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2020年01月13日

永延二年三月の実資(正月十日)






 とまれ、三日は『日本紀略』に「御灯」が行われたことが記される。この儀式は三月三日と、九月三日に行なわれたもので、北辰と呼ばれた北極星に灯火を捧げて、国土の安泰を祈った仏教行事である。宮中行事としては平安時代後期には廃れたようだが、後には民間でも行われるようになったという。


 この月の『小右記』最初の記事は十日のもので、まず円融上皇のところで童舞。夜になって帰宅している。最後に伝聞の形で、摂政兼家の長寿お祝いに法性寺が奉仕したことが記されているが、実際に行なわれるのは、十六日なので、この時点では準備を始めたと考えておくのがよさそうだ。


 十三日は、石清水神社の臨時祭が行われたことが、『日本紀略』だけでなく、『小記目録』にも見える。『小記目録』に記載されているということは、本来この日に石清水臨時祭についての記事があったということで、残っていないのが残念である。実資のことだから、祭りの日だけではなく試楽などから記していたに違いない。
 この祭は三月の二番目の午の日に行われたもので、臨時というのは、放生会に対しての謂いで、毎年行われた。もともとは平将門・藤原純友の反乱の平定を祝ったもので10世紀の半ばに始まり、毎年恒例となったのは970年代に入ってからという比較的新しい祭である。


 十六日は『小右記』に法性寺で行われた摂政兼家の六十賀の様子が記される。六十という年齢に合わせて長寿を願う「寿命経」を六十巻書写し、六十人の僧を招いている。実資は出席しておらず伝聞の形で記され、現時点では詳しいことはわからないと付け加えている。
 また、この日は左大将藤原朝光に呼ばれて邸宅である閑院に出向いてあれこれ話している。この日の朝、寝殿の巽、つまり南東の角で小火騒ぎがあったらしい。その後、円融上皇のところに向かうが、十日に続いてまた童舞。一度帰宅して参内し朝まで候宿。


 廿日は円融上皇の御願時である円融寺で五重塔の供養が行われる。『大日本史料』の解釈に寄れば、十日と十六日の、実資も出向いた円融上皇のところでの童舞は、この日の五重塔供養の一貫として行なわれたようである。『御室相承記』に寄れば僧寛朝が供養に奉仕したという。


 廿一日は、本来は二月に行われた春の季の御読経の発願である。『小右記』には摂政兼家が、この日公卿以下の官人たちの怠慢をとがめたことが記される。自分が担当する儀式の日に出てこなかったり、儀式に出仕しても責任者の上卿が参入する前に退出したりするものが多かったようである。こういうことは繰り返し戒めなければならないというのは正論にしても、それを告げた相手が右大臣の為光というのが心配になる。
 その後、女官二人に、昇殿と禁色が許されたことをはさんで、兼家の六十賀に関する引き出物のことが決められているが、差配したのは右大臣為光と兼家の息子である権大納言道隆。為光が摂政兼家に近づいているのが見て取れる。出仕していた実資は、決まったことを書き留める執筆の役を果たしている。四位と五位の人の名前が、それぞれ六人ずつ挙げられているが、そのうち五位の藤原行成と源明理の服装が適当なものではなかったと実資が批判している。


 廿四日は、廿一日に始まった春の季御読経が結願する。『小右記』の記述によるとこの日も公卿の欠席が目立ったようである。天皇の物忌みに一人も来なかったとも読めるのだけど、どうだろうか。
 宮中に於ける摂政兼家の六十賀の儀式は、廿六日に常寧殿で行われるのだが、前日のこの日に、天皇の命令で、年齢にあわせて六十箇所の寺で読経が行われている。使いとして派遣されたのは侍従だが、平安京から近い寺には四位の官人が派遣されている。読経は兼家の娘で一条天皇の生母である皇太后詮子のところでも行われている。
 また、天皇は六十石の米を貧民に施している。場所は大内裏の正門である朱雀門の前。最後の部分がよくわからないのだが、左京と右京の牢獄に収容されている罪人たちにも施しの米を分け与えたと言うことだろうか。配布に当たったのが罪人という可能性もあるか。牢獄が大内裏のすぐ外の朱雀門の近くにあったとは思えないし。
 残念ながら廿六日の六十賀のお祝いの様子は、『小右記』には残っていないのだが、『栄華物語』や『大鏡』にも取り上げられているので、そちらを読めば大体のことはわかる。実資の記録を参考にしたなんて話はないかな。


 廿六日の出来事としては、『大日本史料』に右大臣為光が法性寺で供養の儀式を行い、円融上皇が臨席したことも立項されている。為光は円融上皇よりも花山上皇に近いと思っていただけに意外な出来事である。

2020年1月11日24時











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