それに、川端康成の名文の誉れ高い『雪国』の「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった」という書き出しも、正直な話、「雪国」でどんな情景を思い浮かべればいいのか、何を暗示しているのか、理解できなかったし、多分、今でも理解できない。これが、「国境のトンネルを抜けると、暴風の真っ只中だった」とかだったら、よくわかるのだけど、文学にはならんわな。
実際に体験できないから、雪そのもの、もしくは雪を使って何かをしたり、作ったりするのにはあこがれた。雪だるまとか雪合戦とか。雪合戦なんて、雪だまの中に石を入れる反則技も含めてやって見たいと思ったもんなあ。さすがに雪だるまは無理だったけど、雪合戦に関しては、代用品を見つけ出した。
霜では投げられる形にできないので、霜柱を使おうと言い出した奴がいた。子供の発想というのは、何と言うか、かんと言うか。集団登校のための集合場所だった近所の公園で、気温が氷点下まで下がった寒さの厳しい朝、手が痛いのを我慢しながら土交じりの霜柱を掘り起こして、投げつけあったのだ。結果はご想像の通り、痛い冷たい汚いで、学校に行く前に泥まみれになってしまうという惨憺たる結末を迎えた。着替えに一度うちに戻って親におこられたんだったか、泥まみれで学校に向かって先生に怒られたんだったか、いずれにしても二度と手を出すまいと思った。
近所の幼稚園で九州山地の山の中からトラックで雪を運んできて近所の子供たちにも遊ばせたことがあった。その雪は雪というよりは既にシャーベット条になっていて、雪だるまは丸い形に雪を固めることができず、雪合戦は雪球がほとんど氷玉になって、当たるとめちゃくちゃ痛くて泣き出すこともまで出てしまった。そして雪合戦もどきは禁止されてしまった。
九州に住んでいた十八年間で、雪が積もったのを明確に覚えているのは二回だけである。一回目はまだ幼稚園に通っていたころのことで、朝起きたら庭の芝生に白いものが転々と残っていたのを覚えている。思い返すと積雪というにはささやか過ぎて、雪だるまにも雪合戦にも使えないような代物だったが、長らく唯一の雪の思い出となった。
二回目は大学受験のときである。昭和天皇が崩御され、元号が平成に変わった年の正月の下旬に行われた最後の共通一次試験は、高校のあった町から試験会場の大学までかなり離れていたので、受験する学生はみんな一緒に前日にバスで大学近くの町のホテルに入った。ホテルの周囲はまだ白くなっていなかったが、ちょっと内陸の高台の上にあった会場に近づくにつれて、地面が白くなっている部分が増え、大学の周囲は一面の白色だった。と言いたいところだが、出入りする車のわだちや、行き来する人の足跡で、茶色と白の入り混じったような景色になっていた。
せいぜい、一センチか二センチしか積もっていなかったのだろうが、南国人の目には大雪に見えた。受験の当日に目の前に積もった雪があるからと言って、雪だるまを作ったり、雪合戦を始めたりする余裕のあるものはおらず、みなバスを降りて、慣れない寒さと冷たさの中試験会場まで歩いたのだった。
試験の当日に南国にはまれな大雪もどきが降ったのは何かを暗示していたのに違いない。バスを降りて会場に向かうときには、会場の大学の真っ白く雪に覆われたグラウンドのまぶしさが、希望を示しているように見えたし、初日の試験を終えてバスに戻るときには、建設途中で舗装の終わっていなかった駐車場の雪が融け始めてどろどろになった地面に現実に引きもどされるような思いがした。ようは試験に失敗して、思ったほどの成績ではなかったということなのだけどね。
初日にあったのを覚えているのは理科の試験で、文系のクラスだったので受験したのはみんな生物だった。その生物の試験が異常に難しく、ホテルに戻るバスの中の雰囲気は最悪だった。後で理系の連中に話を聞くと物理も同様だったらしい。反対に化学がやさしすぎ、平均点で二倍以上三倍近い差がついてしまったために、最終的には救済措置として「かさ上げ」なるものが行なわれたのだが、この時点では予想もつかず、女の子の中には泣いている連中もいた。
衝撃を受けたのは生物の先生も同じだったらしく、ホテルでの夕食の席にも姿を見せなかった。次の日の朝食に現れた先生は、明らかに寝不足の表情で、髪の毛が真っ白になっていた。小説なんかで、恐怖のあまり一夜のうちに白髪になってしまうなんて話は読んだことがあったので、生物の試験が難しすぎて我々の点数が悪かった責任を感じてショックのあまり白髪になってしまったのかと罪悪感を感じてしまった。
そもそも、この先生は新種の植物をいくつも発見するなど、生物学者としても優秀な人でうちの高校で教えているのが間違いのような先生だったのだ。そんな先生を、受験戦争に巻き込んで白髪にしてしまった現実に思わず憤ってしまったのだけど……。
実は、先生、一晩で白髪になったのではなくて、自棄酒飲んで二日酔いになって、白髪染めを使う気力がなかったのだという。つまり先生はもともと白髪だったのだ。試験の自己採点のために登校したときに、そう打ち明けられて、感動を、じゃないか、俺の怒りを返せと思ってしまった。まあ、先生の白髪の衝撃で、前日のできの悪さを二日目まで引きずらなかったと考えられなくもないのかな。
九州のど田舎に住んでいた十八年間の雪にまつわる思い出は、これだけなのである。東京に出てからのお話は、また明日、っていうか今日今から書くんだけど、昨日の分で。
1月26日22時。
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