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孔子が、「過ちをみて、なおさざるのが、真の過ち」といったことは、前回書いた。この意を簡単に解説したい。 昔から、「過ちは2度と犯すな」という諺のような戒めがあるが、一度は本人の自覚もないまま、過ちを犯すことは日常的である。問題は、その過ちをいかに処理したかであり、処理法により善にも悪にもなるということだろう。人生のなかで、過ちはきっかけにすぎない。 「犬も歩けば棒に当たる」くらい、人間も生きてれば、様々な過ちにぶち当たる。それが苦であり、病であり、死であると説いたのが御釈迦さまである。この世にそれらの悪が存在する意味が、ここに見い出される。 「悪をみて、救わざることが、真の悪」と、御釈迦さまは言ったことだろう。親鸞聖人は、それを「善人もて往生を説く、況や悪人をや」といった悪人正機説で表した。 神秘学では、このことこそが、本来の生きる目的であり、自らの自我強化につながるとしている。善と悪を判断するべき意識は、その副産物にすぎない。 また更に、武士道を表す「義をみて立たざるは、勇なきなり」との格言も、上記を表現しているように思われる。儒学では、勇は三種の神器の草薙の剣にあたるとしていることも、前に書いた。 一体、勇気とはなんだろうか? 神秘学では、勇気は、意志の断念、諦めであるとしている。言葉では言い得ても、その行いは難し。自我のなかに溢れる欲求の衝動を抑えることこそ、生きていて困難なことはないだろう。自我故に自分に甘くなるのは誰もが有する性質だろう。 人間は、この世に祝福されて生まれてくる。愛情という甘さのなかで、人生の一歩を歩みだす。保護者が必要なのは、この生きることに対しての、まず甘さが必要だからである。それは、植物の種のなかにある生命の核が、内気から、殻を破って外気に向かう、いわば地の天に対する憧れと大地の温かい温もりを濃縮し縮約したものだともいえる。 生命のはじめには甘味が必要となってくる。茶道にはそれが見事に表現されているという。 大まかにいうと、はじめのお茶は苦味のなかにほんのり甘さが感じられ、それに馴れてくると、苦味のなかの辛さが感じられ、それが板につくと、渋みがでてくる。そして最後は水のように淡としてくる。これは、お茶が変化したのではなく、人間のなかの味覚が変化していった結果だといわれている。 「君子の交わりは淡として水のごとく」とあるように人間関係も練れてくると、淡き水の如くであるという意である。これは理解し易い言葉のように思えるが、実際、難解で奥深い。 実際、人間の成分の7割は水からなっているとされる。だから、人間関係は、水と水との付き合いともいえるだろう。人間関係の商売を水商売ともいう。水のなかでも純粋で、純度の高いものが、淡のような微細で繊細性をもつと同時に大胆で、光輝くかのごとく自然の水の如くで、生命的であるというわけなのである。淡は最高の水という意味である。仏教の微細身とも符合しそうなものだろうか? 仏陀は水星で象徴される。 清き水は汚れたものを洗い流すような救いの性質をもたらす。 エゴや情念、欲望が多いと、その水は濁ってくる。無色から有色になるわけで、そこに味が生まれてくる。無色が味がないかというとそうではない。光のようにあらゆる無限大の味があるが、それが偏向していないということであるようだ。 つまり全ての味を味わうことができるので、同時に全ての味を断念できるわけだ! あらゆることに精通し、知り尽くしたので、節度をもちえるということだ! とどのつまりは、あれもこれも味わいたいという欲がない。どんなものも味わえるという逆説を意味する。 その奥義に達するにはひたすら過ちを正していく作業の連続だということだろう。 神秘学では、人生のなかで、その奥義に達することができた人は、死後、モーセの十戒が、自らのなかで賛美歌のように鳴り響くという。そこに行き付かない者は、閻魔様にいままでの罪状を述べられるという。 なぜならば、人間はほとんど水でできているからである。神の光がそこに当たると、濁った分だけが、浄化せず自らの水のなかに残るわけだ! 人間という水は、天の雨が、地の天に近い山上の湖に降り、湖に宿り、そこから生まれ、山岳の川を流れ、やがて河口へと辿りつき、大海に注がれる。 大海で、浄化されないものは塩として残る。人生はよく塩の味に例えられる。甘塩は、浄化された辛い部分の名残りともいえるだろう。
2005年11月30日
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今日の夢は、ほとんど忘れてしまったが、あるお寺で修行をしていた夢だったように思える。どんな修行か、残念ながら忘れてしまったが、やはり瞑想のようなものだったように思える。 そんなわけで夢の話はできないが、一昨日から、小説家を目指している大学院時代の後輩の小説をもらい、読んでその小説の感想をやりとりした経緯を簡単に書きたい。小説の内容は、その後輩の高校時代に関わった演劇団の女友達らのエピソードのようなものである。 趣味で書く小説なら、まとまってはいるが、どこか芸術作品というよりも、理系出身ならではの観察日記といったものだったので、正直いうと、読むのに非常に苦痛を感じた。とどのつまり、小説家を目指す、人を惹きつけるような文体とは、程遠いと思ったので、結構厳しい感想をなるべくはっきりと述べた。 すると、その後輩は、それが自分に対する攻撃だと思われ、その小説の弁護的な説明をはじめ、私の感想が変わっていて、もっと文学的作品に精通すべきだといってきたので、閉口させられた。私だって一読者なんで、身近な一読者を感動させられないなら、とても疎遠な読者を感動させることはできないだろう。しかし、その意を納得させるのに、非常に苦労させられた。 趣味と仕事の間には、自分の殻という壁が存在するように思えた。小説家の卵という昔ながらの表現の意味がわかった気がした!
2005年11月30日
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人間は建物をみて、身体を構築すると、昨日書いた。現在、みているものは、明日の人間をつくるといってよいだろう。なぜなら、光がなんらかの反射をうけて、身体の中に取り込まれるものを、人間の精神はみているのだから。 手抜き工事をすれば、光を反射すべき物体が錯誤になるのだから、その錯誤の嘘の分、光は不完全となり、それをみるものに、錯誤の認識を与えるといってよい。つまり、手抜き工事の家に暮らすものは、光が不完全な分、道徳的生活において怠惰になるのだ! 建築物というのは人間の教育的意味においても、至上の芸術作品であるといえる。かって太古の建築者は、建築という意味を充分に理解していたので、建築という芸術作品をつくりあげ、そこに自らの魂の芸術作品という意味で、自らの名を刻みこんだ。 そして、人々はその建築物をみて、同時に教育をうけ、自らの身体をつくるための精神的生命体を強化したのである。だから現在のような、堕落した自我精神からくる、いわゆる精神病的疾患にかかる者は、ほとんど皆無だったのである。 ただし、精神病という言い方は本来ありえないのだが、精神が病むのではなく、その人の自我が弱まり、人間を形成する他の部分である感覚体、生命体、肉体を、操縦、制御できなくなることをいう。そして、他の心霊によりいわば乗っ取られる場合もある。霊学でいえば、これらはその自我の薄弱さに起因する。なにより日常の道徳的行為を行って、自我を強化しないといけない。自我というのは諸刃の剣なのである。 唯物論に染まった現代の建築家をみてみるがよい。彼らの身体自身が病んでいるばかりではなく、外見をとりつくらおうとばかりに、誤魔化し、内面が疎か、精神的空洞になっている。道徳精神はどこかに消えうせ、数字ばかり、当面の利益ばかりを追っかけ、競争に勤しむ悪魔が巣食っている。 恐らくこれらの建築家とはいえないガラクタ工作家(ガラクタならまだ無害だが、実は精神の破壊工作者)は、死んでも死に切れないばかりの地獄いきであろう。なぜなら、とても宇宙に受け入れがたい精神の持ち主なのだから。そして、住人の本来の自然な人間的成長や生命的進化をも奪った分をも背負わされ、次の転生にその責任を克服すべき厳しい救いの機会である宿命を運ばされる。転生の機会があればまだ救いがあるが。その機会もなければ、闇の中で独りで自分のなかの錯誤という悪魔に悩まされる魂となる。真の精神病というのは、このような悪魔に占有された自我の薄弱さをいうのである。 表面上精神疾患と思われている者にこそこの世での救いがある。この世で自我を強化することで太陽(日中)の覚醒意識を取り戻せるからである。社会的犯罪者が精神病を理由に、社会的犯罪をも自覚しないことこそ、宇宙への背徳行為なのである。この世の唯物論は、破産で数字上御破算になり、嘘もつけるが、背徳行為に破産など存在しない。なぜなら道徳行為こそが宇宙の原動力だからである。宇宙に存在するかぎり、それは免れない。悪魔でさえ、背負っている。 人々に苦痛を与えた分は、死んだ後にその苦痛をそのまま味わう羽目になる。だから犯罪は生きているうちに克服すべきなのである。生きている間が唯一の克服期間、懺悔の猶予期間なのである。 過ちをみて、改めないのが本来の過ちなのだと孔子もいっている。 現代人は心すべきである。あの世で鬘は通用しない。外見より中身を充実させることである。肉体という日中の乗り物は、精神を鍛える道具なのだ。精神は肉体から学ぶために、肉体には、前世において課題として残った、今生で学ぶべき課題が刻み込まれているのである。肉体を偽ることは、カンニングとして、落第するのと同じだ!
2005年11月29日
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今日の夢は、やはり鳶職にでもなったような、空中に浮かぶ巨大な建物の構造にいて、下の風景を眺めているようなものだった。高所恐怖症の私はそこが高いと思うだけで、怖くて、しっかりと下を眺めることはできなかったが、恐らく東京のような都市を眺めていたようだ。 よく鳶職の夢をみるが、寝ている間に、幽体離脱するとはいえ、あまりに鳶職の夢が多いのは、前世が鳶職関係だったのかもしれないが、極度の高所恐怖症なので、それは有り得ないだろう。その前世で落ちて死んだとすれば、高所恐怖症も考えられなくもないが、いつも、地に落ちる恐怖を感じるので、恐らく、この世に生まれるのが嫌だったのかもしれない。 そのような場面と、今度は今までに出会った人物と、学校のようなところで、合宿というか同窓会をやった夢をみた。顔馴染みなのだが、自ら声を掛けるのが気が引け、いろいろと巡っている間に、最も親しみ深い大学院時代の後輩が手招きしてくれた。 その後輩は、イギリス留学経験があるにも関わらず、職についてないと噂に聞いていたので、その隣に座って、現在の職を聞いてみたら、IT関係で働いているという。なんとかやっているんだなという感じがこみあげてきたところで目が覚めた。 この夢を見た要因は、一昨日に、大学院時代の先輩の結婚式の2次会の案内がきたからだと思われる。自分の過去を振り返ると、高校時代も、男子校の割りに面白かったが、大学院時代が、三流大学だが、一番面白かった。なにより色んな人物がいて、色々な価値観を知ることができたからである。 大学進学者には、できるだけ大きな大学にいって、狭く深く付き合うことをお奨めしたい。
2005年11月29日
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三種の神器とは、神道では、八咫鏡(ヤタノカガミ) 八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ) 草薙の剣(クサナギノツルギ) とされているものであるが、ウイキペディアを調べれば、儒学では、鏡は知、勾玉は仁、剣は勇というように、三種の神器は三徳を表わすと書かれてある。 神秘学によると、実は、人間には、この三種の神器が既に与えられているとされている。しかし、それはいまだ未熟の萌芽にすぎなく、神になるには、まだ未完成な程遠い代物であるとされる。いわば、三種の人器といってもよいであろう。 儒教は、上述のごとく、それを上手く表現しているように思う。神秘学で更に解説すると、鏡というのは、人間のこの物質的身体のことであり、そこに、神の光(精神)が、映るわけであり、自我は、身体を通して反射された神々の叡智(光)をみているとされる。 八咫鏡は、写しをそっくりそのまま改変することなしにつくらなければならないというのは、神々の光をそっくりそのまま映すことを意味しているのである。そのつくりは2羽の唐鳥等が描かれているというが、これは翼(精神)を表すものであると思われ、翼は、天使(神々)の象徴でもあり、肉体そのものよりもそこに宿る魂(精神)を模したものと思われる。 人間は、神々の光(叡智)を、何かの媒質、または反射したものを通して、間接的にみているわけであるが、その光(叡智)の間接的反映のしかたで、日常の感覚、意識が形成されるわけである。だからして、世の中に見るものから(いわゆる環境)、建築物等の創造を行う。 神々が命じたノアの箱舟とは、人間の将来(今)の肉体を形成するために、ノアへの人間の肉体の構築法の伝授でもあったのである。神秘学によると、アトランティス時代は、人間は肉体をもたずに、いまのような地というものもなく、いわば、水蒸気を多量に含んだ空中に浮いた存在でもあったようである。 アトランティスの大洪水は、月が地球から分離した為に、いまの地球ができるために起こった。人間は、船のようななんらかの囲いのなかで生活しなくてはいけなくなり、神々が、ノアにその構築法を命じたわけで、同時に将来の肉体に宿る魂の体験にも繋がるもとになったのである。聖書に書かれているその構築法の割合3対5対30は、船と肉体のその相似関係を表すということなのである。 人間は船の生活の時間が長くなり、その名残りとして、肉体の中で長く暮らすことに馴れた。それが現在の昼(日中)の覚醒意識へと繋がったのである。肉体(物質的身体)を使用することで、物質を分かつ知性を手に入れた。だから儒学では、鏡は知という表現をとったと考えられる。 しかし、人間は、神々の叡智(光)を反射する鏡(物質)のみに、囚われない意識を構築し、物質(鏡)を克服し、間接的な光を通して、直接の真の精神の鏡を魂につくりあげるべきであるというわけだ。唯物論では、鏡そのもの(肉体)を人間の存在として捉えてしまうが、それは錯誤であり、真の存在は、神々の叡智(光)にあるのだということなのである。物質的身体を克服すると、人間には、真の鏡である神器マナス=精神的自己を手に入れるといわれている。 神秘学によると、物質的身体は土星期に与えられ、土星期は黄道十二宮に取り巻かれていたので、12の部分にわかれるとされる。マナスを手に入れるには、黄道十二宮の叡智(光)を感じないとダメなのだろう。 八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ) は、儒学では仁とされる。孔子は仁とは礼儀であり習慣ともいっているが、「日(陽)」を表す八咫鏡に対して「月(陰)」であるとの対比の説もある。礼儀と習慣、陽と陰の現れるところはいわゆる2元性の開示でもある。これは、物質的身体(肉体)をつくる非物質体、いわゆる生命体、ファントム(物質体の設計図のようなもの)のことであると考えられる。 神秘学では、生命体は、繰り返しで成り立つとされている。科学で言えば、カオス力学のパンコネ変換によるフラクタル構造の作製であろう。科学だとあまりに抽象的なので、生命力が失われる思いがするが、「いのち」は日々糸のように紡ぐものと解釈すればよいものと思われる。 生命体は、太陽期に、与えられ、そのとき7つの惑星に取り巻かれていたので、7の数と関係があるとされている。生命体は東洋医学でいう気の働きであり、節度、節目が大切とされる。孔子の儒学が仁として、礼儀で表したのも頷けるところであろう。7つの惑星の精神を感じることができると、ブッデイ=生命的精神を手に入れることができるという。ピタゴラス学派の数の神秘学では、7は完全数を意味する。虹や音階などあらゆる節目、秩序に現れるとされている。 最後に、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)である。通称草薙の剣といわれている。剣とは、儒学では、勇とのことであるが、神秘学では、恐らく感覚体を表すのであろう。神秘学では、感覚体は、月期のときに、与えられ、月期のときに、太陽と地球、そののち月と地球に分かれたので、3つの数と関係があるとされる。 人間の感覚は、太陽意識と月意識と地球意識によって三位一体となっているという意味もあるだろう。現代人の昼(日中)の覚醒意識、夢をみる睡眠意識、そして唯物感覚のために、霊性が失われた深い眠りの意識のことである。対象を思いながら思考する太陽意識を持ちながら、対象を感じながら感情をもつ月意識を得ると、それらを独立しながら協調統合することで、独立した思想と感情となり、2つの思想人間と感情人間が生まれる。そして、それらを統合した第3の意志人間が現れるわけなのだが、そのとき、この意志人間に物凄い恐怖感と恐れを抱くという。これが一つ目巨人ダイダラボッチの伝説に由来するのだろう? もし、その恐怖感を克服できずに、そのまま虜になってしまうと、深い眠りのまま行動を起こすような夢遊病者のような精神病患者となってしまうらしい。それらは、日中の太陽意識のときに、いかに道徳的行為を行うかにより、克服できるというわけである。つまり、思いが、感じることを制御し、そして、思想人間と感情人間のなかで協力協調が得られ、道徳的自己の存在である、道徳人間ができて、それが神々に自己犠牲を捧げ、無我の境地の意志を貫くと、思いで意志を制御できるようになるという。すると、神々の精神世界が、いままで感覚で囚われていた物質的世界の背後にたちまち現れるという。これら一連の精神修養は秘儀参入法といわれているものである。 すると、深い眠りの睡眠意識が(道徳的)意志によって目覚め、神々の光(叡智)のなかの(道徳的)意志を感じ取れることになり、神々の意志の基に行動する道徳的人間になるという。これを無からの真の創造というが、そのとき人間は、アートマ=精神的人間を手に入れるという。 なぜ、剣が勇かというと、それは感覚体を断じるからであると思われる。意志を断念、諦めるというのが真の意志であるということである。人間には悪魔による自由意志がまとわりついているが、その自由意志でもって、自らの自由を裁断するのである。 人間の自らのうちにある自由へのエゴという自由を切り取れ! 剣を剣でもって克服しろ!! 悪の剣から善の剣を生め、それが真の救いである。草薙の剣は、大蛇からできた剣である。悪から善を導けという戒めである。ちなみに、人間の脳は、ヘビのように進化してできたという。その物質的論理脳を、脳によって克服しろということなのである。知性を叡智により克服しろともいう。 ヤマタノオロチとは、この自由意志に巣食うエゴ、悪魔の龍のことなのである。人間は、この感覚体をもって自らを断じ諦めることで、真の神々の意志に叶う自由を手に入れるということである。すると、人間はアートマの存在、まるで宇宙の神霊、高貴な精神的存在と一体となり、宇宙呼吸そのものとなる。宇宙呼吸そのものと一体となるので、それは言葉を発する呼気となり、ロゴスという神の言葉そのものとなるという。 言葉を発する器官は、人間のノドの声帯にあるが、これは空気を感じ、音で表現するものである。宇宙の呼吸を感じ、それを言葉で表現する精神的人間アートマは、神々と同等の存在となる。そのときのその言葉を発する器官は、聖杯として表現されるというのだ! ゴッドからグラールが生まれるわけである。
2005年11月28日
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土日は競馬で忙しいので、もう夢の事にかまってられない。先週はジャパンカップウィークだった! いまや世界ナンバーワンジョッキーのランフランコデットーリが来て、やはりその実力通り優勝を掻っ攫っていったのだった。 ついでに、私のプチ出資愛馬にも騎乗してくれて、優勝すれば、世界ナンバーワン騎手と口取り記念撮影の機会だったのだが、惜しくも2着に敗れてしまった。せっかく、日頃着ない(十年もの古い)スーツで身を固めたのに、全く無駄に終わった。 スーツを着て分かったことは、恐ろしく、腹がでているということで、愛馬の敗因と重なって、更には馬券もハズしてしまい、とてつもない3重の敗北感を味わった! 今日の夢はというと、妹の子供(幼児)がまたまた現れて、いろいろと遊んでやった記憶が残っている。遊んでやった内容は覚えていない。それと、いままで登場しないで、不思議だった知人が、はじめて夢に登場してきた! その知人は一度出会ったら、2度と忘れることができないくらいの強烈な個性の持ち主で、あまりに奇抜な人格の持ち主は、よくこの世に2人といないと形容されるが、2人いては、人類に多大な迷惑がかかるくらいの人物なのである。 1人で充分だし、1人でもあまりすぎるぐらいの個性とも、一度出会った皆々様から、いわれている。不思議にも、私のこれまでの夢に登場しなかったのだが、本日、遅ればせながら登場に相成った。 夢では、ホントは違う人に出会っているのだが、似たような人物で、表現するともいわれているので、その知人で表現できる人が、夢に出てこなかったのではないかとも考えられるが、やはり、今日の夢は、その知人が主役ではなくて、その知人の彼女(実際の彼女ではない)らしき人物に、お説教をしているものだった。 その変な知人は、大の女好きで、女ならば容赦なく誰でも好きになれるなんと表現していいのかわからない位の至上究極の女好きである。その変な知人の彼女らしき女が、いかにも今風の御馬鹿な遊び人だったので、あまりに、見かねて、お説教を食らわしたというわけである。 恐らく、その知人を説教するに足るほど無駄な行為はないので、かわりに、その彼女らしき人に説教したのだろうと思うのだが…。いや、ただ、競馬で負けてズタボロになったハートを、慰めるために、ただ八つ当たりしたかっただけなのかもしれない…。
2005年11月28日
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卵と鶏、どちらが先に誕生したのか?という論争がある。これをいいかえると、進化と退化どちらが本質か?という論争にも還元できるだろう。 卵から鶏になるのが進化だとすると、時間を逆に辿れば、鶏が卵に収縮されるので、鶏が卵を産む現象は一種の退化と捉えることができるわけである。 神秘学によると、この世の現象は全て、この進化と退化が折り重なったものと捉えることができる。易経では、陽と陰からはじめ、六十四あまりの掛(陽と陰で組み合わされた印)で、現象を表現する。 易経からきている有名な干支は、易が民間に伝承し、唯物的な統計学に堕落した名残りだと考えられる。アインシュタインが「神はサイコロを振り給わず」といって、確率解釈を用いた量子力学を批判したが、まさしく神々の世界に確率の概念はなく、必然の世界なのである。 人間は、悪魔とともに暮らし、神々から離れ、自由を得たから、必然ではなくなったともいえる。唯物的に統計学が使える自由を得、確率という必然から、不確かな嘘か真かの数学を使える自由な身になった。 数学は証明論だと思っている人が多いが、証明できるということは、嘘でもあるという自由があるから証明できるのだ! 嘘から真実を導き出すということは、数学自体が嘘を含むからであるともいえるだろう。 それというのも、この世の現象には必ず、上の進化と退化のような二元論があるからなのである。善と悪、真と嘘、プラスとマイナス、男と女、引力と斥力、なにより人間は「私」と違う周囲があるからこそ、「私」と認識できるのである。この私の存在は、他により支えられ、同時にあるわけである。 面白い話がある。ある寺の前で、2人の見習い坊主が掃除をしていたら、寺の前にある旗が揺れた。それをみて1人の見習い坊主が、「いま旗が揺れた」といったら、もう1人の見習い坊主が、「いや、風が吹いたから、旗が揺れたんだ」と言い返した。はじめの1人の方は負けずに、「旗が揺れたから風が吹いたんだ」とまた言い返した。そのうちにどちらも譲らずに平行線で論争は続いた。旗起因説と風起因説の論争である。 とどのつまり、現象の二元性のことである。これをピタゴラスは2という数で象徴させた。2は現象の数である。神秘学的には、1は神の数なので、2は開示の数という。 さて、その2人の見習い坊主の論争中に、ある高名な坊主が通りかかった。その2人の坊主は、その高名な坊主に、その論争を持ち込んだ。そうするとその高名な坊主は、「あなたがたの心が揺れただけじゃ」といって、2人の仲を諌めたという。 これを、恐らく、ピタゴラスは3の数として表すだろう。神秘学では、3は、二元性の2の背後にある神の存在の1を足して、2+1=3とするのである。つまり3は、現象を超越した調整役及び統合役の創造の源を表す。 進化と退化の間にある現象(関係)をみて、新たなる思考が生まれ、無からの創造を行うのである。 ピタゴラスならば、卵と鶏の問題を2として、それに神の1を足して、3とするだろう。卵も鶏も先ではない、神(卵と鶏のライフサイクルを思い描く存在)こそが先であり、神は、2の現象をみて、思考を発する、そこから無の創造がはじまるのだ!とするだろう。
2005年11月25日
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今日の夢は、まるで小学生のときの同窓会のような感じだった。内容はほとんど忘れてしまったが、小学生低学年のときに、よく遊びにいった友人の大屋敷のことを思い出した。 大屋敷といっても雰囲気はどこかオカルトチックで、ブラックジャックが住んでそうな家だったことを覚えている。その友人は男だけの3、4人兄弟だったかの末っ子だった。どちらかというと、日本の家庭というより、アメリカ風な家庭だったような記憶が残っている。
2005年11月25日
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真の錬金術師とは、秘儀の実験室を通して、自然霊と会話できるものであることは、前に書いた。その錬金術師が、自然霊から得た叡智が、太陽と金の関係であることも書いた。 我々がいま生きている昼の覚醒意識と呼ばれる、眠っていない昼の活動は、この太陽と金の関係に由っているといわれている。金は調和をもたらし、人体の心臓に関係しているといわれている。 それは前にも書いたように、人間の呼吸の4倍が脈拍数(心臓の鼓動)であり、その1日分が太陽の天球での春分点の1周期に該当することで、意味深く、我々の日常の意識が、太陽の光に依存していることで、示される。 人体に金を投与することで、自我から生じる思考を強化できることを、前に書いた。昼の覚醒意識は、心臓の活動を元に行われているともいえる。神秘学では、心臓は感情を司り、黄色人種はとくに、中脳部を促進し、胸部の感情面が、他人種よりも優れているとされる。 これは太陽から発する光と熱を、黒人の場合は全て受け取るので皮膚が黒く、白人の場合は、全て反射するので皮膚が白く、その中間である黄色人種は、程々に受け取り投げ返すからであるとされる。 日々人間は、太陽光を元に、自制心を発揮させ、道徳行為を行い。自我を強化し、精神力を向上させ、肉体を司る力を手にし、物質性を克服するといえるだろう。金と太陽の関係は、その自我の肉体に対するバランス性、秩序支配力を意味するものだと思える。 人間は起きているときに、いかに道徳的行為を為すかで、自我が強化され、悪魔の誘惑に惑わされずに、病気にも罹り難い精神を維持できるといえよう。 これに対し、月と銀の関係は、太陽と金の陽の関係に対し、陰の活動を行うといわれている。それは、人間の現在の上に述べた昼の覚醒意識と、夜睡眠中の夢をみる意識と、夢のない深い眠りの意識の3つの意識のなかで、夜の夢をみる睡眠状態に該当するといわれ、月意識と呼ばれている。 人間は死ぬと肉体を去り、月意識の世界へと向かうとされる。ここで、今生の道徳的行為を元に、魂を向上させるために、宇宙の神々に受け入れられない不道徳行為をカルマとして、その克服を課題として、次の転生へ携えていくが、そのときに銀が非常に重要な役割をするとされる。 銀は、前世から火及び熱を携えて、来世への血液をつくる元となるというのである。現世の血液の熱は、銀のお陰であるというのである。もし、人間が前世から携えてきた熱を、現世で切り離すようななんらかの状態に陥るとするなら、人体は発熱し、昼の覚醒意識と夜の夢の睡眠意識が対立し、病になるという。このような中途半端になった意識を元に戻すには、銀の力が重要な意味をもつという。 金と銀以外に、火星の鉄、木星の錫、土星の鉛、金星の銅、水星の水銀の意識がある。太古には、瞑想後に、その意識を強化するために、これらの金属が用いられたという。空海の真言密教のなかにもその名残があるのか、空海が辿った真言宗の道筋には水銀の産地が挙げられるのは有名な話でもある。 勿論、太古と、現代はその意識状態も、進化形態も異なるので、その使用には細心の注意を要する事はいうまでもなく、現代では、勿論、医学的臨床的知識なしに行ってはならないものである。 意識と意識の境界には、苦痛があり、下手すると、日常の覚醒意識をもてずに、精神病にも陥る危険性がある。 何事にも適切な叡智が必要とされることはいうまでもないだろう。まずは、これら金属に頼ることのない精神修養が前提であろう。
2005年11月24日
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バットマンをみて、最も記憶に残ったのは、「人間はなぜ落ちるのか?」という問いに、主人公の父親の信念でもある答えの「それは這い上がるためだ!」で、その太古の叡智をも髣髴とさせる答えに魅了されてしまった! 更に、これに以下の神秘学的問答を付け加えたいぞ! 「悪魔も落ちたのだが、では、人間と悪魔の違いはなんだろうか?」という問いであり、「悪魔は落ちたままで、這い上がることを知らない、そして、退屈なあまり、更に落ちる仲間を探そうとし、誘惑する。だから、悪魔に近寄ってはならない。人間はあくまでも自力で這い上がるのだ!」という答えである。 神秘学によると、蝙蝠は悪魔(龍)の化身とされる。蝙蝠は黄泉(黄昏)の使いで、夢のような幻想を醸し出すものとされる。それは、蝙蝠が発する残存物(科学でいう超音波)が、人間の感情に影響を与え、悪魔(龍)に取り付かれやすくするからである。 バットマンでは、その関係を、人間に与える恐怖としてうまく描いていたように思えた。悪魔は、人間に恐怖を与えて、誘惑し、奴隷化するのだから。悪魔に打ち勝つためには、恐怖心に打ち勝つ自制心を養わないといけない。それには、自分という自我を強化しないといけないといわれている。 バットマンでは、復讐心も問題として取り上げられていたが、復讐心も自制心をなくした行為にすぎない。悪魔は恐怖により人を支配し、その憎しみにより奴隷化する。 「左の頬を打たれたら、右の頬を差し出しなさい」といったキリストの山上の教えこそ、悪魔に打ち勝つ自制心の萌芽なのである。フィクションとはいえ、バットマンでは、主人公の父親は、貧しき暴漢に、命を奪われたが、その死によって、暴漢の心に、火を灯すことのきっかけとなり、しいては上流階級層の治安問題の教訓にもなった。生憎、暴漢は殺されてしまったが、死ぬ前に自分の罪を悔いただけまだ救いがあるだろう。 霊学には、生きている間に、自らの罪を意識しないものは、死んだ後、死んだ事さえ認識できないひたすら孤独な存在になるという。まるで無関心という永遠の独房に入れられた囚人と化すのである。そこで、今生で行った自分の他者に対する行為を、他者の身となってひたすら経験されつくされる。あの世とこの世はポジとネガの関係にあるからだとされる。 死ぬことにより、自分が他者に与えた行為を経験するのは、魂にとって救いのことなのである。それこそがカルマといわれるものである。これがなかったら、魂は、自らを浄化することができす。悪魔の食い物にされてしまうのである。そういうことがないように、月の天使(神々)たちが、人間のために、カルマを背負わせることを、悪魔と取引きしたといわれる。 神秘学では、我々は、今生で死ぬと、まず悪魔の領域(地球から月領域まで)にいくといわれる。そこで、自らの行為をふりかえらせられ、反省を行う。苦痛を与えたら、与えた人の何倍もの執着心となって、まるで火で焼かれるかごとくの苦痛を味わうとされる。ちなみに、余談だが、この世界を欲界といい、河童のような生き物にも巡り会うという。 河童とは、この世のものではなく、あの世の生き物なのである。太古では、霊力をもっていた人も沢山いたので、この世の生き物のように語られたのである。龍、天狗、狐もそうである。それらは多種多様存在し、人間と同じように善いものから悪いものまでいる。悪いものを総称して悪魔という。 神秘学では、これらは自然霊と総称され、4つの元素霊、土、水、火、空気の妖精として分類されている。 人間がカルマを背負わされているのは神々の救いの行為であり、これが人間の魂が、神々の領域まで這い上がるヤコブの梯子のような役割を果たしている。悪魔にはカルマがない。悪魔は自ら這い上がれない。しかし、悪魔は人間(の感情)にとりつくことができる。だから、悪魔は人間を通して再び這い上がるしかない。人間は悪魔を背負っていかなければならない。 人間の周囲は悪魔だらけといってよいだろう。人間は、バットマンとなって、その恐怖心を、一歩一歩克服していくしかないのだ!
2005年11月24日
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今日の夢は空を飛んでいく夢だった。まるで自分が飛行機にでもなったようなものだった! 壮大な風景のなかで、まるで、ハウルの動く城に出てきた豪華で綺麗な風景のなかで飛んでいるような感じだったが、自分が飛んでいることを意識すると落ちそうになるようなそんな余韻が残っている。落ちたかどうかは分からず深い闇のなかに消えていったが、次の瞬間、どこかの宿(まるで千と千尋の神隠しにでてくる旅館を洋風にした感じ)にとまっていた。それ以外があまり覚えていない。 宮崎作品はファンタジーの世界なのか、よくあの懐かしさを覚える風景は夢に出てくるような感じがする。しかし、空を飛んでいる夢をみたのは、昨夜、レンタビデオで借りてきたバットマンの影響かもしれない。
2005年11月24日
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今日の夢は、なんかのコントのようなものだった。タケシ軍団らしき人たちとモノマネの松村や安田大サーカスや三瓶がでてきて、人間スペースシャトルをなぜだか海の上で、打ち上げをやろうとしていた夢だった。 モノマネの松村がスペースシャトルに結び付けられくくられて、発射され、空中の途中までいって、燃料切れで、海に真っさかさまに落ちてくるというものだった。そのときそれをみていた自分は、なぜだか、フジテレビもよくやるなぁという印象をもったことを記憶している。 その後は、なぜだか、自分も加わりドッチボールのような、ボールのぶつけ合い状態に巻き込まれるところで目が覚めたというものだった。 昨晩、スターウォーズ3シスの復讐のDVDを買ってきてみたせいと、レンタビデオで、宇宙戦争を借りてきて、連続してみた結果の夢だろうと思うのだが、これらの作品の豪華さに比べて、夢があまりにコミカルだったのはどういうことなんだろか? スターウォーズはいままでのものとは違って、悲劇の集大成というもので、物凄く悲しかったが、そういえば、全く笑う場面がなかった。内容は悪魔にそそのかされた人間の苦しみというべき、聖書の原罪をなにやら思いうかべた。 唯一、その悲劇のなかで、最後、ルークとレイアという希望の双子を残して、アナキンにはまだわずかな善の心が残っていると、オビワンにいって死んでいったアミダラ姫のラストが、いままでのスターウォーズを思い出させる希望的感動的シーンであった。 スターウォーズは、みたあとかなりの余韻に浸っているぐらい、インパクトある作品だった。私はあの議長がシスであることは、スターウォーズ1のときの登場から、薄々わかっていたが、それは、スターウォーズ6のジェダイの復活のときから、皇帝の存在が気になったからで、注意深く、どいつが皇帝だろうと、映画をみながら常に考えていたからである(だって、話し方がそっくりでしょ?)。どうして、ジェダイのヨーダあたりが気がつかないのかちょっとじれったさも感じたことはたしかであるが、それをいっちゃあおしまいよになっちゃうか? こんなわけで、スターウォーズはいままでの集大成という感じで、かなりよかったが、宇宙戦争は一体なんやねんというドツキたい心境に、しばしばかられた。確かにあの映像は凄かったし、迫力もあったが、内容は矛盾だらけで、とくに地球全体が襲われているのに、一体、主人公よどこにむかって逃げてんだというのと、なぜ、最後のボストンは襲われてないのかの大矛盾点が残った! ボストンは微生物豊富な街とでもいうのだろうか?。 あと、主人公の対応がまたイラツかさせ、ストレスを貯まらせる要因でもあった。要するに、恐怖でパニック満載時の、人間の葛藤を、描き出したかったのだろうが、そういう意味でスピルバーグは、ジョーズや自らのデビュー作のトラックで追いかけられる追跡だったかタイトルを忘れたが、原点に戻った感じがした。 まあ、宇宙戦争自体の意味は、前もこのブログで書いたように、火星人という唯物論が、襲ってくる話なので、あのようになんでも物質化させて映画化されると、全くのパロディとして愉しめた。だから、主人公への感情移入が、ああいうシーンではこうなのかなぁと逐一考えながら追っかけていった感じなので、非常にみるのに疲れた映画だともいえる。 宇宙戦争は、一体何を怖がっているのかよくわからないパニック映画であることは確かだろう。とにかくイラつく映画だった。唯物論は人の感情を度外視し逆撫でするのでイラツかせる。それが唯物論なのだということは伺えた! キレる人間が増えたのも火星人(唯物論)のせいであるともいえるだろう。 一言でいって、「だって、感情を、論理で説明しろなんていわれたって、できるわけないしょ?」というパニック映画でした!
2005年11月23日
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真の錬金術とは、秘儀参入の実験室を通して、自然霊と語ることだと、前に述べた。14世紀の錬金術者には、ある悲壮感が漂っていたという。それは、自然霊たちが、「かって人間は、直接、天の神々と語り合えていたのに、もはやその影はみるまでもない落ちぶれようであり、宇宙創造に参画しない、抽象概念をいじくるだけの怠惰な存在になりさがった」と、なかば馬鹿にしたような態度で、言われたときであるという。 百聞は一見にしかずという諺があるように、いかにしるし(物質)をもとめたとて、それをいかに沢山集めて並べてみても、断片であることにすぎず、死んだ死体をいくら集めてみても、生命体にならない道理である。 真の錬金術者は、ガラクタ集めの意味を知っていたので、自然霊の馬鹿にした態度と共に、その悲壮感は益々深まっていったという。まるで、神々に見放された、戦場に取り残された孤立無援の1兵士にすぎない思いであろう。 「いかにしるしを求めても、この時代の者には与えられない」と、キリストがいった意味は、このようなことなのである。人間は自らという「わたしであるもの」の精神をもっているにも関わらず、自らの行為に責任をもてない、不道徳な無知無能者に、与えられる叡智など皆無であるということである。 自然霊は、人間のように生と死を営むことはなく、永遠の命である。人間も、本来、魂という意味で、永遠の命なのだが、神々から自由であるために肉体を手に入れ、この世で、生と死の経験を積み、カルマを構築し、その解消、克服を、次の生へと担っていく。だからして、自然霊には輪廻転生は分からなし、その叡智もない。錬金術師たちは、輪廻転生については、自然霊から聞くことはできなかった。それもまた一層悲壮感を深めた! 従って、錬金術師たちは、輪廻転生の思想が欠けてしまったのである。それは当時のキリスト教に、輪廻転生の思想が欠けてしまったことと連動するという。 輪廻転生の思想は仏教にあるが、それは御釈迦さん自体が、菩薩という生きながら神々と対話できた秘儀参入者であり、仏陀となり更に、上位の神々と対話できたのだから、当然のことであり、それを伝えるためにきたわけである。 輪廻転生の思想とは、端的にいえば、この世で経験し道徳行為を行った成果が、人間が眠っている間に幽体離脱して、カルマをつくりあげ、道徳的によいカルマは神々に受け入れられ、宇宙に解消し、悪いカルマは拒絶され、自由となり、次の転生にその克服する機会が与えられるというものである。 日々、自我を通して道徳行為を行わないと、悪いカルマが織り成され、今生での自我が形成する、いわば道徳行為のカルマ体とでもいうべきものは、次生(来世)での、カルマ克服のためのより強い自我形成の為に、自らが親を選んで肉体に転生するので、遺伝も含み病に罹り易くなったり、生死の境に接する機会が多くなったりして、なるべく障害を一歩一歩克服し強化できるような宿命へと導かれていくらしい。 つまり、遺伝というのは克服するためにあるものなのである。人間は、前世のカルマに由来する遺伝を克服するために、その遺伝をもつ親を選んで生まれるために、宇宙の時と場所を選択して生まれてくるわけなのである。だから唯物論がいう遺伝というのはその結果にすぎない。遺伝子操作で遺伝を変えてみても、カルマはかわらないので、次世代や似たような形をかえて似たような障害を有する出来事に出くわすだけなのである。 輪廻転生のこのような知識は、太古秘儀参入を通して、神々から語られたという(いまも道徳行為を通して秘儀参入できるなら語られる)。太古の真の占星術師は、神々と、まるで人間関係を語るかのように天文を語り合ったという。惑星間の親戚関係や血縁関係を認識していたという。それらは、屋根の天窓を通して、太陽の和らげられた日輪を見て、心のなかに感じたことだという。教会のステンドグラスはこの名残りかもしれない。 例えばそこでは、太陽と金の関係が語られたという。金は人体に生きるための必要な酸素の影響に鈍感な物質で、酸素によって変化しない。つまり、金は生命には近づけない。太陽も、生命に直接近づけないことはよいことであるという風に捉えたという。 そこで、金を人体に投与すると、酸素とは全く関係ないので、特別の作用を及ぼすことが次第にわかったという。そして、金を投与すると、人間の思考に影響を与え、思考が強化され、思考に人体が沿うように作用することを発見したという。 人体に影響を与えないから、思考は自由であるのだが、金を与えると、思考が人体の生命体に作用するようになり、思考は自我から引き起こされるが、その自我が強化されるということでもあるようだ! 太陽の金との関係の対極になるのが、月の銀-地球の炭素であるという。人間は酸素と炭素を生により結びつけ、炭酸を吐き出している。この地球での生の行為は、月にいくと炭素は銀に変わるという。炭素は賢者の石といわれ、植物は人間のこの生の行為と逆の光合成を行っている。 植物には、生命体といわれる東洋哲学でいう気があるが、人間のように感覚をもっていない。植物のこの生命体の活動は賢者の石をつくる行為であり、炭素をつくる行為であるといえる。 炭素は、物質的肉体から、生命体に作用を及ぼす効果を持つものといわれている。同時にそれは月の場合、銀であるという。地球では、生命力に直接近いものは炭素なのである。植物が治療薬として使われるのはこの効果を狙ったものに違いないだろう。しかし、賢者の石の真の秘密は自然霊に聞いて見ないとわからないようだ。
2005年11月22日
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ハウルの動く城に出てくるカルシファーという名に興味をもったので、解説してみたいぞ! ついでに、ハウルの手下のマルクル演じる魔導師の語り口がいたく気にいったので、マネることにしたじゃ。 今日の日記にも書いたごとく、カルシファーという名は、ルシフェルという悪魔にちなんだものと思われるで、ルシフェルという悪魔について語るじゃ。 ルシフェルという名は「光を担うもの」という意であることは、今日の日記にも書いたごとくじゃが、そういえばルシフェラーゼという発光酵素もあったじゃが、光(神々)そのものではないじゃ。光は何か媒質を通して見られるもので、光そのものをみることはできないからじゃ 光(神々)は、媒質を通して、顕現、開示はすれど、そのものをみることはできないじゃ。何度もいうが、ルシフェルは神ではなく、悪魔じゃ! 光を伴って顕れるからといって、神であるとは限らないじゃ。 ハウルがカルシファーに自分の心臓を与えたという意味は、ハウルが悪魔の誘惑に唆されたということを意味するじゃ。神秘学では、心臓は感情を制御するものと意味されているので、心臓を与えるとは、感情を与えるということと同意なんであるじゃ! ちなみに、心臓は単なる血液ポンプではないじゃ 物理的に心臓移植が成功したとて、今度は感情制御に苦労することになるじゃ。 神々の本来想定した人間は、残念ながら現在の人間ではないじゃ、ルシフェルに、人類は誘惑され、ハウルと同じく唆され、血を物質的な現在の血にしてしまったために、肉体を持ち、この地で生と死を送る羽目になったじゃ。聖書でいうところの原罪のことであるじゃ! 人間の血は、カルシファーのハウルの血と同じ、汚れた血なんじゃ! つまり、ハウルとカルシファーの関係は、人間と悪魔ルシフェルの関係と酷似しておるじゃ! 神秘学では、血は自我を表すじゃ。血の躍動、脈動が、波動となって、個性を司るじゃ。血のなかの物質は、その波動が固定し死んだものに過ぎないじゃ! これは呼吸と心拍数の関係が、心拍数が呼吸の4倍という数式で表されることで意味されるじゃ。また、一日の呼吸数が、大体、太陽の春分点の一周期に該当するじゃ。 ハウルとカルシファーが運命共同体であるように、この地で暮らすならば、人間と悪魔は運命共同体なんじゃ! ハウルはカルシファーと運命共同体となって、魔術師の師匠から、自由の身となったじゃが、人間も悪魔に唆されたことで、肉体という自由体を手に入れたじゃ。しかし、同時に死する存在となったわけであるじゃ。それが呪いであるじゃ。この地に居る限り自由で、嘘もつける。神々を罵ることができるじゃ。 罵り、他を殺める自由は手に入れたが、同時にそれは自らの呪いになっていることに気がつかないじゃ。これらの自由は神々の宇宙を動かす意志、道徳に反するものだからであるじゃ。道徳に反するものは人間自らが背負って、克服し、神々に受け取られる道徳に高めるわけじゃ。神々から自由になることで、その自由から新たなる道徳につなげる。悪から善を取り出す救いの作業じゃ。これをカルマというじゃ。自由の身のなかで最良の選択を行えば、呪いは回避され、カルマは成就できるというわけであるじゃ。呪文は解けるというわけじゃ。 我々はこの地で呪文を解くために悪魔と共に暮らしているというわけじゃ。 ルシフェルは、聖書では、キリストを誘惑したデビルとして表れたじゃ。「石をパンにかえてみろ」 過酷な崖の上の景色をみせて、「ここから飛び降りてみろ、神の子なら神が助けるであろう」と挑発し、誘惑したものであるじゃ。 これらの呪文を、キリストは「人はパンのみに生きるにあらず」 「あなたの主である神を試してはならない。主である神に仕えろ」と言って解いたじゃ。 この意は、人間は物質だけで生きているのではない。人間は精神を高めるために生きているのだ。物質を克服し、精神を向上することこそが生きる真の意味であるということを言ったじゃ。 この世界は、精神を高め、宇宙の道徳に従うための修行の場であって、けっして自己満足を高め、この地だけで暮らすことを目的にしたものではない。この宇宙を動かしている道徳である神々に自己を犠牲にし、愛に奉仕しなさいということをいったじゃ。 ハウルの動く城には、ルシフェルを天に戻し、心臓を自ら独立して制御すること、物質(感覚による外見)を克服することが、人間の課題なんであるということがこめられているように思えるじゃ!! ソフィーは、知恵と愛の意味じゃろ!。ソフィーという主人公が、若くなったり年老いたりして、人間と同じく輪廻転生しながら、知恵と愛を学ぶじゃ。それが、人類の希望であるということじゃ!! ハウルの動く城には、実は壮大なテーマが背景に流れていたのじゃ!!!
2005年11月22日
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今日の夢はおぼろげながら覚えている。なんだか新しい従兄弟ができた夢であった。叔母さんもでてきたが、かなりの歳なので、勿論、現実的ではない夢の話だからである。叔母さんはわりと若い姿ででてきたが、まあ、それなりの歳でもあったし、なんともいえない。 恐らく、「ハウルの動く城」をみたせいだと思われる。叔母さんは全く主人公ソフィには似てなかったが、そういえば、親戚に1人少し役者をやっていた叔母さんがいたが、そちらの方かもしれない。 余談だが、「ハウルの動く城」の火の悪魔カルシファーの名前は、火(カ)の悪魔(ルシファー)の造語だと思われた。或いは、カビリ(魔術により姿を現す神)と悪魔(ルシファー)の造語かもしれない。まぁ、いずれにしろ、ルシファー、神秘学では通称ルシフェルと呼ばれている悪魔のことを指しているものと思われる。 ルシフェルは、「光を担う者」という意であり、光(神々)ではない。ルシフェルは、太古の地球の進化状態の月期(状態)に、天使だったが、叡智(道徳)を完全に修められずに、いわば落第し、堕天使となったといわれている。 ルシフェルは、いまも人間に情熱と欲望の幻想を与えている。権威主義や差別主義、或いはあまりに根拠のない極端な思想主義、理想主義、戒律主義、禁欲主義等、自分に甘く他人に厳しい人格の持ち主にとくに憑依するという。エゴイストには必ずといっていいほどルシフェルの憑依がみられるという。 つまり自分だけを特別視するようなエゴイストの汎現実主義者にはルシフェルの感情が乗り移っているとされる。聖書のなかでは、キリストを誘惑した悪魔の1人で、通称デビルと呼ばれている。裏切り者のイスカルオテのユダもその一員であるとされる。 神秘学を学ぶと、宮崎作品の背景がわかってくる。
2005年11月22日
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現代人は、知識、それも抽象的論理的な粗雑で、統計的な確率論内でしか当てはまらない静的な死んだ知識を、得ることで知性を獲得したとしている。それでも、過去のことに対してある程度体系づけれたとしても、それでも非常に曖昧であるが、全く未来のための予測や、人間自体の進化目的、あるいは宇宙の進化到達目的すら見い出すことはできない。 このような地の分別知ではなく、太古にあった霊性の天の知識、神々が自らを語る言葉を聞くこと、いわゆる神々の浸透する永遠の叡智は、現人間のあまりに明るすぎる昼の覚醒意識のため(唯物主義)に、現在失われているといえよう。 ソクラテスは、この状態を有名な「無知の知」と呼んだ。つまり、分別知のような死体のガラクタをいくら集めてみても、生命は生まれないとしたのである。 それでも、ソクラテスの時代は、秘儀参入を通して、神々の声を聞くことができ、宇宙の知性と語り明かすことができた。だから真実は、(神々との)対話により生まれるといったのである。 真の占星術とは、宇宙の神々の知性体と語り、学ぶことをいうらしい。宇宙の神秘は、神々の口から語られたのである。そのように秘儀参入を通して神々と語り得たものは尊敬の念を受け、憧れの対象であったらしい。 やがて、プラトンの時代になり、アリストテレスの時代までになると、秘儀参入者の数は減っていき、秘儀参入も形骸化し、堕落してきたために、もはや、神々と語り合うことができなくなってしまった。それと共に、その代償に、人間は神々から独立し、自由を得た。自由の元に、地に下り、抽象概念を獲得し、欲望のままに執着心を発展させてきた。 そうこうして、キリスト教が成立して数世紀のうちに、人間は神々と語る場を永遠に失ったという。つまり、真の占星術師は居なくなったのである。それとともに、天動説から地動説に転回し、自由という名の下に、地の分別知が発展した。 14~16世紀になると、占星術師はいなくなったが、わずかながら、錬金術師は存在したという。錬金術師とは、実験のような秘儀を通して、自然霊と対話できるものをいう。自然霊とは、アリストテレスがいった四大元素霊のことである。空気、火、水、土の精のことである。一般的には妖精として知られている。 錬金術師たちは、自然霊との対話により、自然のなかの神秘を学んだのである。自然霊は、この世(物質世界)に生まれたことがなく、輪廻転生を知らないという。そして輪廻転生の認識は失われた。次第に、自然霊との対話も、抽象概念により失われてしまった。人間のなかに抽象概念がある限り、それはもはや失われたままのものとなるであろう。抽象概念には、こころの交流を必要としないからである。そのかわり、抽象概念は物を扱う限りにおいて自由であるといえよう。 自由であるのは、この宇宙の創造とは全く関係がないガラクタであるから、自由でありえるのである。神々には受けとられない知識、拒絶される知識のために、人間の手の内にあるからこそ、自由でありえるのだ! 自由を扱い得るのは人間と悪魔だけである。しかし、人間が神々の元に帰るには、この自由を克服しないといけない。自由のなかに秩序を見い出すために、人間のなかに、自由の代償である責任というカルマが与えられた。 自由の恩恵を授かったものはその恩恵の責任を、自己犠牲により宇宙に返還しないといけない。地で自由な活動を行いえる人間だけの自由の特権でもあるのだ! そして、人間のなかにある、(神々より与えられた)心を発達させないといけない。心を通してのみ生命あるものと対話できる。抽象思考は、自由で善悪の秩序もないが、心の対話には、善悪という秩序とその創造の道徳がある。道徳を通して宇宙の創造と一体化できる。 モラルある人、心を通して他に真善美をもたらしえるもの、それを魔術師という。生命体は、心を通して深め合うのである。心のない人は、もはや魔術師ではなくなったといえる。宇宙のなかでは、ガラクタで遊ぶ永遠に無知で幼稚な子供にすぎない。 アリストテレスが言った「人間は生まれながらにして、知る欲求を欲する」というのは、人間がいかにも天の叡智から無知である状態であるかをも表現した言葉なのだ!
2005年11月21日
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金土日と夢は忘れてしまった! 競馬のことで頭一杯だったからだ! なんだか、マンネリ化してきたような! それでも、断片的映像は残っている気がするのだが、辻褄が合わない感じなので、話せる状態ではないように思える。 それはそうと、土日は、レンタビデオで、ストライプスというシマウマの競走馬物語と、ハウルの城のDVDを借りてきてみたので、ちょっとした感想を書きたいぞ! ストライプスは、たしかディズニー映画だったような気がするが、ちがうかもしれない。というのも、内容構成が、ディズニー映画の典型なので、ディズニー嗜好にはよい作品といえよう。 ディズニーはよきアメリカのヤンキー精神を彷彿とさせる。とにかく明るく前向きに、外面に囚われない、チャレンジ精神を重んじる気風である。ストーリー構成は、「主人公ははじめ馬鹿にされ、橋にも棒にもかからないものなのだが、強いハートをもち、周囲との和解を通して、何度も失敗を乗り越えながら、自分の考えを変え、成長させて、最後は英雄となる」というような、単純そのものなのだが、単純さ故に、そのキャラクター構成に重点がおかれる。とくに、ハエの兄弟だか、ハエの師弟だかがいい味だしていた。ブルースブラザースならぬハエブラザースといったとこか? ハウルの城は、見にいった友人にいわせるとイマイチとのことだったが、私は結構、楽しめた。映像が斬新的なのと、自然の風景の描き方が非常によかった。ファンタジーが好きな人にはお奨めである。千と千尋よりももののけ姫に近い作品だと思う。宮崎アニメもキャラクター豊富だが、今回とくに気に入ったのは、ハウルの弟子が演じる魔導師で、いい味だしていた! 案山子とへんな犬もよかった。勿論、ハウルや主人公、魔女もよかったが、なかでも火の悪魔がよかった。昨今、宮崎アニメのつくりは、手塚治の作品に似てきたような気はした!
2005年11月21日
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ギリシャ時代の哲学者がどういう思考をしていたかを、前回のアリストテレスの授業でお分かりかと思う。アリストテレスの時代より以前は、現代の地(物質)に対する知識はなくて、天(霊性)に対する知識に基づいて思考していたのであった。だからして天動説なのである。 地は天の死骸とみなされ、あくまで地と天はつながっており、天の表面に地があるという考えが基本にある。だからして、地の裏には、天の作用である神々の働きがあって、その働きの表面が地であると考えられ、地球の石は、神々の一部であると認識されたのである。 仏教には心眼という言葉があるが、ギリシャ人は、この心で、世界を見た。天を支配する神々の振る舞いが、地となって現れるという心が、目を支配して、意識として対象を捉えたのである。だから心眼なのだ!。 仏教の場合も同じで、世界のあらゆるものには仏性があるという心、ギリシャ人が、神々の振る舞いという形態概念で、具体的に捉えたのに対して、それを法として、具体的には仏として意識したのである。この仏の意識をもって、世界の対象をみる意識を心眼というのである。 だからして、科学的抽象概念で、世界を論理的意識をもって、対象を捉え数式化することは、正確にいえば心眼ではなく、脳眼もしくは論理眼、抽象眼、静的死的眼というべきものであろう。ギリシャ人からいわせれば、非常に粗野な思考であるといわれるべきものなのだ! 現代科学では、心自体が脳にあると勘違いしているので、心眼と呼んで誤解しても仕方がないだろうが…。ギリシャ人を我々は笑っているが、まるでパロディのように笑われている方は我々現代人かもしれない。 ギリシャにつたわるある秘儀参入法(神々との交信法)に、アラジンの魔法のランプを彷彿とさせるものがある。それはある瓶に、御香を入れ、火をつけ煙を出す。その煙に向かって、マントラを発すると、マントラを発音するときの呼気により、煙のなかに、カビリと呼ばれる神が顕れるという。 つまり、人間の呼気が、煙を揺らし、そこからギリシャ人が心眼でみた神々が顕れ、それを秘儀参入者は読み解くのである。人間の発するマントラの呼気は、神々に触れる一種の感覚器であったわけで、そこに霊性が求められたのである。 真言密教でも、御香を焚き、煙に向かって真言を唱える修行が行われているようにみえるが、これは古代の秘儀参入法の名残りであろう。例えば、情報伝達手段に狼煙というものが使われたが、これも、秘儀参入法の本来は、神々の言葉を理解するのに用いられた方法が、民間伝承的になり、単なる煙だけの唯物的情報手段に成り下がった可能性がみられる。 例えば、マントラを唱える修行僧の、その呼気の煙に与えるブラウン運動などを、唯物的に調べてみるのはいかがだろうか? 唯物論ではわからないかもしれないが…。
2005年11月18日
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昼飯を食っているときに、うろ覚えながらも、今日の夢を思い出した! それというのも、FMラジオで、ヴォジョレヌーボの特集をやつていたからである。 今日見た夢は、そのヴォジョレヌーボの試飲会のようなものであった。メンバーは忘れたが、私が得意気に、「ヴォジョレヌーボーは、フランスでは飲まれない、なぜならワインは熟成され、洗練されてこそ意味があると考えられているからであり、それでもヴォジョレがあるのは、葡萄の出来具合を吟味するためにあるんだろうが、それを重宝がって飲む日本人は、西洋文化では理解されない存在だろうが、日本酒の生一本、新鮮さ、純真さの文化のせいでもあるので、ヴォジョレはどこか日本酒と通じるものがあるのだろう」とありふれた薀蓄を披露していたことを思い出したのだった。 日本人は、フランス人や中国人のように熟成された文化というよりも、新進気鋭な、斬新的な未来志向の文化を好む体質があるように思える。恐らく、日本人は旧来の伝統的閉鎖的体制が気に入らず、大陸から列島へと移住してきた人種的経験をもつためなのではないだろうか?とも思う。 そういった意味では、米国人とある意味似たような気質があるのではないだろうか? ただし、日本は生まれたときから独立国だったのに対し、米国の場合は英国の植民地であったのだが…。いまや逆転している感もなきにしもあらず。
2005年11月18日
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今日は迂闊にも全く見た夢を覚えていない。それというのも、今週、プチ馬主のわが愛馬がG1に出走で頭一杯だったせいでもある。昨日から、スカパーのグリーンチャンネルのトレセンリポートなどをみて、早くも週末の競馬生活に思いをめぐらせているので、夢のことはどこかに忘れてしまったように思えるのだ! 競馬といえば、金曜朝は必ず売店で、サンスポを買い、わが愛馬の出走情報を確認するのだが、金曜は、堀紘一がコラムを書いているので、必然的に読んでしまう。 今日の話題は、JRAの競馬ファンに対する姿勢の問題についてだった! 要約すると、新規ファン獲得に邁進するあまり、これまでの長く古くからのファンがおざなりになっているというような感じだった。 私も全く同感で、今年話題のディープインパクトでさえ、せっかくの3冠舞台を見に行こうといっても、金がかかるやら、面倒やら、都合が悪いやらで、やっぱり、長年の競馬通と2人だけでいった有様だ! 2冠のときから計画していたにも関わらずである。 それでも、至上最大の菊入場数だとのことだが、恐らくは、お祭り騒ぎがすきな烏合の衆が、沢山集まったに過ぎないと思われる。確かにディープ人気は過激なものがあるが、ハルウララ人気とどこが違うのかよぉ~く考えてみる必要があると思う。いまではハルウララ人気が一時的であったことは明らかなのであるぞ! だからして、ディープ人気がこのまま続くためには、やはり長年の競馬愛好家を大切にするからこそなのであると思うぞ! ディープから馬券をはじめた新規にわかファンが、定着するには、長年続けているファンのよさ、ありがたさが伝わってこそなのだ! 私の周囲にも、だんだんとやめていくやつらばかりで、競馬熱も下降気味であることは確かである。お金が命な時代には、所詮、バクチだから、そんなハイリスクなものに大切な金をかけられるかという考えが蔓延していることは確かである。 よぉ~く考えよ、お金は大事だよぉのCMが、ちょっと前に流行り、ホリエモンなぞの成金満野郎がヒーロー視されている時代だから、残念ながら、地方競馬はどんどん消えていってしまうのだ! お金が人間関係を冷やす寂しい世の中だね?
2005年11月18日
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有名なギリシャ哲学者のアリストテレスは、唯物論旺盛のいまでは、随分と曲解されている。唯物的解釈のその歴史書においても、師プラトンと、まるでケンカでもしたかのような感じで、プラトンとの別れが記述されている。これらは全て嘘といわなければならない。でなければ、プラトンとアリストテレスが何を語ったのかを理解したことにならないからだ! プラトンは理念(イデア)でもって、この宇宙を捉えた。それは理念という抽象概念であっても、プラトンの時代には、学者の大半が秘儀参入者(いわゆる霊能者)であり、神々と対話できたので、わざわざ具体性を記し、記憶に止めておく必要がなかったからである。理念という抽象概念でもって、具体性を語ることができたのである。 しかし、アリストテレスの時代になると、秘儀参入者も少なくなり、抽象概念だけが、具体性(霊性)を失った死んだものとして残されたのである。端的にいうと、プラトンの時代には、人間は自然が語る言葉を聞き、理解できたのだが、アリストテレスの時代になると、人間は、もはやその能力を失ってしまったのである。 そしてプラトンの自然のイデアは、抽象概念として残り、アリストテレスに受け継がれていったのだ! プラトンはそのことがよくわかっていたので、自ら師という役割を退いたのである。そしてアリストテレスに来るべき時代のために、再び、かって人間が有していた自然の言葉を聞くためのその極意だけを伝承として残したのである。 その多くは秘儀参入法だったが、時代と共にその方法も変化するので、自らが自らの認識力によりそれを形成しなければならないという意を伝えたのである。つまり、人間は意識のもち方により、世界を変えることができるということなのである。そのようななかから、アリストテレスは、自らの認識力により、まるで暗号解読書のような論理学を構成するのである。 余談だがその当時、秘儀参入者はテレスト(地球進化の目的を見通す者)と名づけられていたのである。恐らく、アリストテレスの名もこれにちなんだものだと思われる。 アリストテレスは、アレキサンダー大王の師でもある。アリストテレスがアレキサンダーに教えたことは大きく3つある。まず、秘儀参入の導師(教師)が語ることは、呼吸を感じることからはじまるという。弟子は自らの呼吸体験により、呼吸のなかに夏の熱い空気と冬の冷たい空気を感じさせられる。熱い空気のなかに太陽の熱を思い描かされ、冷たい空気のなかに、冷たい水を感じ、そして雪の結晶へと思いを発展させられる。 そして、暖かい空気と冷たい水が、人間の内と外の対比に置き換えられる。暖かい空気は神々への高みを予感させ、冷たい水は湿った地下の悪魔の誘惑を予感させる。このような内的感性が形成されると、次に、植物観察に向かう。 植物観察を通して、植物の秘密が、植物自らが語るように与えられるのである。そこで植物が語ることは、花と月存在の類縁であり、花は大地に縛りつけられているが、水から生まれたものであることがわかる。つまり植物を通して、地球の以前の(進化)状態の月期の認識を得るのである。 次に、金属の秘密へと向かう。地球にある、かって霊性をもっていたが、いまは死んだ金属が自らを語る。金属と惑星の類縁であり、金属は大地に封じ込められているが、空気から生まれたものであることがわかる。つまり金属を通して、地球の以前の(進化)状態の太陽期の認識を得るのである。 そして、最後に、人間の秘密へと向かう。人間の多様性は、地球の気候条件の産物であり、地球の気候は、宇宙の黄道十二宮と恒星の関係へと帰着していく。つまり、人間の多様性は、黄道十二宮と恒星の関係存在と類縁であり(ここから占星術が生まれる)、人間は多様性をもって大地に縛り付けられているが、熱(土星アダム)の子なのだ! という認識を得るのである。 人間は地に暮らしているが本来天に帰るべき存在なのだ! 人間は、天の花を求めて、多様性を彷徨いながら歩む、地の旅人なのだ! 地の知識が生むものは幻である。多様性の表面には幻がある。 天の知識を求めよ! そこに多様性の源があるのだ! アレクサンダーは、アリストテレスの指し示した道にそって、かってあった霊性の地アジアへと、師アリストテレスの光(霊性)をもたらすために、旅立っていったのだった。
2005年11月17日
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今日の夢は、漠然と覚えているのだが、職場の友人が、ある薬剤(話題の毒性のタリウムではない;職場で使っているものだと思う)を使いすぎ(体内に入れたわけではない)、薬剤まみれになり、病気にならないか悩んでいた夢だった。その薬剤は毒性のものではないが、色(黄色)がついているので、目立つものだったから、薬剤の取り扱いには全く不慣れなその友人は、量の加減がわからずに、不安に至っている状況で、量において、「ミリグラムじゃなくて、マイクログラムだよ」という感じで、私との会話で行き違いが生じたところで目が覚めた! その友人は、プチ馬主仲間でもあり、昨日、その友人の持ち(出資)馬が、期待を裏切って、残念ながら引退してしまったので、そのことが、上の夢の表現となって現れたのだろうと思う。薬剤が出てきたのは、私の身近な職場の象徴性で、薬剤自体は、出資馬に対する熱情や期待の強弱を表す象徴だったのだろうと思われる。そういうように解釈するのは、夢は、身近な表現をとって現れるからである。
2005年11月17日
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HGウェルズの宇宙戦争に関する出来事を、神秘学的に解釈すると非常に面白いことに気がつく。HGウェルズの宇宙戦争に関しては、ウィキペディアを参照してくだされ! 神秘学で解釈すると、HGウェルズの宇宙戦争には、数々の想像力を駆り立てるキーワードがあることに気づかされる。火星人がタコ型をしているというのは、火星人が、現在の地球人のように自我を有した個別的存在ではなく、集団として自我をもつ、神秘学でいう動物であることを意味している。 つまり火星人は、「わたし」と自分を呼ぶ存在ではなく、火星人全体で1つの人間「わたし」となっていて、その火星人全体の手足が、タコの手足のように、現在の地球人のようなものであるという感じをいう。例えると、ネットワークのサーバーとクライアントのシステムの全体図のようなものだ。あるいはタコ足配線と呼ばれる電気配線なんかを象徴している。 神秘学によると、実は地球上の動物もそのような存在なのだとされている。だから、火星人=(民族主義=全体主義の)動物であることが理解できるのである。 火星人的性質は、機械的文明を構築するのに都合のよいシステマチックな体系を有しているといえるだろう。 火星人の偵察機器が流星に乗ってやってきたというのは、そのような機械的文明を推進するのに、重要な役割を果たす唯物的思考を表すのである。古来から、流星、彗星が災いをもたらすという迷信があるが、それは流星、彗星がくると、人類はそれを外的、感覚的にみることにより、唯物思考を発展させるためであると、神秘学ではいわれているのである。つまり唯物思考に走ると、精神主義がおざなりになり、霊性が失われることを暗に象徴として伝達したのである。 しかしながら、現状の地球をみると、いまや、外的宇宙戦争はなかったけれども、確実に悪魔の物質主義、機械的全体主義が、この地球上で闘争と戦争というものを生み、地球を蝕んでいることに気がつくだろう? つまり、火星人という唯物論にある程度侵略されたのである。このままでいくと、地球人が二分されるという危惧を抱いて、仏陀が立ち上がったのは前回述べたことである。 仏陀が太古、地において唱えた仏教が、人類に少しずつ浸透しているお陰でこの地球において、精神主義は失われずにすみ、火星人は退散したのである。しかしながら唯物論の残存は残されたのである。 HGウェルズの小説では微生物となっているが、仏教でいう微細身のことである。 そして、仏陀は人類を救うために、火星に向かいゴルゴダの秘儀を行ったことは前回述べたところのものである。この連想は、アルマゲドンという映画を彷彿とさせるであろう。
2005年11月16日
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ハリーポッターの新作映画がまた上映されるらしい。そのハリーポッターの原型と思われる秘教学院が、神秘学によると、かって黒海のほとりにあるカルキスという地にあったとされている。 「カルキス」でヤフー検索をすると、有名な哲学者アリストテレスの出身地の名であることに気がつかされるであろう。 そのカルキスの地に、秘教学院という秘儀参入者のための教育を行う施設があったという。そこの生徒は、大きく2つに大別され、未来に向け慈悲と愛を教えるための、仏陀が開いた仏教の教えを元に、理解するグループと、未来において、愛と友愛を教えるだけでなく、実践するキリストに準じたグループがあったという噂である。 教師は当時の秘儀参入者からなっていたが、もはや受肉を必要としない霊的存在である仏陀も、精神的教えを生徒に与えていたという。 そこで、仏陀が語った多くのことは、仏典のなかにもみられるらしいが、斬新なところは、秘教としてのキリスト教との融合した教えであったらしい。 端的にいえば、今生での人類が行う業(行為)が、次の転生の行(生への執着心)となり、次生での、自らをつくるものとなるという輪廻転生の法で、だから、この世から解脱し、涅槃に達するためには、今生での業を超えたものを創造し、この宇宙で全く新しい無の創造を行わなければならないというようなことであるらしい。 大概の人間は自己に囚われているので、この世で行うことは創造ではなく、誰かや霊たちが行ったことを真似ただけであり、変化させたことにすぎないので、創造というよりは変化という、いわゆる有色の行為にすぎないという。 有色行為、ただ変化させただけなのではなく、宇宙がいままでに行ってきたことを真似ることではなく、無我の境地に至り、いままでにない真の創造、いわゆる宇宙を生んだ行為や人類を誕生させた行為、そしてキリストが行ったゴルゴダの犠牲の行為のようなものを行わないといけないということを説いたらしい。その愛への犠牲の行為こそが、宇宙の無から生じさせる真の創造だというのである。 そして、仏陀は、当時、秘教学院の教師のままでいると、人類は、現世を唯物論で解釈し、機械的に文明を発展させることに頭を悩ますものと、現世を幻と捉え、世捨て人になって現実をこころみない、貧しい大きな宗教教団に従うもの、の2つに別れ、分裂してしまうので、その原因が火星にあったので、火星において、地球で行ったキリストのゴルゴダの犠牲の行為と同じ行為を行うために、その秘教学院の教師の地位を降りて、火星へと赴き、実際に、火星においてキリストと同じ行為を行ったので、火星は戦争の星から回避され、いまは地球人の死後、精神的なよい仏教の修行場となっているという、信じがたい話がある。 ここにも、宇宙戦争というかの有名なHGウェルズの小説のネタになるべき話が見い出されるのである。 そして、その秘教学院の有名な生徒は、アッシジのフランチェスコであるという。フランチェスコはその秘教学院で教えられた仏教とキリスト教の融合した教えを発展させ、フランシスコ修道会を開いたのであるとされる。だから、フランチェスコの教えは、キリスト教でありながら、仏教のような教えの要素が見い出されるのだという。 実際に、聖書のルカの福音には仏陀の思想が表現されているという。 仏陀は火星においてキリストとなり、そしてフランチェスコはこの世での仕事を終えると火星にて同じような活動を行っているという。 そして、仏陀が火星においてキリストになり、クリスマスが行われるようになり、仏陀の教えの仏教を学ぶために、必ずしも出家しなくても、現世の物質的な生活を送りながらでも、悟りを開けるようになったのだという。 仏陀の火星でのキリスト行為により、小乗(上座部)仏教から大乗仏教へと発展したわけだ! そして、火星でのその教えは聖フランチャスコへ受け継がれ、人間が死んで、まず死者として火星に赴くときに、宇宙の仏教徒となるのだという。 我々人類は死ぬと、この世でのその道徳的功績により、ハリーポッターの秘教学院への入学が赦されるというわけである。入学試験に叶わなかったものは、またこの地球の修行の場へと戻されるというわけである。 つまり、我々は、皆無知で、白魔術(宇宙の創造活動行為:道徳)師として落第者だというわけなのである。
2005年11月16日
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今日の夢は結構覚えているが、非常にクライものなので、あまり書く気が進まない。その夢は、福山雅治似の友人らしき人のところの職場に見学にいくものだった。その職場の雰囲気が、牢獄か収容所のようにとても暗くて、語るのが嫌になるので、やっぱりやめたい。 自分の人生のなかで、これと似たようなことを探してみるのだが、福山雅治似の友人で思いあたることは、かって、研修所にいったときに、同じ研修をしていた知人のことである。その研修所は、確かにボロい施設で、田舎にあった。研修所というより収容所という感じで、六本木ヒルズとは正反対の方向性にあるといえた(ただし、10年前の話だから、六本木ヒルズも誕生してないからなんともいえないが)。 その研修所がなぜにそんなに暗いかというと、放射線を取り扱う施設だから、放射線が外部に漏れないように、つくりが牢獄(同じ外に出られないようになっている)のようになっているからだと思われる。確か、天井もいま話題のアスペスト(ヤバイ?)だったと記憶している。 その当時、職場には不満だらけだったが、いくら好きな職でも、あの研修所の環境で働くのなら、マシかもしれないと思ったものだった!
2005年11月16日
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今日の夢は学生時代のものだった。恐らく高校生時代だと思われるのだが、宿題か、テスト中かの、とにかく数学の問題に四苦八苦している場面を覚えている。時間内に終わらないと遅刻してしまうような切迫感があり、魘されている場面だった! 学生時代のテスト中の夢は、ほとんどが問題を解けずに四苦八苦するもので、トラウマなのか結構みる。テストは苦手な方だったからである。昔から、極度の緊張性なので、本番にはあまり強くない方だった。だから、練習で解けた問題も、テストになるとダメなことが多かった。つまり、精神力が弱かったのだろう。緊張しているときは、いまでもダメだ! 思うに、テストというのは、過酷な中で、いかに実力を発揮するかの精神力の育成のためにあるのかもしれない。だから、問題自体はどうでもいいように思えるのだが、どうだろうか? いままでで、面白いと思った問題は、私が経験したものではないが、自分で問題をつくって、解答するという問題だろう。問題の質自体を吟味するテストである。人生は自分で問題をみつけ、自分で解答するのだから、自主性をどれだけ問えれるか?という質のよい問題だと思える。自分に課する問題のレベルで、自己鍛錬の度合いがわかるだろうし、理想が高ければ高いに越した事はないが、高すぎると解けなくなる。バランス感覚も身に付くだろう。 ただし、こういう問題は採点や評価をいかにするか?という問題がまた浮上するので、なかなか難しいだろう。
2005年11月15日
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土日は競馬どっぷり生活なので、肝心の夢はほとんど忘れてしまう。で、今日の夢もあまり思い出せないのだが、やはりゲームをやっていた夢だった! 大金を稼ぐような人生ゲームのようなもんであったと記憶しているが、詳細は忘れてしまったのだった。 そういえば、最近、ダイワハウスのCMでおなじみな、ボード版ゲームの人生ゲームは、子供の頃によくやったぞ! あと、億万長者ゲームも、子供の頃の定番だった。そのときは、なぜかゲームで最下位になる友人がいて、そいつをいれると、最下位はいつも決まりだったので、ブービー争いになった。ゲームにも運が存在することをその友人から教わったような気がする。ゲームで、必ず最下位になるというのも1つの特技だろうか? あと、小学校時代のボードゲームといえば、名前は忘れたが、赤塚不二夫のタクシーの運ちゃんゲームみたいなやつを、よくやったような記憶が残っている。進学校に進学が決まった小学校内ナンバーワンのやつと、決まったお祝いもあったのだろうが、遊びまくった記憶が残っている(そいつは、不断から勉強一筋のような環境だったようで、弾け富んでいた記憶があった-あまり遊びすぎて中学で反動が出たのかどうかはその後、会っていないので不明である-風の噂では駒場東邦にいったというのを何処かで聞いた)。 大人も楽しめるボードゲームの定番といえば、モノポリーだろう。モノポリーは大学時代から、酒の肴に徹夜でやった記憶がある。一種の徹夜麻雀みたいなものだろうか? ただし賭けてはいなかったが…。
2005年11月14日
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神秘学によると、レオナルドダビンチの最後の晩餐には、宇宙の秩序が描き出されているという。 宇宙の秩序とは、端的にいって、永遠の救いの概念に他ならないようだ。 天使の役割を基に、その概念を簡単に説明していきたい。 トローネと呼ばれる座天使が、ケルビムと呼ばれる智天使に犠牲を捧げることで、宇宙に熱が生じたという。その熱で地球の原型である(太古の)土星が誕生した。このときに勿論、人類の原型も生じているという。アダムと言う名が意味するものは土であり、土星の意味なのである。 トローネの犠牲によりケルビムに熱が生じ、火となり、時間が生まれた。時間霊はアルカイと呼ばれる天使のことである。唯物論的科学でも、これはビックバンとして記述されうる。また、現在もその証拠を基に、熱力学第2法則であるエントロピーの法則が記述されている。 さて、そのトローネの犠牲に驚き、美を感じ、魅せられ、尊敬の念を持ち、共感した主天使(叡智霊)は、自己犠牲の精神に溢れ、自らを徳として、大天使に与えるのである。与えられた大天使は、時間霊アルカイを経由して、与えられた徳を、時間を置いて(前後して)、そのまま自らに返すのである。 与えられた徳が返礼されることで光が生じるという。これは唯物論科学でも、光が電磁波として、空間を行っては返ってくる(ある方向に向かうと、時間を介して、その方向に戻ってくる波の伝播の)性質に起因していると示唆されうる。 この大天使の行為で、時間から(光に満ちた)空間が生じたという。これら光と空間を、(太古)土星の熱に結びつけられた天体が、(太古)太陽であるという。太古の太陽は、現地球の原型であり、当時は太陽と地球は一体化していたとされている。 まとめると、トローネ座天使のケルビム智天使への自己犠牲により、自己犠牲は受け取られ熱となり、火が生じ煙となり、アルカイ権天使(時間霊)が生まれ、その煙のなかに共感し、賛美することによりキュリオテテス主天使が、自己犠牲として、アルヒアンゲロイ大天使に徳を与える。徳が与えられることによって空間が生じ、大天使は、アルカイ権天使(時間霊)のもとに、徳を返戻し、光を生じる。 となる。 さて、現地球からみれば、大きな何かか欠けているように思えるだろう。それは水である。このままでは、水が生じないと気づくことだろう。というのは、地球は水の惑星と呼ばれるからである。 神秘学によると、水は、自らの意志を断念し、諦めることで生まれるという。「断念、諦める」というとネガティブに聞こえるので、東洋哲学的に表現し、「謙遜し、参る」というとよいかもしれない。日本語には、相手を褒めるときに、「まいった」という便利な言葉がある。贈られたものを受け取れないとするものである。これが非常にしっくりくる道徳表現だと思う。 勝負事で、相手に対する武力がとても跳ね返せないとき、挨拶なんかにも、こちら側が、その行為に申し訳がないときに、用いるだろう。あまりに図星な挨拶には、「御挨拶痛み、感じ入る」ということで、自ら恥じて、とても受け取れない意味を表現する。転じて、「勿体無い」という言葉も生じてくる。 この謙譲の意志の断念の精神から、水は生じ、高きとこから、自ら低きところに流れる性質をもつ、そしてまた、水は留まると腐敗し、留まりを知らないように、何者のものにもならず、出会ったもの全てを感化させ、清く美しくしていく。道徳的に「救いのもの」であるようにもみえる。 水の発生を、天使で表現すると、トローネの犠牲を、謙遜し、参り、つまり受け取らずにいたケルビム智天使が存在したとなる。そのことで、トローネの犠牲の熱の精神は火とならず、時間の煙を生ぜずに、時間から解放された永遠のものとなったのである。 トローネの犠牲を謙遜から受け取らなかったケルビムはそのことで、永遠の命を得、不死の存在となった。そして、受け取られなかったトローネの熱の犠牲の精神は、水となった。生じた水を、自らのものにし、天の意志から独立しようとする下の位階のものに奪われた。第三者のトンビが油揚げをさらうが如くである。それこそ、悪魔に他ならない。 永遠の命の代償の元に、水が生じ、善から独立し自由の身となった悪が、同時に生じたのである。ここに犠牲を我がものとする裏切り者が生まれた! 熱から空気、光と生まれ、火から水がわかれ、火は上昇し、水は下降する。そして(太古)月が生まれたという。 永遠の命と引き換えに、悪や自由が生じたのだから、悪を善に克服していくのが宇宙の役割となり、そのなかの最も低い立場の人間の役割ともなるのである。神々の謙遜により、融通無碍な自由な水が生まれ、ほとんど水人間ともいわれる人間には自由な意志が与えられた。同時に、宇宙には、永遠の名の下に、生じた水を浄化していかなければならないカルマが生じた。 そのカルマの元に人間は、宇宙の法則である道徳を元に自ら浄水していかなければならない。地球の物質的濁りを自らの浄水力で清潔にしていくことなのであろう。余談だが、御釈迦さん(仏陀)は水の主、水星と呼ばれる。その仏教の教えはどこか水の救いの印象を思い出させるところがあるだろう。 レオナルドダビンチの最後の晩餐の絵には、これら天使の物語が描かれているという。太陽の子キリストと、裏切り者ユダが同時に描かれているのはその表現だという。 「私と共にその手を皿に浸したものが裏切る」とキリストが言った晩餐の絵は、ケルビム智天使に捧げたトローネ座天使の犠牲を、我がものとして下降した裏切り者の悪魔ユダの赦しの絵図でもあるのだという。 キリストが太陽から下降し、できれば天使に命じてゴルゴダの磔刑を免れることもできたのにも関わらず、その意志を断念し、諦め、そのトローネ座天使の犠牲を、謙遜し自らの愛を導き、同時に人間の原罪を救うためにきたのも、悪魔ユダを救うために、不死となる自らの運命(カルマ)に準じたようでもある。 宇宙の全てのカルマはキリストのゴルゴダ磔刑に集約されているという。その表現がレオナルドダビンチの最後の晩餐だという話である。 これが月の誕生秘話だともいわれている。
2005年11月11日
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今日の夢は、競馬の夢だった! 前にも書いたがプチ馬主(クラブがファンド商品として購入した馬に、出資するもの;先物取引や不動産投資ファンドの類)をやっているので、その出資した馬(クラブ通仲間では愛馬と呼ぶ)が、出たレースの夢であった。 その愛馬(シュアリーゴールド号;一杯いるなかでなぜだか?)が、今週、佐藤哲三騎手で出る予定なのだが、なかなか走る気を起こさずに、ゲート入りを渋り、途中で競争をやめてしまうというような、不本意な成績に終わるという夢だった! 正夢なら怖いな? 他にも夢は色々見たのだが、生憎覚えていないのだった!
2005年11月11日
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昨日みた夢の意味がなんとなくわかったような気がした。昨日、ひょんなことから、ギリシャ神話のイカロスの翼の話題になったからである。 拙者、ギリシャ哲学には少々造詣があるのだが、神話になると、記憶力が悪いので、ギリシャ神話には、疎い。イカロスの翼の話は、聞くところによると、イカロスという者が、蝋でつくった翼を使って、太陽に飛んでいくのだが、警告を無視して、あまりに近づきすぎて、蝋が溶けて落ちてしまうという話らしい。 これを単なる創作話と捉えると、なんのことはないのであるが、昔話やギリシャ神話には、実は深い叡智と意味が隠されているのが普通なのだ! 少し深く考えると、なぜに、蝋のような熱に脆い物質で翼を作ったのだろうか? という疑問が湧くであろう。現代ならば、熱に強い軽い金属でつくるだろうし、宇宙空間にでるのなら、スペースシャトルのような耐熱耐圧完備万全なものをつくるのが現実的であろう。まあ、そもそもそこまでの想像が追いつかないだろうが? 神秘学によると、その理由が次のように明らかになる。ギリシャ神話とはいっても、ほとんどがギリシャ時代の(現代の言葉でいう)出来事を語ったのではない。それ以前の太古からの叡智の伝承、継承であるのがほとんどである。 イカロスの話は、蝋から、恐らく、レムリア期であると思われる。レムリア期とは、別名、月期ともいわれ、現在の地球期に先行する遥か昔の時代であり、勿論、そのときに、いまの鉱物からなる地球は存在しなかったといわれている。そのとき、いまの地球の原型はいまの月と一体化していたとされているので、月期と呼ばれているのである。 月期には宇宙に鉱物は存在せず、最低階層は植物であったとされる。勿論、植物といっても、いまある植物そのものではない。いまある植物は鉱物でできているので、いまある植物の鉱物部分を形つくっている生命体(コンピュータのハードに対するソフトのようなもの)のようなものであったとされているのである。 つまり、月期で、最も硬い現代で言う物質が、蝋だったのである。月期は、現在のような澄み切った空気ではなく、卵白のような蛋白質が溶け込んだ水蒸気を多く含んだものであったという。天と地もいまのように明確には分かれていなかったという。ただし、太陽はいまと同じように、月(地球)を外から照らしていたという。 蝋といっても、現在の蝋ではなく、その原型のようなもので、いまでいう繊維状のもので、植物の樹脂や人体でいえば軟骨に近いものだっただろうと推測される(勿論、鉱物ではない)。だから、イカロスは、恐らく月期の人間であり、地球期のいまでは、宇宙の進化分類からいえば、人間の1つ上の(守護)天使の存在であろう。 ちなみに、神秘学での人間の定義は、端的にいって、「わたし」と認識できる精神の存在のことを指す。動物には「わたし」という自我がみられないし、群れで1つ体をなし行動する(つまり種の集団に自我があり、これを動物霊と呼ぶ、動物霊は現世になく、あの世にある)。 月期の人間のイカロスに、翼を作り与えたのは父ダイダロスとあるので、ダイダロスはその上の大天使存在にあたると思われる。現在(地球期)でいえば、月人間イカロスの1つ上の月(守護)天使存在にあたるだろう。ダイダロスは、当時のいまでいう新素材の蝋で翼をつくり、イカロスに与えたのだが、同時に、太陽に近づいてはならないと警告を発したと、その神話にある。 父ダイダロスは、子イカロスよりも1つ上の進化状態にあるので、イカロスよりも叡智の面で抜きん出ていたに違いないし、太陽の存在も理解していたと思われるので、そのような警告を発したのだろう。ちなみに月期とは、人類が叡智を学び獲得する段階をも意味する。月期が終わり、地球期となり、彼ら月人類は、薄明の叡智の霊と呼ばれる。現代は愛と自由を学ぶ、愛と自由の地球期とされている。この地球期を充分に学び獲得した者が、自由の愛の霊となり、次の人類を指導するわけである。 さて、イカロスの翼神話の子イカロスは、蝋でできた翼を過信しすぎ、超えてはいけない領域を超えたわけである。進化段階を一段階昇格するには、御釈迦様の成仏でわかるように、現世になんの執着心もなく、現世の全てを理解し、次なる人類を導くだけの精神力(霊力)、いわゆる道徳心がないと、クリアできないのであるようなので、当時のいわゆる唯物論からなる翼があれば、太陽にも近づけると錯覚したのが、間違いだったわけである。 さしずめ現代でいえば、最新物質工学を用いたロケットで、太陽に近づき熱さで、物質が蒸発してしまうようなことを指しているのだろう。 飛んで火に入る夏の虫であろう? ちなみに、なぜ虫が火の中に飛び込むかというと、これまた神秘学では、虫は、宇宙の植物のような存在だと解釈されていて、植物がなぜ花を咲かせるかというと、地にあり、天への憧れの結実なのであると精神的に捉えられている。自らのなかから、天、宇宙に似せたものを抽出し、つくりあげた創作物が花なのであるとされている。だから、宇宙の植物である虫は、太陽という火や明るい源に向かって、その憧れから飛び込むのである。 飛んで火に入る夏の虫は、植物の花を咲かせる憧れの情熱行為と同等なのである。 イカロスも、人間として太陽の存在に憧れたのであろう。残念ながら、唯物論からなる翼は溶け、再び地の修行の場へと落とされてしまったが…。 唯物論では解決できない宇宙の神秘の話がギリシャ神話には存在する!
2005年11月10日
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今日の夢は、一風変わったものしか覚えていないのだった。その唯一覚えている変わっている夢は、キムタクが登場し、そこに見たことのない子供が、サッカーアルゼンチン代表のプリントサイン入りのユニフォームを着て、得意げにしているのを、それ何処でいくらで買ったの? と聞いているうちに、キムタクも遠まわしにその話にのってくるというような富士通のCMのようなもんだった! ただし、オチはなかった! そういえば、最近のCMは、下らないのも多々あるが、そのなかでも印象深く面白いのが時々ある、とくにダイワハウスのCMは好きだ! 好みから言えば、私は安易に売れっ子タレントを使ったCMはあまし好きでない。番組やドラマの延長にみえるからである。ただでさえ、番組、ドラマが企業宣伝により低俗化しているのに、更にCMまででは、メリハリがないだろう。 いままでで一番思い出に残っているCMは、「腕白でもいい逞しく育ってくれれば」というようなセリフがあったハムの宣伝と、「私は是で会社を辞めました」というような喫煙軽減のパイプかなんかの宣伝、チャールズブロンソンが出てきて「う~ん、マンダム」っていうCMも、当時、誰もがマネして(というかマネさせて)流行ったので覚えている。
2005年11月10日
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かって、経営の神様と呼ばれた松下幸之助は側近に、「金が無い、せめて法人税がさがれば」と漏らしていたという。 その時代に比べて、いまは、法人税が下がり、企業はリストラで人件費を削ったはずが、逆に赤字が増すばかりで、経営統合で、スリム化して、表看板を変え、ドサクサというか、イメチェンで、体よく見栄えをよくし、投資家の餌になり、投資を促すことで、粉飾し誤魔化す現状しかないというのである。それでも、まだ、赤字が増えるから、更に無駄が多いと切り詰めに走る。そしてどんどん赤字は、雪崩のごとく膨大になっていく。真に不思議この上ない。 そこで、次の荘子の文が浮かんだ(あるブログから失敬拝借)。………………………………………………………………… 「荘子」 <役に立たない、という効用> 荘子が山中を旅したとき、ある大木を見た。 樵夫(きこり)がそれを伐採しないことをいぶかって、なぜ切らないのかと尋ねた。 きこりが答えて言うには、「どうにも使いようがないんだ。」と答えた。 荘子はそれを聞いて、つぶやいた。 「この木は、能なしの役立たずのために、その天寿をまっとうすることができるのだ。 ………………………………………………………………… 思うに、無駄を省けということ自体が、無駄であることに気がついていない。 これは「例外のない法則はない」という法則と同じで、その法則自体が例外であるやもしれずに、結局、実質、何もいっていないだけのことなのだ! まるで、真実のように嘘を表現しているだけで、言ったかのように言っている虚偽、虚言にすぎない。虚偽こそ不正で、虚業も之に倣う。これこそ無駄口というものだろう? 日本はいまだにバブルに魘されている。 世間は生きている。理屈は死んでいる。 と、かって、勝海舟は言ったが、全くそのとおりである。無駄なものにされてしまった方が不運かもしれない。だから、無駄じゃないように無駄な振る舞いをする。そのためにどんどん無駄なエネルギー、努力がつぎ込まれ、やがて赤字が膨らんでいくのだ! リストラにより自殺者が増えた! 若者はニートになった! たった数人の無駄を省けと言い張り、その実その本人が無駄な存在にも関わらず、無責任な似非指導者が生き恥を晒すだけのパフォーマンスに、多くの平社員、下層階層の人々が死んでいった! これを殺人といわなくてなんというのだろうか? いまもこの国の指導者は無駄なコストのかかる赤字パフォーマンスに邁進している。 勝海舟は、福沢諭吉に、幕府を裏切った理由から、逆賊と罵られたとき、「批判、言動は他人のもの、行為、責任は自分のもの」として、全く意にかえさなかった。江戸の庶民を大惨禍から救った自負心があったからである。 西郷と勝の会談が不調に終われば、今日の東京はおろか、江戸期の日本文化はなかったであろう? 毀誉褒貶に一喜一憂するか、未来に栄光を求めるか、その器は自ずと知れるところだろう。 松下幸之助が、せめて愚痴だけで、実行にうつさなかったことが救いであった。なんといっても、企業は社会の一部なのである。公に私が優先することは自滅を意味する! 理想を失った私利私欲人間こそ、希望に満ちた貴重な明日を、無駄な時間に終わらせてしまうのだ!
2005年11月09日
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神秘学によると、我々は眠っている間に、幽体離脱して、宇宙空間に旅しているのだという。勿論、その意識はない。なぜなら、感覚器がついている肉体と、肉体をハードとするなら、それを動かすソフトのような生命体を置いてきているからだという。 昼間目覚めて、肉体と生命体を伴って、活動している以上に、眠っている間は、精神活動を営んでいるという。いわば、肉体を動かすエネルギーの活動体である感覚体とそのエネルギーをどこに集約させるかという、いわゆる自我を、精神活動の源である宇宙の精神世界へと充電(唯物的言い方だが)しにいかなければならないらしい。 もしも、エネルギーで例えた精神力のその充電が不完全であると、肉体を動かすソフトである生命体に異常が起こり、肉体を動かす調整能力が崩れ、調子が悪くなり、病気になるというわけである。精神力が充分に充電されないでいると、腺機能を通して、肉体を動かす力がうまくバランスよく伝わらずに、現在の物質となって、表に現れる肉体を裏側から支える未来の肉体の設計図(ファントム)が劣化していってしまうのだという。 どうも太古の東洋医学では、これを陽と陰の2つの気の流れとして表現したらしい。 昨今、人間力という言葉が巷を賑わしているが、これは精神力に他ならないと思っている。上述した精神力の充電には、相乗効果、これまた昨今よく使われているシナジーという言葉でわかるように、精神力の波長効果が共鳴し増幅しないと、精神世界とうまく交信できずに、充電できないようだ。 精神世界とうまく交信できるようになるには、目覚めているときに、できるだけ精神力を使って肉体を動かさないとダメで、それらは肉体を通して、生命体というソフトに、いわばログとして記録されるようだ。その個々のログが、周囲にどういう意味をもたらしたか? はたまた人類にどういう役割を与えたか? という道徳的評価を自らに課すようなのである。 つまり宇宙を創造するが如く道徳的に、有効なログだけが、生命体というソフトのなかから抽出され、それが波長となって、眠っている間に精神世界と融合し、シナジーを形成し、次の目覚めているときの活動のエネルギーとして再分配されていくらしい。 だから、目覚めているときに、道徳的な行動をしないと、どんどん精神力は衰え、肉体は衰退し、病気に罹っていくわけである。 キリストが、人はパンのみに生きるにあらず。天に金を積みなさいといったのはこういうことなのである。 神秘学では、これらを天使との交わりで表現する。人間は、目覚めているときに、いかに道徳的行為をするかによって、眠っているときに天使、大天使(民族霊)、権天使(時代霊)に出会うことができる。そして、その出会いで精神力が強化されるのである。 ひるがえって、現代をみると、精神力は強化されるどころか、唯物論全盛のお陰で、精神力は脆弱される方向に向かっている。物質力に頼ろうとしていると、どんどん精神力は衰えていく。それは自ら創り出すのではなく、他からとってくることを意味するので、いずれ、大きな機能的物質体の一部にとってかわられてしまうだろう。それが意味するものは獣である。人類の将来はこのままでは果てしなく暗い。 資本主義とは競争による物質力の争奪戦に他ならない。現代のエネルギー問題は、エネルギーの奪い合いでしかない。これは自ら創り出す精神力を失ったからだ! 真の温室効果問題というのは温度上昇ではなく、生命力喪失のことなのである。植物が失われ、エネルギー消費により、二酸化炭素が増えているのは表面上の出来事にすぎないのである。 金に買われる存在に堕するよりも、道徳という宇宙の金を生むような存在になれ!
2005年11月09日
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今日の夢は意外と明解に記憶している。どんな夢かというと、鳶職にもなったような鳶職の競技のようなもので、その夢のなかではサバイバルゲーム(実際のサバイバルゲームとは全く違って戦いはない)と呼んでいたように思えた。そのサバイバルゲームは、共同して、建物の廃棄された建材や骨組みブロックを使って、できるだけ高く構築するように、山登りの感覚で組み上げていき、自らが独りで降りられると思われるまでの高さの範囲を競うというものだ! そのゲーム出演者は例のごとく野球チームの御馴染みメンバーで、高所恐怖症の私は、他のメンバーがどんどんと共同して組みあげていくのを、恐る恐る登っていく按配だった。ちょうど自分のなかで頂点にきたとき、これ以上いくと、かなりやばいなという恐怖感があり、降りるにも恐怖で、じっとしているしかなかったところを、まるで綱渡りの綱にしがみついている感じで、みかねた仲間(野球チームの後輩にあたる友人)がやってきて、「こんなものはこう渡るんだみていな」といって見本をみせて渡っていく後を追っかけていってどうにか、事なきを得たというか地についた感じであった。 地に降りたあと、地というよりも、プールで泳ぎ上がってきた感じに近かったのがいかにも夢らしく、それから、どうにも不思議な女性に会うのだが、いままで出会ったことがない魔性というか、今風の外見重視、知性主義の肩書き、プライドに拘るような性格だったように思える。この女性は、プールあがりの人たちから、彼氏を誘惑しているような感じで、女性に弱い我々にも色目を使ってくるのだが、なぜか東大一流大のレッテルに拘り、我々が全くそんなものから程遠い存在だと知ると、プイと去っていき、次の獲物を狙っている感じのようだった。 あの女性は何か悪魔のような予感がしたのが気にかかるところだった。つかまらなくてよかったという安堵感と、何者なんだろうという好奇心が気にかかるうちに目が覚めたのだった!
2005年11月09日
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最近、夢の覚えがよくない、今日の夢も、うろ覚えである。どこかのホテルのようなところで、研修か、合宿をやったような夢だった。高校時代の友人がいたような気がした。その友人は、高校時代は真面目だったのだが、大学にいってから、弾けたというか男子校のギャップを埋めるべく、プレイボーイ活動に勤しんだという噂だった。 そいつとは、これまた高校時代の友人の結婚式の2次会で、久しぶりに会ったが、高校時代とはイメージがあきらかに変わっていた。確かに女にもてそうなホスト系のノリだった。一応、結婚して子供もできたらしいが、相変わらず、お遊びは続けているようである。その結婚式の主役の友人曰く、「あんなにきれいな嫁さん貰いながら、遊んでいるなんて気がしれない」と、よくそいつのことを愚痴っていたが、いまや結婚して、その後の感想を聞いてみたいもんだ。 美人は3日で飽きる。ブスは3日で馴れる。 とはよくいったものだ! そういえば、その結婚式の2次会のとき、そいつとそいつよりはやく結婚したこれまた高校時代の友人は、いまだに独身でいる私のことを、非常に羨ましがっていたが、それほど遊んでいない自分にとっては、どうでもいいことだが、結婚ていうのは男にはなんらかの束縛感を与えるのかもしれないな?(とくに遊んでいる奴は?) 結婚したって遊んでいる奴はいるし、不倫までしているやつがいる。ただ、後始末が大変なだけで、独身だからって後始末がないわけではなかろう。後始末が大変だからといって、独身がいいというのなら、結婚しなきゃいいだろうに。全く、勝手な言い草であるからいまだに記憶しているぞ! そいつらに、その場では言えなかったので、この場で言うが、人間は皆それなりに悩んで生きているんだ! 他人を羨む浅ましさをなくした方がいいぜ! 自分の選んだ人生を黙って生きろよ!
2005年11月08日
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お釈迦さまが、人生の師匠だとすると、自分のなかでは、愛と自由の師匠はキリストということになる。 お釈迦さんに比べると、年代的には現代に近いのにも関わらず、謎が多いのはなんでだろう? 恐らく、お釈迦さまは長生きし、布教活動も長かっただろうが、キリストはわずか3年しか活動しなかったからかもしれない。 米国の有名な霊能者エドガー・ケイシーは、キリストに関連するリーディングで以下のように語ったことがあったという。 キリストは人間ではない。イエスは人間であった。 かなりのキリストの研究家、神学者であったとしても、この意味はわからないであろう。 しかし、次のように言葉を補えば意味は通じる。 キリストは人間ではない。なぜなら、太陽霊(神)のことであるからであり、 イエスは人間であった。なぜなら、歴史上、紛れも無く人間としてこの世に生活し、生き、処刑され死んだからである。 このように、書かれたとしても、恐らく概念形態の思考性に富んだ西洋人は、その意味を受け入れ難いに違いない。 だが、日本人、特に30代から40代の人には理解しやすいように思う。それは、SFではあるが、ウルトラマンというドラマで、イメージが捉えやすくなっているからだと思う。 ウルトラマンでは、M78星雲の平和の使者が、人間にいわば一心同体となって、融合し、地球に怪獣が現れ、危険になるときに、3分だけ変身し、戦う。これは、イエス=キリストという人間=神の存在の理解の助けになるであろう。 つまり、太陽霊キリストは、3年間だけ、イエスの身体を借りて、この地に、愛と自由の概念の布教活動を行ったという意味なのである。 ウルトラマンはそのいわば複線たるドラマストーリーになっていることに驚くだろう。更に、この背景に、奇想天外な以下の話もつけ加わってくる。 第1次大戦中に生まれた日本人の前世の多くが、かってヨーロッパに移住し、南から北へとキリスト教が浸透した経験を有している人が多かったという話がある。つまり、前世当時、今日発展する前の純粋なキリスト教に感化を受けた野蛮な当時ヨーロッパの人々が、次世で、全くキリスト教とはほとんど関係のない島国日本に生まれ、第2次大戦で、太平洋戦争となり、米国から発する今日と似たような理論概念的なキリスト教と対面するにつれ、日本人のなかの多くが自己犠牲という愛を伴って死んでいったのは、この世で非常に教育的配慮がなされている証なのであるという説がある。 神秘学によると、人間は生まれる前に自分の今生での宿命をみているのだから、およそ、せっかくの人生が自己犠牲で終わる行為に、共感できるはずもないであろうが、それでもあるとするならば、魂のなかに、自己犠牲による太陽霊キリストへの愛と自由への共感に他ならないというのがこの説の裏づけでもある。 それは、実際、太陽霊キリストが、この地に、イエスというアダムからの直系の身体を、ヨハネの洗礼により、かりて受肉し、3年の布教活動の後、人類に自由という選択のため、愛という犠牲をゴルゴダの磔刑により、成就したその芸術的表現に、共感をし、自らもその愛に行為を捧げる覚悟をもって、転生した魂たちだというわけでもある。親から子に受け継がれた愛の表現でもある。 そうして、自らの自由意志のもとに、次世への運命へと愛をもって立ち向かう。なによりも自由には愛の犠牲が伴うからである。 小学生のとき、先生に自由には必ず義務が伴うと教えられたが、もはや、義務のような強制ではなく、自由意志による愛の犠牲が求められるというべきなのではないだろうか? お釈迦様はかって、ブラフマンとして現れた太陽霊キリストにより庇護されたが、キリストが地に現れ活動したときに、今度は、お釈迦さんが、キリストの背後で庇護したといわれる。 そして、キリストの目的は、天から悪を救うために地にやってきたのである。お釈迦さまが覚りを開いたあと、悪を救うために、小乗(上座部)から、大乗に発展し、布教したように、救いの思想がキリストの名であり、信念なのである。しかし、そこに自由意志を欠いてはならない。それこそ犠牲の愛の表現であるからであろう。 キリストにより、「魂を仏として神に献上しなさい。」という強制形はなくなり、「魂を仏として神に献上する喜びをあれ!」となるのだろう。 自由という名の基に犠牲により愛を与えた人類は、自由の愛の霊として、後の「わたし」という自我をもつ人類を指導していくといわれる。 しかし、キリストを語るのには、紙面が少なすぎるので、徐々に増やしていきたいように思う。
2005年11月07日
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人生とは何か? ていうことに哲学よりも、その生き様でみせてくれた人物は、やはり、お釈迦さんではなかろうかと思う。 やっぱ、お釈迦さんは、人間の生き方の見本を示してくれた人物だろうよ。 八正道が人間の理想の生活スタイルなんだろうね。 段階によって、人夫々の八正道があるだろうが、お釈迦さまはその究極的理想の模範だろうね。 1.何事にも理想を追及する。 2.常に偏見をもたずに、自由な発想でいる。 3.愛情にあふれた言葉を使う。 4.与えられた苦痛や病気、命を克服する。 5.規則正しい礼儀を重んじた生活を送る。 6.常に前向きで、芸術的な創造活動を行う。 7.調和を保ち、バランス感覚をもつ。 8.自己とは何かを反省し、自分の悪いところを改善する。 ていうところかな。云い易く行い難しだろうが、だからこそこの世は苦なんだろうね? やはり、苦あれば楽ありといいまして、この苦を克服しないと、幸福感には浸れないんだろうな。四苦八苦も、転じれば、四幸八福になるだろうね。それはやはりお釈迦さまが、その見本をみせてくださったわけだ! そして、至上の幸福のうちに、入滅していったんだろうね。 で、御釈迦様の人生を振り返ってみる。 御釈迦様は、菩薩としてこの世に生まれる。菩薩とは、霊界(人間が天使の領域と呼ぶ下位階天使領域)と交信できるいわば霊能者として生まれた。生まれた途端に立ち上がって、天上天下唯我独尊と言えたのは、まさしく菩薩の力であろうね。菩薩は、人類を導く意図をもってこの世に生まれてくるので、自明のことなんだろう。 「天上から命じられ、天上の教えを、天下に独りもたらすのは我のみ」という意味でもあろうし、人間というのは天上天下唯我独尊の存在にならねばならないという意味でもあろう。天から使わせられた人の言葉は、常に2つの意味を持っているようにみえる。なぜなら、あの世(霊界)でも、この世でも、共に同じ響きをもっているからであろう。これはキリストにもいえて、その語る言葉も同じ響きをもっている。 あの世とこの世は反対の意味を持つのだけど、あの世でもこの世でも全く同じ意味に聞こえるのだ! 逆にいえば、偽者は、この世でのみ語り、ウソや偽りがあるから、すぐに仮面がはがれるということでもある。偽者は言葉で語るが、本物は言葉の奥にある言葉を発する源で語るからであろう。 お釈迦さまは菩薩で生まれたけど、それでもまだ満足せずに、更に上位の霊界の神々と交信しようとするわけだ。霊界というのは、不思議というか理に叶っているというか、最上位部が最下位部につながっているようだ。この物質界が実は、最上の霊界(上位階天使領域)につながっている(最上の霊界は、神界から直接命令をうける立場にある)。 そこで、お釈迦様は、より上位の神々を求めて、古代インドからの秘儀参入者を訪ねて教えを乞う旅にでるわけだ。色々な修行方法を試し、秘儀参入法を創作する。そして、菩提樹の下で覚る(人間が神々と呼ぶ中位階の天使領域と交信に成功する)。 そのときの悟りのいきさつは興味深いものがある。秘儀修行者が、秘儀参入者として、人間が神々と呼ぶ中位階の天使領域との交信に成功する前に、必ず悪魔が現れる。悪魔は下位天使領域に存在するものだからである。悪魔の誘惑に屈し、失敗すると精神異常者になる。似非宗教教祖がいい例である。エゴイストまるだしの独裁者に近い精神主義者などもこれにあたる。 お釈迦さんは菩薩であったし、菩薩はこれまでこの世で何度も輪廻転生を繰り返し、あと1回で、もはやこの世に転生しなくてもいいリーチ状態で、生まれてくるので、器が違うというか、神聖視するわけでもないが、至極の苦労人なわけで、それが生まれた当初からの子供のときの鬱に現れているわけだ。 そんなわけで、悪魔の誘惑、より正確にいえば、人間のなかの感情や感覚を司る神経体とでもいうべきところに、悪魔の考えを寄生させ、奴隷隷属化させるような状態を断ち切り、より上位の霊界の霊たちと交信するのに成功するわけだ。悪魔を断ち切ることで、その感覚体に、霊を感じる五官を捉える感覚器チャクラ(蓮華)が開発され、この世(幻)の背後にある真の現実をみて、至高の清浄感に浸るわけだが、そこにブラフマン(梵天)という神が現れ、その教えを説きなさいと諭すわけだ。 お釈迦さんはとてもじゃないけど、自らの体験を言葉にすることなどできないので無理だというわけだが、ブラフマンは、御釈迦さんをこの世に使わしたのがまさに自分であり、その目的が、御釈迦さん自らの体験した覚りをエキスとして、他に続く人類のために、その教えとともに、霊性を忘れた地の世に、天の華を咲かせることだとして、論破したので、ブラフマンのお加護の元に、布教活動をはじめるわけだ。 キリスト教の密教にあたる秘教では、このブラフマンこそ、太陽霊キリストの化身だとされている。 長々とトンでもな話を書いたが、信じる信じないのはその人の自由に委ねられるので、それはともかく、神秘学から解読する般若心経は以下のようなものであろう。 観自在菩薩(仏陀のこと);菩薩として生まれ、八正道を実践し、覚り、蓮華を開発して観自在となった仏陀は、その人生を通して、苦を感じ、幻を捉える五官を克服し、感覚から超越し、自由になり、超感覚を身にまとったので、空の存在(最上位の霊界と交信に成功し)となり、その人生の意味を知り、仏こころ(幸福)を会得した。 仏陀は覚りを開いたので、災い転じて福となした。 私に続くものなら、お聞きなさい。この世はあの世の計画のもとにできているのだ。あの世(霊界)の上位階の天使領域の霊の意志の元に、宇宙が協力してこの世が現れているのだ。すなわち、この世で捉えるならば、それは空という表現しか見い出せないであろう。なぜならば、この世は、気持ち次第に揺れ動くからである。いまのあなたが未来の世を開く。 よく聞きなさい。この世がいまあるのは、過去とたったいまの人間の気持ちから生まれたのだよ。だから、いまの人間の気持ちが、明日をつくるのだよ。 だから、一方に傾く偏りはよくない。元々は我々の気持ちが明日をつくるのだから、我々に偏り、偏見があれば、それは将来、差別や住み難い、闘争を生ずべき未来をつくることになる。いまある執着心は必ず未来のシコリとなって現れるだろう。 融通無碍で、円通自由自在に 我々のこの世での感覚は頼りないものですよ。一時の感覚に固執し麻痺するとしたなら、未来は滞り行き詰まってしまうでしょう。何事にも循環があります。創意工夫して、執着心から自由になり、悪を善に転化することです。そうすれば、未来は現在よりも確実に明るくなるのです。それには独り独りの人類の気持ちにかかっています。 在るものは無いのです。いま見えるものは明日には無いのです。いまみるのではなく、明日をみることです。そこに真実がある。 この世にはいずれ別れが訪れます。いつか老いて死ぬのです。人間は、人生で、一時も静止、止まることはなく、常に流れされ、流れているのです。流れるものを掴もうとするなんて野暮なことはやめましょう。それよりも流れることで、石に苔がつかないように、丸く自由に学ぶのです。他のものを所有するのではなく、自分のなかにあるものを実感するのです。 この世は借りの住まいです。借りの住まいの基に築く生活を理想としましょう。 この世は、自己鍛錬の修行の場です。この世は、自己という形が未開な、だけど光得る宝石を研ぐ、ヤスリです。では、真実から発する言葉を掲げましょう。困難に出会ったり、悪魔に誘惑されそうなときに、自分を目覚めさせるために唱えるのです。 掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎詞 この世では、自らが生まれ、未来という理想に羽ばたくために、死を与えられる あの世では、死により置き忘れてきたことをなすがために、自己は再び再生を願う この世では五官や認識の限界を超え、苦を克服し、あの世では、時間の限界を超えて、成すべきことを成せ。 自らを神から与えられた尊い魂として自覚しえる者が、魂を霊として向上しえる。 魂を仏として神に献上しなさい。
2005年11月07日
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昨日、爆笑問題の報道番組もんをみていたのだが、例の女子中学生タリウム殺人事件と、身体にいい中毒主婦生活をやっていた。 どちらともに異常ということにつきると思った。異常とは、常識を失い、バランス感覚が麻痺した状態だと思う。これを常軌を逸した行動というのだろう。 中庸、中道、中立というのが人間の理想であろうことは、昔からいわれてきたことである。現代にはとにかく、このバランス感覚が退化してしまったのでは? と思うことが多々ある。 日々生活は秩序だったものから構成される。リズム、パターンというものがあるだろう。伝統の有難さがここにある。日本の形式美がここにある。 いかによいからといって、過剰な摂取や、リズムや社会の規律から逸脱してしまうものは、害悪なのである。そういう広い見識が抜けてしまったように思える。 人間が社会のなかで平和に長く永遠に暮らすには、秩序とリズム、調和は不可欠なのである。伝統が人間性を失い、形骸化し突出してしまうのはよくないが、伝統のなかにある人間性を深く考えさせるには、よい手本となる昨今の出来事であるだろう。 とにかく日本人は、感謝のこころを忘れている。物にこころを込めるということを失った。物事を知的に解釈しようとするから、こころが離れるのだろう。 かっての日本人には、物事には全て仏や神様が宿るというこころがあった。そこから、感謝のこころが生まれる。 宇宙、自然があってはじめて人間は生きていられるのである。人間が4本足から、立ち上がって2本足となったのは、バランス感覚のお陰なのである。宇宙、自然のなかでのバランス感覚なのだ! 2本足で立つこのバランス感覚を失ってはならない。 お釈迦さんは、人間の理想の生活の模範を示した! 天上天下唯我独尊と立ち上がったのである。 いかに身体にいい、頭にいいと知識で理解しようとも、体験を積むのは人間が全身全霊で行うこと。頭でっかちこそ、有害なのだ! バランスがとれてはじめて独立し自由の表現が可能となる。4本足から2本足になり、手が自由になり、会話が生まれ、思考ができ、そして言葉が生まれた。そして知識となるが、それは枝葉末節なのだ! 知識から生まれるのではない。バランスからうまれるのだ! あらゆる宇宙、自然の力が結集し融合しそして生まれるのである。 どんな仕事も独りで成す事は無い。全体の一致の協力が成すのである。そして、バランス感覚は他者との交わりにより自我に認識されるのである。 身体にいいといっているその身体とは何かも知らずに、妄信するのはよくない。頭にも、脳ですら何だか分かっていないのにも関わらず、一体、何がいいのか? 全く不思議この上ない現代の知識である。
2005年11月07日
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土日はどうしても夢を忘れてしまう。金曜の夜から競馬漬けで、朝起きてまず、グリーンチャンネル(スカパーの農業専門のチャンネルというよりも中央競馬専門チャンネル)を、みなければという思いが先行してしまうせいなのであろうか? では、今日の夢はどうかというと、これも思い出せない。確か、競馬をやっている夢のような気もする。負けがこんできたので、やる気も失せているのだが、習慣がそうさせてしまう。習慣とは恐ろしきものなりや…。 昨日もめっきりたんまりと負け越してしまったが、相変わらずテレビもつまらないし、スカパーをそのままみていたら、フジのチャンネルで、昔のドラマ、タイトル忘れたが、女のなんとやらか(女友達3人組のドラマ)をやっていた。水野美紀フリークなので、ぼやっとしながら見てしまったら、なかなかハマッテしまった。 なぜハマッタかというと、主人公深津絵里だったかの姉役のダンナと、主人公の女親友とが不倫の関係(ドロドロというより魔がさしたようなもの)になり、主人公が板ばさみになるのだが、結局、女親友が、主人公との友情を大事にしたという女同士の友情というなんか男同士にはよくありそうなもんが、女には果たしてあるのか? というようなもんをみせつけられたしまったからでもある。この話は男じゃ、ドラマにはなんないだろうなとも思った! まぁ、とにかく男の弱さと女の強さがよく描かれたいたドラマだったじゃぁ。 そのあとに、「ビリージョエルの素直なままで」が流れて、なんかいい雰囲気を醸し出していたので、すかさず、ビリージョエルのCDを取り出して、続けて聴いたのだが、なぜだか、昔、日テレでやっていた「知ってるつもり」という番組の最終回のビデオが、ふと目に入り、仏陀の特集だったのだが、仏陀とその次のキリストをみながらの途中で(さすがに深夜に深けたので)寝てしまったのだった…。
2005年11月07日
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今日の夢は、意外に盛り沢山だった。クラブかバーみたいなところで接待をしたようなものから、例の野球チームの合宿やら、終いには自宅の2階が持ち去られ、崩壊してしまう変な滅茶苦茶なものだった! クラブかバーみたいなとこの接待の夢は、大学院時代のど派手な知人、当時バブルの六本木を遊び廻っていたやつ(はっきりいってあまり好きでなかったやつ)が、出てきて、そいつが、色々な女性を呼んで来て、誰か(思い出せない)を接待しているのを、脇でみていて、お金の心配ばかししているのが、自分であったが、結局、3千数百円という、格安な料金で済み、四千円払って、バイバイしたというどうもよくわからないものだった。 次のものは、前に書いた例の野球チームの合宿で、トラウマなのか、結構よく夢にみるのだが、例の如く、試合ではない練習をやっていて、場所は田舎のグランドだったような、チ-ム内で通称アニキと呼ばれるアニキがピッチャーで、投げた球を自分が打って、センター深くに打球を飛ばしたのだが、余裕の二塁打だと思い、二塁に滑り込んだときに、なぜかボールが返球され、二塁上で、タッチアウトになったようなものだった。 3番目のは、物凄く不思議なもので、自宅の2階でくつろんでいると、いつの間にか、2階ごと、トラックのようなものに乗せられ、運ばれ、見知らぬ場所に移動させられ、家族全員で、運んだやつに文句をいうのだが、その運んだ連中が、全員外国人で、トラックがいつの間にか、外国人不法入国者を運ぶバスのようなもんに変わっていて、訳が分からずに、立ち往生し家族会議をしている間に、2階が崩壊して、目が覚めた。 今日の夢の解釈は非常に難解だと思われる…、なんか嫌な兆し…。
2005年11月04日
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今日の夢は全く覚えていない。寝る前にしっかりと夢を覚えようという意識づけが必要なのか…
2005年11月03日
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今日の夢は覚えておりません。夢のなかで夢を覚えなきゃという自分がいて、よし覚えたぞという実感があった夢をみたのですが、肝心の内容は忘れてしまいました。そこで、前に確かみたような夢を書きます。 それはわが国の総理の姿が死神のような貧相な格好をして歩いているのに、誰も見向きもしない風景でした。貧相だからこそ相手にしないのかも?。あれほど、注目を浴びた政権だったのに、もはや、誰も相手にしないような雰囲気で、よくもああいう人を持ち上げてきたもんだと実感した夢でした。その姿はあまりに生気が抜けたみすぼらしいもんで、スルメのようなパサパサの皺くちゃ妖怪でした。水木しげるの描く子泣きジジイをガイコツにしたような感じ…。 時勢というのは、勢いがあるうちが華です。その勢いがなくなれば、まるで夢で、何事もなかったかのような感じ…。 国破れて山河あり 日本の将来だとしたら、悲しい結末です。
2005年11月02日
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最近、夢の覚えがよくない。今日の夢もあまり覚えていないが、カラオケらしきところで、平井堅の歌を唄ったような気がする。「瞳を閉じて」だったような…。ちょっとというか、大分、古い曲がでてくるとは、純愛でも求めてるのか。その歌で、妹の子供、生後6ヶ月の赤ちゃんだが、立ち上がって話をしたような夢をみた。あまりにヒドイ歌だったか、あまりに素晴らしいかのどちらかだということだろうか? ちなみに、カラオケには自信がある。赤ちゃんが何を話したかは???
2005年11月01日
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