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2021.04.05
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カテゴリ: 気になる本
図書館で『熱帯』という本を手にしたのです。
神出鬼没の古本屋台「暴夜書房」ってか・・・奇妙な本ではないか。





森見登美彦著、文藝春秋、2018年刊

<「BOOK」データベース>より
沈黙読書会で見かけた『熱帯』は、なんとも奇妙な本だった!謎の解明に勤しむ「学団」に、神出鬼没の古本屋台「暴夜書房」、鍵を握る飴色のカードボックスと、「部屋の中の部屋」…。東京の片隅で始まった冒険は京都を駆け抜け、満州の夜を潜り、数多の語り手の魂を乗り継いで、いざ謎の源流へー!

<読む前の大使寸評>
神出鬼没の古本屋台「暴夜書房」ってか・・・奇妙な本ではないか。


rakuten 熱帯


『熱帯』という謎の本が出て来るあたりを、見てみましょう。とにかく長い前ぶりであるが。
p12~16
 台所へ行ってみると、昨夜の残りのポトフがあった。甘い小さなカブやソーセージ、ニンジンの切れ端が見えるが、残りはホトンドジャガイモであった。
 「これではポトフではなくてポテトフだな」

 私の住まいは奈良某所高台のマンションにあって、べランダに面したガラス戸からは奈良盆地を見渡すことができる。私はポテトフを食べながら夏の奈良盆地をぼんやり眺めた。こってりとしたクリームのような入道雲が青い空に浮かび、遠方の山々は未知の大陸のように霞んでいる。眼下の街に散らばる濃緑の森や丘は、南洋に浮かぶ島々のようだった。

 こんな風景を他の場所で見たような気がすると私は思った。ぼんやりしているといろいろなイメージが浮かんできた。それは少年時代に家族で出かけたキャンプの思い出だったり、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』だったり、スティーブンソンの『宝島』だったり、ジューヌ・ヴェルヌの『神秘の島』だったりした。しかし何か肝心なことがひとつ思いだせない。それは先ほどの妻との会話に関係しているような気がする。

 私は台所で林檎を剥いている妻に声をかけた。
「さっき何の話をしていたっけ?」
「引退の話?」
「そうじゃなくて…」
「千一夜物語?シャハラザード?謎の本?」

 私はスプーンの手を止めて考えこんだ。
 謎の本、という言葉が私の脳味噌をちくちく刺した。
 私が「熱帯」と呟くと、妻が怪訝そうな顔をした。
「熱帯?」
「そうだよ、『熱帯』だ。思いだした」

 それは私が京都に暮らしていた学生時代、たまたま岡崎近くの古書店で見つけた一冊の小説であった。1982年の出版、作者は佐山尚一という人物だった。『千一夜物語』が謎の本であるとすれば、『熱帯』もまた謎の本なのである。
          ◇
 私は学生時代を京都で過ごした。
 北白川にあった四畳半アパートの一室は壁一面が本棚になっていて、私は新刊書店や古書店をめぐり、コツコツと本を買いそろえていった。

 本棚というものは、自分が読んだ本、読んでいる本、近いうちに読む本、いつの日か読む本、いつの日か読めるようになることを信じたい本、いつの日か読めるようになるなら「我が人生に悔いなし」といえる本……そういった本の集合体であって、そこには過去と未来、夢と希望、ささやかな見栄が混じり合っている。そういう意味で、あの四畳半の真ん中に座っていると、自分が心の内部に座っているかのようだった。

 無人島のような四畳半に籠もって本を読んでいるうちに、その本で得た知識を立身出世に役立てようとか、黒髪の乙女を籠絡するのに活用しようとか、そういう殺伐とした了見はきれいに消え去り、ただその本を読んでいるだけでよくなって、ふと気がつくと窓外には夕暮れの気配が忍び寄っている。そういうとき、いままで自分が夢中になっているものが現実には存在せず、ただ紙に文字を印刷して束ねただけのものだという事実に、あらためて不思議な感慨を覚えたりした。

 そうして大学四年目を迎えた8月のことである。
 その8月というのは、それまでの人生でもっとも曖昧で北白川界隈をぶらぶらしていた。司法試験に落第して同じように百万遍界隈をぶらぶらしていた友人と、ママチャリで琵琶湖を一周して死ぬような思いをしていたことを思いだす。自分たちを痛めつけるおとによって鬱屈を振り払おうとしたのだろう。

 とにかくあの夏はひどく暑い夏だった。
 京都の夏、四畳半アパートは人間の住まいというよりはタクラマカン砂漠に近い。ボーッとしていると死ぬ。そういうわけで私は毎日、涼めるオアシスを探しにいくことにしていた。よく出かけたのは平安神宮のある岡崎界隈である。
(中略)

 二条通を鴨川に向かって進むと「中井書房」という古書店があったので、岡崎へ出かけるときには立ち寄ることにしていた。

 佐山尚一の『熱帯』を見つけたのはその店である。
 入口の脇に置いてある「百円均一」の段ボールを覗くと、その本が目に入った。どうして買う気になったものか。古風なデザインが気に入ったのかもしれない。どうせ値段は百円だったし、時間だけはいくらでもあったのである。

 私は『熱帯』を買うと自転車を走らせて岡崎の勧業館へ行った。
(中略)

 そこで私は『熱帯』の頁をめくった。

 汝にかかわりなきことを語るなかれ
 しからずんば汝は好まざることを聞くならん

 そういう謎めいた文章によって『熱帯』は始まる。
 それがどんな物語であるかということを一言で説明することは難しい。推理小説ではないし、恋愛小説でもない。歴史小説でもないし、SFでもなく、私小説でもない。ファンタジーといえばファンタジーだが、それでは何も説明したことにはならない。

 とにかく、なんだかよく分からない小説なんである。
 物語は、ある若者が南洋にある孤島お浜辺に流れつくところから始まる。どうやら難破したらしいのだが、若者は記憶を失っていて、自分が誰であるのか、どうしてここにいるのか、この島がどこなのか、何ひとつ分からない。やがて夜明けの砂浜を歩きだした若者は、美しい入り江と桟橋を見つけ、「佐山尚一」と名乗るひとりの男に出会う。



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Last updated  2021.04.05 00:06:39
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