全18件 (18件中 1-18件目)
1
江戸の町人のほとんどは、長屋に住んでいた。さしずめ現在の、マンションかアパートであろうか。表通りに面した所には二階建ての商家が多くその裏側には九尺二間程度(3坪~広くて5坪)の長屋があった。文政年間(1818~1829)の物価は一日の稼ぎが平均700文で、家賃月額500文・風呂8文・かけ蕎麦16文・米2升100文程度であったとされる。当時は今よりかなり貧富の差があったと思われ、「江戸っ子は宵越しの銭」を持たなかったとも伝わり、稼いだ日銭の殆どは消費され貯蓄に回されることも無かったという。江戸の庶民の日常は売り買いの都度代金決済するのではなく、盆と暮れの年2回纏めて払う掛け売り・掛け買いのいわゆるツケ払いであった。現在の、クレジットカードでの買い物と同じである。このツケとは勘定書きあるいは請求書のことで、帳簿に書き付けておくことが語源とされているが、同じ意味の掛けとは貸し売り・掛け買いのことである。この掛けの語源由来については明確なものは無いが、物事の途中のことを「やりかけ」というところから、決済の途中のやり掛けが語源となったのではないかとの説がある。「ツケが来る」という言葉があるが、後から請求書が廻ってきて支払いをさせられる意から、よくないことを行ったり無理を通すと後になってその始末をつけなければならなくなるという意味だ。買う際には金銭を支払っていないから懐は痛まないのだが、大晦日には町民の住む貧乏長屋に「掛け取り」がやってくる。しかしその日暮らしの町人には、支払いの余裕が無い人も多かったと思われる。そのため何とか大晦日をやり過ごすために、言い訳をしまくる。 「大晦日 よく回るのは 口ばかり」(江戸川柳)江戸庶民の大晦日を、ユーモラスに描いた、言訳座頭・加賀の千代・掛取万歳・狂歌家主・芝浜・尻餅・睨み返し・富久・除夜の雪・三百餅・引越しの夢など多くの落語がある。大晦日は商人にとっては掛け金の回収、貧乏人は時間切れで逃げ切るために一大攻防戦を繰り広げた。落語ではうまく逃げ切ってしまう話が多いが、現実の掛け取りはキビシかったとされる。加賀の千代では、大家からの借金を「…釣瓶とられて貰い水」に懸けた噺。掛取万歳は掛け取り人の好きなものを言い立てて、煙にまいて追い返してしまう。中でも尻餅は理解がし易く、子供でも笑ってしまう。江戸の町の大晦日には、餠屋が廻ってきて餅を搗いた。落語の尻餅では、貧乏長屋の夫婦は銭が無くて餅搗きを頼むことができない。女房は近所の手前せめて、音だけでもさせてほしいと文句を言う。亭主はこれを真に受けて、餠屋に餠をつかせている芝居をしようと女房の着物をまくって尻を出させ、手に水をつけて尻をペッタンペッタンと打つ。しばらく痛さを我慢していた女房はとうとう、「餠屋さん、あと幾臼あるのかい?」「へい、あと二臼です」「後生だから餠屋さん、あとの二臼はおこわにしておくれ」。50年ほど前まで、郷里では年末になると餅搗きの威勢のよい音が響いた。都会でも旧家では親戚が集まったりして餅搗きが行われてきたが、現在では家庭で臼と杵での餅搗きは町のイベントでもない限り行われることが無くなった。幸い我が家には信州伊那谷産の餅米と二代目電気餅搗き器があって、家内の尻を手の平で打つことは必要ない。毎年28日には、本物の正月用の自家製餅を搗く。今年も1日前の27日にもち米を洗って、28日に餅を搗いた。ペッタンペッタンと威勢のよい餅を搗く音の代わりに、今ではブーンというモーターの低い唸り声になってしまった。年寄りはハレの日の行事として餅搗きを行うのだが、飽食の時代に育つ孫たちは雑煮餅を全く好まない。大晦日まで、今日も数えて3日となった。幸い何処にも掛け払いをするところは無く、年を越すのに言い訳を考える必要もない。あまり興味を惹かれないテレビを見ながら、今年もまた平平凡凡と新たな年を迎えることになる。
2014年12月29日

日本の気象は、小学校5年生の社会科の時間で学ぶ。北アルプスは日本海からの湿った空気を多く受け、南アルプスは太平洋からの湿った空気を受ける。そのため南アルプスでは夏の雨、北アルプスは豪雪となる。気象的に「雨の南アルプス」「雪の北アルプス」と特徴付けられている。南アルプスは山梨・長野・静岡の県境を、南北に100km以上の長さと約50kmにも及ぶ幅で聳えている。山梨県の西側を、3,000m級の山々が巨大な壁となってブロックしている。「日本の屋根」と呼ばれる山脈は、北アルプス・中央アルプス・南アルプスの3つに分かれているが、南アルプスは名前のように最も南に位置して太平洋に近い。南アルプスの気候は太平洋に近く、3,000m級の高さの山脈であることが大きく影響している。春と秋は低気圧と西からの雨雲が、南アルプスでブロックされ山に雨を降らせる。夏は暖かく湿った南よりの風が南アルプスの山体を上昇し、雷雲を発達させる。梅雨や台風の風雨も、高山は平地に比べて激しくなる。冬は、日本海を渡って来た湿った冷たい季節風が、北アルプスや中央アルプスに雪を降らせて乾燥し、乾いた冷たい空っ風となって南アルプスを吹き降り乾燥した冬晴れをもたらす。甲州名物空っ風・八ヶ岳颪といわれるのは、この季節風のことである。山梨県内の年降水量分布図では、南アルプス付近は2,000mmを超す雨の多い地域になっており、日本の年平均降水量の2倍近い雨が降る雨の多い地域でもある。(甲府地方気象台)南アルプスに降った多量の雨は、合流する富士川、安倍川、大井川、天竜川4つの川に集まり、太平洋へと流れていく。南アルプスを水源とする川は勾配が急で、流れの速い川として知られている。山荘のある北杜市は内陸性気候で、年間及び昼夜の寒暖差が大きい特徴がある。湿度は低く夏の気温は都市部並みに30℃を超えることがあるが、冬の寒さは厳しい。夏は冷房を必要としない代わりに、冬は暖房設備が必需である。今年の2月のような例外はあるが、通常年の積雪は一部の山間地域を除いて年に数回、一回の積雪量は多くて30cm程度である。気象庁のアメダス観測所は、山荘から離れた八ヶ岳の麓の標高867mの大泉地点にしか無い。山荘は甲斐駒ケ岳の麓の標高634mにあるためかなり気象が異なり、アメダスのデータをそのまま山荘付近の気象に当てはめるわけにはいかない。北杜市の気象特性として大泉観測所のデータ解析では、年平均気温は10.7℃、月平均気温では最暖月(8月)が22.3℃、最寒月(1月)が-0.4℃となっている。山荘の実測の気温では、最低気温が-10℃以下になることが屡ある。この地に別荘を持った人の多くは、最初の冬に水道管凍結による破裂などのトラブルを経験する。南アルプスでは降雨量が多いのに、里の日照時間は年間2,081時間で全国平均より147時間も長い。降水量は1,138mmで、全国平均より576mm少ない。これは日照条件に恵まれた地域の証拠で全天日射量では、北杜市は関東甲信越地域の中で最も日射量が多い地域となっている。月平均風速は冬季では北西~北の風が強く2~3m/sで、この風を八ヶ岳颪と呼んでいる。夏季は、南南東~南の風で1.5m/s前後としている。しかし、甲斐駒ケ岳の麓では12月から4月頃まで連日20m/sを超えるような強風が吹き荒れるので、八ヶ岳麓のアメダス観測所のデータは甲斐駒ケ岳の麓の特性を正確には表していない。12月になって冬型の気圧配置が強まると、里の上空は冬晴れでも甲斐駒ケ岳は終日雪雲に覆われるようになる。南アルプスを吹き下ろす強い季節風に乗って、晴天の中雪片が飛ぶ。山の樹がごうごうとまるで台風の襲来のように吠え、余りの強風のため眠れないで夜を明かすことさえもある。この冬の「颪」さえなければ、誠に住みやすい土地だと思うのだが。
2014年12月27日

肺炎球菌(Streptococcus pneumoniae)は、肺炎などの呼吸器の感染症や全身性感染症を引き起こす細菌として知られ肺炎患者の多くがこの菌が原因となっている。インフルエンザウイルス罹患後の二次感染の原因菌として,抗菌薬のなかった時代には死亡率が極めて高かった。抗菌薬の登場によって二次性感染症は激減し,肺炎によって死亡する例は少なくなっていたのだが近年65歳以上の高齢者層で再び増加してきている。平成23年の肺炎死亡者数は125万3463人で前年より5万6451人増加し、平成20年からは死亡数の約3分の2を占めるようになった。肺炎による全死亡者数の95%が65歳以上でその内、肺炎球菌を原因とする死者は約30%を占めている。肺炎球菌は約3~5%の高齢者では鼻や喉などの常在菌でもあるが、何らかのきっかけで気管支炎、肺炎、敗血症などの重い合併症を起こすことがある。近年では多剤耐性肺炎球菌が増えており、治療困難例の増加が問題となっている。このような状況下で23価肺炎球菌ワクチンが、2014年10月1日より高齢者への定期接種となり公費補助がなされることとなった。定期予防接種となった23価不活化ワクチンは、接種1回で93種類の血清型がある肺炎球菌のうち、症例の8割をカバーするとされる23種に対して免疫を獲得できるという。この23種類の血清型は、成人の重症肺炎球菌感染症の原因の約7割を占めるという研究結果がある。このワクチンは薬剤感受性に影響されないため、多剤耐性肺炎球菌に対しても有効であることが大きな利点とされている。20年も前の季節の変わり目の9月、風邪をひいた。それほどの熱が出るわけでもなかったのだが、軽い咳がずっと続いていた。12月になって、娘が居住するパラオへ餅などの正月用品を持って出かけついでにロングビーチの無人島で体験ダイビングをした。ダイビングの際ボンベを背負うが、ボンベの中身は酸素では無く圧縮エアーが詰まっている。このエアーが至極乾燥していて、咳が出ていた喉には極めて悪い影響を与えた。帰国後、乾性の咳が昼夜を分かたず連続して出るようになってしまったのである。1月末になって主治医を受診して感冒の薬を処方して貰ったのだが、一向に治まらなかったこともあり、懇意にしていた医師に頼み込んでリン酸コデインを処方してもらった。鎮咳効果は抜群であったのだが、それまで喉でイガイガしていた感じがとれその代わりに右肺に異物が落ちたような感じがした。その2日後から40℃を超える高熱が出て、3日ほど飲まず食わずで寝ていたのだが、高熱を押して何とか主治医を受診すると既に胸膜炎を起こしていて、右肺には水が溜まっていることが判明した。直ちに国立病院を紹介され入院となったのだが肝臓・腎臓・膵臓・心臓などが機能不全寸前で後数日遅ければ命にかかわったかも知れないと告げられた。肺穿刺して貯溜した滲出液を採取して原因菌を特定したいとの申し出は痛そうだったので拒否し、カルバペネム系抗生剤を点滴投与してもらった。幸いパニペネム・ベタミプロンが著しい効果をあげ、21日も入院したが胸の痛みの消失とともに4か月も続いた咳も出なくなった。幸いこのときの肺炎・胸膜炎には卓効があったが、薬剤耐性菌による肺炎であったならばもっと苦しんだに違いない。23価不活化ワクチンは、稀にアナフィラキシー様反応・血小板減少・ギランバレー症候群・蜂巣炎様反応等の重い副反応が出現するとされる。過去5年以内に再度接種した場合初回接種よりも副反応の出現頻度が高く、程度も強く発現するとの報告があるので接種歴を必ず申告する必要がある。昭和26年度の対象年齢に入ることから、保健所を通じて勧奨の通知が9月下旬に届いたので早速ワクチン接種を受けた。注射針を刺す際の痛みは、インフルエンザワクチン接種と同じで殆どない。今回に限り4100円の公費補助が出るので、自己負担は4000円で済む。ワクチン接種は万全とは言えないが、後数年は細菌性肺炎を発症する確率はかなり低くなったのではないかと思っている。
2014年12月26日

来年の干支は、「乙羊(きのとひつじ)」である。干支の干は十干のことで、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類がある。古代中国では、10日を1旬と呼んでおりこの繰り返される日にそれぞれ名前を付けたのが十干の始まりである。十二支は木星が約12年で天球を一周することから天空を12等分し、それぞれの方角に動物の名をつけたのが始まりとされる。この十干十二支を組み合わせたものが、干支である。甲(きのえ)と子(ね)を組み合わせた「甲子(きのえね)」から始まり、「癸亥(みずのとい)」までの60種類がある。60年後に干支が一巡して、同じ干支が巡って来るのが還暦である。因みに来年は、32番目の「乙羊(きのとひつじ)」である。後漢の章帝の時に記された漢書律暦志で、未は昧曖(あいまい)の昧と記され植物が茂って暗い・果実が熟した状態を指すとされている。味は後になって、覚えやすくするため動物の未の字が使われるようになったものという。未は象形文字で、木の枝葉の茂った様を表している。羊は祥に通じ、中国の吉祥動物の一つとされる。群れをなすところから「家族の安泰」を表すとされ、いつまでも「平和」に暮らすことを意味している。未年生まれの人は「穏やかで人情に厚い」とされ財テクの才能があるとも言われ財を成すのに向いているとされる。未は干支の8番目に当たり、十二支に当てはめた場合旧暦の6月にあたる。未の刻とは、午後2時を中心とする約2時間のことである。骨の出土などもないことから、家畜として飼育されることはなかったものと考えられている。そのため日本では、古名に羊の名前は出てこない。ずっと時代が下がって中国から渡来した動物に名を付けるとき、十二支の干支から取って未(ひつじ)としたものと言われる。国学者谷川士清(1709~1776)の古語・雅言・口語を広く集め出典と注釈を付けた五十音引きの辞典「和訓栞」では、「未の刻とは真昼の太陽が西の空に沈む時のことで、日の辻といい、この「日辻」がヒツジの名前の由来」とされている。中国北部に、羌(キョウ)と呼ばれる遊牧人がヒツジを放牧していた。羌の文字は「羊と人」を合わせて羊飼いを表した字である。羊はヒツジの頭部を描いた象形文字で、角を良く表している。また羊肉は古代から重要な食料であったことから、「羊と食」を合わせて養という字ができた。ヒツジの姿はやさしく堂々としているというので、「羊と大」を合わせて美という字ができた。美は羊が丸々と太って、美味しそうである様子からできた字である。同じヤギ亜科のヤギは木の芽や皮も食べるが、羊が食べるのは専ら草のみである。外敵のいる地域のヒツジは非常に群れたがる性質をもっているので、群れから引き離されると強いストレスを受ける。しかし捕食者がいない地域の在来種は、強い群れ行動をおこさない。危険に対する防御行動は単純に危険から逃げる以外の手段を持たないが、追い詰められると突撃したり蹄を踏み鳴らして威嚇する。ヒツジは非常に愚かな動物とのイメージがあるが、ヒツジの知能はウシと同程度で人を記憶する能力のあることが明らかになっている。群馬県安中市には昔このあたりを治めた伝説の豪族、多胡羊太夫と天児屋根命を主祭神にした神社があるがこの地に羊の存在や飼育記録は確認できない。599年に推古天皇に対し百済から朝貢物として羊2頭、820年には嵯峨天皇に対して新羅から黒羊2頭、903年醍醐天皇に唐人が羊を献ずとある。その他の記録も含め何度か羊が渡来した記録はあるが、その後家畜として飼育された記録はない。日本に家畜として遅くまで定着しなかったのは、仏教の影響から肉食が忌避されたことも理由の一つにあったのではないかと思われる。文化2年(1805年)に長崎奉行の成瀬正定が羊を輸入し、唐人を使役して肥前浦上で飼育を試みたが失敗したとの記録が残っている。幕府の奥詰医師であった本草学者の渋江長伯は、文化14年(1817年)から巣鴨薬園内で羊を飼育し、羊毛から羅紗織を試みたので「綿羊屋敷」と呼ばれていたという。開国によって多くの品種が持ち込まれたが、日本の湿潤な環境に適合できず多くは定着しなかった。1875年(明治8年)に大久保利通によって下総に牧羊場が新設され、これが本格的にヒツジが飼育された最初とされる。日本では生後1年未満をラム(lamb、子羊肉)と呼び、1年以上をマトン(mutton)と区別する。羊肉特有の臭みは脂肪に集中するため、マトンの臭みを取り除くには、脂肪を取り除いたり香りの強い香草と共に炒める・牛乳に漬けておく等の方法をとる。山荘の谷川沿いには沢山のオニクルミの樹があり、リス等の格好の食糧となっている。樹下には、穴のあいた胡桃の殻の山がうず高く積み上げられている。葉がすっかり枯れ落ちた今の時期、鬼胡桃の若い枝先の冬芽の下の葉が着いていた痕に見事な羊の顔が現れる。風船葛の種子は目を描くとまるで猿の顔に似るのだが、オニグルミの葉の跡の模様は何も手を加えなくてもそれらしく見え自然のいたずらの見事さに改めて吃驚させられる。
2014年12月25日

三列目中央マッサンこと竹鶴政孝(博物館) モデル松島栄美子(博物館) ポツトスチル(白州醸造所)竹鶴威ニッカウヰスキー元社長が17日、老衰により死去した。90歳だったという。ニッカウイスキー創業者竹鶴政孝の甥だが、20歳で政孝の養子となったので戸籍上は長男である。1934年(昭和9年)マッサンこと政孝は、北海道余市に「大日本果汁株式会社」を設立した。後に略称「日果」を、カタカナにして社名とした。NHKの朝ドラ「マッサン」の平均視聴率は20%を超える数字が出ていて、録画して見る人も含めるとかなりの高視聴率を維持している。国産ウイスキーを初めて世に出したサントリーの創業者鳥井信治郎の物語では無く、そこで働いていた竹鶴政孝の物語である点が面白い。政孝は明治27年、造り酒屋の9人兄妹の三男に生まれた。兄二人は酒造業を嫌って、別の道に進んだ。政孝も家業を継ぐことなく、家を出てウイスキー醸造の道に一生を捧げた。昭和年代まで葡萄酒を除いて、日本の洋酒は全てが模造品であった。政孝は洋酒メーカーの摂津酒造に入社後、社長の命令で単身スコットランドへ留学し日本人では初めてモルトウイスキーの製造技術を学び、「万年筆とノートで英国の財産を持ち出した男」といわれ、しかも英国人のリタまでも嫁にしてお持ち帰りした。山荘の近くにサントリー白州醸造所があり、工場見学自由で見学の後には15分ほどの試飲タイムもあって銘柄「白州」のウイスキーの試飲ができる。手軽なので山荘へ客の訪問があるたびに、白州工場を案内することにしている。この工場にはかなり立派な「ウイスキー博物館」があって、展示物や説明でサントリーのウイスキー作りの歴史が分かるように工夫がされている。この博物館を見る限り、「マッサン」は大体事実に基づいてドラマが作られていることが分かる。サントリーの社名については自分のことを「鳥井さん」と呼ばせ、そこから「サントリー」になったとの風説がある。実際には当時寿屋の主力商品であった「赤玉ポートワイン」の赤玉が、太陽をイメージしたもので太陽のsunに鳥井をつけて「サントリー」の商標としたと説明されている。赤玉ポートワインを売り出すのに、当時としては画期的なヌードポスターが作られ大いに話題となった。モデルの松島栄美子は破廉恥にも公衆の目に素肌を晒したとして、家族から勘当されたというが昭和58年4月7日90歳の長寿を全うし大往生したと伝わる。大正13年に京都山崎の地で、ウイスキー工場の竣工式が盛大に行われた。昭和4年にはわが国最初の本格ウイスキー「白札サントリー」がその後、普及品の「赤札サントリー」が売り出された。昭和5(1930)年に政孝の遠縁の女性が出産後すぐに亡くなり、乳児院に入っていた房子(改名してリマ)を養女として引き取った。さらに昭和20年には、竹鶴の甥・威を養子に迎えた。ウイスキーの売り上げが芳しくなかったこともあって起死回生を図るために、鳥井は昭和三年に競売に出された「日英醸造」の横浜ビール工場を買収し竹鶴が工場長を兼任をすることになった。竹鶴は大恩ある鳥井と袂別した理由としてこの処遇に大いに悩んでいたところ、1933年11月竹鶴に相談無く突然ビール工場を売却したことや、入社10年の節目でもあることから退社を決めたのではないかと伝わる。竹鶴は退社後余市に進出してから当初リンゴジュースのみを作っていたが、やがてこの地でニッカウイスキーの醸造を始めることになる。現在はアサヒの完全子会社となり、傘下でウイスキー作りを行っている。大卒就職後最初に赴任した地が東京北区であり、その地に寿屋傘下の「東洋果汁」があった。監督官庁として年に数回も工場への出入りしたため、その後府中競馬場裏手に立ちあがったビール工場へも一早く見学の招待を受けた。多少とも縁があったので、今のところサントリーのウイスキー作りがメインとなっているドラマの翌日のストーリーの展開が待たれるところである。
2014年12月24日

ジャガイモの皮の表面にある窪みが、芽である。この芽には、休眠芽と言われる休眠期間がある。この期間の間は温度や水分条件等の環境条件が整っても、発芽が開始されない。この発芽が開始されない期間を、内生休眠期と呼ぶ。20℃において休眠状態でいる期間を内生休眠期といい、完熟芋では60~140日である。内生休眠期間の長短は、品種によって大きく異なる。アンデスレッド・インカのめざめ・インカゴールド等は休眠期が短いので、貯蔵には向かない。休眠期間が過ぎ外部の環境条件が整えば、芽が動き出し萌芽してくる。内生休眠が解除された後であっても、2℃程度の低い環境で貯蔵すれば芽は伸びない。この状態を「外生休眠」または、「強制休眠」といっている。品種により内生休眠の期間が異なるので、長期保存のためには休眠期間が長い品種を選んで栽培する。内生休眠の期間の貯蔵には低温は必要でなく、7℃~15℃の常温下で保存することが可能である。光に当てないようにダンボール箱や麻袋、紙袋などにいれて、または新聞紙などで包んで保存すればよい。さらに長期間貯蔵する場合には、2℃程度の低温で外生休眠の状態にする必要がある。一般に冷蔵庫は、5℃前後に設定されている。ジャガイモは4~5℃の環境下では含まれるデンプンが糖分へと変わり甘味が増すという特徴があるので短期間の貯蔵には良いのだが、外生休眠を起こすには温度が高すぎる。さらに庫内の乾燥によって水分が抜けやすいので、長期間の保存に冷蔵庫は向かない。ジャガイモは冷凍保存すると水分が凍ってしまい、解凍してもおいしくない。冷凍保存する場合は、煮る・蒸すなどの加熱調理を行ってから保存する。休眠現象には種々の植物ホルモンが密接に関係しているので、ホルモン様作用を有する物質を加えることで休眠を人工的に制御し、貯蔵特性を変える方法が考えられている。エチレンガスを放出するリンゴを入れたり、抗ジベレリン剤などの利用が考えられる。外生休眠の打破は、日光と20℃程の外気に晒されることで起きる。ジャガイモはソラニンやチャコニンなどのアルカロイドを含有しており、扱いを間違えると中毒を起こすことがある。植物由来のアルカロイド物質であるグリコアルカロイド(糖アルカロイド)の一種で、ジャガイモ中のグリコアルカロイドの約95%はα-ソラニンやα-チャコニンである。グリコアルカロイドはジャガイモの全草に含まれるが、芽に一番多く含まれる。通常イモには7.5mg/100程度のソラニンやチャコニンを含んでいて、そのうち3~8割が皮の周辺にあるが、光に当たってクロロフィルが生産されて緑色になったところでは100mg/100g以上のソラニンやチャコニンの含有量になると言われる。ジャガイモに光が当たったり傷ついたりすると、ジャガイモ中のグリコアルカロイドが増える。さらに光に当たると、クロロフィルが溜まって緑色に変化する。ソラニンやチャコニンを増やさないためには暗く冷涼な場所で貯蔵し、調理時に芽や皮をきちんと取り除くことで中毒を防止することができる。ソラニン・チャコニンの中毒症状は、嘔気・嘔吐、下痢、腹痛、頭痛、目眩などである。2013年6月11日大阪府内の小学校で、調理実習のジャガイモを食べた24名のうち4名に腹痛、下痢、吐き気等の症状が出た。残っていたものから50mg/100gのソラニンやチャコニンが検出された。2010年7月16日には都内の中学校で、生徒が自分達で育てたジャガイモを茹でて皮付きで食べ、1時間後に29名のうち9名に気分が悪い、嘔吐、頭痛等の症状が出た。残りの茹でジャガイモを分析したところ40mg/100gのソラニンやチャコニンが検出された。我が家の菜園では例年収穫期になるとイノシシの食害を受けて、殆ど全滅状態になる。これを防止するために昨年から電気柵を設置したところ、今年は全く被害を受けなかった。今年は120kg以上も収穫し、親戚や知人に分けたのに手元に80kgも残った。収穫3か月を過ぎて内生休眠期が過ぎた10月の終わりに、一度ジャガイモの芽掻きを行った後段ボールにリンゴと同梱してリンゴから出るエチレンガスの効果を期待していたのだが思ったほどの効果はない。12月下旬になって、再び萌芽してきた。ソラニン対策よりも、萌芽することでイモの栄養が消費されどんどん柔らかくなってしまう。4月末まで貯蔵し利用するために、二度目の芽掻きをしたところである。
2014年12月19日

永保元年(1081年)に制度としての二十二社が確立したとされ、これらの神社は国家の重大事や天変地異に際し朝廷から特別の奉幣を受けた。京都八坂神社はこの二十二社の一社で、全国に2,300社あるといわれる八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社の総本社である。通称「祇園さん」とも呼ばれ、祇園祭(祇園会)で知られる。9世紀より続くというこの八坂神社の際例は夏の風物詩となっており、7月1日から1か月間にわたって行われる長い祭である。西楼門は交通量の多い東大路通りに面していて、重要文化財の朱塗りの門が周囲の緑に良く映えている。八坂神社は京都盆地東部、四条通の東の突き当たりに鎮座する。公共交通機関を利用して参拝に来た多くの人はこの門を潜って入るので、此の門を通る参拝者の数は多い。八坂神社にはこの西楼門の他に、表門である南楼門の二つの門がある。境内東側には、しだれ桜で有名な円山公園がある。「祇園の夜桜」として知られる枝垂桜は「一重シロヒガン枝垂桜」の二代目で、初代は昭和22年に樹齢220年で枯死した。初代の種子から育てられた桜が樹齢約80年を数える大木になったのだが、枝先が枯れ込んで寂しい樹形となっている。さらに円山公園の左隣りには、日本寺院の三門(山門)のなかで最大の二階二重門は補修中のため丸太の足場が組まれていて見ることはできないが、日本有数の大きさを誇る梵鐘や忘れ傘で有名な知恩院が隣接していることもあって、地元の氏神としての信仰を集めるとともに観光にも多くの人が訪れている。正月三が日の初詣の参拝者数は三百万人の明治神宮には及ばないがそれでも100万人を数え京都では、伏見稲荷大社に次いで第2位となっている。東西南北四方から人の出入りが可能なため、楼門が閉じられることはなく夜間でも参拝することが可能である。牛頭天王が釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされていたことから、元は祇園神社・祇園社・祇園感神院の名前で呼ばれていたものが、1868年(明治元年)の神仏分離令により八坂神社と改められた。中国では4世紀頃には神農と習合して盛んに信仰されたが、唐以降は次第に衰えた。奈良時代までには日本にも入り、蘇民将来説話の武塔天神と同一視され神仏習合では薬師如来の垂迹(すいじゃく…菩薩が衆生を救うために仮の姿をとってこの世に現れること。またその仮の姿。特に日本では、在来の神を仏・菩薩の垂迹であるとする。)であるとともに素戔男命の本地ともされた。京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰(牛頭天王・素戔嗚尊信仰)の神ともされ、全国の祇園社・天王社で祀られた。四條通りが東大通りに突き当たった所が西の楼門で、東大通りを五条通りに右折した先の左側石鳥居を潜った先が南楼門と言われる正面門である。八坂神社を紹介する記事の多くにも、西の楼門が使われている。冷たい雨の上がった早朝の境内は、祇園祭や桜の時期と比べると人の声もしないほどの静かさの中で、白無垢に角隠しの花嫁の一組が結婚式後の写真を撮っていた。
2014年12月18日

2年前天皇皇后が訪れたという日の翌日12月4日に、京都曼殊院を案内して貰った。2年前に撮影された写真では散り残った紅葉が見事であったのだが、今年は既に殆どの葉が散って庭の苔を赤く染めていた。曼殊院は天台宗の寺院であるが、珍しく山号が無い。竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院で、青蓮院・三千院・妙法院・毘沙門堂と並び天台五門跡のひとつに数えられる。他の天台門跡寺院と同様最澄(767-822)の時代に比叡山に創建された坊(小寺院)が、その起源とされる。寺伝によると延暦年最澄が、比叡山上に営んだ「東尾坊」と呼ばれた一坊がその起源とされている。その後12世紀頃に北山に本拠を移しさらに洛中への移転を経て、現在地へは明暦2年(1656年)に移転したとされる。平安時代から近世末期に至るまで北野天満宮と関係が深く、歴代門主は北野神社の別当(責任者)を兼ねていた。初代門主の是算が菅原氏の出身であったことから、菅原道真を祭神とする北野神社の創建に際し別当に任命されたとの通説がある。寺伝では8代目門主が北野神社に近い北山に別院を建て、東尾坊から寺号を「曼殊院」と改めたとされる。明応4年(1495年)頃、後土御門天皇の猶子(兄弟の子)である大僧正慈運法親王が26世門主として入寺して以降、宮門跡としての地位が確立した。元禄6年(1693)に72歳で没した良尚法親王(江戸時代前期の曼殊院の門跡)は、天台座主(天台宗最高の地位)を務めた仏教者であり茶道・華道・香道・和歌・書道・造園などに通じた教養人として当代文化に大きな影響を与えた。書院前の枯山水庭園は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名で茶人・建築家・作庭家でもあった小堀遠州の作といわれる。この庭は国の名勝に指定されていて、秋には紅葉も見事で赤と黄の美しいコントラストが楽しめ、多くの紅葉見物の人たちで賑わいを見せると言う。玄関から大書院を抜けると、緋毛氈の敷かれた広い縁側が続いている。その縁先に出ると、小堀遠州の作庭と伝わる枯山水の庭が目に飛び込んでくる。中心に滝石があり、水に見立てた白砂の中には鶴島と亀島がある。鶴島には推定樹齢400年と言われる、高さ5m超えるほどの見事な五葉松がある。鶴の形といわれているが、ハッキリと識別はできなかった。玄関を入って右の部屋の襖紙は、江戸時代の木版画で竹の絵が刷られている。そのため、竹の間と言われる。寺宝には収載されていないがこの部屋で、木彫着色「不動明王坐像」の期限付きで特別御開帳が行われていた。曼殊院は小書院を過ぎて左に回った左側に、幽霊の掛け軸が展示されていることで知られている。実は幽霊軸と曼殊院との繋がりは、ずっと新しく30年ほど前の昭和59年頃からと言う。天台宗清滝寺徳源院(米原市)所蔵の掛け軸「絹本淡彩幽霊図」は、長さが180センチもある。30年ほど前に信徒から、「家で不幸が続いたので、供養してほしい」と託されたものを、曼殊院の門主も務めていた清滝寺徳源院の先代圓道住職が、曼殊院に飾ったところ評判となってそれまであまり訪れる人がいなかったのにこの軸を見るため観光客や修学旅行生が多く訪れるようになったという。長浜市出身の、日本画家清水節堂(1876~1951)の筆による軸である。足は無く白い着物の胸元がはだけ、浮き出たあばら骨が見える。おどろの黒髪が1本ずつ細かく描かれていて、みけんには深いしわが寄り目は上を向いている。前歯は黒く欠けている。画中に表具を描く、「描表装」という技法が使われている。老婆風幽霊は表具を背にしており、一見掛け軸から抜け出したように見え今で言う「トリックアート」の立体的構図が特徴である。表具から垂れ下がる風帯は風になびき、左側の先はご丁寧にも幽霊の頭に隠されている。現在はこれと異なった、卒塔婆をバックに白い和服を着た髪の長い老女と若い女の幽霊が書かれた2本の軸が懸けられている。巧拙は別として、清水節堂の幽霊画程の迫力は無い。
2014年12月17日

ゆく年や あはれ霜除 敷松葉 万太郎敷き松葉とは、霜柱や冬の寒さから苔を護るために、苔の上に敷かれる枯れ松葉のことを言う。冬の苔庭に施工することで、風情を添える重要な目的も持っている。敷かれた松葉は互いに絡み合い、苔の上から風で飛ばされ難い。また用便の際の消音と尿が飛び散るのを防ぐために、小便器に松葉を敷く場合もある。12月の初旬に、庭園と紅葉の名所として名高い京都圓光寺を案内して貰った。今年の紅葉は例年に比べて早く始まった分、終わりも早かったようである。冷たい雨にモミジの葉は、すでに全て落葉していた。モミジの樹の下のスギコケの上には、落葉した真っ赤な葉が分厚く敷かれていた。これも恐らくは敷き松葉と同じ趣向で、庭に風情を添えるために人為的に敷かれたものであろう。その証拠には、通路の敷石や白砂の上には一片の落ち葉も散っていなかった。圓光寺は1601年に徳川家康が、伏見に創建したものという。その後相国寺山内に移り、さら1667年に現在の一乗寺小谷町に移転されたという。山門を入ると枯山水が広がり、更に中門を抜けると「十牛之庭」といわれる苔と紅葉で有名な庭がある。十牛(じゅうぎゅう)とは禅の悟りまでの道筋を十枚の絵で表したもので、十牛禅図(じゅうぎゅうぜんず)ともいわれる。一の尋牛(じんぎゅう)から、十の入鄽垂手(にってんすいしゅ)までの十画で表したものである。この図に表されている牛は人の心の象徴で、牛を悟りに童子は修行者として見立てている。中国宋代の禅僧廓庵(かくあん)禅師の描いたものが、有名である。巻子(かんす)・画帖などのほか、掛幅(掛軸)1幅に10図を描いたものもある。中国伝来の他室町時代以降の禅僧や、画人によって制作されたものも多い。神社や置物等で良く見る、童子が牛の背に乗り笛を吹く像は六の騎牛帰家(きぎゅうきか)が出典で、探し求めた牛を捕えて大人しくなった牛の背に乗り家へと向かう姿として描かれている。悟りがようやく得られて、世間に戻る姿を象徴的に表現したものである。この「十牛図」から想を得て近世初期に造られたとされる池泉回遊式庭園の真ん中に、左を向いて坐した姿の黒々とした石があり座敷からは低い軒で切り取られた空間に見事に浮かぶ。降りしきる雨に濡れた苔と散り落ちたモミジの葉、敷き詰められた白砂、庭を取り囲む竹林が静寂の中に見事に調和して、古人が楽しんだ風雅の長い歴史が偲ばれる庭でもある。 北向の 庭にさす日や 敷き松葉 荷風
2014年12月16日

ダイコンは1年中栽培され干大根・漬け物・煮物でも、また磨り下ろして或いは刺身のツマとしても利用される。英語では、Japanese radishである。特に収穫期の秋口から冬にかけては、ダイコンが美味い季節となりあって大いに利用される。葉も食べられるが食用としているのは、肥大した根で種子からは油を採ることもある。名前の由来は、大きな根を意味する「おおね」が音読みの「だいこん」になったものである。古くから利用されてきた野菜であるため多くの品種が作出されており、長さ・太さなどの形状が多様な野菜でもある。多くは白色の皮のものが栽培されているが、赤・緑・紫・黄・黒など変った色のものもある。純白をしたダイコンであることから古名は清白(スズシロ)の別名を持ち、春の七草の一つに数えられている。原産地は、地中海から中東にかけての地域とされている。紀元前2000年以上の古代エジプトで、今のハツカダイコンに似たものが食料とされていたという記録がある。弥生時代には既に我が国に伝来したとされており、平安時代中期に作られた辞書「和名類聚抄」巻17菜蔬部に「於保禰(おほね)」が見える。於保禰または於朋禰(おほね)は「古事記」や「日本書記」にも記載があり、「延喜式」には大根(おほね)と記され栽培法や利用法が収載されている。これが「だいこん」と呼ばれるようになったのは、室町時代以降と推定されている。江戸時代には板橋・練馬・浦和・三浦半島辺りで盛んに栽培され、練馬大根や三浦ダイコンは特に有名となり今でも盛んに栽培されている。世界一大きいのは桜島大根で、世界一長いのは守口ダイコンである。日本人の食卓には欠かすことのできない野菜となっている。葉にはV・Aを多く含み、ダイコンにはV・Cやジアスターゼを多く含まれる。血栓防止作用や解毒作用がある。販売されているダイコンの両側に一列に並んだくぼみは、二次根の跡である。一旦輪切りにしたものを並べて細く切ったものをせんろっぽんと言うがこの語源由来は、中国語で大根のことを「羅葡」(ルオポ)と言い、羅葡を繊維のように細く切ることから「繊羅葡」(シエンルオポ)となりこれがせんろっぽん変化したものである。生薬では羅葡子(ライフクシ)といい、健胃・去痰作用がある。ダイコンを輪切りにして柔らかく水煮したものに味付け味噌をつけて食べる料理は「ふろふきだいこん」と呼ばれる。ふろふきダイコンの名前の由来には、諸説がある。漆器の乾燥室を「ふろ」といい冬季には漆の乾きが悪くなるのだが、大根を茹でた湯気を吹き込むと良く乾く。この時、茹でた大根を食べたところこれがおいしかったことから付けられたという説。大根は整腸消化作用に優れ、ビタミンも豊富で体にいいので「不老富貴(ふろうふき)」の意味からこの名前が付いたとの説。昔の風呂は蒸し風呂の形態で中には垢擦りを業とする人がいたという。それらの人は暑くなった体に息を吹きかけて垢すりをしたと言うなどであるが、何れの説も納得できるようなぴったりした説では無い。ダイコンも茄子と同じように食材としての利用範囲が広く、どんな調理をしても恐らく食中(しょくあた)りすることは無い。三文役者も何を演じても当たらないことから付いたのが、だいこん役者の名前だという。 大根引き 大根で道を 教へけり 一茶
2014年12月15日

京都には五重塔が多くあるように感じるが実は案外少なくて、市内には東寺(国宝)・醍醐寺(国宝)・仁和寺(重文)・法観禅寺(重文)の4塔しかない。八坂の塔の通称で知られる法観寺(ほうかんじ)は、霊応山法観禅寺が正式名称である。八坂神社から570m、清水寺から660mの距離に位置しており多くの観光名所が近隣にある。塔は堂々として目立つが境内は狭く塔以外には2宇しか残らず目立った建築物がないことから、「八坂の塔」が寺の通称ともなっている。ミシュラングリーンガイドでは、一つ星に選定された。八坂という地名の由来はこの地域に祇園坂・長楽寺坂・下川原坂・法観寺坂・山井坂・清水坂・産寧(三年)坂・二年坂など多くの坂があることによるといい、また氏神様が降臨する八段の神段に由来するとも言われる。白鳳期(640~710)以前にはこの地に渡来人の八坂造(やさかのみやつこ)一族が住みつき、同族の八坂馬養造(やさかのうまかいのみやつこ)は馬の飼育に特に優れ、大和朝廷に仕かえ法観寺の造営にも関わったとされている。寺伝では、592年に聖徳太子が念持仏如意輪観音のお告げにより塔を建立し仏舎利三粒を収めたと伝わる。往時は隆盛を極めたとされるが、現在は五重塔と太子堂・薬師堂の2宇を残すのみで境内も狭い。創建時の伽藍は四天王寺または、法隆寺を倣った配置だったと考えられている。塔は高さ、46mの和様建築である。治承3年(1179年)・正応4年(1291年)・延慶2年(1309年)・永享8年(1436年)と4度も消失し、その都度再建された。現在の塔は焼失4年後の永享12年(1440)に、足利義教の援助によって再興されたものという。初層には本尊である大日・釈迦・阿閦・宝生、弥陀の如来像5体が安置され、須弥壇下の中心礎石の中央には、舎利器を納めた3重の凹孔が残っている。「山城州東山法観禅寺仏舎利塔記」(暦応元年1338年)には、聖徳太子が開基したと記されている。ひこじいさんのブログ「伝説に満ちた京都六角堂」に書いたが、現在は聖徳太子の存在自体が疑問視されており、聖徳太子が直接建立したという7ケ寺をはじめ、法観禅寺創建の伝承は信憑性に大いに疑いがある。しかし平安京遷都以前から存在した古い寺院であることは確かで、渡来人八坂氏の氏寺として創建されたのではないかとされる。現在の五重塔は15世紀に再建されたものであるが、創建時の塔跡に建てられており古代寺院特有の地下式の心礎が残っている。寺号は当初八坂寺と称されたといい、その名前は歴史書「続日本後紀」に登場する。「延喜式」には、大膳職から盂蘭盆供養料を給される七寺の一つとして八坂寺の名が出てくる。足利尊氏は北海道と沖縄を除く日本各地に寺院と仏塔(利生塔)を創建したが、都(みやこ)の利生塔としてはこの塔を充て仏舎利を奉納したと伝わる。高さ46mで東寺、興福寺の五重塔に次ぐ高さで、中心の礎石は創建当初のものがそのまま使われている。公開は不定期だが、中学生以上500円で塔の2層目まで入って拝観が可能である。夜間はライトアップされており、霊山の麓にある料亭翆紅館の座敷から一望できる。※plaza.rakuten.co.jp/yk1430/diary/201412080000ひこじいさんのブログ「幕末の志士が密議を交わした広間で」参照
2014年12月12日

大山誠一(歴史学者・専門は日本の古代政治史)は聖徳太子について、720年当時の権力者であった藤原不比等・長屋王などと共に唐から帰国した道慈らが、大宝律令で完成した律令国家の主宰者モデルとして、中国的聖天子像を描くために創造した人物像であったとして聖徳太子が存在したことを否定している。六角堂で知られる頂法寺(ちょうほうじ)は京都市中京区にある寺院で、山号を紫雲山といい本尊は如意輪観音で西国三十三所第十八番札所である。頂法寺由来によると、幼い聖徳太子が淡路島で唐櫃に入った一寸八分の黄金如意輪観音を拾って念持仏とした。ある日池で水浴をするため畔の木の枝の間に如意輪観音を置いて、水浴が終わってから手に戻そうとしたが重くなって木から離れなくなってしまった。その夜、「お前の守り本尊となってから、すでに7生が過ぎた。これからは、この場所にとどまって衆生の救済に当たりたい。」というお告げを夢で見たことからこの場所に伽藍を建てようと決めた。お堂を立てる木を探していると、老翁が紫雲たなびく杉の霊木のありかを教えてくれたので、その材を用いて六角形の伽藍を建立し、念持仏の如意輪観音を安置したのがこの寺の始まりとされる。寺号は紫雲山頂法寺だが本堂が平面六角形であることから、「六角堂」の通称で呼ばれている。六角堂の創建は寺縁起類では飛鳥時代とされているが、1974年から2年間にわたって実施された発掘調査では飛鳥時代の遺構は発見されなかった。実際の創建は、10世紀後半頃ではないかと推定されている。藤原道長の日記「御堂関白記」寛仁元年(1017)に、「六角小路」という地名が出てくる。このように六角堂の名前が最も早く出てくるのは、11世紀初めとされる。六角堂の北側に太子が沐浴したとされる池跡があり、この池の畔にあった僧坊を「池坊」と呼ぶようになったという。頂法寺は華道、池坊の発祥の地としても知られる。池坊の僧は、頂法寺の住持として本尊に花を供えることとなっており、花の生け方に別格の妙技を見せることで評判となっていたことが15世紀の記録に残っているという。以後池坊は生け花の名手として知られるようになり、わが国最古で最大の会員を持つ家元となった。聖徳太子が偶像で、創建縁起で587年とされる頂法寺創建もずっと時代が下がって推定10世紀後半とされるのであれば譬え聖徳太子が実在したとしてもこの寺を創建することなど可能なわけが無い。わが国の「生け花」が頂法寺から興ったことには違い無いとしても、「池坊」の「池」で聖徳太子が沐浴したという言い伝えは牽強付会以外の何物でもないように思われる。世に残る「…縁起」といわれるものには、後の時代になってから空想で作られた尤もらしい伝説や作話が多い。六角堂の前を通る六角通りが、京都市と福井県を結ぶ主要道路のひとつである国道367号線と直角に交わっている。何故か鐘楼は六角堂の門を出た、六角通りの右斜め前にある。
2014年12月11日

昨年9月15日からの台風18号の大雨で、桂川が増水し渡月橋の欄干まで水に浸かったのは記憶に新しい。桂川と同じように鴨川も、昔から洪水による水害をもたらす川であった。鴨川は治水が進んだ昭和になってからでも1935年(昭和10年)6月29日未明に発生した鴨川水害では死者12名・負傷者71名・家屋の全半壊482戸、37.2平方kmが浸水した。この水害では鴨川にかかる26橋のうち、五条大橋など15橋が流失している。院政により権力を思うままにした白河法皇でさえも「賀茂河の水・双六の賽・山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」(平家物語)と天下三不如意の第1番に鴨川の水を挙げていることからも、度重なる洪水に手を焼いていたことが窺われる。平安時代初期の天長元(824)年洪水による鴨川決壊の際,堤防修復と堤防を管理するための臨時職の役人「防鴨河使(ぼうがし)」が設置された。実際には、この職はあまり役に立たなかったといわれる。四條大橋の辺りは鴨川が氾濫する度に多数の溺死体が流れ着いた所といわれ、その死者の霊を弔うために仲源寺(ちゅうげんじ)が建てられたものといわれる。この寺の本尊の地蔵は今では目疾地蔵として知られ、700年以上にわたって庶民から信仰を受けてきた。今では仲源寺より、目疾地蔵の名前で知られる寺である。四條大橋から京都南座の前を通って、同じ右側150mほどの所にある。安貞2(1228)年8月の洪水の際、防鴨河使勢多為兼の夢枕に立った地蔵のお告げにより仲源寺の地蔵に祈ったところ雨が止んで洪水も治まったことから、この地蔵を「雨止(あめやみ)地蔵」と呼ぶようになった。別の由来説ではこの寺で雨宿りし雨の止むのを祈る人々が多かったため、ついた名前とも伝わっている。雨止地蔵が何故目疾地蔵と名前が変化したのかについては判じ物のようだが、「あめやみ」から「あ」が無くなって「めやみ」になったという説が有力である。この辺りに住んでいた老夫婦のうち、夫の方が目を病んで失明してしまった。ある夜仲源寺の地蔵が夢枕に現われ、「仲源寺の閼伽井(閼伽を汲むための井戸)の水で目を洗うと良い」とのお告げでその通りにすると目はもとの様に見えるようになった。地蔵の目が赤くになったのはこの時からで、地蔵が身替りになってくれたからだという。それから、目疾地蔵(眼の病を治す地蔵の意)と呼ばれるようになったと伝わっている。仲源寺は平安時代中期の仏師定朝によって開かれたとされ、当初は「畔(くろ)の地蔵」といって四条橋の東北にあったのだが、1585年(天正13年)秀吉の命によって現在地へ移されたものと伝わっている。「地蔵菩薩本願経」には、善男善女のための二十八種利益と天龍鬼神のための七種利益が説かれている。二十八種利益の中に疾疫不臨(疫病にかからない)があるので、信仰すれば眼疾にも霊験があるのかも知れない。また京の祗陀林寺(ぎだりんじ)の僧仁康(にんこう)が、疫病が流行した時、地蔵菩薩像を造り人々を疫病から救ったとある。(今昔物語巻17の10)滋賀県湖長浜市にある「木之本地蔵院地蔵菩薩」は、目疾地蔵と同じように眼病にご利益があるとされていて、27年の歳月を費やし本尊を模して造られた高さ6メートルの日本最大といわれる「地蔵大銅像」がある。
2014年12月10日

子供の頃ロープウェイやゴンドラリフトのことも含めてケーブルカーと呼んでいた記憶があるが、正式には鋼索鉄道(ケーブルが繋がれた車両を巻上機等で巻き上げて運転する鉄道)だけをケーブルカーという。リフトやロープウェイは車両が地面を離れているが、ケーブルカーは地面に敷設されたレールの上を走行する。遊園地のものは遊具として扱われ、旅館の内部のものはエレベーターとして扱われる場合がある。ケーブルカーは、鉄道事業法による免許を受けている場合が多い。英語のCable carは、軌道下で常に動いているケーブルを車両が掴むことで動き、放すことで止まるものを指し「循環式ケーブルカー」という。またイギリスではロープウェイのことをCable carと呼んでいる。日本のケーブルカーは「交走式」といわれ、これらとシステムが全く異なる。日本式のケーブルカーは、英語で「フニクラー」と称されるものである。日本でも多くの人が知っている歌に、「フニクリ・フニクラ」がある。紀元前73年に剣闘士スパルタクスが仲間とともに立て籠もったとされるヴェスヴィオ山に、1880年山頂までの登山電車が営業を始めたが当初は利用する人が少なかった。フニクリ・フニクラはこの登山電車を広く宣伝するために作られた、世界最古のコマーシャルソングともいわれる。歌は、登山鉄道に乗った男性が意中の女性に告白するかどうかなかなか決断できないでいるという内容である。交走式とはケープルの両端に車両を繋ぎ、一方の車両を引き上げるともう一方の車両が降りてくる井戸の釣瓶から連想して「釣瓶式」といわれる。釣瓶は箱に繋いだケーブルの反対に重りをつけて昇降する、エレベーターに良く似ている。交走式には、単線式と複線式がある。複線交走式では、2両がそれぞれ別の線路を昇り降りする。単線交走式のうち、2両で運行する「単線二両交走式」では中間地点を複線にして車両の行き違いをしている。日本のケーブルカーは、現在すべてがこの方式である。複線に移行する線路の分岐部(ポイント)には、電車や機関車の軌道敷と異なり可動部分がない。車両の片側の車輪がフランジ(鉄道車両の車輪の縁につけられた脱線を防ぐための出っ張り)でレールを挟む溝輪となっていて、もう反対側に着く車輪にはフランジがない構造になっているのでポイントを外部から操作することなく、溝車輪のガイドだけで複線部分に進むように工夫がされている。交走式ケーブルカーでは最も急な勾配が山上の終点付近に、最も緩やかな勾配は山下の終着点付近になるように設計建設される。車両の停止は巻上機の操作によって行われるので、停止位置に近づくにつれて抵抗が大きくなるようにすることで停止操作がスムーズに行われることになる。電力を動力源とした巻上機のケーブルで引っ張られて動くので、車両に動力のための電力は必要としないが車内照明や自動ドアなどのためだけにに、バッテリーを搭載しているかまたは架線や第三レールから電力の供給を受けている。急坂を上下するため平行四辺形状の車両を用いて車内は階段状にするか、床と車両の下方側の車輪との間を大きく空けることにより床が水平になるように工夫している。ケーブルカーでは枕木などが利用し易いため、JRなどと同じ1067mm軌間を採用しているものが多い。乗務員は車掌が前方確認のために前方に乗務しているものであり、車両には運転士は乗務せず山上の駅にある運転室で巻上機の操作をしている。乗務員が手にしている円形やクランク状をしたハンドルは、停車中に動き出すことを防止するためのハンドルブレーキで自動車のサイドブレーキの様なものである。ケーブルカーの動力のケーブルも、線路に沿って巻き上げ・巻き下ろしをしている。このケーブルを支えて、正しい方向に導く滑車は「誘導滑車」と言われる。登りの車両の後ろにはロープが無く、下りの車両の前にはロープが無い。中間地点に複線のすれ違い点を設けて、車両どうしが正面衝突しないように設計されている。日本では現在鉄道事業法による免許を受けたケーブルカーが、全国21か所で運行されている。伊勢原市の大山ケーブル駅から阿夫利神社駅に至る大山観光電鉄のケーブルカーは、大山鋼索線と言われる。標高400mに大山ケーブル駅があり高低差278m・距離0.8km・軌間はJRと同じ1067mmで、発着駅のほか途中駅があって、ここですれ違いをする。すれ違い箇所が駅となっているのは、日本では大山ケーブルだけである。所要時間は、6分である。八王子市の高尾登山ケーブルの軌道幅も同じ1,067mmで運行距離も7mしか違わないが、勾配は大山ケーブル258‰に対して高尾登山ケープルの方が608‰とかなり急峻である。紅葉の季節には大山ケーブルカーの途中駅から上下どちらの方向を見ても、見事な景色を目にすることができる。
2014年12月09日

平安遷都前の延暦元年(782)に、東山三十六峰の二十七番目に当たる霊山(りょうぜん)の麓にやがては廃寺となる東福寺塔頭東光寺が建てられたと言う。鎌倉時代になって権中納言隆良がここに山荘を建て、子の孝嗣が鷲尾家を興し代々鷲尾家の山荘として使われた。この建物からの眺望が優れており「叔阿弥」と号して、庶民の遊興や文人の詩歌・書画会などの貸席として使われた。江戸時代の「都林泉名勝図会」に現在の「翠紅館広間」と「紅葉の間」の詳細な図が載り、「洛陽の万戸、鴨川、大井川の二流、愛、嵐の峯峰、淀山崎の通船まで書院より居ながらにして見ることができた。」と優れた眺望が褒め称えられている。天保年間(1830~44)になって西本願寺の別邸となると、荒廃していた庭園を整備・書院を新築し「翠紅館」と名づけて大切な客の接待用として利用した。翠紅館から見る景色を「翠紅館八景」と題して詠んだ中の一つに、「かしこくも 君がながめにかかるとは 知るや嵐の遠山桜(嵐峡春花)」がある。※熊谷直好(幕末の歌人)西本願寺の門主が文久三年(1863)に、勤皇派の密議の場所として「翠紅館広間」と「送陽亭」の二部屋を提供した。ここに集まった志士の名前には明治の元勲正一位大勲位公爵三条実美を初めとして、土佐藩坂本龍馬・武市半平太・長州藩井上聞多・久坂玄瑀・桂小五郎・久留米藩真木和泉守などがある。翠紅館は幕末の志士たちが度々集まったことから有名になり、後にこの集まりは「翠紅館会議」といわれるようになった。「翠紅館広間」での会議の結果が明治維新に繋がったもので、明治維新の大きな役割を果たした場所である。建物は現在もほとんど往時のままの姿で残され、高級料亭「京大和」として使用されている。家内の兄妹の4人と兄妹付き合いをしている従妹が、49年前の一年の間に次々と結婚した。来年50周年になるのだが従妹の主人の肝煎で、10人全員が元気なうちにプレ金婚祝いを行うことになった。5組の夫婦の結婚50周年見届け人となった住職夫妻の計らいにより、京大和の「翠紅館広間」に祇園の舞子・芸子が入った賑やかな祝いの席が設けられた。門の入り口から男衆の先導により小砂利が敷かれた急な道を登ると玄関で、左手に翠紅館広間がある。座敷に掲げられた「翠紅館」の扁額は、三条実美の筆によるものである。この座敷は京都の町を一望できるように真西が広く開口部になっていて下には建物が無く、開けた空間の夜空に浮かぶライトアップされた「八坂の塔」と「京都タワー」を真近に眺めることができる。多くの宴席に出る舞子・芸子も、兄弟5組が揃って金婚式を迎えるような話は聞いたことも無いと驚いていた。楽しい宴は2時間30分以上にも及びお開きになって部屋を出ると、3時間前まで降っていた雨はすっかり上がって紅葉の葉の間に霊山の向こうから上がって来た月齢11.6の白い月が輝いていた。
2014年12月08日

丹沢・大山国定公園に属している大山は、伊勢原市・秦野市・厚木市に跨り1,252mの高さがある。しばしば伯耆大山と間違われるが、こちらは「おおやま」と読む。山頂に阿夫利神社本社が祀られ中腹に下社、さらにその下には大山寺がある。大山の別名「阿夫利(あふり)山」は「雨降(あふり)山」で、大山および阿夫利神社は雨乞いの神として信仰の対象とされた。その他に阿夫利神社には伯耆大山の天狗とされる大天狗、小天狗の祠があり天狗信仰も盛んであった。大山は神仏の宿る霊山として、古くから人々の厚い信仰を集めてきた。特に江戸の中期(18世紀後半)以降になると大山御師の活動によって大山講が組織され、相模・武蔵国・駿遠豆・甲信越・房総などから「鉄造の不動明王」に詣でるため「大山参り」が盛んとなっていった。大山講の名前で宝暦年間から信仰による登山が盛んに行われ、各地から大山への道は「大山道・大山街道」と呼ばれるほどに賑わいを見せた。大山詣の参詣者は白の行衣・雨具・菅笠・白地の手甲脚絆・着茣蓙(ゴザで作った合羽のようなもの)が装束で腰には鈴をつけ、「六根清浄」を唱えながら一団となって7~9月を中心に大山へと向かった。最盛期には、年間約20万人の参詣者があったと記録されている。大山への参詣者が各地から通る道は「大山道」と呼ばれ大山を中心に放射状に広がり、関東地方の四方八方の道がほぼ全て大山に通じる状況となった。さらに山麓一帯には講中を迎えるために、御師が営む宿坊や土産物店が軒を連ねるようになり大いに賑わった。しかし明治になって鉄道が開通し、次第に「大山道」という呼称が無くなり街道自体も部分的に消滅してしまうこととなった。江戸時代に整備され今も「大山道」として残る江戸赤坂門から足柄峠を経て沼津宿を結ぶ大山への参詣道は、矢倉沢往還と呼ばれほぼこの往還に沿って国道246号が通っている。大山詣を済ませた講中の信者は南の江の島にも脚をのばし、家内安全・商売繁盛・病気平癒などを祈る者も多く、大山と江の島は東国近郷近在庶民の物見遊山の二大目的地でもあった。10世紀前期に作成された「延喜式」神名帳にはすでに「阿夫利神社」の名が見られるところから、阿夫利神社の草創は8世紀前半と推察されている。大山詣では殷賑を極めたが明治元年に神仏分離令が発令されると、全国的に広がった廃仏毀釈運動の煽りを受けて大山寺は取り壊されてしまった。その跡には新たに阿夫利神社下社が建立されたため、明治18年に女坂の途中に明王院が建立され、大正4年になって観音寺と合併し「雨降山大山寺」に復したものである。雨降山(あぶりさん)大山寺は、通称大山不動と呼ばれ本尊は不動明王である。周囲を山に囲まれた谷合いに立地しているため、新緑の頃も秋の山々の紅葉も美しい。特に本堂前の急な石段の両脇に植えられたモミジは、深紅に色づいて息をのむ美しさである。この場所で紅葉は何回も見ているが、今回はかなり強い雨に打たれて散った葉が地面を赤く染めて煙った雨に幽玄な美しさを演出していた。大山詣りを題に取った古典落語、「大山詣り(百人坊主)」がある。関東三十六不動札所 第一番霊場である。
2014年12月03日

死者の霊は四十九日まではその家の棟下にいて、五十日目から黄泉の旅に出発する。死んでから四十九日目には、菩提寺に四十九個の餅を供える。その餅の一個を一日の食事とし、仏壇に供えられる水で喉をうるおしながら百日目に極楽の門に至って仏になるのだという。百一日目は仏になった故人が先祖の仲間入りのために家へ帰る日とされ、故人が無事に成仏できたお礼詣りに遺族が寺に参拝し茶湯供養を受ける。この日に供養したお茶がそれまでの水に代わって、供えられる最初のお茶になり仏壇には以後茶を供える。通称「大山の茶湯(ちゃとう)寺」は誓正山茶湯殿涅槃寺と称し九百年の伝統を継承して、「秘法百一日茶湯供養」が行われていることで知られている。涅槃寺を訪れて供養を希望する人は、戒名・死亡年月日・死亡時の年齢・俗名と施主の住所氏名・死者との関係等を記帳して茶湯供養を申し込む。寺では涅槃像に、灯明を上げ木版刷りの釈迦涅槃像と陀羅尼のお札及び湯に茶葉を浮かべたもの・紅白の菓子等を供え焼香をして「秘経」を唱える。供養の後、それぞれのお札・茶葉・供物などが施主に下げ渡される。施主は帰宅後釈迦涅槃像のお札は仏壇に納め、陀羅尼のお札は墓に埋める。それまでは仏壇に供えていた水に代えて、この日からは茶を供える。茶湯寺参りの道中では故人によく似た人に逢えるとか、故人の声が聞こえるとの言い伝えがある。多くの遺族は、それも期待して茶湯供養を受けに来たものであろう。大山には元の「石尊大権現・大山寺」の名称が示すように、多くの神社と同じ巨石信仰がありそこに仏教が入り神仏習合が進み修験道が盛んになった。しかし明治初期の神仏分離令で、大山寺と阿夫利神社に分離して今の形になった。大山茶湯寺の本尊は右手を枕にして横臥する、等身大寄木造の釈迦涅槃像である。彫刻としての涅槃像は日本には少なく貴重な作といわれ、次のような言い伝えが残っている。江戸も終りの頃この像が、茨城県磯浜(現大洗町)の漁師の網にかかって引き揚げられた。漁師が祀ってから豊漁が続いて喜んでいたのだが、ある夜涅槃像が漁師の夢枕に立って「大山に行きたい。」とのお告げを受けた。そこで像を大山の御師の家に運んで大山への運び込みの斡旋を依頼しているうちに、間もなく明治と改元され神仏分離令が発令されると大山寺は解体されてしまい像の行き場が無くなってしまった。そこで同じ茶湯供養を行っていた、麓の西迎寺に預けられることになった。そのため像には西迎寺の文字が書かれており、茶湯供養の際用いられる釈迦涅槃像の札にも西迎寺の名前がそのまま残ることになったのだという。やがて西迎寺は火災によって焼失し、同じ地域の西岸寺と合併して涅槃寺となった。大山阿夫利神社と大山不動の通称で知られる雨降山大山寺に向かう参道の右側は急な上石段もあって男坂といわれ、左側は比較的緩やかな上り坂で大山寺を過ぎるとやがて合体して一本の道になる。登りの男坂と女坂の分岐を過ぎ直ぐ左手の大山川に架かった橋を渡り、苔むした数十段の石段を登った上にある小さな寺が「大山の茶湯寺」である。浄土宗の寺だが、百一日参りは宗派を問わず供養を受け付けるという。小雨の降りしきる初冬の土曜日、入れ替わり立ち替わりに多くの傘を差した遺族が供養に訪れていた。これらの人たちが帰途、言い伝えられているように個人に似た人と会うことができるようにと念じながら道を譲った。伊勢原市指定重要文化財の涅槃像は、外から窓越しに拝観することができる。
2014年12月02日

五重塔や三重塔などの仏塔は、釈迦の舎利殿として始まったのが起源であり寺格を示すシンボルとしての意味もある。構造は中央の心柱とそのまわりの柱で支えられた空洞で、五重あるいは三重の屋根とその上に付く相輪からできている。全国には、211塔の三重塔が知られている。その内神奈川県内には、重文指定の横浜市三渓園のほか川崎市大楽寺・相模原市泉龍寺・伊勢原市浄発願寺がある。紅葉を観るために大山を目指したのだが車のナビに入れた行き先は合致していたのに、車がすれ違いできないような林道に案内されてしまった。暫く狭い道を走ると間もなく、通行止めの立て札まで出て来てしまった。あっちこちナビに振りまわされているうちに、深い谷筋の少し開けた場所に忽然と浄発願寺の三重塔が出現して驚かされた。かなり立派な塔なのだが、本堂は銅版葺きの平屋で比較的小じんまりとしている。近くにある日向薬師はかなり有名なのだが、立派な三重塔を持つ浄発願寺はあまり人に知られていない。日向山の麓伊勢原市の奥深い谷あいの山中にある浄発願寺は、400数年前に天台宗弾誓派の総本山として建立されたもので山号・寺号は、「無常山一之澤院浄発願寺」で男の駆け込み寺の別称もあった。江戸から明治にかけての全盛期には、約四十名の僧が常時修行をしていたという。夫の不身持等に苦しみ離縁を望む妻が調停不調で逃げ込んだ寺のことを縁切寺というが、江戸時代には離婚は夫からの三行半のみで成立し妻からの離縁は出来なかった。唯一仏門に入って満2年間奉公することで、女性からの離縁が成立した。駆け込み寺とは、女性が男から逃れるために逃げ込んだ寺のことで縁切寺ともいわれる。幕府公認の縁切寺には鎌倉の東慶寺、群馬の満徳寺がある浄発願寺の四世空誉上人は、幕府から罪人五十三人の払い下げを受けて仏道に帰依させ彼らと開拓を進めながら諸堂宇を建てたという。旧寺跡「奥の院」の横に続く五十三段の石段は、それら罪人が罪滅ぼしのために作ったものといわれている。「つけ火・人殺し」以外の罪人がこの寺に逃げ込んで仏門に帰依した場合その罪が許されたことから、男の駆け込み寺と言われるようになったのだという。こんな扱いが、明治末までも続いたと伝わっている。天台宗弾誓派の総本山として隆盛を誇ったものの、昭和13年の暴風雨による山津波によって浄発願寺全てが泥中に呑み込まれ壊滅したと言う。現在の三重塔と堂宇は奥の院と称される元の場所での再建を断念して昭和17年に、1kmほど下った現在の場所に新たに再建したものである。三重塔には、本尊の総高二・四メートルの木造「出山釈迦文仏」が安置されている。都会地の墓地と同じように一区画半畳ほどの狭い場所に整然と真新しい石碑が並んでいるが、この場所に行くには最も近い小田急小田原線伊勢原駅から日向薬師行きバスに約30分乗り、その後山道を約1km登らなくてはならない。新緑と紅葉をバックにした三重塔は絵になるが、車で行くにはすれ違いができないほどの道を運転しなければならず人ごとながら、歳を取ってからの墓参には苦労すると思われる場所に立地している。
2014年12月01日
全18件 (18件中 1-18件目)
1


