あの日は、スタロプラメン一杯分酔った頭で、電車に乗り込み、誰もいないレギオのビジネスのコンパートメントでもらった本を開いた。『しょうせつ教育原論202X』のカバーデザインは、原稿用紙に本の冒頭部分を書いているところが描かれているのだが、裏表紙の上の部分にバーコードとISBN番号が入っているのが、全体を見たときの雰囲気を壊している。せめて下に移動させて帯で隠すなんてことはできなかったのだろうか。でもレジのことを考えたら無理か。
表紙側だけを見ている分には、問題なくデザインを堪能できるのだけど、冒頭の文を読み始めて、背表紙になっている柱の部分を越えて、次の行を読もうと思ったら、バーコードで隠れている。手で隠れているのは、カバー絵のコンセプト通りだから気にならないが、バーコードとISBN番号で原稿用紙と原稿が切れているのは、何とももったいない話である。帯にも原稿用紙の罫線が刷ってあってすごく凝っているのに、バーコードが装丁の妨げになるという実例である。何か手はないのかなあ。
思わずあとがきを探して、あとがき代わりの著者と編集者の対談を読んで、「しょうせつ」は「詳説」でもあり、「小説」の中に「詳説」を持ち込むための設定が、主人公が授業で勉強したことを整理してブログに記事として投稿するという設定だったのだと理解した。確かに、こちらが期待したような、授業のために調べていく過程や、同級生とのかかわりなんかを描いていたら、長編小説どころか大河小説になってしまう。それでも「詳説」ではなく「小説」の読者としては、14章、15章あたりのスタイルで全編読みたいという気持ちも消せないのだけどね。
そんなことを考えていて、はたと気が付いた。本文が横組みになっているのに、最初はあれっと思ったのだが、これもブログの記事という設定を生かすためだったのだ。ブログの記事と言いながら本文中で縦書きになっていたら、違和感どころの話ではなくなる。それなら最初から「小説」の部分も横書きにしたほうがいいという判断は正しい。ただ、難点は横書きに引きずられたのか、句読点の代わりにカンマとピリオドが使われているところで、理系の人なんかには、気にならないという人もいるのだろうけど、文系の人間には気になってしまった。出版社の意向かなあ。
それから、読み始めて戸惑ったAI〈マリ〉の存在だが、大学に入ったばかりの主人公が、授業で学んだこととはいえ、毎回あれだけきっちりとまとめられるのは、AIの存在抜きには考えられない。単に近未来に実現しそうな技術だからということで登場しているわけではないのである。主人公がAIの支援を活用して書き上げたのがあのブログの記事だと考えると、あの完成度(実際は著者の筆なのだから高いに決まっている)にも納得できる。AIの能力がそこまで高くなるかどうかはまた疑問だから、近未来SF的な面もあるのか。
帯には「教育の理念・歴史・思想を小説形式で学べる」なんて簡単にまとめてあるけど、このスタイルを作り上げるのは大変だったに違いない。「小説」という大枠の中に、矛盾しない形で「詳説」の部分をはめ込まなければならなかったのだから。
というのが、著者には申し訳ないが、「詳説」の部分を飛ばして、「小説」を読んだうえでの感想である。
付けたりの『コメニウスの旅』については、さらに申し訳ないことに、写真や地図などの図版を中心に目を通しただけである。それでも、前回の『ヨハネス・コメニウス 汎知学の光』が、コメンスキー自身の旅(と言えるほど優雅なものではなかったようだが)を中心にしているのに対して、こちらはコメンスキーの哲学の旅がテーマとなっているぐらいのことは言える。個人的にはそれを、コメンスキーがオランダで客死した後、コメンスキーの哲学は、世界中に広がり、パトチカの手によって光をあてられることで故郷のチェコに戻ってきたのだと解釈した。
図版では、何よりも地図が見やすくなっているのがうれしい。多数掲げられている写真と合わせて、この夏はフルネクとか、コムニャとか、まだ行ったことのないところに足をのばしてみようかなんてことも考えてしまった。いや、その前に、時間を使って今回頂いた二冊をちゃんと読まなければなるまい。本について書きつつ、まともな書評にはならないのが我が文章である。著者にはお詫びの言葉しかない。
2019年5月3日22時。
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