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雑草を除去せず作物と共存させる、農地を耕起しない、殺虫剤や化成肥料を撒布しないなど自然農法を提唱するグループがある。環境面から捉える考え方としては、これら一般的に自然農法と言われる方法は正しいのかも知れない。純然たる自然の営みのみを考えれば農地にも人の手が入らない方が良いことは理解できるが、この内のどれを実行しても提唱者の意見に反して収量は上がらないし、不揃いな売り物にならない作物しか収穫できない。不耕起栽培では、水稲で成功したとの報告がある。しかし焼畑農法など特殊なものを除いて一般に畑地で不耕起栽培をおこなうと、大根・ニンジンなどでは又根ができたり、あるいは大きさが不揃いになって売り物にはならない。田畑の耕起は、農耕文明が定着して以来行われて来た農業の方法である。作物が生育するにつれて、周囲の土壌が固まるので土を耕す必要がある。また雑草を取り除いたり作物の株元に土を寄せて雑草を抑えたり、作物が倒れないようにすることも行われる。作物を作り続けると土は硬く固まってしまうため、これを耕す必要がある。戦前まではこれらの作業は人力や牛馬の力に頼ってきた。オーストラリアのハワードが父親の農場で蒸気を動力とした耕耘機の研究を行い、L字型の金具の回転による土壌の耕起を思いついたという。この方式のものを一般的には、耕耘機(カルチベーター)といっている。主にロータリーによって、耕耘する型のものが多い。そのため「テーラー」という和製英語で呼ばれ、耕運機と表記される場合もある。現在日本で使用されているカルチベーターには、乗用トラクター用のものと歩行用トラクター用のものとがある。一般的にはエンジンを動力源としてロータリーを回転し、人が後からついて歩く。比較的大型で汎用的な目的で使われるトラクターと違い、耕耘機は専ら耕耘するための専用機で車体が小さく軽くできている。1955年には約8万台であったが、1967年には300万台以上もの普及を見た。現在の耕耘機はエンジンやロータリーが改良されて、かなり小型で高性能なものになった。昭和27年ごろに実家でも、一早くクボタテーラーを導入した。それまで牛が動力源であったが、牛による耕運の何倍もの能力があって驚いたものである。当時画期的な農耕機であったカルチベーターも、昭和50年代以降になると耕地整理で耕地の区画が大きくなり、大型動力機械や除草剤の普及もあって使用されることが減少した。現在では小型耕耘機はもっぱらトラクターが入れない小区画、あるいは山間地での耕作に利用される。また農業を趣味として楽しむ層の掘り起こしを狙って、より小型の耕運機が発売されるようになっている。動力もジーゼルやガソリンエンジンに加えて、より手軽に扱えるガスボンベや電気モーターを利用したものが開発されている。これらの機械は、能力不足が原因で本格的な耕耘作業には不向きなことが多いので、耕耘作業にはその用途に見合った機械を選択することが大切である。私は山荘に付属して70坪の菜園を耕しているが、年々人力での耕起が大変になってきたので今年から電動カルチベーターを導入した。畑が山荘の前に有るので、幸い電気は山荘から取ることができる。100年振りと言われる、1.5mの積雪も漸く融けて畑の土が顔を出した。積雪の影響で例年よりかなり遅れて、ジャガイモの植え付け準備のため初めて電動耕運機を使用した。人力では一日も掛かるのに、30分ほどで耕起を終えることができた。
2014年03月31日
生物史上で生命の誕生に次ぐ様な最も劇的な進化は光合成であり、それに次ぐのが雌雄分化であるといわれる。生物が雌雄に分化したのはかなり古く、生物史初期の藻類の段階からである。雌雄に分化したことにより生物は著しい進化を遂げて、やがて節足動物や脊椎動物、爬虫類や哺乳類の誕生となった。雌雄に分化しなかった生物は無数に存在しているが、その多くはバクテリアの段階に留まっている。雌雄に分化した方がDNAの変異がより多様化するので、環境の変化に対する適応能力が大きくなり急速な進化が可能になったとされる。DNAによる進化は安定性を保持しつつ他方では変異を作り出すことになったが、さらに劇的進化の突破口となったのが安定性の高い雌性と、より変異性の高い雄性への分化である。雌雄に分化した生物は進化によって性の差別化が進められ生殖はメスの役割、危険性の高い闘争はオスにと役割分担が進んだ。脊椎動物では魚のメスは卵を産み落とすだけで子育てをしないが、爬虫類のある種では卵を温めて孵化させるものが現れ、哺乳類になると胎内保育と出産後も長期間子育てに携わる様になる。進化するにつれてメスの生殖に対する負担が大きくなってゆき、その分闘争負担は小さくなってゆく。オスでは逆に生殖に対する負担が小さくなり、その分闘争負担が大きくなった。したがって、オスが子育てをする哺乳類は殆どいない。哺乳類は一般に内雌外雄の二重集団構成を取っているが、メスと子供はオスの内側で外敵からオスたちに守られて存在する。植物の世界では多くの花は、一つの花に雌しべと雄しべを持つ両性花である。これに対して雌しべか雄しべのどちらかしか持たない花は、単性花という。また一つの株に雄花と雌花が咲く雌雄異花と、どちらかの花しか付けない雌雄異株とがある。雄花と雌花を同一の株に付ける植物にはキュウリ、カボチャ、スイカのほか野草のカラスウリなどがある。雌雄が株ごとに完全に分かれて雌花と雄花が同じ株に着生しない場合、これを雌雄異株と呼んでいる。草本類でも確認されているが,圧倒的に樹木に多い。両性花は一つの花で両方の機能を持っているので、一見子孫を残すには効率が良いように思われる。しかし、異なった遺伝子の花粉を受精することにより、多様な遺伝子を持つことになり環境の変化にも適応できることになる。雌雄異株の植物ではキューイフルーツ・サルナシ、マタタビ・サンショ、イチョウなど多くの植物がある。生物の雌雄とは何の関係も無いのだが四国高松の瀬戸内海に、女と男の名前がついた珍しい名前の島がある。高松市の沖合約4kmに位置する、女木島と男木島である。女木島は別名「鬼ヶ島」と呼ばれ、鬼が住んでいたという大洞窟があって桃太郎が鬼退治に向かった島といわれている。この二つの島の名前から取って雌雄島村と言っていたが、1955年に高松市に編入された。
2014年03月28日
業として行うのではなく、採算性を度外視した娯楽の一つとしての野菜作りであれば、こんなに面白く楽しいものは他に無い。リタイア後の楽しみに、レクリエーションとしての野菜作りを目指す人が多いのも分かる気がする。一般的には種屋から目的の種を購入してきて、適期に蒔いて目的の茎葉・根・実などを収穫すれば良い。しかしこの作物栽培方法について、様々な理論が提唱されている。戦後間もなくの1950年代前半の農法思想として広まったものに、ソ連からもたらされたヤロビ農法(ミチューリン農法)なるものがあった。主としては共産思想と共に広がった考え方であったが、長野県下伊那郡を地盤とする自民党の衆院議員が、この農法の普及について衆議院農林委員会で取り上げて質問している。多くの信奉者を得て全国に広まった思想であるが、結果的には秋播きの麦であっても春播きで収穫できることを農業者に知らしめたに過ぎなく、その後のスターリン批判とルイセンコの失脚でこの考え方は衰退してしまった。現在では一部の農業者や学者の間で、自然農法なるものがひそかなブームとなっている。土を耕すと日光で微生物が死滅し、撹拌により微粒子になり水を吸って堅くなるので耕さないという。自然農法の利点としては他に、微生物や雑草によって充分肥料が確保されるので肥料は不要である。無農薬によってむしろ病害虫に強い作物ができ、農薬を撒かない事で益虫が繁殖して害虫を押さえる。雑草を生やせば肥料になり、さらに地面の乾燥を防ぐ。タイミングを見計えば作物を、優先させることができる。不耕起栽培を続ければ機械耕起よりも団粒化した、軟らかくて崩れにくく、理想的な状態の土となり、機械耕起よりも改良される。耕せば耕すほど、土は痩せてしまうのだという。その一つ、不耕起移植栽培といわれるものは実際に水田で行われていて、耕さないことにより田の生態環境が甦り生物による作用で土壌の肥沃化がもたらされているという。この考え方は「自然環境保全」の発想から出たものであり、化学肥料や農薬を全く使わない生物との共生環境を利用した循環型の農法と言われる。水田稲作に限って言えばある程度の効果を挙げているというが、畑地では別の面からの検証が必要である。自然農法はそれを唱える人の考え方によって、無農薬・化成肥料不使用・除草しない・耕さない・収穫後の滓を持ちださないなどの全てであったり、またはそのうちの一つであったりして良く理解できない。また実際の不耕起栽培では又根大根ができたりしてうまく行かないし、施肥・除草・病害虫の防除をしないとまともな野菜を収穫できない。作物を栽培するうえで、必ずしも提唱されている自然農法が万能ではない。土壌の状態を観察しながら、栽培作物や土壌条件にあった方法を探ることが大切であろう。広い畑で周囲から隔絶されていれば、自分の信ずる栽培方法を取り入れることは可能だが、市民農園のように狭く区画された場所での耕作では、マナーとして隣地に迷惑を及ぼす害虫・病害防除、除草には最低限留意しなければならない。
2014年03月27日

この十数年来、家庭菜園で野菜や花卉を作ることがブームになっている。都市化が進んだ市街地の戸建ての家に住んでいても、庭に穴を掘るほどの広さの余裕も無い住宅が増えたことや高齢者のレクリエーションの一つとして人気が出たことも一因となっている。どうしても趣味を実現させたい場合、結局は貸農園などに頼らざるを得ない。ところが市民農園などの多くは期限付きであり、広くても20平方メートルの広さしかない。家庭菜園の人気作物はトマト・キュウリ・ナス・ジャガイモ・ブロッコリーなどで、特に人気のナス科植物は殆どの人が栽培するので、新たに割り振られた区画で野菜苗を植えても連作となって障害が出る。連作障害は接ぎ木苗を使うことでかなり防ぐことが可能だが、施肥などにも心を配る必要がある。ジャガイモ・スイカ・インゲン・ダイコンなどの一部を除き作物の多くは中性または微酸性の土壌を好むものが多いので、酸性土壌を中和して微酸性に保つ必要がある。植物の生育・開花・結実には三大栄養素のN・P・Kの外にも、各種微量要素が必要である。phを補正するものには消石灰・生石灰・苦土石灰がある。消石灰は、生石灰を消和(水和反応)して作られる。生石灰は他の作物に飛散すると障害が発生することがあり、水分に触れると発熱し場合によっては火災の原因になるので保管や取扱には注意が必要である。消石灰(水酸化カルシウム)にはカルシウムの補給、酸性土壌の矯正という働きがある。消石灰は施肥後炭酸石灰に変化するのに一週間ほどを要し、この間作付けはできないし化成肥料も入れられない。同じ酸性土壌改良材の苦土石灰の「苦土」とは酸化マグネシウムのことで、マグネシウムは作物の葉緑素を作る重要な成分で欠乏すると葉が黄変する。マグネシウム欠乏は、造成後の新しい畑土や生堆肥の与えすぎ、土壌phの偏りなどに起因して起こる。苦土にカルシウムを加えたものが苦土石灰といわれ、カルシウムの補給、酸性土壌の矯正、マグネシウムの補給という3つの効果がある上、比較的安価で施肥による障害も出にくい。私は隔週位にしか畑を訪問できなくて撒布から作付けまでの日数がとれないため、常に苦土石灰を用いている。北杜市の山荘に約70坪の菜園を開墾して14年になるが、10年ほど前からサル・イノシシ・シカ・ハクビシン等の進入により殆どの作物が食い荒らされるようになってしまった。今年は市民農園の更新年に当たったこともあり、害獣に悩まされること無く野菜を作りたいとの思いで15年振りに市民農園の利用を申し込んだ。応募者多数により抽選の結果、残念ながら落選でしたとの通知が3月に入って届いた。諦めていたところ昨晩、市役所から当選者の辞退によって繰り上げになりましたとの連絡があった。害獣出没する山荘の菜園と自宅から至近の市民農園を、うまく使い分けて利用する方法を模索中である。先ず土壌改良のために苦土石灰を購入してきて、撒布しなければと思っている。
2014年03月26日

ドクダミは、梅雨の時期に白い4枚の総苞をもった可愛らしい花を咲かせる。触ると独特の臭いがあって、その全草に「十の病」に効き目があるとして別名十薬とも称される。至る所に生え庭や畑に侵入されるとその繁殖力が強く、退治が困難なため厄介者の雑草でもある。冬枯れの林地の小道を散策していて、陽だまりの中に注意して良く見ないと見落としてしまいそうな儚げな数本の花を見つけた。自生地が限られていてドクダミほど目につかず、多くの人は見過ごしてしまいそうな花で名前も一般的には良く知られていない。葉が芹に良く似ているところからその名前となった「セリバオウレン」の花で、ドクダミと同じように様々な病気の治療に効果があるとされる薬草で局法にも収載されている。キンポウゲ科オウレン属の小型常緑の多年草で、葉の形には変異が多く変種が多い。標準のものは3出複葉で小葉は卵形で荒い鋸歯があり、3出状に裂けることもある。漢方で使われるのは、その根茎である。花期は早春で、20cmほどの高さの花茎が地上近くの葉を分けて上に立ち、上方で分枝してタンポンに似た小さな白い花を一茎に3個ほど咲かせる。北海道から四国の山地の、針葉樹林に多く自生する。ドクダミと異なり薬草としてはその殆どが栽培されたものであるが、播種してから収穫まで最低5~6年が必要である。吉益東洞著薬徴に、「黄連は心中煩悸を治するや明らかなり。故に心中煩悸して痞する者、吐する者、利する者、腹痛する者、此れを用ひて皆治するなり。 張仲景、黄連を用ふるや、その証、人参・茯苓と大同にして小異なり。人参は心下痞硬して悸するを治するなり。黄連は心中煩して悸するを治するなり。 茯苓は肉筋して悸するを治するなり。」との記載がある。根をほとんど取り除いた根茎は「黄連」という生薬で、植物アルカロイドのベルベリンに苦味健胃、整腸、止瀉等の作用があり抗菌・抗炎症の効果を持っている。漢方の黄連阿嘐湯、黄連解毒湯、三黄丸、三黄瀉心湯、温清飲などにはオウレンが配合されている。薬用とするには一般的には、秋10月から12月中旬に採取する。掘りとった根茎の細根には、主成分であるベルベリンはほとんど含まれないので全て切り落とす。そのまま乾燥させた後、残った細根をきれいに焼いて根茎だけにしたものが生薬の黄連である。根茎は節状に珠が連なったようになっており、その断面が黄色をしているところから黄連の名が付いたものである。健胃、整腸薬として、消化不良や下痢止めに用いられる。黄色物質のベルビリンには、猛烈な苦味があり粉末や煎じ薬として用い効果がある。 3月25日の誕生花でもある。 花言葉 変身
2014年03月25日

明治45年7月6日の読売新聞紙上に「詩人白秋起訴さる・文藝汚辱の一頁」の四号活字の見出しと三面欄を5段抜きで扱った記事が掲載された。其の記事の一部を抜粋すると、「昨五日東京地方裁判所の検事局から北原隆吉として起訴せられた人は雅号白秋其の人である。起訴されたのは忌むべき姦通罪といふのだ(以下略)」明治43年9月牛込から青山に転居した北原白秋は、隣家の人妻松下俊子と深い関係になった。1912年7月(明治45)俊子の夫から姦通罪で告訴され、市ヶ谷未決監に387という番号名で二週間拘留された。この時既に、銀座のバーの混血女性に入れ上げていた夫長平と俊子とは別居状態にあったのだが、美人の妻と新進気鋭の栄光に輝く白秋との深い愛に嫉妬しての告訴であったと言われ、一説には白秋から何がしかの金銭を取るのが目的であったとされている。白秋28歳、俊子25歳のことであった。300円の示談金で免訴と同時に放免となった二人は、1913年4月(大正2)離婚した俊子と結婚した。現在も新聞・テレビなどで、特定個人のバッシングが日常茶飯に行われている。娯楽とてない時代に気鋭の有名詩人白秋のゴシップは、世間から格好の攻撃対象になったのは想像に難くない。文壇や世間からは白い目で見られ、友人は離れて行く。青年白秋は悔悟と自責の念に駆られ、何度も自殺を考えたと云う。こんな世の中の評価・批判から逃れ、三浦三崎で俊子との新生活を始めた。「城ケ島の雨」は、ここでの生活を通して生まれた作品である。しかしこんなに激しく燃え盛った二人の恋は、白秋の両親と俊子との折り合いが悪く1年余りで破綻しあっさり離婚してしまうこととなった。名声が地に堕ちたこともあって、この頃白秋の生活は窮乏のどん底であったという。3年後には離婚歴のある江口章子と再婚し、東京都南葛飾に移転した後も各地を転々と移り住む。大正8年小田原に茅葺きの「木菟の家」を建てた頃から、漸く窮乏生活を脱することができたが翌年には章子と離婚。大正10年には、佐藤菊子と再々婚。この頃は生活も安定し、子供にも恵まれ、詩作活動も蘇った。昭和17年11月2日に僅か58歳で人生の幕を閉じた白秋の墓所は、公園墓地として日本で最初に作られた、面積40万坪の広さのある都立多磨霊園にある。霊園入り口正面の給水塔を府中運転試験場に向かって5分ほどの、10区1種がその場所である。我が家の墓所も同じ多磨霊園の並びにあるので、墓参の度に前を通る。昨日はお彼岸の墓参りを済ませた足で、白秋の墓を覗いて見たが今日もまた真新しい花が供えられていた。『参考』鈴木一郎「北原白秋と松下俊子―その投獄事件をめぐってー」昭和36年2月室生犀星「わが愛する詩人・北原白秋」昭和33年
2014年03月20日

彼岸は現世の向こう岸にある迷いのない、悟りの世界へ渡るための修行期間で浄土へ渡るために仏教の教えを守り、行動を慎む期間だという。今では「春分の日」と「秋分の日」とも言われ、国民の祝日とされ墓参りなどの年中行事を行う日となった。祝日法では春分の日は「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」、秋分の日は「先祖を敬い、亡き人を偲ぶ日」と定められている。春分・秋分の日の3日前が彼岸の入り、春分の日が中日、3日後が明け彼岸となる。彼岸にはほぼ昼夜の長さが同じになり季節の区切りとされていて、「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉がある。ただし気温を比較すると、秋は春の彼岸より10度以上も高い。太陽が真東から上がって、真西に沈み昼と夜の長さが同じになる春分の日と秋分の日を挟んだ前後3日の計7日間を「彼岸」と呼び、この期間に仏様の供養をする事で極楽浄土へ行くことが出来ると考えられている。これは日本だけで行われる仏教行事であり、彼岸の期間中に墓参するのが風習となっている。餅は五穀豊穣、小豆は魔除けに通じまた甘味が貴重であったこともあり、ぼたもちはご馳走として来客・祝い・寄り合い・法要の際にも必ずお供えされた。これが彼岸に作られ食べられるようになった由来である。名前は異なるが、米を搗いて餅にしたものを餡で包んだ同じ食べ物である。名前の由来は春に咲く牡丹から牡丹餅、秋の餅は萩の花の萩餅と呼ばれるようになったとされる。春には濾し餡を使い秋は粒餡を使うと言われるが、春はヒネ小豆になり皮が硬くなるため濾し餡を使うのだと言う。般若波羅蜜多心経には、波羅密多の言葉が5か所出てくる。彼岸はこの「波羅密多」から来たものといわれ、煩悩と迷いの世界の此岸にある者が、「六波羅蜜」の修行をする事で悟りの世界の「彼岸」の境地へ到達することが出来るのだという。中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な甚深法界の六つの彼岸「六波羅蜜」喜捨・戒律・耐え忍ぶ・努力・心の安定・諸法に通達する智と断惑証理する慧を、1日に1つずつ修めるとされている。夏のお萩や牡丹餅を夜船と呼び、冬のものは北窓と呼ぶそうである。餡衣餅(アンコロモチ)は搗いた餅を餡で包んだものだが、お萩や牡丹餅は杵を使って搗いた餅では無いので、餅にする際に杵で搗くペッタン、ペッタンという音が出ない。夏の名前は、「夜船」という。杵臼で搗かないことから音がしないので、いつ搗いたかわからないことから、闇夜では船がいつ着いたのかわからない。冬の名前は、「北窓」という。杵臼で搗かないからことから、搗きをしない。北向きの窓では月が見られないため月を知らないことからという。
2014年03月19日

人名もそうだが植物の和名には、何とも安易に付けられたと思われるものがある。葉が牛の舌に似ているとしてウシノシタ、花が鼬の尻尾に似ているとしてイタチハギ、花が咲く頃に葉が無くなるからウバユリ、イヌのそれに似ているからイヌノフグリ、トクサは細工物を磨くのに使われることから付いた名前と言う。ハト麦の野生種に、ジュズダマと呼ばれる植物がある。じゅずは、念仏を唱えた回数を記憶する意味の「数を念ずる」ための仏具として生まれたので「念珠」とも言われる。漢字では数珠と書き表すのが一般的だが、前後を入れ替えて珠数と書いても正しいらしい。仏事のほか、お守りとして「魔除け・厄除け」としても使われる。数珠をいつも手に着けていると、身を護るという冥加があるという。また数珠は使用者の念がこもった分身なので、数珠の貸し借りは、禁忌だとされている。ネックレスの糸は時々切れることがあるが、数珠も紐で繋いでいるので切れることがある。数珠玉はその一つひとつが仏と言われ、数珠が切れることは悪縁が切れる事で縁起の良いことだという。除夜の鐘の数は人間の煩悩の数と言われるのは良く知られているが、正式の数珠は除夜に撞かれる鐘の音の数と同じ百八の玉からできている。数珠の起源は、インドが発祥で釈迦が始めて使用したものといわれている。飛鳥時代に仏教とともに中国から日本に伝わったが、一般に広まったのは鎌倉時代からとされている。親玉・主玉・四天玉・弟子玉・露玉・浄明・中通しの紐で構成された主珠の数108が正式であるが、それを簡略化した半数、三分一、四分一、六分一のものなどがあり、現在は簡略化したものが主流となっている。数珠は、一連・二連と数える。一般に仏事で礼拝し合掌する際の作法は、両手の人差し指の上に数珠をかけ親指を添えるようにし、持つ際は左手で房を下にして持つのが正式とされている。実際にこの植物の種を数珠にしたのかどうか定かでは無いが、名前もそのままのジュズダマという植物がある。この植物の種子に数珠の玉に似た色合いと硬さがあるので、法具の数珠から連想して付けられた名前と思われ、実際に数珠の玉に用いられたことがあるのかも知れない。河原や空き地に群生していて子供のころは採ってきて遊んだが、祖母は妹のためにジュズダマの実のお手玉を作っていた記憶がある。生育域の環境変化もあるのだろうか、現在はこの植物の姿を見る機会は少なくなった。一年草で背丈は1m程になり、実が熟すると表面が非常に固く、表面に艶がある黒色になる。この実には真ん中に花軸の穴が通っているので、糸を通すと数珠に似た物ができる。健康茶などに利用されるハトムギは、ジュズダマの栽培種である。外見は良く似ているが全体がやや大柄で実が固くならないなどの違いがある。
2014年03月18日
プリズムを通すと、太陽光を赤から紫までの色彩に分離することができる。その他にヒトが理解する色には、白と無彩色といわれる黒がある。黒色は可視光線の全ての領域において、むらなく光として感得されないと感じられる状態である。物体が理想とする黒は光の反射率が0で、すべての波長の光を吸収する色である。絵具の三原色を混合して黒色を作ることができるが、実際には反射率0の色は存在しない。海外では黒色に対して古くからその持つ闇のイメージから、悪・死・恐怖・災禍の意味が与えられてきた。通夜や葬式など弔事で使用される白黒の2色の縦縞の幕は、鯨幕(または蘇幕)といわれる。もともとは葬儀業者が考案したものとされ、一般的に用いられるようになったのは昭和になってからとされる。名前が面白いがこの名称の由来は、鯨の体が黒と白の2色であるからとか、黒い皮を剥いだ際の身の脂が白いことから付けられたものという。逆に慶事に用いられるのは、紅白の縦縞の幕である。白装束という言葉があるように、日本では古来より弔事には白が用いられていた。白・黒の幕は本来弔事・慶事に関係なく使用され、格式のある神社の行事や皇室の慶事にも使用されている。日本の喪服は明治以前には白であったのだが、明治天皇の葬儀に際し欧米に合わせて黒の喪服を着用したことにより現在も喪服は黒が使われるようになった。黒は闇のイメージから、悪・死・恐怖・災禍の意味を持つ例が多い。その一方では、格式・公的のイメージがありスーツの色には黒あるいは紺が使われ、公用車は黒が一般的である。人の死を悼んで遺族関係者が着ける、黒色のリボンや腕章などのことを喪章という。この喪章は喪に服していることを示すもので、喪家の人の標であるとされる。昭和30年代から50年代までは、葬儀に参列する際の男性はだれでもが黒の腕章を着けることが当たり前であった。大きな職場では、しばしば職員の関係者の葬儀が突然生じたりすることがあり、そのために黒の腕章が準備されていた。職場から直行する場合普段着のスーツに男は腕章、女性は胸にリボンを着けて参列したものである。しかし、葬儀に参列する一般の人が喪章を着用するこの風習はいつの間にか無くなった。葬儀のマナー書には、「喪章を巻いても喪服の代わりにはなりません。喪章は、遺族・関係者である事を示す標しです。」と記載されている。何が何でも黒の礼服を着用するという地方の頑なな風習で、真夏の葬儀への参列は炎熱地獄の中にいるようでもある。結婚披露宴の招待状には、「普段着での…」の添え書きも増えてきている。葬儀の簡素化に合わせて、参列者の服装に付いても見直されていくべきではないだろうか。
2014年03月14日

平成23年3月11日(金)午後2時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0という我が国観測史上最大の巨大地震と、それによって引き起こされた大津波により未曾有の大震災が発生した。この地震による津波は東日本の太平洋沿岸を中心に、北海道から沖縄県までの日本海側を含む広範囲に押し寄せた。特に東北地方から関東地方の太平洋沿岸では、大津波が襲来し、沿岸集落をのみこんでいった。そのうえ福島第一原子力発電所では、この津波による電源喪失によって原子炉の炉心冷却機能が失われたことで発生した水素ガスの爆発と原子炉の炉心溶融により、広範囲にわたって放射性物質が撒き散らかされ住民は強制避難という事態となった。巨大地震と原子力発電所事故の複合災害である「東日本大震災」は、死者15,854名・行方不明者3,155名(平成24年3月11日現在)という多くの犠牲者に加え、住民が避難生活を余儀なくされるなど未曾有の被害をもたらした大震災として歴史にその名を刻まれることとなった。この災害から「未曾有」と「想定外」と言う言葉が、頻繁に使われるようになった。 未曾有は、前代未聞や空前絶後という言葉と似た意味を持っていてほぼ同じ意味で使われる。死語にもなりつつあったが、以前時の総理大臣が「みぞゆう」と使ったことで多くの人に知られるようになり再生して生き返った言葉でもある。顰蹙を買ったが、その意味では時の総理大臣は日本語の保存に貢献したと言えなくもない。未曾有は「いまだかつてあらず」と読み未曾有の惨事、古今未曾有のように用いられる。同じような意味を持つ言葉の一つ前代未聞は、今まで一度も聞いたことのないような変わったこと。また空前は、比較できるような事例が以前には無いという意味で空前絶後と使われることもある。仏教の十二分経に、未曾有の言葉が出てくる。十二分経とは仏教経典を12に分類したもので、分経の9番目は仏・菩薩による奇跡を記したもので「未曾有法」と言われる。ここでは「奇跡」の意味で、「未曾有」と言う言葉が使われている。わが国は自然災害の国で地震・風水害・火山による災害が多いが、雪による豪雪被害もある。地震による災害は多く、マグニチュード6.8以上の大地震は記録に有るものだけでも85回を数える。中でも1707年10月28日に発生したM8.6の宝永地震は、東日本大震災に次いで史上二番目に大きかった地震とされる。その2か月後の12月16日に発生した富士山の大噴火で、宝永山が形成された。平成18年11月から2006年2月にかけての豪雪では、死者行方不明者数が150人以上にも上った。本年2月に山梨県に降った雪が合わせて1.5mもの積雪となり、人的被害は少なかったものの家屋や農作物ハウスに大きな被害を与えた。昭和9年9月21日の室戸台風の被害を報じた朝日新聞号外には、「未曾有の大暴風惨害畫報」の大見出しが躍っている。明治以来の朝日新聞の号外に、「未曾有」の文字が見えるのはこの記事のみである。東日本大震災が発生してから満3年が経過したが、地震・津波被害の復興は未だ半ばである。目に見えない放射線を撒き散らしている原発の廃炉計画はできたが、様々な難題に阻まれて作業は遅々として進んでいない。科学技術の進歩を際限なく生活に取り込んで行くと、これからも様々な想定外の事柄が起きるに違いない。未曾有の大惨事とならないように、予め起こりえるであろう最悪の事態を想定して何重にもその対応を考えておかなくてはならない。具体的な対応策が見つかるまでその科学技術は実験室の中に閉じ込めて、社会生活の中に持ち出すべきではないだろう。東日本大震災の被災者の方が、一日も早く普通の生活に戻れるように心から願っている。
2014年03月12日

毎年この時期になると、町中に袴姿の若い女性が目につくようになる。昭和50年代から、大学や専門学校の卒業式で殆どの女性が着用するようになってきた。大学・大学院と2回以上着用する人もあるのだろうが、多くの女性にとっては、この卒業式で着用する袴が最初の最後になるのだろう。紋付羽織袴は、和服を着けた男子の礼装とされる衣服である。紋付の長着に袴をはき、紋付の羽織を着ける。江戸時代の武家社会で略礼装として用いられていたものが、次第に庶民の正装とされるようになった。明治になって発布された太政官令で、「五つ紋の黒紋付羽織袴」を礼装として定めたため正装として認知されるようになった。現在は「勲章着用規定」に第一種礼装として定められ正装とされるが、本来は略礼装に過ぎなかった衣服である。そのため伝統的な宗教・芸能などの分野では、紋付羽織袴が正装とされているわけではない。紋付羽織袴は洋装の正装とされる燕尾服より下とされ、フロックコートやモーニングコートと同等に扱われている。袴は筒状の衣服の中に足を通し、腰の部分のひもを結んで着用する。男性用袴は、スカートのように間に仕切りのない筒状の袴を行灯袴、ズボンのように左右に分かれているものを馬乗袴と言いその形状が2種類ある。袴の名前の由来は、穿(は)く裳(も)の転化ではないかといわれる。婆加摩(はかま)という言葉がすでに日本書紀に見え、また袴の文字が古事記に出てくる。衣服の袴の他にも様々な物にこの名前が付いているが、何れも穿かせたり或いは巻き付いている形状から衣服の袴を連想して言われるようになったものであろう。例えば土筆の節では茶色で輪状の苞葉が茎を取り巻いているが、これをはかまと呼ぶ。ツクシの他にも笹や、草の茎を包む葉鞘やドングリのお椀もハカマである。器物では酒徳利を安定させ、お膳やテーブルに傷や跡を着けないために入れる筒型または枡型の器も袴と言われる。徳利に穿かせるところから、袴と呼ばれるようになったものであろうか。飛鳥・奈良時代には、下着として貴族の女性に着用されるようになった。安土・桃山時代には男女階級を問わず小袖が一般化し、さらに江戸時代には公家・武家ともに次第に袴の着用は衰退した。しかし、明治時代に宮中での女性の制服とされ、儀式の礼服としても用いられるようになったことにより再び袴が注目されるようになった。明治から大正時代に学習院や跡見などの女学校の教師が着用したものが、次第に女学生の制服として着られるようになったものという。その時代に学校に通えるのは、所謂両家の子女だけであった。袴の着用は、十分な教育を受けている良家の女子を示すシンボルでもあった。卒業式で袴が着用されるようになった底流にあるのは、こんな大正・昭和の時代への憧れと回帰願望があってのことではないだろうか。
2014年03月11日

雌花 雄花3月も中旬を過ぎたと言うのに毎日寒い北風が吹いて、季節は足踏みしたままで体感的には真冬である。しかし雲間から射す陽の光は、一頃よりずっと輝きを増している。そんな春の陽を浴びながら散歩していると、枯れ木の中に咲く黄色の花に気が付く。この粟粒のような黄色の花は、マンサクに次いで咲くアブラチャンの花である。アブラチャンのチャンは、アスファルトやコールタールなどを指して言う「瀝青」の中国語の発音から取って付けた名前と言うのが定説のようになっている。今でもアスファルト工場の看板や名称に「○○瀝青工業」の名前を見る。アブラチャンの種子や樹皮は油分を多く含み、生木でもよく燃える。昔は椿の実と同じように、この果実から油を絞って灯火の油にしたことがあるという。アブラチャンには、全国に86以上もの別名や方言がある。名称の由来には「油瀝青」からとする他に、この木が濡れた生木でも燃えやすいといわれるほど多くの油分を多く含んでいることから、方言のジシャやズシャが訛ってアブラ+チャンになったとする説もある。油瀝青の説では、油が重なるようにも思えるのだが何れにしても、「ちゃん」はみよちゃん・スギちゃん・松ちゃんのような愛称のチャンでは無い。他に油を採ったことに由来する植物として、アブラギリやアブラスギの名前がある。アブラチャンはクロモジやダンコウバイと同じクスノキ科の落葉小高木で本州以南の山地に自生する。径1.5cmもある球状の果実を着け、中に1個の種子をもつ。早春3月に淡黄色の花を葉に先立って枝から直接群がって咲かせ、葉の芽吹く前の森の中で黄色の花が良く目立つ。同じクスノキ科で似た花を咲かせるダンコウバイ(檀香梅)は、アブラチャンにやや遅れて花が咲く。「檀香」とは白檀のことで本来は「蝋梅」のことを檀香梅といっていたが、同じように良い香りのする花だからという意味で檀香梅の名前を借用したものという。種子に強い香りが有り、他のクスノキ科の樹と同じように材にも微かに香りがある。アブラチャンより花にボリュームがあるため、早春の山の中で良く目立つ。アブラチャンよりやや小型で、8mmほどの球形の液果を着ける。良く似た花で遠目には区別が付きにくいがアブラチャンには花柄あるのに対して、ダンコウバイは花柄がないことで区別できる。花言葉 儚い恋 3月25日の誕生花
2014年03月10日

オオイヌノフグリ花 イヌノフグリ果実2月に大量の積雪があった関東だが、このところ続いた晴天によって雪掻きで積み上げられた雪の壁もすっかり溶けて無くなった。しかし、3月も中旬だと言うのに居座る寒気団の影響で、外気は最高気温10度以下という真冬並みの日が続いている。それでも陽が射して無風の時には、五感を通して微かに春が感じられるようになった。久しぶりに散歩に出て、団地の芝生の端にオオイヌノフグリの花を見つけた。この植物は路端や畑の畦道などに見られる雑草で、その名前がユニークなこともあって昭和に入ってから多くの人に知られるようになった。オオバコ科の越年草で、別に「瑠璃唐草・天人唐草・星の瞳」などの別名が付けられたこともあるがインパクトのあるオオイヌノフグリが通り名となっており別名を知る人は少ない。路端や畑の畦道などに普通に見られる雑草で、うっかりすると畑の中にまで入り込んでくる。ヨーロッパの原産だが、世界中に侵出し外来種として定着している。日本では全国どこにでも見られる雑草で、明治20年頃の東京で最初に確認されたと言う。早春にコバルトブルーの花をつけるが、まれに白い花を持つものもある。左右対称の4枚の花弁を持った、1日花である。近縁種にイヌノフグリ・タチイヌノフグリ・フラサバソウなどがある。これらはいずれもオオイヌノフグリの花より、はるかに小さく目立たない。イヌノフグリは日本では本州以南に見られる在来種または古い時代に渡来した帰化植物とされ、かつては路端や畑の畦道などで普通に見られた雑草であった。この花の果実の姿がイヌのそれに似ているとして、植物学者の牧野 富太郎がイヌノフグリと命名した。しかし近年は近縁種のオオイヌノフグリにその生育地を奪われたほか、人による環境開発によって減少しているために数を大幅に減らし、環境省のレッドデータブックでは絶滅危惧種に指定されている。在来種のイヌノフグリを追いやってその勢力を増してきた植物で、イヌノフグリより大型の花を付ける同属の植物という意味で付けられた名前が「オオ・イヌノフグリ」である。オオイヌノフグリの果実はイヌノフグリより薄く平たいので、良く見てもイヌのそれに似ているようには見えない。花だけ見ると、園芸種のネモフィラに酷似している。こちらはハゼリソウ科に分類される植物の総称であり花姿が似ていることから、オオイヌノフグリの別名と同じ「瑠璃唐草」の和名が付いている。
2014年03月09日

仏教や神道・茶道で、聖域と俗領の区域を分けることを結界という。もともとは仏教用語であるが、神社などにも同様の概念がある。単に端境(はざかい)あるいは、境(さかい)ともいわれる。清浄な領域あるいは修行する場所や道場に、魔物が入らないようにするための区画である。集落への入り口などにある道祖神・庚申塔・祠・沖縄の石敢當などは、災厄を集落に入れないようにするための結界としての役割があるともいわれる。神社・寺院の結界は、境界線として境内や建築物に段差を設けたり、扉や柵・鳥居・注連縄などが用いられる。一般の家庭で行う注連縄飾りや、節分に軒先に飾る鰯の頭なども結界の一種である。茶道では茶室に至る庭の露地などに縄を結わえた石、あるいは石に渡した青竹などを置き結界とする。町中で最も普通に目にする結界に、神社の鳥居がある。鳥居は神域と人間が住む俗界を区画するもので、神域への入口を示す「門」である。古くは屋根のない門という意味で「於上不葺御門」ともいわれ、神社が建てられる以前から存在したとされる。単に木と木を縄で結んだものが、鳥居の起源とする説があり奈良時代すでに、神社建築の門として現れ8世紀頃に現在の形が確立したとされる。「とりい」の名前は、鶏の止まり木を意味する「鶏居」を語源とする説、「通り入る」が転じたとする説、建築用語で高欄の横木の最上部を、「鳥居桁」と呼ぶことからとする説など多くがある。地図記号では神社を意味し、また立ち小便やゴミの不法投棄防止などに利用され効果があるという。鳥居に柱や笠木など主要部分に「照り」や「反り」があるものを明神鳥居、ないものは神明鳥居という。鳥居は「基」と数え参道に複数の鳥居がある場合は、外側から「一の鳥居、二の鳥居…」と呼ぶ。鳥居が朱色に塗られることがあるのは、昔から朱色が生命の躍動を表し災いを防ぐとして神殿などに多く使われたためとされる。吉野金峯山寺の銅の鳥居(重文)、安芸宮島の朱丹の木造大鳥居(重要・世界遺産)、大阪四天王寺の石鳥居(重要文化財)が日本三大鳥居と言われる。また日光東照宮(重文)、八坂神社(重文)、鶴岡八幡宮(重要文化財)の鳥居は日本三大石鳥居といわれる。1914年(大正3年)1月12日の桜島大噴火によって、島の東側にあった「原五社神社」の3mの高さの鳥居は笠木だけ残して埋没した。鳥居は、当時のままの形をとどめており県の文化財に指定(昭和33年)されている。長崎市の山王神社の鳥居は、原爆の爆風により片方の柱が吹き飛び「一本柱鳥居」と呼ばれている。
2014年03月08日

芋を洗うサルがいる宮崎県幸島、観光資源となっている高崎山、高梁市臥牛山、箕面市の箕面山、青森県下北半島では沢山の野生の猿に餌付けが行われ国の天然記念物として保護されてきた。その他にも日光の猿や、山ノ内町の地獄谷温泉に浸かるサルがいることで有名な場所もある。南伊豆波勝崎苑は赤壁と波勝山に挟まれた浜にあり、東日本最大の300匹の野猿の生息地として知られている。サルは被害さえ受けなければ剽軽で可愛いのだが、被害を受ける人にとっては憎い存在である。多くの場所で餌付され、保護されて人の手が加えられているものはもはや真の野生サルとは言えないかもしれない。野生動物に対して手厚い人間の庇護がなされる一方でシカやイノシシ、ニホンザルといった動物による農林産物の食害や農道、畦畔の掘起こしなどの被害が顕在化し農地の荒廃という悪循環を引き起こす事態となっている。特にサルの対策は難しく所によっては、人間にまで危害を与える事態にまでになってきている。本来サルは警戒心の強い動物で、見通しの良い平地では藪や林地の端から50m程しか行動しないと言われてきたが、禁猟や農業に従事する人の減少などにより行動範囲が徐々に広がったと言われている。野生の日本サルの寿命は30年で、5歳で性成熟し以後隔年に1匹の仔を生む。通常野生のサルは木の実、葉や雑草・昆虫などを食べ、ほとんどの時間を餌探しに費やしている。人里に下りてきたサルは、人間が栽培する栄養価の高い作物を短時間で大量に食べることが可能となり初産齢の低下や毎年出産、幼獣の死亡率の低下の条件などが重なって個体数が増加したことも猿害増加の一因となっている。カボチャ・スイカ・サツマイモ・トウモロコシ・カキ・クリ・モモ・スモモなどはどの地域でも被害を受ける。その他の蔬菜果実は地域性があり、地域と年によって被害を受ける場合と受けない年がある。今のところ、人が栽培する作物でトウガラシ・コンニャク・モロヘイヤ・シソの被害については聞いたことが無い。玉ねぎは前年の8月末頃種蒔きをして苗を育て、11月初旬の初霜の降りる前に定植、翌年の7月収穫する。同じユリ科の長ネギも同じ頃播種して、そのまま越年させ翌年4月以降に定植する。近年の我が家の菜園は自然動物園と化しており、鹿とイノシシは網や電気柵で何とか防御できるのだが、猿に対しては無防備である。普通サルはネギや玉ねぎを食べないとされて来たのだが、菜園に出没する50匹を超える群れは冬季にはネギ苗・定植した玉ネギ・ニンニクの芽を地際から引き抜いて全て食尽くしてしまう。これらは根が残っていれば、収穫量は減るが芽が再生してくる。しかし、根から引き抜かれてしまうと全滅してしまうことになる。この10年でサル防御対策の最も簡単な方法は、サルの好む作物を作らないことだと学んだ。玉ねぎの対策は不可能なので、作付けを諦めた。ネギはサルの出没と、食害のサイクルに合わない時期を選んで栽培する。長ネギは菜園に種蒔きしないで、自宅でプランターに作る。翌年成長して定植可能になったら、菜園に移植する。山の木々が新緑に染まるころになると、菜園へのサルの訪問が無くなるのだ。その後サルは7月下旬から8月にかけて、カボチャやトウモロコシが実る頃2回ほど偵察に出てくる。この時期を乗り越えれば、ネギは初霜が降りるころまで菜園で頑張ってくれる。後は山から下りて来て、菜園の作物に手を出すより早く収穫して自宅の庭に保存すれば冬の間十分な量のネギが確保できる。昨年の8月と9月にプランターへ播いたネギのタネが順調に発育している。後は菜園の雪と凍土が溶けるのを待って、定植するばかりである。
2014年03月07日
パソコンやスマートフォンを使ったメールが簡単になったことにより、本来文字として認められていないいわゆる「絵文字」なるものが現れ多用されるようになり、言葉で表現しないで絵文字を用いる「絵文字文化「」が定着した。悲しいことを涙の滴が落ちる絵で表現するなど、数多くの絵が工夫されている。絵文字はそれ自体言葉を持たないが、絵に特別の意味がある記号である。このことから敷衍すると、絵文字は象形文字の前段階とも考えられる。象形文字との違いは絵文字には、明確に定義可能な一般的な「読み」がないことである。しかし絵文字はデジタル社会になってから現れたものでは無く、日本では古くから絵文字を文字の代用として利用する文化があった。江戸時代には文字の読めない人に向けて、判じ絵という絵文字が使用された。例えば戸板の陰に人が隠れている絵は蜥蜴であり、戸板に血を付けた絵は鼬を表した。また、江戸時代に和暦の月の大小や暦注などを文盲であっても理解出来るように、絵や記号等で工夫して表現した絵暦があり南部絵暦が有名である。凸凹は記号や絵文字では無く、れっきとした常用漢字である。この文字を書くときには、筆順と何画の文字なのかいつも迷う。凹凸のように形そのままが文字になり、意味も見た通りと言う漢字は少ないと思われる。部首は凵(かんにょう、うけばこ)で凵には、凶・函・凾・出・凹・凸の6文字がある。凶は穴を掘って網を張って獣を捉える仕掛けを、函は矢を入れる道具、出は草木の芽が土から伸び出て葉を広げようとする様子の象形である。凹凸の意味は物の表面が出っ張ったり、へこんだりしていること。また物事に優劣・多少などの差があって釣り合いがとれていないことをいい、「おうとつ」あるいは「でこぼこ」と読まれる。「道路がでこぼこだ」などのように、形容詞として用いる場合のアクセントは二音目以下の「…こぼこ」にあり、「道路がでこぼこしている」などのようにサ変動詞として用いる場合は、逆に頭の「で」にアクセントがある。凸凹(でこぼこ)は主として話し言葉に用いられるのに対し、凹凸(おうとつ)は文章に多く使われる。文章では凸凹を「でこぼこ」と仮名書きにすることが多い。凹凸は、衣類のファスナー・建築・LED電球など様々な場所で利用されているほか、情報の記録や伝達の手段としてレコード、CDあるいは点字や点字ブロックなどにも利用されている。動物の体の関節は、凹面と凸面の組み合わせで出来ている。凸の関節面の骨を固定し凹側の骨が運動する場合、関節面は骨の運動と同方向に滑る。凹の関節面の骨を固定し凸側の骨が運動する場合、関節面は骨の運動と反対方向に滑る。凹凸は反対語の組み合わせであり、この言葉のように反対語で組み合わされた言葉には高低・上下・表裏・優劣・強弱・寒暖・喜怒・哀楽・栄枯・男女・虚実・善悪・明暗・始末・進退・開閉・前後・陰陽など多くのものが浮かぶ。多くはプラスとマイナスの意味をもつ、極端どうしを繋いだ言葉である。ジグソーパズルは一枚の絵または写真を、凹凸の様々な形の沢山のピースに切り抜いたパズルで再びもとの絵に戻すことが可能である。
2014年03月06日

昨年4月「日本版二十四節気」として気象協会が発表した季節の言葉36選の3月には、「ひな祭り、なごり雪、おぼろ月」の3つがある。「日本版…。」で二十四節気の啓蟄に対応しているのは、ひな祭りである。季節の言葉としてはお節介な半官製の言葉とともに、深い意味を持つ啓蟄という言葉がこれからも引き継がれていくことだろう。啓蟄は、約2600年前の中国の黄河地方の気候に基づいて作られた二十四節気の雨水と春分の間の季を指している。蟄は虫が土中で冬籠りすることをいい、人が隠れ住む・隠退する・家の中に閉じこもることは「蟄居」と使われる。啓は「拓く・ひらく・開く・披く」の意味で、啓発・啓明・啓蒙・啓示のように使われる。今年は、明日の3月6日がその日に当たる。期間としての意味もあり、この日から次の節気の春分前日までのことでもある大地が温まり冬眠をしていた虫が穴から出てくるころの意味で、「暦便覧」には「陽気地中にうごき、ちぢまる虫、穴をひらき出ればなり」と記されている。暦便覧とは、天明7年(1787年)に江戸で出版された太玄斎の暦の解説書で、現代においても二十四節気を説明する際によく引用される。二十四節気をさらに3つに分けた七十二候の啓蟄期間は「初候 蟄虫啓戸、次候 桃始笑、末候 菜虫化蝶」と言われる。初候になると虫が這いだし、次候で桃の花が咲き始め、末候では菜の青虫が羽化し蝶が飛び始めるの意である。この啓蟄は、古代中国の周王朝時代に成立した「礼記」の月令にある「蟄虫始振」から生まれた言葉である。日本では二十四節気では「啓蟄」と書き表すが、漢字の国中国では「驚蟄」の文字が使われている。中国では貴人や目上の人、死者などを本名で呼ぶことを避ける慣習があってこれを「諱」といい、王や皇帝の場合はその王朝が続く間は、この文字を使う事を避けた。「啓」が漢王朝の六代皇帝の諱であったので、意味の似ている「驚」という字で置き換えられた。漢王朝が滅んでから諱の必要がなくなって「啓」の文字が再び使われることになり、この頃の暦が日本へ伝わった。しかし、中国では一旦啓に戻されたが、使い慣れた驚の字に再び戻されたものである。大きな被害をもたらせた積雪が漸く溶けたが、今日も真冬の寒さが続いている。明日が啓蟄と聞いて顔を出した慌て者の虫は、おそらく今日の寒さに吃驚してまた土中に戻ったことだろう。
2014年03月05日

花屋の店頭には厳寒の内から彩り豊かな草花が並ぶが、その中でも種類と数が多いのはパンジーとプリムラである。プリムラは500種以上もあるとされており、ヨーロッパやアジアに自生するサクラソウ属(Primula)の原種・交雑種・園芸種の総称で多彩な花色などで観賞価値の高いものが多い。プリムラ・ポリアンサはヨーロッパ原産で、クリンザクラ(九輪桜)ともいう。イギリス産の原種から作出された花壇用として広く流通している。プリムラ・ジュリアンはプリムラ・ポリアンサとプリムラ・ジュリエの交配種で大輪の花を咲かせ、見応えがある。プリムラ・マラコイデスは、花色・草姿が日本サクラソウに最も良く似ており、関東では戸外で越冬し種子で良く増える。中国原産でケショウザクラ、オトメザクラともいわれる。日本サクラソウは古典園芸植物として別に取り扱われ、プリムラと言わないことが多い。プリムラ・オプコニカは中国西部原産で、トキワザクラ(常盤桜)ともいわれ花色が豊富で、開花期が長く、日当たりが悪くても花を咲かせる。しかしこの種は茎葉・花の株全体に長さ約1mmほどの白い腺毛を多数持っていて、プリミンという化学物質を分泌する。このプリミンによって接触皮膚炎を起すことがあるので、衛生上の要注意植物となっている。プリムラ・オプコニカに触れた1~2日後に、触れた指や手背、前腕およびその手で触れた場所に痒みを伴う線状あるいは地図状の紅斑や漿液性丘疹(ミミズ腫れ)などの症状がでる。この皮膚炎は慢性化すると、褐色の色素沈着を合併する。ステロイド剤で軽快するが、通常ステロイド製剤の購入には医師の処方箋が必要となるので皮膚科の診察を受けた方が良い。現在は品種改良によって、プリミンを含まない園芸品種が誕生している。食の多様化が進んだ日本でも、「エディブルフラワー」の名前で、野菜や果物と同じ感覚で生の花を食べるようになってきた。農林水産省のホームページでも食べられる花として列挙した中に、プリムラ・ポリアンサ、プリムラ・マラコイデス、プリムラ・シルキーの名前を挙げている。素人にはこれらの花を見ただけでは、これらとプリムラ・オプコニカとの見分けが付かない。「君子危うきに近寄らず」の譬えがあるように、強いてプリムラの花を食べる必要は無く花壇や鉢から摘んで食卓に乗せる危険は冒さない方が賢明というものである。花言葉 永続する愛情 富貴 神秘な心 運命を開く 可憐 うぬぼれ
2014年03月04日

クスノキ科の樹で、高級楊枝に加工されるクロモジと呼ばれる落葉低木がある。これから作られた楊枝も、「クロモジ」と呼ばれる。クロモジの楊枝は皮付きが上品とされ、お茶席で出される和菓子には必ずこの楊枝が使われる。雪の中に咲くマンサクは冬の終わりを、雪どけの到来とともに咲くダンコウバイが春の来たことを告げた後に漸くクロモジが葉の展開に先立って開花する。香気があるところから皮付き材を細く削って大型楊枝として、好んで用いられている。歯に楊枝で削れた跡が残っていることら、楊枝を初めて使ったのは10万年前のネアンデルタ-ル人だと言われている。我が国に伝来したのは奈良時代で、中国から仏教と共に伝ったとされている。「比丘十八物」は僧侶が常に身につけて置くべきものの一覧であるが、楊枝はこの18物の一つに挙げられている。楊枝の原型は、口中を清潔に保つための歯木である。口中の清潔を保つことは、信仰や社会生活の上から大切なことでそのために重要な用具であった。木の枝の一端を噛んで筆の毛先状にしたもので、釈迦が弟子達にこの歯木で歯を清潔にすることを教えたとされる。最初僧侶に取り入れられたものが平安時代に貴族に伝わり、江戸時代になると房楊枝と呼ばれ庶民の間に拡がった。江戸時代の楊枝は一方が房状になった房楊枝で他端は細く削ってあり、歯に詰まったものを取るのに用いた。その細く削った部分が独立して、爪先でつまむという意味で「爪楊枝」となった。歯ブラシと楊枝は房楊枝が原型で、楊枝は歯の間に詰まった食べ滓を取る道具として発達したが、クロモジは和菓子などの食品を口に運ぶための道具としても使われる。君津市久留里地方では江戸時代に傘貼りと同じように、武士の内職として楊枝作りが始まったと伝えられ、大正時代の文献によれば久留里楊枝の年間生産高は現在の価格に直すと7千万円にも上る主要産業であったという。室町初期頃から宮中に仕える女房が用いた言葉を女房言葉というが、これらは一種の隠語でもあった。これが将軍家に仕える女性や町家の女性にまで広がったもので、現代にも残って一般語になった言葉もある。言葉の頭に「お」を付けたものと、言葉尻に「もじ」を付けたものが良く知られている。クロモジの語源は、枝の斑点を文字に見立てて黒文字になったとする一方、黒い木の楊枝または黒楊枝の黒に女房言葉の「もじ」がついた「文字言葉」であるとする説とがある。 花言葉 誠実で控えめ
2014年03月03日

ハマグリの貝殻は組になっていた組合せ以外のものとはぴったりと合わないことから、結婚式ではハマグリの吸い物が出される。ひな祭りには、「ぴったりのよい夫にめぐり合えるように」との願いを込めてハマグリを食べる。日本人にとって非常に古くから親しまれてきた食材で、「日本書紀」にその記述が出てくる。蛤は、浜辺にあって栗と形が似ていることに由来するとの説や、石ころをクリまたは岩石を細かく割ったものを石グリと呼ぶことから、石に似て浜にある貝の意でハマグリと称されるようになったとの説がある。ハマグリ属の種はどれも外見が似ているため、水産市場や日常生活のなかではそれらのものを総称してハマグリと呼んでいる場合がある。国内で最も多く流通しているのは、チョウセンハマグリである。以前は漢字で朝鮮蛤とも表記されたこともあって、朝鮮が産地と誤解している人が多いが日本の在来種で現在は「汀線蛤」に統一して書かれる。名前の由来は、汀線から水深10m位の外洋に生息するためこの名前で呼ばれるようになったものである。ハマグリに良く似ているが三角形に近く、大型で殻も厚い。ハマグリほど殻表面の模様が発達しない。最大の産地は鹿島灘であり、国産ハマグリの6割を占めている。シナハマグリと呼ばれるものは外来種で、環境省指定要注意外来生物とされている。日本の侵略的外来種ワースト100に選定されていて朝鮮半島、中国、ベトナム北部が原産地で内湾の砂泥干潟に生息する。ハマグリの代用として1969年に三重県で蓄養が始まり、その後潮干狩り用に各地に放流されるなどして定着した。シナハマグリは、殻の光沢の有無や斑紋、殻の形によって大まかに見分けることができる。ハマグリは光沢があり、斑紋が多様で、水管が出る方の殻がやや長い。光沢乏しくくすんだ灰色の地に胡麻斑が多く出て、殻の両端の長さがほぼ同じものがシナハマグリである。殻は厚く、丸みを帯び、濃く大きな斑紋はほとんどないハマグリと表示されて流通するものは輸入されたシナハマグリがほとんどで、国産のハマグリはきわめて少ない。ビタミンB1分解酵素のアノイリナーゼを含むため、生食には向かない。昆虫でもないのに蝦や蛤・蛙に「虫」の字が使われているが、古代中国では動物を外見から鳥・獣・魚に分けこのどれにも当てはまらないものは「虫」として扱われ、蝦・蛤・蛙などは鳥・獣・魚のどれにも分けられないことから「虫」として扱われたことが由来となっている。ほかにも蛇・蜥蜴・蠍など爬虫類や甲殻類の蝦・蟹など多くのものに虫の字が使われている。昨日のネットに「パンダ?」の写真があった。スーパーへ買い物に出たついでに、魚売り場で蛤を購入した。今まで気にして見ていなかったのだが、良く見ればパンダの顔に見えなくもない模様の貝を見つけた。100個に一つくらいは、貝殻にこんな模様が浮かんでいる。トロ箱の中の蛤をひっくり返して選んでいる様子を見た店員は何をしているのかと不審に思ったに違いない。
2014年03月02日

大雪が続けて2回も降って積もった大量の雪の山が解け残っていたが、南の暖かい空気が流れ込んだ28日には一気に解けて消えた。雪が消えると同時に庭のあちこちに、春の使者ともいわれる蕗の薹が顔を出した。山菜で最も早くでてくる蕗の薹の独特の香りとほろ苦さが、春の到来を感じさせてくれる。冬籠りから目覚めた熊が最初に口にするのは、蕗の薹だとの言い伝えがある。和食料理では「春の皿には苦味を盛れ」と言われていて、食材の苦味は味覚を刺激して気分を引き締める。蕗の薹の苦味成分はフキノール酸やジカフェオイルキナ酸など抗酸化作用の高いポリフェノール類である。このポリフェノール類は体内の酸化ストレスから守るとともに、苦みは胃腸の働きの促進と精神的ストレスの改善などにも効果が期待できるという。(2011/2/25日本経済新聞)しかし少数ながら、蕗の薹によるアレルギーの例も報告されているので注意も必要である。(東京都保健福祉局)我が家では、庭に出てくる蕗の薹を使って、佃煮を作る。この作り方は家内の母親からの直伝だが、家内は作ったことは無いし彼女の兄・姉妹もおそらくは作らない。作り方はいたって簡単である。採取した蕗の薹は土で汚れているので丁寧に洗った後、鍋に蕗の薹とタップリの水を入れ火にかける。沸騰したら、さらに3分ほど煮た後ざるにあける。苦味の少ない方が良ければ5分ほど流水に漬けるが、苦味を残したい場合はそのまま使う。水気を硬く絞り微塵切りにして鍋に戻し、削り鰹節・酒1・味醂1・醤油0.5・麺つゆ0.2の割合で味付けする。途中2回ほど味を見て、自分の好みに仕上げる。後は弱火で焦げ付かないよう注意して、水分が無くなるまで煮詰める。出来上がった佃煮は冷めてから器に移すが、保存する場合は熱いうちに消毒した瓶に詰め蓋を下にして冷めるまで置く。昨日は庭に芽を出していた蕗の薹を、50個近くも採取できた。家の中一杯に蕗の薹独特の春の香りが一杯になった頃、今年も定番の蕗の薹の佃煮が完成した。
2014年03月01日
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