意気込んで三月の儀式を確認したのだが、これが意外と、いや言葉は飾るまい、本当に少ないのである。日付と儀式名がそろっているものが八件しかなく、そのうちいくつかは説明の記事がなく、正月から臨時で移されたものまである。三月という春の末月は平安時代の年中行事においてはあまり重視されていなかったと言うことなのであろうか。
とまれ、三月最初の儀式は、毎月恒例の儀式で、実資の頃には、四月と十月だけの実施となり、それもしばしば行われなかった旬座である。本来は毎月、朔日、十一日、廿一日、つまり各旬の最初の日に天皇が朝座に着して政務を見たものである。それが次第に簡略化していったのは、公卿の懈怠と幼少の天皇が続いたことによるものであろうか。『小野宮年中行事』によれば、三月の廿一日は廃務の日なので、旬座も予定されていなかったようだ。
御燈は使の手で北山の霊厳寺に運ばれ妙見菩薩に捧げられた。北辰信仰の一つである。潔斎はしていないけど、三日の夜には北極星を拝んでみようか。方向音痴の気があるのでまず北極星を見つける必要がある。御燈は懐中電灯で代用かな。
七日には、薬師寺にて最勝会が始められた。終るのは十三日である。どうもこの薬師寺での儀式は欠席者が多かったようで、実資は「貞観太政官式」から欠席した場合の罰則を引用している。欠席者には新嘗会の節会の参加を禁じたり、季禄を剥奪したりとなかなか厳しい罰則である(と思う)。ちなみに最勝会は宮中で正月に行われた御斎会同様、金光明最勝王経を講じる儀式である。
次は日付は決まっていないが、中午の日、つまり二番目の午の日に行われた石清水臨時祭である。割注には「国忌」と重なる場合には下午の日に行うと書かれているのだが、実資が引く用例には、上午の日や、翌閏三月の上午の日、午の日ではない日に開催されたものが挙がっていて、実資自身も「度々の例同じからず」と記している。結構適当だったのである。とはいえ、毎年定例で行われていながら「臨時」と呼ばれ続けるのに比べればましだと思う。
十一日と、十二日には、射礼と賭射という本来正月に行われた行事が並んでいる。割注に長和二年に、正月に国忌があるので三月に改められたことが記されている。長和二年(1013)というと三条天皇の御世だが、寛弘八年(1011)の即位後に生母藤原超子の忌日を国忌にしているから、それが正月だったのだろう。ただし、国忌と重なるからといって年中行事を、別の日ならともかく、別の月に移すなんて話は聞いたことがない。この辺も、道長との対峙では三条天皇を支援していながら、天皇としてはそれほど高く評価していなかった(ように『小右記』の記述から思われる)所以なのだろう。
賭射のところには、「寛平元年三月乙卯の御記」が引用されているが、祖父実よりの『清慎公記』の逸文と見てよかろう。大日本古記録ではないので人物比定が面倒そうで、そこまでは手を出していない。
十七日は桓武天皇、廿一日は仁明天皇の国忌である。この二つが、石清水臨時祭の祭日が常には中午の日にできなかった理由である。また、国忌の日は原則として廃務になるので、廿一日の旬座も行われなかったのである。
最後に行われる日の決まっていない行事として、鎮花祭と授戒があげられている。鎮花祭は、桜の花の散る時期に、疫神が病気を流行させるのを防ぐために行われた儀式だから、すでに流行が始まって久しいとはいえ、今年盛大に行う意味がありそうだ。祭の行われる場所は奈良の神社で現在は四月に行われているらしいから、チェコで今月というわけには行かない。
ところでキリスト教には疫病を払う儀式なんてないのかね。
2021年3月3日18時。
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