一日は、二月末日に候宿した内裏から退出。毎月恒例の一日の賀茂社への奉幣は、穢れの疑いがあるため中止している。
二日はまず六日の休暇を請う。一日の穢れの疑いが原因かとも考えられるが、その後蓮台寺に出向いていることを考えると違うか。蓮台寺へは兄の高遠とともに向かうのだが、他にも多くの官人が同行しており、?「然が宋から持ち帰った仏像などの文物が貴族たちの関心を集めている様子がよくわかる。帰った時間に関しては「衡黒」という見かけない表現が使われている。暗くなってからということであろうか。この日はもう一人の兄懐平が実資宅に宿泊している。
三日は記事がなく、四日は暇を見つけて二条第に向かった後、夕方参内して候宿。二日に申請した六日分の休暇は許可されなかったのだろうか。
五日は内裏から円融上皇の元に向かってしばらくして退出。伝聞で受領の位階を上げる加階が行われたことが記される。ただし誰が加階されたかは書かれていない。
六日は、まず二日分の休暇を請う。呼び出されて太政大臣頼忠のもとへ向かう。頼忠が円融上皇に法華八講のための砂金百両を献上するので、その取次ぎをしたのである。円融上皇の言葉を頼忠に伝えた後深夜になって退出。
最後に伝聞で、四日の夜に天変が起こったため朝廷が重く慎まなければいけないという卦が出たため、八日に予定されていた一条天皇の円融寺への行幸が中止になったことが記される。
七日は記事なし。
八日は、参内して候宿。平惟仲が昇殿を許されたことを聞いている。この日は、天皇が左右の馬寮の馬、それぞれ十匹を見る儀式が行なわれている。実資は御剣を持つ役を務めているがこれは恐らく近衛府の官人としての職務である。儀式に際して、出居の座が設けられたことを批判している。これは公卿が儀式に参加したときだけ設けるものだというから、この日は公卿の出仕はなかったものか。その様子を見ていた蔵人も訂正しなかったことを、「知らざるか」と批判している。
この日、右近衛府の官人たちが、紫宸殿の前の庭に橘の木を植えている。これは紫宸殿の中央にあった南庭に下りる階段の西側に植えられたもので、儀式に際してこの橘の木を目印に右近衛府の官人が並び立ったことから右近の橘と称される。
九日は、早朝内裏を退出。
十日は、刻限に参内してすぐに退出。
十一日は、刻限に参内して候宿。摂政が内裏の直蘆で僧官を任命し、下級官司の所の別当を定めている。ただ僧に関しては辞退者が三人出たため、代わりに別の三人を僧都に任命している。また律師を二人任じ、宋に渡って帰国した?「然に法橋(律師に相当)の地位を与えている。
十二日は、一条天皇の物忌に候じている。
十三日は、早朝内裏を退出。
十四日は、二日分の休暇を申請。円融上皇のもとに向かう。この日は、左大臣源雅信、右近衛大将藤原済時も参入して臨時で行なうことになった御読経に参加する僧十五人について決めている。夜に入って退出。
左大臣から聞いた話として、八日に上賀茂神社の中鳥居内の堀のところから三種の銭が発見されたことが記される。神功開宝、和同開珎、万年通宝の三種らしい。銭というからには銅銭であろう。
十五日は摂政兼家宅での御読経の開始に参入。公卿たちがたくさん来ていたこともあって、実資は退出。二条第に向かって邸内のあちこちを見回っている。そのあと聖天を祭る儀式を行なう。これは富貴を求めてのものである。
2018年7月14日23時21分。
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