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※「弘法大師伝の勉強会ー弘法大師の入唐求法3」というタイトルでしたが、勉強会と関係ない私の所感ですので訂正いたしました。 以前「弘法大師は仏教家でしょうか?」という問いをしたことがあります。弘法大師は真言宗の開祖として後世に大きな影響を与えました。日本仏教の祖師でオリジナルの教義を組み立てたのは「真言宗・弘法大師」「浄土真宗・親鸞上人」「曹洞宗・道元禅師」「日蓮宗・日蓮上人」弘法大師を除く、三人の祖師はほぼ同時代人です。さぞかし、賑やかな時代だったと思われそうですが、失礼ながら、三人の祖師は当時は現在の小さな新興宗教程度で在世中はそれほど広まらず、弟子がその教団を盛んにしました。当時、名声を得ていた方は「真言宗・忍性菩薩」現在ではあまり知られていませんが、日蓮上人伝を読むと必ず登場する「極楽寺良観」がその人です。真言律宗を開いた興正菩薩叡尊は戒律の復興を行いそれと共に社会救済活動を行ないました。その高弟で東国に活動を広げたのが忍性菩薩です。橋を架け、道路を作り、井戸を掘って庶民の暮らしを豊かにしていきます。さらに極楽寺に「救らい」施設をつくり20年間に五万七千人を治療し、四万六千人が治ったという奇跡を起こし、生き仏と崇められていました。ちょっと横にそれましたが、自分一人で大きな教団を作るということは大変だということです。一方、在世中に国内で影響力のある教団を作った人は3人しかいません。「真言宗・弘法大師」「天台宗・伝教大師」「臨済宗・栄西禅師」どうです。両方入っているのは弘法大師だけです。もっと驚くべき事実があります。以下は各祖師の得度の年齢です。「浄土真宗・親鸞上人」9歳「曹洞宗・道元禅師」14歳「日蓮宗・日蓮上人」11歳「天台宗・伝教大師」14歳「臨済宗・栄西禅師」14歳一方「真言宗・弘法大師」31歳つまり、他の祖師さんは子供のころから仏門に入るべくその方向性を持っておられたようですが、弘法大師はそうでもありません。(仮に20歳得度説を取ったとしてもかなり離れています)他の祖師の半分ぐらいの時間で、弘法大師は一番業績を残したということです。「仏教家・弘法大師」が日本の歴史でひときわ大きな光を放っているのはご理解いただけたと思います。しかし、弘法大師の業績はこれだけではありません。弘法大師は日本史に強烈な個性を持って足跡を残しています。ある時は、言語学者(篆隷万大象名義という日本初の辞典の編纂者)ある時は、教育家(綜芸種智院という入学制限のない学校を作る。 しかも学費は全額支給という超画期的なもの)ある時は、文学者(文鏡秘府論という詩文の創作理論を取りまとめた著作。 執筆法使筆法という字の書き方の著作がある)ある時は、土木技師(日本最大の溜池である満濃池をアーチ型にして改修)ある時は、書の達人(平安の三筆にあげられ、さまざまな書体を自由に操り 文化の中心の唐の長安でも「五筆和尚」の異名を授けられた)ある時は、詩人(唐の文化人を驚かせる漢文を書く)つまり、もし仏教家としての業績が全く無かったとしても日本の歴史に名が残っているということです。これだけの、足跡を残している弘法大師を仏教家でまとめていいのだろうか?というのが私の思いです。そう考えると「弘法大師の謎といわれる前半生」には仏教から離れた立場にあったに違いない。「さまざまな才を発揮した弘法大師がなぜ、真言密教を選んだのか?」実は武内先生に弘法大師伝の講演をお願いに行った時にこの疑問を明らかにしていただけたらというお話をしたのですが・・・意外な答えが返ってきました。「弘法大師は最初から僧侶の道を目指していたんですよ」「ええ~(@_@;)」従来の伝承の「弘法大師は5~6歳の頃から夢の中で、諸仏と語り、 仏様を泥で作って礼拝して遊びました。」こんな話は、真言密教の開祖である弘法大師を美化するために造られた話とばかり思っていたんですが・・・「弘法大師畿内誕生説」に基づくと事実に近いかもしれません。その理由は、弘法大師の母親の実家の阿刀氏にあります。阿刀氏とその周辺から高僧が出ています。そういう意味では、弘法大師が仏門に進まれたのは必然ともいえるそうです。さて、平安時代の31歳は今ならどれ位なのでしょう?調べてビックリ(@_@;)日本の統計で、平均寿命が50歳を超えたのは戦後の昭和22年。一番古い統計が明治24~31年、男42,8歳 女 44,3歳厚生労働省 生命表「人間50年」と「敦盛」を好んだ信長は49歳で亡くなっていますが、当時では長生きなんですね。平安時代なら、それより低いと思われますので、平均寿命30代?したがって31歳は今で言うなら60歳ぐらいなんでしょうか?(*^_^*)人生の黄昏時にあわただしく得度し、唐へ向う弘法大師の心中や如何に?謎はどんどん深まります。
2011年11月30日
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1、弘法大師の出家、受戒の時期と留学僧に選任された時期これは伝統的には真言宗では20歳出家、22歳受戒という説が伝えられてきました。現在、学術的にはほとんど否定されていますが、信仰上ではまだ、唱えられています。「ご遺告(ごゆいごう)」と呼ばれる弘法大師の遺言に書かれているのがその根拠です。ただ、「ご遺告」自体は学術的には弘法大師の遺言ではなく後世の創作と言われています。また、正史である「続日本後記」の「空海卒伝」には「三十一にして得度す」と書いてあります。さて、「20歳得度説」なぜこんな説が出来たのか?面白い話を見つけました。再び宮坂先生に登場していただきます。~~~~~以下引用~~~~~近代仏教学によると、釈尊は、「二十九歳で出家し、六年間の修行の後、三十五歳で成道し、四十五年の布教の旅の末、八十歳で入滅された」ということになっている。現代の私たちが常識として知っているこの「釈迦の生涯」は南伝仏教にしたがっている。これに対し、北伝仏教では、釈尊は「十九歳で出家し、十二年の修行の後、三十歳で成道し、法を説いて世にあること四十九年、寿齢七十九歳で入滅された」ことになっていた。どちらが正しいかは、今は問わない。ただ、明治以前のすべての仏教者は、最澄も空海も北伝仏教を信じていた、ということは知っておく必要がある。エンサイクロペディア空海~~~~~以上引用~~~~~事実かどうかはともかく、一般には見えなくなっているものがあるということです。事実は31歳で得度されたというのが史実のようです。さて、「弘法大師の出家、受戒の時期と留学僧に選任された時期」という普通の高僧なら比較的どうでも良い?ような話が、実は弘法大師伝では猛烈な議論をまきおこしています。なにしろ、ここに焦点を絞った本が出されているくらい(*^_^*)何故か?3、どういう資格で入唐されたか?とも関連する話なんですが、この遣唐使船、延暦22年に出発して、途中で難破。再び延暦23年に出発します。さて、弘法大師の得度は延暦22年4月7日しかしその太政官符(正式な公文書)が出されたのは延暦24年9月11日。また、唐へ着いた時、当初は弘法大師が正式な留学生として長安へ向うことを許可されず、自らの文章を持って長安行きを願いでなければならなかったという史実。この二つの史実から「弘法大師は正式な留学生だったか?」「それ以前に正式な僧侶だったか?」「最初の船には乗っていなくて、翌年の船の欠員補充」などなど謎が謎を呼ぶ展開です(*^_^*)「遣唐大使の私的秘書」だの「通訳」だの・・・挙句の果ては「弘法大師はもともと薬生」薬を勉強するために入唐された???しかし、それを書いたのは天台宗きっての大学匠「安然」ええ~?弘法大師の真言宗VS伝教大師の天台宗は当初は圧倒的に真言優勢。それを巻き返そうと天台宗は俊英を次々と唐へ送り込みついには天台密教を完成させ、真言密教に対抗します。その大成者が安然。少し後の時代で、ライバル関係にある宗派の学匠の話だけにかなり信憑性があるかも?(*^_^*)「弘法大師はもともと薬生」などと書かれて、「それは絶対無い」と完全に否定できないところが弘法大師らしいですね(*^_^*)いくらなんでも「伝教大師はもともと薬生」「栄西禅師はもともと薬生」「道元禅師はもともと薬生」と誰かが発表しても、あまりにもあり得無さ過ぎて信用できません(*^_^*)しかし、弘法大師は違います。後年の活躍からして、「僧侶」「真言宗」という枠だけでは無いだけに、あるいは「薬生で唐へ行かれたかも」と考えてしまいますね(*^_^*)ちなみに武内先生は「弘法大師はもともと(学)生」の写し間違いではないかと言われていました。さて、脱線しましたが、「弘法大師は正式な留学生だったか?」「それ以前に正式な僧侶だったか?」「最初の船には乗っていなくて、翌年の船の欠員補充」この三つについては武内先生は否定されていました。1、遣唐使というものが国家的な事業であるだけに、個人の資格などでは乗ることができなかったこと。2、欠員補充などは無く、最初から乗られていたはず。という指摘をされていました。ただ、気になるのが、4月9日の得度というのは臨時なんですね。年度分限者という定員は1月に得度するそうです。遣唐使船の出発が4月16日ということを考えるとなぜ、そんなにあわてて得度したのか?その年の1月にすれば良かったという疑問が出ますね。
2011年11月29日
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24日には弘法大師伝の勉強会がありました。再び武内孝善先生に高野山からおいでいただきました。前回はこちら再び空海の誕生地は畿内?再び空海の誕生地は畿内?ー2 再び空海の誕生地は畿内?ー3前回は「弘法大師の誕生地」がメインでしたが今回は「弘法大師の入唐」がメインです。さて、陳舜臣の「曼荼羅の人」をご存知でしょうか?「弘法大師の入唐」に焦点を当てた作品です。一般の人向けの弘法大師伝?としては司馬遼太郎の「空海の風景」が有名でよく知られていますがこちらも捨てがたいものがあります。「空海の風景」は弘法大師の生誕から入定までを扱っていますが、「曼荼羅の人」は「弘法大師の入唐から帰るまで」だけです。弘法大師は遣唐使船で唐に向かわれ、真言密教第7祖の恵果和尚から真言密教のすべてを伝えられ、日本に戻られました。その間わずか2年!(@_@;)弘法大師63年の生涯の中で、2年だけ取り出して書くってどうよ!と最初は思ったんですが・・・あとがきで「空海を書くにはこの時期しかない」と書かれているように「入唐求法」は弘法大師のご生涯の中でもエッセンスかもしれません。「曼荼羅の人」は史実を踏まえて、当時の唐の政治背景と絡めて、従来は謎とされていた弘法大師の唐での莫大な留学費用のスポンサーの解釈もしています。ただ、司馬氏もそうなんですが、陳氏も「密教=性の欲望」みたいな解釈に見えるのが気に入らないですね(*^_^*)やはり、「弘法大師伝」は「どんな内容だろうと」真言僧が書くべきです(*^_^*)さて、「弘法大師の入唐」には謎が多いです。先生が提起されたのは5つです。1、弘法大師の出家、受戒の時期と留学僧に選任された時期2、入唐の目的は何か?3、どういう資格で入唐されたか?4、初対面の弘法大師に、恵果和尚が密教のすべてを 伝えたのは何故か?5、弘法大師の帰国時の船はどういう役目だったか?それに加えて、以前は6、弘法大師の莫大な留学費用の出所は?という疑問がありました。先の「曼荼羅の人」では王叔文という当時失脚した政治家を登場させてスポンサーにしていますが、武内先生の説では単純に父母の実家が裕福であったとされているので、そちらから出たということで、さほど問題はありません。順番に見ていきたいと思います。
2011年11月26日
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22日に声明の勉強会がありました。前回はこちら再び東日本義捐金托鉢と声明の勉強会場所は前回は4時間でたった一曲で終わった声明ですが、今回はサクサク進みます。というより「これは一部だけ・・・これは飛ばします・・・」ええ~(@_@;)それはあまりにも省き過ぎでは?後から聞いたら、「先生は解説が多いので、できるだけ省いてもらうようにした」そうです。とは言え、「ユリが三つという伝、これは○○師から○○師、 さらには○○師の流れ」「あ~あああ、あ~あああ」「○○師から○○師には二つ半という伝があります」「あ~あああ、あ~あああ」すいません。判らないんですけど・・・(;一_一)ちなみに、声明の勉強は厳しいんですよ。まず、最初の一回目は先生がお唱えする。続いて、先生と一緒に生徒が二回目をお唱えする。最後に、生徒が一人で三回目をお唱えする。これでおしまい。ちなみに、高野山専修学院のH先生は一回目は自分で、二回目一緒にお唱えして、三回目に生徒に唱えさせる。できないと「お前は何回やったらわかるんや」とてもできません(*^_^*)しかし、今回は先生がお唱えして、生徒が一緒にお唱えして二回でおしまい(*^_^*)さて、場所は例の麗澤書院再び「麗澤書院」の額に注目が集まります。どなたかが尋ねます。「どんな意味なん?」「三人文殊さんが調べてましたよ」すべての人の視線が集まります。ちょっと待った!こちらへ振る話題ですか?「麗澤書院」の副住職は?ところが「麗澤書院」の副住職も他人のような顔でこちらを見ています。(@_@;)私が答えるの???「えっ・・・なんか池の周りに・・・人が集まるという・・・ そんな感じの意味だったかもしれない・・・ と記憶しているような気がします。」実は忘れた(;一_一)「麗澤」中国の「易経」の「象に曰く、麗ける澤は兌びなり。君子以て朋友と講習す」という言葉からとったもの。「並んでいる沢が、お互いに潤し合い、周囲の草木もその沢の水のお蔭によって青々と生い茂っている。この様子はまことに喜ばしい限りである。これと同様、立派な人間になろうとする者は、すぐれた師のもとで、志を同じくする友と切磋琢磨し、人格の完成を目指すと同時に、周囲の人々にもすばらしい影響を与えてゆくよう努力すべきである」という意味である。今回の失敗で二度と忘れん(*^^)vさて、休み時間に美しくまとめられた庭を眺めていました。真ん中にひょうたん型に明るい砂が敷き詰められ、池のように橋がかけられています。周りには生えている草木も造るられています。これぞ、麗澤!枯れ沢?にしてあるのが、なかなか渋いですね(*^^)vある方に話しかけました。「池みたいに、砂が敷き詰められていますね。」「いえ、池でしょう?」「えっ」「子供が落ち込んだので埋めたそうですよ」おお~衝撃の事実発覚(@_@;)
2011年11月26日
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昨日から急に寒くなりましたね。今朝の最低気温は6.6度と今季最低を更新。急に寒くなったので、救急車が走り回っています。しかし・・・久しぶりに気象庁のページを覗いたら凄い事実を発見!(@_@;)徳島の今月の平均気温は17.0度(11月21日現在)これまでの11月の月間観測史上最高気温は15.2度平年は13.5度ですから平年より3.5度も高くこれまでの最高より1.8度も高い(@_@;)これから月末までの平均気温が11.6度以下にならなければ月間最高記録更新!(@_@;)月末まで、気温から眼が離せません(*^_^*)
2011年11月22日
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以前「善通寺の逆襲?」という日記を書きました。「善通寺が『弘法大師畿内誕生説』に反論」しかも「決定的な証拠を突き付けた」ということで、そのコピーを送っていただきました。送っていただきました善通寺派のM僧正には感謝いたします。早速、内容を確認いたしました。送っていただいたのは、一週間ぐらい前なのですが、多忙と内容を吟味したため、公表が遅くなりました。反論者は高野山大学教学部長 村上保壽 僧正高野山大学名誉教授にして密教系の著作もある方です。「弘法大師畿内誕生説」を唱えられている武内孝善教授は高野山大学副学長。余談ですが、武内教授は高野山大学出身者にして、その経歴のほとんどを高野山で過ごされた生粋の真言学僧。一方、村上僧正は東北大学出身で、他大学で教鞭を取った後高野山に来られたいわば外部出身者。立場からすると逆のようにも思えて面白いですね(*^_^*)1、妻訪婚についての疑問武内教授の弘法大師誕生説の中心をなしているのは「妻訪婚」である。当時の結婚形態としてa、婚姻の当初には訪婚(妻訪婚)が行われていた。b、『10年を過ぎると』夫婦は同居し一つの家族として 生活した。武内教授の説は、ここから弘法大師が阿刀家(母の実家)で育てられたとしている。しかし、『10年を過ぎると』の部分は武内教授が引用した学者の論文の原文には無い。また、当時の結婚形態については武内教授が引用した学者の論文には「夫婦は自分たちの住む屋を作るのが一般的」とあるので弘法大師の父母は双方の実家から独立した新しい住居を構えて生活したと考えられる。2、兄弟と母阿刀氏の関係弘法大師には二人の兄と姉がいる。この三人と弘法大師は異母か同母か。訪婚が行われていた期間は一般には長子だけである。「三教指帰」によれば、「老いた親は、髪の毛が白くなり、お墓に近づいている」とあるので、母の阿刀氏は姉を17歳ぐらいで出産したとしたら弘法大師が24歳のころ、50歳ぐらいと推定される。もし、異母兄弟として弘法大師が長子であったとしたら、母は41歳ぐらいで墓に入るような歳ではない。「二人の兄が次々と亡くなったので、涙がいく筋も流れる」これは幼少期に兄の死の体験に基づくものではないか?したがって、弘法大師には同母の三人の兄姉がおり、長子とは考えられないので、阿刀氏の実家のある畿内ではなく讃岐で生まれたと考えられる。3、畿内誕生説の欠陥弘法大師がもし畿内で誕生したとしたら、必ず畿内に伝承が残っているはずなのに全くない。「続日本後記」の「大僧都空海伝」には「讃岐の人、他度の郡の人」と記述されている。弘法大師の「三教指帰」に「玉藻よるところの島、予(当て字)樟日を隠すの浦に住す」と描写されている讃岐の屏風が浦で誕生されたことは学説的にも明らかである。以上概要を書かせていただきました。これに対する私の感想を書く前に、宗教を扱う難しさを書きたいと思います。弘法大師は中国に滞在したのはたった二年、しかも、長安にいたのはたった1年。それにも関わらず、なぜ、密教の奥義を伝授されたのか?これに対する回答をこう書いている人がいます。~~~~~~以下引用~~~~~たまたま当時の唐の都は密教全盛時代だった。空海はその拠点である青龍寺を訪れた。長安に入って六ヶ月後のことである。その日を最も心待ちしていたのは、空海自身ではなく、青龍寺の恵(けい)果(か)であったにちがいない。空海が恵果に出会ったのは「偶然だった」と後に『請来目録』の中で書いていることに関して、ほとんどの史家は懐疑的で、司馬遼太郎などは「不正直」と断定しているが、まさか。本来なら異邦の一介の留学生が、インド密教の法灯を伝える大唐帝国の国師たる恵果に面会することなどできえないし、ありえない。それが、会えたどころではなく、いきなり満面に笑みを浮かべて恵果が発した言葉が、「われ先(さ)きより、汝の来たれるを知り、相(あい)待(ま)つこと久し。今日、相まみゆるは大いに好(よ)し、大いに好し」であった。恵果は一千人余の弟子をさしおいて空海に、すぐさま灌(かん)頂(じょう)を授け、みずからの後継者としたのである。真言七祖恵果に継ぐ八祖空海という系譜が、こうして生まれた。その年の暮れ、十二月二十五日に恵果は示寂し、師の碑文を空海が書く。劇的すぎる話の展開であるが、従来の史家のように、空海を、とびすぐれてはいるが、あくまでも異邦の一介の僧侶と考える限り、この事態は説明できない。一介の日本人僧侶ならばありえない行動をし、ありえない結末を迎えた。説明可能な理由は一つしかない。恵果はブッダに遭遇したのである。エンサイクロペディア空海~~~~~~以下引用~~~~~長々と引用しましたがつまり、弘法大師は「ブッダ」であるという説です。一見「トンデモ説」のように見えますが、これを書いた方は真言宗でも名が知られた学者の宮坂宥洪 師です。このように真言系の学者の方は、「合理的思考より信仰を優先する」方が少ないように思えます。ちなみに宮坂宥洪 師のお父さんの宮坂宥勝先生は逆に合理的思考をされる方で「弘法大師は火葬された」という弘法大師伝を書いてもの凄い批判を受けた方です。信仰の世界においては「神格化VS合理的思考」が絶えずあります。「弘法大師に対して合理的な捉え方をするのは畏れ多い」という意見の一方で「弘法大師を一人の人間として捉える」という考え方が出るのは当然です。私はどちらかと言えば後者です。だからといって、「信仰が無い」というわけではありません。むしろ、「伝承の弘法大師」しか伝えないことは「真言宗の教え」を捻じ曲げて伝えることに他なりません。本物の弘法大師像を誰が明らかにするのか?一般の学者には無理でしょう。信仰の裏付けがある「真言学僧」こそが本当の弘法大師の姿を明らかにできるのではないでしょうか?さて、「善通寺の反論」については個人的な感想もありますが送っていただいたM僧正からも「疑問にはお答えします」と言われておりますので「善通寺」に問い合わせてからアップしたいと思います。
2011年11月19日
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日米戦争について調べれば調べるほど「戦前の日本」の評価が極端に低いと感じています。「日本がアメリカと戦うのは無謀」というのは現代日本人の常識?となっているようですが事実を見る限り、「全くの間違い」としか思えません。戦前の日本の科学力がどれだけ優れていたか?空母は軍事技術の粋を集めたものです。したがって現在に至るまで、歴史上、空母を自国で開発した国は日本、米国、英国、フランス、ロシアの僅か5カ国。当時、空母を持っていたのは、日本以外にはアメリカとイギリスしかありません。ソ連もフランスもドイツもイタリアも第二次大戦時には空母は開発できませんでした。また、英国は有効な空母艦載機を自国で開発できず米国から輸入しています。また、日米開戦時の軍用航空機数は 日本 2625機 アメリカ 1692機日本が軍用航空機でアメリカを上回っていたのにはビックリしませんか?(@_@;)また、空母の数は 日本 8 アメリカ 6軍艦の数も太平洋で比較するならば、日本の方が上回っていたのです。つまり、日本VS米国は、海軍力に関する限り当時の一位、二位決定戦みたいなものです。ただし、私はそういう理由があるからといって「開戦の是非」まで肯定するつもりはありません。あくまでも「日米戦争は外交交渉で回避できた」というのが私の考えです。前置きはこれくらいにしてこんなニュースがありました。幻の旅客機、大空へ 中島飛行機が戦時中に設計 1/12の模型で再現~~~~~以下引用~~~~~富士重工業の前身の中島飛行機が太平洋戦争中に設計した旅客機とみられる大型機を、太田市の市民グループ「富嶽を飛ばそう会」が無線操縦の木製模型で再現し、十六日、同市の利根川河川敷で初めて飛行させた。模型は十二分の一スケールで幅四・一メートル、全長二・八メートル。設計と同じ六基のエンジンがうなるような音を上げて、ひらりと離陸した。会社社長正田雅造さん(63)が、中島飛行機が設計したものの、戦況の悪化などで生産されなかった超重爆撃機「富嶽」の旅客機型とみられる図面を数年前に発見。「図面とほぼ同じに作って無事飛んだ。約七十年前の技術すごい」と、初飛行の成功を喜んだ。2011年10月17日 東京新聞~~~~~以上引用~~~~~「冨嶽」と言えば「空想日米戦記」には、ほとんど登場する?といっても言い過ぎではない日本のスーパー兵器です。※ただ、私は一度も「空想日米戦記」を読んだことないです。アメリカ本土爆撃を視野に入れ、日本を飛び立ち太平洋を横断、アメリカ本土を爆撃、そのまま大西洋を横断し、ドイツで補給を受け、再び逆のコース、または、ソ連を爆撃しつつ戻ると言う壮大な構想の爆撃機。全長45m(B-29の1.5倍)全幅65m(B-29の1.5倍)総重量160トン(B-29の2.5倍)爆弾搭載量20トン(B-29の2.2倍)航続距離は19,400km(B-29の3倍)5000馬力のエンジン6基で最高速度680キロ「幻の『Z機』計画」(爆撃機型)4000機20mm機関砲4門、爆弾20トン搭載 4000機(掃射機型)2000機20mm機関砲96門または7.7mm機関銃×400挺搭載 (輸送機型)5000機完全武装の兵員200名余りを搭載 この1万1千機によって、100万の兵力をアメリカ本土に送り込み一気に勝敗を決するこれは凄すぎる!(@_@;)ただ・・・あまりにも不可能すぎる妄想(;一_一)現実の日本の爆撃機は「飛龍」が最高全幅 22.5 m全長 18.7 m発動機 2,000馬力 ×2全備重量 13,765 kg最大速度 537 km/h爆装 800 kg小さい、小さすぎる!大きさは3分の1、総重量は12分の1、爆弾にいたっては25分の1(;一_一)技術的に無理(;一_一)それに、日本軍が最も多く生産した軍用機はゼロ戦で10370機。しかし、重さはたったの2.5トン。自重50トン?と推定される「冨嶽」は、その20倍も材料を使ってしまいます。(;一_一)資材不足に悩んだ日本がどうやって材料を調達する?どうせなら、冨嶽を作るより、20万機のゼロ戦の方が強そう(*^_^*)さらに言えば、1万機も冨嶽を作ったら搭乗員だけで10万人以上(@_@;)ガソリン不足で、飛行兵の練習にすら困った日本ではそんなに、飛行兵を養成できない(;一_一)現実には「絵に描いた餅」の冨嶽計画ですが・・・>「図面とほぼ同じに作って無事飛んだ。 約七十年前の技術はすごい」これはいくらなんでも失礼でしょう(*^_^*)二宮忠八氏の玉虫型飛行機ではあるまいし飛行機をどんどん生産していた日本ですよ。いくらなんでも設計図通りに作ったら飛びますよ。技術的な問題は「5000馬力のエンジンができるか?」「機体の強度が保てるか?」位でしょう。12分の1でエンジンもそれなりのものを載せたら飛ぶのは当たり前です。(*^_^*)
2011年11月15日
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少し前に、ある人と、太陽光発電について話しました。ある人「脱原発のためには、太陽光発電を推進する 必要があります」三人文殊「太陽光発電ってあまり効果的ではないのでは? 四国の電力を賄うためには徳島県の3分の1に パネルを敷き詰める必要があります」 「それに晴天の昼間しか使えなくて、夜や曇りは 発電出来ないので結局バックアップの発電装置が 要りますよ。」 「そう考えたら、最初から火力発電の効率を上げる 方が実用的では?」ある人「夜も月の光で発電できるのでは?」三人文殊「それは無いでしょう。 月の光など太陽光の1万分の1もありませんよ。 エネルギーとして使えません」 「それ位なら太陽パネルの効率を1%でも 上げる方がいいですよ。」自信満々でそう言いましたが・・・ちょっと気になって考えてみました。月の直径は地球の約4分の1です。地球の1周は約4万キロですから、直径は1万2千キロ位?月の直径は3千キロくらい?一方、地球ー月間は38万キロですから・・・ん、38万キロ?ちょっと待て、月の直径の100倍程度のところに地球がある?「地球ー月」ってそんなに近かったか?(@_@;)厳密にデータを引いてみました。月の直径 3473km地球の中心ー月の中心までの平均距離は、384403kmおお~こんなに近かったのか(@_@;)どれくらい近いかというと、バスケットボールが地球とすると7mぐらい先に子供用の軟式野球ボールの月があるような感じです。これって近いのか?と思われますが・・・他の惑星で最も近い金星でも、750m先にバスケットボールがあるような感じ・・・って言えば「月」が如何に近くにあるか判ります?(*^_^*)750m先のバスケットボールなんて見えるか???(*^_^*)要するに、「月はえらい近いところにある」ということです。脱線しましたが、月の半径が1737km 地球の半径が6356km月ー地球の中心が384403kmですから、月の中心から地球の表面まで378047kmこれを月の半径で割ると約216倍つまり、月の表面で反射したエネルギーの46656分の一が地球に届くということですね。しかし、地球は月の4倍の大きさがあるので受ける面積は16倍。つまり2916分の1(@_@;)一方、月は反射板ではないので、実際に月に当たった太陽エネルギーのうち、多くても一割ぐらいしか反射しないで、あとは月に吸収されると考えるのが適当ではないですか?まあ、大雑把には地球が太陽から受けるエネルギーの最大で3万分の1ぐらい?結構危なかったですね(*^_^*)月、近過ぎ!(@_@;)人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2011年11月11日
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昨日、ある僧侶の方から電話がありました。その内容にビックリ(@_@;)以前「弘法大師の誕生所の善通寺には学問的な反論を 期待したいです。」と書いたところ、なんと「善通寺が『弘法大師畿内誕生説』に反論したそうです」※参考再び空海の誕生地は畿内?しかも「決定的な証拠を突き付けた」ええ~(@_@;)「弘法大師ご誕生所」である「善通寺」からすると『弘法大師畿内誕生説』は死活問題?。最近、善通寺にやってくるお遍路さんが「弘法大師は善通寺で生まれたんじゃないでしょう」と言われるので気になったそうです。「完全に論破した」というような話です。もともと、武内先生の説にはいくつかの穴があります。私もいくつか思いつきました。再び空海の誕生地は畿内?ー3しかし、一方では『弘法大師畿内誕生説』を応援する立場です。何故なら従来は謎とされていた「弘法大師はなぜ中央の大学に入れたか?」「弘法大師はなぜ教養が桁外れに高かったか?」「弘法大師はなぜ大学を辞めて仏門に入ったか?」「弘法大師の莫大な留学費用は誰が出したか?」などに対して一挙に解決できる可能性があるからです。たとえ、武内先生の説に対して、反論が出たとしても上記の謎をどうやって解明するのだろうか?解明されなければ、「畿内誕生説」が「有力説」としての立場は揺るがないように思います。さて「善通寺」にとって『弘法大師畿内誕生説』は死活問題なんでしょうか?「弘法大師は善通寺で生まれたんじゃないでしょう」と言われるのは気分が良いとは思いませんが、それがマイナスになると思われるのは悲観的過ぎます。実は私自身は『弘法大師畿内誕生説』を有力と見ていますので、いろいろな人にこの説を話しました。「ええ~弘法大師は善通寺で生まれたんではないんですか」と驚いた人はほとんどいません。むしろ困惑する人が圧倒的。(*^_^*)史実がどうであろうと「三国志では曹操が悪玉、劉備は善玉」「忠臣蔵では浅野内匠頭が被害者で吉良上野介が悪玉」「斉藤道三は油売り、北条早雲は素浪人から一国一条の主」それと同じように「弘法大師は讃岐生まれ」という常識を覆すような意見はなかなか受け入れられないということです。そもそも『弘法大師畿内誕生説』を理解するには弘法大師伝の知識がいりますから、説明するだけでも大変(*^_^*)折角説明しても「そんなのどうでもいい」とかいわれるとガッカリ(;一_一)ですから、むしろ『弘法大師畿内誕生説』が話題になったほうが「善通寺」の宣伝になっていいのではないですかね?「四国霊場」を「弘法大師が開創した」というのは「学問的には」全くの事実でないにもかかわらず「信仰的には」四国霊場を開いたのは弘法大師以外の何物でもありません。弘法大師を慕う人々が、四国霊場を作り上げたのです。史実がどうであろうと「善通寺」は「弘法大師ご誕生所」として自信を持って弘法大師信仰の中心でいてほしいものです。ところで、善通寺の『弘法大師畿内誕生説』にたいする反論というのはどんな内容なんでしょう?聞くところによると、新聞にも掲載されるとか?「ぜひ知りたい」ということで、連絡していただいた方にお願いしました。武内先生の説は20年以上の研究による積み重ねがあります。しかも、素人ではなく高野山大学の教授です。それほど簡単に引っくり返るとは思えません。一体どんな反論がなされたのか?興味ありませんか?人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2011年11月10日
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先月の31日に、第二回歩き遍路に参加しました。昨年の歩き遍路は超高温の元、殺人的なスケジュールでしたが今回はその反省から10月末に設定しました。さて、参加者は昨年より少し減って8名。集合場所は三人文殊寺。そこから、車に分乗して昨年区切りうちをした7番札所十楽寺に向かう予定です。さて、私の関心は出席者の顔ぶれ。ある方から「三人文殊さんは『歩いて四国遍路』を経験しているんですから 途中でダウンとか無いですよね?」というプレッシャーを与えられてしまいました(;一_一)現時点では体力があるわけではないのですが、「体力がある」という誤解を持たれています(;一_一)そこで、「私よりダウンしやすい人」が参加者にいるかどうかが実は重要(*^_^*)とりあえず、青年教師会会長のMさん、副会長のNさん、事務局のHさんは来るでしょう。Nさんはマラソンで3時間を切る快速ランナーHさんはかつては指一本で懸垂をしたというクライマーこの二人にはとりあえず勝てません(*^_^*)Mさんは、私より10歳ぐらい若いので、厳しい(*^_^*)後の4人は誰なんだろう?集合時間は7時20分。7時位には誰か来るかもしれないと思い、準備をしていると6時50分頃、境内に車の気配が・・・おお~徳島の最南端に近いところから、Kさん登場。Kさんには勝てそう(*^^)vしかし、Kさんの足元をみると・・・草履?(@_@;)「今日は腰の調子が悪いので、サポートに回ります」「ええ~(@_@;)」「あと誰が来るんですかね?」「どなたか、親子とか奥さんが来るとか?」「奥さん?親子?あと二組しか来ないんですかね?」「詳しいことはわかりませんが?」しかし、次の参加者がなかなか・・・集合時間の7時20分近くなってTさん登場!むむむ、集合時間の7時20分になっても3人しかいません(;一_一)「集合場所はうちなんですかね?」「渋滞しているんでしょう」7時25分過ぎにNさん登場。小さい声で「Nさんの所からは(近くて幹線道路も無いので)渋滞は 関係ないでしょう」というと「三人文殊さん皆思っていても、それは言わないんですよ」7時30分過ぎにAさんが駅前でお寺が判らないと電話して来られました。私が歩いてお迎えに「すいませんね。判り難い場所にあって」さらにその五分後、事務局のHさん登場。「あと誰が来るんですか?」「いえ、これで全部です!」「あと二人は?」「Hさんが現地で合流するんです」「ええ~早くいかないとダメなんでは?」「そうですね」ようやく7番十楽寺へ向けて出発します。(*^_^*)
2011年11月08日
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昨日、ふと、田宮街道という幹線道路を通ったら「徳島マラソンによる交通規制」の看板が目につきました。徳島は実は以外にもマラソン?ロードレース?が盛んな県です。毎年お正月には3日間を掛けて、全県を走る「徳島駅伝」があります。日本歴代3位 2時間06分57秒 犬伏孝行 日本女子歴代8位 2時間22分56秒 弘山晴美 という名選手?も輩出しています。さて、震災で全国から「不謹慎」という非難を受けて中止になった徳島マラソンがついに開催される!という感慨の前に、「明日の法事のお宅は田宮街道から少し入ったところ」「しかも、当院からは田宮街道を渡らないといけない」すなわち私の関心は「法事に行って帰って来られるか?」とりあえず、そのお宅へ電話する。「もしもし、三人文殊寺ですが、明日の法事の時間に 田宮街道の交通規制ありますか?」「10時50分から17時までです」「ええ~そんなに長いんですか?」「うちの前は大丈夫ですよ」そういわれても、万が一に備えて、原付で行きます。原付ならもしもの場合でも、押して歩ける。(*^^)vところで、徳島マラソンってマイナーです(;一_一)一流選手来ないし・・・(;一_一)参考 徳島マラソン優勝タイム2008年 2時間27分20秒2009年 2時間34分29秒2010年 2時間25分06秒参考 世界記録 2時間03分38秒 パトリック・マカウ日本記録 2時間06分16秒 高岡寿成 イマイチ盛り上がりに欠けるので、普通のマラソンではなく一般道路に混ぜてスペシャルステージを作る。「川の中を走る」「山を走る」スーパークロスカントリーどうよ!(*^^)v我ながら妙案だと思ったのですが、ある人に話したら「普通の市民ランナーはジョギングの延長で「たまに」 フルマラソンを走りたいのに、そんな複雑なの誰も走らない」マニアック過ぎますかね?(*^_^*)こうなったら、ラビット(タイムを出すためのペースメーカー)を使って、好記録を出す。2時間5分ぐらいの記録が出たら、申し込みが殺到するに違いない。(*^^)v「無理でしょう。ラビットが先行したまま逃げ切りますよ」陽の当らないラビットが表舞台にでる。長年の苦労がむくわれる瞬間。それを感動のドラマにする。どうよ(*^^)v「メジャーなマラソン大会ならともかく、徳島で勝ったところで 日本でも通用しないでしょう。無理があります」こうなったら、参加者数でギネス狙いの10万人のマラソンにする。そういうことで集めては?「それは無理です。運営ができません。それ以前にそんなに 集まらないでしょう。もし集まったとして、その10万人 人口26万人の徳島のどこに泊まるんです?」残念です(*^_^*)どなたか妙案を。人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2011年11月06日
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ずいぶん前に、徳島県議会にTPP(環太平洋連携協定)反対の意見をメールで送りましたところ、返事が来ました。県会議長からの返信(一部引用)TPP参加により、本県においては、基幹産業である農林水産業で年間生産額が約329億円減少するなど、壊滅的な打撃を受けることが予測されており、さらには、東日本大震災被災地における農林水産業の復興等を考えても、現段階でのTPP交渉への参加は、到底容認できるものではありません。このため、県議会では、9月定例会において、「環太平洋連携協定(TPP)交渉への参加に関する意見書」を全会一致で可決し、現状で拙速に交渉に参加することのないよう、国に対し強く要望したところであります。徳島県議会、仕事が早いですね(*^^)v提出先は衆議院議長、参議院議長、内閣総理大臣、外務大臣、厚生労働大臣、農林水産大臣、経済産業大臣、内閣府特命担当大臣(経済財政政策)、国家戦略担当大臣、内閣官房長官また協力要望先として、徳島県選出国会議員の仙谷由人氏、高井美穂氏、後藤田正純氏、仁木博文氏、山口俊一氏、中谷智司氏、中西祐介氏、中村博彦氏TPPのデメリットは 1、食を全面的に海外に依存する可能性が高くなるため、 国の命綱を外国に握られてしまう。 2、あらゆる分野で自由化が進むために、競争が激化し 貧富の差が激しくなる。 3、自国内でのルールを自国だけで決められない可能性が 出てくる。ちなみに、建築基準が見直されて、耐震性の低い建物が増えたり、健康保険の崩壊、郵貯や簡保も米国基準にされる恐れがあります。 4、安い製品を海外から入ってくると、デフレが進み、 所得も減る。 経済界VS農業団体という図式に問題を矮小化すると大変なことになります。TPPで日本経済を活性化させるという産業界の 目論見はありえません。 これも誰も指摘していないのですが、 現時点で日本が経済発展するには二つの足枷があります。 1、原発停止による電力供給の不足。 2、京都議定書によるCO2削減の義務。 つまりTPPで関税が撤廃され 「仮に日本経済が爆発的に発展する土壌」 が生まれたとしても、 「日本経済が爆発的に発展することはありえない」 ということです。 人気ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願いします。 ↓
2011年11月01日
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