チェコスロバキアが、確認できる範囲で最初に官庁の印刷物に登場するのは、1918年09月17日付の「官報」においてである。そこには「チェック、スローヴァック民族ニ對スル帝國ノ態度宣明」と題して、「チェック、スローヴァック国民委員会理事長」の「エドワード、べネス」氏から、イギリスの日本大使に送られた、日本政府(時代がら帝国政府と書かれているけど)に対する要望を記した書簡と、それに対して日本政府が大使を通して返信した公式回答の訳文が掲載されている。ベネシュの書簡は、8月11日付けで、回答は9月9日付けである。
二つ目の例は、外務省の内部文書の可能性もあるが、『独墺革命事情摘要』という外務省臨時調査部が作成した文書である。表紙に11月25日調査とあることから、それ以後の発行だろうと思われる。この中に「チェック、スロバック族」という章がたてられている。
二つ目は3月25日発行の第22輯なのだが、「チエク・スロワク民族に就きて」「チエク・スロワク軍」と、珍しく促音が省略された表記が採用されている。この『時局に関する教育資料』は、第一次世界大戦後に大きく変わった、特にヨーロッパの情勢に教育現場で対応できるように、まとめられたものだろうか。地理など国境が戦前と比べると大きく変わり、新しい国も生まれているから対応が急がれたのもわからなくはない。
この年の「官報」では、2月22日付けに「米國ノチェック、スローヴァック支配地域トノ通商及通信許可(外務省)」、4月25日付けに「チェックスロヴァック國代理公使承認」」、11月13日付けに「チエックスロヴァック國公使館附陸軍武官新設」と、1918年10月28日に独立を果たしたチェコスロバキアについても、この時点では「チェックスロヴァック」と表記されていたことが確認できる。
外務省の文書でも、政務局が編集発行した「外事彙報」の9月刊の号に、「チェック、スローバック國近況」という6月15日付けの調査結果が掲載されている。
それが変わるのは、外務省が11月(表紙による)に出版した『同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約並議定書概要』で、この中に初めて、「チェッコ、スロヴァキア國」という表記が登場するのは以前も紹介した通り。
1920年になると「官報」でも、「チエッコ、スロヴァキア國ハ工業所有權保護ニ關スル巴里同盟條約ニ加入ノ旨申込ミ效力ヲ生シタル旨瑞西聯邦政府ヨリ通知」(1月20日)と、「チェッコ、スロヴァキア國」が使われ始め、次の例外を除いてすべて「チェッコ、スロヴァキア國」となっている。
例外は、「チェックスロヴァック國公使館員異動」(4月8日)、「チェックスロヴァック國公使離任」(6月3日)、「チェックスロヴァック國公使歸任」(6月18日)の3例で、すべて公使館に関係している。これは、前年に「チェックスロヴァック國公使」として受け入れられたことが原因として考えられそうだ。
国名が「チエッコスロヴァキア」に定められたのちも、公使の肩書としては、受け入れたときの「チェックスロヴァック國公使」が正式名称として使用され続けたのではないか。そして、新しい公使が赴任する際に、「チエッコスロヴァキア」公使として受け入れることで、以後は公使館関係についても「チエッコスロヴァキア」を使用し始めるという手続きを必要としたのではないかと考えるのである。新しい公使の赴任のニュースは、1921年以降だろうから、現時点では未調査である。気が向いたら、調べてまた報告する。
また、この年には、外務省臨時調査部が美濃部達吉訳『チェッコ,スロヴアキア共和国憲法』を出している。訳者の名前に驚く人もいるだろうが、美濃部は「国家学会雑誌」の11月号にも「チェコスロヴァク國憲法」という文章(憲法の翻訳かもしれんけど)を寄せていて、両者の前後関係ははっきりしないのだが、どうして国名表記が違うのだろうという疑問が浮かぶ。珍しい組み合わせだし。
とまれ、暫定的に使われていた「チェックスロヴァック」が、1919年の終わり以降、公文書では「チエッコスロヴァキア」に取って代わられたというのは、間違いなさそうである。ならば次の問題は、「チェックスロヴァック」がいつごろまで使い続けられたのかということと、促音を廃した「チェコスロヴァキア」がいつごろから使われ始め、一般的な表記として定着したのかということである(バとヴァの差異については問題にしない)。
2020年9月15日14時。
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