九日は、まず内裏に出かけて、元日の節会で幕が落ちてしまった責任を問われた藤原信理を許すように奏上している。天皇が殿上人の控えの間である侍所に出御して、管弦の遊びが、つまりは歌舞音曲付きの宴会が行われ、藤原中清が龍王の舞を披露している。
また左近衛府の荒手結が行われている。この正月儀式の荒手結、真手結、賭弓、射礼などの弓関係のいくつかの儀式の相互の関係がいまいちはっきりしない。辞書なんかでの説明と、日記に現れるものとが違うことがままある。時代によって儀式そのもの、言葉の使い方の変遷があるのだろう。
この日は、誰を左近衛府の射手とするのかで問題が生じている。要は手結に出せるような射手の数が足りないということのようである。だから去年の起請に書かれたこととは違う形にしてもいいかどうかで話し合いが行われている。結局は数が足りないほうが問題だから、数をそろえるということになったのかな。
十日に実資が参内すると、花山天皇は寵愛する女御藤原?子のもとにいて、小弓を使った遊びが行われている。前後二つのグループに分かれて弓を射てその結果を競ったようである。藤原中清が龍王の舞を披露しているのは前日の管弦の遊びの際と同じである。
その後、後涼殿の庭に雪山を作って、漢詩を作る会が行われる。花山天皇の側近の藤原惟成が献じた題は「賀春雪」と「春雪呈瑞」で、そのうちの「春雪呈瑞」が採用されている。踏むべき韻は「新」で作るのは七言律詩である。漢詩を作った人々の名前は記されていないが、読み上げる役は出題者の藤原惟成が務め、実資はその補助役をしている。
この日のことを実資は、「奇に思ふ」と批判しているが、それは正月八日から行われる御斎会の最中にこんな漢詩を作る会なんてするべきではないということと、一日の間にいろいろな行事、特に音楽を伴う遊びが多すぎるということである。弓の勝負の賞品にも文句をつけている。龍王を舞った藤原中清を含め布袴をはいて奉仕していたことが記されるが、これは正しくないからであろうか。
雪が五寸ばかりというから、十五センチほど積もったようである。末尾に皇太子に対して正月の初卯の日の儀式である卯杖の献上が行われている。
十一日は、歌人としても知られる藤原実方の訪問を受けている。その後夕方頼忠のもとに出向いているが、実方の訪問との関連があるのかな。「聊か触るる所有り」なんて言っているし。
十二日は、内裏に行ってしばらくして戻ってきただけ。
十三日は円融上皇による、御願寺の円融寺への行幸である。多くの公卿が参列しているが、按察大納言の源重信は、上皇より前に寺について準備をしている。御諷誦が行われているが最後の部分の後夜が行われる前に上皇は宿泊のための宿坊に移り、女房たちは堀川院に戻っている。
十四日も最初は前日の円融寺行幸の続きである。まず円融寺の創建に当たって重要な役割を果たした寛朝のために御馳走をだして、公卿たちを上皇の御前に召して酒宴である。もちろん音楽も供される。すべてが終わって堀川院に戻るのは、午の刻なのでお昼頃である。
その後、実資が参内すると御斎会の最終日の内論議の儀式である。儀式自体は問題なかったようだが、律師に与えた褒美が前例とは違うと実資は批判する。また藤原惟成の言葉として天皇の決定が語られる。sの内の覚忍が律師に任じられたことに関しては、花山天皇が皇太子だったときに奉仕していたからだという。最後に花山天皇が藤原頼忠の娘藤原?ィ子を呼び寄せたことが書かれる。
十五日は、朝早く内裏を退出しているが、夕方にはまた内裏に戻る。これは庚申の日の儀式に参加するためである。この儀式は翌十六日の踏歌の節会のために一晩中行われることはなかった。その間に擲采の興というサイコロを投げる遊びが行われているが、これが庚申の儀式に関わるのかどうかは不明である。
重要なのは、本来行われるはずだった兵部省の手結が、公卿が一人も、呼び出しを受けたにもかかわらず出席せず、弓を射るべき人も来なかったことで中止になったことである。これはとんでもない話で、実資も「公事の陵遅は万事此くの如し」と嘆息している。
この日は夕方から雨が降り始めて一晩中降り続いたようである。また花山天皇側近の藤原義懐が、馬を献上している。花山天皇は馬好きだから。
十六日は踏歌の節会である。本来は男踏歌と女踏歌の二つが行われていたが、男踏歌はすでに廃絶しているので、この日も女踏歌である。儀式自体は問題なく行われている。担当の内弁が藤原為光というあたりが少々不安ではあるけれども。この日の儀式には皇太后の昌子内親王と中宮の藤原遵子の二人は、舞妓を献上していないが、これは内裏内の殿舎に住んでいないからのようである。この中宮がよそに住んでいるときに、舞妓を献上するべきかどうかについては、中宮の父藤原頼忠から問い合わせがあり、実資がそれについて前例を調べて報告している。
また左近衛府で皇太子の護衛である帯刀が弓を射る手結が行われている。
十七日は実資はどこにも出資せず、自宅におそらくは勧学院で勉強している藤原氏の子弟を二、三人呼んで漢詩を作らせている。学生ではない菅原資忠もやってきて漢詩を作っているのは、実資が呼んできてもらったのかどうかはわからない。
十八日は、左近衛府と右近衛府の弓の勝負である賭弓が行われている。それなのに大将は二人ともお休みを取っている。右大将の藤原朝光は穢れのため、右大将の藤原済時は病気のための欠席である。出てくるようにという使者が出されたが、それでも出てこなかった。賭弓には近衛府だけでなく左右の兵衛府も参加する。
実資の意見でというか、当然というか、大将の代わりに次将、つまり中将に代役をさせることになる。賭弓が始まる前の部分の手続きが詳しく書かれているが、四つの府の奏上を、二つずつに分けるべきところを、まとめて一本の文杖に挿したのが間違っているぐらいで他は問題なかったようである。
雪が降り始めたあと夕方から賭弓が始まり、近衛府の結果は七回勝負が行われて二勝二敗三分けの引き分け、細かく見ると左側が一本分勝ったということなのかな。その後の兵衛府の賭弓は一回目が終わったところで天皇の仰せで終了になったようである。「的の論」が行われたのは近衛府の賭弓だろうか。検分役が派遣されている。その役を辞退して許された人と許されなかった人がいるようだが、すべては担当の公卿である上卿の決定である。
2017年11月24日24時。
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