全19件 (19件中 1-19件目)
1

気流や気湿・輻射熱を無視した場合快適な温度帯とされるのは20℃前後だが、居室に限って言えば夏は25℃を超えると冷房が欲しくなり、冬は10℃以下になると暖房が必要になる。現在では夏の暮らしにはエアコンや扇風機が、冬はエアコンと石油ストーブが温度調節に使用される器具の殆どを占めている。環境省では平成17年から職場のエアコンの設定温度を「夏は28℃・冬は20℃に」と呼びかけ、オフィスで快適に過ごすための提案や取り組みを「クールビズあるいはウォームビズ」の名前でキャンペーンしている。南アルプスの麓の標高630mを超える山荘の辺りは東京に比べて温湿度が低く真夏にも冷房を必要としない快適地なのだが、11月も半ばを過ぎる頃になると最低気温がマイナスを記録するようになる。したがって10月の半ば頃からの朝夕は、何らかの暖房が必要になる。暖房の主役は、ストーブ(Stove)である。ストーブは燃料を燃焼させることで、熱を発生させる装置である。ストーブをクッカーと呼ぶ場合もあり、逆に調理に用いるコンロをストーブと呼ぶ場合もある。ストーブは、「暖房された部屋」を意味するオランダ語が語源となった英語である。室内に作り付けられた暖房装置の一種に、暖炉と言われるものがある。暖炉は耐火煉瓦や石材などを用いて室内の壁面に作られた凹型の炉で、煙突により外部へ排煙している。炉内で薪やガスを燃やして暖房するのは同じだが、ストーブは単に鉄でできた閉鎖可能な炉に過ぎない。ストーブと暖炉の根本的な違いは煉瓦や石材に吸収されたエネルギーが輻射熱となって薪を燃焼させることで暖房の熱を得る点にある。燃焼室には薪の投入口を除いて、耐火煉瓦が使用されている。暖炉は燃焼によって室内の空気を吸い込んで消費するので、燃やせば燃やすほど火から離れたところでは隙間風を吸い込む結果室温が下がる。燃焼に伴う排煙によって暖められた室内の空気が吸いだされることを防止するため、ダンパーによる調節の他に煙突への接続部にはスロート(throat のどの意味)構造があり、燃焼ガスのみ高速で吸いだすように絞りの工夫がされている。最近の炉の設計は空気取り入れ口を暖炉の下の灰箱下に設けて、外部の空気で燃やすように工夫している。薪ストーブでも、この方法が採られることが多くなっている。薪には、広葉樹が最も推奨されている。特にマツを燃料にすると火の粉が多く出て火事の原因になる恐れがあるほか、含まれる油分から煤が発生し煙突が詰リ易くなりメンテナンスやランニングコストがかかることになるので避けた方が良い。石油・天然ガス・LPG・電力・バイオマス(木質ペレット)・石炭・コークス・オガライト(おがくず)・薪などストーブに使用される燃料は多種多様である。日本では石油やガスを燃料とする暖房が主だが、ヨーロッパの主暖房装置では薪ストーブが最も多く使われている。アメリカでは、薪を燃料とする「ストーブ」とマントルピースの付いた「暖炉」の普及が半々程度とされていて、薪が安価に入手可能な郊外では薪を使用する暖房器具の使用比率が高い。2004年以降、ヨーロッパの排ガス規制をクリアするクリーン・バーン方式(Clean barn)という高機能の薪ストーブが輸入されはじめ、国内メーカーでもこの方式の製品が製造・販売されるようになった。冬季厳寒になる地への山荘建築に当たって、参考にするためカナダバンクーバーのロッジに宿泊するツアーに参加した。拘りの一つに、山荘に暖炉を設置したいとの希望が強くあった。バンクーバーの山腹にあるログハウスにはマントルピースのある暖炉が備わっていて、傍らに薪と着火用の雑誌も置かれていたので部屋を暖めるために火を点けて見た。ところが細い枝には着火したのに、太い薪は焦げただけで燃焼せず猛烈な煙が室内に逆流してきた。ロフトに設置された火災報知機が、その煙を感知して吃驚するほどの音量で鳴り響いてしまったのだ。鳴り続ける火災報知機のリセット方法が分からず、ロフトの手摺に上がって報知機を分解して初めてなり止んだ。管理人が怒鳴りこんでくることも無くほっとしたが、こんな経験から壁埋め込み式の暖炉は諦めた。代わりにスウェーデンから輸入の、薪ストーブを設置した。設計・施工・輸入を任せた建築屋は、我が家のストーブを暖炉と呼んでいた。炉内は焚口以外の5面に耐火煉瓦が張られていて、スロートを備え、炉の下から空気を吸い込むクリーン・バーン方式となっており暖房専用で料理可能な仕様にはなっていない。当初家内が呆れるほどに薪を燃やしたため厳寒期でも室温が30℃を超え、時々外気を取り入れないと息苦しいほどにもなったが、薪のストックが乏しくなった近年はほどほどにしている。雪や冷たい雨が降る日にはシャツ一枚になって、赤々と燃えるストーブの火を眺めながら冷たいビールを飲むのが至福の時間でもある。
2014年11月28日

木の枝や落ち葉、薪などの燃焼物を地面などの一箇所に集めて燃やすこと、およびその火を指して焚き火いい、一般的には焚火またはたき火とも表記する。落ち葉の焚き火は、特に「落ち葉焚き」といわれる。焚き火の際に出る煙は気体の中に微粒子が多数浮かんだ物質で煙霧体ともいわれ、不完全燃焼の結果にできる空気の固まりである。この煙を視認通信手段とすることが発明され、狼煙として古代ローマ時代以降では軍事目的の通信にも利用されるようになった。人類の祖先が火を扱う様になったのは約50万年も前からとされ、焚き火を熱源および光源として利用したものである。旧石器時代の焚き火の痕跡が、国の史跡である佐世保市泉福寺の洞窟内で見つかっている。昭和30年代まで焚き火は晩秋から冬にかけての季節の風物詩であり、自宅の庭や寺社の境内路端などで落ち葉焚きが行なわれ、この火を利用してさつま芋・みかん・栗などを焼いて食べたものだがそんな長閑な記憶の有る人も少なくなった。1941年に発表された童謡「たきび」は中野区上高田に居住していた巽聖歌が、散歩の途次の風景を詞にしたものと言われる。今から70年前頃は、東京23区内でも秋が深くなるとあちこちで焚火の煙が立ち上り、通りかかった子供たちは手をかざして暖を取っていたのである。現在では焚き火をする場所が私有地であっても、煙や臭いが拡散越境するため近隣住民の苦情やトラブルの原因となる。焚き火は三冬(冬季3か月)の季語であり晩秋から冬にかけての風物詩であるが、都市化や住宅化が進んだ地域では喜ばれない行為となっている。安易な焚き火は周辺への延焼原因となる可能性があるため、乾燥・強風などの気象条件や地形などに対しては十分な配慮を行う必要がある。国内の山火事は落雷など自然発火によるものはまれで、最も多い原因が焚き火であったと分析されている。(林野庁調査)焚き火をした後消火できたと早合点して放置したために火災が発生したり、焚き火の火が衣服に燃え移り火傷や焼死することもある。1997年のダイオキシン騒動以来、専門の施設以外でのゴミの焼却は危険視されるようになった。落ち葉や雑草などの露地焼きは至る所で見られたが、このような事情から公有地・私有地を問わず、野焼き・焚き火行為が法律・条令によって制限されることになり晩秋から初冬にかけての風物詩がまた一つ消えていった。野焼きおよび焚き火に関する規制には、以下のものがある廃棄物を燃やすことは、廃棄物処理法に基づく不法焼却にあたり規制対象となる可能性がある。(廃棄物処理法)この法律では原則として、「焚き火」と「軽微な範囲での廃棄物の焼却」は規制されていない。野焼きや焚き火は、消火のための準備をしていれば焚き火が可能である。(消防法3条)山荘がある市では、焚き火について次のように指導し注意を呼び掛けている。「違法なごみの焼却に対して苦情が寄せられています。ごみの焼却は、「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」によって、禁止されていますので燃やさないようにしてください。法律に違反した場合、5年以下の懲役若しくは1,000万円以下の罰金という重い罰則が定められています。なお、例外として次の場合はごみの焼却は免除されています。1廃棄物処理法に基づく基準に従った焼却炉でのごみ処理2災害の応急対策や復旧のためのごみの焼却3農林業を営むためにやむを得ないものとして行われる稲わら、枝等の焼却4風俗習慣上又は宗教上の行事を行うための焼却5たき火その他日常生活を営む上で通常行われる焼却であって軽微なもの ※例外にあたる場合でも、ビニールやプラスチックなどは燃やすことはできません。 また、未然にトラブルを避けるために周囲への配慮を忘れないでください。」都市部では最早どこであっても焚き火はできないので、これらは全て可燃ごみとしてごみ収集に出さざるを得ない。山荘では70坪ほどの家庭菜園から出た夏野菜の茎葉や、庭の枯れた草花・落ち葉や木の剪定枝が山積みになるほど出る。トマト・ナス・ピーマン等のナス科野菜は連作障害や病害虫が付いている可能性が有り、堆肥化するより焼却した方が無難である。11月も終わりに近くなり畑仕舞により出たゴミと、庭の枯れた草花や庭木の剪定枝などが今年も大量に積み上がった。至極当然のことなのだが、近隣の家で洗濯物や布団が干してなくて風の無い時間を見て少しずつ焼却する。全ての焼却を終えるには、丸一日も掛かる。初冬の一大イベントでもある焚き火が山荘での年内最後の行事となって、3月下旬までは厳寒の山荘に訪れることもなくなる。 焚火かなし 消えんとすれば 育てられ 虚子
2014年11月27日

剪定前 剪定後虫癭(ちゅうえい)とは昆虫やダニが植物に産卵や寄生した際に出す泌物によって、植物組織が異常発育してできる瘤状のもののことである。多くの場合虫瘤は見苦しくなり樹勢を弱めるが、これを利用もする。ウルシ科のヌルデの若芽や葉にはヌルデシロアブラムシが寄生し、その刺激によって葉に生成した嚢状虫癭を五倍子といい別名を木附子ともいう。木附子にはタンニンが60~80%含まれ、没食子酸・脂肪・ワックス・樹脂などを含んでいる。抗菌作用・収斂・止血作用・解毒作用がある。唐の時代に編纂された医学書、「本草拾遺」にも記載が見える。マタタビの花が開く直前に「マタタビアブラムシ」という小さな昆虫が子房に産卵すると、花後正常の形をした果実とはならずいわゆる虫瘤を形成する。木天蓼といい、生薬として用いる。ブナ科の植物の若芽が変形し瘤になったものは没食子(もっしょくし)と呼び、タンニンを多く含むので抽出し染料やインクとした。若芽にインクタマバチが産卵し形成された瘤の中で、幼虫が成長する。槲(かしわ)はブナ科コナラ属の落葉樹だが、秋に葉が枯れても落葉せず春に新芽が芽吹いたあとに葉が落ちる。常緑の楪(ゆずりは)は、春新芽が開いてから古葉を落とすので縁起を担いで「代を継ぐ木」として庭木に植えたり正月飾りに用いられる。カシワの葉には芳香がありユズリハと同じように、翌年に新芽が出るまで古い葉が落ちない特性から「代が途切れない」縁起の良い木として庭に植えたり、塩漬けにした葉を用いて柏餅を作る。カシワの名前の由来として炊事や炊事用具の「炊(かし)ぐ」から、カシワになったという説。葉を蒸し物の下に敷いたり食事の器代わりに用いたので、「食敷き葉(け・しきは)」と呼んでいたのが訛って「カシワ」になったという説などがある。カシワの漢字に現在多くが「柏」の字を用いているが、この文字は本来「松柏(まつとひのき)」という言葉があるように、松以外の常緑針葉樹を意味している。本来は柏でなく、槲が正しい。山荘のシンボルツリーとして12年前、20kmほど離れた所にある植木やから、高さ5m・幹周り40cmほどのカシワの木を購入し玄関前に植栽した。この木が養生されていた苗圃にはカシワの木が数本有ったのだが、そのどれの葉にも多数の緑~ピンク色をした径2mmほどの虫瘤が付いていた。働いている職人に尋ねても、「いや大丈夫ですよ。影響ありません…。」と言うばかりで要領を得なかった。植栽した翌年から毎年新葉が展開すると間もなく、葉裏に無数の虫瘤が付くようになった。2年目からドングリが落ちて、うっかりしている間に離れた場所に芽吹いた若木の葉にも同じ虫瘤ができた。樹の根元へのオルトラン粒剤や葉へのスミチオン乳剤の撒布、葉の一枚ずつから瘤を削り落とすなどしても虫瘤は一向に減ることは無く夏から秋口にかけては非常に見苦しい状態であった。秋深くなって枝に垂れ下がった30cmもの大きなカシワの枯れ葉は、12月に入るとこの地名物の八ヶ岳颪とか言われる強風が連日吹き荒れ吹き飛んで散らばるため、5年前から窮余の策として強風が吹き荒れる前に全て新梢を剪定してしまうことにした。あれだけ頑固に居座って毎年葉裏に見苦しい虫瘤が作られていたのに、強剪定をするようになって全く虫癭を見なくなった。この虫癭の原因は「ナラハウラマルタマフシ」という昆虫が寄生して出来た虫瘤で、同属の樹種の葉裏の主脈および支脈にはしばしば光沢のある虫癭を作る。最初は葉に付いている部分が平らで半球形をしており、大きくなると球形に近くなる。虫癭は6月上旬から出現し、成熟したものから地上に落下する。地上に落下した虫癭の中の幼虫は、幼虫室の内壁を餌として成長して終齢に達する。成虫は晩秋から初冬にかけて羽化し、越冬芽に産卵する。卵で越冬し、翌春孵化というサイクルを繰り返す。薬剤散布や葉裏の虫瘤削り落としでも退治できなかったナラハウラマルタマフシの継代サイクルは、越冬芽を切り落とすことで断ち切ることができたのである。今年も11月23日に、恒例のカシワの剪定を行った。ブナ科に属する樹木は強選定に強く、時期と剪定する部位を選ばない。強選定でも枯死するようなことは無く必ず剪定した場所から新芽が芽吹くので、素人が剪定するには適した樹でもある。
2014年11月26日
夜中に20号線を武川町牧野原交差点から甲府バイパスを、勝沼インターに向けて走行した。中央道昭和インターから後を付いてきた救急車が、国母交差点で抜いて行った。緊急自動車の代表はパトカー・救急車・消防車だが、その他にも様々な種類のものが政令で定められている。これら緊急自動車に対しては一般車両に義務づけられている右側はみ出し禁止・一時停止義務・信号に従う義務などの他いろいろな義務が免除されるが、最高速度遵守義務についてはスピード違反を取り締まる場合の緊急車両のみが許されている行為である。サイレンを鳴らさず赤い回転灯も点灯していないパトカーや救急車などは一般車両と同じに扱われる。道交法では緊急車両について、およそ次のように定められている。第二十五条3 道路外に出るため左折又は右折をしようとする車両が、前二項の規定により、それぞれ道路の左側端、中央又は右側端に寄ろうとして手又は方向指示器による合図をした場合においては、その後方にある車両は、その速度又は方向を急に変更しなければならないこととなる場合を除き、当該合図をした車両の進路の変更を妨げてはならない。(左折又は右折)第三十四条 6 左折又は右折しようとする車両が、前各項の規定により、それぞれ道路の左側端、中央又は右側端に寄ろうとして手又は方向指示器による合図をした場合においては、その後方にある車両は、その速度又は方向を急に変更しなければならないこととなる場合を除き、当該合図をした車両の進路の変更を妨げてはならない。道交法40条(緊急自動車の優先)「交差点又はその附近において、緊急自動車が接近してきたときは、車両は交差点を避け、かつ、道路の左側に寄って一時停止しなければならない。2.前項以外の場所において、緊急自動車が接近してきたときは、車両は、道路の左側に寄って、これに進路を譲らなければならない。法施行令13条(緊急自動車)のうち、救急車については一の二 国、都道府県、市町村、関西国際空港株式会社、成田国際空港株式会社又は医療機関が傷病者の緊急搬送のために使用する救急用自動車のうち、傷病者の緊急搬送のために必要な特別の構造又は装置を有するもの14条(緊急自動車の要件)「前条第一項に規定する自動車は、緊急の用務のため運転するときは、道路運送車両法第三章及びこれに基づく命令の規定により設けられるサイレンを鳴らし、かつ、赤色の警光灯をつけなければならない。これらの規定により救急用自動車(救急車)は、赤色灯を点灯するかサイレンを鳴らして走行している場合に限り緊急自動車と認められ、それ以外の場合は一般車両と見なされる。右左折の際には、方向指示器または手による会い図が必要である。しかし多くの緊急自動車では道交法にその設置を定められていない、肉声や予め設定した音声により「バックする・右左折する等」の音声装置と、チェンジレバーや方向指示機とが連動しているものが搭載されている。20号線の甲府バイパスは最高速度60kmだが夜間はどの車も80km前後で走っているので、抜いていった救急車とはそんなに離れること無く暫くの間前後で繋がって走った。所属は確認しなかったが中央道昭和インター入り口から小瀬スポーツ公園入り口交差点で右折するまで走ったので、恐らく甲府地区消防本部所属の救急車が甲府市立病院へ患者を搬送中であったのだろう。その間車線を変更する度に「右に曲がります。ご注意ください。」「左に曲がります。ご注意ください。」をずっと繰り返して右にも左にも曲がらないで直進して運行していた。特に大きな交差点の右折レーンから「右折します。ご注意ください。」とアナウンスしながら、直進したのには吃驚した。住所地の救急車では場合に応じてスピーカーによる肉声で、周囲の車両等に注意を促している。右左折するとアナウンスしながらそうしないまま直進することは、場合によっては事故につながりかねず速やかに修正対応をすべきだと感じた。住所地のある関東ではこのような際には肉声に切り替えて、「交差点を直進します。」「救急車が」通ります。」とアナウンスしており、このようないい加減な例には今まで遭遇したことは無い。右左折と進路変更の違いをはっきり理解して、運転業務に従事して欲しい。
2014年11月25日
ある数字が幸運の標しとして、特に大事にされる。11月17日に、10地域で新たに車のご当地ナンバーが交付された。人気のある8及び・・88、・888、8888は、全て抽選対象である。英語圏を中心とする西洋では、7が幸運の数字とされ、輸入する形で日本においても一般に広まっている。漢字の八は裾が開いた形が末広がりといわれ、幸運が開けるとするイメージから日本人が好む数字である。数字の8を横にすれば∞となり、無限という意味にもなる。日本では古代から、八は数の多さを表す聖数であり呪力のある数とされてきた。漢数字「八」が末広がりで目出度いとの意味付けは、紀元前200年頃漢文化が入ったころに遡るとされる。古代日本では8は「や」と呼ばれ、単に数が大きいことを示すのにも使われていた。中国でも八は古くから、非常に重要な意味をもっていた。紀元前十世紀ごろまとめられた易経における八卦に関係していて、宇宙は全て陰と陽を八卦で組み合わせることによって生まれるとされている。古事記や日本書紀には八へのこだわりが多く見られ大八島・八尋殿・八咫烏・八十建・八衢・八重雲の言葉があり、三種の神器として八咫鏡・八十握剣、八坂瓊勾玉など全てに八の字が冠せられている。広東語では発音が「発」で、「発財(金持ちになる)」に通ずるとして幸運の文字とされる。逆に西洋では不吉な数字とされ、ギリスでは八本の足を持つタコは「悪魔の魚」等と呼ばれる。桁が一つ多くなった八十(やそ)も、八十島(やそしま)・八十神(やそがみ)・八十日(やそかび)などと使われ後に付くものがなど多いことを表している。古くは「やそ」は文字の後に年(とせ)・島・神」・日などの、大和言葉の助数詞が続く場合に使われていたものである。助数詞を伴わず80を単独で使う場合には、「やそじ(やそぢ)」と読まれた。この接尾語の「ぢ」は一つ、二つとして語の後に付く「つ」や、二十歳の「…ち」と同じ用法である。「八百」についても「八」が多さを表していて、沢山との意味がある。八百屋は今では野菜や果実を商う店の事だが、当初「八百物屋(やおものや)」、「八百屋店(やおやだな・やおやみせ)」と呼ばれていたものが後に八百屋と呼ばれるようになったのだとの説がある。この店は800種の品物を売る店舗というのではなく、多くの品物を売る店としいて名前が付けられたものである。江戸の八百八丁、京都の八百八寺、浪華の八百八橋の言葉がある。この場合も江戸には、町の数が多いことを意味しているに過ぎない。延享年間(1744~1748年)には、倍の1678町が存在したという。大阪の橋は実際には、200橋ほどしか無かったと言う。さらに嘘八百はやたら述べ立てる沢山の嘘、または嘘だらけという意味で使われる。八千はさらに数が多いことで、多く他の語の上に付けて用いられる。八千草・八千度・八千種・八千年など。八万ははちまんと読み、きわめて数の多いことをいう。実際には五千を少し上回る程度であった旗本を八万騎と称したのも、数の多さを言い表わしたものに過ぎない。古事記に書かれている神道の神様は信仰の対象によって、それぞれ神がいるので神の総数が曖昧であり「たくさんの神々」という意味で、八百万(やおろず)の神と呼んだ。これが日本書紀では、八十神となっている。今日は一等前後賞合わせて当選金7億円の、年末ジャンボ宝くじの発売日であった。テレビでは4日前から並んでいた人を写していたが、八の縁起を担いだり7に願いを懸けた人もいたに違いない。大晦日に結果が判明するが、果たしてどちらの数字に軍配が上がるのだろうか。
2014年11月21日

社会の公器と言われる新聞の記事やテレビ番組の内容を、そのまま鵜呑みすると時として間違った情報を取り込むことになる。検証とは1 実際に物事に当たって調べ、仮説などを証明すること。2 裁判官や捜査機関が、直接現場の状況や人・物を観察して証拠調べをすることで、同義語としては裏付・傍証・確証・立証・実証等を挙げることができる。それが動詞になると「その意味は確かめる・詳しく調べる・仔細に検討する・~を跡付ける・事実を確認していく・再点検する・~に再度光を当てる・~に分析の刃を入れる・~に~の基準を当てはめる。」という言葉で言い換えることができるだろう。今年最も驚かされたのは福島第一原発事故の際、現場の指揮を執った吉田所長の調書に関し、朝日は内容を曲解し所員の9割に当たる約650人が所長の待機命令に違反し、第2原発へ撤退したと誤った情報を世界に発信した。職歴の詐称・アヘン密輸で入獄したこともあり「職業的詐話師」と人物評価もされている吉田雄兎の創作「私の戦争犯罪」で慰安婦狩りを証言した。これを鵜呑みした朝日は、「吉田証言」として慰安婦狩りの記事を16回も掲載した。これらの記事について、「吉田証言について虚偽だと判断し、記事を取り消します」と誤報であったことを認めた。一旦世界に発信された誤記事によって、諸外国の日本を見る目が歪められたことは否めない。テレビ朝日系列で放送された「情報整理バラエティ ウソバスター」では、ネット上に公開されている複数のブログ情報がウソであることを検証したVTRを放送した。実際には嘘情報を書き込んだのは、製作スタッフであった。「発掘!あるある大事典」は1996年から11年間フジテレビで放送されていたテレビ番組だが、放送された多くの内容が捏造と初歩的な基礎も無視した実験方法で得たデータに基づいた内容であることが判明した。今年の1月29日に放送された、ためしてガッテン「キウイの不思議さの向こうにおいしさがありました!」の番組の中で、「収穫後もそのままでは熟さないので、出荷前に植物ホルモンのエチレン処理を行ってから出荷する。」との説明があった。ゲストの一人が「収穫しただけでは食べられるようにはならいのか。」との質問に対して、女性アナウンサーは「収穫してそのままでは絶対に熟さない。」と断言していたがこれは大きな間違いである。(キウイには、何もしなくても熟す種類がある。ひこじいさんのブログ)昨年は晩霜にあって、キウイが例年の1/3程しか収穫できなかった。今年はその反動からか、無数のキウイがまるで葡萄の房のように鈴なりとなった。かなりの量を落として調整したのだが、摘果が不十分であったらしい。その分20kg超がピンポン玉大以下の大きさのもので廃棄処分した。長径7~8cm以上のものを自宅に運び込んだが、格別エチレン処理等をしないのに20日で全て熟して食べ頃になってしまった。現在キウイは多くの種類が作出されていて、日本人の多くが好のむ黄色種はグリーン種に比較して熟し易い。品種全てについての、検証が足らなかったものであろう。多くの人にお裾わけしたのだが、40kgも一度に熟してしまうと短期間で食べ切る術が無い。今日は朝から、10kgほどのキウイのジャム作りで一日終えてしまった。追熟対策より、むしろ収穫後長く保存できる方法が知りたい。真実を知らない人は全面的に信じてしまうことになるので、テレビや新聞はバラエティ番組であっても十分に掲載記事や放送内容を検証して欲しいものである。
2014年11月20日
現代では電気はあらゆる場面で人の暮らしに関わっていて、都市は不夜城となっている。しかし電気が無かった時代には、太陽が唯一の明かりであったに違いない。人々は日の出と共に起き出し、日没と共に寝たものであろう。今は人工の明かりが夜を照らし、仕事や遊びで夜寝ない人も増加している。生活習慣の変化による生活リズムの乱れや、社会から受けるストレスによって不眠に悩まされる人が増えているという。辞書では、寝るは「1眠るに同じ。2寝床に入る。床につく。就寝する。」で、眠るは「心身の動きが一時的に低下し、目を閉じて無意識の状態になる。」とある。さらに睡眠は、「周期的に生じ感覚や反射機能その他種々の生理機能が低下し、意識は喪失しているが容易に覚醒しうる状態。」とある。厚労省が全国の3歳~99歳を対象として6466名に対して行った調査では、睡眠に関して何らかの悩みがある人は19.6%で、約5人に1人との結果が出ている。一般的に人は「1日8時間」の睡眠が必要とされているが、これは多くの人の睡眠時間が6~9時間の間であるという統計上の数字であって医学的根拠に基づくものではない。NHKが2000年に行った調査では、平均睡眠時間は7時間23分という結果がでている。この平均睡眠時間はあくまでも一つの目安であって3~4時間の睡眠で十分な人もあり、9時間以上の睡眠を必要とする人もいる。医学的には日中眠気がなくきちんとした活動可能な睡眠時間が十分確保できれば、時間にこだわる必要はないと言われている。良く知られた諺に、「早起きは三文の徳(得)」がある。朝早く起きれば、ちょっとした何か良いことがあるという意味である。早起きとは睡眠時間を短縮しなさいというのではなく、起き出さないで寝床でぐずぐずとしているのを戒める意味を込めてもいるのである。ただこれには別の解釈もあって、元は「早起きしたって三文ほどの得にしかならない」という意味で使われていたこともあるともいわれる。この他にも早起きを勧奨する似た諺には、「朝起き千両・夜起き百両・朝の一時は晩の二時に当たる・早起き三両倹約五両・早起き三両始末五両・早起き千両・宵寝朝起き長者の基・長寝は三百の損」などがある。英語ではThe early bird catches the worm.(早い鳥は餌の虫を捕えることができる。)である。果報は寝て待ての諺があるが寝て待っていれば果報が訪れるという意味ではなく、「幸福の訪れは人間の力ではどうすることもできないから焦らずに時機を待て。」の意味だ。逆に長寝の間に想を練って偉業を成し遂げたとして、昔話「3年寝太郎」の題材となった人もいる。「3年3ヶ月の長期にわたり日夜思案を重ねた上、佐渡の金山に行き金掘り人足の履き古した草鞋を新品と交換し帰り、付着していた砂金で得た富を山口県の厚狭川の灌漑工事にあて農民を救った。」との逸話が残る。大正13年に満洲に在住する日本人のために、満洲にちなんだ格調の高い音楽教材をという満洲教育會の依頼によって作られたものに白秋作詞、耕筰作曲の童謡「待ちぼうけ」がある。「昔、宋の農民の畑の隅に切り株があり、ある日そこに駆けてきた兎がぶつかり、首の骨を折って死んだ。その兎を持ち帰って食べた農民は、働くことを止めて再びうさぎが切り株に当たって死ぬことを待ったが、二度と兎は来なかった。そのために作物は実らず、農民は国の笑いものになった。」という韓非子の「守株待兔」から拝借した詩である。ここで寝て待ったのは、眠ったのではなく、単に身を横たえていたのである。睡眠時間調査によると70歳以上の睡眠時間が平均8.2時間と最も長くて、次いで10~5歳が8.1時間、30代が最も少なくて6.57時間となっている。思うにアンケートで睡眠時間として、ベットに入ってから出るまでの時間を答えている人が多いのではないだろうか。70歳を過ぎてから毎晩なるべく早くベットに入り5時前には起き出すようにしているが、夜中に何回か目覚めているので実際の睡眠時間は6時間程度であろうと思っている。山荘は既に最低気温が零下になる日もあって、6時20分を過ぎないと日も昇らない。時には朝3時頃から、目覚めてしまうことがあるがそのまま起き出すと何時間もストーブを焚かなくてはならず、暖房費を考えると三文の損になってしまう。冬枯れた畑にはすべきことも無く、暖かなベットの中で日の出までの暫しの時間惰眠についやすのがこの時期の常となっている。
2014年11月19日

カブの原産地ははアフガニスタンや地中海沿岸の南ヨーロッパを加えた地域とされている。ヨーロッパで紀元前から栽培されていたものが、現在は世界中の温帯地方に広まって栽培されている。弥生時代には、日本に大陸から伝来したといわれている。「日本書紀」に持統天皇の7年(693)に五穀を補う作物として、栽培を奨励する御触れを出したことが記されている。古くから栽培が進んだ結果多くの地方品種が成立し、我が国は品種発達の重要な中心地となっている。18世紀にイギリスで始まった「大麦→クローバー→小麦→カブ」の順に4年周期で行う四輪作法をノーフォーク農法というが、耕地を四区に分けその一区には飼料用カブを栽培した。現在もヨーロッパでは、飼料用にカブが栽培されている。カブは古名を「あおな」または「かぶらな」と言ったが、根よりむしろ葉を重要視していたことから出た名前といわれる。平安時代中期に編纂された格式の「延喜式」には、根も葉も漬物にされ種は薬用にしたという記録がある。春の七草の「スズナ」はカブで「スズシロ」はダイコンだが、この二つは良く似ているので近縁の仲間と間違われるが同じアブラナ科でもダイコンとは祖先を異にして、カブはハクサイやコマツナと同じ系統の野菜である。カブには赤かぶ・白かぶ・巨大なカブなど多くがあって、各地に約80もの品種がある。アフガニスタンからヨーロッパ経由で伝わった所謂日本型の系統は主に西日本で栽培されていて、東日本では赤カブ系統の栽培が多い。大阪府立大学名誉教授であった植物学者中尾佐助は、愛知―岐阜-福井の線で分けた東と西でカブの栽培品種に明らかな違いを見いだし「カブラライン」と名付けた。関ヶ原を境に、東と西とでは系統の違うものが栽培されていることを発見したのである。単に赤カブと呼ばれているものにも沢山の種類があって長崎赤カブ・伊予緋カブ・津田カブ・米子カブ・万木カブが西で、飛騨紅カブ・開田カブ・笊石カブ・大野紅カブ・札幌紫カブは主に東で作られている。カブの表面だけ赤いものや果肉の中まで赤色が入っているもの、さらに葉や茎までも赤いものなどがある。一般的な白いカブは煮物などに使われることも多いが、赤カブは煮物ではその持ち味の赤い色を活かせないばかりか煮汁が濁って汚らしく見えてしまうので、漬物やサラダとして生のまま食べる料理に使われることが多い。特に浅漬けなどにすると鮮やかな赤色に発色し、コリコリした食感もあって美味しい。全国の有名なカブの漬物には赤かぶ漬け(飛騨高山地方)、すぐきな漬け(京都上賀茂)、千枚漬け(京都特産)、日野菜漬け(滋賀県日野特産)、蕪ずし(石川県特産)等がある。野沢菜漬に使われる野沢菜もカブの一種で、別名はカブナとも呼ばれる。カブの部分は食用にしないで地上の茎葉を利用する漬けものである。200年ほど前、野沢村健命寺の住職が天王寺カブの種を持ち帰って、畑にまいたのがは始めとされる。寒さが厳しいために葉だけが異様に伸びて今のような野沢菜ができたとの説があるが、この種子を暖かいところで播いてもカブは太らないことから気温が作った野菜との説は誤りであろう。赤カブは塩漬けにして長期熟成する方法と、甘酢に漬けて食べる方法がある。一般家庭では簡単で出来上がりも鮮やかな甘酢漬けが、推奨できる。今まであまり作ったことは無かったのだが、先日1kgほどの赤カブが手に入ったので例年漬けている聖護院蕪の千枚漬モドキを参考にして、赤カブと白カブを合わせて甘酢漬けに漬けてみた。赤カブ3個(約500g)・酢3/4カップ・砂糖大さじ4・塩小さじ3・昆布10cmまたはおぼろ昆布赤かぶは7mmほどの厚さの輪切りにしてビニール袋に入れ、塩をふってもむ。5~10分おいて水を捨てる。容器に赤カブ・2cm角に切った昆布とタカノツメ3本、分量の酢・砂糖を合わせ入れて漬ける。一晩で食べられるようになったが、3日目になると漬け汁が深紅に染まって見た目にも綺麗な浅漬けが出来上がった。
2014年11月18日

日本人は何かと言うと3…、5…、7…、100…と、物事にランクを付けることが好きである。誰がどんな基準で付けたのか定かではないが、橋にも長さや架橋様式で様々なランク付けがされている。この中に、日本三奇橋と言われる橋がある。「岩国の錦帯橋」「甲斐の猿橋」に加えて「木曽の棧」とする説の他、木曽の棧の代わりに「日光の神橋」「西祖谷山村の葛橋」「奈月町愛本刎橋」のどれかを入れる場合がある。猿橋は安藤広重の「甲陽猿橋之図」や十返舎一九の「諸国道中金之草鞋」などにも出てくるほどに、奇橋として知られていた。日本三奇橋の中で最も有名なのは、岩国市の錦川に架橋された5連木造のアーチ橋である。当初は甲斐猿橋を真似ようとしたが川幅が30mの桂川に架かる刎橋形式では、200mも川幅がある錦川には架けることができなかったため石積みの土台を築いて今の形の橋を築いたものである。現在は修理費用に当てるため、大人300円の入橋料が徴収されている。長野県民であれば、見たことが無くてもその名前を必ず知っている橋がある。山の崖の中腹に棚のように張り出してつくった道を桟道というが、それを橋にしたのが「木曽の棧(かけはし)」である。長野県歌「信濃の國」では、4番の歌詞に♪「尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚めの床 木曽の棧かけし世も 心してゆけ久米路橋…」と歌われる。(註:現代語訳 一度は訪ねて見たい園原の里・寝覚の床を一夜の宿としよう。険しい木曽路に桟道がかけられた時代の人々の苦労を思い、気をつけて久米路橋を渡りなさい。)この歌は長野県の小学校の音楽の時間で歌うので、県人や出身者であればだれでもが知っている。高い谷間に橋を架けるには、橋脚なしで橋を渡す技術が必要である。こうした場合には吊り橋が一般的だが、江戸時代の日本に存在した架橋形式に刎橋(ハネバシ)という形式が存在した。両岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は少しだけ長く突き出す。これを何回も重ねて、中空に向けて遠く刎ね出しこれを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。猿橋では、刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食を保護しているのが特徴である。かつてこの形式の橋は富山県黒部川中流に架かる愛本橋や長野県の梓川に架かる雑炊橋があったが、石造のものは現在も数多く残っているが、木造で現存するのは大月市の猿橋のみである。7世紀頃猿の行動を観察していた渡来人が、猿が互いに手を結んで対岸まで体で橋を作り他の猿がそれを渡った様子を観察していて刎橋の方式を考案したと伝わる。猿が協力して互いの体を使った橋を作るなどあり得ないので、後の時代に作られた創作話であろうか。猿橋はかつては吊り橋であったともされるが、遅くとも1756年には現在の形の刎橋があったと推定されている。天保12年(1842)には、広重も「甲陽猿橋之図」に書くほどの奇橋として知られていたのだろうが、現在は殆ど訪れる人も無く岩国の錦帯橋に比して淋しい感じは否めない。11月の中旬金曜日の昼さがりではあったが、巨大な岩が形作る桂川の紅葉に彩られた両岸と流れが作る青い淵の眺めは、見物客がいない静謐な空間であるだけに心が洗われる思いがした。交通が些か不便で、他に見るべき観光資源も無いのでわざわざ橋を観光する目的で訪れる人は少なく、ドライブか観光バスの途中下車以外に観光客はいないのであろう。土産物屋もあるが、客がいなくては開店休業であろうと他人ごとながら心配になった。中央線の駅名や中央道のバス停にその名前があるが、今では橋の実物を知る人は少なくなっているのだろうか。学生の頃は帰郷と上京の途次に汽車の窓から眺めることができたのだが、中央線が橋から離れた場所に迂廻したことで現在は列車から見ることはかなわなくなってしまった。
2014年11月17日

テッセン(鉄線)は、キンポウゲ科センニンソウ属の原種つる性植物で鉄線葛、鉄線蓮とも呼ばれる。白い4cmほどの6弁の花をつけるが、実際は花に見えるのは紫陽花と同じように萼が花弁化したものである。同属のクレマチスは様々な種類を交配して作出したもので、どちらもテッセン・クレマチスと呼ぶことがある。これらは初夏の5月から6月にかけて花をさかせ、霜に当たると葉が枯れ落ちる。しかしこの仲間には、寒さを増してきた今頃から3月にかけて咲く種類もある。ガビサンハンショウヅル(峨眉山半鐘蔓)は中国の西南部が原産地とされ、3出羽状複葉で対生する葉は艶のある濃い緑色をしている。釣り鐘の型をしたものをラテン語ではカンパニュラ、英語でベルと言う。日本語ではこの形の花を咲かせる植物に釣鐘・人参と名付け、カンパニュラ・桔梗などは釣鐘草と呼ぶがこの花の場合は何故か「釣鐘」の小分類名である「半鐘」という。同じ釣鐘でも口径の大きさ1尺以下のものは人を呼び集めるために用いる「喚鐘」といい、2尺程度のものは「半鐘」とよばれ、これより大型のものは「梵鐘」と呼ぶ。半鐘とは火事を知らせる「火の見櫓」に吊り下げられた釣鐘のことで、ハンショウヅルの名前は釣鐘のような白い花を下垂して咲かせることに由来するのだが、釣鐘人参や桔梗・蛍袋などに比して特に小さな花でもない。カンパニュラと同程度の花であるのに、あえて半鐘とした理由がよく分からない。花は下向きに咲き始め、最初は半開だが花の終わり頃に全開となる。花の形態は大きく異なるが、ハンショウヅルは園芸用に作出されたクレマチスと同じ仲間である。蔓を2~3m伸ばし、葉腋に3cmほどの大きさの萼片4枚肉厚で緑色がかった白色釣鐘型の花を数輪咲かせる。耐寒性が-10℃近くもあり、冬に咲くところから「ウインター・ベル」の名前でも流通している。仲間に紫の花を咲かせるミヤマハンショウヅル(深山半鐘蔓)・シロバナハンショウヅル(白花半鐘蔓)・トリガタハンショウヅルの長柄・白花品種などがある。キンポウゲ科の植物の殆どは有毒で、同属のセンニンソウやボタンヅルは有毒なのでハンショウヅルも有毒として扱った方が無難である。多くの人は無関心だが庭先に寒椿・サザンカ・石蕗・寒菊ほか数種類の花しか見られなくなった時期に、垣根に絡まった蔓に下向きにポツポツと咲く地味な花を見ると何故か心が癒される。
2014年11月13日

ハンカチは手拭きとして日常的にあるいは、男性が正装する際の装飾用としても用いられている。以前はhandkerchiefの綴りからハンケチーフと呼ばれ、ハンケチと略称されていた。紀元前3000年頃のものと思われる麻製の布が発掘されているので、その頃にはすでにハンカチが存在していたとされる。ハンカチの形態は円形や長方形など様々で刺繍や豪華な飾りで贅を競う持ち物であったとされるが、フランス王妃のマリー・アントワネットが用いてから現在の形状になったとされる。明治時代以降になって洋装が導入されたことによつて、漸く日本でもハンカチが普及するようになった。芥川龍之介は作品「手巾」で悲しみを表す小道具として登場させ、徳冨蘆花の「不如帰」では浪子が家の門で出て行く武男に向かってハンカチを振る。映画では「幸福の黄色いハンカチ」が、「高原列車は行く」・「水色のワルツ」・「赤いハンカチ」・「木綿のハンカチーフ」などの歌ではハンカチがモチーフとなっている。戦前は一高が起源とされる破履・破帽・腰手拭いが学生の象徴とされ、質実剛健・エリートを気取った全国の学生は大いにこれを真似たものである。手拭いは文字通り手や、汚れたものを拭いたりするものである。戦後新制高校になって10年を経過した昭和30年頃でも、かまやつひろし♪「下駄を鳴らして奴が来る 腰に手ぬぐいぶら下げて 学生服にしみ込んだ...。」の歌に出てくるように腰から茶色になった手拭いをぶら下げて意気がっている者もいた。いつの間にか弊衣・マント・破帽・高下駄・腰手拭い・長髪の蛮殻気風が廃れると、腰手拭いを見なくなり用途が同じハンカチを持つようになっていった。ヤマボウシやハナミズキと同じミズキ科の仲間に、ハンカチノキと呼ばれ樹高20mにもなる中国雲南省が原産とされる落葉高木がある。ヤマボウシは花に白や赤の比較的大きめの4枚の苞を付けて花弁に見えるが、ハンカチノキではさらに巨大な白い2枚の苞が付くので良く目立つ。苞にはハンカチとしての実用価値は全く無いのだが、ハンカチをぶら下げたように見えるところから「ハンカチの木」とか「幽霊の木」などと呼ばれている。花弁はなくハナミズキのような頭状花序になり、沢山の雄花と1個の雌花が1つの球形をつくり大型の2枚の苞に抱かれるような形で開花する。植えてから10年以上、樹高3mほどにならないと開花しない。果実は西洋クルミに似た堅果で、複合果となる。花は咲き始めから1週間前後が見頃でその後は苞が落ちるが、雄花序苞は2枚ついたままで落ち、両生花の苞は萎れて黄色に変色して2枚が離れ離れになって落ちる。1990年初めに中国から苗木と種子が大量に輸入されたことによって、全国に広がったのだが花の時期が短いこともあって名前を知っていても花をつけたこの木を見る機会は少なく案外実物を見たことが無い人が多い。まだ落葉した木は少ないのにハンカチノキは既に冬姿になって、枝先にはセイヨウクルミに似た実だけがついていた。播種すれば芽を出すが、巨木になることと花を見ることはできそうにも無いので種子の採取は思いとどまった。
2014年11月12日

うっとり!いい湯だな11月も中旬になるというのにスッキリと晴れた昨日は21℃を超えて、小春日和と言うよりむしろ暑さを感じるような陽気となった。漸く都市部まで降りてきた黄葉を見るために、市立公園を訪れたがメタセコイヤの並木は黄葉と言うには未だ少し時期が早かった。月曜日の昼さがりで施設が休館の所為もあって、広大な芝生広場にはチラホラの人影しか無かった。そんな静かな広場を囲んだ植木の下に、ぽっかり空いた空間があった。その場所の乾燥した表土がでこぼこに掘り起こされ、通行する人を警戒するでもなくスズメの群れが砂浴びに夢中になっていた。全ての動物には水棲か陸生かを問わず、害虫が寄生する。皮膚や羽毛に付く外部寄生虫や汚れに対して、動物は様々な方法で除去しようと努力しそれらを取り除く方法を編み出してきた。ゾウは鼻で水を吸い込んで、全身に浴びせる。長いフサフサした尾を持つ動物は、その尾を自分の体に打ち付け吸血昆虫や寄生虫を払い落としている。特にネコ目に属する動物が地面に背中をこすりつける行為は、それによって寄生虫を払い落としているのである。特殊な例として、他の動物に汚れや寄生虫の除去を委ねているものもある。ホンソメワケベラ・鯉科のガラルファベラ(別名ドクターフィッシュ)・ハゼ・シクリッド・ナマズなどさまざまな魚が掃除行動をとることで知られ、これらを一括して掃除魚と呼んでいる。エビ類でも、同様の掃除行動をとる種が多くいる。砂の中で転げまわって、皮膚や羽についている寄生虫を落とす動物の行動は砂浴びと呼ばれる。イノシシや馬にも見られるように、砂や泥の中を転げまわって虫を取り除く動物は多い。象からハムスター・チンチラ・ハリネズミのように、砂浴びを必要とする動物もいる。砂浴びは水浴びや泥浴びと同じように羽や皮膚や毛・体表を清潔にするための行動であるが、濡れた体を乾かすのにも役に立つ。馬小屋には馬が運動したあと砂浴びができるように、常設の砂場を設けていることがある。これらの行動は哺乳類に限らず、鳥類でも良く観察される行動である。水の無い所に生息する鳥では、水を浴びる替わりに砂を浴びることが知られている。日本の鳥ではヒバリ・キジ・ライチョウなどが、砂浴びをする代表的な種類である。スズメは、近年個体数が全国的に減少しているとの報告もあるトリである。しかし常に人の近くにいるので、誰もが良く知っている鳥でもある。スズメが、公園や広場で行う砂浴びは多く観察されている。砂浴びは乾いた砂の中の窪みに座り、翼で砂をまきちらすようにして行われる。羽を開いて砂地に体をこすりつけ、羽を逆立てるように動いたりすることもある。砂浴びは、寄生虫や余分な脂などを除去する目的で行われる。水浴びと同じように、砂浴びの後にも念入りな羽繕い行動が見られる。面白いことにスズメは、水浴びと砂浴びの両方を行う鳥として知られている。雪の後の晴れた日に窓に降りかかる水滴に驚いて屋根を見上げると、雨樋に溜まった雪解け水で盛大に水を飛ばして水浴びをしている姿を見ることがある。スズメでは「アリ浴び」が、観察されることがある。アリの巣穴の上にうずくまってアリを体に上らせたり、嘴でアリを羽根の間に押し込んだりする。アリの出す「蟻酸」によって、ダニやハジラミといった害虫の寄生を防除する知恵と考えられている。
2014年11月11日

手袋は鎌倉時代に、鎧の篭手(こて)として発達し手覆(ておおい)と呼ばれた。15~16世紀に、南蛮貿易によって西洋式の手袋が輸入され珍重された。一方足袋は5世紀ごろに中国から伝来したとされる、「襪(しとうず)」を起源とする説がある。「襪(しとうず)」とは「下沓」が訛ったものとされており、靴下のような形状をしていて履いた後に足首のところを紐で結ぶ形態であった。平安時代以前の貴族は「浅沓」や「かの沓」を履いたため、靴下の役割としてこれを用いた。襪を履いていた公家に対して、武家が主に着用したのが「単皮」である。平安時代中期の承平年間(931~938年)に源順が編纂した辞書、和名類聚抄に「町人は鹿皮を以て半靴を為る。名付けて単皮と日う。」との記載がある。単皮とは単(ひとえ)の皮を使った靴のようなもので、「たんび」が後に「たび」に変化したのではないかといわれる。まだ木綿が貴重であった頃には鹿皮や猿皮をなめした革で作られていたため、「皮を踏む」という意味からタビに「踏皮」という当て字が使われたことがある。その他には一足揃えると鼻が四つ並んだようにに見えるとして多鼻と呼んだとか、旅に出る時に鹿皮で出来た旅沓で足を包んで草鞋を履いたので、旅沓が「たび」といわれるようになった等の説もある。「宇治拾遺物語」に「猿の皮の足袋はきなして」とあることから、平安時代にはすでに「足袋」の字が使われていたことが分かる。何れにしても「足袋」は、当て字であることに間違いない。足袋は日本固有の伝統的な衣類で、足に直接履く一種の下着である。生地は木綿が一般的で、鞐(こはぜ)で固定する。明治時代になって現在の小鉤(こはぜ)の付いた足袋が考案され、足の保温効果や利便性、装いの観点から広く普及した。草履・下駄・雪駄などを履く際に用いるため、つま先が親指と他の指の部分の2つに分かれている。初期のものは足首部分に紐が付けてあり、紐を結ぶことで脱落しないように留めていた。鎖国を始めたため鹿革の輸入量が激減しさらに、振袖火事(1657年)によって防火着として皮が多用されるようになって皮の品不足が生じ高騰したことから、安価な木綿製のものが急速に普及したと言われている。足袋の着用には、色の決まりごとがある。黒足袋や色足袋は平服の際に、改まった服装の際や慶弔等の行事ごとには白足袋を着用するが、白足袋はどのような場合にでも着用ができる。常に白足袋を履いている茶人や僧侶・能楽師・歌舞伎役者・芸人などを指して、隠語で「白足袋」と称する。時代考証がきちんとされず時代劇で鞐(こはぜ)の足袋を用いている場合が目に付くが、特に農村部においては鞐掛けの足袋が広く普及するのは明治時代に入ってからである。今では考えられないが60年ほど前までは男でも履物は下駄が多く、冬は誰でもが必ず防寒用として足袋を履いていた。30年ほど前まで正月には大島の着物を着たが、近年はとんと着なくなったし街中で着物姿の男性を見かけることも無くなった。以前履いた足袋も、何処にしまいこまれたのか探しても出てこない。 足袋はいて 寝る夜ものうき 夢見かな 蕪村
2014年11月10日

レタスはキク科の野菜で、5千年以上も前既に西アジアなどで栽培されていたとされる野菜である。日本では奈良時代以前から栽培が行われ、平安時代の終わりにはチシャと呼ばれ栽培されるようになったと言われている。江戸時代に編纂された「農業全書」に品種、栽培法、料理法などが記されている。「チシャ」という名前は、レタスの葉や茎を切ると切り口から白い乳液が出てくる。これをチチに見立てて「乳草」と呼んだのが、「チサ」に変化したものとの説が有力である。玉チシャ・立チシャ・葉チシャなどの種類があり、日本では玉チシャを一般的にレタスと呼んでいる。チシャは中国伝来の野菜で江戸時代にはかなリ一般的な野菜となり、「なます」や「煮物」に使われていたという。幕末には結球レタスがアメリカから伝わり、明治時代には西洋料理の装飾として使われるようになった。日本では野菜の栽培に下肥えを利用していたこともあり葉物野菜を生で食べる習慣に乏しく、一般家庭ではほとんど生では食べられていなかった。戦後進駐軍の駐留に伴いその食生活の影響を受けて、サラダとして生で食べる人が増えた。高度経済成長の影響もあって家庭食が欧米化し、一般家庭でも食べられるようになったのは1960年代になってからのことである。今ではサラダのほか食材の下に敷いたり、炒めものにも使用され食生活に欠かせない野菜となった。生産量も年々増加して、年間約52万9,100トン(2012年)が消費されている。今年北杜市の白州町から20号線荒田まで、高原の真ん中を農免道路が開通した。この道路の途中には以前から菓子メーカーのシャトレーゼやサントリーの工場が立地しているがこの北杜市白須の地に忽然と現れた、40棟のミニ東京ドームが並ぶ姿は不思議な光景となっている。元をただせば遊休農地を含む10ヘクタールの農地に、年間650tの水耕栽培によるレタス生産を目標に事業費総額16億円をかけて設置されたレタス栽培工場群である。 高性能透光性フィルム素材を使った直径29メートルのエア・ドーム型ハウスで、1日1棟当たり45kg、40棟で月産54万株の収穫規模だという。苗を植えてから収穫まで平均30日なので、1年12回の収穫が可能と言う。今年の2月には北杜市に観測史上初めての大雪が2回続き、積雪量は1.5mを超えた。家屋被害はなかったものの、民家の車庫の多くや農業用ハウスが倒壊し壊滅状態となった。このドームハウスも例外では無く、全てが倒壊した。降雪被害後9か月を過ぎた現在も倒壊ハウスの復旧作業が続いていて、施設はフル稼働をしていなかったが60人の従業員が従事していると言う。栽培現場を見たかったのだが、施設内に入ることはやんわりと断られてしまった。結球レタスは、葉を外すのが面倒だが、レタスの芯を親指で強く押し込んでから芯を回すように抜き開いた穴に指を入れてレタスを割ると、簡単に葉が1枚ずつ離れた状態になる。
2014年11月09日

日本アマガエルで「ゲッゲッゲッゲッ…」「クワックワックワッ…」と鳴くのはオスだけで、蝉・キリギリス・コオロギなどの昆虫と同じでメスは鳴かない。蝉は腹部にある発振膜・鳴筋・共鳴室で大きな声を出すが、カエルは声帯で出した声をオスの喉にある鳴嚢で共鳴させることで大声を生みだしている。他のカエルは繁殖期の夜に鳴くが、ニホンアマガエルは雨が降りそうになると繁殖期以外であってもまた昼間でも鳴く。これを雨鳴きまたはレインコール(Raincall)などと呼び、雨が降りそうになると繁殖期以外であってもまた昼間でも鳴く。秋が深くなった10月下旬頃には雨と関係なく、レインコールに似た甲高い声を出して鳴くようになる。ニホンアマガエルのオタマジャクシは全身が褐色でうすい斑模様をしているが、尾が徐々に短くなるにつれ褐色が薄くなって背中が黄緑色へ変わる。水田地域では餌場・隠れ場になっていた稲が刈られると、近くの草むらや林に移動したりその近くで冬眠に入る。通常は腹部は白色で背側が黄緑色だが、背中側を黒っぽい斑模様の灰褐色に変えることができ保護色の例とされる。体色変化の仕組みは温度・湿度・明暗など様々な環境変化に応じてホルモンを分泌し、皮膚の色素細胞を拡張したり伸縮させることによって変化させている。稀に色素細胞の変異が起こり、体色が青や黄色の個体が出現することもある。時折空色の蛙が発見されて話題になるが特に希有なことでは無く、本種の黄色色素が先天的に欠乏したことによってブルーの個体が出たものにすぎない。周囲の色を識別できない夜間では、土の上であっても緑色のままである。カエルは10℃を下回るようになると、土中や枯れ葉の下に潜って翌春まで冬眠する。畑仕舞の作業をしていると、土中から動きが鈍くなった黒っぽい斑模様をした灰褐色のアマガエルが良く出てくる。一方では、まだ土中に入らず青草の上を這い廻っている個体も多い。一般的に土中のカエルより、外にいる個体の方が動きが早い。11月初め孫が黒色の濃いアマガエルと、白に近い個体とを見付けた。白いカエルだと多騒ぎしていたが、発生期に色素が抜けたアルビノとは明らかに異なっているので、通常の「保護色」として体色を変化させたものであろう。ただ不思議なことに、夏の間殆ど全ての個体が黄緑色をしていたのにこの時期緑色のカエルを目にすることは無い。
2014年11月08日

バナナが世界で食べられるようになったのは1500年代の初期で、日本では戦後まで高級果物であった。誰でもが口にできるようになったのは漸く1960年代であるから、その普及には長い年月がかかっている。韓国ソールの屋台では、1990年になってもバナナを切り売りしていた。一方約80年前に漸くその存在が知られるようになった新興果実のキウイフルーツは、僅か30年足らずで瞬く間に世界に広がり大衆果物となった。キウイフルーツはアスコルビン酸を多く含み、果実であるのにクロロフィルを持っていることが特徴である。降霜の前後には、果実を収穫できる。一株に数千個もの果実が実ることもしばしばであるが、大量に結実させると糖度が下がり酸が増加することで食味を低下させてしまうので摘果作業が必要である。人工授粉をして実の大きさがピンポン玉大の頃に摘果を行い、数の調整を行う。収穫後は30~60日程度追熟して指で押して柔らかさを感じられるようになれば食べることができる。追熟には、リンゴが発散するエチレンガスを利用する方法もある。最初に出回り現在も最も多く流通しているキウイはヘイワード種といい、果肉がエメラルドグリーンで白色の果芯の囲りに胡麻粒ほどの黒い種子が放射状に並んでいる。味は爽やかな酸味があり、甘い。未熟果では、酸味が強くて食用にならない。またアクチニジン(蛋白質分解酵素)を含むため食肉を軟かくしたり、舌苔除去等にも利用されている。16年前からニュージーランド産を中心に販売の始まったゴールド・キウイは現在その販売量が増えつつある。緑色キウイよりも酸味が弱く、甘みが強い。黄色種ゴールドキウイの果実表面はヘイワード種の剛毛と異なり軟かい疎毛で覆われ、果肉は黄色いことが多い。ゴールドキウイは酸味を敬遠し甘味の強いものを好む日本人向けに開発されたといわれ、甘く柔らかいのが特徴である。ビタミンCの含有量はミカン約3個分に相当し、グリーンキウイよりゴールドキウイ(130mg/100g)の方が20mmほど多いが、食物繊維はグリーンキウイ(2.4g/100g)の方がゴールドキウイ0.7gほど多い。キウイフルーツにはタンパク質分解酵素のアクチニジンが含まれているため、肉を柔らかにし消化を助ける働きがある。肉に輪切りのキウイフルーツを乗せておくことで、柔らかな肉になる。生のキウイフルーツでゼリーを作る場合、アクチニジンの作用でゼラチンが固まらないので注意を要する。アクチニジンは熱・酸・アルカリに弱く加熱処理したものには、酵素としての働きは無い。人によっては食べた後口腔に射すような痛みを感じることがあるが、アクチニジンやシュウ酸カルシウム結晶の刺激によるものと考えられている。どちらも衛生上は安全な成分だが、稀にキウイフルーツがアレルゲンとなる人があるので注意も必要である。山荘への入り口の上に足場パイプで5坪ほどの棚を作って貰い、14年前に発売されたばかりのゴールドキウイの苗を植えた。雌木は順調に育ったのだが雄木が何回植えても育たないため、毎年人工授粉を行わなければ結実しない。キウイの受粉は開花後3日ほどの内に行う必要があるのだが、山荘訪問が時期に会わないことの方が多い。今年は昨年晩霜で新芽が枯れて実の数が少なかった反動から、棚一面に白い花が群れて咲いた。3日ほど受粉時期にずれたのだが、6月初めに隣のヘイワードの花粉を採取して澱粉で増量し絵筆を使い2日掛かりで授粉を行った。20日ほどして小指の先ほどになった実が、樹下一面に落果した。これらは、多分授粉が間に合わなかった花と考えられる。しかしその後は順調に育って夥しい数の実がなり、まるで葡萄の房状態になった。ゴルフのボール大に育ったところで、発育の悪い実を大量に摘果したのだが、暑さと手が届かないことから途中で止めてしまった。この地は11月になると降霜がありさらに3年ほど前からサルがキウイを狙う様になったことから、10月末には収穫するようにしている。今年は暦の都合で1日と2日に山荘を訪れ、6人掛かりで5時間かけて収穫を行った。鈴なりに生ったキウイは玉が小さく、全体の1/3にも当たるピンポン玉以下のもの約千個は廃棄した。親戚や知人におすそ分けしたが、はたして今年のできどうであったのだろうか。後20日も追熟すれば、善し悪しの判断が付く。
2014年11月07日

浦島太郎は浦嶋子の名前で、日本書紀「雄略紀」の秋七月の条(477年)に初めて登場する。「丹波国余社郡の管川の人、端江浦島の子、舟に乗りて釣りす。遂に大亀を得たり。便に女に化為せる。是に、浦島子、感りて婦にす。相遂ひて海に入る。蓬莱山に到りて、仙衆を歴り観る。語は別巻に在り。」とある。此処に出てくる丹波国余社郡とは、西舞鶴地区の笠水神社(カサミズとは読まず、ウケミズと読む。)辺りとの説がある。丹後半島に生まれた浦島伝説は、その後北海道から沖縄まで少しずつ内容を変化させながら28都道府県の45にも及ぶ地域に伝播していった。この伝説では、亀が重要な役割を果たしている。カメ目は爬虫類グループの中でも比較的早期の中生代三畳紀後期に出現したとされ、甲羅を持つことが特徴で、約2億1000万年前から現代まで継続して繁栄している。乱獲によって絶滅した種や絶滅の恐れのある種もあるが、全体としては水棲・陸棲の両域で多様性を維持している。亀は堅い守りの象徴とされる一方で鈍重を揶揄する語として使われるが、実直さや勤勉さなどを褒める譬えともされる。中国やインドでは古来より神獣として扱われ、中国文化の影響下にあった地域では吉兆とされる。水棲カメの眼は顔の横側についているものが多いが、陸棲カメの多くでは眼が前方についている。カミツキガメやスッポンでは、頭の上部付近についていて、浅い水中で眼と鼻孔を除く体全体を潜めて天敵から身を隠すことが可能である。ウミガメは、体内の過剰の塩分を目から排出することができる。カメ類は動物の中でも長寿の代表格とされ長寿記録として、海外ではゾウガメを152年飼育したとする記録がある。ウミガメの肉は貴重なタンパク源とされ、特に卵は美味であるといわれる。小笠原諸島ではカメの刺身や各種の亀料理が発達していたが、ワシントン条約以後捕獲が禁止されたため食用とされることはなくなった。味はワニ肉と同じで、鶏肉に似ているという。アメリカでは4~50年前に養殖したミシシッピアカミミガメなどが大量に流通し、動物愛護上の問題やサルモネラ菌感染症の原因とみなされたため、1975年以降は4インチ(約10cm)未満のカメの輸入や流通が規制された。日本でミドリガメの名前で販売されるミシシッピアカミミガメが、特に多く流通している。寿命が長く成長すると大型化することから飼えなくなって、遺棄することによる環境への被害は社会問題とまでなっている。カメ類はペットとして広く愛好されているが、飼育は必ずしも簡単ではない。非常に我慢強いことが、ペットとして理想的であると誤解されている面もある。さらに適切な飼育環境下では長寿なこともあり、長期飼育を念頭に入れる必要がある。中国文明では霊獣四神の一つに霊亀があり、北方を守護するとされた。明日香村キトラ古墳の石室内の北側壁にも、描かれている。昔話では桃太郎・かぐや姫・一寸法師・笠地蔵・舌切り雀・カチカチ山・花咲か爺・猿蟹合戦に見られるように、その殆どが「~したから幸せになった。」あるいは「~したから罰を受けた。」と子供に因果応報や規範意識を芽生えさせる内容となっている。浦嶋太郎が竜宮城へ行くまでは鶴女房や文福茶釜などと同列の、動物報恩譚と見なすことができる。神話や民話には「鶴女房」見られるように、「~を見てはならない」という禁忌がしばしば出てくる。浦島太郎では亀を助けたお礼に竜宮城でもてなしを受けるのだが、乙姫との約束を忘れて玉手箱の蓋を開けたためよぼよぼの老人になってしまう。約束を破った浦島太郎の軽薄な行為の結果が招いた、不幸話で終わっている。子供の頃は浦島太郎の結末について不思議以外の何の疑問も持たなかったのだが、物語を吟味して行くと他の昔話とは異なった構成となっている。現在流布している全国共通の浦島太郎の話は、丹後半島に伝わる伝説をベースとして明治43年~昭和24年までの尋常小学読本に「ウラシマノハナシ」として取り上げられた内容である。「ウラシマノハナシ」は1300年前に編纂された丹後風土記の浦嶋子が土台であるが、小学読本として採用する際に原題を著しく改変しており新たな話として作られたものとも看做すことができる。浦嶋太郎に出てくるカメは湖沼や河川に棲むカメではなく、ウミガメである。オサガメでは最大2mを超える大きさのものがあって、十分人を乗せることが可能である。大きさはオサガメの比では無いが、28cmもの大きさになる通称ミドリガメ(アカミミガメ)の4cmほどの幼体が縁日などで売られている。サルモネラ菌の媒介者として指摘されて以来、祭礼などの露店で売られているのをそれほど見かけ無くなった。カメは万年の長寿と言われるがこのカメもペットとしては比較的長寿で、20~30年も生きると言われる。しかも30cmもの大きさになることや長寿故に飼育に困って、河川や池沼に遺棄する人も多い。浦嶋太郎を気取って、助けた心境になっているのかも知れない。池沼で首を伸ばして日光浴をしているカメには、アカミミガメが多く見られる。神獣の一つにも数えられるカメであるが、亜種ミシシッピアカミミガメが日本生態学会により侵略的外来種ワースト100に指定されている。また流通量および遺棄された個体の発見例が多い事から、要注意外来生物にも指定されている。
2014年11月06日

夕方5時半を過ぎて、満月4日前の月齢11.2の歪な月が東の空に昇った。6月21日の夏至の頃には凡そ朝4時27分に日が昇り、19時になって漸く日が沈んだ。昨日は日の出がおよそ6時6分で日没は4時43分頃であったので、夏至の頃に比べて日長は4時間近くも短くなっている。この時期一人で山荘に居るともの淋しさは一入なのだが、日没が早くなったことで思わぬ天体ショウに巡り合えることもある。午後5時を過ぎて既に日が没して次第に暗くなる部屋の中に、文字通りの茜色の光が射し込んだのだ。急いでカメラの準備をして、二階のベランダに出て見ると東南から南西の空にかけて見事な夕焼けが広がっていた。都会地でも年に数回はこんな空に巡り合えるのだが、大抵は日没を過ぎ部屋が暗くなってくると雨戸やカーテンを閉めてしまうので案外空の変化に気づくことが少ない。今までにこんな色に染まった空を見たのは、記憶に無いほどの見事な夕焼けであった。さらに6時前頃になると南東側隣家の屋根の上に、満月4日前の歪な月が消えかかった夕焼け空に昇った。昭和33年に作詞矢野亮で三橋美智也が歌った、「夕焼けトンビ」というトボケた歌謡曲がある。大ヒットした歌なのだが、この歌詞は♪「夕焼け空が まっかっか とんびがぐるりと 輪をかいた ホーイノホイ そこから東京が見えるかい 見えたらここまで降りて来な 火傷をせぬうち早ッコヨ ホーイホイ」というのだ。夕焼け空と月のコラボレーションに感動しながら、こんな薄暗くなった空をトンビがのんびりと輪を描くとは到底思えなく、55年前日本人の多くが受け入れた歌詞は机上でしかも空想で作られたものであったのではないかとしみじみと想ったものである。茜色に燃えたキャンパスの色が次第にくすみ、暗い空になると取り残された月だけが輝いていた。
2014年11月05日

秋口に開催される盆栽市や地方の道の駅の山野草売り場には、必ずと言っていいほどカラフルな花色のダイモンジソウの鉢植えが売られている。値段も凡そ千円以下と手頃なのだが、東京ではなかなか夏越しが難しい植物でもある。日本中どこにでも見られる花とされているのだが、野生のダイモンジソウにはなかなかお目にかかれない。先日箱根姥子温泉に泊った折り、バス停から続く急な坂道の石垣の間に点々と咲くダイモンジソウの群落を見付けた。此のあたりには民家は少なく、別荘か会社の保養所がほとんどである。その所為か車はかなりの通行量があるのだが、歩く人の姿は殆ど見かけない。余りに多く咲いていて雑草と感じているのか、路傍なのに摘む人もいないようである。宿泊施設の西向き石垣の苔の間に生えているダイモンジソウを、数株分けて貰ってきた。花弁の形が漢字の「大の文字」に似ているからとして、「ダイモンジソウ」の名前がつけられた野草である。別名はイワブキ・ニワブキだが、離れて見る小さな葉が蕗の葉に似て見えなくもない。ユキノシタと同じ仲間なので、一寸見にはユキノシタと間違える人もある。ユキノシタを摘んでいる人を見かけないので、この花をユキノシタと勘違いしている人もいるに違いない。根は短く分枝せず、根出葉には長い葉柄があり長い毛が生える。切れ込みのある円い葉は厚みがあって柔らかい。株の中心から7~10月に30cmを超えるほどの高さになる花茎を出し、白色から紅色まで様々な色の花径2~5cmの花を次々と円錐状に多数咲かせる。花弁は上側の3弁が長さ3mmほどの楕円形で、下側の2弁が長さ1cmほどにもなる線状楕円形となり「大」の字の形になるが、上向きに咲く花の花弁はほぼ同じ長さになる。雄しべは上側の花弁程の長さで10個あり、葯は橙赤色または暗紅色になる。果実は卵形のさく果で長さ5mmほどになる。山岳地帯から亜高山付近の湿った岩場や草原に生える多年草で分布域が広いため数多くの変種があり、変化に富んだ野草である。標高の低い場所では光のあまり当たらない渓谷の岩場などに自生し、標高の高い場所では陽のよく当たる岩肌などにも自生する。鉢で育てる場合には気温があまり高くなく冷涼で、湿り気があって水捌けのよい環境に置けば失敗しないと言う。現在は園芸種として各地のさまざまな原種との交配で、花色や特長の変化が豊富なものが作出されていて大変人気を集めている。生育期の春から6月頃にかけてと、9月以降は日に当てて育てる。半日ほどは日差しの確保できる場所がよく、真夏は直射日光を避けて明るい日陰で風通しのよい場所に置いて涼しい環境で育てる。冬~春にかけては葉や茎が自然に枯れて休眠に入るので、凍結させなければ枯死することはない。休眠中乾燥気味に育てるのは、他の植物と同じである。固形発酵油粕を芽の出る時期と花後に、株から離して置く。植え替えは春の芽出しの頃が適期だが、採取したのが秋だったので植え傷みを承知の上で鉢に植えた。培養土は桐生砂・鹿沼土などが推奨されているが、水苔に野菜の発芽用の用土を混ぜて植え付けて見た。現在殆ど花が終わってしまっているが、しっかり根付いて来年また優美な花に逢えることを念じている。 11月8日の花で、5月12日の誕生花とされている。 花言葉 恋の訪れ、自由
2014年11月04日
全19件 (19件中 1-19件目)
1


