全15件 (15件中 1-15件目)
1

ブログランキングに登録しています。クリックよろしくお願いします。 ↓ お釈迦さんの滅後次々と経典が作られ、仏教経典は八万四千の法門といわれるくらい多岐にわたっています。インドではその膨大な経典について問題にされることはありませんでしたが、中国ではその経典の優劣が考えられました。つまり、どれが一番すぐれた教えが検討されました。そこで、法華経がお釈迦さんが最後の八年間に説いたもっとも重要な教えだと考えた宗派が天台宗です。したがって天台宗では法華経がもっとも重要な教えとされました。その法華経の説くところは「すべての人が仏となれるはず」「お釈迦さんは遥かに昔から存在して永遠の存在である」(久遠実成)「したがって、現在もお釈迦さんは我々を助けようとしているので我々は仏になれる」ということです。ここから日蓮上人独特の論が展開されます。日蓮宗で最も重要なのは時代背景です。お釈迦様が亡くなってから500年間はその教えが正しく伝えられる(正法の時代)さらにその後1000年間は教えの形だけが伝えられる。(像法の時代)その後は教えが及ばなくなる(末法の時代)と考えられており、日本では1052年が末法元年と考えられていました。その末法の時代にはお釈迦様の教えが伝わっていないので従来の仏教の修行方法では悟りをえられない。真実の教えである法華経に帰依して「南無妙法蓮華経」と唱え現世を浄土に変えてしまおうという教えです。 素光ブログランキングに登録しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2007年11月30日
コメント(13)

ブログランキングに登録しています。クリックよろしくお願いします。 ↓ 日蓮宗は48本山、真言宗は18本山と他宗派に比べ本山がいくつにも割れています。実際はもっとあるでしょう(苦笑)真言宗が分かれているのは自民党の派閥のようなもので、利害関係で分かれているだけです。教義的な違いはありません。ところが日蓮宗は、新左翼のように細かい教義の違いで分かれていることが少なくありません。さて、真言僧には何故か日蓮上人が嫌いな方が多いです。日頃から物静かな方でも、日蓮上人のこととなると感情的になる方がいます。多分、真言宗という日本仏教の中でも許容範囲の広い教えと、日蓮宗という極めて限定された教えの差もありますが、折伏という激しい布教方法をとるためかもしれません。折伏とは相手の邪義を許さず、徹底して論破することにより導く教化法です。当時は天変地異が起こり、疫病、飢饉によって国土が荒廃していました。そのような時代背景にあっては折伏のような苛烈な布教方法が適当だったのかも知れません。その時代にあっても、折伏というのは比叡山、高野山、四天王寺、三井寺等で学び日本第一の智者と豪語していた日蓮上人にして初めてなしうる教化法だったと思われます。現代の某新興宗教団体が「折伏」という言葉をよく使いますが、まねできるような代物ではないといえるでしょう。日蓮宗の教義を一言で語ると「南無妙法蓮華経」(法華経に帰依する)と唱えなさいということです。その法華経については次回お話します。 素光ブログランキングに登録しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2007年11月29日
コメント(16)

ブログランキングに登録しています。クリックよろしくお願いします。 ↓ さて、浄土教について見てきましたが、その違いがお判りでしょうか?法然上人の系譜が浄土宗。親鸞上人の系譜が浄土真宗です。同じ阿弥陀如来の慈悲にすがる教えとはいえ、その差は歴然です。浄土宗は戒を守り、念仏を唱えることにより極楽往生を目指します。当然日常生活でも功徳を積むことが必要とされます。一方、浄土真宗は、戒はありません。努力もする必要はありません。念仏を唱えますが、それは既に救われていることにたいする報恩感謝の念仏です。浄土真宗の方が優しく思われますが、そうではありません。妙好人と呼ばれる念仏の体現者達は、たとえ、自分の身に災難が降りかかろうとも、感謝の気持ちで持って受けとめたと言われます。現実路線の浄土宗、理想論の浄土真宗のように思います。それが故に、親鸞上人がインテリを魅了したのではないでしょうか? 次回は日蓮宗に入ります。 素光ブログランキングに登録しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2007年11月27日
コメント(22)

さて、誰にでも出来る「専修念仏による極楽往生」という道を開いたように思える法然上人ですが、どんな修行をしていたのでしょうか?なんと毎日6万回の念仏というすざましい行をしていたのです。融通念仏宗の祖とされる良忍上人も同じく毎日6万回の念仏を唱えていました。ちなみに源信僧都は生涯に念仏2億遍!を唱えたといいます。阿弥陀如来の慈悲に救われる(他力)はずの浄土教の先人達は必死の形相で極楽往生を目指していたのです。他力とはいえ救われるためには死にもの狂いになる。阿弥陀如来を心から信じきってこそ、亡くなった時に極楽に往生が決まる。この常識がついに打ち破られます。「必死に救いを求めなければ救われないとはおかしい」「阿弥陀如来の慈悲はそんなに小さいものではない」「だから阿弥陀様の名を叫んで救いを求めた時に 既に救われるはず」そう考えたのが親鸞上人です。日本人は信仰に形より心を求めます。それを体現したのでしょうか?親鸞上人は戒律をも捨て、阿弥陀様に救済されるための念仏をも否定した絶対の他力を確立します。 素光ブログランキングに登録しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2007年11月26日
コメント(27)

美加さんのブログで見つけた「難病の子供を救う記事」で~~~~以下引用文~~~~~~~救う会の方針 救う会では穂香ちゃんのみではなく、そのご家族の支援を目的としています。穂香ちゃんの心臓移植に対し、福本夫妻が私財を削り、それでも足りない費用を募金で集めるのではなく、あくまで福本夫妻が私財を削らず今の生活を維持したまま、ドイツへ渡り心臓移植を行い、ほのかちゃんのリハビリを経て、日本に帰国した際に以前と同じ生活ができる。これに対しての支援を目的としています。何故かと言いますと、移植医療とは手術が済めばそれで終わりと言うものではなく、その後も一生免疫抑制剤を使用し、免疫低下による病気等、多くの不安定要素があります。これらは当然私生活の範疇となりますので、福本夫妻の負担と言うことになります。ですから移植までに全てを使うわけにはいかない、と言うことをご理解ください。~~~~~~以上引用文~~~~~~~~~率直に感じたのは、「子供を救うためには全財産をはたいても何とかする」というのが普通の親のように思えるので違和感があります。しかし、仏教者としては救えるものなら他人でも救ってあげたい。でも、これは何の縁もゆかりもない人に「子供を救いたいからお金ください」といっているわけで、それにも関わらず「自分の私財を残す」と堂々と宣言する人は???某漫画家が「幼い子供やから募金が集まるんやけど、 ホームレスのおっさんやったら・・・」と言っていたのを思い出しました。それ以前に仏教者としては、人は生まれてくることにどんな意味があるかを考えて欲しい一年でも二年でも生きた人生には意味があります。特に自分の子供と一緒に生活した日々は両親にとってかけがえの無いものでしょう。特に移植は相手が必要なものです。それに必ずしも移植をしたほうが長生きするというデータもありません。 臓器移植を考えるいろいろ考えてしまいましたがいかがでしょう? コウユウブログランキングに登録しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2007年11月25日
コメント(19)

日本人は業火と血の海の中で苦しむ人間達と、立ちはだかる異形の鬼といった地獄のイメージを持っていますが、この元になったのは往生要集という著作といわれています。これを書いたのが、日本の浄土教の祖とでもいうべき源信僧都です。源信僧都の時代は念仏とは現在のように口で「南無阿弥陀仏」と唱えるだけでなく、阿弥陀様や極楽を思い浮かべること(観想念仏)が重視されました。目を閉じると極楽や阿弥陀様が見えるようにならなければいけないともいいます。源信僧都は天台僧ですので天台の修行方法に基づいたのですが、これでは大変な難行といわなければなりません。そこで、口で「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽に往生できる(専修念仏)と主張したのが法然上人です。「南無阿弥陀仏」とはサンスクリット語の音写です。「ナーモ、アミタ、ブッタ」というような発音だと原語に近いかも知れません。法然上人は天台宗の本山、比叡山で学びましたが、観想念仏の困難さに疑問を持ち、誰でもが簡単に極楽へ往生できるはずでなければならないと考え、口で念仏を唱えるだけの専修念仏を主張します。専修念仏めぐって天台宗と対立し、京都大原で天台の碩学の僧を相手に問答を交わします。結果として聴衆はすべて法然上人に帰依するという完全勝利を得ますが比叡山を追われることとなります。ちなみに「南無阿弥陀仏」は念仏「南無妙法蓮華経」は題目「南無大師遍照金剛」は御宝号といいます。 次回に続きます 素光ブログランキングに登録しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2007年11月24日
コメント(12)

遠い昔、法蔵という菩薩が四十八の誓願を立てました。その誓願のうち象徴的なものが18番目です。「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません 。」法蔵菩薩は長い間修行して仏となりました。その仏こそが阿弥陀如来です。阿弥陀如来が作られた世界が極楽浄土で、来世にその極楽浄土に生まれ変わることが往生です。よく気分がいいときに「極楽、極楽」などと使いますが、本物の極楽浄土は苦が無く、文字通り「極めて楽」な世界といわれています。また、人が亡くなることを往生と言いますが、厳密には往生とは「(極楽浄土に)生まれて往く」ことです。この極楽浄土にいかにして往生するか?というところに焦点を当てたのが浄土教です。ただし、極楽は遊ぶところではなく仏道修行をする場所ですので悪しからず。浄土教の違いについては次回説明します。 素光ブログランキングに登録しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2007年11月23日
コメント(16)

よく自分では何もしないで、人任せにすることを「他力本願」などといいます。この「他力」という言葉は浄土の教えから来たものです。「自力」「他力」という言葉をご存知でしょうか?「聖道門」「浄土門」ともいいます。簡単にいうと「自力」というのは自らの修行によって覚りを目指す教え。「他力」というのは、仏様を信じることにより救われようとする教えということが出来ます。一見「他力」の方が簡単なように思えますが、そうではありません。仏様を信じるということは、自分の力を否定することにもなります。すなわち、助かろうと努力することも、救われようと努力することも否定することになります。信じきるということは大変なことなんです。さて、真言宗と浄土真宗の違いを説明するには、実は日本仏教についての知識が多少あったほうがわかりやすいと思いますので簡単に説明します。日本には現在十三宗派があるといわれます。異論はあるかも知れませんがこのようになります。平安仏教系 「真言宗」 「天台宗」禅宗系 「臨済宗」 「曹洞宗」 黄檗宗浄土系 「浄土宗」 「浄土真宗」 時宗 融通念仏宗法華経系 「日蓮宗」奈良仏教系 律宗 華厳宗 法相宗カッコでくくった代表的な七宗派について説明したいと思います。 素光ブログランキングに登録しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2007年11月22日
コメント(29)

昨日プロ野球のドラフト会議が開かれ、四国アイランドリーグからも6人の選手が指名されました。すなわち6人の選手がプロ野球に入る権利を得たということです。一昨年は2人、昨年は3人の指名ですから今年は大量指名で大変喜ばしい、四国アイランドリーグもプロ野球の登竜門としての機能を果たしているのですが・・・一つ大変気になることがあります。宮本選手、梶本選手以外の4人は、何でこの選手が指名されたんだろうと考えさせられます。つまり、リーグでは大して活躍していないということです。四国アイランドリーグはプロ野球の2軍と20試合もの練習試合を行なっています。それに加えて、今年は2軍の若手が交流試合を行なうフェニックスリーグにも選抜チームが参加しました。何人かこの選手ならプロ野球でも通用するという感触の選手がいます。しかし、それらの選手は残念ながら指名を受けませんでした。一昨年に指名された二人、昨年指名された3人のうち二人の選手は四国アイランドリーグでそれなりの成績を収めています。ただ、残念ながら一軍で活躍するには至っていません。プロ野球の球団としては、四国リーグアイランドでそれなりに活躍している選手よりも、将来性を考えて伸びる選手を取ったのでしょう。しかし、見る側としては四国で活躍している選手がプロ野球でも活躍することを期待しています。この選手が指名されて欲しかったのですが・・・松尾 晃雅 堂上 隼人 四国アイランドリーグの選手の動画 ブログランキングに登録しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2007年11月20日
コメント(12)

先日のことですが、たまたま裏の墓地へ行ったところ、3人で墓地を見ている人がいました。私が近づいて行くと「墓地が欲しいんやけど」おお~いきなり墓地を申し込もうとする人がいるとは!「そうですか。ところで宗派はどちらでしょうか?」「そんなの関係あるんで?」「当院は真言宗の寺院です。当院の檀信徒になっていただく必要がありますので神道とかキリスト教は困りますね。」「わしは宗教はない。息子がどんな宗教に入るか判らん」「それは困りますね。それでは考えさせていただくことになります」「そやけど、神道やキリスト教に入ることはないやろう」「・・・・」「わしの実家は浄土真宗で、嫁さんの実家は真言宗やからどっちかでするわ」「・・・・」「多分、お墓を先に立てて拝んでもらうんやから、8割ぐらいは真言宗でさしてもらう」「・・・・」「徳島は大体、真言宗と浄土真宗やな」「そうですか」「ところで、真言宗と浄土真宗はどう違うんで?」「・・・・」「お布施の額が違うんで?」「そういう訳ではないでしょう」(苦笑)真言宗と浄土真宗の違いをいきなり聞かれても一言で言えません(汗) コウユウ(追加しました)真言宗と浄土真宗はどう違う?ー2ー食べ物に例えてみた真言宗と浄土真宗はどう違うー3-懐石料理とカロリーメイトエビ天真言宗と浄土真宗はどう違う-4ー実際は大して変わらないかも真言宗と浄土真宗はどう違う-5ー往生はただただ真言がありがたいと思うことで決まるブログランキングに登録しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2007年11月19日
コメント(33)

再び地球はどうなる?最近ガソリンが値上がりしています。2年ほど前に比べて2割以上値上がりしているでしょう。大都市圏では公共交通機関が発達していますので、さほど影響はないでしょうが、自家用車が主要な交通機関の地方では影響が大きいです。さらに冬になるというのに灯油も値上がりしています。果たしていつまで石油が使えるのでしょうか?それ以前に日本には石油がありません。インド洋での給油活動などしている場合ではありません。今ある生活は石油なしには成立しません。社会全体ありとあらゆるところで石油が必要とされています。農業も魚業も石油なしには成立しません。代替エネルギーが考えられていますが、原子力や水力はもちろん風力の風車も、太陽エネルギーのパネルも、石油がないとできません。地球温暖化の危機が叫ばれていますが、それほど深刻な状況にはならないとの見解もあります。石油を掘りつくしてしまうからだそうです。すなわち石油が使えなくなったら、温暖化も止まります(苦笑)大量の人類が残されますが、その時どのように生きたらいいのでしょうか?ブログランキングに登録しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2007年11月15日
コメント(26)

先日、なみがしらMさんのところにお伺いした時、いい話をお伺いしました。「人に迷惑を掛けないで生きるなんてことはできない」「生きていることは人に迷惑を掛けていること」というようなお話でした。仏教では「懺悔」(さんげ)というものがあり、これは自分が行なってきた悪いことを悔い改めますが、悪いことをしたという自覚のあるものだけでなく、知らず知らずの内に積み重ねていることに対しても、悔い改めることです。自覚していないものに対して悔い改める???生きていること自体が、罪を作っているということでしょう 生きているということは、犠牲がともなうものですそれを忘れないでいたいものです。 素光ブログランキングに登録しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2007年11月13日
コメント(38)

リクエストもありましたので久しぶりに登場です。ゆうきブログランキングに登録しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2007年11月12日
コメント(27)

先日お葬式を行なった方が「四十九日が三月越しになるのはよくないというけど、 どうなんえ。亡くなった人が成仏できへんというな?」と聞きに来られました。三月越しとは中陰(亡くなってから四十九日までの間)が翌々月にまたがる場合を言います。たとえば今月を例に取ると14日に亡くなった方は、四十九日が1月1日になります。すなわち、それ以降の方は11月、12月、1月の三月に中陰がまたがり四十九日が三月越しになるわけです。「全く根拠がありません。ただの語呂合わせです。『三月』というのが『身につく』というのを連想させるから不幸が身につくというのが嫌われてそういわれただけです」「以前は中陰の期間はさまざまな制約がありました。仕事は休まなければなりませんし、外出も控えて家にこもって精進料理を食べなければなりません。」「だから語呂合わせにかこつけて、三十五日などで切り上げていたのです。仏教では四十九日というのが重要です。三月越しになるから切り上げるというのはおかしいんです」そのように以前は説明していましたが・・・説明しているうちに重大な根拠を思いついてしまいました。それはその方の次のような言葉からです。「実は四十九日が三月越しになるからな、三十五日で切り上げようとしたら『友引』にあたっとるんよ。『友引』に納骨したら次に誰か死ぬんとちゃう」「そんな話聞いたことありません(笑)そもそも六曜自体が根拠が無く迷信というのが定説で、真言宗では六曜など使いません」そう言いましたが・・・三月越しにも友引にも明確な根拠がありました(汗) コウユウブログランキングに登録しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2007年11月07日
コメント(53)

毎日たくさんの食料が捨てられて「輸入してまで食べ残す国」として大変評判が悪い日本ですが、最近近所では農地がどんどん少なくなっています。市内では宅地に、市外では大規模店舗などに変わっています。さらにひどいのは道路へと変わっています。ところで、何故農地が無くなるのか?そこで作物を耕作するより、土地自体を売ったり、建物を建ててそれを賃貸したほうが、効率よくお金が得られるからに他なりません。しかし、ちょっとおかしくありませんか?土地に建物を経てるとき、その建築費をどうするか考えますが、その建物を壊す時どれぐらいの費用が必要になるかまで考える人はあまりいないのではないでしょうか? 農地として使用しているうちは半永久的に使えます。そして、耕作を放棄すれば自然に還っていきます。ところが宅地にしたり、店舗にしたり、道路にしたりしたらもし、再び農地に戻す時どんなに大変か?農地だけではありません。森や山はもっと大変でしょう。人間だけの都合により切り開かれた森や山は、地球上の生物を圧迫しています。「地球は人間だけのものではない」それを忘れないようにしたいものです。ブログランキングに登録しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2007年11月05日
コメント(31)
全15件 (15件中 1-15件目)
1
![]()
![]()
![]()