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2022年01月27日

諸戸博士のモラビア・シレジア紀行 初日




 それはともかく、諸戸博士は、「維納高等地産学校」と書いているが、『 諸戸北郎博士 論文・写真集 』によれば、博士の留学先はウィーン農科大学ということになる。大学の学生を対象にした修学旅行は、修学旅行が修学の実質を失って、単なる観光旅行と化している現代の言葉を使えば、研修旅行とか実習旅行とでもいうべきもので、各地で林業関係の施設を訪問して見学している。
 旅行の開始は、6月5日なので、今回は初日の分を細切れにして紹介する。ウィーンを出て、ブジェツラフに立ち寄り、オロモウツに向かうのが初日の行程である。



 明治四十四年六月五日より同月十一日に至る八日間、維納高等地産学校に於てはグツテンベルグ教授(Hofat Guttenberg)、及びマルヘツト教授(Prof Marchet)指導の下に、メーレン州、及びシユレジエン州に林学科第四学年級生の修学旅行の催しありを以て、余は好機逸すべからずと、此の一行に加りて旅行せり。今、此の旅行の日記及び所感を述ぶれば、次の如し。


教授 本文中には同じ教授でも、「Hofat」と「Prof」と二つのドイツ語の称号が使われている。「Prof」が今の一般の教授を意味する言葉「profesor」につながると考えると、「Hofat」は特別な教授であろうか。



 明治四十四年六月五日、日曜日、晴天。午前七時三十分維納市北停車場に集合。一行はグツテンベルグ(Guttenberg)教授、実習主任「ドクトル」ハウスカ(Dr Hauska)氏、助手チツシエンドルフ(Tischendorf)氏、助手ヴイロミツツア(Willomitza)氏、講師「ドクトル」ヤンカー(Janka)、マリヤブルン林業試験所技師「ドクトル」ヂエーデルバウエル(Dr Zederbauer)氏、及び学生四十四名より。


「ドクトル」ハウスカ 『諸戸北郎博士 論文・写真集』によれば、後にウィーン農科大学砂防担当教授(在任1920-22)に就任している。また、このときから約20年後に諸戸博士がウィーンを再訪した際に再会を果たしている。



 午前七時五十分の急行列車に乗込み、維納市を出発し、午前九時十三分メーレン州のルンデンブルグ(Lundenburg)駅に着す。此の地は、維納市を距るる凡そ八十里、海面高百五十九米突の処に在り、此の間は平地にして、農地多く、赤松、黒松の平地林あるのみ。


ルンデンブルグ ブジェツラフ(B?eclav)のドイツ語名。ウィーンから鉄道でチェコに入る場合には、ほぼ必ずこの駅を通過する。因みにウィーン—ブジェツラフ間の鉄道が開業したのは、1839年のこと。ウィーンから、ブジェツラフ、プシェロフを経て、フラニツェ、オストラバ、ボフミーンを通ってポーランドに抜ける路線が幹線として計画され、さらにブルノやオロモウツに向かう支線も敷設された。
米突 メートル。念のため。



 ルンデンブルグ駅に着するや、リツヒテンスタイン侯爵(Fürst Liechtenstein)家所有山林の主任技師ヴイール(Wiehl)氏、技師ビツトマン(Bittman)氏、書記クービーチエ(Kubice)氏の出迎を受く。駅前の料理店に入りて、朝餐を喫し、小憩の後、侯爵家の苗圃を視察す。


リツヒテンスタイン リヒテンシュタイン。ブジェツラフ領をリヒテンシュタイン家が獲得したのは17世紀の三十年戦争のどさくさの際である。それ以前は、ジェロティーン家の所領であった。



 苗圃には米国産のやまなし、及び黒くるみ、及びならの苗木多し。やまならしは成長迅速にして材質軽軟なるを以て、張木細工の下地板として、近来需要多しと云う。又ビツトマン氏の害虫及害菌に競て説明あり。
 次に、にれの旧株に生ずる食料菌を観察す。此の菌は我国の椎茸に類す。之れに彼の故マイヤー氏の日本椎茸養成説を聞き、養成するものなれば香気なく、到底我国の椎茸に及ばず。


故マイヤー氏 明治期のお雇い外国人の一人、ハインリヒ・マイアー(Heinrich Mayr)のことか。ドイツ(バイエルン)出身の林学者。日本政府に招聘され、明治21年から24年にかけて東京帝国大学農学部の前身東京農林学校と帝国大学農科大学で造林学を講じた。亡くなったのは、明治44年1月。



 次に木材置場、及び鋸工場に於ける森林鉄道を視察す。
 次に鋸工場を視察す。鋸工場は面積凡そ十三町歩ありて、電信、電話柱、松、及びならの鉄道枕木、車輌を製造せり。
 之れより蒸気機関室、機械室、発電室、鍛冶場、鋳物場を視察す。
 次に曲木工場に入る。此の工場には、十二馬力の蒸気機械、蒸煮鑵四個、乾燥室三個、帯鋸鉋削機械、及び曲木機械ありて、なら材のワブチを製造せり。之より植物病理研究室に入る。此の室には野獣の属、虫害及菌害の標本非常に多く集ありて、ビツトマン技師は被害の原因経過を詳細に説明せらる。併し害虫黴菌に智識少く、従て趣味少なき余には効能少かりしが、森林保護学上必要の参考品なるべし。
 午後二時料理店ウイムメル(Wimmel)に入り休憩し、リツヒテンスタイン侯爵家所有山林の施業按、林相図を一覧し、午餐を喫す
 此の日、マルヒ(March)州、及びタヤ(Thaya)州の洪水予備地に於て、なら、とねりこ、にれ、やまならし、しで、かへで、しなのき、はんのき等の濶葉樹の喬林作業を視察する予定なりしが、前日の降雨の為め、視察するを得ざりしは、実に残念なりし。


マルヒ州 タヤ州 どちらもオーストリアとモラビアの境界のオーストリア側にある。



 午後三時五十分発の列車に乗込み、午後六時三十分プレラウ(Prerav)町に着し下車す
 プレラウ町は維納市を距る凡そ四十六里、海抜二百十二米突の処に在り。人口一万七千を有し、オルミツツ(Olmütz)市、及びブリン(Brünn)市に到る鉄道の分岐点にして、停車場の規模の大なること、墺国中第一と称す。余は僅々数分間の内に六列車の発するを目撃せり。以て停車場の規模の大なることを知るを得べし。


プレラウ プシェロフ(P?erov)のドイツ語名。モラビアの鉄道網の要衝。ブジェツラフ—プシェロフ間の開業は1841年、支線のプシェロフ—オロモウツ間も同年の開業だが一月半ほど遅れている。
オルミツツ オロモウツ
ブリン ブルノ



 午後七時十五分発の列車に乗込み、走ること凡そ六里、同八時オルミツツ(Olmütz)駅に着し、駅の近傍に在る外国産樹種の苗圃を視察す。米国産樹種多く、又我国産のけやき、きり、ひのき、からまつあり。リツヒテンスタイン侯爵家林業主任ヴイール氏、余を呼び寄せ、我が国産の樹木の種属名、科名、造林法、及び木材の利用法等を質問せらる。余は一々質問に答えたるが、植物学、造林学、利用学の口答試験を受けしが如し。幸にして植物の学名、及び利用方面には智識ある故、及第せしが、昆虫、及び黴菌の試験は答うる能わず、落第せり。之、林学の教育が日墺両国大学に於て異るを明示するものにして、我国に於ては森林植物、及び造林学授業時間多きが、墺国の地産学校に於ては、森林植物学よりも森林保護学の時間多く、且つ森林保護学の試験は非常に厳にして、学生は全力を昆虫学に尽すを以てなり。故に旅行中に於ても、学生は樹木よりも昆虫を捕うることを務めり。之れ我国の修学旅行に学生は樹葉の採集に務め、昆虫には全く気を置かざると実に好対照なり。維納高等地産学校唯一の欠点は、此の保護学の学生の力を費やさざること過多なるにあり。
 次に各種造林器具の陳列説明あり。之より馬車にて走ること凡そ十分、旅館ラウエル(Lauer)に投ず。此の夜リツヒテンスタイン侯爵家林務技師、及び同細君集り、晩餐を共にす。学生の唱歌舞踏あり。余は午前一時半就寝せしが、学生は之より珈琲店に行き、午前三時帰りたりと言う。


旅館ラウエル ホルニー広場にあったホテル。現在はモラフスカー・レスタウラツェが入っている建物は、このホテルの開業のために、それまであった二軒の建物を壊して建てられたものだという。



 オルミツツ市は、マルヒ河の右岸、海抜二百二十一米突の処に在り、メーレン州第二の都会にして、人口二万千九百を有す。此の市に在る重なるものは、市庁、図書館、博物館、記念碑、寺院、市公園にして、第十二世紀時代の伽藍あり。


マルヒ河 モラバ(Morava)川。オロモウツの市街は右岸にあるが駅は左岸にある。
市庁 ホルニー広場にあったホテル・ラウエルに宿泊したということは、市庁舎も天文時計も見たということであろう。そうすると「記念碑」もただの記念碑ではなく、聖三位一体の碑ということになる。
第十二世紀時代の伽藍 聖バーツラフ大聖堂のことであろう。


 以上が諸戸博士が残した初日の記録である。諸戸博士がオロモウツに来た最初の日本人だと断言するのはためらわれるが、オロモウツそのものや、市庁舎、聖三位一体の碑などに関する日本語で言及された最古の記録だぐらいのことは言いたくなる。
2022年1月26日



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