扁額> その前に両陛下が参拝された「ひめゆりの塔」の前で、暴漢が火炎瓶を投げた。妃殿下はとっさに陛下を庇ったが、陛下は顔色を変えられなかった由。そんな事件があったにも関わらず、見事な琉歌を作られた。きっと悲惨な歴史を重ねて来た県民への心からの償いと労りだったのだろう。陛下は「礼」を以て「礼」に応えた。 政治家は心して欲しい。決して困難な事態から逃げないよう。国を守るとはそう言うことだ。総理であろうが県知事であろうが、日本と言う国の将来を背負っているのだから。<続く>
2019.03.01
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