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最近、スパムコメントの削除が日課になっていました。一日15ぐらい削除したことありますよ。今日も既に10個ぐらい削除して、リンクしていただいている方の日記を読んで帰ってきたら既にスパムコメントが入っていました。すぐに削除しようとしたら・・・さらに追加してもうひとつ入っていますよ(@_@;)いくらなんでも入り過ぎ(*^_^*)楽天でコメント制限を付けようとしたら・・・英角のみのコメントを制限できるようになっていましたよ(*^^)vさっそく設定。さて効果のほどはいかがでしょう?
2012年10月31日
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少し前に、郷里へ帰りました。さて、新神戸駅から700系に乗りました。カッコいいですね(*^^)vあんな高速鉄道は日本しかできないでしょう。新幹線ができる少し前に生まれた私にとっては、感慨深い乗り物です。東京から郷里までよく乗りました。当時は指定席など乗ったことなくて、混んでいるとよく自由席で立ったまま東京ー名古屋間を移動しましたね。(*^_^*)東京ー大阪間は当初は3時間10分だったのが今は2時間25分(@_@;)窓が小さくて、車両の継ぎ目がカバーで覆われているのも当然かもしれません。さて、名古屋からは特急です。相変わらずディーゼル車ですが、これもずいぶん速くなりました。さて、私の実家は某観光地にあります。以前は駅の改札が入口と出口に分かれていましたが今はみどりの窓口がある入口に統一されました。その理由は、推測ですが私の子供のころは駅から出る出口には旅館の看板を持った人があふれていました。当然予約がある人はもちろん、予約が無い人も自分の旅館へ案内しようと客引きの争いになっていました。ちょうど有名人にレポーターが群がるように、出口を出る人に客引きが自分の旅館の名前を連呼しながら声を掛けています。地元の私たちは、客引きの誘いを断りながら、人ごみの中を通って帰り道につくのでした。いつしかそんなことは無くなりました。バスや自家用車が増え、列車で旅行する人が減ったからでしょうか?さて、駅前は以前より心なしかひろくなったような感じ、でも駅前は少し寂しくなった様な気がします。駅の北側の地下道を通ります。実は南側にも地下道があるのですが、これは南側に地下道ができる前の古い道。地元の人しか知らないでしょう。地下道を抜けて正面に見える大きな橋を渡ります。下を流れているのは益田川(飛騨川)です。下流で木曽川に合流して太平洋にそそぎます。橋を渡ったところに飛騨川に流れ込む谷があります。阿多野谷と言いますが、その谷を境に右側が森地区。左側が湯之島地区。この湯之島が、「諸州多有温泉、其最著者、 摂津之有馬、下野之草津、飛騨之湯島是三処也」と言われた天下の三名泉。谷には上流へ向けて四本の橋がかかっていますが二番目の橋には、何故か上の文章を書いた江戸時代の儒学者、林羅山像があります。何故か、林羅山が猿とたわむれている?儒学者の林羅山が猿と遊んでどうする???(*^_^*)もともと、こんな像は無かった。この谷は、以前は自然があふれていました。三番目の橋の下では夏にはホタルが飛び交っていました。三番目の橋から上流を見ると、谷を挟んで左側の道は途中まで、右側はほとんど地道が伸びていただけです。左側にはポツポツ民家がありましたが、右側には見渡す限り棚田が広がっており、民家はほとんどありません。空き地にはアケビが自生していました。それが今はどうだろう。谷の両側には車道がついて、谷側に歩道が張り出している。車道と歩道の境には柳が植えられている。ところどころ、谷へ下りる階段があります。下ったところにあるのは、自然あふれる谷ではなく人工的な水路の脇に遊歩道がついています。上流は公園として整備されているようですが、昔の面影はありません。温泉街へ入ります。心なしか寂れているように思いますね。量感と土産物屋の間に、飲み屋・食べ物屋・喫茶店などが並びその間に日用品を扱う店が並んでいたのが、かつての湯之島の街並みでした。昼間はもちろん、夜になっても不夜城のごとく、旅館の浴衣を着て下駄をつっかけた泊り客が歩き回っている。夜遅くまで、酔っ払いの騒ぎ声が聞こえたのも昔の話。ところどころ、櫛の歯が抜けるように、空き地ができていますが、あいにくとこの地域はほとんどの家屋が掛け作りで家が無くなると、ただの傾斜地です。そこに建物があった記憶を持っている人は、「こんなところに建物があったのか?」と驚きをもって眺めますが、そうでない人にはとても建物があったことなど想像されない。それゆえ、余計に哀愁を誘ってしまいます。(*^_^*)かつて日用品を扱っていた店の多くは閉めています。土産物店も閉めています。かろうじて、飲食店は残っているようですが、温泉街に場違いな?ファッショナブルな店もありますね(*^_^*)以前は木造二階建てだった旅館が、鉄筋コンクリートのビルに変わってしまったのは、バブルの頃でしょうか。やり手の町長の宣伝によって全国的に温泉が知られるようになったのも同じころの話。町には観光客があふれ、その波に乗って旅館も店もやり手の経営者はどんどん事業を拡大していました。「一泊2万以下では泊めない」今では考えられない様な条件がまかり通り、多くの成功者が出現して、永遠の発展が続くように思われました。その頃、私はこんな提案をしました。ライバルは郡上八幡と高山です。他の観光地と比較されることはない。比較されたとしても、1日で届く圏内のその二つの観光地に勝つことが最低条件です。ちなみにそれは今も変わることはない。郡上と高山は城下町で街の完成度が高い。勝てる部分は温泉しかない。少なくともハードで負けても、ソフトでは勝つ必要がある。1、駐車場とトイレを整備すること。2、温泉街は車両通行止めにして、馬車や人力車を走らせること。3、温泉街の町並みを作るために補助金を出すこと。4、多くの客を呼び込むよりも、質の高いサービスを提供して リピーターを増やすこと。この提案は今でも通用すると思う。しかし、耳を傾ける人はいませんでした。あれから20年、時代は緩やかに温泉街を安楽死へ導いているように見えます。多くの成功者たちは、時代の波にさらわれて、いつしか財産を失っているようです。一部の旅館の成功とは裏腹に、多くの地元経営者たちは旅館を手放したと言います。残っている旅館の壁のシミが没落する風景を暗示しているように見えます。多くの個人商店も店を閉めました。私が子供の頃、多くの客を迎え賑わっていた商店がある店はシャッターを、ある店はカーテンを閉め貸店舗の札が空しくかかっています。活気がありそうなのは、銀行と病院だけ。衰退する街のランドマークでしょうか。実はある旅館に泊りました。その経営者は子供のころから知っています。その人がこんなことを言われていました。「街がきれいになっているでしょう?」「えっ」「街並みが少しづつきれいになっていませんか?」返答に詰まってしまいました。確かに人工物は増えました。それなりに整備されてもいます。地元の人から見ると「きれいになっている」感覚なのでしょう。しかし、考えてほしい。温泉地へやってくる人は何を望んでいるのだろう?人工物なら都市のほうが優れたものが多いはず。田舎なら都市に無いものを提供するべきではないか?皮肉っぽい言い方で、しかも、ダラダラした文章ではありますが思う所を書きました。みなさんいかがお考えですか?
2012年10月30日
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昨日は近隣のお宮の秋祭りだったようです。夜になって隣の神社から聞こえる太鼓の音と、昼間何やらハッピを来た人がゾロゾロ(と言っても数人)歩いているので、ようやく「そうかお祭りなんだ」と判ったぐらいです(*^_^*)神社には何本も祭りであることを示す幟が立ってますが閑散とした境内には何故かむなしいです。私の記憶にあるお祭りは賑やかでした。いくつかの集落で、ちょうど同じ時期に春祭りがありました。学校は休みになり、農林業はもちろん、自営業者も仕事を休み町をあげてお祭りがおこなわれて、子供たちはお小遣いをもらって、屋台へ走りました。境内の参道から、さらに外の道路に沿ってたくさんの屋台が並んでいました。最近は無くなりましたが、以前は「ひよこ」が人気でしたね。今から考えると、オスのひよこを鶏卵業者が安く(ただ?)で売っていたのでしょう。それが屋台で売られていました。私の年代では、誰もがその可愛さに一度は買ったことでしょう。しかし、長時間揺られて運ばれたひよこは弱く、寒さに震えながら、看病むなしく2~3日の短い命を終えました。たまに成長することがあっても、オスですから長期間飼われることはありませんでした。あとは、飴屋、割り箸の半分位の二本の棒の先に、水あめをすくって渡してくれます。時には緑や赤や黄色の着色料が付いていて、その二本の棒で飴を回すと空気が入ってカラフルな色に変わります。しかし、回し過ぎると飴を落としてガックリ(;一_一)お祭り自体はどうでもよくて、屋台で何を買おうか見て回るのが楽しみでした。ところで、私は7歳の頃、父親と死別しました。そのためか、母親はかなりお金には苦労したようです。お祭りのときに、200円だか300円だか、その小遣いがもらえませんでした。ずいぶんしつこく母親に「お祭りの小遣いくれるって言ったのに」と言い続けた記憶があります。今から考えると、ずいぶん情けない話です(;一_一)家々でも御馳走が作られました。私の家では用意されなかったのですが「スズメ」とか「イナゴ」とか・・・(*^_^*)「スズメ」は骨ばっかりで食べにくいんですよね(*^_^*)長じてから、あるお宅へお祭りに招かれたことがあります。次々に御馳走が運ばれてくる。全部食べないと失礼かと思ったのですが・・・それにしては多すぎる(@_@;)後からお客さんが来ましたから・・・私は食べ過ぎ(;一_一)それはさておき、お祭りがどれだけ楽しみだったかという話です。しかし、最近はそんな祭りも少なくなりました。もともと、農村であるいは漁村で、その年の豊作・豊漁を祈願する。また、その年の収穫・漁獲に感謝する。それが祭りの起源です。農業も漁業も人間の努力だけでなく、天候など人為的以外の要因に左右されることが少なくありません。それゆえ、祈願し感謝する祭りが重要だったのですが・・・近年はいかがでしょう?多くの人はサラリーマンとして会社から給与をもらっています。会社が発展し給料が増えるためには、神様に祈願することが必要かどうか?また給料が増えたからと言って神様に感謝することが必要かどうか?それ以前にお祭りだからと言って休みにはならないですね(*^_^*)そう考えると、残念なことですがお祭り自体がすたれていくのは、やむを得ないのかもしれません。しかし、人間の根本は食べること。それに携わる人が減り、人間がそれに感謝できない社会はいびつとしか言えないような気がします。
2012年10月16日
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すごい衝撃的なタイトルの日記を見つけてしまった(@_@;)関東八十八ヶ所というニセモノ札所この札所の一寺院の副住職の方が書かれただけに余計に衝撃的(*^_^*)かつて、札所が粗製乱造された時代がありました。仏教が注目を浴び、四国遍路がブームになり、人々は狂ったように四国へ向かう。四国を制覇すると、西国・板東・秩父・小豆島・・・果ては北海道まで争うようにして、次々と納経帳に朱印をいただき、掛け軸を完成させる。そんな時代に、新しい霊場が次々と創設されました。当然のことながら、人々は新しい霊場へ向かうだろう。そんな甘い期待は見事に裏切られました。古くから作られている霊場はそれなりにインフラ?が整備されています。札所にはトイレ、納経を書く人、駐車場、それらの整備を古くからの札所は徐々に整備してきているのだが、新しい霊場を開くにあたっては、すべて一から始めなければいけません。それも各寺院の自己負担です。普通の寺院にとって少なくない負担を敷いて、それに対する見返りはあるのか?躊躇するのは当然で、既設で間に合わせて将来的に整備しようと考えるのは普通のことです。しかし、お参りに来る人はどうだろう?そんな寺院の台所事情など考慮してくれない。失望して、二度とお参りしないと誓う。先発の四国・西国をはじめとする霊場郡が多くのリピーターに支えられているのとは対照的であす。かくして、閑散とした境内に、申し訳程度に札所であることを示す案内板などを残して、札所は普通の寺院に戻ってしまう。この関東八十八ヶ所霊場もそのひとつのようです。しかし、この筆者の書き方には異議を述べたいと思います。まず、四国霊場はそれほど大したものではないということです。この方は関東の方なので、四国に対して思い入れがあるようでが四国在住者からすると、こんなに篤く四国霊場を思っていただけるのに四国札所の対応はなんだと言いたいですね(*^_^*)リピーターのお遍路さんで、札所の文句を言わない人は皆無?に近いです。それほど納経所の対応は悪い。特に、納経所の納経を書く机の上で「犬」を歩かせている56番札所「泰山寺」個人の納経は売店で書かせる2番札所 極楽寺この二つは特に問題です。個人の納経は寺で書かんとか、納経を書く机の上に犬を載せるなど言語道断。ちなみに「泰山寺」は指摘したら逆切れされた。この二つは今後、お寺をお参りしても納経は受けん(*^_^*)ちょっと感情的になってしまいましたが、四国霊場などこの程度です。持ち上げてくださるのに申し訳ない限りです。さて、四国霊場が歴史で明確になるのは、17世紀の半ばころそれから400年も経っていません。弘法大師が札所を作ったというのはあくまで伝説。「弘法大師が四国では誕生していない」とも言われるこの頃、ほとんどの札所は弘法大師と縁もゆかりもないとも言えます。ある意味ではニセモノ札所と言えるでしょう。そのニセモノ札所が400年近く経ったら、それなりの形を持ってきている。何故なのか?そこが信仰の不思議なところです。お参りする人が霊場を作ってきたのです。関東八十八ヶ所も寺院は受け入れ態勢が整っていないかもしれません。しかし、一人でも二人でもお参りする人がいることを考えてほしいと思います。信仰する人が札所を作っていくのです。そのことを考えて、関東八十八ヶ所も今は不完全でも400年計画で札所の形を整えるぐらいの構想で運営をお願いしたいものです。(*^_^*)
2012年10月13日
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このところ、円高が定着してしまったようです。ユーロは一時期ほどではないにせよ100円そこそこをウロウロ、一昨年4月ごろには120円台だったのが嘘のようです。ドルは78円台の攻防。これまた一昨年五月には90円以上ありました。円高がメリットがあるかどうか?微妙なところではあります。私が成人した頃(30年ぐらい前)私の記憶が正しければ、国産最高級車のクラウンの一番高いやつが400万円ぐらい。一方、シボレーコルベットが1200万、カマロが600万ぐらいしていたような気がします。現在はコルベットが799万、カマロが435万~550万それに対してクラウンの一番高いやつが742万円。外車は大体、当時より安いですが、これなど円高効果でしょう。何しろ、当時はその少し前に、「188円で円高」と騒いでいたくらいで、1ドルは200円以上ありました。現在のレートの3倍以上ですね。そう考えると、外国からの輸入製品は安くなっているのでその恩恵は受けていると言えるでしょう。一方で、日本の得意技とも言える輸出産業にとっては死活問題1億円輸出している会社では、1ドル80円が79円になると125万円の損失、100億円なら1億2500万円の損失。また、国内製造業にも痛手です。1ドル100円の時代に10ドルの商品を輸入したら1000円ですが現在なら780円。価格が2割以上安くなった外国商品と争ったのでは分が悪いでしょう。こうして、国内製造業に円高は大きな打撃を与えます。さて、円高解消にはどうしたらいいか?いい加減金融緩和などやめたら?で書いたような金融緩和では全く効果が上がりません。かくなる上は政府紙幣を発行する。簡単にいえば、紙幣を刷ってそれを政府が使ってしまう。これはインフレを助長しかねない禁断の政策のように思えます。実際、インフレが進んで大変なことになるという指摘もありますが計算するとそうでもない。仮に20兆円ずつ刷って政府が予算として使ってしまう。これを5年続けたらどうなるか?大体日本のGDPは500兆円ぐらいなので、最大で通貨流通量が1.2倍(20%増)になるだけです。つまり、せいぜい年間4%位のインフレ。これくらいなら、十分許容範囲でしょう。仮に政府支出の不足分、40兆円を刷って使うと5年間で200兆円通貨流通量は40%増えて、年間8%のインフレ。年間8%と言うと恐ろしい勢いで物価が上がっているように思えますが、過去のデータをひも解くとさほどでもないです。昭和48年(1973年)=11.7% 昭和49年(1974年)=23.2% 昭和50年(1975年)=11.7% 昭和51年(1976年)=9.4% 昭和52年(1977年)=8.1% 昭和55年(1980年)=7.7% 田中角栄が首相だった1974年は23%を超えるインフレだったんですね(@_@;)8%ぐらいなら、なんとなく許容範囲。国債発行するぐらいなら、どんどんお金を刷って使うべき。ちなみに、毎年20兆円ずつ刷ったら、5年後には1ドル94円、40兆円ずつ刷ったら、5年後には1ドル109円に円安が進みます。輸出企業はぼろ儲け。国内製造業も復活して万々歳。消費税増税などしなくても乗り切れるぞ!多分、3%に減税してもいけるはず。(*^^)v
2012年10月11日
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昨日の日記僧職系男子ってどうよを書いていて思いついたことがあります。ずっと以前、私がまだ坊主になる前の話です。お遍路をしている真言僧からこんな話を聞きました。「ボランティアと利他行はどう違うか?」その真言僧はまだ大学を出たての若い人だったんですがその答えを探りかねていました。私の中にもその問題は深く刻み込まれました。高野山専修学院である先生が「利他行」について話してくれました。「利他行と言うのは、他者のために祈ること」「別に、他人に何かすることではない」なんとなく、もやもやした感じが消えませんでした。「他人のために何かしてあげることは利他行ではないのか?」「祈るだけで他人のためになるのか?」その答えが判ったのは、僧侶として現在の寺院で修法をするようになった時です。祈る行為には功徳がある。その功徳を自分のものだけにしないで、周りのすべてにその功徳を分け与えていく。これが利他行です。さて、「ボランティアと利他行はどう違うか?」「ボランティア」とは自発的に無償で他人のために何かをすることなんですがその思いは様々です。自分のためにしている人もいるでしょうし、何かの目的があってしている人もいる。当然、見返りを求めない場合もありますが、必ずしもそうとは言えないでしょう。「他者に何かを行っている形」がボランティアなんですね。一方、利他行はいかがでしょう。「自分が行をした功徳を他人に振り向ける」行為に見返りなどなにもありません。感謝されることもないです。逆にあったらおかしいですね(*^_^*)普段から、そういう「行」をしている人が「たまたま」日常生活で「ボランティアに近いことをする」ことはあるかもしれません。
2012年10月09日
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最近は「僧職系男子」なるものが流行っているようですね。美坊主図鑑とか売れているみたいですし(*^_^*)ちょっと前までは、結婚相手に「坊主」は敬遠されがちだったんですが、変わったんでしょうか?(*^_^*)アラサー女子に「僧職系男子」が大ブレーク中~~~~~以下引用~~~~~「相手の言われたことは決して否定せず、寄り添うようにさせていただくよう心がけています。口から出た言葉と、本当に言いたいことが異なる場合もあるので、どんな思いなのか、どんな方なのかに注意を向けつつ集中して聞いています」(木原氏)「家単位で寺と関わる檀家制度は、地縁・血縁に基づいた人間関係を想定しています。が、今の世の中はそうした従来の縁のあり方が崩れ、別のくくり方で縁を結んでいます。お寺もそうした縁の受け皿をつくっていかなくては」 同じ“3.11”後の4月から、東京・銀座の画「銀座モダンアート」で月1回夜、5人の僧侶を集めて開かれる「僧職男子に癒されナイト」は、お勤めの後に僧侶1人を女性3~4人で囲み、東北産の日本酒や精進料理を楽しみながら相談事を聞く催しだ。 「仏教はいつもその時代に生きている人に語りかけなければならない。しかし、従来の言葉では伝わらないことも。聞き手と語り手の新しい接点が開発される時期かも」と前出の木原氏が語る通り、こうした若い僧侶たちは、いわば仏教という優れたコンテンツと一般人との新しいチャンネル役である。10月8日(月)8時30分 ヤフーニュース~~~~~以上引用~~~~~いかがでしょう?どうなんだろうと思ったのが、この記事を見る限り「仏教」の雰囲気が無いんですよね(*^_^*)癒しとか相談とかされたら受けたらいいんですが、では、その相談に対してどう仏教的に答えているんだ?と疑問を持ってしまいます。率直に言うと、一般的な相談を受けて「仏教的に答える」というのは難しいんですよね(*^_^*)「○○で困っています。どうしたらいいんですか?」明るい顔で「阿弥陀様を信じたら救われます」「それどころか、阿弥陀様を信じようとしただけで、 もう救われています」「さらに言えば、もともと問題なんか無いんですよ。 この世の中は全部六大ですから」こういうしかない(*^_^*)それ以上でもそれ以下でもない。でも、問題が深刻であればあるほど、ちょっと言いにくい(;一_一)私も相談は受けますよ。でも、心の中で上記のように思いながら、話を聞くしかない(;一_一)さらに言えば、お酒を飲みながら相談をを聞くのはねえ。あまりにも「坊主として」以前に「人間として」不真面目すぎないか?>仏教はいつもその時代に生きている人に語りかけなければ>ならない。しかし、従来の言葉では伝わらないことも。これはあまりにも失礼な発言。この発言主は「浄土真宗の坊主」なんですが、親鸞上人がどれだけ解りやすい教えを説いたのか知らんのか?「阿弥陀様を信じようとしただけで、もう救われています」これですよ。これ。浄土真宗ではすでに救われているんですよ。これが伝わらない人間がいたら見てみたいものですね(*^_^*)ちなみに「仏教」自体は従来から日本ではほとんど広まっていません。(*^_^*)檀家制度が崩壊しつつあるのは事実ですが、仏教離れが進んでいるわけではありません。仏教など日本では未だかつて広まったことはありません。従来の主張通り、日本人は日本教の信者で仏教の皮をかぶっていただけに過ぎません。そのあたりを誤解して、社会の動きに合わせようとすると足元をすくわれるように思います。(*^_^*)寺院は保守的であるべきで、ある意味では新しい流れとは一線を画して古いものを守る立場でありたいところです。
2012年10月08日
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今日は四国遍路第三回に参加しました。今回も集合場所は三人文殊寺しかし、集合時間が7時と早い(*^_^*)相変わらず、徳島最南端からわざわざ参加者を運んでいただけるサポート車のK僧正が一番乗りで来られました。続いて会長登場。「今日は参加者何人ですか?」「5人です」「ええ~」ちなみに過去二回の状況はこちら灼熱の四国遍路!四国歩き遍路第二回第一回 参加者10名第二回 参加者 8名第三回 参加者 5名だんだん減っている(;一_一)とりあえず、今回は「遍路ころがし」として恐れられる11番藤井寺~12番焼山寺約13キロの山中行軍?さて、11番藤井寺に向かう途中に、コンビニで弁当を購入。おお~財布が無い(;一_一)携帯も一緒に忘れた(;一_一)携帯はともかく、このままでは山中で飢え死にする(;一_一)耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、「すいません、お金貸してください」白い目で見られると思いきや・・・「よくあることですね」「山の中ではお金要らないですものね」なんとやさしいお言葉(*^_^*)さて、11番藤井寺に着き、本堂でお勤めしてからへんろ道に入ります。歩き始めてすぐに、足に違和感が(;一_一)普段の運動不足がたたった(;一_一)最初は一気に標高400メートルぐらいまで登り、だらだら、550メートルぐらいまで上がって、500メートルまで下がる。再び700メートルぐらいまで上がって、400メートルに下がり、再び700メートルまで下がる。大体の行程はこんな感じですかね?最初の長戸庵(3キロ)ぐらいまでは結構好調。しかし・・・他のみなさん休みが少なくないか?休憩所に着いたと思ったら、もう出発することを考えていますよ(;一_一)次の柳水庵(6.5キロ)ぐらいまでも、なんとかたどり着きます。そこで、昼食休憩。不思議なことに携帯電話が鳴っている?(@_@;)おかしい???ウエストポーチを探しますが、ありません。休憩ということで、ウエストポーチを外すと・・・おお~作務衣のポケットに入っていた(*^_^*)「メガネを上に挙げたまま、メガネ捜しているようなものですね」という指摘が・・・(*^_^*)しかし・・・サポートのK僧正に納経帳を渡す段になって・・・「納経帳が無い」(;一_一)財布をわすれた時は、やさしい言葉を掛けていただいたのですが今度は「それを忘れたらいかんでしょう」「忘れすぎです」そこまで言われなくても(*^_^*)さて、お昼を食べている間に雲行きが怪しくなり、風も吹いてきて寒い(;一_一)さて、出発なんですが・・・もう完全にバテテいる(;一_一)「北斗の拳」ではありませんが「お前はもう死んでいる状態」なんとかやっとのことで、遅れながらついていきます(;一_一)一本杉庵(10キロ)にはバテバテで到着(;一_一)サポートの車を探しますが、あいにく到着はありません(;一_一)そこから左右地集落まで一気に下ります。そこでサポート車を見つけますが・・・あと2.5キロだから頑張ろう(*^_^*)そこから約一時間登って、ようやく焼山寺到着。なんと、藤井寺を出発して、わずか3時間半で山中の13キロを歩いて到着(*^_^*)その代償は大きかった(;一_一)もう足の付け根が、異常に痛い(;一_一)しかし、メンバーは恐ろしい計画を立てています。約4キロ下って鍋岩と言うところで打ち止めのはずなんですが・・・「できるだけ、13番札所まで近づきたい」「どれだけ、これから距離を伸ばせるか?」お~マイブッダ(;一_一)「もう時間も遅いですから・・・」「鍋岩で打ち止めにしても、次回は余裕で13番札所まで可能です」と反対の論陣を張る(*^_^*)「いや~13番だけで終わりでは仕方ないので、 できたら17番まで行きたいんですよ」とりあえず、鍋岩まで下ります。バテバテで鍋岩まで到着。「とりあえず荷物をサポート車に載せて、鮎喰川まで下る」という結論で3キロほど手ぶらで歩きました(*^_^*)限界でした。足が痛くて夜眠れない(;一_一)年寄りの冷や水(;一_一)
2012年10月04日
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