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2020年09月16日

チエツコスロバキア考続(九月十三日)




 チェコ軍団、もしくはチェコスロバキア軍団が、活字となって現れるのは、シベリア出兵が開始された1918年8月以降のことである。執筆編集にかかる時間、名目上の発行日と実際の発行日の差違などを考えると、シベリア出兵に合わせて企画がたてられ、始まるよりも少し前に店頭に並ぶように計画されたと考えてもいいかもしれない。

 正確な発行日のわからない八月刊行の雑誌では、まず「實業之日本」(第21巻16号)が慶応大学教授林毅陸の「出兵の動機となつたチエックの興亡」という文章を載せている。林は政治学が専門で、外交史の研究家としても知られている。この文章は題名からチェコ民族の歴史について書かれたもののようにも思われるが、館内限定公開で読めないのが残念である。
 「實業之日本」では翌9月刊の第21巻18号でも、「浦鹽に於けるチエツク軍」と、「チエツク」という表記を採用しているが、1920年4月刊の第23巻7号では、「西比利に於けるチエツコ、スロバツク軍の近?」という表記に変わっている。この「チエツコ」と「スロバツク」という表記の組み合わせについては、別の雑誌のところで検討する。

 同月刊行の、後に政治家となる中野正剛が主筆を務めていた「東方時論」(第3巻8号)は、シベリア出兵と、それに関する外交交渉に対して強く批判しているのだが、その中にチェコ軍団に関する記事が三篇ある。そのうち二篇は、記名がないので編集部の記事だろうが、「チエック・スラヴアックは米國の傭兵=米兵六萬七千、日本兵七千」「憐れなるチエック・スラヴアック=佛國と米國の意嚮は相反す」と、チェコだけではなく「スロバキア」にあたる言葉が登場する点で注目に値する。それが「スラヴアック」になっているのは、目次だけの誤植、もしくは目録の誤植の可能性もある。ちなみに、三篇目は、松原木公という人の書いた「チエック軍の活躍」だが、「軍」のつかない前の二篇も含めて、すべてチェコ軍団について書かれたものと考えてよさそうである。「チエック・スラヴアック」が一つのものと認識されていたのか、単なる並列なのかは不明。

 8月15日付けで発行された「外交時報」(通巻331号)にも興味深い表記が見られる。「佛國政府とチェッコ・スロヴァク民族」という無記名の記事で、初めて「チェッコ」という今日の「チェコ」に直接つながる表記が登場する。ただし、同号には泉哲「チェック軍救援の眞意義」という記事も掲載されている。
 同誌は、10月1日刊の334号に、「チェック、スロヴァック軍隊に關する承認」「米國のチエック民族承認」「帝國政府のチェック・スロヴァック承認宣言」、11月15日刊の337号に「チェック・スロヴァック族獨立宣言」と「トーマス・ジー・マサリツク」の書いたものとして「チェック・スロヴァック民族」を掲載していることから、この時点では、雑誌の方針としては、「チェック、スロヴァック」という表記を使用していたと言えそうである。では、「チェッコ・スロヴァク」はというと、ここでは、「佛國政府とチェッコ・スロヴァク民族」というフランス政府と関係のある記事において使用されていることを指摘するにとどめておく。

 19 20 18 年8月以降、軍関係の雑誌(「戦友」99号、「有終」66号など)や、医学関係の雑誌(「醫海時報」1261号)などにチェコ軍団に関係する記事が散見されるのだが、その多くは、1920年になっても「チエツク(軍)」という表記を採用している(21年以後は未調査)。中には独立後のチェコスロバキアを「チェック共和国」と記している例まである。初例は19 12 18 年12月刊の「英語青年」の「外報 英國の政界 チェック共和國成る」だが、後に研究社が刊行を引き継いだ英語学習、英語研究のための雑誌だし、イギリスでこんな言い方がなされていたことを反映しているのだろうか。

 一方「チエツクスロバツク」という表記が増えていくのは、上記の「外交時報」もそうだったが、10月刊行のものからで、これは第一次世界大戦の講和会議に関する情報が増えていく中、チェコとスロバキアを一つのものとする考えが、日本にも広まりつつあったからだと考えてよさそうだ。それらの中で、雑誌と著者の知名度から注目に値するのが、大正デモクラシーの中心人物の一人とされる吉野作蔵が「中央公論」の10月号(通巻362号)に発表した「チエツク・スローヴアツクの承認」である。どんなことが書かれているのか、題名からは想像もつかないが、ちょっと読んでみたい気はする。

 11月刊行のものでは、「極東時報」(第78号)に掲載された「チェツコ・スロ?ック軍司令長官ジァナン將軍」が注目に値する。「?」はともかくとして、この「チエツコ」と「スロバツク」という組み合わせは、原則としてフランスと関係のある文脈でしか登場しないのである。「外交時報」の記事はフランス政府の動向を記したものだったし、この「極東時報」は、フランス外務省の支援で日本で日仏両文で刊行されていた雑誌で、後に「仏蘭西時報」と改題される。その「仏蘭西時報」にも、1919年10刊行の第96号に「チエツコ・スローワ゛ツク共和國の對外政策」という文章が掲載される。
 フランス語は知らないし、用例が少ないからあれなんだけど、この表記はフランス語の発音から来ているのではないかなんてことを考えてしまう。チェコスロバキアの独立運動の中心地だったフランスでは、第一次世界大戦の講和会議で、独立するチェコスロバキアの正式な国名が認定される少し前から、チェコスロバキアにあたる言葉が使われていたのではないだろうか。フランス語の「Tchécoslovaquie」の発音は知らないんだけどさ。

 その後、講和会議で条約が結ばれる段階になって、初めて英語名の「Czechoslovakia」が決定され、参加諸国に正式な国名として認定されたことで、以後日本政府も、それをカタカナ表記にした「チエツコ・スロヴァキア」を公式の表記として使うようになったのではないかと想像する。「チエツコ・スロヴァキア」の初例がすでに記事にした1919年11月刊のいわゆるベルサイユ条約の概要を紹介した外務省の刊行物であること、それ以前は英語の形容詞を二つ並べたかのような、チェコもスロバキアも「ク」で終わる表記が一般的であることも、それを裏付ける。「チエツク・スロヴアツク」は新国家の正式名称が決まるまでの便宜的な呼称だったのではないかと考えるのである。

 正式名称が決まったからといって、以後常に「チエツコ・スロヴァキア」が使用されるわけでもないのが、頭の痛いところだけれども、言葉なんてのはそんなものである。
2020年9月14日16時30分。









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