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皆さん、年賀状はお書きになりましたか?最近は「年賀状」も電子メールでという方も多いようです。一年に一回ぐらいは知っている人と、便りを交わすのもよろしいのではと思い、毎年、年賀状を出しています。ただ、これが意外に厄介な?もの(;一_一)ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが「私は字が異常に下手」(;一_一)もう、10年も前になりますが、僧侶としてお寺に入ることが決まった時、知人に案内の手紙を「直筆」で出したのですが、皆、一様に同じような感想を持ったそうです。「こんな字で坊主が勤まるか???」それよりは多少上達した・・・はずですが(*^_^*)その昔は一枚の年賀状を書くために、何枚も失敗することもしばしば(;一_一)さすがに、最近は宛名のバランスなどは、うまく割り振りできるため、200枚書いても失敗は数枚(*^^)vさて、いつも早くから準備しようと思いながらギリギリになるのが常です。特に今年は、年賀状を購入したのが12月15日(;一_一)年賀状の受付日ですね(*^_^*)高野山にいたころは、2000枚ぐらい宛名書きしてましたから、200枚ぐらいなら余裕(*^^)v23日から書きはじめて、今日全部出しましたよ!(*^^)vさて、最近は宛名を手書きする人が少なくなりましたね。私は下手なんですが、自分で宛名書きすることにこだわりがあるんですよね(*^_^*)字は下手なんですが、筆と筆ペンの違いはわかりますね。自分の字でも、筆ペンより筆で書いた方が味がありますね。筆>筆ペン(毛筆タイプ)>筆ペン(フェルトタイプ)私はこんな感じですね。筆は自由度が大きいんですよね。筆ペン(毛筆タイプ)になると、腰が強すぎます。筆ペン(フェルトタイプ)になると最悪(;一_一)そもそも、私は硬筆が下手なんですよね(*^_^*)線の長さとか字の傾きとかバラバラで(*^_^*)筆ペン(フェルトタイプ)になると、もろにそれが判ってしまいます(;一_一)ところが逆の人もいるようで筆<筆ペン(毛筆タイプ)<筆ペン(フェルトタイプ)聞いた時は「ええ~」と思ったんですが、普段筆を使っていない人はこちらの方が書きやすいかもしれません。皆さんはいかがですか?
2011年12月28日
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「閏年に逆打ちで四国遍路すると功徳があるって聞いたんですが・・・」という質問を受けました。三文「そう言いますね」質問者「どうなんですか?」三文「どうでしょう?調べときます」もともと、遍路の元祖と言われる「衛門三郎」の話からきていると思われます。伝説によれば、伊予に強欲な「衛門三郎」という長者がいました。弘法大師はこの「衛門三郎」を戒めようと托鉢に門前に立ちました。しかし、衛門三郎は弘法大師を追い返します。あくる日も次の日も大師は門前に立ちますが、ことごとく追い返されます。ある日、門前に立った大師をみて、衛門三郎は大師をののしり、大師の持っていた鉢を取り上げ地面に投げつけます。その鉢は八つに割れ、大師は姿を消します。翌日から衛門三郎の八日間に八人の子が次々と亡くなります。この期に及んで衛門三郎は自分の行った罪に気付き弘法大師に謝ろうと大師を追って四国を回りはじめます。そして、21度目の遍路で阿波の焼山寺の下で、疲れ果て命尽きようとするまさにその時に、弘法大師に出会い懺悔します。その折、望みを聞かれた衛門三郎は、「伊予を治める河野家に生まれて人々を楽にしたい」と答えます。弘法大師はその望み叶えようと衛門三郎に小石を握らせるとそこで息を引き取ります。何年か経って、伊予の河野家に男の子が生まれました。しかし、手を握ったまま開きません。菩提寺の住職を呼んで祈願してもらうと、手の中から「衛門三郎再来」と書いた小石が出てきました。その赤ん坊は長じて立派な国司になったと言います。衛門三郎を埋葬した場所に立てた衛門三郎の杖が芽をふき巨大な杉となり「杖杉庵」と呼ばれました。また、「衛門三郎再来」と書かれた石は菩提寺に収められ「石出寺」という名前に変わりました。以上が伝説ですが、こんな見方もあります。遍路の元祖、衛門三郎に異議あり!さて、衛門三郎の実像は弘法大師を目指して山野を駆け巡った修行者だったのではないとも言われています。 実際に志半ばで行き倒れた修行者が遍路の元祖として人々の心の中に残ったのかも知れません。何の話でしたかね???そうそう、「閏年に逆打ちで四国遍路すると功徳があるって聞いたんですが・・・」これですよね(*^_^*)実は衛門三郎が「逆打ち」していたという話があるんです。弘法大師は「順に廻っている」はずだから、衛門三郎が何度も廻っても弘法大師に会えないのは、自分も「順で廻っているから」で「逆に廻れば」出会うはずと考えて逆に廻ったという話があります。「逆打ち」はここから来たのではと考えたんですが・・・「閏年」が判りませんね。インターネットで調べてみると「衛門三郎が廻り始めた年が閏年」「衛門三郎が弘法大師に出会った年が閏年」「さらにその年は832年」年まで確定されている!(@_@;)ちなみに、こんなのありましたよ「閏年の2月29日に88番と1番をお参りすると お大師様に会える」ところで、「衛門三郎」の話っていつ頃成立したんだろう?謎に思って書物を紐といてビックリ!澄禅の「遍路日記」1653年寂本の「四国遍礼霊場記」1689年この二つの書物に書いてあります。澄禅・寂本という高僧がこんな話を真面目に書いているのにビックリ!(@_@;)さらに、書物をひも解くと、頼富本宏氏の「四国遍路とはなにか」の中で、「閏年」の根拠を発見しましたよ!(*^^)v衛門三郎の屋敷跡と言われる文殊院に伝わる「衛門三郎四行記」によれば弘法大師の巡錫は天長元年(824)衛門三郎の再来は天長9年(832)衛門三郎の生まれ変わりは河野息方(伊予河野家7代目頭領)河野息方という人が何をしたのかよくわからないのですが有名な弘法大師の弟子?の生まれ変わりということで施政を敷いたんでしょうか?さて、弘法大師の天長元年は史実では2月、勅により神泉苑で祈雨法を修した。3月には少僧都に任命され、僧綱入り。6月に造東寺別当。9月には高雄山寺が定額寺。忙しいですね(*^_^*)これでは四国へ渡る暇はないのでは?(*^_^*)結論としては、「閏年に逆打ちで四国遍路すると功徳がある」のについての云われは不明ということでしょうか(*^_^*)ただ、四国遍路を仏教的な「行道」と考えた場合には時計回りに廻るべきで、逆回りはしませんね(*^_^*)「逆打ち」という特殊な廻り方をする以上は「閏年」という特別な年でないといけないということでしょう(*^_^*)「順打ち」より「逆打ち」が功徳があるとも考えられません。ただ、逆に廻る方が多少、宿や道の関係で廻りにくいとは思いますが、一般に云われる「3倍の功徳」ほど困難とは思えませんね。いかがでしょう?
2011年12月17日
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「赤で人の名前を書くな」と私は親に言われました。しかし、最近では年配の方でも、そういうことをご存じないようです。さて、その理由はなんでしょう?ご存知ですか?私が何かで読んだ理由は以下の通り。その昔、日本では墨を使って文章を書いていました。当然のことながら、訂正したり、書き込みしたりする時も「黒の墨」しかしこの時点で問題が起こります。すなわち、「元の文章を訂正・書き足した場合」と「後から別の人が訂正、書き直した場合」の区別がつかないです。そこで、本人が訂正した以外に後の人が書いた場合には赤で書くルールがで来ました。つまり、赤で書いた場合は「本文ではない」ということです。そこで、こう考えました。人の名前を赤で書いた場合「正式に書いてない」とみなされますので大変失礼になる。という解釈をしました。しかし・・・こういう理由は全く出てきません(*^_^*)ネットで検索するといろいろ出てきますね(*^_^*)どうなんでしょう?ご存知の方いらっしゃいますか?
2011年12月15日
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「弘法大師は何宗の僧侶?」こういう質問をされたらどう答えましょう?(*^_^*)「そんなもの真言宗に決まっている」と答える方が多いのでしょうか・・・皆さんこれをご覧ください。伝教大師(天台宗)ー法相宗?法然上人(浄土宗)ー天台宗親鸞上人(浄土真宗)ー天台宗栄西禅師(臨済宗)ー天台宗道元禅師(曹洞宗)ー天台宗日蓮上人(日蓮宗)ー天台宗有名各宗の祖師の所属していた宗派です。伝教大師は近江国分寺で得度を受けたと書いてありますが、所属宗はわかりません。師僧は行表という方で、この方が興福寺で受戒されていますので法相宗?ということにしましたが、正確には不明です。度牒が残っているようなので、ご存知の方がおいでなら教えてください。おお~有名宗派は全部天台宗出身とは(@_@;)って知ってますが、改めて書いてみるとビックリしますね(*^_^*)真言は無いのか?覚鑁上人(新義真言宗)-真言宗興正菩薩(真言律宗)ー真言宗これは厳しい(;一_一)それはさておき、冒頭の「弘法大師は何宗の僧侶?」の回答ですが、よくわかりません(*^_^*)推測されるのは、所属 大安寺「三論宗」でしょうか?弘法大師の師として「言われていた」勤操大徳は三論宗ですし長安で弘法大師と入れ替わりに帰国した永忠師も三論宗。弘法大師の後継者と言われていた弘法大師の甥の智泉大徳も大安寺ということから考えると弘法大師も「三論宗」の僧なんですかね?弘仁7年(816年)に高野山を開創弘仁14年(823年)に教王護国寺を真言宗の根本道場という出来事はあるのですが、真言宗自体が正式に認められたのは、弘法大師が入定される2か月前(@_@;)承和2年(835年)1月22日に真言宗の年分度者3人を認める。当時は正式に国家が認める以外には僧侶ではありません。年分度者とは、その年に三人を得度をさせて僧侶にしてもよいということです。ちなみに天台宗は806年(大同元年)1月、天台業2人を年分度者と認める。なんと、伝教大師は帰国の翌年に天台宗の年分度者を認められているではないですか(@_@;)この差は何なんだ(@_@;)ただ、弘法大師は天長元年(824年)3月には少僧都に任命され、天長4年には大僧都になられて、僧尼を管理する立場につかれていますが、伝教大師はそういう立場にはついていません。そういう意味でいえば、ギリギリまで年分度者が必要無かったということかもしれません。これまで漠然と「弘法大師は真言密教を唐から持って来られてすぐに真言宗を開宗された」と思っていましたが、そうではない事実に驚きました。しかし、そうすると再び謎が生まれてきます。「弘法大師は三論修学の留学生として唐に渡った」ということにならないのでしょうか?『空海入唐 虚しく往きて実ちて帰らんー飯島太千雄』に書いてあったのですが、驚きましたね(@_@;)今から考えると、「当然」の帰国でそれも「かなりの強運」と思われているのですが、弘法大師が「20年間の三論修学を放棄して2年で帰国」されたのは、よほどの覚悟があってのことなんですね。帰国されて、しばらくは「20年間の三論修学を放棄して2年で帰国」が問題となって、しばらく大宰府に留め置かれたんですがその間に、大変な事件が起きます。弘法大師とも縁が深いと思われる伊予親王が帰国翌年に謀反の罪に問われ自害!大同4年にその罪が許されるまでは、かなり危うい状況だったように思われます。私が言うのはなんですが、従来の弘法大師伝では「密教を持って帰って来たので、認められるのは当然」という前提で描かれていますが、実際はそうでもなかったのかもしれません。(*^_^*)いかがでしょう?
2011年12月10日
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以前、善通寺の逆襲2 ー弘法大師畿内誕生説への反論という日記を書きました。「善通寺の反論」を送っていただいたのですが、幾つか疑問に思うところがありまして、善通寺にお尋ねしました。総本山善通寺 坂田僧正よりお電話にてお返事いただきました。ありがとうございました。~~~~~以下善通寺の主張~~~~~1、妻訪婚についての疑問武内教授の弘法大師誕生説の中心をなしているのは「妻訪婚」である。当時の結婚形態としてa、婚姻の当初には訪婚(妻訪婚)が行われていた。b、『10年を過ぎると』夫婦は同居し一つの家族として 生活した。武内教授の説は、ここから弘法大師が阿刀家(母の実家)で育てられたとしている。しかし、『10年を過ぎると』の部分は武内教授が引用した学者の論文の原文には無い。また、当時の結婚形態については武内教授が引用した学者の論文には「夫婦は自分たちの住む屋を作るのが一般的」とあるので弘法大師の父母は双方の実家から独立した新しい住居を構えて生活したと考えられる。~~~~~以上善通寺の主張~~~~~武内教授の「畿内誕生説」は従来指摘されていなかった二つの事実が明らかにされています。1)弘法大師の一族の位階が「地方の豪族としては」 異常に高かった2)阿刀氏は讃岐に住んでいた記録がないすなわち、弘法大師の一族の生活の基盤が、讃岐だけでなく中央にもあった可能性が出てきています。率直に言えば、弘法大師のお父さんは讃岐ではなく中央に住んでいた可能性も否定できないわけです。この二つの事実に加えて3)弘法大師は教養が桁外れに高かったことも含めて、「弘法大師」は畿内で育ったのではないか?すなわち「弘法大師畿内成長説」とも言えます。そういう状況証拠に加えて「妻訪婚」という当時の結婚形態から武内教授は「弘法大師畿内誕生説」を取られています。それというのも上記三つに対する説明がないため仮に村上僧正の説をすべて認めたとしても弘法大師の父である「佐伯直田公」が「畿内にお住まいだった」可能性を否定できません。つまりは、「反論になっていないのではないか?」というのが私の疑問です。これに対する善通寺の回答は「妻訪婚」自体が学説的には明確になっているものではない。ということです。弘法大師のお父さんの「佐伯直田公」がどこにお住まいだったたかは全く資料がありません。しかがって「佐伯直田公」が「畿内にお住まい」という仮定は仮説ではあり得ても学術的には踏み込み過ぎです。それゆえ、「弘法大師畿内誕生説」を「学術的に」明確にするためには、現時点では「妻訪婚」が成立するかどうかが必須条件とも言えます。武内教授=妻訪婚があった。善通寺=妻訪婚はあったとは言えない。これでは、どちらが正しいかは判断できません。まだ、学問的には確定ではないようです。一方、善通寺でも「畿内誕生説」以外の武内教授の研究については、評価されているような感想を持ちました。「弘法大師が讃岐で生まれ育った」という部分の「育った」の部分は「学術的には」書きかえられる可能性もありそうです。とは言え、疑問がないこともありません。「弘法大師が小さいころから都で教育を受けていた」ということになると、「いつ頃、都へ向ったのか?」「そういう形態があったのか?」という疑問が出てきます。また、幼少期より都で過ごされたとすると、「讃岐」に対する想いがあまりないのではないかと思われます。当然のことながら「讃岐」にとどまらず「四国」との関係も希薄になるはずで、誕生地のみならず、「弘法大師」と「四国」の関係が見直されるということにもなりかねません。こう掘り下げてみると、「弘法大師畿内誕生説」は「四国で生まれ育った弘法大師」という今までの「弘法大師像」を180度変える可能性があります。空白の7年間も「生まれ育った四国の山野で修行された」ということではなくなりますので、「なぜ、四国で修行されたのか?」という新たな謎が浮かんできます。今後の平安初期の結婚形態・教育形態の研究の成果を待ちたいところで、今後どう展開するか、興味深いです。なお、善通寺としては弘法大師の誕生地を示す資料も別に何点かあるそうですし、当時の讃岐は都に比べてさほど劣らない文化があったともいわれています。現実に善通寺付近からは、奈良時代の瓦も出土し、弘法大師の生誕の100年ほど前から、善通寺付近には佐伯直氏の氏寺がありました。また、善通寺には古墳群があり、佐伯直氏は副葬品から推定してもかなりの力を持っていた一族とされています。今後はそういうことも含めた研究を善通寺でも進めると言われておりました。弘法大師の謎が明らかにされることを期待したいです。
2011年12月03日
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すいません。前回の日記はほとんど私の感想で勉強会の内容ではございません。訂正いたしました。さて、元に戻ります。2、入唐の目的は何か?これが、なかなか難しいですね(*^_^*)順当に考えれば、僧侶として入唐されているわけですから仏教を学びに行かれたという以外ないのですが、それがかなり分かれています。とりあえず、後においておきます。それはともあれ、弘法大師は延暦23年7月6日、日本を立たれ、唐へ向われます。運悪く嵐に巻き込まれ、弘法大師の乗られた船は30日以上海上を漂流。8月10日にやっと福州の赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられます。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆しています。都長安に着いたのが延暦23年末。留学僧として寺院に入り生活を始めるのが翌年二月。六月に密教の2系統(金剛界・胎蔵界)をまとめ、弟子1000人といわれる青龍寺の恵果和尚を訪ね八月には密教の最奥義である灌頂を授かっています。そしてその四ヶ月後に恵果和尚は亡くなります。実はその灌頂を授かったのはわずか6人。しかもその灌頂には金剛界・胎蔵界の2系統がありますが、両方とも授かったのは弘法大師を除くと義明という阿闍梨しかいません。さらにその義明阿闍梨は若くして亡くなったともいわれています。それ故、弘法大師は恵果和尚から13種の印可を授かっています。弘法大師が密教の正当相承者といわれる所以です。 また、弘法大師は恵果和尚が亡くなって二ヶ月後には長安を出て帰国の途に着きます。日本に着いたのは延暦25年8月その時247巻の新訳経典、曼荼羅23幅、絵像15幅並びに密教の法具(拝むときに使うもの)を持ち帰ります。これらは恵果和尚が20数人の写経生並びに、宮廷画工に依頼して青龍寺にあるものと同じものを作らせて弘法大師に送ったとされています。普通の感覚では、1000人の弟子を差し置いて長安に来て数ヶ月の弘法大師を密教の正当相承者とすることはとても考えられません。(*^_^*)恵果和尚は弘法大師が訪ねた時こう言って喜んだといいます。「汝、先に汝が来たらんことを知り、相待つこと久し。今日、相見えること、大好、大好」4、初対面の弘法大師に、恵果和尚が密教のすべてを 伝えたのは何故か?これこそ、弘法大師最大の謎(@_@;)「弘法大師畿内誕生説」の武内先生なら解明していただけるかもと期待しましたが・・・「密教の伝承者は次代の伝承者を選ぶ」というような宗教的な回答でした。以前、「弘法大師は空白の7年間に中国へ渡っていた」というような「トンデモ説」を書いたことがあります。唐へ密入国していたら「中国語の読み書きに優れていた」のは当然ですし、ひそかにお寺へ入りこんで才能を認められていたら「恵果和尚が待っていた」のは当然ですし「莫大な留学費用」のスポンサーもいたことでしょう。しかし、そういう可能性はだんだん少ないと思うようになりました。やはり、弘法大師には「密教を伝えられる何か」をお持ちだったのでしょう。6、弘法大師の莫大な留学費用の出所は?この質問はすでに回答が出ています。父母の実家からかなり援助が受けられたでしょう。5、弘法大師の帰国時の船はどういう役目だったか?これが不思議なんです。弘法大師は国家としての正式な留学生ですから、滞在中の身の回りの費用は唐が持ちます。その代わり、「20年の留学期間」が終わる前に勝手に帰ることは許されません。とはいえ、20年経ったら帰れるというわけでなく、遣唐使船が来ないと基本は帰れません。弘法大師が行かれた延暦23年の遣唐使船の後は34年後の承和5年。つまり弘法大師が入定された3年後ですから、弘法大師危うし!(@_@;)弘法大師が密教の受法を終えて、経典やら法具を作りましたがこれが無駄に・・・ところが、日本から遣唐判官の高階遠成がやってきました!(*^^)vこの船に弘法大師が乗れなかったら、日本の仏教史は全く変わったことでしょう。事実、弘法大師と一緒に入唐した「霊仙三蔵」は唐で名声を得て「三蔵法師」の称号を受けた唯一の日本人ですが、日本の地を二度と踏むことなく唐で生涯を終えています。この船が一体どんな役割を持っていたのか?一説には「遣唐使船の第四船」とも「唐の送使を送ってきた」とも言われていますが、詳しい記録はありません。日本史には「弘法大師を連れて帰った船」として永久に記録されます。もっと不思議なことがあります。普通、20年の留学期間と言えば、お金をケチって使わないといけません。しかし、弘法大師は「20年の留学費用を1年で使った」と言われるように思い切って使われています。しかし・・・「入唐されて2年後に船が来る確信があったのか?」これは謎です。一般的には受法されて、請来品を用意していた時にちょうど迎えの船がやって来たように思われています。それゆえ、「運が強い」と思われるのですが・・・・また、真言第八祖として受法されたにも関わらず、「唐に残られる」選択を考えられたように思いません。「あらかじめ短期で帰られることを考えられていたのでは?」この二つが再び新たな謎として残りました。
2011年12月01日
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