十六日は、再び休暇を願う文書を提出。今回は三日分。
伝聞の形で摂政兼家の賀茂社参詣のことが記される。公卿と三位の非参議が合わせて十人同行したようだ。その中で左大将の藤原朝光だけが兼家の車の後ろに乗って、他は騎馬で同行している。注目すべき名前としては「高三位」こと高階成忠であろうか。兼家の長男道隆の正室貴子の父で高階氏としては初めて公卿と呼ばれる地位に昇った人物である。ただ実資の書きぶりを見ていると、この頃は参議以上の役職についた上での公卿と、三位に昇っただけの非参議の公卿とは区別されているようにも見える。
十七日は、四月の二番目の酉の日で賀茂社の例祭が行われる。実資は休暇中のため伝聞の形になるが、祭りに際して、右大臣為光と摂政兼家の息子たち、道綱と道長の間にいさかいが起こったことが記される。具体的には為光のところの雑色が、為光が見物している前を通った道綱と道長の車めがけて石を投げつけたようである。二人は当然父の兼家に訴え、右大臣為光は事態の収拾のために、家司を兼家のところに遣わしたり、日が落ちて暗くなってから自ら出向いたりしている。兼家は為光との面会を拒否したようである。
十八日は、毎月清水寺に参拝するのだが、今月は穢れの疑いがあるので中止している。
昨日の賀茂祭における出来事に関して、右大臣為光の家司や雑色などに「召名を下さる」というのだが、よくわからない。褒美なのか処罰なのか。
十九日は記事無し。
廿日は、久しぶりに参内し、しばらくしてから円融上皇のことろに向かい、暗くなってから退出。この日右大臣為光が賀茂社に参詣したらしいが、賀茂祭の際の出来事と関係するのだろうか。末尾に「雪雨」とあるのは、四月が旧暦では夏であることを考えると意外である。
廿一日は、新中納言の藤原道兼のところからの連絡で、道兼の元に出向いている。実際は道兼からの用件ではなく、父の摂政兼家からの命令を伝えられている。その詳細は書くことができないといのうだが、その後太政大臣頼忠のところに向かっていることから、頼忠に関する、もしくは中宮遵子に関することであろうか。
夜に入って、内裏のつまり天皇の物忌に参加するために参内している。
廿二日は前日から引き続いて内裏の物忌に候じている。
廿三日は物忌への参籠を終えて早朝内裏を退出。円融上皇の許に出向いて、巳の時だからまだ午前中に退出。暴風が吹き激しい雨が降ったがしばらくしてやんだという。
廿四日は、再び二日の休暇願を提出。円融上皇の許に出向いてしばらくして退出。
廿五日は記事無し。休暇を取って何をしていたのか気になるところである。
廿六日は、参内してから円融上皇の許へ。摂政兼家が菓子と瑠璃の壺に入った造花を献上している。唐仏の供養のためのようである。その後実資は夜になって退出。最後に伝聞で皇太后宮藤原詮子が「食物を殿上に出さる」というのだが、殿上間に詰めていた官人たちに食事の提供をしたということだろうか。
廿七日は、中宮藤原遵子の許に出向いてしばらくして退出。
廿八日は、朝早くから円融上皇の許へ。左右近衛大将藤原朝光と藤原済時も参入し、上皇は御堂へ出御している。上皇はすでに御願寺の円融寺を居所にしていると考えていいのかな。この日は御堂の荘厳が行われているが、詳しくは別紙に記すとして、ここには書かれていない。儀式には村上天皇の皇女で出家した資子内親王も出席し、礼堂に宿泊のための部屋が設けられたらしいことが伝聞で記される。
また夜中も近い戌の時に木工寮の庁舎が焼亡し、兄高遠の邸宅の近くであることから実資も慌ててそちらに向かっている。亥の刻には堀河の北、大内裏陽明門の南にある地区が、牢獄と藤原為昭の邸宅を残して全焼。大内裏当面の待賢門の南の邸宅にも飛び火している。実資は、おそらく火事のために一度参内してすぐに退出している。
廿九日は早朝から円融上皇の許へ。上皇の生母である村上天皇の皇后藤原安子のための法要、頭注によれば法華八講が始まっている。その法会の様子は、どんな役割の僧が何人いたかなどは記されるが、作法や式次第については細かく別紙に書いたということでこの日の記事では読むことができない。深夜になって夕方の部が終わった後散会。実資も退出している。
この日は、左大臣源雅信の子扶義を円融院の別当とする宣旨が下されている。
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