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子育てで一番大切なのは「しつけ」ではありません。勉強が出来る子に育てることでも、お母さんの言うことをよく聞く子に育てることでも、ケガや病気をさせないことでもありません。私が考えている「子育てで一番大切なこと」は「幸せに生きる能力」を育てることです。そもそも、子どもはお母さんのペットでも所有物でもないのですから、お母さんの思い通りに育てようとすること自体がおかしいし、またそんなこと出来ないのです。子どもがまだお母さんが大好きで、生活の全てをお母さんに依存している時期なら、子どもはお母さんに好かれたくて、お母さんに嫌われたくなくて、お母さんの言うことを聞きます。「いえいえ、そんなことはありません、うちの子は私の言うことを聞きません」と言うお母さんは多いですが、そのようなお母さんが子どもに求めていることの多くは、子どもがどんなに頑張っても出来ないようなことばかりです。2,3才の子に「ジーッとしていなさい」と言っても無理です。やる気があるかないかではなく生理的に出来ないのです。「ゲームは時間を守って」と言っても無理です。ゲームをやっている時には時間など気にしません。それに、分かっていても止められません。そもそも、幼い子どもには「ガンバル」とか「自分の意思で自分の欲望を制御する」という能力自体がないのです。自分の意思で頑張ることが出来るようになるのは、思春期が来て自我が目覚めた後からです。それ以前の子でも、「アメとムチ」をうまく使えば、子どもの行動をある程度はコントロール出来るようになります。でも、その方法を使うと、子ども自身の「意思の育ち」が阻害されてしまうので、思春期が来てもしっかりとした自我が形成されず、自分の意思で頑張ることが出来なくなります。自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で行動する能力が育たなくなってしまうのです。そして、常に誰かや何かに依存していないと不安を感じるようになってしまいます。指示や命令を出してくれる人がいないと自分の行動を決められなくなってしまいます。また、出来る出来ないという以前に、子どもには大人の言葉が理解出来ません。確かに、子どもたちは一見、「大人と同じ言葉」を話し、「大人の言葉」を理解しているように見えますが、子どもたちはただ大人の言葉を真似し、大人の仕草や感情に反応しているだけで、その言葉の本当の意味が分かっているわけではないのです。外国の人から自分が知らない言葉で色々と話しかけられても、表情や身振り手振りでなんとなく「言いたいこと」は分かりますよね。子どもたちもそんな状態で、大人の言葉を聞いているのです。「ジーッとしていなさい」と言われても「ジーッと」という言葉の意味が分かりません。「危ないから止めなさい」と言われても「危ない」という言葉の意味が分かりません。「触ってはいけません」と言われても「触る」という言葉の意味が分かりません。「反省しなさい」「約束しなさい」も同じです。幼い子どもには「反省」の意味も「約束」の意味も分かりません。「お金」という言葉は知っていていても「お金の価値」は分かりません。「死ね」「コロスゾ」という言葉が相手を脅かす言葉だと言うことは知っていますが、その言葉の本当の意味は知りません。「時間に関する言葉」「空間に関する言葉」も分かりません。「社会に関する言葉」、「抽象的な概念とつながった言葉」も分かりません。本当は、「1+1=2」だって分かっていないのです。ただ、「1+1」は「2」になると知っているだけです。そもそも言葉や、アメやムチだけで仕付けや子育てをしようとすること自体が不自然だし無理なんです。最初に書いた通り、私が「子育てで一番大切なこと」として考えているのは、子どもの「幸せに生きる能力」を育てることです。そのためにはまず、「生まれてきて良かった」という喜びを味わわせる必要があるのです。まずは「安心」が必要ですが、それと同時に「喜び」も必要なんです。お母さんが「しつけ」に夢中になってしまうと、子どもは「喜びの体験」が出来なくなってしまうのです。その子どもの喜びは、お母さんやお父さんや家族の喜びと共にあります。「喜び」は共有されることで「本当の喜び」になるのです。そして、毎日の生活の中の小さな喜びの積み重ねが、「生まれてきて良かった」という実感につながるのですまた、その「生活の中の小さな喜び」の体験が、やがて、感じる喜び、行動する喜び、自分を表現する喜び、お母さんや仲間と繋がる喜び、遊ぶ喜び、発見する喜び、考える喜び、学ぶ喜びの発見に繋がって行くのです。お母さんと一緒にお掃除をする、お母さんと一緒にお料理をする、お母さんと一緒にお散歩する、お母さんと一緒に歌を歌う、お母さんに絵本を読んでもらう、お母さんに色々な話を聴かせてもらう、そんなことだけで子どもは喜びを感じるのです。それは子どもの笑顔を見ているとよく分かります。(お母さんだけではないですけど)そしてその積み重ねが、子どもの「喜びを感じる力」を育て、やがて「自分らしく生きる意欲」の目覚めを促してくれるのです。そしてそれが「幸せに生きる能力」の育ちを促してくれるのです。また、子どもの笑顔が、「自分のやっていることは間違っていない」というお母さんの自信を育ててもくれます。でも今「悲しみや苦しみを感じる力」ばかりが育っている子どもが多いのです。そのような子は、自分で自分を否定し、人を羨んでばかりいます。
2022.05.31
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知り合いから「みんなの学校」という映画へのお誘いを受けました。こういう映画です。<みんなの学校公式ページ>素敵な学校です。素敵な取り組みです。それはそれで素晴らしいと思います。じゃあ、こういう学校があれば、こういう学校に通わせればどんな子でも、人間として素敵な子、自分の人生をちゃんと生きることが出来る子に育つのかというとそんなことはありません。これは幼稚園でも同じです。「シュタイナー幼稚園じゃないとダメ」、「モンテッソーリ幼稚園じゃないとだめ」的な考え方をする人もいますが、シュタイナー幼稚園を出た子、モンテッソーリ幼稚園を出た子がみんな素敵な子、素敵な大人に育つわけでもありません。どんな素敵な幼稚園や学校であっても、お母さんやお父さんが幼稚園や学校に依存してしまって、本来、親としてやるべきことを忘れてしまっていたら、子どもは自分の人生を自分らしく生きることが困難になってしまうのです。幼稚園や学校は、親と共に子どもの成長を支えるパートナーであって、子どもの育ちを委託する場所ではないのです。そこの所を勘違いしていると、どんなに素敵な幼稚園や学校を選んでも、子どもは幸せになりません。また、親がちゃんと子ども自身や子どものの成長と向き合っていないのなら、いくら幼稚園や学校が一生懸命に子どもと関わっても、子どもの状態は変わりません。先生達が熱心に関わることで一時的には変わっても、親が無関心ならばまたすぐに元に戻ってしまうのです。それに、学校は一人の子だけに関わり合うことが出来ません。一生付き合うことも出来ません。悲しい時、苦しい時に一緒に居てあげることも出来ません。それは学校の役割ではないからです。それが出来るのは親だけなんです。学校は、子どもに「社会人としての価値観やルール」を教えることは出来ます。でも、「一人の人間としての価値観や生き方」は教えることが出来ません。子どもは一人一人異なった人生を生きているのですから。親に満たされないものを学校の先生に求める子もいますが、先生はその気持ちが分かっても、その希望に応えることが出来ません。先生には先生としての役割があるからです。子どもがどんなに求めても、先生は親の代わりにはなれないのです。どんなに素敵な幼稚園に通うことが出来ても、やがて子どもはその幼稚園を卒業しなければなりません。どんなに素敵な小学校に入学できても、6年間経てば子どもはその小学校を卒業しなければなりません。中学校も、高校も同じです。そしてやがて、誰も守ってくれない社会に出て行かなければならなくなります。その全課程を通して子どもを支え続けることが出来るのは親だけなんです。学校としての基本的な役割は知識を教えることと、集団行動のルールを教えることです。時として、素敵な先生が、「先生としての役割」を超えて、人間として子どもと向き合い、子どもに一人の人間としての生き方を見せることもありますが、それを全ての先生に求めることは出来ないのです。それに、みんなが先生にそんなこと求めたら、先生のなり手がいなくなってしまいます。でも、自分に自信がないお母さんほど子育てを幼稚園や学校に委託しようとしています。そして最近、子どもの育ちを幼稚園や学校に依存しようとしているお母さん達がいっぱいいます。でも、どんなに素敵な学校でも「出来ること」と「出来ない事」があるのです。続きます。
2022.05.30
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現代人は、子どもも大人も待つのが苦手です。確かに、有名ラーメン店やディズニーランドのような場所ではみんな行儀良く待っていますが、でも、その間もゲームをしたり、スマホを見たりしています。ですからそれは、お料理などでタイマーをセットして、その間に別のことをしているのと同じであって、心の働きとしては待っているわけではありません。うちの教室でも、子どもたちは待つことが出来ません。待たされるとイライラするか、そのことを忘れて、他のことを初めます。そして、そのような「待つことが出来ない子」には一つの特徴があります。それは、受動的で指示待ちの子が多いということです。自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で行動することが苦手な子が多いのです。逆に、待つことが出来る子は、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で行動することが出来る子が多いような気がします。そしてこれは大人でも同じだと思います。正解ばかりを求め、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で行動するすることが苦手な人ほど待つことが苦手なんです。そのため、待たされるとイライラします。子どもにいつも「早くしなさい!!」と怒鳴っているような人はそのような人なのだと思います。でも、いくら怒鳴っても子どもはお母さんの期待通りの早さで行動することはありません。なぜなら、子どもの動きは「感情の働き」と密接につながった生理的な現象であって、大人のように頭によって支配されているわけではないからです。ですから、いくら怒鳴っても、叩いても、子どもは自分の動く速度を変えることは出来ません。どんなに「速く歩きなさい」と叱っても、無駄なんです。そしてそれは子どもの責任ではありません。オタマジャクシに「ジャンプしろ」と要求しているのと同じだからです。でも、待つことが出来ない人はそれを子どものせいにしてイライラします。相手の立場に立って考えることが出来ないからです。待つことが出来ない人は常に自分中心にしか感じたり考えたりすることが出来ないのです。だから待つことが出来ないのです。もし子どもを早く歩かせたいのなら、子どもの立場に立って子どもが楽しくなるような工夫をすることです。それは例えば「あそこの木まで競争しようか」と誘うような工夫です。そういう工夫がないまま追い立てられていると、子どもはいつもお母さんの機嫌ばかりを見るようになり、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で行動する能力を育てることが出来なくなります。また、現代社会は便利な機械と、便利な社会システムのおかげで、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で行動しなくても生活できるようになっています。その変化は、大人の生活だけでなく、子どもの「遊び」にまで及んでいます。昔の子どもたちは、「遊び」を自分たちの工夫と努力で創りだしていましたが、現代社会では「遊び」も「商品」になり、「お金を出して買うもの」になってしまいました。その結果、子どもたちは遊びにおいても受動的になってしまったのです。それが現代人の普通の生活なんですが、問題は、子どもでも大人でも「受動的な生活」に慣れてしまうと、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で行動することが出来なくなってしまうということなんです。すると、ちょっと思い通りにならないとイライラしたり、相手のことを待つことが出来なくなります。これが子育ての苦しみの原因にもなります。じゃあどうしたらいいのかということですが、実は、待つことが出来ない人の感覚にはある種の特徴があるのです。それは感覚の働きが受動的だと言うことです。自分の興味や関心のあることは敏感に感じることが出来るのですが、興味や関心がないことに対しては急に鈍感になってしまうのです。ですから、人の話を聞いていても、「自分が聞きたいこと」だけを聞き、「相手が言いたいこと」を聞こうとはしません。これは子どもの話に対しても、講演会などに行っても同じです。「見る」という場合も、自分の興味があるものしか見ようとしません。そのため、「全体」が見えず、すぐに予想外のことが起きます。また、同じ失敗を何回も何回も繰り返します。でも、その原因が分かりません。そして苦しくなります。このような状態から抜け出すためには、能動的に感覚を使う訓練をするといいと思います。見たいものだけを見るのでも、聞きたいことだけを聞くのでもなく、大きなつながりの中で見たり聞いたりする訓練です。すると、見えること、聞こえることの意味が分かってくるのです。その一つの方法として「物語として世界を見る」という方法があります。意外かも知れませんが、人間においては「感覚」と「物語」は密接につながっているからです。人は自分が考えた物語に沿って感覚を働かせているのです。例えば、「あの人は私が嫌いなんだ」という物語を持っている人は、その人の自分に対する言動に目や耳の感覚をとがらせます。そして、「私のことが嫌いである証拠」を集めようとします。「もうすぐ大きな地震が来る」という物語を持っている人は小さな揺れにも敏感になります。そうですよね。子どもにも「子どもの物語」があります。子どもの笑顔や涙、ケンカ、そして手の汚れや洋服の汚れ一つ一つに物語が含まれているのです。そんな「物語」を想像してみると、不思議なことにそれまで見えなかったものが見え始め、聞こえなかった音が聞こえ始めるのです。物語の働きによって意識が変わるので、感覚の働きも変わるのです。すると、待つことが苦痛ではなくなるのです。*********昨日は、大勢の親子(11家族)で山歩きをしました。(秦野~鶴巻温泉)実際には「山」というより「丘陵」ですが、本来、二時間半ぐらいのコースを五時間かけてのんびり歩きました。最高のハイキング日和でした。
2022.05.29
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昨日も書いた通り、子どもの心とからだの育ちには「安心」が絶対的に必要です。でも、子どもが「安心」を得るために必要なのは、お母さんや家族や仲間との幸せな関係だけではありません。生活リズムの乱れ、テレビやゲームなどの強い刺激、人工的に管理された環境、自動車やエアコンなどの人工的な音、不自然な食べ物なども子どもを不安にさせてしまうからです。生活のリズムが崩れていると、当然、心とからだのリズムも崩れます。すると、心とからだの成長のリズムも崩れてしまいます。「命の働き」と「リズム」は切り離せないからです。実は、「命の働き」は「音楽」と似ているのです。まただから、人は音楽と共鳴することが出来るのでしょう。また、テレビやゲームなどの強い刺激も子どもを不安にさせます。なぜ子どもが強い刺激によって不安感じるようになってしまうのかというと、リズムを破壊するような非日常的な強い刺激に晒され続けることで、心とからだの働きが不安定になってしまうからです。だから、また強い刺激に触れることでその不安から逃れようとするのでしょう。そして中毒になっていきます。ゲームをやってもテレビを見ても、それが短時間なら、心もからだもしばらくすれば元に戻るのですが、これが長時間、毎日と言うことになれば、元に戻らなくなります。最近、「ゲームを長時間やっていると知的な能力が育つ」というニュースを読んだこともありますが、それはただ、「脳がAIに似てくる」というだけのことです。長時間機械と関わり続けることで、脳が機械の論理的な考え方を学習してしまうのです。でも、機械の考え方を学習することと引き替えに、「人間らしい感じ方や考え方」の育ちは阻害されてしまうのではないかと思います。皮肉なことに、機械で出来たAIであっても、人間との関わり合いを通して学習したAIは、ある程度人間らしさも学習することが出来ます。だから介護の現場でもAIロボットを使う事が出来るのです。人間は根本的に非論理的で不合理な生き物です。人の心の中は「1+1=2」というような論理では出来ていないのです。「愛」とか、「勇気」とか、「希望」とか、「人間らしさ」といったような考え方自体が非論理的で不合理的なものなんです。「人間らしく生きる」ということは、そんな人間が持っている不合理とうまく付き合いながら、さらにそれを楽しみながら生きるということなんです。その不合理さを持っていないAIは、計算は得意でも、人間らしく生きることは出来ないのです。そして、その「人間が持っている不合理さとうまく付き合い、それを楽しむ方法」は、子ども時代に、直接、多くの人との関わり合いを通して学ぶしかないのです。また、部屋の構造やインテリアを工夫することでも、子どもの安心を育てることが出来ます。シュナー教育が、教育の仕方だけでなく、建物の色やインテリアにまでこだわるのはそのためです。シュタイナー教育以外にこのような視点を持っている教育法はないのではないかと思います。部屋の中に自然を感じるものを取り入れるだけでも、子どもは安心を感じます。自然な光や風を感じるだけで安心します。実際、部屋の中で泣き止まない赤ちゃんを、外に連れ出すだけで泣き止むことが多いですよね。部屋の中にいるとイライラしてケンカばっかりしている子どもたちでも、自然の中に連れ出すと落ち着いてきます。そして、ケンカではなく一緒に遊び始めます。部屋の中の子どもと、自然の中の子どもとでは、別人のようなんです。ただし、もうすでに機械中毒になってしまっている子は、早く家に帰って機械で遊びたがります。でも、機械で遊んでいてもイライラは消えません。機械は安心を与えてはくれないからです。
2022.05.28
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本来、赤ちゃんは生まれてすぐにお母さんに抱かれ、おっぱいを吸いながらお母さんのまなざしを見つめ「一緒の感覚と時間」を共有しようとします。それは、「子宮」や「へその緒」という「つながり」を失った赤ちゃんが、必死になってお母さんとの「新しいつながり」を求める本能でもあります。赤ちゃんは、出産によってお母さんとの肉体的なつながりを失った後でも、思春期になるまでは、心やからだを通しての感覚的なつながりを必要としているのです。そして、その「安心」が子どもの成長を支える力になるのです。人間の成長には、「からだの栄養」と、「心の栄養」と、「脳の栄養」の三つの栄養が必要なのですが、「安心」がないことには、そのいずれの栄養も吸収することが出来なくなってしまうのです。そのため、「安心」に満たされていない子は、周囲の大人がどんなに「からだの栄養」や、「心の栄養」や、「脳の栄養」を与えようとしても、それらを吸収できずその成長に遅れが生じてしまいます。逆に、充分に「安心」に満たされている子は、少ない栄養からでも多くを吸収し、ちゃんと育って行きます。子どもはお母さんだけでなく、お父さんや仲間や家族との「一緒の時間」の中で、感情や感覚などを共有することで「安心」を得ることが出来ます。どんなに安全が保証されていても、どんなに丁寧な世話を受けていても、感情や感覚が共有されていないと、子どもは「つながり」を感じることが出来なくなり、「安心」を失ってしまうのです。その結果、「寂しさ」と「不安」を感じるようになってしまいます。ちなみに、幼い子ども達にとって「寂しい」という感情と「不安」は一緒です。それらはいずれも「つながり」を感じることが出来ない状態だからです。そして実は、大人もつながりを失うと不安になってしまうのです。人間は原始の時代から何十万年と「つながり」によって安全と食料を手に入れ、「つながり」によって守られ、人間らしさを手に入れ、そして進歩してきた存在なので、「つながりを求める」ということが本能の中に書き込まれているからです。確かに、現代人は「つながり」がなくても生きていけます。でも、そのような状態になったのはつい最近のことであり、人類が誕生してからの数十万年という時間の中では、限りなくゼロに近い時間です。ですから、人間の本質的な感性や本能は古代人のままなのです。だから、「つながり」を失うと不安になるのです。それでも、大人達は、知識や論理でその不安を「意味もないこと」と否定することが出来ます。そのため、現代人はその不安を無視して生きています。でも、子ども達はまだ「古代人の感性」のままに生きていますから、「つながり」が失われると非常に強い不安を感じるのです。ただ、ここで問題が発生します。大人達は知識によって「不安」を否定することは出来ますが、だからといって「不安」そのものが消えるわけではないからです。なぜなら、その不安は「本能」という無意識とつながっているからです。「幽霊なんかいないという知識」と、「幽霊が怖いという感覚」とは別のものだということです。そして、否定された「不安」は、子どもと同じように「孤独」や「寂しさ」という形に姿を変えて、心の中に深く沈殿して行きます。その「孤独」や「寂しさ」が自己肯定感の育ちを阻害するのです。このように考えていくことで、「なぜ、現代社会では自己肯定感が低い人がこんなにも多いのか」ということが分かってきます。実は、お母さんや周囲の人に否定されて育ったから自己肯定感が低いのではなく、「安心」が満たされず、孤独で寂しかったから自己肯定感が育たなかったのです。私のブログへのコメントを書いて下さる人の中にも、「自分は自己肯定感が低いけど、お母さんは優しかったし、特に否定もされなかったので、理由が分かりません」という方が時々いらっしゃいます。そのような方は、否定はされなかったけど、お母さんや家族との間に、安心を育ててくれるような「感覚的なつながり」がなかったのではないかと思います。だから寂しかったのです。お母さんが「良いお母さん」を演じていたり、マニュアルに従って子育てしている場合も、子どもはお母さんとつながれなくなり、寂しさを感じます。そして、その寂しさが自己肯定感の育ちを阻害してしまうのです。成功体験が少ないから自己肯定感が低いのではなく、寂しいから自己肯定感が低くなってしまうのです。でも、そのように子どもが寂しがっていることに気付く親は多くありません。なぜなら、子どもは「古代人の感覚世界」を生きていますが、お母さんは、頭で考えた「現代人の論理」で生きているからです。その「現代人の論理」は「生命の論理」と矛盾しているのですが、現代社会では「普通の考え方」になってしまっています。そして、その「現代人の論理に従った普通の子育て」が、子ども達を孤独に、そして寂しくしているのです。確かに、昔のお母さん達は忙しくて、子どもとのんびり話したり、子どもに付き合って遊んであげたりはしませんでした。それでも、子どもの周りには常に誰かがいたのです。それは兄弟であったり、仲間であったり、祖父母であったりしました。お母さんが相手をしなくても、生活の中で「子どもとつながってくれる人」はいたのです。でも今では、子どもの周りにはお母さんしか「つながることが出来る人」がいません。だから、お母さんの気持ちがどっか別の所に向いていると、それだけで子どもは「つながりの危機」を感じて不安になるのです。でもそれ故に、お母さん達は子どもに束縛されることを恐れています。子どもにとって、お母さんしかいない状況なので、子どもは四六時中お母さんにべったりとしがみついてくるからです。そんな子どもの要求にいちいち応えていたら、お母さんの「自分の時間」も「自由」も消えて、子どもの奴隷のようになってしまいます。でも子どもは、そんなお母さんの気持ちを感じて不安になり、余計にお母さんにしがみついていくか、逆にお母さんに期待することを諦めるようになってしまいます。そうして、子どもは孤独と寂しさを感じながら成長することになります。ただし、これは子どもが悪いわけでも、お母さんが悪いわけでもありません。現代の社会の構造がそのようになってしまっているのです。でも、子どもがお母さんにべったりとしがみついてくるのは大体3才から5才くらいまでです。それまでにお母さんとのつながりがしっかりと作られているなら、子どもは次第にお母さんから離れて、仲間の方に寄っていくのです。問題は、その3~5年間を子どもと一緒に楽しむことが出来るかどうかということです。この時期、お母さんは「仕付け」に熱心になりますが、本当は「仕付け」なんか気にする必要はないのです。子どもが、お母さんや周囲の人とちゃんとした人間関係が築けているのなら、子どもはお母さんや周囲の人を模倣しながら勝手に「仕付け的なこと」を学んでいくからです。
2022.05.27
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一般的に、人は常に「自分」を基準にして他者を観察しています。子どもを観察する時も、お母さんはお母さんの視点で観察し、お父さんはお父さんの視点で観察し、教師は教師の視点で観察し、医者は医者の視点で観察します。男性と女性とでも観察の仕方は違います。保育者と保護者とでも観察の仕方は違います。子育て前の人と、子育て中の人と、子育てが終わった人とでも、観察の仕方は違います。若い人と、年を取った人とでも観察の仕方は違います。また、スポーツをやっている人は、運動能力という視点で子どもを観察するかも知れません。カメラマンは、被写体として子どもを観察するかもしれません。そのため、同じ子どもを観察しているのに、観察する人の知識や、経験や、性別や、年齢や、職業や、価値観によって、観察結果が一致しないのです。夫婦でも、我が子に対して異なった解釈をしていることはよくあります。それが夫婦ゲンカの基になったりもします。見ている事実は同じでもその事実の解釈の仕方が人それぞれなんです。保育園の先生達でも、同じ子どもに対して保育者がみんな同じ観察結果を得るわけではありません。同じ子どもに対して「あの子は乱暴だ」と言う人もいれば、「元気があっていい」と言う人もいます。どうしてこんなにもバラバラになってしまうのかというと、みんな「自分」を基準にして子どもを観察しているからなのです。でも、これを「子ども」を基準にして観察するようにすると、それほど意見の食い違いが起きなくなります。観察結果を解釈する基準が一致するので、話し合いも成り立つようにもなります。「子ども」を基準にするということは、大人の価値観に合わせて子どもを観察・評価・教育するのではなく、子ども一人一人の特性を理解し、「どうやったら、子どもが自分の可能性を拓き、自分らしく、幸せに生きることが出来るようになるのか」という視点に立って「子どもの今」を観察し・評価し・教育するということです。「良い子」を育てるのではなく「幸せな子」を育てるのです。「成績が良い子」を目的とするのではなく、「自分らしく生きることが出来る子」を目的とするのです。そして、このような視点に立てば、観察の仕方、解釈の仕方、子育てや教育の仕方にそれほど大きな意見の食い違いは起きないのです。そして、モンテッソーリ教育とシュタイナー教育はその点では一致しています。ただし、だからといって成績が良いことを否定しているわけではありません。重要なポイントは、いくら成績が良くても、自分らしく生きる能力が育っていなければ、その成績の良さを有効に活用して生きることが出来ないということです。「根っこや幹がちゃんと育たなければ、素敵な花は咲かないし、素敵な実も実りませんよ」ということです。でも、多くの大人達が、根っこや幹を育てることはせずに、自分の価値観に合わせた綺麗な花や、素敵な実を子どもたちに要求しています。「ミカンの木」に「リンゴの実」を要求するようなことまでしている人もいっぱいいます。でも、当然のことながらその要求は叶えられません。それは大人の問題なのに、なぜか大人達は子どもを責めるのです。ただし、「子ども」を基準にするためには、「子ども」について学ぶ必要があります。子どもの発達の仕方、大人とは違う心やからだの状態、また気質の違いについても学ぶ必要があります。その「子どもについての学び」がないから、大人達はみんな「自分」を基準にして子どもを観察・評価・教育してしまうのです。私は、「子どもの発達」についてや「子育てについての学び」は高校で必修科目にすべきだと思っています。子育てに苦しむ親、幸せに生きることが出来ない子どもたちを増やすような子育て状況を放置して、いくらお金をばらまいても、子どもは増えないのです。社会全体を、大人の価値観や要求だけに合わせるのでなく、子どもの幸せや、子どもの心とからだの育ちを大切にした構造に作り替えないことには日本はもっともっと衰退していきます。子どもの笑い声が消えた社会に未来はないのです。
2022.05.26
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「観察する」というと「見るもの」だと思ってしまいますが、実は「感じる」ことが出来ない人は観察が出来ないのです。感じることが出来ない人はただ見るだけです。対象を見て、「これは石」「これは木」「これは何色」「立っている」「歩いている」と判別することは出来ますが、それ以上のことを感じ取ることが出来ないのです。ですから、その辺に落ちているような石を持ってきて「これをよく観察してみて」と言われてもどうしていいのか分かりません。石は石だし、石は変化もしないし動きもしませんからね。皆さんは石の観察が出来ますか。石好きの人や、絵描きや、地学をやっているような人なら石の観察も出来るでしょうが、見ることや石自体に興味がない人は石を見ても何も感じないでしょうね。そして、何も感じなければ観察も出来ないでしょうね。確かに、専門的な知識があった方が深く観察は出来ますが、専門的な知識を持っていなくても、自分の感覚を働かせることで素人なりの観察は出来ます。色を観察する、形を観察する、硬さを観察する、重さを観察する、模様などを観察する、叩いてみて音を観察する、質感を観察する、割ってみる、など出来ますよね。時々、石が好きな子がいますが、石が好きな子はこのような観察が出来るのです。だから見飽きないし、好きになることが出来るのです。皆さんも、お散歩の時などに足下に落ちている石を拾って、絵描きや地質学者になったつもりで観察してみて下さい。宮沢賢治も石好きで、いつも小さなトンカチを持ち歩いていて、そこいら中の石を叩いていたそうです。「賢治のハンマーでたたかれなかった岩はない」と言われていたほどです。植物観察でも、昆虫の観察でも同じです。ただ見ているだけでは観察にならないのです。観察するためには感覚とイメージと思考を働かせる必要があるのです。「感じ、イメージし、考える」という働きが、「観察する」という行為を支えているのです。そして、幼い子どもたちはこの「感じ、イメージし、考える」という能力において優れています。古代の人達もこの能力に優れていました。「感じ、イメージし、考える能力」が高いからこそ、子どもたちは色々なことをして楽しむことが出来るのです。そして、他の子や他のお母さんのこともよく観察しています。でも、学校では観察の仕方なんか教えてくれません。観察する以前に知識を学ばされてしまいます。そして、知識が増えることでその知識の確認はしても、感じることも、イメージすることも、考えることもしなくなるのです。私は若い頃、バックパッカーでヨーロッパに行った時、様々な美術館を回りました。ほとんどの美術館は空いていてノンビリと見ることが出来ました。模写している人もいました。ジーッと一枚の絵の前に立ち止まったまま動かない人もいました。それは、ヨーロッパでは美術館が観光名所ではなく生活の一部になっている事を感じさせるような風景でした。で、私ものんびりを歩いていたのですが、時々騒がしい一団が来ました。そして、「あ、ピカソがあった」「すげーモナリザだ」「あ、これ教科書で見たことがある」などと言いながら絵の前を通り過ぎていきました。日本語で話していたので、日本人の団体だったのでしょう。ツアーで来ている人達は忙しいスケジュールで動いているので、じっくり鑑賞する暇などないのかも知れませんが、それにしても絵の前で立ち止まることすらしないのです。ただ、実物を確認しに来ただけのようでした。それが日本の知識偏重教育の結果です。子どもたちがなんで泥団子作りに夢中になるのかというと、泥団子を作っている途中で色々なことを感じ、イメージし、考えているからです。それが楽しいのです。洋服を汚してお母さんを困らせるために泥団子を作っているわけではありません。ですから、「感じ、イメージし、考える能力」が低い子は完成度の低い泥団子しか作ることが出来ません。そして、泥団子を作っている子どもを観察する時には、大人も「感じ、イメージし、考える能力」を働かせる必要があるのです。そうでないと「行動の観察」は出来ても「子どもの観察」は出来ないからです。そのような状態の人は、「もっとよく子どもを観察して」と言っても、子どもが何をやっているかを見ているだけです。そしてそれは簡単に「観察」から「監視」へと移行してしまいます。実は、「他者を感じる能力」は「自分自身を感じる能力」から生まれて来るのです。他者を感じるということは、他者と触れた時に、その触れ合いによって自分自身の内側で起きた変化を感じ取ることに他ならないからです。例えば、音の観察をするためには、その音によって振動させられる自分の鼓膜の振動を感じる必要があります。相手の音をそのまま聞いているのではなく、人は自分の鼓膜の振動を聴いているのです。また、肌触りを観察する時も、触れてみて自分の肌に感じる感覚を感じ取って観察する以外に観察のしようがないのです。「ツルツルしている」とか「ザラザラしている」というのは自分の肌が感じ取った情報です。だから、肌の感受性が鈍い人は質感を感じる能力も低いです。それはつまり、「他者を観察する能力」は「自分自身を観察する能力」から生まれてくるということでもあるのです。自分を観察する能力が低い人に「もっとよく観察しなさい」と言うと、簡単に「監視」になってしまうのです。
2022.05.25
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私は若い頃、絵描きを目指していました。バックパッカーでヨーロッパに行ったのも絵の勉強をするためでした。マドリッドに居た時は美術研究所に通っていました。その後、地中海に面した olla de altea という所で家を借りて住んでいた時には毎日絵を描いていました。絵を描くことは見ることから始まります。絵描きは、視覚を通して対象や自分の絵と対話を繰り返しながら、絵を描いています。モネの絵と、ブリューゲルの絵と、ピカソの絵の違いは、彼らの「世界の見方」(対話の仕方)の違いでもあるのです。そして、「観察する」と言うことは、単に「見ること」ではなく、視覚を通して「見えるもの」と、自分の「頭」や、「感覚」や、「心」と対話を繰り返すことなんです。そして、「頭での対話」をしている人、「感覚での対話」をしている人、「心での対話」をしている人とでは、同じ対象を見ていても、異なった観察結果を得ています。科学者は「頭での対話」を通した観察をしています。それに対してアーティストは「感覚や心での対話」を通した観察をしています。それは、「外側から見た観察」(客観的な観察)と、「内側から見た観察」(共鳴・共感を通した観察)という風に言えるかも知れません。モンテッソーリ教育は、科学者と同じように「外側から見た観察」(客観的な観察)を大切にしています。それは、もともと、モンテッソーリが科学者だからなのでしょう。それに対して、シュタイナー教育は、アーティストと同じように「内側から見た観察」(共鳴・共感を通した観察)を大切にしています。でも、どちらの観察の仕方であっても、それは一つの技術ですから、その技術を学んでいない人には深い観察が出来ません。私は若い頃デッサンを学んでいましたが(学校は物理学科でしたが、同時に夜、美術学校にも通っていました)、「デッサン力」は単なる「描く技術」ではなく、しっかりとした観察に基づく対話力でもあるのです。ですから、自分自身との対話能力が低い人は深い観察が出来ません。そのような人に、いくら「よく観察しろ」と言っても何を言われているのかよく分からないのです。自分との対話能力が低い人に「よく観察しろ」というと、ただの「監視」になってしまうのです。個展も三回やりました。ですから、他の人の絵を見ても、絵を描かない人とは異なった所を観察してしまいます。自分で絵を描かない人は、描かれた絵だけを観察するのでしょうが、私は、絵を通して絵を描いた人の感覚や心の状態を観察しようとしてしまうのです。そのため、上手に描こうとした人の絵からは、「上手に描こうとした下心」が見えてしまいます。子育てでも、良いお母さんを演じている人を見ていると、結果としての「良いお母さん」ではなく、「演じている下心」の方が見えてしまうのです。そして、子どももその下心を敏感に感じ取っています。幼い子どもたちは、まだ「頭での対話」が苦手だからです。でも、そんな観察能力を高める方法もあります。絵描きはその観察能力を高めるためにデッサンをします。子育てでは、「子ども観察記録」を付けるようにしていると、子どもを観察する能力が高まります。「何をしたか」だけでなく、「その時どういう表情をしていたのか」とか、「どういうことを言っていたのか」ということや、その何かをした前後のこともよく見て記録してみて下さい。前後のことまで見ていると、子どもの心や行動の意味が見えやすくなりますから。物理学科を出た私が、子どもを相手にする仕事を始めようと思った時、「ちゃんと子どものことを知らなければいけない」と感じて、オモチャ作家の和久洋三先生がやっていた子どものことやオモチャのことを学ぶ研究会(おもちゃの科学研究会)に参加しました。シュタイナー教育、モンテッソーリ教育、フレーベル教育ともそこで出会いました。35年ぐらい前です。そして、「子どもの発達とオモチャの役割」という分科会のリーダーをやらせていただきました。その時、「もっと子どものことを知ろう」ということで、一般にモニターを募って「子ども観察記録」を書いてもらいました。うちの子のもあります。****************告知です。6月から、JR茅ヶ崎駅の近くで子育ての勉強会「ゆりかご」を始めます。数年前までやっていたのですが、しばらく休止していました。内容は、子ども理解、気質の話し、子どもとの関わり方や遊び方などです。室内での遊び方や自然の中での遊び方などもお伝えします。第一回目は6月24日(金)です。月一で毎月やります。(ただし、8月はお休みです)子連れでもOKです。時間は10:00~11:30です。状況によっては12:00まで。参加費は2000円/回です。お問い合わせは篠までお願いします。「ここ」です。メールは「ゆりかごについて」という件名でお願いします。
2022.05.24
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昨日のブログに関して、「子ども自身の育つ力に気づくには、まずは観察することが必須。」と書いて下さった人がいました。確かにその通りです。私もお母さんにそのように言っています。でも実は、この「観察する」ということが非常に難しいのです。聞く(聴く)ことも同じです。一般的に人は、「自分が見たいもの」しか見ようとせず、「聞きたいこと」にしか耳を傾けないからです。また、関心のあることは細かく見ようとし、関心のないことはスルーします。自分の意識に引っかかったものだけを見たり、聞いたりしているのです。人は皆「自分の意識が創り出した自分だけの世界」に生きているのです。でもほとんどの人が、「自分の意識が創り出した世界」を、自分の意識を超えた本当の世界だと思い込んでしまっています。私に見えるものは他の人にも見え、自分に聞こえるものは他の人にも聞こえていると思い込んでしまうのです。また、「自分に見えないもの、聞こえないものは存在していない」と思い込んでしまうのです。でも、実際にはそんなことはないのです。自己肯定感のある人は子どもの肯定的な側面を見ようとし、自己肯定感が低い人は、子どもの否定的な側面ばかりを見ようとします。コップに半分だけ入っている水を見て、心配性の人は「もう半分しかない」と感じます。そのような人は「失われてしまった半分」を見ているのです。でも、のんきな人は「まだ半分残っている」と感じます。そのような人には「失われた半分」は見えていないのです。何を見て、何を聞くのかと言うことは気質も関係しています。胆汁質の人は子どもの行動を見ようとします。多血質の人は感情の状態を見ようとします。憂鬱質の人は心の状態を見ようとします。粘液質の人はからだの状態を見ようとします。ですから、「自分の意識」に囚われずに、客観的にこのようなことを見て、聞くことが出来るようになるためには、それなりの意識の訓練が必要になるのです。それは、「自分の価値観に囚われない意識」を持つ訓練でもあります。子どものことをちゃんと観察し、理解するためには、「大人の立場」からだけでなく、「子どもの立場」からも子どもがやっていることを理解し、子どもが見ているものに目を向け、子どもが聞いているものに耳を傾ける必要があるのです。子どもが泥団子を作っていたら、その泥団子を作っている子どもの気持ちになって、子どもがやっていることを見て下さい。すると、子どもが何をしているのかが見えてきます。そうでないと、汚れた洋服だけが見えてイライラするばかりです。意識の状態が違うと、同じものを見ても全く異なったものが見えてしまうのです。最近はあまりやっていませんが、たまに「見るワーク」をする事があります。何か物や絵や写真などを見せて「何が見えますか?」と問うのです。すると、同じものが前にあるのに、みんな違うものが見えていることに分かります。以前、子どもたちに野原にある公園の写真を見せて「何が見える」と聞いたら、ブランコとか滑り台という答えがすぐ出てきました。それで、他には?他には?と聞いたのですが、いつまで経っても公園の後ろの方にある木々や、空の雲に気付く子がいませんでした。皆さんが見ている我が子の姿は、皆さんの意識を投影したものです。子どもの本当の姿ではありません。たまには親という意識、視点を捨てて、子どもの意識、視点に立って我が子がやっていることを見てみませんか。理解出来なかった我が子の行動が、少しは理解出来るようになるかも知れませんよ。同じ叱るにしても、子どもの立場や視点を理解した上で子どもに色々なこと言うのと、理解しないまま一方的に言うのとでは子どもの成長に大きな違いが出てくるのです。
2022.05.23
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周りを見まわすと、「世話をするだけの子育て」をしている人がいっぱいいます。一般的に、「世話をする」というのは「色々とやってあげる」ということでもあります。具体的には衣食住と安全を提供し、「勉強はやっているか」、「宿題はやったか」、「遅刻しないように学校に行けているか」、「友達とケンカはしていないか」、「片付けはちゃんとやっているか」、「遊びの場でルールを守っているか」などを監視し、もし出来ていなければ、それらをちゃんとやるように子どもに指導しています。「しつけ」と呼ばれるものもその一つです。そして多くの人が、そのように子どもの世話をすることが「子育て」の中味だと思い込んでいます。というか、そもそもそれ以外に何をしたらいいのかを知りません。確かに「ペット」を育てる時には、世話をしてあげるだけで十分です。というかそれ以上のことは出来ません。でも、人間の子どもには「見て学ぶ能力」があります。教えなくても周囲の子どもや大人がやっていることを見て、自分の力で学ぶ能力があるのです。そしてその学びが自分自身の成長に繋がっている時、子どもは喜びを感じます。そして、もっと成長したいと思うようになります。ちなみに、イヌは他のイヌの真似はするかも知れません。ネコは他のネコの真似はするかも知れません。でも、イヌもネコも自主的に人間の真似をするようなことはしません。だから、人間と一緒に生活するためには、人間による世話と仕付けが必要になるのです。ではどうして、見ているだけで学ぶことが出来るのかというと、子どもも大人も同じ人間同士だからです。同じ人間同士だから感覚が共有されているのです。感覚が共有されているから、一々教えなくても、見ているだけでどうしたらいいのかが分かってしまうのです。縄跳びをやっている子を一生懸命に見ているだけで、無意識のうちに、縄跳びをやっている子と見ている子の感覚が繋がり、見ているだけなのに、からだの中の「縄跳びをするための神経回路」が活性化し始めます。だから、他の子が飛ぶ様子をよく見ていた子は、縄跳びのヒモを渡せばすぐに跳べるようになります。教える必要もありません。でも、全然見ていなかった子に縄跳びを渡しても、戸惑うばかりです。「飛びたい」という欲求も目覚めません。だから、手取り足取り世話をして教える必要があります。それでも、うまく行かないとちょっとやっただけで簡単に放棄してしまいます。そして今、そのような状態の子が非常に多いです。私は家で「何でもありの造形教室」をやっているのですが、工務店や大工の子も数人います。そして、お父さんの仕事を見ていた子は、教室に来てから初めてノコギリに触ったのに、ちょっとやっただけでコツを掴むことが出来ます。お母さんが教えていなくても、手仕事が好きなお母さんの子は、ちょっと教えただけでコツを掴むことが出来ます。また、お母さんやお父さんがやっていることと同じことを子どもはやりたがります。そういうように成長のシステムが設計されているのだと思います。ただし、子どもが見て模倣したいと思うのは、お母さんやお父さんがその活動を楽しんでいたり、その活動に誇りを持っている時に限ります。お母さんが楽しそうにお料理をしていれば、子どももお料理をやりたがります。お母さんが楽しそうに片付けをしていれば、子どもも片付けをやりたがります。お母さんが楽しそうに歌っていれば、子どもも歌い始めます。でも、お母さんがイライラしながらお料理を作り、イライラしながら片付けをしていたら、子どもはそういう活動を嫌がるようになります。能動的に何かに取り組む事もなくなります。だから、お母さんがあれこれ世話を焼かなければならなくなります。ちなみに、子どもが模倣するのは「お母さんがやっている」ことではなく「お母さんの気持ち」の方です。ですから、子どもに片付けをさせようとしてお母さんがやって見せても、イヤイヤやっているのなら、子どもは真似しません。お母さんが楽しそうに生きているのなら、子どもも生きることを楽しもうとします。でも、お母さんが辛そうに生きているのなら、子どもも生きることが辛くなります。子どもはお母さんやお父さんが仕付けたように育つのではなく、お母さんやお父さんがやっているように育つのです。まただから、「しっかりとした信頼で繋がった子どもや大人の人達の群れ」の体験が必要になるのです。子どもはそのような群れの中で社会性を模倣します。
2022.05.22
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この世界は「目に見えるもの」と「目には見えないもの」で出来ています。さらに、その「目には見えないもの」は、「五感で感じることが出来るもの」と「五感では感じることが出来ないもの」に分けられます。「音」や「味」や「匂い」は見えませんが感じることが出来ます。そして、「五感で感じることが出来るもの」は機械で測定することも出来ます。でも困ったことに、この世界には目にも見えず、五感の働きでも感じる事が出来ないものもあります。それは例えば、「時間」であり、「無意識」であり、「人の心」でもあります。「音楽」もそうです。さらには、「真・善・美」といったものも、目には見えず、五感の働きでも感じる事が出来ません。ちなみに、「時計」は時間そのものを計る機械ではありません。ただ、一定のリズムを繰り返すだけの機械です。そこから「時間」を読み取るのは人間の「心の働き」です。「音楽」においても「音」は耳で聴くことが出来ますが、「音楽」は「耳」ではなく「心」で聴くものです。ですから、「音」は測定出来ますが、「音楽」は測定出来ません。「絵画」でも、色や形は「目」で見ることが出来ますが、「美」は心で感じるものです。ですから「美」の測定は出来ません。実は、「人間らしさ」を支えている根幹的なものは全て、目にも見えず、五感の働きでも感じる事ができないものばかりなんです。だから厄介なのです。そういうものは「科学」では扱うことが出来ません。「心」では感じることが出来ても、「機械」では測定出来ないからです。そのため、公の場で議論することも出来ません。失っても分かりません。必要かどうかも分かりません。そもそも「そういうものが存在している」ということすら知らない人もいっぱいいます。特に、現代人は「機械で測定出来るもの」や「論理的に説明出来るもの」だけしか信じなくなってしまっているので、そういう「非科学的なこと」や、「非論理的なこと」や、「分かる人には分かるが、分からない人には分からない」というようなことは簡単に否定し、無視してしまいます。そして、成績や、学歴や、地位や、お金といった、「合理的で社会的に価値のあるもの」ばかりを追い求めて生きています。学校教育でも「社会で役に立つもの」しか教えようとしません。そして、「人間として大切なこと」が育つことがないまま成長してしまった若者が犯罪を犯すと、「仕付けが悪かったからだ」といって簡単に切り捨ててしまいます。でも、犬ならそういう論理も可能ですが、人間の成長を「仕付け」だけで説明しようとするのはあまりに乱暴すぎます。そんな考え方で子育てをするからそういう若者が育ってしまうのです。では、その「目にも見えず、五感の働きでも感じる事が出来ないもの」はどこに存在しているのか、そして、どのように子ども達にそれを伝えることが出来るのかということです。実は、そのようなものは「物語」の中に存在しているのです。そして「物語」の中にしか存在出来ないのです。「真」も、「善」も、「美」も、「愛」も、「神様」も、「生命」も、「意味」とか「価値」とかいうようなものも、「物語」の中で語られて初めて存在出来るのです。そして、語られないと存在出来ないのです。誰かが「神様の物語」を語らない限り、「神様」は存在しないのです。誰かが「美の物語」を語らない限り、「美」は存在しないのです。誰かが「愛の物語」を語らない限り、「愛」は存在しないのです。誰かが「生命の物語」を語らない限り、「生命」は存在しないのです。「生命を出して見せろ」と言われても出してみせることは出来ませんよね。じゃあ、そんなもの存在していないかというと、私たちは「生命」が存在していることを知っていますよね。なぜなら、私たちは「生命の物語」を知っているからです。神様を信じている人達は神様を見、神様に触れ、神様に救われたから信じているわけではありません。「神様を語る物語」に共感したから信じているのです。ですから、「神様の物語」に共感出来ない人には「神様」は存在していないのです。じゃあ、「神様なんて思い込みに過ぎないのか」というとそれも違います。神様を信じている人には神様はちゃんと働きかけるからです。それが「物語の力」なんです。また、人が「他の人の心」と出会うことが出来るのは「物語の中」だけでです。他の子を泣かしてしまった子どもに、「○○ちゃんは悲しかったんだから」などと言っても、子どもには理解出来ません。子どもは「自分のこと」しか分からないからです。でも、物語の中では、子どもは「他の子の心」に直接触れることが出来るのです。なぜなら、子どもは登場人物に感情移入しながら物語を聞くからです。ですから、子どもに「命の大切さ」を伝えるのなら、「命の物語」を語ってあげるしかないのです。いくら「命は大切なんだよ」と説明しても、「命の物語」を語って聞かせないことには、「命の大切さ」は伝わらないのです。「説明」という方法は知識として蓄えられるだけで、「大切さ」を伝えることは出来ないのです。ただ問題は、大人がその「命の物語」ちゃんと分かっているのかということです。分かっていないことは語ることが出来ません。その結果、「生命を大切にしなさい」と押し付けるだけになります。子どもがアリを殺して遊んでいたら、ただ禁止したり、「命の大切さ」をクドクドと説明するのではなく、「アリさんの物語」を語ってあげて下さい。そのことで子どもはアリさんに共感出来るようになるのです。そうしたら、殺すことを止めて観察を始めるでしょう。「物語」には人を変える力があるのです。****************告知です。6月から、JR茅ヶ崎駅の近くで子育ての勉強会「ゆりかご」を始めます。数年前までやっていたのですが、しばらく休止していました。内容は、子ども理解、気質の話し、子どもとの関わり方や遊び方などです。室内での遊び方や自然の中での遊び方などもお伝えします。第一回目は6月24日(金)です。月一で毎月やります。(ただし、8月はお休みです)子連れでもOKです。時間は10:00~11:30です。状況によっては12:00まで。参加費は2000円/回です。お問い合わせは篠までお願いします。「ここ」です。メールは「ゆりかごについて」という件名でお願いします。
2022.05.21
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「お話」や「物語」と言われているものには、様々な登場人物が登場します。「登場人物」と書きましたが、登場するのは人間とは限りません。アリやウサギやクマが「登場人物」のこともあります。自動車や電車が「登場人物」のこともあります。それどころか、山や、川や、雲が「登場人物」のことすらあります。宮沢賢治の童話では、人よりもそういう「人以外の登場人物」の方が多いです。「気のいい火山弾」では「石」が主人公ですからね。「石」が主人公の物語なんて滅多にないですよね。ただ、その扱い方も色々です。一応「ネコ」という扱いにはなっていても、人間と同じように考え行動する物語もあれば、ネコの気持ちになって、ネコらしく考え、行動する物語もあります。また、物語を進行する視点も様々です。昔々あるところに・・・というフレーズで始まることが多い昔話は、特定の登場人物の視点ではなく、全ての登場人物を俯瞰する視点から物語が語られています。それに対して、新しく作られた物語の多くは、登場人物の視点に立って登場人物の気持ちが語られています。宮沢賢治が書いた「気のいい火山弾」でも、主人公の「ベゴ石」の言葉を書いています。それですから、深い霧きりがこめて、空も山も向うの野原もなんにも見えず退くつな日は、稜のある石どもは、みんな、ベゴ石をからかって遊びました。「ベゴさん。今日こんちは。おなかの痛いのは、なおったかい。」「ありがとう。僕ぼくは、おなかが痛くなかったよ。」とベゴ石は、霧の中でしずかに云いました。「アァハハハハ。アァハハハハハ。」稜のある石は、みんな一度に笑いました。ここには、他の石たちの言葉も書いてあります。このように、一つの物語の中には様々な視点が組み込まれているのです。だから、人は物語を読むことで、多様な「他者の視点」を体験する事が出来るのです。これは「肉体での体験」ではなく「心での体験」です。「肉体での体験」で学ぶことが出来るのは、100%、自分自身の視点に基づくものです。鬼ごっこしても、木登りしても、そこにあるのは「自分だけの視点」です。自分が鬼となって友達を追いかけている時の、「追いかけられている友達の気持ち」は、物語の中でしか体験する事が出来ないのです。友達とケンカした時、リアルな世界では自分の気持ちしか体験出来ませんが、物語の世界ではケンカした相手の気持ちも体験出来るのです。そして、このような「他者の視点の体験」は物語の世界の中でないと出来ないのです。普通に生活している限り、人は自分だけの視点しか持つことが出来ないのですから。子どもたちは物語の中で、草や木の視点を体験する事が出来ます。魚やネズミやネコの視点を体験する事も出来ます。さらに、個々の視点を超えた俯瞰的な視点も体験する事が出来ます。このような「他者の視点」の体験が、子どもの優しさや、助け合う気持ちを育ててくれるのです。****************告知です。6月から、JR茅ヶ崎駅の近くで子育ての勉強会「ゆりかご」を始めます。数年前までやっていたのですが、しばらく休止していました。内容は、子ども理解、気質の話し、子どもとの関わり方や遊び方などです。室内での遊び方や自然の中での遊び方などもお伝えします。第一回目は6月24日(金)です。月一で毎月やります。(ただし、8月はお休みです)子連れでもOKです。時間は10:00~11:30です。状況によっては12:00まで。参加費は2000円/回です。お問い合わせは篠までお願いします。「ここ」です。メールは「ゆりかごについて」という件名でお願いします。
2022.05.20
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告知です。6月から、JR茅ヶ崎駅の近くで子育ての勉強会「ゆりかご」を始めます。数年前までやっていたのですが、しばらく休止していました。内容は、子ども理解、気質の話し、子どもとの関わり方や遊び方などです。室内での遊び方や自然の中での遊び方などもお伝えします。第一回目は6月24日(金)です。月一で毎月やります。(ただし、8月はお休みです)子連れでもOKです。時間は10:00~11:30です。状況によっては12:00まで。参加費は2000円/回です。お問い合わせは篠までお願いします。「ここ」です。メールは「ゆりかごについて」という件名でお願いします。****************オギャーと産まれたばかりの赤ちゃんが、人間として成長するためには「人間としての学び」が必要になります。「人間としての学び」がないまま育ってしまうと、見かけは人間でも、中味は「本能に振り回されるだけの動物」として育ってしまいます。実際、これは世界中に様々な実例があります。そして、子どもが何かを学ぶためには「体験」が必要になります。「見るという体験」「聞くという体験」「感じるという体験」「学ぶという体験」「やってみるという体験」などです。ただし、その体験を通して学んだことが子どもの「人間としての成長」と繋がるためには、子どもが自分の意思で能動的に体験する必要があります。「能動的な意思に基づく体験」だけが、子どもの人間としての成長を支えてくれるからです。「見えている」だけではなく、「見ようとする」ことで初めて、「見たもの」が子どもの成長に繋がっていくのです。「聞こえている」だけでなく、「聞こうとする」ことが大切なんです。でも、これは強制することが出来ません。強制したら逆に能動的な意思が萎えてしまうからです。さらに、「見たくない」「聞きたくない」という状態になってしまい、発達が阻害されてしまう恐れすらあります。勉強も、子どもが自分から進んでやるのなら、子どもの成長に繋がりますが、無理に勉強をやらせても子どもは自分の成長に繋がる学びをする事が出来ません。それでも、無理に勉強させれば多少は成績が上がるかも知れませんが、勉強が嫌いになります。そして、思春期が近くなるにつれて親の言うことを聞かなく、勉強しなくなり、成績は下がり始めます。でも、だからといって放っておくだけでは子どもは能動的に勉強しません。子どもが能動的に勉強を始めるためには、「知る楽しさ」「学ぶ楽しさ」「体験する楽しさ」と出会えるようなきっかけが必要になるのです。そしてそのきっかけは、子どもが幼い頃からのお母さんやお父さんとの関わり合いの中にあるのです。お母さんが赤ちゃんに話しかけたり、一緒に遊んだりしていると、赤ちゃんは大好きなお母さんの声を一生懸命に聞こうとします。だから、言葉を学ぶことが出来るのです。でも、側にテレビを置いて一日中言葉を聞かせていても、赤ちゃんはその言葉に耳を傾けません。その結果、言葉を「音」として覚えることが出来ても、「子どもの成長と繋がるような言葉」としては学ぶことが出来ません。それはオウムと同じ状態です。嫌がる子どもを無理に野原に連れて行っても、子どもは野原にある素敵な宝物を見ることも、聞くことも出来ません。また、「野原の楽しさ」を体験する事も出来ません。お母さんが空を見上げ、「ほら、あの雲、鯨さんみたいだね」と雲を指させば、子どもも空を見上げ、雲を見て、その形を楽しむことを発見することが出来ます。そして、雲の形の変化を楽しむことを覚えた子は、お母さんの働きかけがなくても、自分から進んで雲を見るようになるでしょう。受動的に見ていただけの子どもが、それを能動的に見ることが出来るようになるためには、子どもの意識の変化を導いてくれる大人の存在が必要になるのです。野原に行けば、色々な草がイッパイ生えていて、虫もいっぱいいます。「だからイヤダ」と言う子もいますが、「だから野原が好きだ」と言う子もいます。能動的に見て聞いて体験する事が出来るのは、どんなものや事でも楽しむことが出来るようになるのです。結果、生きることが楽しくなるし、自由に生きることも出来るようになります。どうかお母さんは、「教える人」ではなく「導く人」になって下さい。
2022.05.19
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昨日は、そんな自分勝手に行動する子を見て、「仕付けが出来ていない」とか、「悪い子」だと決めつけてしまう人も多いですが、そういう子はただ単に「人間関係のルール」を知らないだけなんです。ということを書きましたが、本来、その「人間関係のルール」は体験によって学ぶものなので、いくらお母さんが熱心に、「ケンカをしちゃダメ」「ルールを守りなさい」「いじめちゃダメ」「自分勝手に行動しちゃダメ」と言葉で説明しても無駄です。学校での道徳教育に意味がないのも同じです。確かに、子どもたちは、お母さんや先生の説明を「知識」としては覚えることが出来ます。でも、実際の行動には繋がりません。なぜなら「優しくしなさい」と言われても、具体的に「優しくするということはどういうことなのか」ということが分からないし、分かったとしても自分の心とからだがその通りには動かないからです。「どういうことがイジメなのか」が分からない子に「いじめちゃダメ」と言っても意味ないですよね。また、「右手で△を描いて、左手で□を描く」と指示され、頭では理解出来ても、実際にはそう簡単にその通りには出来ないですよね。「頭での理解」と「からだでの理解」は全く別物だからです。子どもを叱らないようにしていても、そう、思っているだけでは何の役にも立ちませんよね。それも同じです。幼い子どもの子育てで大事なのは「頭での理解」ではなく、実際の体験を通して「からだでの理解」を育ててあげることなんです。問題は、現代社会ではその体験を得ることが難しくなってしまっていると言うことです。じゃあ、「どうしようもないのか」というとそれも違います。「知識」は体験の代わりにはなりませんが、「お話し」や「物語」を聞くことは、子どもに擬似的な体験をもたらしてくれるからです。冒険話を聞いてハラハラドキドキしたり、悲しい物語を聞いて悲しくなったり、怪談話を聞いて怖くなるのは、それが擬似的な体験をもたらすからなんです。お話しや物語には人の心とからだに擬似的な体験をもたらす働きがあるのです。でも、そこから知識だけを抽出してしまうと途端にその働きは消えてしまいます。冒険話のレジメを聞いても、ハラハラドキドキなんかしませんよね。怪談話の内容を説明されても、怖くはなりませんよね。そのようなものは「知識」として頭の中には留まりますが、知識化されてしまった途端に、心やからだに響く力を失ってしまうのです。あと、最近は、自分で本を読ませたり、youtubeなどの動画でお話を聞かせるお母さんも多いですが、そういうやり方では「物語の力」は半減します。子どもはお母さんの声を体験する事で、お母さんの声を通して物語の世界を体験することが出来るのです。物語を聞いてそれが体験化するためには、子どもにとって信頼できる人の声が必要なんです。信頼できる人の声だからこそ、その声に心とからだを預けることが出来るのです。文字を読み、視覚から入った物語は、まず情報として脳に送られます。そして、脳がその情報を子どもの体験とつなげて疑似体験をもたらします。でも、この回路では子どもがまだ体験したことがないことは子どもに伝わりません。それはつまり、森の体験がない子に森の物語を読ませても、森の体験は出来ないということです。でも、森の体験があるお母さんが、自分の感覚と対話しながらお話を読んであげると、子どもはまだ見たことがない森が見えたり、草や木の匂いを感じたりする事が出来るのです。お母さんの心やからだの中のイメージが、お母さんの声を通して子どものイメージやからだを刺激するからです。それが、現代人が忘れてしまった「声の力」です。ちなみに、自分勝手な子はお話しを聴く力も弱いです。お話だけでなく、人の話に耳を傾けること自体が苦手です。いくら、知的な能力や理解力が高くても、お話しを楽しむことが出来ない子は、自分勝手な行動を取りやすいのです。
2022.05.18
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最初に告知です。私は、横浜駅の近くにある「Umiのいえ」という所で毎月ワークをやっています。5月26日(木)にもあるのですが、私の講座としては初めて「心を広げるからだのワーク」というテーマでやります。参加費、2500円です。UmiのいえのHPは「Umiのいえ」です。お申し込みは「こちら」からお願いします。以下が案内文になります。ーーー子育てで大事なのは、まずママがリラックスすること。緊張し、疲れていると、子どもにイライラしてしまいます。イライラするのは生理現象であり、性格の問題ではありません。この講座では、さまざまなワークで体をゆるめます。ニコニコ楽しく毎日を過ごすための、自分にあった体操やゆるめ方を拾っていってくださいね。*****************昨日も書きましたように、「自由に生きることが出来る人に育てる」つもりで、子どもに「好き勝手に行動する自由」を与えてしまうと、子どもはただ自分勝手な行動をするようになるばかりです。そして、周囲の反発に遭い、結局自由に生きることが出来なくなります。人間関係で出来上がっている人間社会で自由に生きるためには、周囲の人間との間に「良好な人間関係を築く能力」が必要になるのですが、その能力が育たないからです。そして、意外かも知れませんが自己肯定感も育ちません。社会的な動物としての人間における自己肯定感は、周囲の人達に受け入れてもらうことで育つように出来ているからです。いくら成功体験を積み重ねても、その成功を認め、共に喜んでいる人がいなければ、自己肯定感は育たないのです。いつもゲームなどで一人で遊ぶばかりで、仲間と対等な関わり合いの中で遊ぶ体験がない子も同じ状態になりやすいです。ゲームでいくら高得点を採っても、それだけでは自己肯定感は育ちません。両者とも、「仲間や他の大人との対等な人間関係」の体験がないために「みんなと一緒」という状況の中での判断や行動の基準を学ぶことが出来なくなってしまい、結果として「自分勝手」という状態になってしまうのです。そんな自分勝手に行動する子を見て、「仕付けが出来ていない」とか、「悪い子」だと決めつけてしまう人も多いですが、そういう子はただ単に「人間関係のルール」を知らないだけなんです。そして、その「人間関係のルール」は、お母さんとの一対一の関係の中では教えようがないのです。「お母さんから産まれた子ども」と「子どもを産んだお母さん」は対等な関係ではないからです。「お母さんと子ども」の関係は、世界で一番対等ではない人間関係なんです。これは「お父さん」も同じです。子どもに取って「お母さん」と「お父さん」はかけがえのない大切な存在であって、決して自分と対等な存在ではないのです。ですから、お母さんも、お父さんも、子どもに「対等な人間関係のルール」を教えようがないのです。ただし、お母さんとお父さんが対等な関係で助け合いながら生活しているのなら、子どもはそんなお母さんとお父さんの姿を見て、「対等な人間関係のルール」を学ぶことが出来るのですが、昼間、会社に行っているお父さんは、子どもにお母さんとのそのような関わり合いを見せることが出来ません。「じゃあどうしたらいいのか」と言うことなんですが、そこで絵本や、お話しや、物語の力が役に立つのです。ということで、明日に続きます。すみません。
2022.05.17
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私の印象では、「自分勝手」と「自由」の違いをよく理解していない人が多いような気がします。子育てでも、「自由に生きることが出来る人に育って欲しいから」と子どもが何をしていても注意せず、また、やりたいことだけをやらせている人が時々います。そういう風に育てられている子は周囲のことを考えずに自分勝手に感じ、考え、行動します。自分がやりたいことが全てなので、当然、集団のルールも無視します。相手に合わせるとか、その場の状況やルールに合わせるということも出来ません。そういう学びをしてこなかったからです。でも、そのような子育てをしているお母さんは、自分の子どもが自分勝手に行動していてもニコニコしてそれを見ています。そのようなお母さんには、「自分勝手な行動」が「自由な行動」に見えているのでしょう。でも、そのような状態の子は自己顕示欲が強いような気がします。わざと目立つようなことをして「みんな、僕(わたし)を見て!」アピールをするのです。グループを作らせても、自分のやりたいことに他の子を従わせようとします。人の意見は聞きません。話し合うこともしません。というか、出来ないのですけどね。小さい時からそのように育てられているので、他の人が注意しても何を言われているのか、何を要求されているのか理解出来ません。そして、「それは僕の自由だろ」とか言い返してきます。そして、「自分の自由」は主張しても、「相手の自由」は無視します。でも、そのような子を、周囲の子は受け入れません。そういう状態の子は当然、みんなと一緒に行動することが出来ません。みんなと一緒に行動するためには、相手の気持ちを考えたり、話し合ったり、時には妥協する能力も必要になるのですが、自分中心に感じ、考え、行動することに慣れてしまっている子にはそれが出来ないからです。周囲の子もそのような状態の子を、遊び仲間として受け入れません。すると「みんなが僕にイジワルする」とお母さんや先生に言いつけたりします。「自由」と「自分勝手」を混同して子育てをしているこのような状態になってしまうのですが、問題は、お母さんがそういうつもりではなくても、日常的に一人で遊ぶことに慣れてしまっている子もこれと似たような状態になりやすいのです。そして今、そのような状態の子がいっぱいいます。オモチャや機械を相手に一人で遊ぶ時には自分勝手に行動出来ます。オモチャで遊んでいても、飽きたら自由に止めたり、他の遊びで遊ぶことも出来ます。ゲームで遊んでいても、つまらなくなったり負けてきたら、自分の都合だけでそこでリセットすることも出来ます。youtubeで動画を見ていても、飽きたら、コロコロチャンネルを変えることが出来ます。集団の中での自分勝手は、周囲の人にも分かるし、注意も出来るのですが、この一人遊びの中の自分勝手は、誰も見ていません。誰も注意してくれません。お母さんは子どもが一人で遊んでくれているだけで満足しています。
2022.05.16
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この世の中の全てはルールに従って動いています。物質の世界は物理法則というルールに従って動いています。生命の世界は生命のルールに従って動いています。物理法則は直線的ですが、生命のルールは循環的です。でもいずれにしろ、これらのルールは普遍的です。物質の世界も生命の世界も、何万年、何億年も前から同じルールで動いています。日本でも、アフリカでも、アメリカでも同じルールで動いています。昔の子どもたちは、様々な遊びを通してこの「物質のルール」や「生命のルール」と出会っていました。そしてそのルールを理解し、そのルールを使って遊び、物質の世界や生命の世界との関わり方を学んでいました。また、群れて遊ぶことで「人間関係のルール」も学んでいました。直接、自分の感覚やからだを使った遊びを通して、自分が生まれた世界と出会い、その関わり方を学んでいたのです。「物質のルール」や「生命のルール」といったものを学ばないことには、コマの回し方も、ナイフの使い方も、竹馬の乗り方も、木登りの仕方も理解出来ません。生き物を捕まえることも、生き物を飼うことも出来ません。「人間界のルール」を学ばないことには、みんなで仲良く遊ぶことが出来ません。そのルールを学ぶことで、子ども達は自由に生きる能力を手に入れていたのです。でも最初は、それらのルールは、自由に動こうとする子どもに対して「束縛」として働きかけます。竹馬に乗ったことがない子が竹馬に乗っても転ぶばかりです。でも、繰り返し体験を通してそのルールを理解することで、逆に、そのルールを自分の目的に合わせて使う事が出来るようになるのです。すると、竹馬で走ることも出来るようになります。空を飛びたいと願っている子には重力は束縛です。でも、その重力を受け入れるからこそ、地上での様々な活動が可能になるのです。また、この「物質のルール」や「生命のルール」は世界共通ですから、アフリカのサバンナで育った遊び上手な子を日本に連れてきても、やはり同じように上手に遊ぶことが出来ます。コマ回しが上手な子は、他の国の子の遊びもすぐに学習するでしょう。でも、現代の子どもたちは遊びを通して「普遍的な世界」と出会う事が出来なくなってしまっています。現代人は、自然から切り離された人工的な世界の中に閉じ込められて生活しています。子どもたちも自然とではなく、人工的な機器と関わることで遊んでいます。また、人間が創り出した人工的な世界のルールは常に変化しています。現代社会のルールと、100年前の社会的ルールは全く違います。国ごとでも違います。日本人のルールと中国やインドなどの人のルールは全く違います。さらに言えば、一人一人違います。Aさんが子どもに求める社会的ルールと、Bさんが子どもに求める社会的ルールが同じであるとは限りません。お母さんが子どもに求める社会的ルールと、お父さんが子どもに求める社会的ルールが異なっているというようなこともよくあることです。それで夫婦がもめたりもします。ゲームの世界の中のルールはゲームが創った人が決めたものです。機械の操作のルールはゲーム機を作る会社が決めたものです。ですから、そこに普遍性はありません。そのため人工的な世界の中で、人工的なものとばかり関わっている子は、その場の状況に合わせることは得意になりますが、普遍的な世界と繋がった学びをする事が出来なくなるため、「自分の頭で考える能力」が育ちにくくなってしまいます。「自由に生きる能力」も育ちにくくなってしまいます。
2022.05.15
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昨日は、どうか子どもが小さい時には便利な機械に依存せず、リアルな世界の中で一緒に遊んであげて下さい。映像の中の自然ではなく、命に溢れ、匂いも風もあるリアルな自然の中に子どもを連れ出して下さい。と書きましたが、「道具を使う」というのも、子どもの意識や、心や、からだの育ちに大きな働きかけをします。ただし、この場合の「道具」とは、機械仕掛けではない、ナイフや、ノコギリや、トンカチのような、昔ながらの「手やからだの延長としての道具」です。コマや、羽子板や、竹馬や、ビー玉などの「遊び道具」も同じです。道具を使うことでからだの能力を拡大することが出来ます。道具を使うことで、素手では出来ないようなことも出来ます。そして、人類の進化の歴史は道具の進化の歴史でもありました。でも、その道具が素晴らしいものであればあるほど、それを上手に使いこなすためには高度な技術が必要になります。任天堂スイッチのテニスゲームでは、コントローラーを振り回すだけでボールを打ち返すことが出来ますが、実際にはテニスラケットを上手に使わないことにはちゃんと打ち返せません。そして、テニスラケットを使いこなすことが出来るようになるためには大変な努力と練習が必要になります。手首や足腰の筋肉を鍛えたりすることも必要ですし、腕を振る時のからだの使い方も学ばなければなりません。他にも学ばなければならないことがいっぱいあるでしょう。当然、ラケットを使って上手にボールを打ち返せるようになるためには、多くの練習と努力と工夫が必要になります。手に血豆が出来たりもするでしょう。でも、スイッチのような便利なゲーム機を使えば、そんな厳しい「道具を使いこなすための努力や練習」をしなくても、簡単に「テニスごっこ」を楽しむことが出来ます。でも、そんな簡単便利と引き替えに「からだの使い方」を学ぶ機会を失います。工夫し、努力し、頑張る必要がなくなると同時に、工夫し、努力し、頑張ることでしか得ることが出来ない達成感や喜びを感じる機会も失います。体力を育てる機会も失います。また、自分自身にリアルな体験がないため、リアルな世界で頑張っている人を見ても、それがどれだけ大変なのか、また、何をどのように頑張っているのかが分からなくなります。ノコギリを使ったことがない子は、ノコギリを使えば自分でも簡単に木が切れると思い込んでいます。動画で見ただけで「自分も使える」と思い込んでしまう子は多いです。私が簡単に切っているのを見て、自分も簡単に切れると思い込んでしまう子も多いです。リアルな世界での体験が少ない子ほど、簡単にそう思い込みます。でも、そういう子ほど、実際にノコギリを使わせると、「思い込み」と「現実」の違いに戸惑い、すぐに諦めてしまうのです。そして、手が痛い、腰が痛い、疲れるなどと言い出します。そこで初めて「リアル」と出会うのです。道具を使う時には意識やからだを道具に合わせる必要があります。自分勝手に道具を使っても、道具はその能力を発揮してくれません。それは不自由です。「自分で動いてくれる便利な機械」は簡単に自由を与えてくれるのですが、「自分で動いてくれない道具」は、それを使いこなせるようになるまではただただ不自由を与えてくれるのです。でも、その不自由を受け入れ、道具と自分のからだを一体化させることで、自分の能力を拡張することが出来ます。すると、道具を使えなかった時よりも遙かに大きな自由を手に入れることが出来るのです。機械に自由を与えてもらうのではなく、自分の努力で自由を手に入れることが出来るようになるのです。それは自信に繋がるでしょう。そしてその過程で、自分のからだの使い方や、この世界の現実とその現実との関わり方を学ぶことが出来ます。自分の能力の可能性も感じることが出来るようになります。
2022.05.14
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人間の代わりに仕事をしてくれる機械は便利です。そしてそんな便利な機械が次々と発明されることで、人間は難しくて、辛い労働から解放されました。実際には、機械に依存するようになり、機械に振り回されるようになって自由を失い、新しい苦しみが生まれてしまったのですが、それでも人間は便利な機械を手放しません。それどころかもっと便利な機械を作ろうとしています。自動運転で、寝たきりでも目的地まで連れて行ってくれる自動車とかもそろそろ出始めるでしょう。でも、その結果、人間は自分の頭や、感覚や、からだの使い方まで機械に依存するようにした。そして人類は、今までなかったような新しい問題と向き合わざる終えなくなりました。便利な機械が子どもの育ちを阻害し始めたのです。頭や、感覚や、からだが成長しきった大人が、便利な機械を使うのなら、それほど大きな問題は起きません。でも、頭や、感覚や、からだが成長しつつある時期の子どもが、便利な機械に依存した生活ばかりを送っていると、当然のことながら頭や、感覚や、からだが育たないまま、肉体だけが大人になってしまいます。すると、頭や、感覚や、からだの使い方も分からないし、それらを使う楽しさも分からなくなります。頭や、感覚や、からだの活動を通して育つべき「人間らしい心」も育たなくなります。頭や、感覚や、からだを使う活動を避けるようになります。積極的に生きることを避けるようになります。それでも、便利な機械があれば何とか快適に過ごせてしまうので、それほど問題は感じません。そのような状態の人が一番困るのは、便利な機械が一切通用しない人間関係です。自分の子どもや、友人や、パートナーとの間の幸せな人間関係を築く手助けをしてくれるような便利な機械は存在していません。将来も発明されないでしょう。そして人間の悩みの大分部分は、人間関係のこじれから生まれてくるものです。この点に関しては、古代の人も現代人も同じです。人間関係に文明の力は無力なんです。なぜなら、人間自体が自然の一部だからです。お金がなくても、便利な機械がなくても、仲間がいれば何とかなります。子育てが苦しくても、仲間がいれば何とかなります。生きることが苦しいのは仲間がいないからです。でも、便利な機械に依存した生活ばかりしていると、その仲間が出来なくなってしまうのです。一人でゲーム機に向かって遊んでばかりいる子どもは仲間作りが出来ません。仲間と一緒に遊ぶ喜びも分かりません。仲間を作る能力も育ちません。ネットの中での仲間は出来るかも知れませんが、私たちはネットの中に住んでいるわけではありません。自分自身の命やからだはネットの外にあります。育てなければいけない我が子もネットの外にいます。生活のパートナーもネットの外にいます。仕事はネットの中でも出来ますが、自分のからだはネットの中には入れません。アバターとしては入れても、それは本当の自分ではありません。アバターの仲間は出来ても、そのアバターには実体がありません。アバター同士が手をつないでも、リアルな自分のからだはそのぬくもりを感じません。リアルなあなたが熱を出して苦しんでいても、そばにいて看病してくれません。そのため、ネットの世界の中でアバターの友人が増えれば増えるほど、リアルな現実世界での孤独を強く感じるようになってしまうでしょう。どうか子どもが小さい時には便利な機械に依存せず、リアルな世界の中で一緒に遊んであげて下さい。映像の中の自然ではなく、命に溢れ、匂いも風もあるリアルな自然の中に子どもを連れ出して下さい。そして自分の頭と、感覚と、からだを使った遊びをいっぱい体験させてあげて下さい。その過程で人間らしい心も育ちます。仲間作りの能力も育ちます。
2022.05.13
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人間は便利な機械を作り出しました。ご飯を炊くのも、洗濯をするのも、ポタンを押すだけで機械が人間の代わりにやってくれます。自動車に乗れば歩かなくても移動することが出来ます。そんな便利な機械が生まれることで、人間は効率的に仕事をすることが出来るようになりました。頭やからだを使わなくても、便利な機械を買うお金さえあれば、自分の能力を超えたすごいことが出来るようになりました。便利な機械を使えば、子どもでも大人と同じことが出来るようになりました。そんな便利な機械が生まれる前、人々は人間のからだの延長としての「道具」を使っていました。ノコギリやナイフやトンカチや、鋤きや鍬といったような道具です。道具は人間の能力を拡大はしてくれますが、代わりにはやってくれません。古代の人は石で出来たナイフで木を削っていましたが、ナイフのような金属の刃物が発明されることで、より効率的に木を削ることが出来るようになりました。でもナイフは、人間の能力を拡大はしてくれますが、人間の代わりに木を切ってくれはしません。手で動物を仕留めるのは困難ですが、槍や混紡を使えば、素手よりは簡単に獲物をつかまえることが出来ます。弓矢を使えば、小動物なら遠くからでもつかまえることが可能です。鉄砲を使えば、大きな動物でも遠くから仕留めることが出来ます。でも、そのような道具を使いこなすためには訓練が必要でした。ナイフを初めて持った子に木を削らせても、疲れるばかりで一向に削れませんが、ナイフに慣れている子なら上手に木を削ることが出来ます。弓矢に慣れていない子に弓矢を持たせても全然飛ばせません。私がノコギリで木を切っているのを見ている子は、「木はこんなに簡単に切れるんだ」と思い込みます。でも、自分がやると全然切れません。で、すぐに諦めます。道具を上手に使うためには、自分のからだとの対話が必要になるのです。その点、機械は人間の代わりに仕事をしてくれるので、からだとの対話も、使いこなすための努力も必要ありません。ただマニュアル通りに操作すればOKです。その結果、人間は機械は依存するようになりました。職人の技術が必要なすごいことでも、素人が簡単に出来るようになりました。でもそのせいで、機械がないと何も出来なくなってしまいました。今、炊飯器ではなく薪と羽釜で美味しいご飯を炊ける人はあまりいません。また、職人のすごさが分からなくなりました。自分のからだと対話する能力を失い、自分自身の身体の能力の可能性も分からなくなりました。そして、機械を使うのではなく機械に使われるようになってしまいました。でも、便利な機械を使うとすごいことが出来るので、それが自分の能力だと勘違いしています。<これから愛知に行くので明日に続きます>
2022.05.12
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最初に、参加者募集のお知らせです。茅ヶ崎で毎月やっている気質の勉強会がまた4月から始まりました。1年間かけて、色々なワークをしながら、気質について学ぶ会です。原則として、各月の第一土曜日にやっています。次回は6月4日(土)です。会場はJR茅ヶ崎駅の近くの公共施設です。10:00~12:00で、参加費は2000円です。ご興味のある方は「篠」までお問い合わせ下さい。******************現代人は自分のからだを大切にしません。からだと対話することもしません。からだを通して学ぶことを大切にしません。からだの不思議を知りません。「からだ」という恩寵も「からだ」という喜びもを知りません。でも、学校でも家庭でも、「命を大切にしよう」とは言います。「命」を支えてくれている「からだ」は大切にしていないのに、「命を大切にしよう」とは言うのです。不思議なことです。そんな現代人の考える「命」は非常に抽象的で観念的です。「命を大切にしよう」と言いながらそこには全く具体性がありません。ですから、子どもに「命ってなあに?」とか、「命ってどうやって大切にするの?」とか、「命はなんで大切なの?」などと聞かれてもまともに答えることが出来ません。そもそも皆さんはご自分の命を大切になさっていますか。最近は、自己肯定感の低い人も多いですが、自分で自分を否定することは、自分の命を粗末にしていることにはなりませんか。 「命」は物と違って、触れることも、見ることも出来ません。科学的にその存在を証明することも出来ません。実際、「命は単なる化学現象に過ぎない」と主張する科学者もいます。そこにあるのは、「命」ではなく、「命のような現象」に過ぎないということです。竜巻は「命あるもの」のように動きますが、単なる物理現象であって「命あるもの」ではないですよね。AIを搭載したロボットは人間のように反応しますが、「命あるもの」ではありませんよね。それと同じです。じゃあ、「命」は本当に観念的なものなのかというとそれは違うのです。確かに、科学的にその存在を証明することは出来ませんが、からだの感覚を通して、リアルな感覚として感じることは出来るからです。それは「音楽」と似ています。私たちは当たり前に「音楽」が存在していることを知っています。でも、そんな身近な存在でも、科学はその存在を証明できないのです。なぜなら、「音楽」を科学的に観察することが出来ないからです。科学で観察できるのは「音」だけです。「音の変化」や「音の関係性」を観察することも出来ますが、そこに「音楽」はありません。「音楽」は人の心でしかその存在を確認することが出来ないものなのです。「命」も同じです。「命」は人の「からだの感覚」を通してしか確認出来ないものなのです。子どもを抱きしめたときに「子どもの命」を感じますよね。自分のからだに意識を向けることで、それと同じ感覚を、自分自身の命に対しても感じることが出来るのです。古来から日本人は「命」というものに対して非常に高い感受性を持っていました。それは、日本人が世界的に見ても非常に高い「からだに対する感受性」を持っていたからです。日本古来の宗教である神道の元々のご本尊は「命」そのものです。キリスト教の神様は「観念の象徴」のような存在ですが、日本人の神様は我々の「命」に宿っていたのです。でも、「自分のからだと対話する能力」を失ってしまった現代人は、「命を感じる能力」も失ってしまいました。そして、「命」の源である「からだ」を、「頭の道具」として使うようになりました。その結果、「心」と「からだ」が分離し、「心」と「からだ」が不安定になり、不安が強くなりました。じゃあ、どうやったらもう一度「からだの感覚」を取り戻し、「自分のからだ」と対話することが出来るようになるのか、ということですが、困った事に「自分との対話の方法」は教えることが出来ないのです。ただ、教えることは出来ませんが自分で学ぶ方法はあります。その一つに、「ゆっくり動く」という方法があります。普通、人はいつも無意識にからだを動かしています。無意識に起き上がって、無意識に歩き、無意識に歯を磨き、無意識に話し、無意識に食事をしています。 そして、そのような無意識状態でからだを動かしているときには、「心とからだの対話」はありません。からだの内部だけで処理が自己完結してしまっているからです。だからこそ、考え事をしながらでも自転車に乗ることが出来るわけです。人間以外の動物たちはみなその状態です。でも、そのままでは「心とからだの対話」は出来ないので、その無意識状態からからだを解放してあげる必要があるのです。「ゆっくり」はそのための方法です。ちなみに「ゆっくり」は「ゆったり」とか「ゆるむ」という言葉と繋がっている言葉のようです。ですから、「ゆっくり動く」ということは、単に「スローモーションで動く」ということではありません。「心の余裕を持って動く」ということです。また、「からだ」を「頭の支配」から解放してあげないことには「ゆっくり」は出来ません。実は、「ゆっくり」を大切にするということは、「脳の中の世界」から出て、「自分のからだが置かれた現実の世界」に還ってくるということでもあるのです。それはまた、自分自身を受け入れることであり、目の前の子どもを受け入れることであり、自分が置かれている現実を肯定することなんです。「ゆっくり」はそこからしか始まらないのです。でも、最初は単に物理的にゆっくりと動くようにして見るだけでもいいです。退屈かも知れません。非効率かも知れません。「なんでこんなことしているんだろう」と悩むかも知れません。でも、それを続けていると、それまで見えなかったものが見えるようになってくるのです。「心」と「からだ」が繋がることで、「からだの感覚」も戻ってくるのです。すると、自分の命とか「子どもの命」も感じることが出来るようになるのです。
2022.05.11
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子どもの体力の低下が止まりません。スポーツ庁が調査したところ、それでなくても近年低下傾向であった子どもの体力が、コロナ下での「家から出ない、仲間と遊ばない、いつでもマスクをしている」などの自粛生活によって、更に激しく低下してしまったようです。auWebポータルの記事には中学生の「持久走」の数字はもはや老人なみとまで書いてあります。詳しい数字は、「ニッセイ基礎研究所」の「コロナ禍における高齢者の体力・運動能力の低下」というHPに出ています。子どもだけでなく老人の体力の低下も著しいようです。老人は体力維持のために運動が必要だったのに、それを奪われてしまった結果です。子どもの場合は、運動によって一番体力が増加する成長期に運動を奪われてしまった結果です。子どもの行動の動機は、楽しいか楽しくないかだけです。子どもは義務感では行動しません。大人は健康維持のためにストイックに、一人でもコツコツ運動することが出来ますが、子どもは楽しくなければ運動しないのです。そして、子どもが積極的にからだを動かす一番の動機は、仲間と遊ぶ楽しさを得るためです。鬼ごっこはものすごく体力を使いますが、あれは体力増強のためにやっているのではなく、楽しいからやっているだけです。仲間と一緒に楽しく遊んだ結果、子どもの体力が育っていくのです。成長に必要な活動だからこそ、大人にとってはしんどいことでも子どもたちは喜んでやるのです。そういう本能が働いているのです。でも、大人達は子どもたちから「遊び」を奪ってしまいました。そして、家の中に閉じ込めるようになりました。「子どもの群れ」を奪い、「仲間と遊ぶ楽しさ」も「仲間と遊ぶ遊び方」も奪ってしまいました。それは高度経済成長以来続いてきたことですが、コロナ対策で、更にそれが徹底されてしまったのです。体力が低下すると、気力が萎えます。意思の力も集中力も低下します。疲れやすくなります。そして、ちょっとからだを動かす活動をしただけで、かったるい、面倒くさい、疲れた、などという言葉を連発するようになります。これは中年以降の大人達と同じ状態です。子どもたちの老人化が始まったのです。教室で子どもたちを見ていても、最近の子はすぐに疲れてしまいます。積極的に行動しないし、積極的に考えないし、常に受け身的です。ちょっとノコギリを挽いただけで、「疲れた」、「腰が痛い」などの言葉を発します。からだもものすごく固いです。この傾向は、高度経済によって人々の価値観や、生活スタイルや、子どもの遊びが変化した頃から始まったのですが、30年ぐらい前から「子どもたちのからだの変化」に気付き始め、それを警告する人も出始めました。そういうことを書いた本もいっぱいあります。私もいっぱい持っています。「人間になれない子どもたち」(清川輝基著・2003年刊)というどぎついタイトルの本まであります。でも、経済優先、大人社会優先の価値観に染まってしまった大人達は、その警告を無視しました。そして、このコロナ下でその流れがさらに加速しました。そして、子どもの体力が老人並みに低下してしまいました。自分の頭で考えずに、真面目に国や医者やテレビの言うことに従っていた大人の管理下にいた子どもほどその傾向は強いでしょう。でも、私の周囲を見ていると、国や医者やテレビの言うことに支配されず、自主判断で自由に行動していた大人に守られていた子は、それほど体力が低下していません。老人化してしまった子どもたちは、色々な面での成長が止まってしまう恐れがあります。老人と同じように、新しいことに挑戦する意欲も萎えてしまうからです。新しいことに挑戦する意欲が目覚めるためにも、体力が必要なんです。だから、新しいことに挑戦し始める思春期の子どもたちの体力が一番高くなるように、成長の仕組みが出来ているのです。でも今、その一番体力が必要な時期の子どもたちの体力が老人並みになってしまっているのです。だからといって、今から体力を付けるような活動をさせようとしても、一度体力が低下してしまった子はそういかったるい活動は拒否します。「体力の低下」は「意欲の低下」に直結してしまうからです。コロナ騒動はやがて通り過ぎます。でも、自粛という名目で大人が子どもから奪ってしまったものは、この時期の子どもの成長に必要なものばかりでした。その結果、自粛に伴う「心とからだの成長に対するマイナスの影響」はコロナが去った後でも続きます。一生続くでしょう。今更、「知らなかった」などとは言わないで下さいね。国や医者やマスコミのせいにしないで下さいね。彼らは、自分たちの職務を果たしただけですから。「親の職務」と「国や医者やマスコミの職務」は全く違うのです。そんなこと、ちょっと考えれば誰にでも分かることですよね。
2022.05.10
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昨日も書いた通り、人間は「頭の記憶」「からだの記憶」「生命の記憶」の三つの記憶に支配されて生きています。「頭の記憶」と「からだの記憶」は「私」という個人に属するものですが、「生命の記憶」は「個を超えた繋がり」の中に存在しています。現代人は「個」中心で物事を考える癖が付いていますが、人間だけでなく、全ての生き物は繋がりから切り離された状態の「個」では生きられないのです。そもそも「個」の状態では子孫を残せません。単性生殖の生き物は交尾する相手がいなくても子孫を残せますが、それでも、周囲の環境とつながっていなければ食べ物を得ることも、生きて行くことも出来ません。親や社会との繋がりを断たれた状態で育った子どもは、人間が学んで来たことを学ぶことが出来なくなってしまうため、野生動物に近い状態でしか生きることが出来なくなってしまいます。というか、生きられません。生き物の世界には「特定の木に実ったものしか食べられない」ものや、「特定の生き物」に依存していないと生きることが出来ないものもいます。ギブアンドテイクの関係で共生している生き物もいます。映画「ニモ」に出てきたカクレクマノミはイソギンチャクと共生することで命をつないでいます。自然環境を守ることがなぜ重要なのかは、人間は自然との繋がりが切れてしまったら生きていけなくなってしまうからです。完全に管理された人工的な環境で暮らしている人でも、食べるものは、その人工的な世界の外の世界から持ち込まれています。また、人工的な環境の中で暮らしていても、青い空を見たり、緑の木々を見たり、土に触れたり、ペットや草花など「自然を感じるもの」を生活環境の中に持ち込まないと、人間は心とからだが狂い始めます。心とからだの仕組み、命の働きの仕組みがそのように出来ているからです。全ての命は繋がりの中で生まれ、繋がりの中で生活し、繋がりの中で子孫を残してきました。その繋がりには地球や太陽や月との繋がりもあります。さらに、それ以外の惑星ともつながっていると言う人もいます。心やからだの状態が、地球や太陽や月の状態と密接につながっているのは意識さえすれば誰にでも実感できます。天気も地球の状態の一部ですから。生命の記憶の中には、生命誕生以来のそのような繋がりの記憶が残っているのです。DNAと呼ばれるものには、その生命の記憶が書き込まれています。それが海だとすると、「私という個」は「海に浮かんだ泡」に過ぎません。海は消えませんが、泡は次から次へと生まれ、そして消えて行きます。その泡は海の一部です。海から切り離されてしまったら泡は存在出来ないのです。でも現代人はそのような「繋がり」の大切さを忘れてしまいました。繋がっていることすら忘れてしまいました。そして、平気で繋がりを無視したような子育てや生き方をしています。幼い子どもはお母さんの言うことを理解出来ません。ですからどんなに易しく説明しても、子どもには通じません。でも、その一方で、その時のお母さんの声や、心や、からだの状態は敏感に感じ取っています。そしてそれを模倣しようとします。幼い子どもは「頭での繋がり能力」はまだ未熟ですが、「からだでの繋がり能力」は大人よりも優れているからです。「自分に似て欲しくないため、あまり子どもと関わらないようにしている」と言っていた自己肯定感が低いお母さんがいましたが、でも、子どもと関わらなくても、子どもは、子どもと関わろうとしないお母さんの状態を直接模倣してしまうので、結局似てしまうのです。お母さんと子どもの間の繋がりは常時アクティブなので、いくらお母さんが小手先の技を労しても無駄なんです。小手先の技を労することは、子どもに小手先の技で生きることを教えているのと同じことです。「優しいお母さん」を演じていると、子どもはそんなお母さんから「自分に嘘をついて見かけだけを整えようとする能力」を学びます。そういう能力も生命の記憶の中には含まれているのです。個人の体験以前に、本能の働きとしてそういう能力が備わっているのです。受精卵は細胞分裂を繰り返して魚の時代、両生類の時代、爬虫類の時代、哺乳類の時代を経て、人間の形にたどり着き、オギャーと生まれてきます。生まれた後も、3才、5才、7才、9才、と成長の節目を通りながら成長しますが、この成長の節目は、人類の精神的進化の再現でもあります。これもまた、生命の働きが、生命の記憶を再現することで生まれているのです。子どもの成長には人間にはコントロール出来ない世界の力が働いているのです。だから、人間の都合だけを押しつけるような子育てや教育をやっていると、子どもの心とからだの状態が不安定になってしまうのです。子どもは繋がりの中で生き生きと育つように出来ているのです。どうか子どもを狭い部屋、狭い社会、狭い世界、狭い人間関係、狭い価値観の中に閉じ込めないで下さい。
2022.05.09
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私たちの思考、感覚、行動の全ては「記憶」によって支配されています。学校の教科書で覚えたことは「頭の記憶」です。「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」などというのも「頭の記憶」です。学校の試験でテストされるのも「頭の記憶」です。子どもたちは「頭の記憶」によって評価され、選別されています。でも、「頭の記憶」はそれだけでは何の役にも立ちません。すぐ忘れます。また、賢さとも何の関係もありません。教科書を丸暗記出来れば試験の成績は良くなるでしょうが、実際の場でその暗記したものを活用できない子は賢くはないのです。「本当の賢さ」は、暗記能力ではなく覚えたことを応用する能力の中に表れるからです。そして、実生活で必要になるのもその応用能力のほうです。子育てで役に立つのも応用能力の方です。「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」など覚えていても実生活では何の役にも立ちませんが、でも、「何かを覚える時には語呂合わせにすると覚えやすい」ということに気付き、それを他のことを覚える時にも応用できる子は賢い子です。また、鎌倉幕府の成立をそれまでの歴史の流れの中で理解出来る子はさらに賢い子です。そのような子は、鎌倉幕府の成立が現代の社会にまで及ぼす影響まで考えることも出来るでしょう。そして、この賢さは知識の量ではなく、「からだの記憶」とつながっています。「頭の記憶」が「からだの記憶」とつながる時、賢さが目覚めるのです。日本の学校では、知識を覚えることだけを求められています。だから知識はイッパイあるのに、自分の考えを持つことが出来ず、自分の行動を自分で決めることが出来ない子どもや大人が大量生産されているのです。それに対して、シュタイナー教育では、知識を頭に留めるのではなく、からだのレベルにまで落とし込もうとしています。そこでやっていることは「知識を体験してみる」ことです。「1+1=2」を覚えるのではなく体験するのです。(ネットで「シュタイナー教育の算数」というようなキーワードで探してみれば、実際にどういうことをやっているのか少しは分かります。)そして、一度「からだの記憶」にまで落とし込まれた知識は、「頭の記憶」としては忘れても大丈夫です。なぜなら、覚えていなくても分かってしまうからです。皆さんは自分がどのように歩いているのかなんて知りませんよね。覚えてもいませんよね。でも、歩く必要がある時には自然と歩けてしまいますよね。自分がどのように自転車に乗っているのかなんて知らなくても自転車に乗れますよね。でも、「自転車の乗り方」という本を丸暗記しても、実際に自転車に乗ったことがない人は自転車に乗れませんよね。同じようなことが子どもの学びにも言えるのです。ペーパーテストで調べることが出来るような能力は、子どもの本当の賢さとは何の関係もないのです。そんな「からだの記憶」の更に先に「生命の記憶」があります。「からだの記憶」は「生まれた後からの体験」によって作られていますが、「生命の記憶」は「生まれる前の体験」によって作られています。「生まれる前の体験」って聞いても何のことか分からないかも知れませんが、私たちの命は、私たちが産まれる時にゼロから新しく作られたものではないのです。私の命は、お父さんとお母さんの命をコピーして生まれたものです。そのお父さんとお母さんの命も、その親たちの命をコピーして生まれたものです。そのつながりは何十億年も前にまで遡ります。その「今の自分の命」につながる「過去の命達」の「からだの記憶」が、「生命の記憶」として自分の命の中にも含まれているのです。<続きます>
2022.05.08
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人間は自然の一部です。それは、100%自然から切り離された環境で暮らしている人でも同じです。お腹が減るのも、オシッコやウンコを排泄したくなるのも、喜んだり、悲しんだりするのも、病気に罹るのも、恋をしたり、ケンカをしたり、殺し合いをするのも、妊娠し、出産し、子育てをするのも、老化するのも、死ぬのもその表れです。そして、自然は他の自然とつながり合い、支え合うことで、その状態を維持できるようになっています。例えば、ある地域の風景や自然の状態が気に入ったからといって、そこをドームで囲んで周囲の自然から切り離してしまったら、そのドーム中の自然は崩壊してしまいます。川の流れに出来る渦の模様が美しいからと言って、その渦を持って変えようとしてバケツですくっても、川から切り離された瞬間に、渦は消えてしまいます。高い山を歩いていると、可愛い高山植物といっぱい出会います。でもその可愛い草花を持って帰ってきても、すぐに枯れます。それは、身近に生えている草花でも同じです。大地から切り離されて植木鉢に入れられた草花は、人間が、その草花が生えていたところの環境と同じような環境を保ち続けてあげないとすぐに枯れてしまうのです。海に遊びに行ってカニや魚を捕まえても、海から出されてバケツの中に入れられているだけで、そのほとんどが死にます。生き延びた生き物を家に持って帰ってもすぐに死にます。生き物は全て、自分が生きている環境と一体化しているので、自分が生まれ育った環境から切り離されたら生きて行くことが出来ないのです。動物園の動物たちは人工的な環境の中で人間に育てられていますが、それでも、動物園の人達はその動物が生まれ育った環境に近い環境を与えようと努力しています。そうでないと、生命力が萎えたり、病気になったり、繁殖力が萎えてしまうからです。そして実は、これは人間でも同じなんです。確かに、現代人は生まれた時から、人工的な環境の中で育ち、生活しています。ですから、人工的な環境から切り離されたら生きて行くのが困難になってしまっています。だからといって、現代人には自然は必要がないのかというとそんなことはないのです。人間の命を支えている生命活動そのものが自然の一部だからです。生命は自然の中で、自然の働きの一部として生まれました。そして、その生命誕生以来35億年、人類誕生以来数十万年、人間も自然の中で、自然とつながり、自然に支えられて生きてきました。そのため、人間の「命のシステム」も自然とつながることで正常に働くように出来ているのです。そしてこれは、生まれた時から人工的な環境の中で暮らしている現代人でも同じです。頭の記憶としては残っていなくても、からだの記憶としては残っているため、人間は自然がない環境の中だけで暮らしていると、心やからだが不安定になり、漠然と苦しくなったり、原因が分からない不安を感じたりするようになってしまうのです。だから動物園では、動物園という人工的な施設の中でも可能な範囲で動物たちに自然を与えようとしているのです。動物園の檻の中に草や木が生えていたりして自然に近い状態が再現されているのは観客を喜ばせるためだけの演出ではないのです。でもなぜか、人間を育てる時にはそのような努力はしていません。どうも人間は、自分たちの命のルーツを忘れてしまったようです。その結果人間は、自然物でありながら人工物に同化しようとするようになりました。そして、心とからだを病む人が増えて来ました。生命力も、繁殖力も、萎えてきました。自然から離れれば離れるほど人は「本来の自分」を見失うのです。当然、そのような人は子育ても困難になります。「子ども」という「自然丸出しの生き物」の扱いに苦しむことになります。でも、部屋の中ではちょっとしたことでケンカしたり、大騒ぎをしている子どもたちでも、自然の中に連れ出すと落ち着いて仲良く遊び出すのです。そんな子どもたちを見ていると、自然の中に人間のルーツを感じるのです。
2022.05.07
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「探検しよう」あと、散歩で「町探検」をするという遊びもあります。いつもとは違う道をあるいてみたり、いつもとは違うお店に行ってみたりして、「色々なもの」や「こと」を発見して遊ぶのです。私は「道を探す」のが好きなので、わざと細い道に入ってみたりしました。茅ヶ崎は大空襲も大きな都市計画もなかったので、昔のごちゃごちゃした細い路地が結構残っているのです。(これは偶然ではなく、米軍は茅ヶ崎海岸から上陸するつもりだったので、上陸後利用できるインフラをなるべく壊さないようにしたそうです。)あと、子どもと、「どこにどんな公園があるのか」を調べるため、あちこち歩き回ったこともあります。川が流れていたら、川に沿って上流に行ったり、下流に行ったりして探検するのも楽しいです。「種あそび」春、夏のお散歩で、どこにどんなお花が生えているのかを調べておいて、種がつく頃に種を集めて歩くのも面白いです。花壇のお花をとってはまずいですが、種なら大丈夫です。いろんな種を集めるのも面白いですが、密かに、その種を町の色々なところに蒔いてみて、散歩しながらその様子を観察するのも面白いと思います。時々、「こんな所にこんなお花が」ということがありますよね。そんな感じになったら面白いですよね。「植木鉢を作る」プリンのカップや、ラーメンの空き容器や、紙コップなど、身近にある小さな容器に土を入れ、道ばたに咲いている野の花を植えて、「ミニ植木鉢」を作るのも面白いです。ラーメンカップならタンポポを植えることが出来ると思います。オオイヌノフグリならプリンカップでも大丈夫かも知れません。そして、容器にマジックなどで色を塗って、素敵な植木鉢を作ってみませんか。「名所を作る」以前、日本で一番高いところにある小海線の野辺山というところに行って「飯盛山(めしもりやま)」という山に登ってきました。登ると言うよりもハイキング程度の山なんですが、その登山道の入り口の所に「ライオン岩」なるものがありました。詳しい説明は読んでいないのですが、一部の岩がライオンの横顔のようにも見えたので、そういう名前をつけたのかな、と思いました。そもそも「飯盛山」という名前自体が、山が「飯を盛ったような形」から来ていることは明らかでした。名所の名前は、こんな風に意外と簡単に作られているのです。ですから、いつもの散歩道に、親子で勝手に名前をつけて、「名所」を作ってしまってもいいのです。腰掛けるのにちょうどいい石は、「腰掛け岩」と命名して名所にしましょう。一本だけぽつんと立っている木には「独りぼっちの木」という名前をつけて、名所にしてあげましょう。タンポポがいっぱい咲いている道は「タンポポロード」なんかいかがですか。「拾って遊ぶ」あと、ドングリや、落ち葉や、木の枝や、種や、小石などを拾って遊ぶの楽しいです。家に帰ってから並べて遊んだり、色画用紙などに貼ってみたり、毛糸やクレヨンなどと一緒に造形遊びに使っても楽しいです。小石にポスカで色を塗って遊ぶのは楽しいですよ。マジックよりもポスカの方がきれいにぬれます。ダイソーに人形用の小さな「目」を売っているので、それをつけると不思議な生き物が作れたりもします。木工用ボンドやセメダインのような「乾くと透明になる接着剤」を使って「目」を作る方法もあります。この辺の「自然素材を使った造形遊び」は色々な本も出ていますので、探してみて下さい。
2022.05.06
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今日は「こどもの日」ですね。キャンプやハイキングなどに行かれる方も多いでしょうね。今日は、そんな場所でも遊べる「自然の楽しみ方」です。「観察し、調べる」5才くらいからの遊びになりますが、散歩の途中に生えている草や木や、散歩の途中に見つけた虫たちを子どもと一緒に観察して、名前を調べてみるのも面白いと思います。落ち葉をひっくり返してどんな虫がいるのかを探してみるのも面白いです。スマホにも、「名前を調べるアプリ」があります。そんなにちゃんと調べなくても、子どもと一緒に勝手に名前をつけて遊んでも楽しいですよ。自分たちで名前をつけようとするときにはよく観察するものです。私だったらアリに「ゴマ虫」という名前をつけますね。似てませんか?「食べてみる」食べることが出来るかどうかを調べてからになりますが、「食べてみる」という遊び方もあります。この時期は食べられる野草がいっぱい生えていますから、それを子どもと摘んで食べるのも楽しいですよ。うちは毎年やっていました。ヨモギはヨモギ団子にしました。(今もやっています)桑の実、山モモ、木イチゴなどは定番で、見つけては食べていました。プレイリーダーをやっている娘は、今でも「お父さん、オオバコ美味しいよ」とか「セミも美味しいよ」と言ってきます。「ショウリョウバッタ」は不味いそうです。「物語りを伝える」時々、子育ての相談で「うちの子はアリを見つけると殺して遊ぶのですが、どうやったらそういう残酷な遊びを止めさせることが出来るでしょうか」という質問が来ます。どうも、アリを踏んづけて遊ぶのは子どもの本能のようです。私は中学生の頃に黒色火薬を作って、アリの行列の上にかけ、火をつけて遊んでいたことがあります。それを残酷と言う人もいますが、子どもは殺したりイジメたりすること自体を楽しんでいるわけではないので、「残酷な大人になったらどうしよう」などという心配は思い過ごしに過ぎません。そんな時は、「子どもにアリさんの物語りを伝えてあげて下さい」と言っています。アリがどのように生活しているのかを調べて教えたり、アリさんが主人公の絵本などを読んであげるのです。「アリさん可哀想」と言って止めさせるのではなく、ではなく「アリ」に興味を持つようにしてあげるのです。すると、「子どもはアリを殺して遊ぶ」のではなく、「アリを観察して遊ぶ」ようになるかも知れません。ペットボトルに土とアリを入れて飼ってみるのも面白いと思います。「私はアリが嫌いだからそんなこと出来ません」というお母さんもいるかも知れませんが、好奇心で殺してしまっている子どもよりも、大人の「嫌い」という感情の方が残酷です。「嫌い」という感情が、全ての残酷な行為の動機なんですから。我が子を残酷な大人にしたくないのなら、「嫌い」ではなく「好き」という感情をいっぱい育てて上げて下さい。行為を禁止するだけでは逆効果です。その時、「相手のことをよく知る」という行為が「嫌い」という感情を和らげてくれるのです。戦争も「嫌い」という感情から生まれます。虫だけでなく、草や木や雲や川や山も「物語」を持っています。そういう物語を扱った絵本などもいっぱいあります。そのような物語りを伝えて上げることで、子どもは自分が生まれた来た世界や自然が好きになるのです。そして、自分が生まれた来た世界や自然が好きな子は自分のことも好きです。他者を肯定出来る人は、自分自身も肯定出来るのです。
2022.05.05
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散歩には色々な楽しみ方があります。「立ち止まる」立ち止まってみると、歩いている時とは感覚も意識も変わります。そのため、立ち止まってただ立っているだけで、聞こえる音や、見える景色や、周囲の明るさや色が違って見えてきます。歩きながら見ているときよりも、色は美しく、音は心に響いて聞こえます。また、立ち止まり、動かないことで、「動物的な感覚」ではなく「植物的な感覚」が働き始めます。また、「時間の感覚」も変わります。「人間の時間」ではなく、「大地や木々の時間」に触れることが出来るからなのでしょうか。すると、大地の気持ちや、草花や木々の気持ちが分かりやすくなります。また、自分の動きを止めることで、周囲の動きを感じやすくなります。風に揺れる草花や木々の動きに命を感じたりもします。またそのことで「自分の命」も感じやすくなります。そのような状態で、子どもと「何の音が聞こえる」とゲーム形式で「音探し」をすることも出来ます。タンポポの綿毛を飛ばして風を見ることも出来ます。「しゃがんでみる」立ち止まるだけでなく、しゃがんで見ると、また別の世界と出会うことが出来ます。いつもは上から目線で傍観者的にしか見ていない世界が、急に存在感を持ち始めるのです。立って見ているタンポポは「ただのタンポポ」ですが、しゃがんで見るだけで、そのタンポポが「タンポポちゃん」と呼びたくなるような「命ある生き物」に変わります。寝転んで見るタンポポはもう「お友達」です。相手が生きて生活している空間に入ることで、相手が生きている世界や相手の気持ちを感じやすくなるのです。「お魚屋さんの水槽で見る魚」と、「自分が海に潜って見た魚」は別のものですよね。「テレビで見ているインド」と、実際にインドに行って、インドの人達と同じ空間に入ることで見えてくるインドは全く別物ですよね。それと同じ事がしゃがんでみるだけでも起きるのです。「子どもの気持ち」や、「子どもが生きている世界」を知りたいのなら、子どもと目線を合わせてみる」「子どもの空間に入ってみる」というのも一つの方法です。子どもを上から見下ろしているだけでは、「子どもの気持ち」も「子どもが生きている世界」も見えてこないのです。「触れてみる」お散歩の途中にはいっぱい木や草が生えていると思いますが、それらを想い出すことが出来ますか。多分、出来ないと思います。なぜなら、その木や草に対して何の想い出もないからです。その結果、お散歩が「ただ歩くだけの時間」になってしまっています。お散歩で歩いている道もただの「通り道」にしか過ぎなくなります。そのため、何の発見も気付きもありません。子どもは立ち止まりたがります。すると、お母さんは「速く歩きなさい」と言います。子どもはしゃがんで何かを触ろうとします。すると、お母さんは「汚いから触ってはいけません」と言います。寝転ぶなんてもってのほかです。先日、ある会の下見で横浜の円海山というところを歩いてきたのですが、帰りの小川の所にお父さんと3,4才ぐらいの女の子がいました。それで「何かとっているんですか」と聞いたら、「娘が泥を触ったので手を洗わせているんです」という返事が返ってきました。「ああそうですか」と離れていったら、後方で「もう泥なんか触っちゃダメだぞ」という強く叱っているお父さんの声が聞こえてきました。このお父さんは、学びや気付きの宝庫にいながら、何にも見えていないようです。もったいないことです。散歩の途中にある木の前で立ち止まり、見上げ、触れてみる。抱きついてみる。登れそうなら登ってみる。葉っぱをつまんでにおいを嗅いでみる。すると、その木に対する「想い出」が出来ます。関わるから「想い出」が生まれ、「虚」だったものが「実」になるのです。そういう体験をした子は、大きくなっても、その木のことを想い出すかも知れません。その「木の体験」が子どもの心を豊かにしてくれるでしょう。感覚や感受性の育ちも助けてくれるでしょう。子どもはそうやって、自分が生きている世界を豊かにしているのです。<続きます>
2022.05.04
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「親子遊び」には色々とありますが、「お散歩」はもっとも大切にしてもらいたい遊びの一つです。一日中人工的な環境の中で生きている現代人にとって、「お散歩」ほど「自然の世界との触れ合い」を楽しむことが出来る活動はないからです。普段、私たちは人間が作った環境の中で暮らしています。ですから、「自然」など意識しなくても、「人工的に作られたもの」だけあれば生きていけます。その結果、必然的に「人工的に作られたもの」にばかり意識が向くようになってしまっています。それは子どもたちも同じです。そんな人工的な環境の中で生活し、人工的に作られたおもちゃでばかり遊んでいる子は、人工的なものにしか興味を示さなくなります。関わり合いがないのですから、興味を持たなくなってしまうのは当然の結果です。そして、夢や希望も、人工的な世界の中だけに求めるようになります。スポーツ選手になりたい、アイドルになりたい、ユーチューバーになりたいというような夢は全て人工的な世界へのあこがれの表れです。そして、人工的なことにばかり意識が向くようになってしまっている人は、自分の「心」や「からだ」を支えてくれている「自然の働き」にも気付きません。「人間が作った人工的な世界を支えてくれている自然という大きな世界」にも気付きません。そして、「心」や「からだ」すらも「道具」のように考えています。「病気」も自然現象の一部なので、そこにはちゃんと「自然現象としての意味や仕組み」もあるのですが、人工的な発想しか持っていない人は、「病気」を「修理が必要なトラブル」としてしか認識することが出来ません。そのため、具合が悪くなると薬などで修理しようとします。確かにその方法でも応急処置は出来ます。ですから意味がないわけではありません。でも、応急処置しか出来ません。「子育て」でも、「子どもの心とからだの中で働いている自然」(それを「命の働き」といいます)には気付かず、「仕付け」などの人工的な方法論だけで対処しようとしています。「子どもを人工的な社会に適合させること」だけが「子育ての目標」になってしまっている人も多いです。でも、「子どもの内側で働いている自然の力」を無視した子育てをしていると、子どもの命の働きが萎えてしまうのです。その結果、依存心が強い子になります。そして、どんなに社会的に成功しても、依存心が強い人は常に不安を感じながら生きることになります。「不安」こそが「依存」の本体だからです。じゃあどうしたらいいのかということですが、「心とからだの中の自然」は、「人工的な世界の外側にある自然」と響き合い、共鳴することで強化されるのです。青い空や風に揺れる木々を見て、その風に触れ、野の花のにおいを嗅ぎ、流れる水に手や足を浸し、夕焼けに立ち止まることで、心とからだの中の自然の働きが活性化されるのです。そのような日常が、子どもの「生命力」を育てるのです。「生命力」は「自然との触れ合いの中で自然に育つもの」であって、人工的に無理矢理鍛えようとしたら、逆に萎えてしまうものなんです。それが「自然」と呼ばれるものの特徴なんです。<続きます>
2022.05.03
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次々と便利な機械が発明されることで、それまでは面倒くさい手間や、長い時間をかけてやっていた仕事でも、誰でもが簡単に出来るようになりました。本来は熟練が必要な仕事でも、便利な機械があれば素人でも出来るようになりました。お皿を洗うことも、お掃除することも、簡単な準備さえしてあげれば、後は機械がやってくれます。まだ未熟な技術ではありますが、運転手が運転しなくても自動車が自分で運転してくれる車も実用化され始めています。コンピュータも、昔は難しいC言語やBASICという機械語を使って1からプログラムを作っていたのですが、今では、レゴを組み立てる感覚で子どもでもそれなりに複雑なプログラムが組めるようになっています。図書館に行かなくても、いつも持ち歩いているスマホで簡単に世界中の情報を手に入れることが出来ます。買い物も、お店に行かなくても、手持ちの現金がなくても、いつもどこでも簡単に出来るようになりました。じゃあ、そういう簡単で便利な機械が生まれることで私たちの生活は楽になったのか。人々は余裕を持ってゆったりと生活出来るようになったのか、というとそんなことはありませんよね。色々な情報を簡単に手に入れることが出来るようになったからと言って、子どもたちが賢くなったわけでも、知的好奇心が目覚め、育ったということもありませんよね。むしろ、自分が好きな情報ばかりを集める癖が付いてしまうことで、自分が知らない世界との出会いを失い、自分の世界や可能性の育ちが阻害されてしまっているのではないでしょうか。一人で簡単に遊ぶことが出来る機械を得ることで、他の子とコミュニケーションしたり、自分を表現したり、他の子の話に耳を傾けたり、相談したり、助け合う能力が育たなくなってしまいました。人間独自の優れた能力の大部分は、生まれた時は「可能性」として与えられているだけなので、必要がない能力は育たないのです。でも、必要があればすごい能力が育ちます。それだけ人間の子どもは可能性の塊だということなんですが、便利な機械はその子どもの可能性の目覚めを阻害してしまう働きをしてしまうのです。例えば、幼い子どもは世界中のどんな言葉でも学ぶことが出来る可能性を持っています。でも、大人になると、母国語の延長にしか新しい言葉を学ぶことが出来なくなります。だから、翻訳機械のような便利な機械を使ってもそれほど成長への影響はないのですが、まだ可能性がアクティブな状態の幼い子どもたちがそのような便利な機械に依存してしまうと、子どもの可能性がどんどん萎えてしまうのです。確かに、その能力が育たなくても便利な機械があればなんとかなります。だからその能力が育たないのですが、でも、そういう生活をしていると、その便利な機械を使いこなす能力が育たないのです。その結果、機械を使うのではなく、機械に使われるようになってしまいます。機械を使いこなす能力が育たないので、機械に支配されてしまうのです。便利なスマホに依存する生活をすることで、スマホに支配された生活をしている人も多いのではないでしょうか。また、簡単で便利な生活は、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分のからだで行動する能力を奪い依存心を育てます。どうか子どもが幼いうちだけでも(5~7才頃まで、出来れば9才頃まで)、簡単で便利な機械にばかり依存せず、時々は、昔の人のように、自分の感覚や、頭や、からだを使って無駄を楽しむ生活をしてみませんか。生活を変えるのが難しければ、せめてお休みの時ぐらい不便なアウトドアを楽しむ工夫をしてみませんか。丁度、GWだし。
2022.05.02
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地域が崩壊し、核家族化が進むことで、人類発生以来継続されてきた、年上の子から年下の子へ、親から子へ、地域の大人から子どもへ、という伝承が失われてしまいました。子育ても孤立化してしまい、お母さんは周囲の人から子育ての知識や手助けを得ることが出来ないまま、たった一人で子育てをしなければならなくなりました。子育てに関する伝承も途絶えてしまったたため、お母さんはどうしていいのか分からなくなりました。本を読んでも我が子のことは書いてありません。本に書いてある通りにやっても子どもは本に書いてある通りには反応してくれません。そして、思い通りにしようとすればするほど子どもは反抗的で困った状態になります。で、子どもとお母さんの生き残りをかけたバトルが始まります。そんな状況を救ってくれたのがテレビやゲームやスマホです。テレビやゲームやスマホが登場することで、同じ屋根の下にいながら、大人と子どもが別々に生活することが可能になったのです。そして、お母さんは楽になりました。自分の時間を得ることが出来るようになりました。子どももゲームを通して仲間を作り、ネットを通して情報を得ることが出来るようになりました。最新の機械の操作の仕方も覚えます。めでたしめでたし・・・。で終われば問題はなかったのですが、そのような状態で育った子どもの場合、思春期を迎える頃になって新しい問題が発生して来るのです。思春期が近くなる頃から、子どもは親よりも仲間や社会とのつながりの方を重視するようになります。これは人間の生物的成長に伴う本能なので、育て方の如何に関わらず成長と共にそのような状態になります。この頃になると、人間以外の動物たちは親から離れて自立します。人間の子どもにも同じような欲求が目覚めます。そして、親から離れて仲間と群れようとします。でも、親や、仲間や、周囲の大人とのつながりから切り離された状態で育った子は、他の人との関わり方や他の人と関わる時に必要なルールを知りません。他の人の話を聞く能力も、自分の意見や気持ちを相手に伝える能力も育っていません。ネットで色々な情報を得ることが出来ても、人は基本的に自分の興味に合った情報にしかアクセスしないので、そこに他者との出会いはありません。そういう育ちをした子どもたちが大勢集まっても、お互いに自分の本音を隠して表面的な付き合いをすることしか出来ません。自分とは異なった考え方や価値観を持った相手とどう関わったらいいのか分かりません。ちょっとしたすれ違いや勘違いが起きただけでも、話し合いによってそれを解決することが出来ません。そのため、そのまま傷つけ合うだけのつながりになってしまうこともあります。でも、抜けるに抜けられません。抜けたら抜けた人を非難することで残った人達がつながろうとするからです。で、心が傷つき苦しむのですが、それを相談する相手もいません。当然、親にも相談できません。親子の間にそういう関係性が築かれていないからです。親以外の親しい大人や仲間に相談できればいいのですが、そういうつながりもありません。結果、孤独の中で苦しむことしか出来ないのです。その苦しみの中で自傷行為や自殺に走る子もいます。他の子をいじめる側に回ることで仲間作りをしようとする子もいます。犯罪に手を出す子もいます。私の所には、子どもがこのような状態になってから、自分の子育てを反省して「どうしたらいいのでしょうか?」とか「子育てをやり直せませんでしょうか?」と相談に来る人もいます。幼稚園などで子育てに関してのお話しをさせて頂くと、質問の時間には手を上げず、私が帰る頃を見計らって近づいてくるお母さんがいます。で、「ここに通っている子ではなく、お兄ちゃんやお姉ちゃんの問題についてなんですがいいでしょうか?」と聞いてくるのです。「高校を出た後フラフラして万引きなどを繰り返したり、家庭内暴力を繰り返したりしている状態なんですが、どうしたらいいのでしょう」という相談も受けたことがあります。また、「今日のお話のようなことを上の子が小さい時に聞きたかった」とも言います。どうか、子どもが大きくなってから後悔しないような子育てをして下さい。
2022.05.01
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