PR
カレンダー
カテゴリ
コメント新着
キーワードサーチ
鷲田清一
と 内田樹
、少なくとも関西では 「リベラル」
の代名詞のお二人というべきでしょうか。そのお二人が、これは見取り図というのがいいのでしょうね、総論的な 「大人学のすすめ」
という対談で始めて、新聞や雑誌に掲載された、それぞれの評論を各論として配置し、お二人共通の得意分野から
現代社会について論じた話が面白い本です。ハヤリというか、話題になっている事象を 「身体感覚と言葉」
というポイントでまとめた本ですね。
表題は 「大人のいない国」
というわけなのですが、とりあえず、 「大人って?」
という疑問に答えるべく、 「成熟と未熟」
というプロローグで 鷲田さん
がこんなことをおっしゃっています。
働くこと、調理すること、修繕すること、そのための道具を磨いておくこと、育てること。おしえること、話し合い取り決めること、看病すること、介護すること、看取ること、これら生きてゆく上で一つたりとも欠かせぬことの大半を、人々はいま社会の公共的なサーヴィスに委託している。社会システムからサーヴィスを買う、あるいは受け取るのである。これは福祉の充実と世間では言われるが、裏を返して言えば、各人がこうした自活能力を一つ一つ失ってゆく過程でもある。 ひとが幼稚でいられるのも、そうしたシステムに身をあずけているからだ。
近ごろの不正の数々は、そうしたシステムを管理しているものの幼稚さを表に出した。
ナイーブなまま、思考停止したままでいられる社会は、じつはとても危うい社会であることを浮き彫りにしたはずなのである。それでもまだ外側からナイーブな糾弾しかない。そして心のどこかで思っている。いずれだれかが是正してくれるだろう、と。しかし実際にはだれも責任をとらない。
この本は 2008
に出版された単行本の文庫化です。したがって、ここで 「不正」
と呼ばれているのは、東北の震災以前の出来事を指しています。震災以降の被災者の救済や援助、原発事故や放射線被害をめぐっての問題や、最近の 小学校の新設
や 花見の名簿
の話ではありません。
にもかかわらず、政治権力の中枢、大企業の経営責任者、高級官僚、マスメディア、果ては司法に至るまで 「だれも責任をとらない」
社会は、証拠隠滅、被害者のメディアからの隠蔽という 「恐怖社会」
の様相を呈して広がっています。
震災直後、話題になった 「てんでんこ」
という言葉を思い出しますが、どうも 「何とかの耳に念仏」
であったようで、社会全体の 「幼稚」化
、 「大人のいない国」
の症状はとどまるところを知らないかのようです。そういう意味で、この本は全く古びていませんね。
詳しい内容なお読みいただくほかありませんが 「なるほど」
と納得したところはたくさんあります。 が、中でも、 第 4
章 「呪いと言論」
と題された章にある 内田さん
のこんな言葉でした。
私が言葉を差し出す相手がいる、それが誰であるか私は知らない。どれほど知性的であるのか、どれほど倫理的であるのか、どれほど市民的に成熟しているのか、私は知らない。けれども、その見知らぬ相手に私の言葉の正否真偽を査定する権利を「付託する」という保証のない信念だけが自由な言論の場を起動させる。「場の審判力」への私からの信念からしか言論の自由な往還は始まらない。「まず場における正否真偽の査定の妥当性を保証しろ」という言い分を許したら言論の自由は始まらない。
ネット上に蔓延する 「ヘイト」
をめぐっての論考の結語ですが、ぼく自身 「ブログ」
などという方法で、誰が読むのかわからない 「言論」
をまき散らしているわけです。しかし、この案内にしてからがそうなのですが、書いている当人は 「カラスの勝手」
というわけではなく、 「誰か」
に向かって書いているわけで、その 「誰か」
の確定は結構難問なわけです。
とりあえず、 内田さん
のこの言葉は、一つの灯りのように思えたというわけです。
小さな本ですが、考え始める契機になることもあると思いますよ。
追記2022・02・06
内田樹
と 鷲田清一
という二人の哲学者の著書には紹介したいものが多いのですが、落ち着いて1冊づつという構えができていません。コロナ騒ぎは収まりそうもありません。どうせ家の中に閉じこもっているのですから、古い本を読み直すいい機会かもしれません。できれば、今年はお二人の足跡をたどり直してみようかと思っています。
週刊 読書案内 糸井重里「ボールのよう… 2022.05.12
週刊 読書案内 高橋源一郎「『ことば』… 2021.08.31
週刊 読書案内 高橋源一郎「読むって、… 2021.03.04