しかし、日本語が日本人並みに堪能な、あるチェコ人によれば、正確なアクセントで話すのは日本語でも重要なのだという。そんなことをのたまう我が畏友は、日本に留学したときの体験にもとづいて次のような話をしてくれた。
雑音のない静かなところで、面と向かって、日本語で話す場合には、自分のアクセントの変な日本語でも何の問題もなかった。だけど、何人かで一度に話しているようなとき、電車の中や混雑したお店でざわついた雰囲気の中で話しているようなときには、自分の日本語ではちゃんと理解してもらえないことが多かった。そして最悪だったのが、大学の寮や、体育館でシャワーを浴びているときに、隣で浴びている友人と仕切り越しに話すときで、シャワーの音と反響とで、こちらの話を全く理解してもらえなかった。
この体験をもとに、我が畏友は理解されなかったのは、自分の日本語のアクセントがおかしかったからだと結論付けた。つまりアクセントが正しければ、音がはっきり聞き取れなくても、それぞれの言葉のアクセントの形から、正しい音を類推できるはずなので、全く理解されないということにはならなかったはずだと言うのである。その結果、語彙や文法などの勉強に加えて、発音、特にアクセントの勉強に邁進することになるのだが、我がチェコ語の勉強振り、いや勉強しなさぶりを思い返すにつけ、つめの垢をせんじて飲むべきかと思ってしまうは確かである。
ここで、我が畏友の努力を賞賛してそれでおしまいにすることは可能である。賞賛すべき頭の下がるような努力であることは間違いないし、はっきり聞き取れない音があった場合にアクセントが理解の助けになるのも確かなのだが、ちょっと現実に目を向けてみよう。日本人同士で話しているときであっても、電車や飲み屋の喧騒の中では話が聞き取れないことも多くないか。シャワーを浴びながら仕切り越しに話した場合にどうだったかは記憶のかなたで思い出せないけれども、ちゃんと理解できると言うことはないはずだ。
最近、チェコでチェコ語の字幕付きで日本の映画を見ることがあるのだが、出演している人の中には、発音やアクセント、括舌のせいで何を言っているのか聞き取れない人もたまにいる。場面によっては効果音のせいで聞き取れないことも多い。
そんなことを考えると、我が畏友ながらそこまでする必要はあったのかねと言いたくなってしまう。確かにアクセントの勉強に力を入れた後、あいつの日本語は聞き取りやすくなった。しかし、もともと発音自体は綺麗だったから、いっちゃあ悪いけど誤差の範囲であった。そういう評価になったのは、NHKのアクセント辞典を持ち歩き、ことあるごとに、このアクセントは? と質問されて、アクセント崩壊型方言で育った人間に答えられなかった恨みが含まれていないとは言わないけれども、アクセントの勉強を終えたこいつの発音は、ちょっと悪い意味で日本人的になっていて、前より聞きにくいぞと思わされたこともあるのである。そこまで日本人的な発音を目指さなくてもいいというか、目指すなら個々の発音をサボらないNHKのアナウンサーの日本語だと思う。普通の日本人の発音って、自省も含めて言うと、結構端折って外国人より聞きにくかったりするからさ。
じゃあ、チェコ語のアクセントはというと、アクセントが変わると、勉強してチェコ語を身に付けた外国人には非常に辛いことになる。オストラバ近辺の方言のアクセントが、ポーランド語の影響で、語頭の音節ではなく、後ろから二番目の音節に来るようになっていて、長母音が短母音で発音されることが多いせいもあって、むかしあの辺りで通訳の仕事をしたときは、慣れるまでは泣きそうだった。
自分のチェコ語のアクセントは、耳がよくないし意図的に発音できているわけでもないので、評価のしようはないのだけど、師匠からは悪くないという評価を受けたから、正しいかどうかはともかく、理解してもらえるという意味では問題ないのだろう。ただ、うちのにしばしば指摘されるのが、前置詞がついたときのアクセントの移動ができていないことである。名詞に前置詞が付いた場合、名詞節全体の第一音節にアクセントがくることになるので、場合によっては前置詞にアクセントを載せなければならない。それができずにアクセントを名詞の語頭に残してしまうらしい。
らしいというのは自分ではよくわからないからなのだけど、そこまで外国人に求めないでほしいと書きかけて気づいてしまった。我が畏友はそこまでできるようになることを求めて、チェコ語のアクセントよりもはるかに厄介な日本語のアクセントの道へと踏み込んでいったのだ。あいつのこういう姿勢こそが、単に友人とは書けずに、畏友と書いてしまう所以なのであった。
2018年4月17日23時。
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