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兵庫県砥峰高原(とのみねこうげん)・奈良県曽爾高原(そにこうげん)・阿蘇大観峰に並んで、箱根仙石原高原はススキの景勝地として知られている。今から約3千年前に神山の北西斜面で起きた水蒸気爆発によって崩壊が起こり、大量の土砂が仙石原に流れ込んだ。その後崩壊跡にマグマが上昇して冠ヶ岳ができ、その後繰り返し起きた火砕流の土砂によって川が堰き止められ湿原化した仙石原高原が誕生した。此処に人が住み始めたのは、弥生時代中期と言われる。仙石原は江戸初期まで、「千石原村」という地名だったという。「千石の米がとれるほど広い原っぱ」という意味で、最初に入植した4軒の農家が千石原と呼んでいたものがやがて仙石原になったと言われる。しかし火山灰土と湿地のため期待に反して作物は育たず、茅場として以外の土地利用ができず結局屋根材としての茅の刈り出しによって生計を立てる以外に無かった。現在では心癒される美しい自然の風景として多くの人たちの目を楽しませているが、茅が屋根材として利用されていた頃は大事な生活の糧であった。江戸から戦後間もなくまでの長い間毎年刈り取られることでススキの草原が維持されてきたが、茅の需要が無くなった現在では野焼きによって草原として維持されている。バス停仙石から75号線を桃源台に向かう右側道路下の湿原の反対側は、斜面となっていて台ヶ岳と呼ばれ「かながわの景勝50選」に選ばれた群生する広大なススキの草原が広がっている。草原からは、箱根カルデラの最高峰金時山(標高1212m)や丸岳(1154m)、その間に乙女峠などを見ることができる。毎年3月中旬には、ススキ草原で山焼きが行われる。今年は2月に降った大雪や、風の影響で再三実施が延期され3月22日に実施された。ススキの草原の野焼きが終わると、間もなく箱根に春が訪れる。10月下旬の平日に訪れたのだが快晴の秋晴れとなったこともあって、銀色の穂が青空に映える景色を見るため多くの観光客で賑わっていた。9月~11月のススキの見頃には、仙石原浄水センターが無料の臨時駐車場として開放される。江戸時代中期の俳人で国学者の横井也有は、「鶉衣」の中で「…化物の正躰見たり枯れ尾花…」と書いたが、これだけ群生すると「化物や幽霊」には見えない。群生するススキも見事だが、一株二株のススキの穂が風に揺れるのを見るのもまた別の風情がある。
2014年10月31日

トンボは全世界に約5,000種類、うち日本には200種類近くの分布が知られている。大型種のオニヤンマから15mmほどのイトトンボまで、さまざまな種類が知られている。日本書紀では山頂から秋津島と呼ばれた日本列島を見た神武天皇が、「あきつの臀呫(となめ)の如し」(トンボの交尾のようだ)と譬えたといい、そこからトンボは秋津(アキツ、アキヅ)の別名で呼ばれるようになったとされる。トンボの語源については、飛羽・飛ぶ穂・飛ぶ棒などの説がある。漢字の「蜻蛉」はカゲロウを指し近代以前の旧い文献では、「トンボはカゲロウの俗称」として両者を同一に扱っている。イトトンボは、糸蜻蛉とも豆娘とも書かれる。なぜ豆娘がイトトンボと読まれるのか判然としない。成虫出現はトンボ類の中では最も早く、4月上旬~10月と言われる。池沼や湿地、の植物が茂る岸辺近くに多く見られる。名前のように糸のように細いイトトンボは、大型のヤンマ等に比較してデリケートなトンボとされる。国内には12属26種が知られていて、生息域の限られた種がある。トンボは卵→幼虫→成虫という、不完全変態をする昆虫である。幼虫は腹腔中にエラ様器官(気管鰓)をもち腹部の先端から水を吸って呼吸を行う。イトトンボの仲間の幼虫は、腹部の先端に3枚の外鰓を持つ。幼虫の期間がウスバキトンボのように1か月程度のものや、オニヤンマなど数年に及ぶ種もある。トンボの成虫の頭部は丸く、複眼が大きく約270°の視界を持つのが特徴である。脚は獲物を捕獲し物に止まるために使うだけで、移動には翅を使って飛ぶ。肉食性でカ・ハエ・チョウ・ガあるいは他のトンボなどの飛翔昆虫を空中で捕食する。多くの種のオスは縄張りをもち良い場所を独占し、他のオスが侵入すると激しく攻撃する。成虫はセミに比べて寿命が数か月ほどの種もあり、成熟に時間がかかるものが多い。交尾・産卵を行った成虫は、死んで一生を終える。一般的には幼虫で越冬するが、オツネントンボの仲間のように成虫で越冬する種もある。オオアオイトトンボは、クワなどの若枝に産卵し枝を枯らす例が知られる。トンボは素早く飛び回るが後退しないところから「勝ち虫」とも呼ばれ、縁起物として特に武士に喜ばれた。羊や鹿の鞣革に漆付けをしたものを印伝革といい、略して印伝と言っている。甲府に天正10年(1582)に創業したとされる、「甲州印伝」の本店がある。その製品には、トンボの図柄がモチーフとなったものがある。木々の葉の色が少しづつ変わり始めた10月の下旬、無風の小春日和の昼過ぎ池の傍の雑草に止まるイトトンボを見付けた。成虫で越年することが確認されている種はホソミイトトンボ・ホソミオツネントンボ・オツネントンボの3種だけなので、セスジイトトンボと見られるこの個体はやがて命を終えるのであろう。 いつみても 蜻蛉一つの 竹の先 子規
2014年10月30日

昭和14年に細川雄太郎が作詞した童謡あの子はたあれでは、「あの子はたあれ だれでしょね なんなんなつめの 花の下…」と歌われていて、佐々木信綱が明治43年に作詞し発表した尋常小学6年の唱歌、水師営の会見では「旅順開城約なりて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ水師営庭に一本なつめの木 弾丸あともいちじるく くずれ残れる民屋に いまぞ相見る二将軍」と9番まで続く。この童謡のなつめの花と唱歌二番の歌詞に出てくる弾丸跡が生々しい棗の木というのは、クロウメモドキ科に属する植物で生薬名は大棗・紅棗・黒棗と呼ばれて日本全国で栽培されているナツメのことである。樹高は10メートルにも達し、その果実を干したものは古くから中国料理などで使われている。南ヨーロッパあるいはアジア西南部原産、中国が原産とされる。芽吹きが遅れて夏になってから、芽を出すことから夏芽と言われたのが語源の由来と言われている。茶道具の「棗」は抹茶を入れるのに用いられ、多くは木製漆塗りの蓋物容器である。この棗は薬籠(ヤロウ)などと同様に、薬などを入れていた漆塗りの器の一種から転用されたものであろうと推測されている。茶道具の棗の形がナツメの実に似ていることからその名が付いたとされる一方では、植物のナツメの実が茶道具に似ていたことからナツメの名前がついたと前後関係が全く逆の説とがある。ナツメは薬用として奈良時代以前には既に渡来していたと考えられ、茶器の棗は1400年代に塗師羽田五郎が初めて棗形茶器を作ったとされていることからも植物の名前の方が早かったであろうことは容易に推測できる。日本のナツメは小粒だが、休眠期の剪定や根元を刺激するなどにより大粒の果実の収穫が可能となる。濃い茶色または暗紅色に熟した果実は生ままやコンポートにしてたべられるが、乾燥してから蒸して再度日干しにしたものは生薬の大棗と呼ばれる。延喜式(927年)に乾棗や大棗の名が出ており、奈良時代には既に薬用に用いられていたことが推測される。夜露に当ててから日干しにしたものは、赤いので紅棗と呼ばれ料理の食材とされる。収穫時期は8月中旬からだが、寒冷地では10月末頃まで収穫される。採取した生の果実は、乾燥しないようにポリ袋に入れれば冷蔵庫で保存できる。あまり旨い果物では無いが皮ごとかじって食べると、子供の頃実家の庭の未熟な実を摘んで食べたことが思い出される。果実は干しナツメにして菓子材料として食用にされ、また生薬としても用いられる。干しナツメは中国や韓国では古くから、薬膳料理に用いられ韓国の鶏料理サムゲタンには、大蒜・栗・人参・松の実・枸杞の実などと一緒に使われる。漢方では、強壮・鎮痛・補血・利尿といった効能があるとされている。
2014年10月29日

湧水は地下水が地表に現れたものであり、地層に擬えて地下水の「露頭」とも呼ばれる。地表から浸透した水は地中を流れて、やがては地表に流れ出して河川や湖沼となる。湧水は河川・湖沼などの表層水に比べて水質が良好であり年間を通して水温が一定であることから、古来より人々の生活用水として利用されてきた。また、湧水は水辺生物の生息環境を維持し、生態系にも関与する重要な要素でもある。さらに水辺の景観は人々に安らぎを与え、災害時には「生活に必要な水」としての利用が期待できる。全国各地の湧水には「名水」と名前がついたものがあり、1985年に環境庁が選定した「名水百選」(昭和の名水百選)では75箇所の湧水が選定され、2008年になって環境省が選定した「平成の名水百選」には63箇所の湧水が指定された。東京都には平成20年度調査で、区部270と市町村部406の湧水が確認されている。これらの湧水の中から住民や自治体からの推薦を受け、都が選定し「東京の名湧水57選」として2003年に公表したものがある。「水量や水質、由来や景観などにおいて優れていて、一般公開されているもの。」を選定の前提としたという。なぜ57という中途半端な数になったのかについては、定かにされていない。近年は都市化の影響や土地利用の変化によって、湧水の多くに枯渇や水質悪化などの問題が生じている。これら名湧水57選について飲用可否は選定の基準にされておらず、飲用に適するか否かは保証されていない。八王子市からこの名湧水57の中に、5件の湧水が指定に入っている。その5件の中に八王子八十八景の「水辺の景」の一つでもある、六本杉公園が入っている。六本杉公園は、八王子駅南口から徒歩10分ほどの住宅地の一隅にある。南側の凡そ4階建建物の高さ程もある斜面の上には住宅が密集していて、その斜面の最下部から湧き出た水が池に直接流れ込んでいる。池から流れ出た水はやがて、山田川へ流れ込む。平成24年から2か年計画で老朽化した施設のリニューアル工事が行われ、併せて公園施設の更新・バリアフリー化が実施された。以前は湧水が堀を伝わって自然に傍らの池に流れ込んでいたのだが、この工事に依って新たに名湧水57選の標識と池に続く流れが整備された。この公園の湧水自体はそれほど多くは無く、駅から至近の距離で「八王子市水辺の景八十八」でもあることがその指定理由とされているのを見て分かるように、主として景観重視が指定理由とされている。この湧出量では、「災害時の水」として利用できる水量ではない。見た目には澄明で飲めそうに見えても、地下水は一般的に大腸菌群その他の微生物や化学物質により汚染されていることもあり、少なくとも濾過・消毒で緊急時の飲用として利用可能なのかどうか位は周知が必要ではないだろうか。
2014年10月28日

ワタはアオイ科の多年草の総称で、仲間には美しい花をつけるものが多くハイビスカス・ムクゲ・フヨウ・タチアオイなどのほか、オクラは食用にワタやケナフなどは繊維に利用される。種子の周りから採取した繊維は、木綿と呼ばれる。綿花というのは棉の花では無くワタの種子を包んでいる白色または淡黄褐色の繊維のことで、綿糸などの原料とされるものを指していう。開花後熟したさくが割れると、綿毛に覆われた種子が出てくる。この種子から絞った油が棉実油で、高級サラダオイルになる。摘み取った状態までのものが棉、種子を取り除いたものを綿というが区別しないことも多い。布団や座布団の中身のことを「わた」と呼ぶ。真綿を入れた半纏の別名を、「わたいれ」と呼ぶ。このように綿を「わた」と読ませるのは塊状の繊維全般を指す語として用いられるが、元々は繭から採った「真綿」を意味することが多かった。最も古いとされる約8000年前の綿花栽培を示す跡が、メキシコで見つかっている。16世紀末までには、アジアおよびアメリカ州の暖かい地方全域で栽培されるようになった。19世紀前半の合衆国南部に作られた大規模綿花プランテーションの労働力は、奴隷により確保され農場主は大きな富を得た。平安時代初期に編纂された勅撰史書「日本後紀」には、799年に三河国に漂着した崑崙人によって持ち込まれた綿花が栽培されたが1年で途切れたとの記載がある。我が国での栽培が一般的になったのも、16世紀以降とされる。フェニックス市はアメリカ合衆国アリゾナ州にある州都で、同州最大の都市である。原住民ホホカム族の遺跡があった場所に、1867年の灌漑事業によって都市が再生された。先住民の文明遺跡に建設されたため、死から復活する不死鳥・火の鳥になぞらえてphoenixと名付けられたものである。必要な水が得られたことから、綿花栽培はアリゾナ州の二大産業の一つとなった。フェニックス周辺にはコロラド川の浸食が形作った奇観景勝地グランド・キャニオン国立公園があって、夜は気温が低く昼間は高い典型的な砂漠気候を示す。 フェニックス市長から贈呈された市章姫路市とは姉妹都市の提携をしており、東京23区のS区とは姉妹都市の提携は結んでいないが人事交流があり、公用で市長を表敬訪問したことがある。訪問時の気温は摂氏50℃(華氏122℃)で、今もその記録は破られていない。そんな気候が、棉の栽培に適していたのであろう。種子は硬いさく果のなかにあり成熟するにつれ、弾けて綿花が現れる。ワタの種子を包んでいる白色または淡黄褐色の繊維を、綿花と呼び木綿糸の原料となる。さく果の内部は隔壁によって数部屋に分かれそれぞれに数個の種子があり、それに外皮細胞が変形した綿毛が密生している。生の綿毛は管の中に水分があるが、熟するにつれて内部の水分が蒸発して中空になりさらに繰綿によって管内の水分が無くなると自然に捩れる。標高400m以下の温暖な地であれば、東北地方でも栽培が可能である。多年草なので越冬させることが出来ればまた春に新芽が出るのだが、日本では現実的ではなく一年草として扱われる。棉の生育には共生菌の力が必要で、この菌が付着するまでには1か月程を要するので発芽後の生育が非常に遅いのが特徴である。花自体が美しい上に酔芙蓉と同じようにクリーム色から淡いピンク・赤色へと花色が変化するのも面白く、農作物としてではなく鉢植え観賞用としても栽培される。風媒花で自家受粉するが結実しても落果する場合が多いのだが、「人工授粉」によって落果を防ぐことができる。4月の初めに播種したものが、その性質そのままに一向に大きく成長せず夏を越した頃から漸く枝葉を伸ばし始め10月下旬になって漸く花が咲いた。コットンボール(綿実)も部屋の装飾に面白く、出現するのを楽しみにしている。
2014年10月27日

明治以前の炬燵は専ら畳の一隅と床を切り取って、炉を設えた掘り炬燵であった。昭和の初期になると櫓の底に板を張って移動可能の土器製の火入れを置き、熱源に炭火を用いたものも使われるようになった。毎年旧暦10月の初の亥の日は玄猪・亥の子の祝い・亥の子祭りとも言われ、亥の子餅を配る習慣があった。「炬燵開き」は武家屋敷ではこの日に、庶民の家ではその12日後の二番目の亥の日に行われる決まりであった。因みに今年の旧暦10月の最初の戌の日は、新暦では11月23日に当たる。泉鏡花「開扉一妖帖」大正三年一月に発表した「開扉一妖帖」には、「雪の夜路の、人影もない真白な中を、矢来の奥の男世帯へ出先から帰った目に、狭い二階の六畳敷、机の傍なる置炬燵に、肩まで入って待っていたのが、するりと起直った、逢いに来た婦の一重々々、燃立つような長襦袢ばかりだった姿は…。」と、「置き炬燵」が出てくる。炬燵は床や畳床に設置した炉の中に熱源を入れ、上に櫓(やぐら)を置いて外側を布団などで覆って中を暖かくする暖房器具のことである。この櫓のことを、「こたつやぐら」という。熱源としては木炭・豆炭・練炭を容器に入れて用いたが、現在は殆どが電気を熱源としている。炬燵の種類は大きく分けて、足の膝から下を差し込んで腰掛けることができるようにした掘り炬燵と移動が可能な置き炬燵とに分けられる。「こたつ」は室町時代には「火闥」、江戸時代には「火燵」と表記されたが現在は炬燵で統一されている。ただし燵は漢字には無く、日本で作られた国字である。呼び名では丁寧語の「お」をつけた、「おこた」という言い方もある。日がな一日炬燵にもぐって生活する人のことを、「こたつむり」と呼ぶ場合があり、頭だけ出して首まで潜り込んでいる状態は「亀」とも表現される。炬燵の起源は禅宗の僧侶が中国からもたらした行火(あんか)が起源だとされ、室町時代には囲炉裏の上に櫓を組んで蒲団をかけて用いたという。江戸時代には囲炉裏の周囲も掘り下げ、足を入れて腰掛けられる炬燵ができた。これが現在の腰掛け炬燵の原型で、大炬燵と呼ばれ大勢が入ることが可能であった。炬燵は火鉢とともに冬には欠かせない、暖房器具として発達した。熾きた炭に灰を被せることで内部の温度を調節し、長時間使用できるように工夫をした。寺院や武家では火鉢を専ら客向けの暖房器具とし、炬燵はプライベート用として使用された。江戸時代中期には、熱源部分に囲炉裏に替えて火鉢を用いた置き炬燵が広まった。置き炬燵は移動可能であるため、何処にでも設置できる利点があった。電気を熱源とした炬燵が1956年に初めて登場し、木炭や石炭が殆ど生産されなくなったこともあって現在は電気式の置炬燵が主流になった。熱源から赤い光を出して赤外線炬燵として称して販売されていたが、実際には色が識別できる波長は熱波では無く、可視光線の赤色よりも長い不可視光線が熱を出すのでランプ式の電気炬燵の色は無意味であった。実際は赤い色が見えるようにして、恰も暖かい感じを演出したものであった。この赤色を出すランプ式の炬燵を1960年頃に発売したところ、売り上げが一気に伸びたという。現在は家具調炬燵或いは暖卓と呼び冬場の暖房用としてだけではなく、夏期にはテーブル代わりとして通年利用されることが多い。我が家では10月15日の北風と冷たい雨で、冷え切った部屋の空気に堪らず炬燵を設置した。江戸時代以前の一般民衆の家では11月中旬まで暖房が無い中で暮らしていたとされ、温暖化が謂われる現代でも10月中旬を過ぎると暖が恋しくなる日があるのに昔の人々は随分遅くまで寒さを我慢していたものだと感心する。 こたつの屁 惣店立で ふるってる 江戸川柳160炬燵の中でオナラをされ、あまりの臭いに我慢しきれず皆でこたつ布団を持ち上げて振るう様子が可笑しい。
2014年10月24日

富士山を水源とする湧水は、静岡県・山梨県内に多数存在している。その中でも静岡県清水町の柿田川湧水が有名だが、山梨県ではすっかり観光地化した忍野村が良く知られている。忍野村は明治7年に、「忍草(しぼくさ)村」と「内野村」が合併した際それぞれの一字ずつを採ってできた合成地名である。合成地名の読みを「しぼの」でなく、「おしの」にしたのは富士山の溶岩が「押し出した」ところから考え付いたものであったかも知れない。ぬかるんだ湿地のことを「しぶ」と言ったとされ、「しぼ」は「しぶ」が転化したもので「くさ」も腐った湿地帯を指すところから村の名前になったとされる。古くは「渋草(しぶくさ)」と、表記したという。しかし「渋」が枯れるに通じるとして、後に「忍」の文字を当てたという。「忍草」は、一般にはしのぶくさと読まれる。しのぶ草とは古木の幹や岩石の表面、古い家の軒端などに生えるノキシノブのことで「忘れ草」の別名もある。忍は偲ぶと同義語で源氏物語宿木には、「しのぶぐさ摘みおきたりけるなるべし」(思い出のよすがとして摘んでおいたのであったのだろう。)と出てくる。江戸前期の俳人・歌学者の北村湖春が著わした源氏物語のダイジェスト版には「源氏物語忍草」の題名がつけられている。忍野村には字(あざ)名に忍草(しぶくさ)の地名が現在も残り、この地には富士山の一部として世界文化遺産に登録された「忍野八海」があることで有名である。富士山に降った雨水が溶岩の間を約20年の歳月をかけて流れる間に濾過され、湧水となって8か所に湧出して海(池)をつくる。忍野八海に湧出した水は、やがて山中湖を水源とする相模川水系の桂川と合流する。1995年以降毎年実施される湧池の水質調査では毎回大腸菌群が検出される他、有機塩素系溶剤のテトラクロロエチレンも検出されるとの報告がある。忍野八海の池の周辺で幾つものユスリカの蚊柱が立っていたが、水中には汚濁した水質に棲むアカムシユスリカの幼虫を発見できなかったので、比較的清浄な水に棲むとされるヘモグロビンを持たないユスリカの類だろうと考えられる。いずれも問題とされるほどの汚染ではないとは言え、この地も環境汚染が進行していることが窺われる。忍野八海はその昔行者姿で水行が行われる聖地であったのだが、明治元年に明治政府が廃仏毀釈令を発したことによって富士信仰の衰退とともに戦後は禊ぎを行う行者姿を見なくなった。昭和30年代後半になって、ここから見える富士山と萱葺き屋根の風景が紹介されるようになると徐々に一般に知られるようになった。さらに昭和60年に「全国名水百選」に選ばれたことによって、観光地として一気に脚光を浴び知名度が高まった。八海には池毎にそれぞれ異なった伝説が伝わっており、中でも「濁り池」伝説は昔し話の本で読んだ記憶がある。「この池に湧く澄んだ水は飲料水とされていたが、ある日乞食のようにみすぼらしい行者がきて、池の持ち主の軒先に立って、一杯の水を求めた。しかしその家の老婆が無愛想に断ったところ、この池は急に濁ってしまった。」そんな伝説から、池の名前がついたと言われる。しかし、この池の濁った水を器に汲めば澄んだ水に変わるのだという。この池は八海めぐり第六番の霊場として「阿那婆達多竜王(あなばたつだりゅうおう)」が祭られ、「ひれならす 竜の都のありさまを くみてしれとやにごる池水」と刻まれた石碑があったと伝わるが、今は探してみても何処にも見当たらない。
2014年10月23日

甲斐駒ヶ岳は、南アルプス国立公園内の赤石山脈北端の山梨県北杜市と長野県伊那市に跨る標高2,967mの山である。中央アルプス木曽山脈の西駒ケ岳に呼応して、別に東駒ケ岳の名前でも呼ばれている。山梨県側の山麓から2,500mほどの標高差で屹立しており、山容に魅せられた多くの人がリタイア後この山の麓に山荘を作って暮らしている。この山は鋭く切りたった山容で独立峰のように屹立する日本アルプス屈指の名峰として、日本百名山・新日本百名山・新花の百名山・山梨百名山・日本百景に選定されている。未踏の山であったものを江戸時代の1816年に、弘幡行者の小尾権三郎が開山したとされている。白州町誌に依れば縄文の昔からこの山が信仰の対象とされてきたとされ、江戸時代には駒ヶ岳講として駒ヶ岳神社及び甲斐駒を崇拝する人達で組織されたグループができ、白装束で甲斐駒に登拝すること及び修行を目的に登山が行われるようになった。各講には先達或いは行者と呼ばれる長老がおり、講中は白衣を着て鈴を振り大祓詞や般若心経などを唱えながら登る。最盛期には西国からの信者もあり、日元講・開闢講・落合講などの講社も存在していたとされるが、現在活動している講社としては開力講・三山寿永講・丸王講・天竜講・寿講・明山講などが数えられている。駒ケ岳講の活動が最も盛んであったのは江戸時代の末期から戦前の昭和時代までであり、神社境内や登山道のいたる所に石碑などが建立されている。講というのは、宗教行事を行なう集団結社のことで本来は講義や講読の「講」を指し、平安時代になると仏典を講読・研究する僧の集団を指すようになった。中世ごろから民間に浸透する過程で、様々な信仰集団に「講」という名称がつけられるようになったものである。地域の内部に発生した産土講や頼母子講等とは別に外部からの導入による講は、当初山岳信仰に関するものであったとされる。修験者が霊山への登山を勧めて全国を廻り、各地に参拝講が作られた。これらの参拝講では、講の全員が参拝に行く「総参り」もあったが、多くは講の中から数人を選び代表して参拝する「代参講」が行われていた。四国八十八ヶ所霊場・坂東三十三観音・西国・東国など全国には260を数える札所がある。近畿2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音信仰の霊場は、西国33札所と呼ばれる。その数は観音菩薩が衆生を救うとき、33の姿に変化するという信仰に由来している。そのため秩父札所などの例外を除いて、観音霊場は三十三である。西国33札所の第三番は粉河寺で、和歌山市と高野山とのほぼ中間の紀ノ川の北岸に位置する。粉河寺の秘仏千手観音は、今まで誰も目にしたことが無いと言われている。やがて一本になるのだが甲斐駒ケ岳へのルートには、白州町横手と竹宇にある二社の駒ケ岳神社が登山口となっている。国道20号線に沿って台ケ原の宿があり、宿場の外れ諏訪寄りに白州総合会館がある。その会館左の隣地との境界に並べられた幾つかの石碑の中に、西国三番の講中が寄進したと思われる千手観音像の石碑がある。碑文に見える文久二壬戌年とは、1862年のことでこの年の8月に建立されたことが分かる。遠く紀の国からやってきた講中の人々は、台ケ原の宿に泊って英気を養ってここから竹宇駒ケ岳神社、さらには甲斐駒ケ岳の山頂を目指したものであろう。
2014年10月22日

ジュピターの名称はモーツァルトが作った最後の交響曲のスケールの大きさ、輝かしく荘厳な曲想からローマ神話の最高神ユーピテルにちなんで、同時代のヨハン・ペーター・ザーロモンが名付けたとされる通称で、その他に特段の意味合いは持たない。コロンビア盤モーツァルト41番ハ長調K.551ジュピターのジケットの解説で、2009年に死去したクラシック音楽評論家の黒田恭一は、「音楽史上たぐいまれな、単純で率直な、そのうえ感じやすい美しさを作品に定着した。ヴァイオリンが示す少(小の誤りか)さなフレーズにういういしい敏感な感性と力に満ちた歩幅の大きい精神とを、なんのわだかまりもなく同居させうるためにモーツァルトは、対立的な書法を必要としたのだった。そしてそのすべてをつつみこむ度量の大きさと気高い品格とが、人間をして「ジュピター」と呼ばわしめたのは、しごく当然なことなのだ。」と解説している。(原文のまま)モーツァルトの楽曲に付けられた通称の他に、天体にもジュピターの名前で呼ばれる星がある。木星は英語でジュピター(Jupiter)とよばれるが、これはローマ神話の神ユーピテルが語源となっていて「天空の父たる神」あるいは「日の父たる神」の意味である。木星は太陽系惑星の1つで、公転軌道を周回している第5惑星である。太陽系惑星の中では大きさ、質量ともに最大である。しかも太陽・月・金星に続いて、4番目に明るく見える星でもある。夜間や陽が昇る前に目視することができる木星は古代から知られ観測されており、多くの文明で神話や信仰の対象となった。10月8日に3年振りとなる皆既月食が見られる筈であったのだが、日本列島では折悪しく関東地方のみが曇り空となって折角のショーを見ることが叶わなかった。しかしその10日後には、皆既月食ほどには騒がれなかったものの見事な天体ショウが明ける前の東の空に繰り広げられた。下弦を過ぎた月が、木星とレグルスの傍をかすめるようにして上ったのだ。今の早朝4時の東の空には木星が輝いていて、木星の近くにレグルスも見える。17日(月齢22.9)から20日(月齢 25.9)にかけては、木星とレグルスの傍を三日月が通り過ぎた。10日前と違って外気温8℃の澄み切った空には一片の雲も見えず、ジュピターとレグレス・月が繰り広げる天体ショーを観測するには最高の条件であった。月食は2時間ほどのショーだが、明るい木星と三日月が並ぶ美しい光景は数日間観察することが可能である。観測を続けると、月が次第に細く形を変えながら星の間を動いていく様子がよくわかる。因みに月が木星にいちばん近づいたのは18日、レグルスに近づいたのは19日であった。
2014年10月21日
一頃多かったネコの徘徊が、極端に少なくなって庭を荒らされたり糞をされることがなくなった。急に飼い主のモラルが向上した結果とは考えられず、ネコの絶対数が減少した結果だと思われる。一般社団法人ペットフード協会が平成25年に実施した実態調査によると、イヌの飼育頭数は10,872千頭でネコは9,743千頭だったという。ペットと言えば昔から犬と猫がその双璧であるが、ネコが飼育されるようになったのはイヌよりずっと遅く平安時代とされている。日本では「日本霊異記」に、ネコが初めて登場する。宇多天皇の日記「宇多天皇御記」に、元慶8年(884)に唐土から贈られた黒ネコをかわいがったことが記されている。これが平安末期になると庶民の間でも飼育されるようになり、その頃に二つの伝説が生まれた。一つは年経た雌ネコが化物になって人を害するという猫股伝説で、他の一つはネコが品物を持ってきて長い間の飼育に報恩する話である。猫股は日本の民間伝承や古典の怪談・随筆などで取り上げられているネコの妖怪で、尾の先が二つに割れているとされる。中国の隋時代には早くも「猫鬼」・「金花猫」といった怪猫の話が伝えられていたが、日本では鎌倉前期になって藤原定家による「明月記」に、天福元年(1233年)8月2日に南都に「猫の妖怪」が現れ一晩で数人の人間を食い殺したとの記述がある。明月記に登場したのが猫股の初めで、山中に生息して犬に似た獣として語られている。徒然草89段では「奥山に、猫またといふものありて、人をくらふなる」と人の言ひけるに「山ならねどもこれらにも猫のへあがりて、猫股になりて人とる事はあなるものを」といふ者ありけるを何阿弥陀仏とかや、連歌しける法師の…」と記されている。後段は連歌の会で遅くなった夜半に、何阿弥陀仏という法師が我が家を目指しているところへ猫股が出て飛び付かれ泡を食って川の中へ転げ落ちてしまった。近隣の人たちが松明を持って駆けつけ、川から引き上げてくれた。後で良く見ると何阿弥陀仏が猫股だと思ったのは、自分の飼い犬で主人が帰ってきたので喜んで飛び付いたのだったという内容である。将に「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」の世界である。 江戸時代の怪談集「宿直草」や「曾呂利物語」にも、山奥に潜んでいて人間に化けて現れる猫股の話がある。日本には越中国で猫股が人々を食い殺したといわれる猫又山、会津で猫股が人間に化けて人を誑かしたという猫魔ヶ岳のように猫股伝説が名前となっている山がある。昔、猫股が黒部の山の中に追われ逃げてきて住みつき、たくさんの猫が集まって鳴き声が聞こえるなどの怪異があったのが猫股山の由来という。また、猫股が出て人を食ったという伝説が、猫魔ヶ嶽の名前の由来として伝わっている。釣り上げた魚目当てに老女に化けた雌猫を、郷士善右衛門が斬り殺したため山の主の猫王が報復としてその奥方を食い殺して樹上に吊した。怒りに狂った郷士が、宝刀で妻の仇を討つという粗筋である。ネコはイヌと異なりその眼光や習性により古来より魔性の生き物と考えられ、死者を甦らせたりネコを殺すと7代まで祟られるなどの俗信があって、猫股などネコの化け物伝説が生まれたものと考えられている。ネコについては猫股以外にも、化け猫伝説も多数残っている。ネコの平均寿命は12年で、これはヒトの64歳に相当する。子供の頃信州では、この年を超えたネコは化けると聞いたことがある。人間社会では絶えず、エボラ出血熱・デング熱など新たなウイルス感染症が次々と流行する。ネコの姿を見かけることが少なくなったのは、ネコ社会に特有の感染症である猫白血病ウィルスや猫エイズウイルス感染の流行が原因になっている可能性も考えられる。 猫の恋 やむとき閨の 朧月 芭蕉
2014年10月20日

数年前から、ニホンヤモリの姿が家の内外で目に付くようになった。夜間室内の壁面にひっそりと張り付いていたり、夏は網戸の外側にジッと張り付いていたりする。蜥蜴ほど機敏では無く家守の名前から受ける感じもあって、家族は部屋の中の壁にへばり付くヤモリを発見しても目くじら立てて追い払うようなことはしない。日本には、ニホンヤモリほか十数種が棲息する。ヤモリはヤモリ属に分類されるトカゲの一種で、漢字では「家守」または「守宮」と書き表される。ヤモリは家の中に入り込んで壁に貼り付いている姿が家を守っているようにも見えまた、家の中に棲むお邪魔虫を餌として食ってくれるので「家守」の字が当てられたとされる。「守宮」とも書くのは漢の武帝が官女たちに貞操を守らせるために、ヤモリを利用した事に由来するという実しやかな話が伝わっている。中国最古の薬物書に、「神農本草書」がある。4000~5000年前の古代中国の神農と言われる神が、身近な草木の薬効を調べるため自ら草根木皮を嘗め何度も毒にあたっては薬草の力で甦ったといわれている。調べた草木の薬効をまとめたとされる、書物である。この「神農本草書」の124番に「主疥瘙痂瘍、白禿、殺皮膚中虫蝨、墮胎、除熱、殺金、銀、銅、錫毒、鎔化還復為丹。久服神仙不死。生平土。」と、金属水銀の薬効が記載されている。水俣湾のメチル水銀中毒が発生するまでは、日本でも傷口の消毒に無機水銀製剤の「赤チンキ」が常用されていた。金属水銀は金属では唯一液体で、経口ではその殆どが排出されてしまうので一般に恐れられているように危険な物質ではない。ただし常温で容易に蒸発し、その蒸気を吸い込むと猛毒に作用するのでその取り扱いには注意を要する。この金属水銀を食べさせたヤモリの粉を、官女の体に塗って貞操を守らせていたのだという。どうやら守宮の宮は、子宮のことであるらしい。外来種で日本に定着したのは平安時代以降と思われ、日本全土に分布している。沖縄に生息するものは大型で夜間良く鳴き声を挙げることから、ニホンヤモリとは別種であると考えられている。ニホンヤモリは10cmほどの大きさをしており、体色は灰色から褐色で不鮮明な暗色の斑紋がある。食性は動物食で、昆虫やクモなどの陸生の節足動物を食べている。夜行性で灯火の周りに現れることが多く、驚くと壁の隙間等の狭い場所へ逃げ込む。驚いたり敵に捕まりそうになると尾を自切するのは、蜥蜴と同じである。害虫を食べ人間に対しては臆病で攻撃性が低く咬害や食害を与えることもないため、有益動物とされている。 守宮よ わが名をちらせ 木葉川 芭蕉
2014年10月17日

金木犀の二度咲きについては、ひこじいさんのブログ「松茸と二度咲き金木犀(2012年10月14日)」にも書いた。銀木犀は17世紀後半に日本に渡来したとされるが、金木犀はそれより遅れて江戸時代初めに渡来したものではないかと推測されている。銀木犀はモクセイの名でも呼ばれその仲間にはヒイラギなどがあるが、中でもキンモクセイが最も強く香る。キンモクセイの花には甘く強い香りであることから、トイレが汲み取り式であった時代にはその近くに植えられることが多かった。1970年代から1990年代にかけてはトイレの芳香剤として利用されたため、この年代を経験した人ではこの匂いからトイレを連想することがある。しかしトイレの芳香剤を知らない小五の孫は、金木犀の香りからトイレを連想するようなことはない。多くの人がトイレで嗅いだ匂いは約20年間でその姿を消してしまったのだが、トイレの水洗化・嗜好性の多様化・臭気の基が科学的に解明され消臭技術が発達したことなどが原因である。この香りの香水も作りだされていて、30mLが4000円ほどで売られている。樹皮が犀の皮膚に似ていることから木犀の名前がつき、金色の花を咲かせるものを金木犀、白花のものには銀木犀の名前がつけられたという。花を砂糖漬けにしたものを「桂花糖」といいお粥に入れたり、お菓子の香り付けとして利用される。「桂花陳酒」は、白ワインに金木犀の花を3年間ほど漬け込んだ12~3度の酒である。2012年は夏の間の干天雨無しが影響したのか満開を迎えた後、2~3日の間しか香らず知らない間に花が終わってしまった。ところが2週間ほどの間隔で、一度咲いて散った木にまた開花した。ひこじいさんのブログでは「夏の高温雨無しと、一度目の開花後に高温期が続いたことも影響しているのではないか。」と分析している。今年は6月~9月に搬送された熱中症患者が過去5年間で最低で、前年の68%の40,048人であった。この理由として消防庁では、6月は平年並みだったのが8~9月に気温が低かったためと分析している。低温傾向であった夏が、今年の金木犀の開花にも影響を与えたことは確かである。金木犀は例年中国・日本ともに9月下旬から10月に開花するのだが、紅葉前線に似て南に行くほど開花は遅くなる。関東では例年10月が開花時期なのだが、今年は9月20日前に街中のあちこちから独特の甘く強い香りが漂い始めた。松茸の発生と金木犀の開花には相関性があって、金木犀の開花と同じ時期に松茸の発生が最盛期となるので金木犀の香りによって松茸狩りの時期を教えられる。その言い伝え通り、今年の松茸は例年より1か月も早く8月下旬から出始めた。今年は9月中旬から咲き始め、10月に入る前に街中からすっかり金木犀の香りが消えてしまったのだが、例年の開花時期の今になって再び街中に独特の香りが漂い始めた。金木犀の木を観察して見ると、花の着き方が2012年と明らかに異なることが判る。今年は同じ二度咲きでも気温に影響を受けなくて、早い時期に開花せず蕾のままで例年の開花時期まで待って開花したものであろうと思われる。その証拠に開花枝が疎らで、明らかに咲き残りを思わせる咲き方である。金木犀の街としてそれが地名となった中国桂林では、近年二度咲きが普通に見られるとの報告があるところを見ると、今年は二度目の花が多かっただけで日本でも二度咲きが常態化しているのかも知れない。 花言葉 謙虚、謙遜 真実、真実の愛 初恋、陶酔花言葉の「謙虚、謙遜」は金木犀の芳香に比べて、目立たない花を着けるところからつけられたものという。
2014年10月16日

スイフヨウ(酔芙蓉、Hibiscus mutabilis cv.Versicolor)ひこじいさんのブログ(2013年08月18日花なのに酔って候)に記載。朝咲き夕方には凋む一日花で、咲き初めの花弁は純白だが、時間が経つにつれてピンクに変色する。花色が白からピンクに変わることから、人が酒に酔って赤くなる顔に見立ててつけられた名前である。中国ではハスのことを「芙蓉」と言うのでこれと区別するため水の中に咲くハスを水芙蓉といい、木に咲くものを木芙蓉と呼んで区別していた。日本ではハスを芙蓉と呼ぶ慣習が無いので、特に木芙蓉と呼ばなくても区別がつく。酔芙蓉は、芙蓉から変化した花である。芙蓉は平安時代から観賞され、人々に愛されてきた。芙蓉が属するアオイ科の植物は約1500種に分類されていて、ハイビスカス・ムクゲ・フヨウ・タチアオイなどのほかオクラ・ワタ・ケナフなど多くは美しい一日花をつける。色の変化には、アントシアニンが関係している。アントシアニンは、植物界に広く存在する色素で、果実や花の赤・青・紫を示す水溶性色素の配糖体のことである。酔芙蓉の白色の花弁にはこの色素が含まれていないが、25℃以上の環境にあると細胞内で色素が生合成され花弁に溜まることによって次第にピンク→赤色になっていく。花色の変化に紫外線が関与していないことは、朝花を摘んで水盤に浮かべ部屋の中の光が当たらない場所においても夕方にはピンクに変化することからも分かる。開花してから花色が変化する植物には、薔薇・琉球朝顔・月見草など多くの種類が知られている。花が白だと昆虫に識別され難く、植物の繁殖にとっては一見不利なように思える。しかし、アントシアニンが合成されないと人間には白く見えるのだが、アントシアニンの前駆物質のフラボノイドは紫外線を吸収するため昆虫には見えて識別できる。逆に開花してからアントシアニンが次第に分解されて、花色が白く変化するものもある。これについての仕組みはまだ解明されていないが、酸化酵素で分解されるという仮説がある。挿し木・実生何れでも繁殖可能で、挿し木の場合は一年目で着花することがある。日当たりのよい場所に地植えするのがよく、肥えた土地を好む。しかし寒さに葉弱く、冬の寒さが-10℃を下回る土地では育たない。大振りで美しい花姿から、美しさの形容として様々なものに芙蓉の名前が使われている。美しく淑やかな顔立ちを指す言葉として、芙蓉の顔(かんばせ)がある。美人を、芙蓉の花の美しさに譬えて使う言葉である。中国では、酔芙蓉が酒に酔って頬を染める楊貴妃の美しさに譬えられている。富士山の美しい姿を芙蓉の花に譬えて、芙蓉峰という言葉が使われる。(三省堂・大辞林)芙蓉は一日花なので生花には向かないが、その儚さが諸行無常に通じるところから茶花として昔から使われてきた。芙蓉は樹皮が強く紙の原料や下駄の緒、紐の代用として用いられてきたという。白き芙蓉 あかき芙蓉とかさなりて 児のゆく空に秋の雨ふる 与謝野鉄幹 花言葉 繊細な美 しとやかな恋人
2014年10月15日
今昔物語集は全31巻からなり、平安時代末期に成立したとされる説話集である。その内8・18・21の3巻は欠けていて、初めから存在していなかったと考えられている。成立時期は1120年代~1449年の間とされるが保元の乱、平治の乱、治承・寿永の乱など、12世紀半ば以降の歴史的事件の説話が全く収載されていないことから、1120年代の早い時期に成立したものと見られている。作者について、はっきり分かっていない天竺・震旦・本朝の三部からなり、約1000余りの話で構成されている。それぞれ最初に因果応報譚などの仏教説話が紹介され、物話が続く体裁をとっている。いくつかの例外を除いて、それぞれの物語はいずれも「今昔」という書き出しで始まり、「トナム語リ傳へタルトヤ」という結びで終わっている。よく似た物話を二篇乃至三篇続けて、紹介する様式が採られている。毎年多くの人が誤食して中毒を起こす毒キノコに、ツキヨタケがある。このキノコは食用キノコのヒラタケやムギタケと、良く似ているので採取には注意を要する。ツキヨタケは柄を裂くと黒色のシミが確認できるがヒラタケにはなく、名前の由来となった夜間月明かりに蛍光色を発することなどが見分け方である。今昔物語集28巻18に「金峯山の別当毒茸を食いて酔わざる語」がある。ヒラタケと偽ってツキヨタケの汁物を食べさせる、毒殺未遂の話である。金峯山の別当職には、山の一番年配者が就く習わしとなっていた。二番目に年長の僧は、年長者が元気で何時までも頑張っているのでなかなか別当になることができない。別当は八十歳を過ぎたというのに、ぴんぴんしている。わたしは既に、七十歳になってしまった。場合によっては、別当になれず先に死んでしまうかもしれない。和太利を食べれば誰でも、中毒して死ぬと言う。これを平茸だと言って食べさせれば必ずうまくいくにちがいないとツキヨタケを食べさせ殺してしまおうと心に決めた。山から取ってきた和太利を美味しそうに調理し、弟子に「すぐにいらっしゃって下さい」と呼びに行かせやって来た別当に向かって、「昨日おいしそうな平茸を頂いたので、ご馳走しようと思いお呼びしたのです。」と話すと別当は喜んで和太利の炒めものを腹いっぱい食べた。「うまくいった。今に死ぬに違いない」と心待ちにしていたが、全くそのような様子がない。おかしいと思っていると、別当が「生まれてこの方、このように見事に料理した和太利を食べた事はありません。」と言った。別当は日頃から和太利を食べていたのだが少しも毒に中らない体質であったので、僧の企みは失敗に終わってしまった。この話に出てくる和太利というのは、ツキヨタケの別名でワタリといわれる。既にその時代からツキヨタケが有毒であり、それに似たヒラタケが美味なキノコであることが一般に知られていたことを窺がい知ることができる。ツキヨタケはブナやカエデなどの枯れた幹に良く発生するが、食菌として良く知られたヒラタケ・ムキタケ・シイタケなども同じ種類の枯れた木の幹に生えその形態や発生形状が類似しているので、昔からそれらと誤食されて中毒を起こしていたことがわかる。現在でも毎年100名程度が誤食し、その8~9割が発症している。しかしツキヨタケの毒は致命的ではなく、中毒者の殆どは10日ほどで治癒しており近年の死亡例は無い。金峰山は、奈良県吉野山から山上ヶ岳までの連峰の総称で金峯山とも表記し、「金の御岳(かねのみたけ)」とも呼ばれる。同名の金峰山は甲府市と南佐久郡川上村の境界にある標高2,599mの山であり、こちらはきんぷさんまたはきんぽうさんと呼ばれる。今昔物語に出てくるのは吉野山の金峯山寺と思われ、こちらの読み方は「きんぷせん」で修験道の中心地の一つであり現在は金峯山修験本宗の総本山である。
2014年10月14日

海原はるか・かなたの出し物に、毛吹き漫才がある。はるかが禿げ隠しで1・9分けにしている頭髪を、かなたが一吹きで吹き飛ばして禿頭をさらけ出し、はるかの頭一振りで元に戻す自虐ネタ漫才である。毛吹…。と訊くと咄嗟にこの漫才を思い浮かべてしまうが、その出典は古く紀元前400年も前の中国戦国時代に既に使われていた言葉である。毛吹草(けふきぐさ)という江戸時代(1645)松江重頼によって刊行された俳諧の作法書がある。発句・付句の作例などのほか季語・俚諺・付合語彙・諸国名物などが収載され7巻5冊より構成されている。この毛吹草という題名は極めてユニークだが、出典は韓非子に出てくる「不吹毛而求小疵、不洗垢而察難知」(毛を吹きて小疵を求めず、垢を洗ひて知り難きを察せず)である。その意は、「毛を吹き分けて隠れた小さな疵を探すようなこともせず、垢を洗い落として分かりづらかった本来の皮膚の色を知ろうとするようなこともしない。」と言うことだが、「毛を吹いて疵を求む」は慣用句となっていて毛を吹き分けて隠れた疵を探すように殊更に他人の欠点を見付けようとして、かえって己の欠点を露呈してしまう意味でも使われる。毛吹草の序文に「今年は寛永十五年、戊寅の毛を吹きて疵を求めん事、疑ひなし。」と書かれていることから、「毛を吹いて疵を求めず」を引用して自嘲を込めて著作物の題名に使ったものであろう。この中に、「夜目遠目笠の内」なる言葉が見える。ここに出てくる笠は傘と同語源で藺(い)・菅(すげ)・竹・檜板などで浅い円錐形に作って日光・雨・雪などが当たらないように頭にかぶるもので「かぶりがさ」ともいう。笠には多くの種類があるが女性用としては、綾藺笠・塗笠・菅笠・花笠・市女笠・鳥追笠などがある。これに対して傘は笠と同じ用途であるが、笠と異なって広げて頭上に差しかざして用いるもので、竹や金属の骨に紙やナイロン布などを貼って柄を据えて開閉ができるようにしてあり「さしがさ」ともいう。この諺では笠だが傘でも同じように通用するので、傘の字を用いることは誤用だとしてことさら目くじらを立てるほどのことでは無い。むしろ笠ではなく雨中に蛇の目傘や、強い日射しの中で日傘を差している和服姿の女性の方がこの諺にはぴったりである。この諺は婦女子の美しく見える場合を挙げたもので、「夜の暗がりや遠目、或いは笠に隠された女性の姿は実体が良く見えないので想像によって実際より美しく見えてしまうものである。」というほどの意味である。「いろはかるた」の「よ」の札は江戸かるたでは「葦の髄から天井覗く」だが、京かるたでは「夜目遠目笠の内」となり大阪(名古屋)かるたでは「よこ槌で庭はく」となる。ここに出てくる京いろはかるたの「夜目遠目笠の内」は、冒頭の「毛吹き草」が出典となっている。
2014年10月10日

「月に叢雲花に風(嵐)」、という諺がある。名月の夜には雲がかかってせっかくの月が見えず、満開の花には風が吹いて花を散らしたりするように、良いことにはとかく邪魔が入りやすく思い通りにはいかないという意味である。少し意味は異なるが諸行無常に通じる言葉として、親鸞聖人が九歳で得度するときに読んだと伝わる「明日ありと思ふ心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」がある。こちらは、世の中や人生の無常を言い現わした言葉とされる。これを月に当てると、満月は出ているときに気のすむまで観賞しておかないと何時また雲に隠されてしまうかも知れないということに通じるのだろうか。兼好法師は徒然草で「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ、垂れ込めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。 (徒然草一三七段1)」「望月の隈なきを千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる木の間の影、うちしぐれたるむら雲隠れのほど、またなくあはれなり。 (徒然草一三七段2)」と書いている。満月の昨夜は晴れてさえいれば、2011年12月10日以来約3年振りとなる皆既月食の天体ショーが見られる予定であった。残念ながら関東は日中から雲の多い空になり、夜の帳が降りてからもそんな状態が続いて月の出の午後6時から数分間僅かな雲の間から満月が顔を覗かせただけで、その後は結局朝まで月は全く顔を出さなかった。将に「月に叢雲…。」そのものであった。雲が無ければ、地球の陰に入った見事な月の姿を見ることが可能であったのに誠に残念であった。期待感が大きかった分、落胆も大きかった。吉田兼好は「深き山の杉の梢に見えたる木の間の影、うちしぐれたるむら雲隠れのほど、またなくあはれなり。」といっているが、限られた時間の中での天体ショーを見るにはそんなに悠長に構えているわけにはいかない。昨夜の状況では実際に月食があったのかどうかさえも分からないので、毎月巡ってくる望月の宵と何ら変わるところが無かった。皆既月食という特別な夜になった昨夜は、多少情緒に欠けても雲の無い空に浮かぶ月の姿を見たかった。盛んに流される水戸と大阪からのテレビ中継を見ながら、我が家の上の雲に隠された天空で起きている天体ショーを想像してみる他なかった。次回は来年の4月4日に太陽・地球・月が一線上に並ぶので、再び食が起こる。それまで天体ショーは、お預けである。
2014年10月09日

室町時代に明から輸入した品の箱には、明において輸出品を他と区別するため赤と白の縄が縛り付けられていた。日本ではこの縄を贈答に使用する習慣であると誤解したことから、贈答品に紅白の水引を掛けることが日本の習慣となったとされる。和名をミズヒキという、水引にそっくりな植物がある。その名称は、花序が紅白の水引に似ていることに由来してつけられたものである。多年草で草丈80cmほどになり、茎の節部が膨らむ。ヒマラヤから中国の高山帯の草地にも群生している。表面に黒い油点が入るものが多い。葉は互生し広楕円形の長さ10cmほどで表面に黒い油点が入るものが多く、先端は尖り葉や茎全体に粗毛を生じる。花茎の高さは30cmにもなり葉がなく、円筒状あるいは卵状の総状花序に表面は明るいピンク色で裏面は白の花をつける。真紅の小花をつけるごく細い花茎を、あちこちから出す。米粒の半分位の花は、拡大鏡を用いないと老眼では良く見えない。6月後半から咲き始めて夏には一旦咲き終わるが、気温が下がってくる9月後半になるとまた盛んに咲き出してくる。花弁は4枚で5本のおしべを持ちそのうち2本の花柱は花が終わった後も残って成長し、先が鉤状になって果実の先端から突出する。この鉤で動物の体や人の衣服などについて遠方に運ばれ、生育の分布を広げる仕組みとなっている。日向でも半日陰でも良く育つ。非常に丈夫で、庭では木陰などでよく増える。乾燥を嫌うので、強い風の当たらない場所を選び、土が乾きすぎないようにすれば地植えや鉢植えでも丈夫に育つ。ただ見た目の可憐さから、安易に庭に移植するのは考えた方が良さそうである。狭い庭では一旦根付くと、繁殖力が旺盛なため邪魔になったとき取り除くのに苦労する。ミズヒキが正式名称だが紙縒りの水引と紛らわしいため、ミズヒキソウまたはミズヒキグサと呼ばれることも多い。葉にある独特な油点を見れば、花穂の無い時でも他の植物と見分けることは容易である。丈夫な植物だが鹿児島県や沖縄県では姿を消しつつあり、準絶滅危惧種或いは絶滅危惧種に指定されている。通販では赤花3号ポットと白花3号ポットをセットにして、千円ほどで販売されている。 あるかなきか 茂みのなかにかくれつつ 水引草は紅の花もつ 九条武子 かひなしや 水引草の 花ざかり 子規漢名では金糸草と呼ばれるが、漢方の生薬名では「金銭草」と呼ばれている。本来カキドオシのことを漢名で金銭草と言うのだが、生薬名が金銭草と呼ぶものには多くの植物がある。同名異種の植物の例としては、タデ科ミズヒキ・サクラソウ科過路黄・シソ科カキドオシ・マメ科デスモディウム・スティラキフォリウムなどがある。利尿促進や胆汁分泌促進作用などがあり、結石・胆石・黄疸などの症状に効果があるとされる。花の時期に採取して、水洗いをしてから日干し乾燥する。
2014年10月08日

大型で強いと表現された台風第18号は、6日の午前8時過ぎに浜松市付近に上陸し横浜・東京・千葉を横断して午後1時頃茨城県から海上へ抜けた。早くからこの台風の影響で降雨が続き静岡・神奈川・茨城の9観測点では雨量が、観測史上1位の記録となった。瞬間最大風速が史上最強の45mとの予報があって、雨戸を閉めたり屋根に厚く這っていた琉球アサガオの蔓を整理したりして台風に備えた。5日は午後からかなりの降雨となったが、風が無い分台風による雨にしては静かな降りでもあった。6日の午前5時過ぎには一旦雨足は弱まり、傘も必要無いほどになったのだが通勤者の出勤時間帯になって大粒な雨が水玉の簾のように降り始めた。8時過ぎには運行停止の基準雨量を超えたとして、関東の鉄道の殆どは運行を見合わせたため通勤者は5時間以上に亘り駅に足止めされた。長男も通勤途上で列車の運行が止まったため、ファミレスなどで時間をつぶしたと言う。横浜市では、自宅アパートに居た会社員の青年が、午前9時20分頃起きた土砂崩れでアパートに土砂が流れ込んで死亡した。詳細は不明だが、鉄道の運休を見込んで自室にいたのだとしたら不運な事故であった。出勤していれば譬え時間までに会社に辿り着けなかったとしても、命は助かった筈である。生死の分かれ目は、何処にあるか分からない。夜帰宅した長男とは、そんな会話を交わした。激しい雨は、10時30分を廻った頃から徐々に収まり、11時過ぎには陽の光も見えるようになった。結局我が家の辺りでは、殆ど強風は吹かなかった。午後からは嘘のように雲が切れて、秋の青空が広がった。午後6時頃まで西の空に浮かぶ雲が、綺麗な夕焼け雲となった。13夜の月が東南の空に昇り、90度西の空の夕焼けと見事な情景を作りだしていた。今月の月は、8日の19時51分に満月となる。おまけに明日の満月は、皆既月食になる。満月が突然欠けはじめ、一旦暗くなってから再び満ちていく天空ショーを見ることができる。全国で皆既月食が観測できるのは、3年振りで2011年12月10日以来である。18時15分に部分食が始まり皆既食になるのは19時25分、その1時間後の20時25分には満ち始め21時35分に再び満月が現れる。列島が台風18号と台風19号の間にある高気圧に覆われるので、秋晴れが予想されていて時間帯も早く寒くも無いので観測には適した条件が整っていると言える。台風が塵を吹き飛ばし、日本列島の上空からはМP2.5が観測されなくなったと言う。皆既月食の月の色は大気中に含まれる水蒸気や塵によってその色が異なると言われ、今回は台風が掃除をした大気を通してどんな色の月が眺められるのか明日の十五夜が楽しみである。
2014年10月07日

日本人にキノコ王様はと訊けば、だれでもが松茸と答えるに違いない。日本人に最も好まれている、キノコでもある。松茸を日本人がこれほどまでに好むのは、縄文の昔からも好んで食べられていたこともあって、既に日本人のDNAに松茸を好む情報が刷り込まれているためなのかも知れない。これがヨーロッパで好まれるのはフランスやイタリアに産するトリュフといわれるキノコで、矢張り独特の芳香があって高級フランス料理で珍重される。日本人は好むキノコの順位を「匂い松茸味しめじ」といい、マツタケには独特の強い香りとシャキッとした歯ごたえがあって珍重される。江戸時代の昔から「松茸百匁は米一升」といわれたほどの、高級食材の代表的存在であったとされる。日本ではこのマツタケオール(マツタケアルコール)というこの香りをこよなく愛するのに、欧米では靴下の臭いや汗の臭いに似ているといって悪臭だとして嫌われる。松茸はアカマツ林の、痩せて乾燥した尾根筋に生える。ガスや石油が普及する以前は、燃料や肥料にするため松林の落ち葉や枯れ枝が林から持ち出されていたので巧まずしてマツタケ発生の痩せた土地の条件を作りだしていた。戦後生活様式の変化と共に現在は里山を手入れする機会が少なくなったことや、マツノザイセンチュウの被害によってアカマツの枯死が全国的に蔓延し、マツタケの発生は絶滅の危機に瀕している。マツタケは食用キノコの代表であるが腐敗したマツタケには、ヒスタミンが蓄積しておりこれを食べて時に嘔吐や嘔気などの中毒症状を起す場合があるが一般的には死に至るほどではない。8月に降雨があってその後気温が低下し、その後も適度に雨が降る年は松茸が多く発生するとの言い伝えがある。降雨が多かった今年はそれを実証するように、松茸の産地からは8月中頃から採取の報告がされ始めていた。南信州は松茸の産地として有名で毎年金木犀の香りと共に松茸発生の最盛期になるのだが、今年は集荷店に一月以上早く既に8月下旬には松茸の持ち込みが続く状況となった。毎年発生情報を確認してから、年に一回は実家の松茸山へ松茸狩りに出かけている。昨年は10月中旬に松茸狩りに出かけたのだが、7月からの干天で山肌がカサカサに乾燥してしまっていて雑茸の一本も採取することができなく完敗であった。今年は実家の山でも9月中旬から一度に20数本採取できるようになったとの連絡で、金木犀の開花時期を10月中旬と見当を付けて10月の連休に出かける計画を立てていたところ、予想に反して既に9月末から街中に金木犀の香りが漂い始めた。慌てて日程を4日に変更し、茸狩り初めての孫を連れて出かけた。昨年は土砂降りの中のキノコ探索であったのだが、今年は絶好の松茸狩り日和となった。キノコの季節になると山主は山全体に入山禁止の綱を張って、部外者が入山してキノコを採取することを禁止する。したがって茸狩りの季節だからと言って、勝手に他人の持ち山に入ってキノコを採取すると窃盗と見なされる場合もあるので注意を要する。3日前に20本採取したという弟夫婦と4人で実家の山に入ったのだが、9月から雨らしい雨が降らないとのことで今年も矢張り山が乾燥していて一時採りきれないほど出たと言う雑茸も全く生えていなかった。それでも1時間一寸の間に、見事な数本の松茸を採ることができた。孫は初めて嗅ぐ松茸の香りに「クサッ!」といって、顔を背けていた。家に持ち帰って早速松茸ごはんにしたのだが、孫はご飯の中からマツタケを拾い出してしまい決して食べようとしなかった。松茸が高価なキノコになって、今までこの香りを嗅ぐ機会が無かったため初めて嗅ぐ匂いに拒否反応を示したものであろうか。
2014年10月06日

日本人は四季の中でも特に春の桜と秋の紅葉を、こよなく愛してきた。秋に一斉に紅葉する景色は、観光の対象ともされている。カエデ科の数種はモミジと呼ばれることが多く、実際に紅葉が鮮やかな木の代表種でもある。赤色に変わる葉は紅葉、黄色に変わる葉は黄葉、褐色に変わるものは褐葉であるが、一般的には厳密に区別しないでいずれも「紅葉」として一括りで扱われる場合が多い。また同じ種類の木でも、生育条件や環境などにより赤変したり黄色になったりする場合がある。秋が深くなると草でも紅葉するものがあり、それらは樹木の紅葉と区別して草紅葉といわれる。この時期北海道の野付半島では、サンゴソウの別名があるアッケシソウの大群落が真っ赤に染まることで知られている。桜前線は沖縄県の北部名護市の山辺りから始まるが、紅葉は逆に9月頃から北海道の大雪山から始まり、徐々に南下する。紅葉の見頃の推移を桜に倣って、「紅葉前線」と呼ぶ。桜前線は1月下旬に始まって5月末まで続くが、9月中旬に大雪山で紅葉が始まってから12月中旬に紅葉が終わるまで約3か月である。紅葉の見頃は桜より長く、色づき始めてから20〜25日程度である。気候変動に依るものか時期は紅葉の時期は年々遅くなっていて、関東平野部では12月中旬頃まで紅葉が残っている。葉に色がつく現象のメカニズムは解明されているが、葉が何故に色づくように進化したのかについてはいまだに明確になっていない。葉には光合成に必要なクロロフィルがあるため緑色をしているが、秋が深くなって寒くなり日照時間が短くなるとクロロフィルが分解される。また、葉柄の付け根に離層という特殊な水分を通しにくい組織が作られ葉と枝が遮断されると、葉で作られた水溶性の糖類やアミノ酸類が枝に移動できなくなるため葉に蓄積し、その糖から光合成によって別の色素が作られたりする。その過程で、葉の色が赤や黄色に変化することによって紅葉が起こる。紅葉・黄葉・褐葉の違いは、それぞれの色素を作り出すまでの葉の中の酵素系の違いと温湿度や太陽光の紫外線などの自然条件の作用による酵素作用発現の違いが複雑に作用して起こる現象と説明されている。紅葉の赤色は、アントシアンに由来する。アントシアンは春から夏にかけては葉に存在しないが、秋になると葉に蓄積したブドウ糖や蔗糖に紫外線が作用して産生される。黄葉は、カロテノイドに由来する。カロテノイド色素系のキサントフィル類は若葉のときから含まれているが、春から夏にかけてはクロロフィルの緑色の陰に隠されている。秋になってこの葉緑素が分解することで、目に見えるようになる。褐葉は黄葉と同じ原理で、タンニンやそれが複雑に酸化重合した褐色物質の蓄積が目立つためとされる。黄葉や褐葉の色素成分は元々紅葉する葉にも含まれており、本来は紅葉する葉であってもアントシアンの生成が少なかったりすると褐葉になる場合が知られている。古語では「言とはぬ 木すら春咲き秋づけば 毛美知(もみち)散らくは 常を無みこそ (万葉集)」に見られる通り、「紅葉・黄葉」することを指して「もみつ」といったものが、平安時代以降濁音化して「もみづ」となってそれが「もみぢ」に変化し現代に至った言葉とされる。その他の語源由来説としては、秋が深まり霜や時雨によって揉み出されるようにして葉が色づくことから、「揉み出づ」と言ったものが「もみじ」に転訛したものであるとの説もある。今年も10月なった途端に、早くも山荘から望む南アルプスの東麓1500mほどの高さまで紅葉が降りてきた。これから最低気温が連日10度を下回るようになると、一気に山から紅葉がかけ下りてくる。稲の刈り入れも終わって農作業の人の動きも機械の音もしなくなった耕地、秋の陽に照らされて揺れるススキの穂と紅葉を始めた山塊との取り合わせは秋に現れる素晴らしい里山の景色である。しかし日中は華やかに自然が息づいているのに、人の動きも機械の音もしなくなった里山の夕景色は何故かもの淋しい気持ちにさせられる。
2014年10月03日

秋が深まった山荘の庭に、紫紅色と白色のシュウメイギクが盛んに咲くようになった。白花は14年前に大月市笹子の知人から株分けして貰ったもので、紫紅色の株は園芸店で求めたものである。シュウメイギクは大株に育てて群生させると、見応えがある。シュウメイギクの名前を漢字で書くと「秋明菊」・「貴船菊」となり、一寸高貴な花を連想させられる。名前から受けるそんな感じとは裏腹に、有毒植物である。名前にキクと付いているがキクの仲間とは関係なくキンポウゲ科に属し、古い時代に中国から伝来した多年草で可憐な花姿が好まれ庭に栽植される。逸出して、野生化しているものもある。秋コスモスが咲く頃、茎頂に径6cmほどのキク科のコスモスに似た大きな花をつける。アネモネの仲間なので英語では、Japanese anemoneと呼ばれる。草丈は50cm~1m、地下茎をよく伸ばして広がっていく。茎は途中で枝分れし、その先端に花を咲かせる。花色には、白と赤紫色があり、花弁に見えるのは萼片が花弁状に変化したもので花弁ではない。シュウメイギクの名前の由来は、この世の花ではなくつまりあの世の冥界(冥土)の花であって菊のような花を秋に咲かせるからと「秋冥菊」の名前を付けたのだが、「冥」ではイメージが悪いから「明」に変えたという説もある。京都の貴船神社の周辺に多く野生化したことから、貴船神社の菊の意味でキブネギクとも呼ばれる。菊に似た花を咲かせると言うが花はむしろコスモスに酷似しているように見え、コスモスの花の近くでは余り映えない。園芸家である水野元勝が1681年に刊行した日本最初の園芸書「花壇綱目」に、秋明菊の名前が記載されている。中国名「秋牡丹」の呼称は、貝原益軒が「大和本草」で使用している。楚々とした草姿が和風の庭園に良く合い、茶花としても利用されている。中国では「秋牡丹」といって、根を解毒・解熱に用いる。キンポウゲ科の植物の殆どは有毒だがシュウメイギクも例外では無く全草に毒を持つため、その取り扱いには注意が必要である。シュウメイギクの樹液が皮膚に付着すると皮膚炎を、誤食すると胃腸炎を惹き起すことがある。 9月14日の誕生花 花言葉 忍耐
2014年10月02日

ホトトギスの花については、ひこじいさんのブログ「鳥は初夏、花は初秋が時期である」(2013年09月28日)で昨年も同じ時期にアップした。ホトトギスの花の斑点が、鳥の杜鵑の胸の模様と似ていることが由来となって、この名前がつけられたものという。英語ではToadlilyというらしいが、Toadはヒキガエルであるからlilyと繋げると「ヒキガエルのユリ」になる。40年も前に譲り受けたミヤマキリシマの鉢植えに、純白の花を咲かせる一株のホトトギスが芽を出しそれが元親となって殖えたものである。クリーム掛かった色の花を咲かせたホトトギスは、さまざまな花色の遺伝子を持っていたのかあるいは同じ場所に植えた他の種類の花と交配したのか、今では白花から薄紫の斑点の入ったもの中間色のものまでが咲くようになった。一時は自宅の庭一面に広がったものが今では全て姿を消してしまった。消える前に自宅から山荘の庭に10株ほど移植したものが、現在では山荘の庭一面に繁殖して毎年金木犀の香りが漂う頃満開となる。若葉には油染みのような薄黒色の斑点があり、「油点草」の別名があるがこの斑は花期前までに消失すると言われる。しかし我が家のホトトギスは、満開の花期を迎えても薄く残っている。一般的にやや暑さに弱く、暑さと水切れで葉が茶色く傷み開花期に株の見栄えが悪くなることが多いのだが、今年は月遅れのお盆の頃から急に気温が下がり併せて降雨も多かったせいで、葉の傷みが少なく見事に開花した。花色が見事なので自分の庭に植えたいからと言って欲しがる人には、株分けをして差し上げているのだが鉢植えでは精々3年しか持たないようである。適切な場所に庭植えすれば、風に依って芥子粒のような種子を散布して放任しておいても雑草のようによく繁殖する。ただし我が家では、移植後6年を過ぎるころから徐々に株が衰え消えていくので連作障害の性質を持っているのではないかと思われる。移植後5年を過ぎるころには、新しい場所に植え替えた方が無難である。 花言葉 私は永遠にあなたのもの
2014年10月01日
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