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鍵穴はどこにもなかった。 とりあえず、紹介すると、主人公は 富井省三 、58歳、職業は公務員です。家族は妻 靖子 に三年前に先立たれ、息子の 朔矢 は結婚して家を出ていて、大学を出たばかりの娘の 梢枝 も 靖子 の一周忌が過ぎたころ書置きだけのこしてでていってしまった結果、いわゆる、一人暮らしの男やもめです。
最近の住宅にはあまりない、白いペンキを何度も塗りなおした木製のドアはいつもと何ら変わりはなかった。年季の入った真鍮のドアノブも見慣れた通りだった。
しかし、ドアノブを支える同素材のプレートなのっぺらぼうで、丸の下にスカートを穿いたかたちの鍵穴は形跡さえなかった。鍵でつついても、指でなぞっても、しゃがんで見直しても、五秒目を閉じても、ややがさついた手触りの真鍮の板には凹みも歪みもなかった。
鍵穴があらまほしき場所にないのだった。
そんなばかなことがあるものか。
二、三度チャイムを鳴らしてみたが、もちろん誰が出てくるわけでもない。ドアノブをつかんで前後にゆすぶってもごとごとと鍵のかかっている手応えがあるばかりだった。
もちろん鍵は手の中にある。しかしその鍵は受け入れられない。
鍵穴だけが消えてしまったのだった。
富井省三は、締め出された。(P5~P6)
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