全19件 (19件中 1-19件目)
1

信州伊那谷では昔から何処の家庭でも縞瓜の栽培が行われ、常備菜としてこの瓜の粕漬けあるいは奈良漬が作られ食べられてきた。一年前に購入してそのままになっていた、大阪産長形の優良種とされる緑色に9本ほどの白条が入り、果重は1,5kgにもなる縞瓜の種子を駄目でもともとと、ジャガイモ収穫後の7月下旬に播種して見た。一年放置された種子から順調に発芽したのだが、一番重要な時期になって急に気温の低下と、雨の日が続き日照不足も重なって花は咲いたもののなかなか実が太らなかった。9月も末になって愈々木が衰えてきたので、未熟果も含めて約10kgを収穫した。野菜特に瓜類やゴボウ・ニンジン・ダイコン等の根菜類を塩漬けにし、何度も新しい酒粕に漬け替えアメ色に仕上げた漬物は奈良漬と言われる。平城京跡の長屋王(684~729)の屋敷跡を発掘調査した際、多くの出土品と共に「可須津毛瓜」と書かれた木簡が発見されたといい、これが奈良漬に関する最も古い記録とされている。当時の酒は濁り酒であったので現在のような酒粕ではなく、容器の底に溜まった沈殿物を指して糟といったものと考えられている。平安時代中期から室町時代末期にかけて、もっとも上質で高級であったとされる銘柄酒「菩提泉」は奈良菩提山正暦寺の境内を流れる菩提仙川の水と、菩提酛という酒母を用いて造られた僧坊酒で日本で最初の清酒とする説があり、境内にはその由来が刻まれた碑が建っている。この頃になって漸く清酒が誕生し、その副産物として搾り粕ができたものであろう。江戸時代になると酒粕の漬物を幕府へ献上したことやこの地を訪れた人々によって広まり、庶民の間に浸透していった。慶長年間になってこの漬物に、奈良の漢方医糸屋宗仙が「奈良漬」と名付けたものとされる。現在では奈良県以外の場所で作られたものであっても、同じ製法で製造されたものは奈良漬けの名前で呼ばれている。一方果実・魚貝類・食肉・貝類だけではなくその加工食品など多種多様なものを、奈良漬と同じように酒粕に漬けたものは粕漬けと言う。こちらは肉や魚では3~4日、野菜であれば漬け込んでから1か月頃からが食べごろで、比較的短い期間で完成する漬け物である。平安時代中期に編纂された律令の施行細則で三代格式の一つである「延喜式」には、野菜を材料とした粕漬けの記述がある。奈良漬と同じに、古くから食べられてきたものである。酒粕のみで漬けたものは味が淡泊なので、甘みを必要とする場合は砂糖を加える。野菜は生のまま漬けると粕の中に水分が出て酸敗するので、塩漬けしてから干して水分を減らしてから酒粕に漬ける。関東のような猛暑地で漬ける場合には冷蔵庫を利用するなどよほど工夫しないと、漬け材がブカブカになって美味しくなくなってしまう。酒粕は地方のスーパーでは、適量の砂糖を加えるだけで利用できるもの一袋3kg入りを1300円ほどで売っているので、処理する前の瓜の10kg程度は漬け込むことができる。今年は漬け込みが涼しく成ってからであったので、常温でも旨く漬かりそうな気がしている。3か月後が楽しみである。
2014年09月30日
松尾芭蕉が1689年7月13日に出羽国の立石寺に参詣した際に詠んだ発句として有名な「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」は奥の細道に載っている。芭蕉がこの句の対象にしたセミは「アブラゼミ」であると歌人斎藤茂吉が断定したことに依り、この意見に対して様々な異論が出された。その後自身の実地調査などの結果をもとに1932年6月、芭蕉が詠んだ句の蝉はニイニイゼミであったと茂吉本人が訂正している。本州で一般的に聞かれるセミの声は鳴き出す時期の早い順に、ハルゼミ・ニイニイゼミ・ヒグラシ・アブラゼミ・ミンミンゼミ・ツクツクボウシである。ツクツクホウシと同じ寒蝉と呼ばれるヒグラシは、8月には既にその声を聞かなくなる。ミンミンゼミとツクツクボウシの名前は、何れもその鳴き声から付いたものである。ツクツクボウシは秋の季語とされ、体長は翅の先まで約4.5cmで暗黄緑色の地に黒紋があり、背にW形の紋が付いている。夏から秋にかけて現れ、雄はツクツクオーシと鳴く。別名に寒蝉・つくしこいし・おうしいつくつくなどがある。日本の他、韓国・中国・台湾など東アジアに分布している。平地から山地までの森林に幅広く生息するほか、市街地でも普通に鳴き声が聞かれる。セミの仲では最も警戒心が強くて動きが素早く、クマゼミやアブラゼミに比べてなかなか捕獲することが難しい。成虫は八丈島や岡山・長崎では特異的に7月から発生するが、一般には他のセミが少なくなる8月下旬から9月上旬頃になって鳴き声が際立つようになる。伊豆大島には5種類、三宅・御蔵島には3種類、さらに何故か八丈島ではツクツクボウシ一種しか生息せず、夏中鳴いていて個体数も非常に多い。ツクツクボウシはアブラゼミやニイニイゼミと比べて寒さに弱いので、元来北日本では局地的にしか分布していなかった。しかし近年、盛岡や仙台においてこのセミが増えつつあると報告されている。盛岡ではアブラゼミが激減し、ツクツクボウシが逆に増えている。この原因については諸論があり、単に温暖化が原因という単純なものではないようである。今年は月遅れの盆以降、台風の影響や前線の停滞に依ってどの地域も降雨が多く夏の暑さが続かなくて五月雨式に秋に突入した。関東近辺では月遅れの盆ころから、ツクツクホウシの声を僅かに耳にした。南アルプスの東麓標高630m地点でも、関東近郊と同じ頃に初鳴きを聞いた。それ以来、ツクツクホウシの鳴き声を聞かない。昨夜台風崩れの低気圧が通過して、今朝は久しぶりにピカピカの晴天になった。あの喧しく鳴いていたアブラゼミの声がすっかり影を潜め全く声が聞こえ無くなって、ツクツクホウシの声が増えるのかと思ったのだが案に相違して今日は全くセミの声は聞こえない。代わりに庭の植え込みからか細く微かに、カネタタキのチッチッチと言う声が聞こえてくるばかりである。足音が聞こえるほどの速さで、季節が移り変わっている。 夕飯や つくつく法師 かしましき 子規
2014年09月26日

昔、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとにい出て遊びけるを、大人になりければ、男も女も恥ぢ交してありけれど、男はこの女をこそ得めと思ふ。女はこの男をと思ひつつ、親のあはすれども聞かでなんありける。さて、この隣の男のもとよりかくなん。 筒井つの 井筒にかけしまろが「たけ」 過ぎにけらしな 妹見ざるまに女、返し、 「くらべ」こし 振分髪も肩過ぎぬ 君ならずして 誰かあぐべきなどいひいひて、つひに本意のごとくあひにけり。これは伊勢物語二十三段、「筒井筒」の冒頭である。男の歌の意味は、「幼い時あの井筒の高さとどちらが高いか、背くらべした私の背丈も、あなたと会わないでいる間に随分高く伸びてしまったようです。もうすっかり大人になりましたよ。」の意味である。「筒井筒」は少年と少女の恋物語で、筒井の周りを囲った井筒で背くらべをしている。井戸の周りで遊んでいて、井筒とどちらが高いか比べたものである。そのようにして遊んでいる間に、恋心が芽生えていた男と女は親が進める縁談に抗して初恋を貫いて結婚する物語である。ここに出てくる筒井とは地面を円形に掘り下げた井戸のことで、子供等が誤って落ちないように地上部の筒井の周りに竹で筒型に囲ったものが井筒である。昔から背比べには、様々な物が使われてきた。童謡背くらべでは、♪「柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ」と唄われ、こいのぼりでは♪「やねよりたかい こいのぼり…。」と柱や屋根と比較している。「子供らは古い時計のかかった茶の間に集まって、そこにある柱のそばへ各自の背丈を比べに行った。次郎の背の高くなったのにも驚く…。」島崎藤村短編「嵐」(大正15年改造に発表)では、柱で背くらべをしている。明治28年から翌年まで「文学界」に断続的に連載された樋口一葉の名作「たけくらべ」は、この伊勢物語の二十三段に出てくる男歌の「たけ」と返歌の冒頭「くらべ」に触発されて付けた題名であるだろうことは想像に難くない。樋口一葉は自筆の伊勢物語の写本を持っていたといい、若くして伊勢物語に精通していたといわれている。講談等ではよく幼馴染のことを「筒井筒振り分け髪の昔より…。」等と使うのも、伊勢物語から取られたものである。特に幼なじみの男女のことまたその仲を、「筒井筒の仲」のように使う。したがって、男どうしには「友垣」と用いるべきで筒井筒を用いるのは誤用であろう。
2014年09月25日
硯と筆を一つの容器に納めたものは、「矢立」と言われる。万年筆が世に出るまでは便利な筆記用具であった。この矢立てに杉が付いた「矢立て杉」は、杉の木のことを指し筆記用具の矢立とは全く関わりが無い。杉の枝は安産のお守りや魔除けにされていて、流行り病を避ける呪いとして「過ぎ」や「過ぎてよし」の語呂合せから杉と葦を戸口に吊るした。また流行病が家に入らない呪いとして餅を杉の葉につけたものを垣根にさし、後ろを見ずに帰るという風習もあった。杉には箸や杖を地面に突き刺したものが大木に成長したという話の伝わる木があるほか、矢立杉の伝説が残る峠もある。全国各地の年代を経た杉の大木の幹からは、しばしば大きな鏃が発見されている。これらに対する説明として何れも源為朝や頼朝・坂上田村麻呂など有名な武将が、出陣などの際矢を射て戦勝を祈願したのだという伝説となっている。この伝説の分布は東日本に多く、木はご神木という場合が多い。杉には特別の力が宿ると信じられてきたため多くの神社では杉がご神木とされていて、矢立杉の伝説も各所に残っている。これらの中には後世になって、都合のよい解釈を付会したものが多い。箱根神社の境内にある樹齢1200年とも伝わる杉の大木は、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷平定の際箱根神社に参詣し、武運長久を願ってこの杉に表矢を献上したものといわれる。その後、箱根を越える武将は、これに習って矢を献上したことから矢立の杉と呼ばれるようになったとされている。三島市山中城跡の推定樹齢500年前後とされる矢立の杉は、出陣の際杉に矢を射立てて勝敗を占ったと「豆州志稿」に記されている。群馬県榛名神社にある矢立杉は幹周9.8m樹高43m樹齢1000年と言われ、同じ株から2本が直立して生えている。武田信玄が箕輪城攻略の際、矢を射て戦勝祈願したとされる。信州伊那谷南アルプスの西麓にある大鹿村鹿塩から、ゼロ磁場で名高い日本三大パワースポット分杭峠への道に矢立杉と呼ばれる巨樹がある。その昔江戸へ向かう殿様が、ここを通る度に矢を射込んでいったとの伝説が残る。秋田領と津軽領の藩境に当たる場所に、矢立杉跡がある。藩境を示す矢立の杉があったとする由来により、この国境は矢立峠と称されている。矢立杉とは幹から鏃が出る杉またはそういう伝説のある杉の木のことを指し、杉に限らず他の木から鏃が出る場合もある。松の木の場合は、矢立松といわれる。これらの木には様々な伝説が残るが何れの木も村境に多い場所にあることから、境界を示すために打ち込まれた鏃だとか神事の歩射の名残後ではないかともいわれている。甲州街道最大の難所といわれた笹子峠頂上の東側斜面に立っている杉は、笹子峠を通って合戦に赴く武士がこの木に矢を射て戦勝祈願したと伝わっている。樹齢千年で樹高28m根回り14.8m幹囲9mの巨樹であり、幹の中は空洞になって浮浪者が中で焚火したと言われ黒く煤けている。幹の途中で折れてしまっているので、樹高は低い。「甲斐叢記」には、出陣する武士がこの木に矢を射立てて戦勝を祈ったと記されている。源頼朝もここを通った際に、矢を射たと伝わっている。葛飾北斎の「北斎漫画七編甲州矢立の杉(文化14年(1817年)」や二代目歌川広重の「諸国名所百景甲州矢立の杉」にも描かれており昭和35年に、山梨県指定天然記念物に指定された。甲斐武田家が隆盛の1500年代に、甲州盆地から岩殿山城に出向した武士は「岩殿山で国見れば 国恋し矢立の杉が見え候」と唄ったというが、標高634mの岩殿山から1000mの笹子峠の東面に生えるこの杉を識別することができたのかどうか疑わしい。甲州街道を甲府側から大月方面へ進み笹子トンネルを出て下り坂の左カーブの手前に、「矢立ての杉」の案内板が立っている。看板にはこの先右折180mとあり、運転しながらだと右折した180m先に矢立ての杉があるようにも読み取れる。しかし、真の意味は180m先を右折し旧街道を上って行った峠の近くと言うのが正しい。看板通りに右折して進むとやがて車一台が通れるほどの狭い道になり通行注意看板や車の通行を止める柵も出て来て、森が次第に深くなってくるので一寸一人で行くには勇気が要る。
2014年09月24日

上野公園の大噴水は竹の台とも言われ、江戸時代寛永寺根本中堂があった。その名称は、両側に竹の台(うてな)があったことに由来するという。戊辰戦争で灰燼と帰した本堂跡へ博物館が建設され、その前庭として緑と噴水が計画されたものである。野口英世の全身立像が、通称大噴水と言われる竹の台噴水の東側に建立されている。台石含めて総高約四・五メートル、吉田三郎(多摩美大教授)の製作である。この像に酷似した「ガーナで研究中の野口英世博士」(財団法人 野口英世記念会蔵)の試験管を持ってポーズを取った写真があるので、これを参考にして作られたものと類推される。若干角度が異なり試験管は無くなっているが、北杜市三代校舎に立つ胸像も同じ写真が基になっているようである。銅像建立の発案は福島県出身の玉応不三雄で、戦後混乱期の昭和22年に英世の偉業を後世に伝えようと募金活動を開始したが、思う様に募金が集まらず志半ばにして病に倒れたため頓挫した。その後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念会等にこの活動が引き継がれ、昭和25年に上野公園に造立されることが決定し昭和26年3月に完成した。野口英世と上野公園は、正岡子規程の縁は無い。ひこじいさんのブログ(2013年5月11日)「偉人にも裏側がある」で、野口英世の陰の部分について次のように検証した。猪苗代高等小学校の教頭であった小林栄に、利発さを見出され高等小学校に入学することができた。高等小学校卒業後火傷した後の手の手術を受けた医院で、書生として住み込みで働いていた際、歯科医で現在の東京歯科大学の講師である6歳年上の血脇守之助と知り合う。医師になるため小林らから40円の大金を借りて上京し、前期試験に合格するが遊郭通いに狂って2か月で全て使い果たしてしまった。小林が融通した金の価値は、当時血脇の月給が4円だったと言うから現在の貨幣評価では1千万円近い貨幣価値があったのではないかと思われる。その後も恩師や友人たちから、言葉巧みに再三にわたり多額の借金を重ね、借金の天才とまで呼ばれた野口の要領の良さや世渡りのうまさは、父から受け継いだ才能であると言う人もいる。これらの多額の借金や清国でのペスト対策として国際防疫班に指名された際に支給された、官費や渡航先で得た報酬は全て女遊びに使ってしまい帰りの旅費も捻出できないほど放蕩に明け暮れていた。多くの人が詐欺紛いの被害を受けたのだが、特に小林と血脇の二人が居なかったら野口英世が世に出ることはなかったであろうと思われる。坪内逍遥は明治18年に、巧言を弄して借金を重ね自堕落な生活を送る「野々口精作」を主人公とした小説「当世書生気質」を起稿した。この小説の内容は借金を繰り返して遊郭に通うところが自分にそのままであったので、その小説のモデルと看做されるのではないかと恐れて明治31年に清作を英世に改名した。「英世」の名前は、小林から与えられたものである。ここでも英世は、策を弄している。戸籍名の変更理由として別の集落に住んでいた清作という名前の人物に同姓の野口家へ養子に入ってもらい、同姓同名の野口清作を誕生させてから、「一集落に同じ名前の人間が二人居ては紛らわしい」と主張して戸籍の改名に成功したという。野口は貧乏育ちのためか金銭感覚に乏しく、非常に金遣いが荒かった。留学の費用として血脇から受け取った500円という大金を遊郭で使ってしまった時には、さすがの血脇も言葉を失ったと言われる。彼が梅毒スピロヘータの研究に没頭したのも、穿った見方をすれば多くの女性との接触で梅毒の感染を恐れたためではないかとも思われる。彼を偉人として扱う伝記ものでは、これら陰の部分は触れられていない。また彼の論文も否定されたものがかなりあったりして、人物についての評価は2分している。上野の森はいつでも多くの人が訪れて喧騒の坩堝の中にあるが、英世の銅像はそれらとは無縁のように深い木立の中にひっそりと立ち訪れる人も見当たらない。
2014年09月22日

山荘敷地の北と東側の2面には幅2m深さ2mほどの農業用水路があって、水田に稲がある間はかなりの量の水が流れている。今年は8月中旬から全国的に天候不順で雨ばかりが多く、週末に山荘を訪れても外回りの状況確認が疎かになっていた。9月になって暫く振りの好天に、農業用水路脇を見ると敷地の反対側の土手からアレチウリが伸びて鬱蒼としており、キウイの棚や6mもの高さがあるヤマボウシの梢まで覆ってしまっていた。アレチウリ(荒れ地瓜)は北米原産ウリ科の植物で1年生草本だが、蔓を葛より長く大きく伸ばす。英語でburr cucumberという名前で呼ばれ、意味は棘のあるキュウリである。雌雄異花で荒れ地河川敷に多く、人手の入った薮では猛烈に繁茂する。クズやフジと同じように巻き付きながら上に伸びて、高木でも覆い尽くして枯死させてしまう。非常に、迷惑な植物である。成長・繁殖力が強く根が残ると再生するほど頑健であることから、2006年(平成18年)2月に駆除すべき「特定外来生物」として指定された。また日本生態学会では日本の侵略的外来種ワースト100に選定している。アレチウリは意図せずに北アメリカから帰化したが、それより76年も前に逆に日本から北アメリカに意図的に持ち込んだ植物がある。秋の七草の一つのクズは、1876年に北米フィラデルフィアの独立百年祭博覧会の際に日本から持ち込んで飼料作物および庭園装飾用として展示したことが契機となって広がった。20世紀前半まで、線路土手の緑化や土壌流失防止用としての植栽が政府によって推奨されたこともあって、クズの自生面積が瞬く間に3万km2にも広まってしまった。現在ではその強烈な繁茂力と拡散の早さから、北米では有害植物ならびに侵略的外来種として指定され駆除が続けられている。この二種の蔓性植物がそれぞれの帰化先の国で、駆除すべき外来種とされているのには何かの因縁を感じる。アレチウリの淡緑色をした6mmほどの雌花は、球状に集合して咲く。雄花は黄白色をした直径約1cmほどの大きさで、花茎の先に総状に咲く。8月~9月が花期で、その後にはまるで栗のイガ状の白い棘に覆われた実がなる。棘は細く硬くて、厚手の衣服を通して皮膚に刺さることがある。この果実には猛烈な苦味と渋味があって、食用にはならない。結実すると1株が25,000個とも言われる大量の種子をつけるので、その繁殖力は凄まじい。昭和27年にアメリカやカナダから清水港に入港した船積みの輸入大豆に、アレチウリの種子が混入しているのが発見されたとの記録がある。最初は輸入大豆の流通経路に沿って分布を広げ、河川の流域では増水によって種子が運ばれ下流に拡散した。またセイタカアワダチソウの拡散同様に土木作業機械や車両に付着して、あるいは工事の土砂と共に日本中に拡がったと推定されている。初めてアレチウリの種子の日本上陸が確認されてから30年後には、関東一円で繁殖するようになり今では青森以西では普通に自生するようになった。都県境の多摩川流域ではかつては薄や葦が繁茂していた場所が、今ではアレチウリに取って代わられた所も多い。退治するには、種を付ける前の9月中に抜き取る必要がある。冷涼な気候の場所では、月遅れのお盆以降に発芽したアレチウリは結実しないとする報告がある。(長野県林業総合センター)農業用水路の反対側には大武川の支流が流れており、その土手一面をアレチウリが覆って今盛んに花を咲かせている。これらがすべて結実して、膨大な数の種子を撒布すれば山荘の敷地内への侵入もあり得る。来年以降は注意して、幼苗の内に抜き取らなくてはと思っている。
2014年09月19日

通称上野公園の正式名称は、上野恩賜公園である。江戸時代には東叡山寛永寺の境内地であったものが明治維新後官有地となり、明治6年の太政官布達によって芝、浅草、深川、飛鳥山と共に日本で初めて公園の指定を受けた。大正13年に宮内省から東京市に下賜されたことにより、「恩賜」の名称が付いたものである。寛永寺社殿と霊廟・東照宮・サクラ・噴水・池・博物館・動物園・美術館・コンサートホールなどがあって、文化の香り高い公園となっている。この広大な公園に、野球場があることは案外知られていない。野球の普及に、明治の俳人・歌人で随筆家でもある正岡子規が一役買ったことは多くの人に知られている。子規は、明治時代の初期に日本に紹介されて間もない野球を愛好し、明治19年~23年頃にかけて上野公園内で野球を楽しんでいたという。随筆「筆まかせ」には明治21年3月21日午後に、上野公園博物館横空地で試合を行なったことが記されている。幼名を升(のぼる)と言ったので、ベースボールを日本語にした「野(の)・球(ぼーる)」という号で、野球について俳句・短歌・随筆・小説に書いている。ベースボールに野球の文字を当てたのは子規が最初であるが、読みを「やきゅう」としたのはこれより4年後になって中馬庚が発案したものである。子規が訳した野球用語の「打者・走者・直球・四球・飛球」などは、現在も使われている。公園開園130周年記念事業の一環として都は上野恩賜公園野球場の改修を行ったが、子規が療養のために上野不忍の池傍に移り住み、晩年を台東区根岸で過ごした縁で台東区が子規の句碑を野球場に設置した。(平成18年7月21日)句碑には、「春風や まりを投げたき 草の原」と刻まれている。また、句碑設置に因んで野球場の愛称を、「正岡子規記念球場」と名付けた。子規はその功績によって平成14年に野球殿堂入りしたが、その顕彰文には「明治17年、東京大学予備門時代にベースボールを知り、野球に熱中したといわれる。22年7月には、郷里の松山にバットとボールを持ち帰り、松山中学の生徒らにベースボールを教えた。23年2月、「筆まかせ」の雅号の項に「野球」が初めて見られ、幼名「升」から(のぼーる)と読ませている。29年には「日本」新聞に連載された「松蘿玉液」の中で野球のルール、用具、方法などについてくわしく解説している。野球を詠んだ短歌、俳句も数多く見られ、新聞や自分の作品の中で紹介し、野球の普及に多大な貢献をした。「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」「今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打ち騒ぐかな」」と記されている。野球人気はサッカーに押され気味のスポーツだが今なお隆盛を極めており、一級河川の河川敷に設えられた球場はどこも早朝から賑わっており、降雨や風の中でも試合が行われている。子規は博物館の傍らの草地で試合をしたと記しているので、その場所は将に現在の上野公園野球場辺りかと推測できる。しかしこの野球場が都心の一等地に位置し、訪問した日は平日ではあったが絶好の野球日和にも関わらず閉門されており、ボールを追う人の声は聞こえずただセミの声だけが響いていた。140年の歴史があってもその野球場の存在が、案外と知られていないのではと思った。
2014年09月18日

今年は月遅れのお盆過ぎから全国各地で集中豪雨とその被害が続発し、急激に涼しくなった。キノコの発生には、最適の条件が整ったことになる。既に松茸の産地からは、8月中から採取の報告がされ始めている。通常は金木犀の香りと共に松茸発生の最盛期になるのだが、今年は集荷店に既に大量の雑キノコと松茸の持ち込みが続いているとの報告である。8月に大量の降雨があって気温が低下しその後も適度に雨が降る今年は、2年続きの松茸の豊作が期待できそうだとの噂が巷では飛び交っている。山荘の近くの松林を散策すると傘が20cmを超えるほどの見たことも無い巨大なキノコに遭遇したり、3m以上の半円を描いて見事に並ぶキノコの列を目にすることがある。雑魚は雑喉(ざっこう)の音変化で、いろいろな種類の入りまじった小魚のことを指して言うのだが、これと同じように、松茸や椎茸等には使われないのだが様々なキノコを指す言葉に「雑キノコ」がある。辞書にはないが雑魚の伝で考えると、雑多な種類のキノコと言うことであろうか。キノコはカビも含めて分類上は、菌類という生物群に入れられる。菌糸によって分泌される酵素で有機物を分解吸収して生長し、胞子を作って繁殖を繰り返す。一般的に「キノコ」と言われるのは子実体が大きく傘状になるものを指し、点状の子実体を持つものは「カビ」と呼ぶ。キノコの多くは担子菌門か子嚢菌門に属し、栄養の吸収の仕方から動植物の遺骸を栄養源とする腐朽菌、植物の生きた根と共生が必要な菌根菌、昆虫類に寄生する冬虫夏草菌などに分類される。子実体と称される所謂キノコ型の部位は胞子を散布するための器官であり、キノコの本体は菌糸体である。一般に菌類が成長・繁殖するには動植物の死骸などの栄養素と適度な温度・湿度が必要である。キノコは日陰や湿ったところに生えるとされ、実際にそういうところで目にする。落雷した場所にキノコが多く生育するということが、既にギリシャ時代の書物に記載がある。(哲学者:プルタルコス)この現象は落雷によるショックを受けたキノコが、絶滅を防ぐために子孫を多く残そうとする結果と考えられている。実際に椎茸栽培農家では、電気ショックを与えることにより増産効果が得られているという。日本語のキノコの名称には松茸・椎茸・舞茸のように、キノコを意味する接尾語「~タケ」で終わる形が最も多い。タケには「木の子」を意味する茸と、イネ科のタケを現す竹がある。竹では「マダケ」のように連濁が起きる場合があるのだが、キノコを表わす場合本来連濁しない。エノキタケやベニテングタケを、「えのきだけ」や「ベニテングダケ」のように濁音表記することは誤用である。キノコはヒト以外にも、リス・ネズミ・昆虫・ヤスデ類・ナメクジやカタツムリ・キセルガイなどが餌として利用している。日本では「茸型土製品」が縄文遺跡から出土しており、当時からキノコが食用とされていたことが類推される。食用キノコとされているクリタケ・ナラタケ・エノキタケ・シイタケは、過熱が不十分な場合稀に中毒を起こす虞れがあり加熱に十分な注意が必要とされる。自然界にはまだまだ多くの毒性不明なキノコが存在し、スギヒラタケのように従来から食用とされてきたキノコであっても有毒キノコであることが判明する場合もある。毒キノコの確実な見分け方は存在せず、キノコの同定の経験に乏しい人が知らない野生のキノコを食べるのは非常に危険である。食用キノコか否かを、簡単な基準で見分ける確実な方法は現在見つかっていない。食べられるキノコは縦に裂ける、地味な色で匂いの良いキノコ、煮汁に入れた銀のスプーンが変色しないもの、虫が食べているものなどといった見分け方は全く根拠のない迷信である。また食中毒を防ぐためには、笑い話のような「茄子と一緒に料理する」或いは「測候所と書いた紙を入れて調理する」と中らないというような類の話もある。これらの誤った俗説が広まったのは、民間俗信のこれらの話を明治初期の官報に載せたことが原因と言われている。この根拠のない話を官報で広報した役人の罪は、デング熱安全神話を流した研究者と同じ程度に重大である。
2014年09月17日

山荘の北西側の2mも低い処に農業用水路があって、様々な植物の種子が水で運ばれてくる。今年は知らない間にツリフネソウの群落ができて花を付けていた。ツリフネソウ(釣船草)はツリフネソウ属の一年草で、別名ムラサキツリフネ(紫釣船)とも呼ばれる。釣り船では「魚を釣る漁船」を思い浮かべるので、文字の感覚からすれば「吊り船」と書いた方が正しいような気もする。花が舟を吊り下げたような形に見えるところから付いた名前とする他に、活け花に用いる「釣船型の花器」に似ているからとの説もある。花の後部は、渦巻状の突起形をしている。この渦巻状の部分を距といい、蜜が入っている。沖縄を除く日本の低山から山地の水の流れの傍など湿地に多く、直射が遮られるような場所を好む。ツリフネソウに良く似た花を付けるキツリフネは、木の下等の日陰に咲く。花の時期はツリフネソウが9月頃で、キツリフネは約1か月早く8月に咲く。仲間のホウセンカはツリフネソウに良く似た花を付けるが、ニューギニアインパチェンスは全くこれらとは花の形が異なり同じ仲間と聞いて驚かされる。一般にこれらツリフネソウ属の花は葉の下に咲くが、ツリフネソウはその例外である。花の形はキツリフネに似るが、色が赤紫色で後ろに伸びる距の先端が渦巻き状に巻いていることが特徴である。草丈は、80cmほどにも伸長し葉は鋸歯で楕円形をしていて、キツリフネより広披針形に近い傾向がある。茎の先端部から細長い花序が伸び、そこに赤紫色で3~4cmの横長の花が釣り下がるように多数咲く。花弁状の3個の萼と唇形の3個の花弁をもち、距が長く筒状になっている。下の花弁の2枚が大きく、5本の雄しべをつける。ツリフネソウの花はトラマルハナバチに花粉を運んでもらうために、このよう特徴的な形に進化したものである。花の入り口の真上に雄しべがあり、トラマルハナバチが吸蜜のために花の奥に入る際背中に花粉が付いて他の花を訪れた時に授粉する。これだけ進化したツリフネソウにも弱点があって、全く受粉に関与しない大型の「盗蜜クロマルハナバチ」は距の外から穴を開けて直接蜜を盗る知恵を身に着けている。ホウセンカは種子が熟すと、果実は縦に避けそれぞれ種子を包んでいた果実の皮が渦巻き状に巻くように撥ねることで弾けて種子を遠くへ飛ばす。ツリフネソウもこの科に共通の特徴として、果実は弾けて種子を飛ばす仕組みを持っている。学名のImpatiens textoriは、種子が熟すると勢いよく飛び散る様を現したラテン語のimpatient(我慢できない)が語源だという。可憐な花に似ず、全草に毒を含有している。口中に入れると、吐き気などを主徴とする中毒症状が現れる。漢方ではツリフネソウは野鳳仙花、塊根は覇王七といわれる生薬である。夏から秋に塊根を掘り取り、ひげ根を取って日干しにして乾燥させる。塊根は外用薬として用いれば抗毒作用があり、細かく刻み酒に浸すか擂って酢と混ぜて腫れや化膿した患部に塗布する。打撲には、生の塊根を砕いて塗布する。アイヌは、利尿剤として用いたという。良く似た花を付ける、キツリフネは薬効成分を含有しない。 誕生花 9月19日 花言葉 安楽 期待 私に触らないでこの「私に触らないで」の花言葉は、なんとなく理解できるような気がする。
2014年09月16日

不思議は「不可思議」を略した言葉で、普通では考えも想像もできないことの意味である。北杜市大武川沿い一帯は、昭和34年の伊勢湾台風による大水害で流失した。この災害地を復興する際バラバラに点在していた別荘地と交換分合して耕地整理を行い、併せて別荘地は県道脇に集められた。それ以来40年以上原野となっていた場所に十五年前から順次七戸が建築され、内二戸は現在永住している。建築後14年を経過した我が家の半径500m以内には、その他には農家が一軒あるのみである。昨年突然山荘の入り口脇の白樺の樹の下に、白い花の萩を見付けた。緑の中に枝垂れて咲くシロハナハギには、何とも言えない風情がある。山荘には今まで300種を超える山野草や草花・樹木等を植えたが、-15℃にもなる冬の気候に合わず半分ほどは枯死してしまい根付かなかった。14年前に世田谷区の民家の庭から一枝貰って挿し木した宮城野萩は大株になっているが、白花の萩は挿し木したことも植えた覚えも無い。近隣の七戸の庭に、白花の萩を植栽している家はない。ただ県道を1.5kmも上った道路脇の家には、見事なシロバナハギの株がある。萩の種子は楕円形で、扁平の豆果を1つだけ持ち裂開しない。1.5kmも離れた距離を風によって運ばれたとは考えられないし、鳥や動物がこの種子を好むとは到底考えられなくどのように運ばれたのか不思議な思いがしてならない。主に観賞用に植栽される萩にはヤマハギとミヤギノハギがあり、枝垂れるのはミヤギノハギでシロバナハギはミヤギノハギの変種とされるのが一般的である。しかし「茶花大辞典(平成26年5月31日版)」では名称を「白萩」、読みは「しらはぎ」で朝鮮半島原産としている。植物図鑑などで調べても、東北地方に自生するとあるばかりで原産地は明確でない。現在の呼称はシロバナハギが一般的だが、以前はシラハギが通り名になっていたのであろう。正岡子規が26歳の明治26年に詠んだ「白萩の しきりに露を こぼしけり」でもシラハギと読んでいる。シロバナハギは茶花として用いられ、槿・芒・紫紺野牡丹・蔓竜胆などと取り合わせられる。ハギは放牧地や山火事跡・荒れ地などに、最初に根を下ろすパイオニア植物である。痩せた荒れ地にも育つ植物なので特段の施肥を要しないとする一方、油粕や骨粉が必要とする書物がある。萩はその花を見れば明らかなようにマメ科に属し、根瘤菌が空中窒素を固定して宿主に供給するので油粕などの窒素肥料は必要としない。 9月17日の誕生花
2014年09月12日

マンゴーがウルシの仲間と聞くと、最初はだれもが驚く。漢字で檬果または芒果と書き、別名を菴羅とか菴摩羅(仏典に出てくるインドの木で花は咲くが実は少ないところから、仏道を志すものは多いが大成するものは少ないということの譬えに使われる。)ともいう。マンゴーの花粉は水に濡れることで受粉能力が著しく低下するため、雨期に花が咲く沖縄の栽培農家では木を小さく仕立ててビニールハウスで栽培を行っている。花粉を雨から守ることで、受粉率向上させるのが目的である。マンゴーは常緑の高木で、そのまま伸ばせば樹高は10メートル以上にもなる。枝先に黄緑色の小さな花を房状につけ、開花すると猛烈な腐敗臭がする。この腐敗臭により引き寄せられたハエが、マンゴーの受粉に一役買っている。一般に果樹の受粉を助けるミツバチは、25℃以上では活動し難くなくなる。沖縄では気温が高すぎるため、活動ができない。マンゴーは花から腐臭を出すことで授粉昆虫として、ハエを呼び寄せて利用するように進化したと言われている。沖縄北部の今帰仁村で大学の後輩が県庁リタイア後始めた、アップルマンゴー(アーウィン種の俗称)の栽培ハウスを訪れたことがある。受粉のためにハウス下方の一角に直径50cmほどの穴を開け、その下に魚のワタを大量に入れたバケツを置いてギンバエを集めていた。果皮の赤いこの品種の生産量は日本では96%を占めると言われ、市場に出回るのも殆どがこの種類である。アップルマンゴーの最も一般的な果実の長さは20cm、幅13cmほどで形は果梗側が丸く膨らんで先が若干細くなって曲がるので勾玉形とも評される。マンゴーの果皮は種類によって緑・黄色・桃紅色などだが、果肉は全て橙紅色で多汁である。果皮は堅くてやや厚く、熟すと容易に剝けるようになる。未熟果は非常に酸味が強くて食用にはならないが、完熟によって濃厚な甘みが出て独得の芳香を放つ。漆から名付けられたかぶれの原因物質ウルシオールは、ウルシやカシューナッツ・マンゴーの皮に多く含まれており接触性皮膚炎の原因となる。人によってはかぶれによる皮膚炎を引き起こすため、注意が必要である。マンゴー皮膚炎は食べてから数日経ってから発症する場合があり、ヘルペスなどと誤診されることもある。主にフィリピンが産地の「カラバオ」と言われる種類は、果実が扁平でペリカンの嘴に似ていることからペリカンマンゴーとも呼ばれ、果皮は黄色で熟しても酸味がやや強い。果皮が緑色の品種に、キーツマンゴーと言われる巨大マンゴーがある。アップルマンゴーより、収穫時期が遅い。アップルマンゴーに比べ結実する数が少ない上に、熟する時期の判断が難しい品種である。大きなものではアップルマンゴーの5倍の2kgを超えるココナツほどのものもあって、扱い難いこともあって一般には殆ど流通しない。しかし沖縄では、アップルマンゴーより古くから栽培されていたという。収穫期になっても果皮は緑色のままだが、果肉は鮮やかな橙黄色をしていて柔らかく口中でクリームが溶けるような食感である。樹上で完熟しないので収穫したままでは食べることはできず、収穫後2週間ほどの追熟が必要である。糖度は、18度と高い。キーツマンゴーは生産農家が少なく収穫量が極端に少ないためかなり高価で、ネット販売では1.5kgほどのもの一個が8千円もするという。販売時期は限定されていて、8月下旬から9月中旬頃までの短期間である。本来樹高が高くなる性質があるため上に伸びないように、下から紐で引っ張ってハウス内に収まるように枝をコントロールしている。また、2kgにもなる果実の重さで枝が折れないように、上からマンゴーをひもで吊る。キーツマンゴーの栽培には重い果実を釣る紐と、上へ伸びる枝を引き下げるための2種類の紐が必要である。紫外線はマンゴーの大敵で、それを遮るために個々のマンゴーに袋や傘をかけて栽培する。初めて目にする貴重なキーツマンゴーが、6日に沖縄今帰仁から送られてきた。一個の重さが1.3kgもある、キーツマンゴー2個が入っていた。巨大マンゴーと同梱の説明書には、収穫2週間後の13日が食べ頃との添え書きがあった。説明書通りに室温で追熟させていたところ、緑一色だった果皮が果梗部から黄色が濃くなって部屋中に独特のマンゴーの甘い香りが漂い始めた。果梗部をそっと押して見ると、既に耳たぶ程の柔らかさになっており食べ頃を示していた。友人に感謝しながら、ご馳走になった。果肉はアップルマンゴーよりクリーミーで甘く、繊維が無くて固めのプリンの食感であった。ただ巨大さ故に少人数では、何回かに分けないと食べきれないのが贅沢な悩みでもある。
2014年09月11日

日本最古と伝えられ10世紀半ばまでには成立した物語とされる竹取物語は、日本人の殆どの人がその概要を知っている。作者は不明で通称「竹取物語」・「竹取翁の物語」・「かぐや姫の物語」・あるいは単に「かぐや姫」ともいわれる。この物語の主人公かぐや姫が月に帰って行く場面は、次のように描写されている。「…八月十五日ばかりの月にいで居て、かぐや姫いといたく泣き給ふ。人目も今はつゝみ給はず泣き給ふ。これを見て、親どもゝ「何事ぞ。」と問ひさわぐ。かぐや姫泣く泣くいふ。「さきざきも申さんと思ひしかども、かならず心惑はし給はんものぞと思ひて、今まで過し侍りつるなり。さのみやはとてうち出で侍りぬるぞ。おのが身はこの国の人にもあらず、月の都の人なり。それを昔の契なりけるによりてなん、この世界にはまうで来たりける。今は帰るべきになりにければ、この月の十五日に、かのもとの国より迎に人々まうでこむず。さらずまかりぬべければ、思し歎かむが悲しきことを、この春より思い歎き侍るなり。」といひて、いみじく泣くを…。」かぐや姫の迎えは八月十五日の夜であり、この日は満月で中秋の名月と呼ばれる特別な月が出る日でもある。満月は月と太陽の黄経差が180度になる瞬間のことで、望ともいわれる。またこの時に見られる月の形は真円に近い。この月は望月・盈月ともいわれる。月齢では13.8から15.8であることが多く、平均値は14.8である。太陰暦では15日または16日であることが多いので、満月の晩は十五夜と呼ばれる。満月は日没とともに東の空に昇り、明け方には西の空に沈む。地球を回る月の公転軌道は楕円であるため地球と月の距離は変化しているが、地球に最も近づいた近地点に満月または新月を迎えることを「スーパームーン」と呼ぶ。特に最接近して近地点から前後1時間以内に満月を迎えることを「エクストリーム・スーパームーン」と呼び、ほぼ18年に1回の割合で観測できる。今年は、その年に該当していて、円地点の月と比較して1割以上大きく3割も明るい月を観ることができる。旧暦を使用していた1872年頃までは、月の満ち欠けを知ることで農事を行っていたことから満月が豊穣の象徴とされ、十五夜の満月の夜は豊作を祈る祭の行われる大切な節目とされてきた。一方「お月見」は中国の唐の時代には既に満月を鑑賞する風習があり、これが平安時代に貴族の間で広まりやがて武士や庶民の間に浸透していったものが原点でその習慣が現代に引き継がれている。9月8日が旧暦の15日に当たり、中秋の名月と言われる月が昇る日でもあった。暦と月齢とは若干ずれがあるので、満月になったのは9日昼間の10時38分である。8日は列島の南岸を東寄りに進む台風14号の影響を受けて、夕方から小雨が降り出して月の姿を望むべくも無かった。8日の月相と殆ど変らない十六夜と呼ばれる9日は昼頃から薄日が射しだしたのだが、午後3時過ぎには小雨が降り出し空は一面に雲に覆われてしまった。BS1で甲子園球場の野球中継を見ている途中、テレビカメラが雲間から覗く月を写しだしたので若しや関東でもと思って2階のベランダに出るとテレビと全く同じ8日の月相と殆ど変らない満月が顔を出していた。その後9時頃からはすっかり雲が流れて、赤く明るい月を心行くまで観賞することができた。千年前の古人も同じ八月十五日の満月を見ながら、竹取物語の構想を練ったのかと思うと深い感慨を覚える。
2014年09月10日

日本書紀に記されている応神天皇に「茸」を献上した記述の「茸」とは、松茸のことであろうか。古今和歌集や拾遺和歌集には、松茸を詠んだ歌がある。海外からは他に類を見ない日本人のマツタケ好きを、「マツタケに対する愛着が遺伝子に摺り込まれている」とも評価している。マツタケはキシメジ科のキノコで、養分の少ない比較的乾燥した場所を好んで発生する。秋にアカマツ林のほか、落葉広葉樹との混合林の地上にも生える。発生する最適温度は22~25℃で好適pHはやや酸性の4.5~5.5なので、付近に畜舎などができると発生が減ると言われている。発生の最盛期は9月中旬から10月下旬と短く、この時期は金木犀が開花する頃に当たりあの香りが松茸狩りの目安になる。5月から6月頃の時期外れに収穫されるマツタケを、サマツタケ(早松茸)あるいはサマツと呼ぶこともある。マツタケと同じ科に属するキノコに、マツタケ特有の香りが無いニセマツタケ・マツタケモドキや香りのするバカマツタケ・ツガタケなどの近縁種がある。バカマツタケは赤松林ではなく、ミズナラやコナラなどの広葉樹林で発生する。マツタケより小振りで、全体的にやや赤みを帯びているなどの違いがあるが香りはマツタケよりも強い。雑木林に生え、発生時期も早く時期外れに出るところから「馬鹿なマツタケ」と付けられたと言う。これを、「さまつ(早松)」と呼び珍重する地域もある。マツタケに似ていることから、「似たり」とも呼ばれる。味は、「たいへん美味しい」と高く評価されている。ツガタケは栂茸で、夏の終わりから秋の初めにかけて2千m付近の高山の針葉樹林に発生する。径4~7cm、茎の太さ1.5cmほどの太さ、長さ8cmほどの柄をもっている。30年も前知人から富士山5合目付近の栂林で松茸が採れると聞いて、家族で挑戦したことがあるが富士山は多くの場所が入山・茸採取禁止となっていた。天狗が降りて遊ぶという伝説が残る奥庭から、お庭の東屋の裏斜面に入ったところで5本ほどの栂茸を採取したことがある。この茸は静岡側ではツガタケと呼んで珍重されるが、山梨側ではツガフウセンタケの名前で雑茸扱いである。食べ方が分からなかったこともあって、折角採取したキノコはそっと山に戻してきた。松茸には「マツタケオール」による独特の強い香りがあって、日本では食用キノコとしては最高級品に位置する。高緯度で冷涼な地域では8月末頃から発生が始まり、比較的温暖な地域では11月末頃まで発生する。マツタケは、アカマツの樹齢と共に発生・衰退する。樹齢20年でマツタケの発生が始まり、40年前後が最も活発に発生し、80年を超えると衰退する。マツタケの子実体は半径数mの「シロ」を作り、年々その輪が外へ広がる。シロの地中にマツタケの本体である菌糸体と菌根が発達しており、土壌が白くなっている。落葉などが蓄積して富栄養化が進んだ分厚い腐葉土のような環境は、マツタケの発生する環境としては不適である。8月から9月の降水が、マツタケの発生と正の関係があると言われる。山の過剰利用があると退行遷移で、山をアカマツが優占するようになる。痩せた山が、マツタケにとっては適した環境であったため戦後は多く採れた。しかし、松の葉や枝を燃料などとして利用しなくなり人の手が入らなくなったことにより、富栄養化や40年代から急速に全国に広がったマツクイムシによる松枯れでマツタケの収量は激減してしまった。現在日本で流通するマツタケの9割は、輸入物で占められている。このため国産マツタケは高価になり、近年では庶民の口には入りにくくなってしまった。適度に雨の多い年は多く発生し、8月中旬から9月末頃の降水量が少ない年は収量が減少する傾向がある。夏の暑さは、発生量に余り関係が無いと言われる。今年は8月から降雨が多く月遅れのお盆後から急に気温が低下したこともあって、既に産地では8月終わりからコロと呼ばれる小型の松茸が発生し集荷店に続々と持ち込まれるようになったという。伝聞が正しければ、今年の秋はマツタケの豊作が期待できそうである。
2014年09月09日

6日の夜7時半旧暦の8月15日は新暦では一昨年は9月30日で、昨年は9月19日であった。毎年11日ずつ早くなって今年は8日がこの日に当り、旧暦8月15日のこの月を「中秋の名月」と呼び別に「芋名月」とも言われる。旧暦の8月15日は新暦では9月初旬から10月の間に巡ってくるが、9月早々がこの日に当たるのは38年振りになる。ただ十五夜が必ずしも月齢の満月と重なるとは限らず、今年の十五夜の月齢は13.5であるから左が若干欠けて見える。実際には、9日の11時に満月となる。肉眼で見る8日から11日の3日間の月は、天気さえ良ければ満月に近い形で見ることができる。今年は台風11号から天気がぐずつき気味で、8月から現在までの1か月の間澄み切った空に浮かぶ月を心ゆくまで眺める機会は殆ど無かった。6日は十五夜の2日前だから若し暦と月齢が重なっていたら十三夜の月なのだが、生憎月齢は11.5なのでかなり左端の欠けた歪な月が見える筈であった。6日の北杜市には前日から雷雨・大雨・洪水注意報が出されており、月を観ることができるのかどうか微妙な状況であった。しかし早朝から雲がとれ久しぶりに外気温は30℃を超え、さらに湿度も高い真夏日が戻ったため外の仕事は体に堪えるほどであった。幸い日中は降雨がなかったものの、午後から甲斐駒ケ岳を覆い始めた雲は夕方には空一面をすっかり覆ってしまいアマガエルが降雨の近いことを予言するようにしきりに鳴き始めた。月の出はすっかり諦めていたのだが、7時半を過ぎて天窓に急に明るい月の影を見て急いでカメラを持って外に出た。中天に近い南の空の黒い雨雲の間から歪な月が顔を覗かせたが、レンズ交換をしている間に早くも雲に覆われてすっかり姿を隠されてしまった。10時を過ぎるころからは猛烈な降雨となり、時間のずれはあったが天気予報は見事に的中した。あの10分ほどの間に、6日の宵の月を見た人は少なかったに違いない。道の駅の花売り場には、ススキ・女郎花・吾亦虹などがセットになった十五夜飾りの花が沢山売られていた。都会から来た人が、買って帰るのだろう。一部の地域では、この月を芋名月と言う。丁度里芋の収穫が始まるころで、それを月に供えるところから付いた名前という。しかし里芋は霜の降りる前まで芋が太るので、今は未だ収穫の時期では無い。10月の末になって収穫するのだから、今収穫したのでは40日以上も早いことになる。昔の人は、気が早かったのかも知れない。
2014年09月08日

10数年前に親戚からお盆の飾りに使った後の丹波ホウズキの実を一個貰い受け、山荘の菜園の片隅に蒔いた種から繁殖したホウズキが菜園の1/7以上に広がってしまった。今年はついに除草剤ラウンドアップを散布して、菜園の中心部から撤退を願った。それでも隅に生き残った個体が、8月を過ぎて赤く色づいて来た。ホオズキ(鬼灯・酸漿)はナス科の多年草で、一般的には鬼灯と書かれることが多く別名は輝血(カガチ)古名は奴加豆支(ヌカヅキ)と言う。東南アジアが原産地で、温帯の南欧やアメリカ大陸などには近縁種が自生している。観賞用・食用として栽培され、赤い提灯がぶら下がったようで愛らしいところから、古くから親しまれてきた植物である。ソメイヨシノが咲く頃地下茎から芽を伸ばし、5~6月頃には茎の各節に殆ど白く見えるクリーム色の花を咲かせる。受粉すると果実と一緒に萼も大きく成長し、袋状になって果実を包み込む。育った緑色の萼は8月頃になると、実と共に綺麗な朱赤色となる。東京のお盆行事は7月に行われ、浅草寺のほおずき市も同月9日と10日に行われる。この時期に売られる真っ赤に色づいたホウズキは、収穫15日前に2-クロロエチルホスホン酸(エスレル10)という植物成長調整剤を撒布処理して着色し出荷調整したものである。熟したホオズキの袋状の萼は、数日水につけておくと柔らかい組織が溶けて網だけが残りこれもまた自然の造形美として趣があり飾って楽しむことができる。ホオズキ栽培で最も注意しなければならない害虫は、「ホウ」と呼ばれるホウズキカメムシである。大豆等に着く緑色のカメムシと異なりカメムシ特有の異臭は出さないのだが、茎から葉・袋までギッシリと群がる灰色をしたカメムシはホウズキの大敵で、放置すると実がつかなかったり酷くなると木を枯らしてしまうこともある。ホウズキの名前は、果実の中身を取り出して袋にしたものを口に入れて鳴らして遊ぶ様子が頬を突き出しているように見えるところから「頬突き」→ホオズキに、あるいはこの植物につくカメムシの「ホオ」が好きな植物だから「ホオ好き」の名前になったという説もある。因みにこのカメムシには、ホウズキカメムシの和名がついている。中国語では酸漿のほかに金灯・錦灯籠などと呼ばれ、英語ではその見たままにChinese lantern plant(提灯植物)と呼ばれている。ナス科植物は全草にアルカロイドを含んでおり、平安時代から鎮静剤として利用されてきた。新撰字鏡には酸漿として、「五月採實陰干蛇心益氣 加我弥吾佐臨監奴二陣支」の記載がある。ホウズキの地下茎は、生薬名を酸漿根という。酸漿根には子宮の収縮作用があるヒストニンが多く含まれ江戸時代には、堕胎剤としてこれが利用されていた。ホウズキは日当たりの良い場所に植えて、ナス科の植物との連作を避け水切れの注意とカメムシ退治に気をつければそれほど栽培は容易である。世界の温帯地域に80種類ほどが知られているが、園芸品種では実が大きくて赤く色づく時期が早い丹波ホウズキヤ名古屋大実ホウズキに人気がある。 鬼灯や 野山をわかつ かくれざと 万太郎 花言葉 偽り ごまかし
2014年09月05日

甲斐駒ケ岳の東麓の標高600mを超える山里でも、この10数年の間に多くの山野草が姿を消して滅多に見られなくなった種も多い。秋の七草のススキや葛は勝手に蔓延っているが、女郎花・河原撫子・桔梗・藤袴などの自然の姿を見なくなった。七草には数えられていないが、かつては土手の到る所に生えていたワレモコウも少なくなった植物の一つであるワレモコウはバラ科の植物で、かつては日本列島の山野では普通に見られた植物である。冬は地上部が枯れて地下茎の状態で越冬し、春に再び芽を出す多年草である。タンポポと同じように生長点が土中の根にあるので、地上部を刈り取っても再び芽を吹く丈夫な植物である。地下茎は、太くて短い。山荘造成の盛り土に種が混じっていたらしく、突然芽を出し以後庭の到る所に広がった。放任すると花茎が2mを超えるほどにも伸びて、枝の間がだらしなく疎になり見栄えが悪くなる上甲州特有の強風で倒れ易くなる。7月初め頃50cmほどに伸びた茎を一旦地際から切り戻すことで、芯の詰まったコンパクトな花を咲かせることができる。今年はうっかり切り戻し作業の時期を失してしまったので、2mを超えるほどにも伸び8月の台風11号の強風と豪雨によってすっかり倒伏してしまったので支柱を立てて誘引した。夏の前から茎を伸ばし始め秋には茎の先端に小花が密集し、卵形をしたネコヤナギの花に似た穂状の可憐な花をつける。穂は短い楕円形の濃いチョコレート色をしており、花弁は退化していて花に見える部分は実際には萼である。花穂はネコヤナギに似て見た目には柔らかそうだが、案外にガサガサとした硬い小さな松毬のような手触りに吃驚する。穂状に小花を咲かせる植物は一般的には下から先端に咲き進むものが多いが、ワレモコウは逆に先端から下に開花していく「有限花序」である。太い根にはタンニンを多く含有しており、漢方では止血薬などに用いられる。また、若葉は茹でてアクを抜けば食用になる。ワレモコウには様々な漢字が当てられており吾木香・吾亦紅・我亦紅・我毛紅・地楡(漢名)などと標記され、別名に酸赭、山棗参、黄瓜香、豬人參、血箭草、馬軟棗、山紅棗根などがある。「吾木香」の意味は日本の木香を意味しており、インド原産でキク科の薊に似た花を咲かせる木香の根に似ているからとする説。「吾亦紅」は和歌や俳句などにも一般的に使われ、その由来についてそれらしく聞こえる尤もらしい作話が伝わっている。「名前を付ける際この花の色は何色だろうとの論議があり、茶色・こげ茶・紫などと夫々が言い張った。そのときどこからか、「私は紅だと思う。」と言う声が聞こえた。長老には花が自分で言っているように聞こえたので、「花が自分で言うんだったら、われ(自分)も紅である。」と言ったことから「我亦紅」となった。」という。また割木瓜の木瓜とは漢民族が鳥の巣と卵を表した丸い模様のことで、ワレモコウの小花の形が割れ目を入れた木瓜の模様に似ているからだという。漢名や漢方では「地楡」と呼ばれ、漢方では清肺湯や槐角丸に配合される。根に含有されるタンニンやサポニンは、収斂薬目的で止血や火傷・湿疹の治療に利用される。 吾も亦 紅なりと ひそやかに 虚子 10月28日の誕生花 花言葉 愛慕
2014年09月04日

フジバカマは花色と葉の形が異なるだけで、花がそっくりなヒヨドリバナと同じ多年草で、秋の七草の1つに数えられている。「和名抄」(932)に、「蘭の名に対して、本草和名では、布知波加万と言う。新選万葉集では、別に藤袴の二字を用いている」という記述がある。 小さいピンク色をした蕾が沢山つき、開花するとやや白っぽい藤色になる。花筒を抜いて見ても一向にそのようには見えないが、万葉人は花弁を袴の形に見立て「藤色をした袴」が語源となったとされる。 10年ほど前、旧愚酔庵の庭から二株を分けて貰って山荘の庭に植えたものが一時は大株になったのだが、ヤマボウシの成長と共に樹陰となった一株は姿を消してしまった。別の場所に植えたもう一株も庭木の下で気息奄々としていたのだが、昨年末に思い切って樹の枝を払った所今年は勢いを盛り返して沢山の花茎を伸ばし茎頂にピンクの蕾を付けた。フジバカマは生葉を採って暫く部屋におくと、桜餅に似た芳香を発するようになる。古く中国では、花の枝を簪や香袋として身に着けていた。日本では平安時代には現代のラベンダー利用と同じように、女性が防虫・芳香の目的で干した茎や葉っぱを水に浸漬して髪を洗ったり身に着けたという。さらに、お茶として飲用目的でも利用された。しかしこの香りの元になるクマリン配糖体には肝毒性があるため、日常継続的に大量摂取することは避けるべきである。原産地は中国とされ奈良・平安時代には帰化して雑草化したが、万葉の昔から日本人に親しまれてきた植物である。渡来時は「蘭(ラン・ラニ)」と呼ばれたが、間もなく「ふじばかま」と呼ばれるようになった。夏の終わりから秋にかけて茎の先端に直径5mmほどの小さな花を、長さ10cm前後の房状に多数咲かせる。やや湿った、草原や疎林に自生する。繁殖力が強く地下茎が伸びて広がるため、自生地では密生した群落を作るが、現在は自生に適した環境が無くなったことによりその個体数が激減し絶滅危惧種に指定されている。芝蘭生於深林 不以無人而不芳。 君子修道立徳 不謂窮困而改節…。「家語(在厄第二十)」孔子(しらんはしんりんにしょうじ ひとなきをもってかんばしからざることあらず。くんしはみちをおさめとくをたて、こんきゅうのためにせつをあらたむることなし…。)フジバカマは別名を香草(漢名)・蘭草(漢名)・香蘭・王者香といい、「家語」で孔子が言う「蘭」はフジバカマを指している。生では無香のフジバカマだが、乾燥によって茎や葉に含有しているクマリン配糖体が加水分解されてオルト・クマリン酸が生じるため芳香を放つ。奈良時代に香料として唐から輸入したものが、野生化したといわれる。山上憶良が秋の七草として歌に詠み込み、源氏物語五十四帖の巻名「藤袴」は夕霧が詠んだ「同じ野の 露にやつるる藤袴 あはれはかけよ かことばかりも」から付けられた名前として知られる。蕾はピンクが強いが、開花と共に花色は呆けてくる。ススキの穂は別にして秋の七草の中では最も目立たない花と思われ、古人は何故この植物をこれほど愛したのか不思議な感じがしないでもない。花よりむしろ、その香りを愛でたのかも知れない。 花言葉 ためらい
2014年09月03日

山荘の菜園に今年3回目に播種したキュウリ40株が、月遅れのお盆過ぎには蔓の高さ2mを超えるほどに伸ばし実を付け始めた。丁度実が成り始めた頃から、全国的に降雨と低温傾向が続き8月末になって野菜はそれ以前の2~3倍以上にも高騰している。8月30日のニュースではキュウリが一本100円もしているというが、我が家では若採りキュウリが菜園で食べきれないほど採れるので買ったことはない。ただ往復のガソリンと高速代を考えると、40本収穫できたとしてもキュウリ1本が250円にも相当する。きゅうりはウリ科の温暖な気候を好む蔓性の一年性草本で、果実もそう呼ばれる。かつては黄色に熟した実が食用とされたのだが、味が薄く日本人の口に合わなかったためにあまり普及しなかった。その後未熟な青い実を食用とするようになって、その食感とカリカリした歯応えから一般人にも食べられるようになり全国に広まった。ヒマラヤ山麓原産とされ、日本には平安時代に渡来して栽培されるようになった。漢字の胡瓜の「胡」は、シルクロードを経由して渡来したことを意味している。漢字で「木瓜」または「黄瓜」と書いていたことに由来して、キュウリとなったという。光によって発芽が抑制される嫌光性種子なので、播種の際は土を種の直径の2~3倍の深さに被せる。黄色で甘い香りのする花を咲かせるが生育環境や品種、温度条件により雄花と雌花の比率が異なる。雌雄異花ではあるが受粉しなくても子房壁や花床が肥大する単為結果なので、雄花が咲かなくとも結実する。葉は鋸歯状で大きく、果実を直射日光から防御する日除けの役割を持っている。長い筒形の果実は生長が非常に早く一週間で50cmにまで成長し皮と種が硬くなる上苦味も出るため、開花4~5日の柔らかなうちに収穫する。果実色は濃緑が一般的だが、淡緑や白のものもある。根の酸素要求量が大きいため、過湿等土壌の悪条件下では根は浅く土壌の上部に集中する。キュウリは古くから、食用の野菜として栽培されてきた。栄養的価値は殆ど期待できないが、歯ごたえのある食感とすっきりとした味わいがありまた、水分を多く含むことから暑いときの水分補給用として重用された。中国には初めビルマ経由で、水分含有量の少ない南伝種が伝来した。後から瑞々しい北伝種がシルクロード経由で伝来するまでは、南伝種を完熟させてから食べていた。その後南伝種は漬物や酢の物に加工され、北伝種は生食にと使い分けがされるようになった。今でこそトマト・ナス・キュウリは家庭菜園の三大作付け野菜の一つだが、徳川光圀も貝原益軒も不味いと書いているように江戸時代末期まで日本でも人気のある野菜ではなかった。幕末になって現在の東京都江東区で品種改良が行われ成長が早く、歯ごたえや味の良いキュウリが作出されると一気に人気が出て広まった。10度以下の低温また25度以上の高温、に弱い上、他のウリ科植物との連作にも弱い。根が浅いため乾燥に弱く、高温乾燥が続くとあっという間にうどん粉病などの病気が出て枯れる。適温状態で種まきの時期をずらして栽培すれば、秋まで収穫可能である。収穫直後のキュウリには小さな蕀のようなイボがあり、素手で触ると痛い。このイボは鮮度が失われるにつれて硬さが失われるので、鮮度を見分ける目安になる。イボの部分に病原性大腸菌O157などの病原細菌が付着すると簡単な洗浄では洗い流すことができなく感染する恐れがあるとして、イボの無い品種も開発されている。まだ実が小さいうちに収穫したものは、「もろきゅう」といって生で食べる。さらに未熟で花の付いた物は、刺身のツマとして利用され「花丸キュウリ」と呼ぶ。キュウリは全体の90%以上が水分で、ビタミンC、カロチン、カリウムなどの栄養素が含まれているが含有量は微々たるもので栄養的価値としては低い。ビタミンCを酸化するアスコルビナーゼを含んでいることから、一部にはキュウリを食べるとビタミンCが破壊されるという説を唱える人がいる。しかし実際にはアスコルビナーゼは、還元型のビタミンCを酸化型ビタミンCに変えるだけである。ビタミンCには酸化型⇔還元型という可逆性があるので、酸化型に変わったビタミンCが体内では還元型に戻るため酸化型も還元型もビタミンCとしての効果は変わらない。現在は収載されていないが、ギネスブックに「世界一カロリーの低い果実」として載ったことがある。(1987年)一方で利尿作用があり浮腫、逆上せの改善に効果的とされ比較的多く含有されるカリウムは血圧降下の効果も期待できる。 花言葉 洒落
2014年09月02日

茗荷については、ひこじいさんのブログ「お釈迦様の弟子が名前の由来?」に詳しく記載したが、今でも食べると物忘れがひどくなるとの俗信が若い人の間にも根強く伝わっている。この言い伝えには全く根拠が無いのだが、あの独特の清々しい香りと歯触りを好まない若い人が多く、食べない言い訳の常句として伝わるのではないかと考えられる。物忘れ云々の発端は「釈迦の弟子の槃特は非常に記憶力が悪く、自分の名前すら覚えられないほどで、釈迦はこんな槃特を憐れんで名前を思い出すことのできるようにと、名荷(名札)を首にかけてやったが槃特は名荷を首に着けていることさえも忘れてしまい、一生自分の名前を覚えることができなかった。その槃特が死んだ後、彼の墓から見たこともない草が生えたので、名札をつけた槃特に因んで名の廾(茗)で茗荷という名前をつけたという故事から、そのような俗信が生まれたものである。(標準植物図鑑全集13)」。しかし、みょうがは奈良時代には「売我」「女我」と書いて「めが」と呼ばれており、平安中期になって「茗荷」の漢字が当てられたとされる。語源をその持つ香りから「芽我」とする説と、生姜を男の「兄香(せが)」といいそれに対比して茗荷は女の「妹香(めが)」と言ったことに由来する説とがあるが、今では芽香が通説となっている。メガが変化してミョウガになり、さらに後から音の響きが似ている「茗荷」の字を当てたものであるから「お釈迦様の弟子が名前の…」は全く根拠が無いことが分かる。この伝聞から作られた「みょうが宿」という、古典落語がある。宿の主人夫婦が泊まり客の預けた大金を忘れさせようと相談して、ミョウガを使った様々な料理を食べさせると客は預けた大金を思い出して代わりに宿代を払うのを忘れしまい、夫婦は徒労の上に損をしたという内容である。この話が基になって、「鈍根草(どんこんそう)」の別名でよばれることもある。私は幼児の頃から何でも食べたので茗荷に対しての拒絶反応は無いが、孫はミョウガを刻んだ包丁から、薬味ネギに移った僅かな香りにも拒否反応を示す。香り成分のα-ピネン類には研究に依れば、集中力を増す効果があることが明らかにされている。ミョウガの子は今では一年中店頭で販売されるが、本来旬は夏のもので夏ミョウガと秋ミョウガが知られている。夏ミョウガは8月の初旬から、秋ミョウガは9月の中旬から下旬にかけて発生する。ミョウガの子と呼ばれるものは根茎から直接出た花穂で、内部に開花前の蕾を3〜12個を持つのでこの部分を「花蕾」と呼ぶ場合もある。茗荷の仮茎の根元から、数個の花穂が出る。開花前は土と一体化して探しにくいが、幾つか花が咲くと簡単に所在が分かる。山荘の菜園の隅に2坪ほどのミョウガ畑を作ったのだが、5年ほど前から猪が闖入するようになって挙句の果てにあろうことかヌタバにして50cmにも及ぶ穴を掘ってしまった。こんな理由で最初に植えた場所では茗荷がほとんど絶滅に瀕しているのだが、自宅から運んだ植え木の根に付いていた根茎が移植した庭木の下で、今では本家より大きな茗荷畑となっていて、今年も8月お盆のころから大量に花穂を出した。5kgのミョウガはとても自家消費しきれないので、半分ほどを親戚に送った。薬味や胡瓜揉みなどにして食べるのも良いが、洗って水気を切ったミョウガを味噌の中に埋め込んで味噌漬にしたものは格好のサケの肴になる。これが最も簡単な加工方法であり、その香りも活かされる。ミョウガには食欲増進・不眠・月経不順に有効とされ抗菌作用もあって口内炎や風邪の予防にも良いと言われる。 9月2日の誕生花 花言葉 忍耐葉が茂って湿り気のある薄暗い土の上に、明るいクリーム色の綺麗な花が咲く様子からつけられたと言う。
2014年09月01日
全19件 (19件中 1-19件目)
1


