全22件 (22件中 1-22件目)
1

義経の愛妾静御前は元白拍子で徒然草第225段には、「多久資が申しけるは、通憲入道、舞の手のうちに興ある事どもを選びて、磯の禪師といひける女に教へて、舞はせけり。白き水干に鞘卷をささせ、烏帽子をひき入れたりければ、男舞とぞいひける。禪師がむすめ靜といひける、この藝をつげり。これ白拍子の根源なり。…」とあり、白拍子の起源は磯禅師とその娘靜によって興ったと書かれている。吾妻鏡によれば、頼朝から鎌倉の鶴岡八幡宮の神前で舞うことを命じられた静が、「しづやしづ 賤のをだまきくり返し 昔を今になすよしもがなと」義経を慕って歌った様子が詳しく描かれている。この静の名前のついた、山野草がある。ヒトリシズカと近縁種のフタリシズカである。ヒトリシズカは各地の森林の湿った樹蔭に良く見られる多年草で、頂部に対生する2組の葉を持ち4枚の葉が輪生しているように見える。ヒトリシズカには花びらがなく白いブラシのように見えるのは雄しべで、雌しべは雄しべの根元にある。別名を吉野山に舞う静御前に見立てた吉野御前、あるいは眉掃草と呼ぶ。花穂の形は、眉を掃くブラシに酷似している。2組の4葉の間から立ちあがった雄しべの姿を、鶴岡八幡宮の神前で義経を恋い偲んで舞う静御前に擬えたもので花穂が一本立つのを一人、これに対比させて二本のものを二人静と名付けたものである。14年前山荘が完成した時に植えた一株が、最初植えた木陰になる場所から脱走して日当たりの良い石段の隅を勝手に終いの棲みかと定め今では40本以上も花茎を伸ばす大株となった。昨年は5月中旬の強い晩霜で、開花中の地上部が全て黒く変色して枯死してしまい、その後何とか芽吹いたものの真夏の45日間の雨無し干天で、夏の間に早くも地上部がすっかり枯死してしまった。諦めていたところ地下に残った根茎から、奇跡的に見事に復活した。群生する花姿は「一人静」の名前や花言葉の静謐に反して、騒々しい様子で咲いている。ヒトリシズカは茶花としても人気があって、ポット植えのものが1200円ほどで売られている。 花言葉 静謐 隠された美
2014年04月30日

つい二十日前には5cmもの積雪があったのに、すっかり春めいて庭の白樺に茶色の紐がぶらぶらと鈴なりになった。カバノキ属の代表的な樹木には、シラカバやダケカンバなど日本には10種ほどある。広辞苑ではシラカバの説明の最後に、シラカンバとある。しかし標準原色図鑑全集ではシラカンバとあり、シラカバの近縁種の岳樺はどちらもダケカンバである。「白樺の小道」は淡谷のり子が、森昌子は「白樺日記」を「北国の春」の中で千昌夫が白樺を歌っているが、そのどれをとっても「しらかば」と発音している。明治の文芸雑誌「白樺」も、しらかばでしらかば派とよばれている。この違いはどちらが正しいかというよりは、要するに白樺には「ん」が入らず岳樺には「ん」を付けた方が呼び慣れていて言いやすいための違いなのでは無いのだろうか。白い樹皮をしたかばの木が、名称の由来とされる。春芽吹く頃の白樺の幹に傷を付けると、大量の樹液が吹き出す。この樹液は、人工甘味料キシリトールの原料にされる。樹液の成分にはヒトの皮膚の保湿効用があるので、化粧品としても利用されている。シラカバの樹皮はよく燃えることから、点け木としても利用される。慣れないと区別がつきにくいシラカバに良く似たダケカンバは、シラカバよりも標高の高い1500m以上に分布する。森林限界近くでは、純林に近いダケカンバ林となり森林限界を超えても低く這ってハイマツの中に混生している例もある。シラカバは明るい場所を好み、成長が非常に早く高さは20〜30mにもなる。成長が早い分木の質は脆く、外柵などに利用しても3年もすればスカスカになって崩れてしまう。雌雄同株で春15cmほどもある雄花が、枝先から尾状に垂れ下がる。雌花は短枝に4cmほどの花穂をつける。北海道や沖縄には杉や檜が無いのでこれらに依る花粉症は無いが、シラカバの多い北海道にはシラカバ花粉症の患者が多い特徴がある。カミキリムシの幼虫のテッポウムシが好んで幹に孔を穿って侵入し、大木があっという間に枯れてしまうことがある。発芽10年目頃から花を着けるようになり、秋には細かな種が風に乗って大量に飛散するので思わぬところから芽を出すことがある。この樹の下に駐車すると飛散した花粉によって、一晩で車の屋根が黄色に染まってしまう。渓あひの 路はほそぼそ白樺の 白き木立にきはまりにけり 牧水
2014年04月29日

樋口一葉の文学記念碑が建っているのは、彼女が生まれ育ち没した東京では無く山梨県甲州市の慈雲寺境内である。一葉の文学記念碑の他に慈雲寺の境内には、県指定天然記念物の樹齢350年とされるエドヒガン系の巨大な枝垂れ桜があることで有名である。私は敢て桜の時期の喧騒を避けて、既に葉桜となった4月下旬の早朝に慈雲寺を訪れた。山門の前には平成17年に塩山市が建てた一葉の案内板があり、真新しい一葉の執筆坐像があった。境内は花の時期の喧騒を忘れたように、ひっそりとした静謐の時間が穏やかに流れていた。同じ甲州市にある寺院でも、堂内でワインを売る大善寺とは異なり「不許葷酒入山門」の厳めしい石柱が建っており、さらに裏門近くの一葉文学碑の傍らにも手書きの同文が掲げられていた。思うに境内の桜を見ながらアルコールを嗜むことを禁じたものであろう。達磨が一枚の葦舟に乗って長江を渡る絵及び修行の面壁九年の故事から、日々の暮らしに困窮している自分には「お銭(おあし)がないので葦→足→銭から「一葉」という名を思いついたという話が伝わっている。一葉は幼いころから貧乏で転居を繰り返す自分の人生を、漂う舟に擬えていた。晩年の病床で「身はもと江湖の一扁舟、みづから一葉となのつて葦の葉のあやふきをしる」と雑記に書いておりこれからペンネームを着想したものであろう。樋口一葉は明治5年3月25日現在の千代田区で生まれ本名は夏子といい、戸籍名は奈津である。生活苦の中、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった文学史に遺こる秀作をわずか1年半の間に書き上げたが、24歳6ヶ月の若さで当時不治の病とされた肺結核により死去した。杉並区和泉の、西本願寺和田掘廟所に墓がある。樋口家は現在の甲州市塩山の農家であったが学問を好み俳諧や狂歌・漢詩に親しんだ祖父は、「にごりえ」の主人公の祖父として出てくる。両親は結婚を反対されため、駆け落ち同然にして江戸に出たという。甲州市塩山の出自というだけであり、一葉自身は甲州を訪れた記録はない。大正11年に行われた二十七回忌の記念として、妹のくにと縁戚の廣瀬彌七の発起によって文学碑の建造が計画され両親の出身地の慈雲寺境内に建立された。慈雲寺は670年ほど前の暦応年間に創建された臨済宗寺院で、大菩薩山麓標高570mの勝沼・石和を見下ろす桃や葡萄畑の点在する鄙びた山間にある。江戸時代末期寺内に寺小屋が設けられ近隣の子供たちに開放され、一葉の父親もここで学門を授けられた。因みに5千円札の肖像のもとになったものは、山梨県立文学館に保存されている。 (桜の画像は桜日和から転載)
2014年04月28日

県立相模原公園ニュージーランドのワイトモ・グローワーム洞窟はツチボタルが見られることで有名だが、その洞窟の入り口近くに巨大な樹があり、ツアーの案内人は必ずこの樹について質問する。杉や檜の倍以上も成長が早いことを知っており、多くのツアー客の中で一人正確に樹齢を当てたので案内人も驚いていた。この樹は今では日本でも珍しくなくなったが、生きている化石の木と言われる「メタセコイヤ」である。成長が非常に早く、この樹はアメリカから移植されたもので樹齢80年で直径1m・樹高30mを超えるほどにもなっている。メタセコイアはスギ科メタセコイヤ属の1属1種の針葉樹で、和名をアケボノスギ(曙杉)という。葉は線のように細長く、羽状に対生する。秋に美しい赤茶色に紅葉した後、落葉する。雌雄同株で日本では2~3月に開花し、雄花は枝から垂れ下がる。秋から冬にかけて無数の種が落ちる。日本各地の新生代第三紀層に、メタセコイアの化石が見つかっている。今から75年前に関西地方の第三紀層で常緑のセコイヤに似た化石が発見された。この落葉樹の化石はセコイアの後から発見されたことから、ギリシャ語のmeta(後に)をつけてメタ+セコイアでメタセコイアと命名されたものである。当初アケボノスギという和名が付けられたが定着せず、属名のメタセコイアが通り名となった。1941年に中国四川省に生き残っていることが発見されるまで、生きた樹が存在することは知られていなかった。太古の地質時代の形状をそのまま残していて、地層の中から出土する化石と同じ姿で現代にまで生息しているものを生きた化石と呼んでいる。馴染みの深いものにはオウムガイ・オオサンショウウオ・カブトガニ・カモノハシ・ゴキブリ等の動物や古代魚と言われるシーラカンス・ハイギョ・アロワナ・チョウザメのほか植物では、イチョウ・メタセコイア・ソテツ・トクサ等がある。発見から10年後の1949年に挿し木と種子を譲り受け、全国各地の公園・並木道・校庭などに植えられた。樹形は円錐形で30mを超える高さになり目立って美しいことから、公園樹として多く植栽されている。県立相模原公園にも、樹齢30年を超える100本程のメタセコイア並木に囲まれたフランス風庭園があるが、平成4年の「第9回全国都市緑化かながわフェア」の会場になった際に整備されたものである。 花言葉 平和 楽しい想い出
2014年04月25日

春の陽光の中、久しぶりに雲雀の囀りを聞きながら田園地帯をドライブ中に見事な菜の花畑に出会った。遠目にはかつての菜種の花だが、子細に草姿を見れば緑肥と景観用に栽培される「シロカラシ」の花である。この場所には満開の菜の花を見に来る人の姿も無く、景観用では無く緑肥としての栽培であることが分かる。「菜の花」や「菜っ葉」の菜は、「茎などを食料とする草本類の総称。今は主としてアブラナ類の植物、即ちアブラナ・コマツナ・シャクシナ・ハクサイ・キョウナなどをさす。あおな。―広辞苑」と出ている。したがって「菜の花」とはアブラ菜類に咲いた花という外に、アブラナ科の花を食べる植物という意味もあり食用には花序や若芽が利用される。在来種アブラナ系では蕾のついた頭頂部を、セイヨウアブラナ系では蕾が無い脇芽部分を利用する。セイヨウアブラナは固く筋っぽいが、在来種より苦みが少なく甘みが強い。春の田園に行けばどこでも見られた一面が黄色に広がる菜の花畑は見応えがあって、戦後の暫くは春の代表とされる風物詩であった。現在は菜種油採取用のアブラナ畑は見られなくなったが、白花を咲かせる大根以外のカブ・キャベツ・コマツナ・野沢菜などアブラナ科の野菜も黄色い花を咲かせ、菜の花畑として見ることができる。房総半島の早春に咲く花はアブラナやカブ・ハクサイなど、青森県横浜町では採油用のセイヨウアブラナ、信州下高井郡地方ではノザワナの花が多い。丈夫で川原や荒れた土地にも繁茂しているのはセイヨウカラシナで、かつて堤防強度の低下予防のため除草剤撒布をして駆除していた時期がある。植物が生産する天然の化学物質で、他の植物や昆虫・微生物に対して何らかの阻害・促進などの作用を及ぼす現象をアレロパシー(他感作用)と言っている。生のまま土壌にすき込む作物を緑肥作物といい、化学肥料の代わりとして世界的にも古くから利用され、ヨーロッパではクローバーをすき込んだ後に小麦を、アメリカではアルファルファやダイズを緑肥にしてトウモロコシを栽培していた。緑肥は粗大有機物としてだけでなくアレロパシーの効果として、有害線虫類の抑制・土壌の過剰塩類除去・病害・雑草防除等の土壌改良に有効であると言われている。緑肥作物としては、イネ科・マメ科を主体にキク科やアブラナ科等が様々な用途で利用されている。アウブラナ科では、特にシロカラシが景観・緑肥用として多用されている。花が黄色なので、別名はキカラシとも呼ばれる。シロカラシの名前の由来は、クロカラシに比べて種子が白っぽいところからとされる。菜の花は身近な春の光景として親しまれ文学や俳句・歌にも登場している。明治以降に文学作品などに登場する菜の花は、セイヨウアブラナのことであろうと思われる。菜の花や 月は東に 日は西に 蕪村花言葉は 元気いっぱい 快活な愛 競争 小さな幸せ
2014年04月24日

中国原産の柿の仲間にロウヤガキあるいは、ツクバネガキ(衝羽根柿)と呼ばれる植物がある。ロウヤガキの名前の由来は冬になっても黒くなった実がぶらさがっている姿を、老いたカラスに見立て老鴉柿或いは老人の姿に擬えて老爺柿とした漢名から来ているという。また衝羽根柿の名は、実と萼の形が羽根突きの羽根の形をしているところから付けられたものでその形を見れば一目良然である。この植物の実がなっているのを見た時感性が乏しい故なのか、とても鴉や爺には見えないが追羽根を知っている人は羽根突きの羽根にそっくりだと感じるに相違ない。ツクバネの名前が付いた植物には、ビャクダン科の半寄生の落葉低木で山地に生え初夏枝先に淡緑色の小花を咲かせ、果実にある4枚の苞が羽根突きの羽根に似ているところからツクバネウツギと呼ばれるものがあり、その他にも20cmほどの茎の上に4枚の葉が輪生し中央に1個の花を着ける花の形が似ているところからツクバネソウの名前のユリ科の植物がある。ペチュニアの別名は、衝羽根朝顔の名前で呼ばれる。ロウヤガキは4月頃に花芽を着け5月に花が咲き、10月に実がなる。4cm程の大きさの果実は液果で小さく尖った楕円形をしており、熟すと橙に色付いて見応えがあり美しい。雌雄異株で受粉しなくても着果するが、その場合果実に色が着く前に落果してしまうので実を観賞するには人工授粉をする。小さくて渋いので食用にはならないが、盆栽や庭木としての観賞価値が高い。日本へ導入されたのは比較的新しく、70年ほど前とされている。種の採り蒔きでも容易に芽を出すが、ひこばえを根が付いたまま掘り出し植えることで簡単に殖やすことが可能である。樹種は強健で暑さ寒さに強く、昼夜の気温差が大きい場所にも育つ。日当たりが悪いと実が着かないので、鉢は1年中日当たりと風通しの良い場所に置く。地植えでも、株全体に日光を当てるための剪定作業が必要である。柿の仲間は隔年結果性があるので裏年にも実を成らせるためには、春から秋にかけてリン酸やカリ分を多く含んだ緩効性の化成肥料か、骨粉入りの固形油粕の置肥をする。 花言葉 幸せな家庭秋になって葉が落ちると、朱色に熟した実が驚くほどの鈴なりになって見えるところからの連想から付いたのであろうか。
2014年04月23日

「春の小川」は、1912年に発表された高野辰之作詞の文部省唱歌である。初版は♪「春の小川はさらさら流る。岸のすみれやれんげの花に、にほひめでたく、色うつくしく咲けよ咲けよと、ささやく如く。」と文語体であったが、2回改変されて♪「春の小川は、さらさら行くよ。岸のすみれや、れんげの花に、すがたやさしく、色うつくしく咲けよ咲けよと、ささやきながら。」と口語体に改変された。この詞のように小川の氷が解けて雪解け水で勢いを増す頃の小川の土手には、スミレや田に栽培する時にこぼれた種から芽を出したレンゲの花が咲き始める。レンゲの開花時期は、4月初めから約1か月である。蓮華はハスの花を指すので、レンゲソウというのが正式名称であろう。鍋料理や中華料理で使われる陶製の匙のこともレンゲと呼ばれるがチリレンゲが正式名称で、この食器を散った蓮の華の一枚に見立たてたものである。日本へは17世紀ごろに中国から渡来し、明治以後になって急速に栽培が広まった。「蓮」に似た花を咲かせることが、名前の由来である。げんげと呼ぶ場合もあるが「れんげそう」が転訛したものともいわれる。マメ科植物のレンゲソウは根に根粒バクテリアが共生していて空中窒素を固定するので、栽培して土に漉き込むことで緑肥として利用されたものである。以前は稲を刈り取った後のどこの田んぼでも栽培されていたが、今は栽培面積が激減して目にする機会はほとんどなくなった。漢字では「紫雲英(げんげ)」と書く。蒲公英(たんぽぽ)と同じ英で、一面に咲いている花を遠くから見ると紫の雲のように見える英(はな)ということを意味する。レンゲの花は千葉県大多喜町が有名であり、山梨県昭和町紙漉阿原区では今も緑肥として栽培され町の花に指定している。相模川に架かる昭和橋の下流左岸と段丘の間にはかなり広い田畑が広がっていて、その中の数枚の田には一面にレンゲの花が咲いていて、子供の頃に見た情景を見るようである。春先の若芽をおひたしに、花は天ぷらにして食用にもされる。レンゲが詠み込まれた言葉に、「手に取るなやはり野に置け蓮華草」がある。播磨の俳人滝野瓢水が遊女を身うけしようとした友人を諌めるために詠んだ句とされ、「野原の自然の中で咲いているから蓮華草が美しく見えるのと同じように、遊女は色街にいるからこそ美しく見えるのだ」という意味。 親牛も 子牛も つけし げんげの荷 素十花言葉 心が和らぐ 私の苦しみを和らげる 感化
2014年04月22日

永禄12年(1569)の武田信玄小田原攻めで、支城である八王子滝山城を攻め廿里古戦場において北条氏照軍を打ち破って三増の戦いにも大いに貢献したのは、岩殿城主(大月市)小山田信茂であった。三増合戦での勝頼は最前線で北条陸奥守と対峙し、小山田信茂は信玄の最右翼真田の左に陣立てしている。信茂は元亀4年(1573)に信玄が死去すると勝頼に仕えた。僅か9年後には主を裏切り、武田氏滅亡を早め自らも命を絶たれることになるとは夢にも思わなかったに相違ない。天正10年(1582)2月、織田信長の甲斐への侵攻が始まると、武田勝頼に新府城から居城の岩殿城に逃れるように勧めた。しかし入城を目前にして裏切り、勝頼一隊を郡内に入れず滅亡へ追い込んだ。その後嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁を試みたが、叶えられず主を裏切ったとして同年3月27日信茂は甲斐善光寺で長男とともに処刑された。44歳であった。(甲乱記)。信玄は8月24日に2万の軍勢を率いて甲府を出、北条支城の滝山城(八王子市)を落とし37日後の10月1日には小田原城を取り囲んだ。しかし攻めきれず城を包囲したのみで、10月5日に城下に火を放っただけで引き上げた。信玄が死去する4年前のことである。北条側は後詰めであった北条氏照・氏邦の軍勢2万が三増峠(現相模原市緑区)に迎撃の陣を構え、さらに北条氏政が2万の兵を率いて前後4万の兵で退却する2万の武田軍を挟撃するべく計った。小田原を出た翌6日には早くも、武田軍と北条氏照・氏邦の軍が三増峠で対陣することとなった。「風林火山」の言葉通り武田隊が余りにも早く三増峠に到着したので、氏政本隊の到着前ではあったが奇襲攻撃を仕掛けようと謀った。斥候からの報告に依り北条の動きを知った信玄は、部隊を3隊に分け一隊は北条軍の攻撃を正面で受け他の2部隊は山中に隠れ横から急襲する作戦を採った。2日後の8日に両軍は本格的な交戦を開始し、緒戦は北条軍有利に経過した。しかも武田軍は鉄砲隊の銃撃で、左翼を固めていた重臣の浅利信種や浦野重秀が討ち死にするなど大きな損害を受けた。しかし三増峠南西約1kmにある志田峠に待機した別働隊の、高所からの奇襲を受けた北条軍は総崩れとなり武田軍が大勝することとなった。小田原から追撃してきた北条の本隊2万は、荻野(厚木市)まで来ていたが味方の敗戦を聞いて進軍を中止してしまった。最初の作戦どおり氏政の部隊が進軍していれば、挟撃された武田軍は大敗した可能性もあった。富士川の合戦で平氏の軍は、富士沼に群がっていた水鳥の飛び立つ音を源氏の大軍が押し寄せたと勘違いして戦闘意欲を失い我先にと遁走した。(吾妻鏡)三増合戦にも、これと似たような話が二つ伝わっている。北条軍の追い討ちを受けた武田軍の一部が撤退する途中、蕎麦畑の花を海と見誤り敵国深く踏み込んでしまったと勘違いした兵は最早これまでとその場で自刃した。以来この村では、蕎麦を作らない。一方敗れた北条軍の落ち武者が山中を逃走中、トウモロコシを収穫した後の林立した茎を武田軍の槍の穂先と見間違え最早逃げられないと自刃して果てた。以後この土地では、トウモロコシを作らない。三増合戦は勝負に高低差が大きく作用した戦いで、戦国時代最大規模の山岳戦として知られている。町の史記の「陣立て図」では後から着いた武田隊が西に陣を敷いているが、どのように北条軍の陣を越えて行ったのか不思議である。この合戦で4000人を超える死者が出たとされており、この死者の霊を慰めるために毎年秋には町を挙げての「三増合戦まつり」が開催されている。
2014年04月21日
唱歌「蝶々」は、ドイツの古い童謡「Hänschen klein(幼いハンス)」が原曲であることが定説となっている。この曲が米国に伝わると「Lightly Row(軽く漕げ)」という題の童謡となり、19世紀始めには全米に広がって多くの人に知られるようになった。明治8年から3年間米国へ留学した教育学者の伊沢修二が、この歌を日本へ紹介したとされている。その際誤ってこの原曲がスペイン民謡であるとして紹介したので、永い間わが国ではスペイン民謡とされてきた。その曲に国学者野村秋足が、愛知県岡崎市一帯で歌われていたわらべ歌をヒントにして作詞したとされ、1881年の小学唱歌集に「蝶々」の題で掲載された。♪てふてふ てふてふ。菜(な)の葉(は)にとまれ。なのはにあいたら。桜にとまれ。さくらの花の。さかゆる御代(みよ)に。とまれよあそべ。あそべよとまれ。…小学唱歌集 初編(1881年)第十七蝶々この詞の二番は東京師範学校の音楽教師で「蛍の光」を作詞した稲垣千頴の作で、1896年に発行された新編 教育唱歌集では3・4番も追加されたが作詞者不明である。一番で蝶、二番以降に雀、蜻蛉、燕が歌われていたが、戦後の昭和22年の「一ねんせいのおんがく」では野村の作詞を改作し2番以下が廃止された。私は最後の「国民学校」入学生であったため、教科書の表記は「てふてふ」であった。この歌で歌われる蝶は菜の葉に集まるところから、モンシロチョウであることに間違いはない。モンシロチョウがキャベツや菜の花に集まるのは、葉に卵を植え付けるためである。大きさが同じで黄色のモンキチョウの幼虫はモンシロチョウとは異なり、アカツメクサ・シロツメクサなどさまざまなマメ科植物を食草としているのでアブラナ科の植物を食害することは無い。桜の葉はモンシロチョウの食草では無いので桜の葉に集まることは無いが、羽根を休めるために止まることは考えられる。この歌は、春になって菜の花や桜の花などが咲き乱れている風景の中で優雅に飛ぶモンシロチョウを表現したもので、桜に集うか否かを理詰めで解明することを必ずしも必要としない。歌に唄われると誠に愛らしいモンシロチョウだが、アブラナ科の作物を栽培する人にとっては最大の害虫である。奈良時代に大根の栽培と共に日本に渡ってきたと言われるモンシロチョウだが、うっかりすると大発生する青虫の食害で作物の葉が瞬く間にレースのカーテン状態にされてしまう。4月も中旬を過ぎると、畑の上を対になってひらひらと飛翔するモンシロチョウが目につくようになる。春先に植えられたキャベツ・ブロッコリーや小松菜などを子細に観察すると既に葉裏に卵が産みつけられている。家庭菜園程の作物なら青虫を物理的に捕殺除去することも可能だが、専業農家では殺虫剤による化学的排除が必要であろう。
2014年04月18日

朧月とは霧や靄(もや)などに包まれて、柔らかくほのかにかすんで見える春の夜の月のことで、春になって空気中に含まれる水分が多くなるとぼんやりとして見える月を表わす言葉である。俳句では、春の季語である。「ろうげつ」とも。 人黒し 朧月夜の 花あかり 子規文部省唱歌の「朧月夜」の一番の歌詞は、♪菜の花畠に入り日薄れ 見わたす山の端霞ふかし 春風そよふく空を見れば 夕月かかりてにおい淡し。二番では、♪里わの火影も森の色も 田中の小路をたどる人も 蛙のなくねもかねの音も さながら霞める朧月夜」と歌われる。この歌の作詞者とされる国文学者高野辰之は現在の長野県中野市に生まれ、飯山市で小学校の教師をしていた時期があった。その時見た菜の花畑の印象がきっかけとなって、この歌を作ったと伝えられている。高野の作詞した歌には「朧月夜」の他に「春の小川」、「故郷」などがある。一番の歌詞に「霞みふかし」とあるが春分を過ぎるころになると、冬の間澄みきってクッキリ見えていたのに、空気中に含まれる水分の多い日が続くようになるため山の景色が霞んで見えるようになる。現在菜の花の多くは観光・観賞用に栽培されているものが殆どだが、ナタネは戦後しばらくは水田の裏作として菜種油採取あるいは緑肥にする目的で栽培されていた。春になると文字通り、一面が黄色の菜の花畠になったものである。「蛙のなくね…」とあるので、二番の歌詞の時季は水田に水が張られた5月終わり頃の情景であろう。したがってこの一番の歌詞と二番の歌詞には、時期的なずれがある。菜種を収穫或いは菜の花を、緑肥として漉き込んでから田に水を張る。花の季節から田植えの季節までには凡そ50日近い間隔があるのだ。1年を通じて早め早めに季節を感じた方が、詩情が沸くのは不思議ではある。朧月から受ける季節感は3月下旬から4月中までで、この二番の歌詞の「蛙のなきね…」が他のものに置き換わっていたらもっとぴったりしたかも知れない。こんな朧月夜の情景を蘇東坡は「春夜詩」で、「春宵一刻値千金 花有清香月有陰 歌管楼台声細細 鞦韆院落夜沈沈」と詠んでいる。(春の宵の一時は、すばらしい値打ちがある。花の良い香りが漂い、月はぼんやりと霞んでいる。高殿から聞こえていた宴席の音曲も、おさまったようだ。中庭のブランコが微かに揺れて、今宵は静かに更けていく。)こちらも屋外でも暖かく感じられる、3月下旬から4月の夜の月を詠んだものだろうと思われる。15日の満月は、澄みきった空に煌々と輝いて冬の月を見るようで寒々しかった。一転一夜明けた昨日の夜は、文字通り朧月に八重桜の白い影が仄かに浮かびまさに「春宵一刻値千金」の風情であった。
2014年04月17日

ストレリチアは南アフリカの原産で、4種類ほどが確認されている。多くは毎年花を咲かせる多年草だが、木本のものもある。種によってかなり大きさが異なり、草丈は1mから大きなものでは10mを越す種類も知られている。属名のストレリチアは、1773年にイギリスの自然史の父とも言われたジェームズ・クックバンクスにより英国に紹介された際、その花の珍しさと美しさからジョージ3世の皇后シャーロット・ソフィア妃の生家に因んでストレリチアStrelitziaと命名された。種名のレギネーreginaeは王妃、または女王を意味するラテン語である。原産地は夏涼しく冬は霜が降りるほどまで冷える地域であるため、外観から想像されるような熱帯植物ではない。この花は滴るほどの多くの蜜を分泌し、サンバードというルリ色の鳥がこの蜜を吸いに来て授粉を助ける鳥媒花である。この風変わりな形と色彩の花の形は自生地独特の風土や植生の中で、鳥の注意を引くために進化したものとされている。最も知られている種類はストレリチア・レギネ(S.reginae)で、和名は極楽鳥花と呼ばれよく知られている。英語ではバード・オブ・パラダイスと呼ばれる。日本へは明治の初頭に入ってきた。ロサンゼルスの市花になっている。日本では植物園の温室などで見ることが多いが、霜が降りない地域では地植えで越冬開花する。切り花用として地中海沿岸やカリフォルニア、フロリダなどで多く栽培されている。日本では沖縄、静岡などで栽培される。ストレリチアの中ではもっとも知られており小型で草丈は1m~2m、茎はなく地際から葉の軸を長く伸ばしてその先端に50c前後の表面に光沢のある長楕円形の葉を付ける。円柱状の花茎を葉先より上にまで伸ばし、その先端に20cm前後のバナナ状の先端が尖った苞つける。真直ぐ伸びていた花茎の多くは、開花前に途中から直角に近い形で曲がる。苞の上部が割れて、オレンジ色の3枚の萼と1枚の青い花びらを持った極彩色の綺麗な花を咲かせる。1つの苞から、通常3~5輪もの花を次々と咲かせる。枯れた花は取り除き、咲き終わったら花茎を株元から切り落とす。春から秋の気温が高い時期は、屋外で十分日光に当てて育てる。日照不足では葉の軸が細くなって、葉全体が垂れ下がって、花付きも悪くなる。屋内で観葉植物として育てる場合も、できるだけよく日に当て丈夫な株に育てる。3℃以上あって、霜に当てなければ容易に越冬する。暖地なら、露地植えも可能である。春から秋にはよく生長するので、土の表面が乾いたらたっぷりと水を与えるが根が多肉質なので乾燥に強い。冬は、乾かし気味に管理する。 肥料は春から秋に2~3回、緩効性の固形肥料を適量与える。株が大きく成長して鉢が窮屈になったら、春から秋の間に植え替える。根が太く成長が早いので、鉢から抜けなくなることがあり2年に一回は植え替えた方が良い。考えられないほど多くの蜜を分泌するので、昨年はカーテンや絨毯に蜜の大きな染みを幾つも付けてしまった。今年は鉢下にブルーシートを敷いて、蜜の滴りを受け止めている。 花言葉 洒落れた恋 気取った恋 輝く心 輝かしい未来
2014年04月16日

小鳥の項を引くと広辞苑には、「小型の鳥。ウグイス・スズメ・ヒバリの類。」と出ている。広辞苑が定義しているのは、常に日本に居る野鳥のことだが、一般的には飼い鳥でも形の小さいインコ・カナリア・ブンチョウなどは小鳥と言われる。また季節によって渡ってきたり、山地から人里近く姿を現したりするモズ・ホオジロなどの野鳥も含めていう。 老いの名も ありとも知らで 四十雀 松尾芭蕉小鳥の図鑑や写真集では往々にして小鳥と野鳥が混同されていてカラス、鶴・コウノトリ・梟・鷺の類まで小鳥の図鑑に入れられていたりする。コトリの定義は小型の鳥であるからハトよりも小さいものの総称で、精々ムクドリ・ヒヨドリ程度までの大きさの鳥とするのが妥当であろう。小鳥の範疇には入らないが人から嫌われる鳥の代表は、カラスであろう。ゴミを散らかし、畑の作物を荒らし場合によっては民家の軒下まで入ってきて餌となるものを略奪する。牧場や動物園では、巣づくりの時期には馬や牛が毛を抜かれる。鳴き声が不吉に感じられる。其処ここにバードサンクチャリーが設けられているが、カラスを保護しているところは無い。ムクドリは繁殖の季節は必ずペアで行動し、余り人に警戒心を持たないで畑を耕す人にちょこちょことついてくる。耕された土の中から出てくる昆虫を、探しているのである。この黄色の嘴をした中型の鳥は、秋口から春になるまで大群を作って繁華街の樹木などを塒とする。数百羽の大群が夜通しギャーギャーと鳴く声は、将に騒音であり所構わず糞をするので悪臭と糞の山に街の美観が損なわれること夥しいかぎりである。カラス・ムクドリに次いで嫌いな鳥が、ヒヨドリである。カラスはとも角ムクドリとヒヨドリはぎりぎり小鳥の範疇に入る大きさであるが、とても可愛くは感じられない。従来ヒヨドリは季節によって山と里を行き来する漂鳥とされてきたが、何時の頃からか街に居付いて一年中人の身近に見られるようになった。さらに、秋口から初冬にかけて畑のブロッコリーやキャベツの葉を全て食い尽くすようになった。サラダ感覚で、花の蕾をパクパクとやる。ツバキや桜・梅の花から吸蜜する。ツバキの吸蜜では、花弁が傷つけられて茶色に変色し汚なくなってしまう。ツバキに吸蜜に来るヒヨドリは、逆立った冠羽を花粉で真っ黄色に染めている。どんなものでも食べて吸う、貪欲な鳥である。餌場では先客のメジロやツグミを乱暴に追い払う狼藉を働くので、カラスに次いで嫌いな鳥である。これから夏にかけて、早朝5時頃からヒーヨ、ヒーヨと甲高い鳴き声で飛び回る。甲高い鳴き声をあげる鳥には新顔の俄眉鳥やウグイスがいるが、こちらはある程度音程を持っていて親しみやすい。ヒヨドリの鳴き声は、ただ煩いだけである。このヒヨドリだが、ついにボケとレンギョウの花を盛んに啄んで食べる光景に遭遇した。窓越しに写真を撮っても一向に動じず、花を器用に摘んで夢中で食べている。毎年何を気に入ったのか、山荘の玄関前の槲の枝にお椀型の巣をかける。食住近接で、目の前の菜園の葉物野菜やトマトなどが餌として標的にされる。今年はどこか他所へ引っ越しをして欲しいと、願っているところである。
2014年04月15日

国道20号線の笹子トンネルを出て、甲府バイパス分岐手前左側に「Daizenji Temple」の看板標識がありその右側にあるのが大善寺である。Daizenji Templeのように日本名を英語表記するときDaizenjiで良いのではないかとの論争があって、例えば利根川はRiverを取ってTonegawaにするなど改められたと記憶している。大善寺は葡萄寺の別名があり、武田勝頼一族が最後の夜を明かしたことでも知られている。関東下知状(1310年)によると、718年に行基により開創されたと伝えられ、薬師堂は「大善寺諸堂建立炎上記」(1545年)では、971年に三枝守国により建立されたとあり三枝氏の氏寺であるという。行基が日川渓谷で修行した時夢枕に葡萄を持った薬師如来が現われたことから、葡萄を持つ薬師如来像を建立したことが大善寺の起源であり、行基が葡萄の栽培法を村人に教えたことが甲州葡萄の発祥の由来であるともいわれている。13世紀末期に成立したとされている家屋の棟単位で賦課された租税のこと棟別銭といい、棟役・棟別役とも言われ本来は臨時の課税であり朝廷や幕府によって賦課され、内裏や寺社の修繕、天皇の譲位や大嘗祭などの朝廷儀式の費用として用いられた。大善寺は鎌倉幕府が、甲斐・信濃国に棟別銭を課して本堂が再建された。1582年(天正10年)織田・徳川に攻め込まれた武田勝頼が、韮崎の新府城から3月3日に大月の岩殿城に向けて200余名の家臣と共に落ちのびる途中、この大善寺で戦勝を祈願し一夜を明かしたが、信頼していた岩殿城主小山田信茂の謀反のため翌3月31日に天目山で自害して果て、ここで武田氏が滅亡することとなった。逃避行の途中で遁走した者が多く、天目山まで随行したのはたった30名程になっていたという。理慶尼記(武田滅亡記)が大善寺に保管されており、武田氏が滅亡に至る一部始終を目撃して記したものという。国道20号の笹子トンネルを過ぎて甲府バイパスに入る手前の柏尾交差点近く、勝沼インターチェンジからは大月に向かって約3分のところに有る。甲州東郡七福神巡拝、甲斐百八番霊場、甲斐八十八霊場でもある。藤や桜の名所となっており、寺なのに800円でワインの試飲をさせている。
2014年04月14日

皐月の盆栽ブームが下火となり始めた1970年代から80年代にかけて、エビネ栽培が人気になり投機対象ともなった。この「エビネブーム」は、ウイルス感染による栽培撤退者が続出したことで終焉を迎えた。時流に流されやすい私も皐月盆栽と並行して、エビネ栽培を始めた。最初は見栄えの良いキエビネ・タカネエビネの株を購入して栽培し、次第に高価な株に手を出し通信販売で神津島からコオズエビネ・ニオイエビネ、新潟弥彦山の猿面エビネ、四国愛媛からイシヅチエビネなど高価な株を購入した。これらのエビネは、5年ほどで全てにウイルス感染して消えてしまった。地エビネは関東地方の雑木林のどこにでも自生しており、開花が5月の連休過ぎ頃に当たるため人が山に入ることは次第に少なくなる時期と重なり、人の目に触れにくいこともあって盗掘や乱獲をされてこなかった。30年前には神奈川県西部の雑木林の下には、至る所にエビネの株を発見することができた。山梨県の山荘の近くの低山を歩いても、地エビネを見ることは無いし南信州伊那谷でも見たことは無い。書物には低山の雑木林に自生すると書かれているが、自生地はかなり限定されているように感じる。購入の品種株だけでは物足らず、土地分譲のための開発寸前の山を歩いて地エビネを採集(盗掘?)した。恐らく千株以上も見つけたと思われ、庭の至る所へ植えたものを数えたら7百株を超えていた。これらの地エビネはおおよそ5種類程花の変化があって、満開になると見ていて飽きない。野生の地エビネを7百株以上地植えにしたものも、5年の間に自然に消滅してしまった。折角移植して殖やそうと思って採集した思惑とは異なって、多くの株を枯らしてしまったことは反省している。現在庭に生き残っているものは何とか鉢に残ったものを地植えにした株で、少しずつ芽が増えて今年は冬至芽が7本出ている。自生地の開花時期と同じで連休中には、花茎を伸ばして開花すると思われる。原種の地エビネが花色変化も多く、野草としての風情がある。多くのエビネが消滅したがラン類は無菌播種による人工増殖技術が確立されており、ウイルス感染個体でも種子を播くと病気の無い実生を得ることができる。 花言葉 謙虚 誠実 忠実 にぎやかな人柄
2014年04月11日

サル・猿・エテ公・猿猴などと呼ばれ、一般的に猿と言えばニホンザルのことを指している。動物園では人気者で、猿山はいつも人垣ができているほどである。人とサルの住み分けが混沌としてきた結果、サルによる農作物や果樹などの他、家屋への侵入などもあって被害が増加している。天武天皇4年(675年)に出された肉食の禁止令では、牛・馬・鶏・犬とサルを食べることを禁令が出されている。これにより日本人の一部では、サルが食料にされていたことが分かる。それより時代が下がって江戸時代になってから、江戸の町ではサルが店頭で食用として売られているとイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンが記録している。戦後サルの数が急に減少したのは、食糧難の時期に食用にされたためではないかとも言われている。熊胆と同じように、サルの胆も薬とした他に、毛皮として利用もされた。サルは数匹から多くて、70匹くらいの群れで行動し、その群れはオスが率いているように考えられるが実際はメスとその子供を中心として構成されている。オスは4~5歳になって性成熟すると生まれた群れを離れて別の群れに入ったり、オス同士の少数グループやハナレザルとなって1匹での生活を行う。群れが、70匹を超えるようになると分裂する。群れで農作物を荒らすため、被害が大きくなる。斥候のサル一匹が現れたら、その後日を経ずして集団がやってくる。交尾期は年に1回で10月~翌年1月、妊娠期間は約6か月、初産は7~8歳、20歳頃までは春から夏に隔年で1頭を出産し子の死亡率は30~50%程度と言われる。これが農作物などの餌が豊富で栄養状態が良いと、初産年齢は4~5歳と若くなり毎年出産する。子の死亡率は20%程度になると言われる。昼間に活動し、夜間は活動しない。危険な時は、高いところへ逃げる。本来は森林から離れないが、人慣れすると林縁から離れた農地にも出没するようになる。一定の行動範囲があって、20ha~3,000ha程度の範囲を周期的に餌を求めて巡回している。本来は植物が主食で、キノコ類や昆虫など動物質も食べる雑食性であるが肉や魚は食べないとされる。早朝と夕方が採食のピークで集落に出るサルは、学習して食べられるものを覚え餌の種類を増やしていく。冬場のサルは、植物の冬芽や樹皮を採食する。サルが里に下りて来だしたのは山が開発されたからとする説があるが、そうでは無く集落が結果的に餌付けをしているからだと言う。柿や栗などを収穫しないまま放置したり、作物を収穫した後食用にしないものを畑に放置することが猿を呼び込むことに繋がっているという。可愛いと思って見ているだけでは、「人間は怖くない」と教えていることと同じなので、どんな場面でも追い払うことが必要である。猿には学習能力があり餌のあった場所や、出会っても怖くない人はすぐに覚えるという。しかし嗅覚や聴覚は人間並みで、イノシシやシカに較べると劣っている。さまざまな情報は、専ら視覚によって集められている。作物のおいしい部分だけをかじって捨て、次々と新しい作物を食べていくので食べ残しが散乱する。人慣れがすすむにつれ、(1)人の姿を見ると逃げる。(2)人が遠くにいても逃げないが、近づくと逃げる。(3)人が追い払ってもなかなか逃げず、時には威嚇してくる。(4)民家に侵入する。山荘の辺りに出没する猿の群れは(3)の状態であり、時には家に入られたことも聞くことから人慣れの最終段階に近いと思われる。最低限の防御手段として収穫した作物の保管はサルの目にふれないようにし、サルがあまり好まない作物(トウガラシ・オクラ・サトイモ等)を畑の外周に植えるなど作付けの工夫をする。野菜クズや生ゴミなどを捨てないようにする。化学的・物理的な防御も試みられているが、何れも万全では無く費用対効果の面で難点が多い。白オオカミの尿だという「ウルフピー」は、350mℓで8000円以上もする。イノシシ・シカには効果があったがサルへの効果は疑問である。ヒトデを材料とした動物忌避剤も売られているが、どれほどの効果があるか疑問である。サル用電気柵は100m/341,450円ほどで売られているが、家庭菜園では実用的では無い。残念ながら現在ではサルの標的になる作物は作らないことが、猿害を防ぐ最も安価で確実な方法でもある。
2014年04月10日

椿の名前は常緑厚手の葉が光沢のある葉の、艶葉木(ツヤバキまたはツヤハキ)が由来で、古語では「ツバ」といい同じく光沢がある様子をいったものである。様々な園芸品種が作出されているが、葉がキンギョの尾のように変形した金魚椿と呼ばれる椿がある。Camellia japonica Kingyo-tsubakiが学名で、ヤブツバキ(藪椿)の園芸品種である。葉の先端が三つに分かれているのが、金魚の尾のようであることからつけられた。金魚椿の花色は桃紅色から濃赤色の一重、花は筒咲きから平開咲きまである。木は立性で葉先は名前の通り金魚の尾の形で3裂が多いが、4から5裂するものもある。金魚椿の歴史は古く江戸時代まで遡り、1789年の「諸色花形帖」に載っており、1827年の「草木奇品家雅見(そうもくきひんかがみ)」には数種の錦魚椿と梵天椿の記載とがある。金魚椿は金魚葉椿・錦魚葉椿とも言われ、葉先の変形が珍しいツバキの園芸品種のひとつである。さらには金魚葉の葉脈が浮いて、葉の上に別の葉が着く品種があってこれは「梵天」と呼ばれる。金魚椿の苗は比較的安価で挿木三年生で1,300円、挿木二年生では900円程度で入手できる。我が家の金魚椿は、45年も前に家内の実家から実生苗を貰って植えたもので8mを優に超え、二階の屋根の上まで伸びた。幹周りは45cmもあり、とっくに親木の大きさを凌駕してしまった。2月中旬から咲きだすが、今年は2月の大雪の影響からか3月に入ってから一斉に開花し始めた。赤色の濃い半開の筒咲きで、茶席の花としてもまた家の中の一輪差しに飾っても美しい。極めて結実し易く、秋から開花頃まで沢山の実を落とす。それがまた発芽率が良くて、殆どが着床して芽を出す。発芽直後の葉は葉先が3裂しないものが多いが、3年目頃から本来の金魚椿の葉になる。実生苗が不要な場合、発芽1年目に抜き取らないと牛蒡根を深く張って簡単には抜けなくなる。開花中は非常に美しいのだが、真っ赤に咲いた沢山の花が道路に椿特有の落花をし、1日何回も清掃しないと車に踏み潰されて汚なくなる。我が家の金魚椿の花は既に盛りを過ぎて、蕾の数は3割程度を残すまでなったので、今日はヘッジトリマ―と鋸を使って金魚椿の散髪をした。剪定屑は、45ℓのビニール袋8個にもなった。これで5月・9月のチャドクガの発生と、今年の種の落果が大幅に減るはずである。
2014年04月09日

2月の大雪の影響で約2週間遅れて、ジャガイモの植え付けを行った。連作をしない。食用として売られているイモや自家栽培したイモを使わないで、必ず毎年新しいものに更新する。芽掻き作業で芽を2~3本立てにする。株元に十分土寄せを行うなど、幾つかの約束事を守ればジャガイモは土質を選ばず、管理も簡単で初心者でもそれなりの収量を得ることが可能な作物である。カレー・シチュー・肉ジャガ・コロッケ・汁の実など多くの料理に利用されるほか、フライドポテトや蒸しイモでも食べられる日本人にもなじみの深い野菜である。見かけによらずビタミンCが豊富で、良質な食物繊維を持っている。成分はデンプンが主体だが、カロリーは白飯よりも低いので健康食材でもある。ジャガイモには従来から良く知られた早生種の男爵、中生種のメークイン、晩生種の農林一号などがある。なかでも食味がよく、育てやすいのが男爵である。ジャガイモは冷涼な20℃前後の気候を好み、春作と秋作の年二回収穫ができるので別名二度芋とも言われる。地方によってはコブシやジンチョウゲの花が咲いたら、植え付けると言い伝えられている。春植えには、北海道産の種イモが良いと言われている。どちらも植えつけから約100日の短期間で収穫できるので、百日芋とも言われる。17℃前後でイモを形成し、30℃以上の高温ではイモの肥大が停止する。花は淡紫色や白色で、群れて咲くとなかなか美しい。野菜作りの手引き書には植え付けの1か月前までに深耕し、1平方メートルあたり堆肥3kg、苦土石灰100gを土と良く混和し植え付け1週間前に化成肥料150gを施し、幅90cmの畝を立てるとある。植付け時の土壌水分は土を握って団子にして、それを押して崩れる程度がいい。芽は霜に弱いので晩霜にあうと地上部が黒変して枯死するが、芋自体は生きているので再萌芽する。ただし、沢山に萌芽するので芽掻きが大変になる。関東地方では春作では2月下旬~3月植えつけ適期とされるが、晩霜にあう危険性も考慮して植え付け時期を決めることが大切である。植えつけの3~4日前に、各片に2~4個の芽をつけて1片30g位に切り分ける。切断したイモは風通しのよい日陰に置き、切り口を乾かす。さらに植え付け前に、日光に当てる(浴光催芽)。長イモと異なり、切り口は15~20℃の適温では3日ほどでキュアリング(治癒)するので消毒の必要はない。昔から切り口に草木灰を付けて植える方法が採られているが、草木灰を付けることでキュアリングが遅れて逆にその後に腐敗する危険度が増える。生育期間が短いので、元肥を主体にする。畝を立てることを指導するマニュアル本があるが、私は畝を立てないで幅60~70cm間隔、深さ15cmの溝を掘り長靴の一足分の間隔でタネイモを置く。タネイモとタネイモの間に、完熟牛ふん堆肥と鶏分を一握りと化成肥料を施し、7~8cmの深さに覆土する方法で満足のいく収量をあげている。植えつけから20~30日ほどで出た芽が10~15cmぐらいのとき、勢いのよいもの2~3本を残して他を掻き取る。芽掻きを終えたら株元に追肥として化成肥料を施し、土を軽く寄せる。その後収穫までに1~2回、同様に追肥と土寄せを行う。土寄せの効果として気温が高くなっても、15~20℃の地温に近く維持できる。排水良好となり、長雨でも腐り難くなる。皮目肥大が生じないので、そうか病などの被害を抑制できる。ジャガイモの芽や緑色部にソラニンという有毒アルカロイドを含むが、土寄せにより緑化イモができなくなりソラニンの形成を防ぐことができる。イモの収穫は、晴天が2~3日続いた時が最適である。雨天に収穫すると、イモが腐るので禁忌である。葉を食害するテントウムシダマシは、「スミチオン乳剤」で早期に退治する。「スミチオン乳剤」の散布は、アブラムシの防除にも効果がある。見つけたら捕殺するか、5月頃から1週間おきくらいに2~3回、スミチオン、オルトランなどを散布することで対処する。ジャガイモが枯れる頃になるとナスやトマトなどの他の作物に移るので、ジャガイモの時点で駆除しておく。
2014年04月08日

江戸時代の安永頃から昭和40年代初期まで、三業の花街には夕闇の迫る頃になると「新内流し」が姿を現わした。2人が一組となって「新内節」を流しで聞かせる花街の風物で、料亭の通用口から仲居に呼び込まれて宴席に上がり客の注文曲などを演奏した。『明烏夢泡雪』浦里雪責の一節に「主を想うて給もるもの わしが心を推量しや、何の因果にこのように 愛しいものか さりとては 傾城に誠なしとは訳知らぬ 、譬えこの身は淡雪と共に消ゆるも厭わぬが、此の世の名残に今一度 逢いたい見たいとしゃくり上げ、狂気の如く心も乱れ 涙の雨に雪とけて 前後正体なかりけり」というのがある。初代・鶴賀若狭掾が作ったとされる新内節3大名曲の1つで、雪の中松の木に縛り付けられ厳しく折檻される遊女・浦里の哀切な姿を描く場面で、恋人の時次郎が救いに来たと思ったのは一場の夢だったという結末が語られている。また、柿本人麿は、「まきむくの ひばらもいまだくもいねば、こまつがうれゆ あわゆきながる」(巻向の檜の林は、まだに雲はかかっていないのに、小松の先にあわゆきが流れるように降ってくる。)と歌に詠んでいる。万葉集などに表現されている「沫雪」は、そのまま「沫(うたかた)のような」の意味で使われたが、中古以降にみられる「淡雪」には「淡い」「はかない」などの意味が含まれて用いられるようになった。あわゆきはぼたん雪・綿雪とも言われ、積もっても儚なく消えていく春の雪を言うことが多い。気温が低いときに降る雪はさらさらした粉雪になるが気温が高いと、雪の結晶どうしが幾つも結び付いて雪片となって降り淡雪となる。春先に降る雪で泡のようにやわらかく溶けやすく、うっすらと積もって消えやすいところから、ものの哀れや儚さを表す言葉として「春の…」と使われることが多い。ふんわりと柔らかそうな形をして降るので、「綿雪」とも言う。また、空中で少し融け、結晶どうしが結びついて落ちてくるさまを、花弁の大きな牡丹にたとえ「牡丹雪」と言う。あわ雪は淡雪の他、沫雪・泡雪・綿雪の別字や、かたびら雪・たびら雪・だんびら雪などの別称がある。あはゆきの つもるつもりや 砂の上 (久保田万太郎)淡雪が砂の上に降っていて、見ていると結構激しくなってきた。淡雪とはいえこれほどまでに降るのは、もしかして積るつもりなのだろうかという意味だ。4月5日は全国的に気温が低く、山荘の辺りも南アルプスから吹き下ろす強風によって体感温度は5℃以下に感じられた。朝から吹き荒れた甲州名物の空っ風も、夕方にはすっかり止んで一層気温が低下してきた。夜8時過ぎには、月齢5.3の上弦の月が甲斐駒ケ岳の山頂に近く浮かんだ。6日の早朝5時半に、シンとして風の音一つしない外の様子に目覚めてカーテンを開けてびっくり仰天凡そ5cmも積雪をしていたのだ。淡雪に覆われた山の景色は、都会人には決して味わうことができない一幅の絵であり見事な自然の芸術であった。今が満開のエドヒガンや梅の花は雪に覆われて白く変わり、咲き始めた連翹もカマクラ状態になり高村光太郎もさぞやビックリしたことだろう。(4月2日は、光太郎の連翹忌)2月大雪の積雪が溶け切らない内の積雪であったが名前通り「春の淡雪」で、陽が上がると共に今日一日で消えて無くなる運命であろう。
2014年04月07日

ジャガイモはナス科の植物で、食用にする芋は地下茎と言われる部分である。加熱調理して食べるほかに、デンプンの原料としても利用される。温度の高いところに保存すると発芽しやすいので涼しい場所で保管する他、エチレンガスが発芽を抑制するのでリンゴを入れるとかなり発芽を抑えることが可能である。我が家ではカリンの実が大量に採れるので、リンゴの代わりにカリンを入れて保存に成功している。緑化したイモや芽の出ている部分には、毒性成分のソラニンを多く含み中毒の原因となる。ジャガイモの原産地は、アンデス山脈といわれている。16世紀にスペイン人によってヨーロッパにもたらされたが、運搬中に芽が出たものを食べて中毒したことから「悪魔の植物」と呼ばれた。日本へは同じ頃オランダ船により、観賞用としてジャカルタから運ばれ栽培されたという。ジャカルタから伝わったことから、「ジャガイモ」という呼び名が付いたというのが通説となっている。別名の「馬鈴薯」は中国での呼び名と漢字が同じところから、18世紀に小野蘭山が命名したとの説がある。1年に2~3回収穫できることから「二度芋」または「三度芋」、植え付けてから100日で収穫できる所から100日芋とも呼ばれる。江戸時代に幾度となく発生した飢饉の際に、ジャガイモによって救われたという記録が残っておりそれからついた「お助け芋」の名前もある。サツマイモは芋から発生した蔓を切り取って土に挿して栽培するが、ジャガイモは種芋を植え付けて栽培される。地上茎は70cm程にまで、直立して生長する。葉の付け根から花茎が長く伸び、先端にナス科植物特有の多数の星形の花を着ける。キタアカリ品種は受粉して、ミニトマトに似た小型緑色の実をつけ易い。この実は落果しやすく、完熟に至るものはごく希である。果実にはソラニンを含んでおり、食用にはならない。日光に当たると、容易に緑化してソラニンを作る。地下茎は種芋より地表に近い位置に着くため、芋に日光を当てないための土寄せが必須である。冷涼な気候や硬く痩せた土地にも強い反面、病害や線虫などの被害を受けやすくナス科植物に共通する連作障害も発生しやすい。ジャガイモは水分と栄養が豊富なため病原菌が繁殖しやすく、保存状態の悪い種芋や畑に取り残された芋は病害の原因となる。ジャガイモの種類で最も良く知られているのは、男爵イモである。1908年に川田龍吉男爵がイギリスから持ち込んで日本に定着させた品種である。デンプンが多くホクホクしているが、煮くずれしやすい。粉吹き芋やマッシュポテト、コロッケなどを作るのに適している。丸型をしており芽の部分が大きく窪んでおり、でこぼこした形状なので皮をむきにくい。メークインは大正時代に日本に持ち込まれた品種で、男爵イモと並んで利用が多い。ねっとりしていて、煮くずれしにくいため、カレーやシチュー・肉じゃがなど、煮て調理する料理に適している。男爵イモに比べて長い形状で、皮はむきやすい。収量は最も多く、1kgの種イモで30kgの収量を挙げることも可能である。肉質が淡黄色を帯びるキタアカリは、男爵イモを母親とした品種で1987年に品種登録された。カロテンやビタミンCの含有量が多い。男爵イモと同じように使うが、上記二品種に比べて保存性が悪い。東京近郊では、2月末から3月にかけて植え付けされる。早いところでは既に10cmも芽が伸びた畑もある。山荘の畑には毎年彼岸過ぎに植え付けるのだが、今年は2月の大雪で漸く3月中旬過ぎて畑の土が顔を出してきたところであり、植え付け準備ができていなかったので、これから植え付けにとりかかる。同じ芋でも、収量を期待するには長芋やサトイモはある程度の大きさが必要である。しかしジャガイモの場合、必ずしも種イモが大きいから収量が増えるとは限らず、極端に言えば芽を出すだけの力があれば芋ができる。丸のまま植えるよりも、分割して植えた方がその後の芽欠きの手間が省ける。私は一片に一つ以上の芽をつけて、種イモ1個を最低3個に分割する。腐敗防止のためとして、木灰を切り口に付ける人が多いが、植え付け3日前に切り分けて切り口を十分乾燥させてから植え付ければ、木灰を使わなくても腐敗することは無い。切り口を上向きにする人と、下向きに植え付ける人があるがどちらで植えても余り違いは無い。強いて言えば切り口を上向きに植えると、芽吹きが若干遅くなるので晩霜被害を受けにくいかも知れない。種イモの30~40倍の収穫が可能なので、3kgの種イモがあれば120kgもの収穫を期待することができる。
2014年04月04日

ミズバショウ(水芭蕉)は、サトイモ科ミズバショウ属の多年草で湿地に自生し芽出し直後の葉間から純白の仏炎苞を開く。仏炎苞は一見花のように見えるが、実は葉が変形したものである。仏炎苞の中央に円柱状の小さな花が多数集まった花序を作る。開花時期は低地では4月、高地では融雪後の5月から6月に開く。花の後に出る葉は根出状に出て立ち上がり長さ1m、幅30cmの大きさにもなる。和名は、イトバショウの葉に似ていて水辺に生えていることに由来する。日本の各地に、群落のあることが知られている。江間章子の「夏の思い出」で歌われてから、尾瀬の水芭蕉が有名となり広く知られるようになった。尾瀬の春は、平地の7月初めころに当たるのだろう。1つの肉穂花序には数百もの小花があり、すべてが雄しべと雌しべのある両性花である。仏炎苞が開いた時点で、多くの小花は雌しべが露出しており受粉可能である。雄しべは花序の表面には現れていないが、開花後数日すると花序の表面に雄しべが出てきて花粉を放出する。自花受粉をする場合もある。最初は雌しべが出て、次いで雄しべが出てくる開花システムを「雌性先熟」と呼び風媒花によく見られる様式である。受粉すると花序は大きく成長し、緑色の肉質の果穂になる。種子が完熟すると崩れ落ちて、果肉をつけたままの種子が散布される。果肉は軽くスポンジ状をしているので、種子が水に流れるのを助けている。条件の良い場所に着床すると、3年程度で開花するまでに成長する。種子に休眠性はなく、湿った状態で温度条件さえ良ければ良く発芽し発芽率は高い。繁殖は種子によるばかりでなく成長した塊茎から細長く短い地下茎が生じ、栄養繁殖もする。栄養繁殖による子は親個体にくっ付いて生じるため、数個体がまとまった株立ちとなる。全草に同属のクワズイモなどと同じシュウ酸カルシウムを含んでいて、肌に付くと痒みや水ぶくれを起こす。民間薬として根茎を腎臓病や便秘など治療のために利用されたこともあるが、含有するアルカロイドによって吐き気や脈拍の低下、呼吸困難、心臓麻痺を引き起こす危険があるので服用することは禁忌である。ツキノワグマは冬眠中に体内に溜まった老廃物を、嘔吐や下痢を起して排出する目的で葉や花を食べることが確認されている。箱根の仙石原にある町営の湿生花園では、毎年4月上旬頃に咲く。殆ど花も無い、一面茶色に冬枯れた園への入園料700円は少し高いような気がする。箱根湿性花園の早春の呼び物の水芭蕉は、寒さからか多くの仏炎苞が茶色に変色していて一般的に写真で見る純白の花は殆ど見当たらない。花の後は、葉を急に1mにも伸ばす。その葉が芭蕉に似ていて、水辺に生えることからこの名前がつけられた。山梨県笛吹市境川町にある藤垈の滝(ふじぬたのたき)は、高さ1m程しかない滝である。現在「藤垈の滝大窪いやしの杜公園」として開放され観光スポットとなっているが、向昌院が長慶寺であった頃は禊の場であったとされている。ここの湧水は真夏でも水温が12度と低く、滝から続く小川に水芭蕉が植えられている。群生地として知られる新潟県旧中条町(現胎内市)から、700株譲り受けて植えた株が現在は3000にも増えたものである。 花言葉 美しい思い出 変わらぬ美しさ
2014年04月03日

4月に入って東京の桜は満開になったのに、山荘の梅の蕾は未だ堅いままである。春の遅いこんな山里にも、明らかに春の足音が近づいて来ている。未だ真っ白に雪が残っている南アルプス甲斐駒ケ岳から、里を二つに割って雪解け水が流れる大武川の川筋の木に柔らかそうな猫柳の花が無数に開いてきた。唱歌蛍では、猫柳を♪「蛍のたるのやどは 川ばた柳 柳おぼろに夕やみ寄せて 川のめだかが夢見る頃は ほ ほほたるが 灯をともす」。またどど逸では「何をくよくよ川端柳 水の流れを見て暮らす。」と歌われる。ネコヤナギはヤナギ科の落葉低木であり、北海道から九州までの河川の水辺で見られ早春に開く花姿は美しい。他のヤナギ類の開花より早く花を咲かせることから、春の訪れを告げる植物として馴染みが深い。他のヤナギ類よりも水際に生育し、株元が水に浸かるようなところに育つ。根元から萌出した枝の、水に浸ったところからは根を下ろして株が増える。初夏には綿毛につつまれた種子を風に乗せて飛ばす。花も可愛らしいところから、庭木として植えられることもある。葉は細長い楕円形で互生し、葉裏には灰白色の毛が生える雌雄異株の植物である。早春葉に先だち、長さ3~4センチメートルの柔らかい白毛を密生した尾状花序をつける。別名は川柳である。花穂は太めの円筒状で、なめらかな美しい毛で覆われている。花穂は、雌花より雄花の方が大きくなる。3月~4月になると開花を始めるが、目立つような花弁はなく雄花には先端にオレンジ色の葯のついた長い糸のような雄しべがたくさんあらわれ、葯が開くと黄色い花粉が出てくる。雌花には、先端が黄色の短い糸に似た雌しべが着く。雌株についた果実は、熟すとはじけて中から「柳絮」と呼ばれる綿毛に包まれたタネを放出する。花穂を猫のシッポに見立ててネコヤナギの名前があり、英語ではpussy willowの名前で呼ばれる。花穂は生け花にもよく用いられ、花が長く持つのでそのままにしておくと知らない内に切り口から無数の新根を発生していることがある。カナダのバンフからアサバスカ氷河に向かうアイスフィールド・ハイウェイのすぐ脇にボウレイクの名前が付いた美しい湖がある。クロウフット氷河など3つの氷河の水が流れ込んでいてバンフを抜けて、遙か大西洋に流れ出すボウ川の水源でもある。この湖と川の名前になっている「ボウ」とは弓のことで、昔の時代インデアンはこのあたりに多く生えていた柳の樹を用いて弓を作ったことに由来した名前でBow and arrowのボーだと現地人ガイドは説明していた。日本にも、楊弓という弓がある。楊柳(しだれやなぎ)の木でできた小弓で、平安時代から公家のお座敷遊びに用いられ、江戸時代になると吉日や縁日などで、的屋の射的に用いられた弓のことである。普通は花穂全体が銀色をしているが、変種で濃い暗紫色で黒く見えるクロヤナギやピンク色をしたものなどがある。これらの変種は雄株だけが知られおり、葉や枝に毛が生えない特長がある。衣装箱など無かった時代には衣類などの保管入れ物として柳ゴウリが利用されたが、柳の枝を編んで作った長方形の入れ物のことである。その他にも、生け花の籠などに加工されている。 花言葉 自由 努力が報われる 親切 思いのまま
2014年04月02日
1980年頃から世界各地の動物に異常が発見されたとして環境ホルモンが問題となり、研究がされるようになった。正式には環境ホルモンは、外因性内分泌攪乱物質または外因性内分泌攪乱化学物質と呼ばれる。2003年(平成15)5月に政府見解として、「内分泌系に影響を及ぼすことにより、生体に障害や有害な影響を引き起こす外因性の化学物質」と定義された。定義では医薬品も含まれることになるが、実際にはより狭義に捉えて環境中の化学物質が体内へ取り込まれることで危険の発生が予想される場合に限ってこのように呼ばれる。環境ホルモンとはある一つの物質の名前ではなく、生物のホルモンの働きを狂わせてしまう物質の総称で、体内の正常な働きをするホルモンの働きを壊すことで、様々な異常を引き起こすとして問題視される。ホルモンと同じように非常に低濃度でも生体に影響を及ぼす可能性があるため、高濃度に蓄積されて問題になる従来の有害物質による環境汚染の濃度基準では規制できないとして社会問題化した。特にヒトや動物の生殖機能は雌雄ともに、性ホルモンの影響を強く受けて微妙な調節がなされているため、体外のホルモン類似物質にも影響を受けやすいとされている。性ホルモンの攪乱により、生殖器の異常・精子の減少・卵巣がんや乳がんなどの生殖器のがん・性行動の異常などが考えられるが、これらは昔から自然状態でも発生しているものであり内分泌攪乱化学物質によって異常発生が増加しているとの立証はなされていない。河川・湖沼・海岸付近などのヒトの生活に近接して生息する魚介類などに、水中の内分泌攪乱化学物質による影響として、生殖機能や生殖器の形態に異常が生じる現象が見られるとの報告がある。しかし一方では、こうしたメス化異常の発生は化学物質の作用によるものではなく、下水に排出されるヒト女性の尿に含まれる女性ホルモンによるものではないかという報告もある。ノニルフェノール、4-オクチルフェノール、ビスフェノールAの3物質が魚類に対してホルモン様作用を示すと発表されているが、非常に高濃度の環境下で実験的に惹起されることが示されたに過ぎず、自然界で実際に起きたとの報告ではない。現在では、一般に哺乳類動物のホルモン受容体は魚類より感受性が低いこともあり、これらの物質がヒトに対して影響を及ぼすことはあり得ないとの考えが一般的となっている。国から約三千万円の公費助成を受けた研究事業として「ビスフェノールAの健康影響についての報告書」がまとめられたが、46か所にも及ぶ集計ミスがあったことが2009年7月に判明したこともあって、万能細胞の研究論文と同じで報告書の信頼性に疑問がもたれている。
2014年04月01日
全22件 (22件中 1-22件目)
1


