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< 疲労困憊でのゴール > ゴール後の準備のために、先ず那覇行きのバスの時刻表を調べた。だが、いくら沖縄が夜型社会とは言え、最終バスはもうとっくに出た後。。すると先ほど見かけた路線の違うバスは、きっと運行を終えた回送用だったのだろう。次にゴールに最も近そうなコンビニを探す。店内に入ってトイレを済ませ、次にタオルを水で浸す。これで準備はOKだ。 与那原町与那原の三叉路が前方に見え出した。そこが今回のゴール地点。交差点を渡って素早く時計を見て23時01分であることを確認。次にタクシーを停めて、運転手さんに那覇の国際通りまでどれくらいの料金になるか確かめる。最も気になっていた答えは「2千円以下」。直ちに乗ることを告げ、リュックからトレパンを出してタクシーの座席に座る。 2日間に亘る戦いはようやく終わった。第2日目の距離は、ホテル内の1km、迷子になった分の1km、そしてうるま市のバイパス分の1kmを加えて74km。それを14時間26分かかって到達した計算。初日と合わせた距離の総計は150km。長い長い旅だった。 運転手さんに昨年は西海岸を縦断し、今回は東海岸を辺戸岬から与那原まで走ったことを告げると信じられない口ぶり。走っていたランナーが急に走るのを止めて、車を停めたことにも驚いた由。それはそうだと思う。 タオルで体中の汗を拭き、半袖Tシャツに着替える。さすがにパンツを脱ぐ訳にも行かず、せめて汗が座席を汚さないようトレパンを敷いたのだ。運転手さんに走りながらヤンバルの話をすると、やはり最近ではヤンバルまで行く観光客が多いそうだ。そして普天間基地のヤンバルへの移転反対の現場を見たことを話すと、内地人の私にも配慮したのか、沖縄にも色んな立場の人がいると話した。 ある人は基地内にある土地の借料として年間2千万円を政府から支給されるため、仕事もせずに高級車を乗り回しているとか。沖縄の極端な現状に改めて驚く。夜の10時にも関わらず、タクシーが何故淋しい道で客待ちしているのか、先刻感じた疑問をぶつけると、村人は夜でも用件で移動することが多く、会社からの無線を待っているのだとか。まさに夜型社会の沖縄を象徴する話だった。 国際通りへは、別ルートで行った方が近いとは思ったが、口にはしなかった。運転手さんが選んだ道は信号が少なく、きっとホテルへ早く着くと判断したのだろう。ある道を通った時、思わず「懐かしい」とつぶやくと、「沖縄詳しいんですね」。「この近くに3年間住んでたんですよ」。沖縄のタクシー料金が本土よりかなり安いことは知っていたが、そのことが今は本当に有難い。 23時40分。ホテル前に到着。お釣りはもらわず運転手さんに寄付し、御礼を言って降車した。突然夜中に現れた客の服装を見て驚くフロントの係員に、到着が遅れたことを先ず詫びる。チェックインの手続きをしながら、今回辺戸岬から東海岸を150km縦断したことを話すと、信じられないような表情。多分そんな話はこれまで聞いたことがないのだろう。 部屋へ入って浴槽にお湯を張り、宅急便で届いたバッグから着替えを出す。お湯が一杯になるまでの間にビールのロング缶を買いに行く。この夜もシャンプーも石鹸も使わずに、タオルで体をゴシゴシ洗うだけ。浴後、地図に最少の情報だけ記入し、缶ビールを開けて飲む。緊張が急速に解けたせいか、どっと疲労が出始めた。折角買ったビールだが、頑張っても半分しか飲めない。もう全てが限界に達していたのだろう。0時30分、ベッドに轟沈。<続く>
2009.12.09
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< ついにゴールの町へ > 最初に昨日書いた文章の訂正をしておきたい。44km地点を18時43分にスタートした際、残りの距離を20kmと書いたが、30kmの間違いだった。だからこそ私はスローペースを焦っていた。その理由の第1は、泊まる予定のホテルへ、到着が遅くなるとの連絡をしていないこと。何せ私は携帯電話と言う武器を持っていないのだ。 第2は、もし与那原へのゴールが夜中の0時を過ぎた時に、そこからホテルのある那覇まで、約9km分のタクシー代がどれくらい掛かるかが心配だったからだ。この朝、宅急便を送ったリゾートホテルでは、特別料金と称するべらぼうな金額を支払い、残額が極めて乏しくなっていた。 侘しい話だが、前日に走り始めてから自販機では安い缶入りの飲料を買い、それをペットボトルに移し替えると言う作業を繰り返していた。そうすると1本について40円から50円が節約出来る。10本だと450円、20本で900円。もしタクシーが深夜料金で5000円も支払えば、翌日お土産を買うのは極めて困難。出来ればお土産代と昼食代くらいは何とか残して置きたいのが本音だった。 コザ高校前辺りから、道は下り坂になった。もう地図を見る余裕はない。道路標識を見て、与那原までの距離が残り何kmかだけに注意していた。かなり坂道が緩くなったその時、左手に見覚えのある風景が見えた。それは沖縄総合運動公園の裏門だった。「おきなわマラソン」に参加する際、1度だけこの裏門から入ったことがある。まだ安心は出来ないが、これでかなり勇気づけられたのは確か。 間もなく6つ目の北中城村(きたなかぐすくそん)。20時30分。渡口(とぐち)の交差点に到達。ここが61km地点で残り13km。海岸部へ右折するとばかり思っていたのが、国道は真っ直ぐのまま。心配になってドライブスルーで順番待ちの若者に与那原方面への道を確認。やはり真っ直ぐで良いとの返事。間もなくサトウキビ畑が現れ、海岸部へ出たことが分かった。道路は海岸線に沿うよう、徐々に曲がっていたのだ。ここからゴールまでは一本道で、もう迷うことはない。 20分ほど走って7つ目の中城村(なかぐすくそん)へ。21時15分。泊集落の明るい自販機前で休憩。前回の休憩から3時間を経過し、飲み物だけで走り続けたため疲労を感じていた。ここで買ったサンピン茶(ジャスミンティー)をあっと言う間に飲み干し、直ぐにもう1本購入。最後のお握り、クリームパン、ミカンを食べ、黒飴を舐めながら21時31分にスタートする。 この辺りはサトウキビ畑が多いが、畑と道路にはかなりの段差があるため、ハブの心配はない。ヘッドランプと赤色灯を消し、懐中電灯だけで走ることにした。世界遺産の中城城(なかぐすくじょう)への分岐点を通過。この美しい城跡や重要文化財の中村家住宅へは、多分5度以上訪れたはず。それにしてもこんな淋しい誰も居ない道に、タクシーが何台も停まっているのが不思議だ。 夢中に走っていた時、前方の暗がりに立っているお爺さんを発見。もう夜の10時近いのに、夕涼みでもないだろう。それに気を取られ、何かにつまづいた。「ああビックリした!」と叫んだら、お爺さんが自分のことと勘違いをしたようだ。暗闇からランナーが飛び出したことの方が、逆に驚きだったかも知れない。 小さな坂を2つ登ると8つ目の西原町。坂の上にそそり立つ病院の懐かしい姿。ここは元の職場がある町。と言ってもここから4km行った標高150mほどの山の上なのだが。暫くして繁華街に入ると、急に照明が明るくなった。与那原まで3kmの表示。10時半を過ぎたのにバスが走っている。与那原から那覇行きのバスはまだあるのだろうか。 ほどなく9つ目の与那原町(よなばるちょう)へ。ここがゴールのある町。もう完走は間違いない。嬉しさが胸にこみ上げて来る。とうとうここまで来ることが出来た。だが最後まで油断は禁物。その時、パラパラと雨が降り出した。朝の天気予報では、午後から大雨と言っていたのに実際は晴天続きだった。最後の最後に申し訳程度の雨か。さて、そろそろ最後の準備に取り掛かるか。<続く>
2009.12.08
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< 2日目の日没 > 新しい市の名前「うるま」は、沖縄の言葉で「うるわしい土地」を意味したはず。これは「琉球」と並ぶ沖縄の異称であり、その名を冠したタバコも売っている。4つの市や町が合併する際、将来への希望を託してこの由緒ある名を選んだのだろう。左手前方に火力発電所の高い煙突が見えて来た。 てっきりそちらへ進むのだとばかり思っていたのだが、旧石川市役所付近から国道329号線は右側へ大きくカーブ。広い道が徐々に高度を上げ、やがて大きな橋となった。だが見下ろしても川が流れている様子はなく、緑の畑が広がるばかり。前方の小高い山にはぽっかりとトンネルが開いている。 橋の歩道に珍しいデザインのタイル。何と牛オラセー(闘牛)の勝負の型が6パターンほど埋め込まれ、「腹どり」など技の名称も記されている。この周辺には闘牛場が幾つかあり、私も見学したことがあった。しかし、こんな道は通った記憶がない。トンネル内は片側2車線の広い道で、歩道もとても走り易かった。 トンネルを抜けると下り用のトンネルも見えた。帰宅後10日以上経ってから、ここが新しく出来たバイパスだったことがようやく判明した。事前にジョギングシュミレーターで距離を調べた道とは別で、ここでも1km以上長く走った計算だ。 前方から3人のランナー。もう夕暮れで気温が下がったため、12月6日開催のNAHAマラソンに向けて練習しているのだろう。空には美しい月も。道路標識がより確認し易い道路の左側へ移動。18時20分、旧具志川市栄野比(えのび)のコンビニでお握り、カップヌードル、クリームパンを食べ、18時43分ヘッドランプ、懐中電灯、赤色灯を点灯して出発。 ここが44km辺り。ゴールまでまだ30km残っており、このままのペースでは夜中の0時を過ぎる可能性があると判断。スピードを上げることにした。間もなく5つ目の沖縄市に入る。この辺は「おきなわマラソン」で2度走っているため、馴染みのある地名が多いのが嬉しい。だが、それに反して苦しいのは、アップダウンがきついためだ。ちょうど沖縄本島中部の一番高い「背骨」の上を走るため、歩道が地形の影響をもろに受けて凸凹でとても走り難い。 知花(ちばな)を過ぎ、沖縄市の繁華街であるコザ十字路も通過。ここでようやく55kmほど。だがそこから海岸まで真っ直ぐ下るとばかり思っていたのに、再び登り坂となる。そして私にとっては未知の道だった。沖縄へ旅立つ前に届いたMさんからのメールには、「国道329号線は沖縄中部で最も厳しいコースで、何故もっと海よりの道を選ばなかったのか」とあった。 だが、私は一本道の方が分かり易いと判断し、このコースを選んだ。やはりMさんの進言に従った方が賢明だったか。いや、疲労困憊の状態で道に迷ったらもっと悲惨。今はただ我慢するしかない。それに2日目の夜はハブの危険性が皆無。ひたすらゴールの与那原(よなばる)を目指そう。 きっとヘッドランプと赤色灯を点け、懐中電灯を手にしたランナーが必死の形相で走るのを、街の人達は奇異に感じたことだろう。さらに、走り去るその背中に「東海岸縦断中」とあるのを見て、もっと驚いたはずだ。<続く>
2009.12.07
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< キャンプハンセンと黒人兵 > どんどん坂を下って行くと名護市を抜けて、ようやく宜野座村に出た。潟原(かたばる)の海岸が濁っている。前日の大雨で赤土が流れ出したようだ。昭和47年(1972年)に沖縄が日本へ返還されて以降、急速な開発のために海が赤土で汚染され、珊瑚の死滅が大問題になった。本土の工法をそのまま沖縄でも使用したためだ。その後、改善されたようだが私が沖縄で勤務した20年前でも、まだその問題は解決してなかった。あの当時に比べればここの汚染はごく小規模だ。 この村は徳島勤務時代の上司の故郷。彼から沖縄の話を何度か聞いたが、まさかその後私が沖縄に勤務するとは不思議な縁だ。そんなことを思い出しながら走っているうち、惣慶(そうけい)付近の道路標識で迷った。真っ直ぐ進むと「うるま市」の表示。待てよ。私はうるま市へは行かないはず。そう考えて右の方へ曲がった。広い道路だからこれで間違いないだろう。少し様子がおかしいとは感じたが引き返すのも面倒になり、そのまま走った。 芝生を張った大きな野球場が見えた。「ここでプロ野球のキャンプをしてる?」と高校生に尋ねる。彼は丁寧に野球帽を脱いで「阪神のキャンプ地です」と教えてくれた。ほほう、やっぱりねえ。私が沖縄に居た時代は、日ハム、中日、広島、横浜、阪急(当時)などが沖縄でキャンプをしており、わざわざ見学に行ったこともある。球場に沿ってどんどん行くと、やがて高速道路への道にぶつかった。 やはり私の判断ミス。あのまま真っ直ぐ進むべきだったようだ。一昨日高速バスから見た停留所から曲がり、再び国道329号線に復帰。1km以上は遠回りしたようだ。漢那(かんな)ビーチに出ると金武湾の彼方に平安座(へんざ)島、宮城島、伊計(いけい)島の3つの島と石油備蓄基地が見えた。それらの島は「海中道路」で勝連半島と結ばれているのだが、初めて沖縄の大きな地図を見た時は驚いた。何しろ海の上に道路があるのだから。 13時35分、漢那の地産センターに寄り、ソーキソバを注文。冷たくて甘い紅茶が美味しい。タオルハンカチを濡らして顔や足などを拭く。足には白い塩がビッシリと浮き出していた。食後でポシェットから塩を出して舐める。薄味の沖縄ソバでは塩分の補給にならないためだ。14時ちょうどにスタート。 城原集落を過ぎてようやく3つ目の金武町に入る。ここからはずうっと家並みが続き、セミの鳴き声は全く聞かれなくなった。約30km地点の役場前を14時33分に通過。まだ今日走る予定の半分も来てない。キャンプハンセン周辺では、若い女性をナンパしている黒人兵がいる一方で、葉巻を咥えながら、道路に捨てたタバコの吸殻を掃除している黒人兵もいた。ボランティア活動だろうか。 その時道路の向こう側に、リュックを背負いながら走るランナーの姿。多分白人兵だと思う。今日は日曜。きっと趣味のランニングを楽しんでいるのだろう。だが、それにしてはスピードが速く、あっと言う間に姿が見えなくなった。15時15分。金武インター周辺の浜辺で休憩し、ピーナッツ煎餅、塩トマトの甘納豆、一口羊羹を食べ、味噌を舐めた。10分間休憩し再スタート。 約40km地点の屋嘉(やか)集落付近で、先ほどの白人ランナーが引き返して来た。私がまだ走り続けているのを見て、右手を振っている。私もそれに応えて手を上げた。16時25分。コンビニでお握り、さつま揚げ、缶ビールを買い、外で飲食していると、今度は白人の夫妻が右手の親指を上に向け、何事か私に話した。 きっと「頑張ってるね」とでも言いたかったのだろう。雰囲気から見て軍属ではなく、きっと教養のある一般人だろう。ビールと日焼けで赤い顔の私も「サンキュー」と手を振る。16時37分スタート。間もなく4つ目の「うるま市」に入る。ここは石川市、具志川市、与那城町、勝連町が合併して出来た新しい市だ。<続く>
2009.12.06
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< 2人のおばーとキャンプシュワブ > 少し走っただけなのに、もう汗をかき始めた。雲の陰から太陽が顔をのぞかせ、気温も上がったのだろう。昨日の天候とは大違い。だが、また直ぐに曇って、雨がパラつく。やはりヤンバルでは天気が安定しないようだ。三原集落を過ぎると海岸に出た。逆光になって川なのか海なのか良く分からない不思議な渚。後で地図を確認したら汀良(てぃーら)川と言う名の河口だった。 しばらく行くと小さな集落に出た。道端で2人の女性が何かを売っている。近づいてみると、ヒラヤチ(沖縄風のお好み焼き)やムーチー(餅)などだ。「ここで売れるの?」と尋ねると、休日は特に売れるとの返事。しかもそれらの品はどこかで仕入れたのではなく、全て手作りとのこと。 話してくれたのは少し若いおばー(お婆さん)。年取ったおばーはうちなーぐち(琉球方言)しか話せないのか、終始無言のまま。正式にはウニムーチー(鬼餅)と言う月桃の葉で包んだ餅を懐かしく眺めていると若い方のおばーが飴を2個くれた。私が宮城県から来て、辺戸岬から東海岸を走ってると話したら、大変だねえと同情したようだ。「ありがとうね~」と手を振りながら、再びゆっくり走り出す。 目の前に大浦湾が広がる。ここには天然記念物のジュゴンが棲んでいる。人魚のモデルとされる大人しい海獣で、大浦湾は世界でも数少ない生息地なのだそうだ。だが、辺野古(へのこ)岬のキャンプシュワブ(米軍海兵隊の基地)沖を埋め立ててV字型の2本の滑走路を作り、普天間からヘリコプター部隊などを移設することになれば、ジュゴンが生きて行くのは困難。湾岸の至る所に、「美しい大浦湾を守ろう!」「普天間基地移転反対!」の看板があった。 その湾を跨いで、新しい橋が建築中だった。これも北部振興策の一つだろう。橋の向こうには新たなトンネルも掘られているようだ。大浦集落の浜辺には、「エリ」を作るなとの警告文。「エリ」とは河口部に作る石組みで、海から遡上する魚を誘導する装置。上流に向かうほど徐々に狭くなり、引き潮で逃げられなくなった魚を捕獲する仕掛けだ。裏の林ではセミの大合唱。その賑やかな声に、やはりここは南国であることを痛感する。 湾を一回りした所が二見集落。民謡「二見情話」の舞台で、沖縄勤務当時は良くカラオケで歌ったものだ。「二見の美しい娘は心も清らかで、会いに行きたいのだが途中の坂がとてもきついために、なかなか行くことが出来ない」。難しい沖縄の方言だが、確かそんな意味だったと思う。その歌に謡われた坂が間もなく現れた。これが本当にきつい坂だった。 綴れ織りの坂をウンウン唸りながら登る。坂道は初日だけで済んだとばかり思っていたのに、出鼻を挫かれた感じ。大浦湾を跨ぐ新しい橋とトンネルを何故作ろうとしたかが、ようやく分かった。海抜0mから一気に200mほど登る。坂道を登り切った所が「二見入口」で、初日に泊まった名護市西海岸の許田(きょだ)を基点とする国道329号線との合流地点になっていた。 許田からの道もかなりの登り坂なのに驚く。昔の旅人にとっては大変な難所だったろう。左手の丘にある「観光闘牛場」の看板が珍しい。ここからが緩やかな下り坂。どれだけ走った頃か、突然道路の左側に鉄条網に囲まれた基地が見え出した。広い広い基地が遥か彼方の海岸部まで続いている。「キャンプシュワブ第2ゲート」は堅く閉ざされていた。きっと移転反対運動への備えだと思う。 10時50分、同キャンプ第1ゲート前到着。ホテルからスタートしてから既に2時間半近く経過しているのに、ここはまだ12km地点。疲れもあるだろうが、坂道が思いの外厳しかった。この調子だと、今日のゴールまでにはかなりの時間が掛かりそうな予感。道端に腰を下ろし、エネルギー補給のために「蒸しパン」を食べた。 ヨロヨロと立ち上がり、再び走り出す。気温は24度ほどまで上がって来た感じ。だがランパン、ランシャツの着用と、微風のためにさほど暑さは感じない。暫く下ると道路の両側に大きな建物。そして建物同士を連絡する巨大な通路も。これは一体何物?と近づいて見ると、「国立名護高専」の看板。なるほど、これが北部振興策の一環として建てられた高専だったか。巨大な基地の直ぐ傍に教育施設があるのが、いかにも沖縄らしい。 11時。久志のコンビニでお握りを買い、店の外で座って食べた。そこへ1人のバイク青年が近づいて来た。昨日の朝に辺戸岬から走って来たことを話すと、何時間要したかと尋ねる。昨日は14時間20分以上掛かったと話すと、さほど驚く様子でもない。多分宮古島で行われる「アイアンマン」にでも出ているトライアスリートなのだろう。昨日あの風雨の中でペダルを漕いでいたのは1人だけだったが、この日は彼も含めて5人の自転車族を見掛けた。<続く>
2009.12.05
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< リゾートホテルの一夜 その2 > 眠っていても、きっと緊張が良く解けなかったのだろう。夜半2時半には目が覚め、それ以降全く眠れなくなった。それでも布団の中で2時間過ごす。少しでも体を休めるためだ。4時半に起床し、走る準備に取り掛かる。 先ず昨夜の洗濯物を確認。だが、ビショビショで全く乾いていない。前日はハーフタイツを裏返して穿いた。じっと見ればみっともない格好だが、気にしなければ良いだけの話。それが結果的に大成功で股ずれが起きなかったため、第2日目も再び穿こうと考えていたのだが、断念してランニングパンツにした。 次に玄関に脱いだシューズの裏を確認。左足の方が半分近く磨り減っている。普通ならとても履けるような状態ではないが、この1足しかないため今日もこれを履かざるを得ない。通常底の黒くて堅い部分が磨り減ると危険とメーカーは言うが、こんな状態でも走ろうと思ったら走れることが分かった。きっと、左の内側に入っている分厚い医療用インソールが、靴底の磨り減った分をカバーしているのだろうけど。 次に、那覇のホテルに宅急便で送るものとリュックに入れて走るものを仕分け。天気予報によれば、午後から那覇では大雨とのこと。傘やビニール袋を使う可能性があるため、邪魔になってもリュックに入れざるを得ない。手持ちの食べ物は少なくなったが、今日はコンビニで買い物が出来ると思うので、さほど心配していない。部屋にあった「無料」のミネラルウォーター2本もリュックの底にしまう。手に提げると、昨日とほとんど変わらない重さになった。これもまた仕方がないこと。 7時前に歩いてフロント棟へ向かう。地下のレストランで和食の朝食を摂るためだ。だが、胃の中がムカムカで、吐き気が治まらない。きっと過度の疲労と寝不足のせいだ。レストランの入り口で係りの女性が挨拶。多分本土の人だと思って、「何処から来たの」と聞くと「分かりますか?東京からです」との返事。「俺も沖縄で3年勤めたからね」。直感で沖縄の人か内地の人かは分かるのだ。 お膳を運んでくれた女性にも同じ質問。この人は福島県郡山市の出身とのこと。言葉のイントネーションに親しみを感じてさらに聞くと、ご主人と沖縄に来てから3年目とのこと。芝生の先には青い海。そして通称クジラ島の奥に見える辺野古岬には、白い堂々とした建物群。「あれがキャンプシュワブかな?あそこに普天間基地の飛行機が移転して来たら大変だね」と言うと、「そうなんですよ」と郡山の女性。 食事は内地の朝食とほとんど変わらない。きっと内地からの観光客が多いため、沖縄でも内地と同じものを食べられることをアピールしているのだろう。何とか吐き気を抑えながら食事を済ませる。部屋に戻り、荷物を持って再びフロント棟へ。この途中でコンビニに寄り、強壮剤を購入。ランニング中に強い疲労を感じたら飲むためだ。フロントにキーを返却し、昨夜飲んだ缶ビールの清算。 次に宅急便の依頼。今日中に那覇のホテルに荷物が着くか尋ねると、「無理」の返事。荷物は11時に集めに来るが、名護の営業所で仕分けをするため、一日で那覇へは届けられない由。これには気が動転した。荷物が着かないと今日のランニング続行は不可能で、このままバスに乗って帰るしかない。これで念願だった東海岸縦断計画も終わりか。諦めかけた時に、ペリカン便の青年が言った。「少し待ってください。特別の方法があります」。彼は携帯電話を持って建物の外へ出た。 暫くして戻った青年曰く。「大丈夫でした。でも料金が高いと思います」。幾らくらいか尋ねると再び青年は外へ行った。どうも他の業者に依頼しているようだ。「特別料金で5千円です」。それは通常の3倍以上の料金だ。思わず「ええっ!」と声を上げた。それを見て気の毒になったのか、「自分で連絡されますか?」とクロネコの電話を教えてくれた。「俺は携帯電話を持ってないから良いよ。それにこれも何かの縁だし」。 そうは言ったものの、財布の中はすっかり心細くなった。今日のランニングでも何が起こるか分からない。気を引き締めて行こう。8時35分、ランパン、ランシャツ姿になった私はペリカンの青年に手を振って走り出した。椰子の並木を見ながらホテルの入り口まで走っている後ろから、プライベートビーチで遊ぶゴム製の長いボートを積んだ牽引車が、手を振りながら抜いて行った。さようなら、たった一晩だけのリゾートホテル。 国道へ出て、走りながら頭の中で計算してみる。支払った7万600円の中身だが、先ず宿泊料が6万8千円と計算。4人用の部屋だったから1人1万7千円なら妥当か。それに朝食が2千円で、ミネラルウォーターが昨夜フロントでもらった分を含めて3本。1本200円だとして、3本で600円。これでピッタリ。仕方が無かったとは言え、やはり自分にはこんな高いホテルは似合わなかったようだ。<続く>
2009.12.04
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< リゾートホテルの一夜 その1 > ホテルの入り口から約1km。検問所からだと約700m走って、22時40分にフロント棟へ到着。長い旅はようやく終わった。よれよれのランナーが近づいて来たため、フロントのスタッフが全員びっくりしている。今朝北端の辺戸岬から走って来たことを告げると、「えっ?」と言う不思議な沈黙が周囲に広がった。慌てて女性スタッフがタオルとミネラルウォーターを差し出す。タオルで顔を拭い、冷たい水を2口3口。チェックインの書類に翌朝8時出発予定と記入すると、さらに驚きが広がった。滞在時間がわずか9時間余りの客なんて、滅多にいないはず。 傷の手当てをしたいので鋏を借りたいと言うと、規則で貸し出せないとのこと。仕方なく配達されていたスポーツバッグを開け、湿布薬とテープを取り出して鋏で切った。客の怪我の具合を心配するよりも、鋏のことを心配してるようではホテルマンとしては失格。ボーイさんが荷物を積んだカートを押し、送迎用の車に乗せてくれた。私が今夜泊まる棟はさらに600mほど先のようだ。 途中、まだ開いている食事棟やコンビニのある建物を、ボーイさんから教えてもらう。このリゾートホテルが建築されて今年で12年目。本土資本ではなく、沖縄の企業がオーナーとのこと。宿泊客の大半は本土からで、結構賑わっている由。へえ~と驚く。こんな辺鄙な場所にあるホテルへ、本土の客がわんさか押しかける時代になったのだ。 ノースウイング2232号室。それが私の部屋。そこまでボーイさんが荷物を運んでくれた。中へ入ると20畳ほどの広さ。簡単な利用方法を私に教え、ボーイさんはフロント棟に戻って行った。天井の扇風機を止め、先ずは浴槽にお湯を張る。その間に荷物を全て床に広げ、濡れた傘やビニール袋を広げて乾かした。 カーテンを引き、改めて室内を見渡すと、ダブルベッドが2台。つまり4人用の部屋だが泊まるのは私だけだから、1人で4人分の料金を支払ったわけだ。それにしても7万600円支払うほどの豪華さではない。壁に沖縄伊是名島出身の名嘉睦稔(なか・ぼくねん)の版画が1枚。棟方志功の版画と滝平こうじの切り絵を混ぜたような素朴な香りのする作品だった。 風呂へ入って頭や体をタオルでゴシゴシ。疲れて面倒なのでシャンプーや石鹸は使わなかった。寝間着に着替え、今日身に着けたハーフパンツ、半袖Tシャツ、タオルハンカチ、帽子を浴槽で洗い、その場に干す。それから椅子に座って怪我の手入れ。膝、両足に湿布薬を張り、テープで止めた。左膝は赤く腫れ上がり、触ると痛い。疲れた両足の湿布が心地良い。 それから再び着替えて、外へ食べに行く元気はない。仕方なく冷蔵庫から缶ビールを取り出し、明日の分の魚肉ソーセージをつまみに飲む。小さい缶はたちまち開いた。続いて2本目。今日は初めての道を76kmも良く走れたもんだ。22時40分から8時18分を引くと、14時間22分。それが今日1日走った時間。76kmのうちで平坦だったのは、海岸部の6kmほどか。 あれだけの厳しいコースを1歩も歩かなかったのは、我ながら立派だったと思う。だが、疲れ果てて、もう地図に書き忘れたメモを書き込む元気がない。明日の第2日目もなかなか厳しい戦いになるはず。緊張と疲労の限界に達した私は、ようやくベッドの中に潜り込んだ。深夜の0時30分だった。<続く>
2009.12.03
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< 初日最大のピンチを脱して > 天気予報で午後から止むと言っていた雨が止んだのは夕方頃。それでも時々はぱらついた。あれほど強かった風も、夕方には静まった。寒さを感じなくなり、ビニール袋は不要になった。ただ、道路上の物体を見る都度、今度こそハブかもと肝を冷やした。淋しさを感じないで済んだのは、夜になっても通行する車が結構あったからだ。 6kmほど走り、闇夜にピカピカ光る慶佐次(げさし)の通信塔に19時45分に到着。ここが61.4km地点。以前は「米国海兵隊慶佐次ローランド通信基地」だったはずなのに、現在では海上保安庁に所属が変わったようだ。慶佐次川に架かる橋の上に釣り人。「何が釣れるんですか」と聞くと、答は「初めてなので何が釣れるか分からない」。チヌ(黒鯛)くらいは釣れそうな雰囲気だが。 20時15分。63.7km地点の有銘(あるめ)集落到着。ここはオオシッタイを通って西海岸の源河(げんか)まで行く県道14号線の分岐点。給油所の明るい照明が目に入り、喜び勇んで近づいた途端、思いっきり転んだ。手に持った懐中電灯とペットボトルが吹っ飛び、ヘッドライトの灯が消えた。一瞬、何事が起きたのか分からなかった。 慌てて懐中電灯を照らし、周囲を確認してみる。暗くて良く分からなかったが、転んだ場所には低い位置にチェーンが張ってあった。ヘッドライトのボタンを押すと、再び明かりが灯った。良かった。壊れてはいない。ペットボトルも変形したが、中の飲料は大丈夫。左膝が痛むため懐中電灯で照らすと、赤く腫れ上がり血が流れている。これは一大事。大丈夫だろうか。 何とか気力を奮って明るい方向へ向かうと、「これ以上近寄らないでください。これ以上近寄らないでください」。と女性の声で警告音の連続。ビックリして元の位置まで後退。きっとセンサーが働いて不審者を撃退する装置が作動したのだろう。うひゃ~。危うく私は犯罪者になるところだった。気を取り直して、県道との分岐点にある照明の許に移動。 膝に痛みはあるが、骨折はしていない模様。赤く腫れ上がったのは強い打撲のせいだと思う。軽く走ると、何とか走れそう。大事に至らないで本当に良かった。21時10分、68.2km地点の天仁屋(てにや)到着。ここで最後のお握りとミカンを食べた。21時53分、71.6km地点の嘉陽(かよう)集落前を通過。ホテルまで残り5kmを切った。 間もなく夜の10時。気は焦るが左右とも足が痛み、スピードが全く上がらない。車もほとんど通らなくなり、周囲は真っ暗。この淋しい道やハブの恐怖との戦いが辛くなる。22時10分、73.5km地点の安部(あぶ)集落前を通過。いよいよ残り3kmを切った。だが、ここからがやけに長く感じた。 行けども行けども淋しい原野。本当に残りの距離が間違っていないのだろうか。極度の疲労に加えて、不安と恐怖が入り混じる。ちょうど「佐渡島一周」の最後のシーンに良く似ている。やがて明るいツリーが見え出した。きっとあそこがホテルのはず。だが、近づいてみると外灯に照らされた普通の樹木。やがて丘の向こうに、一瞬輝く椰子の木が見えた。今度こそ間違いないはず。最後の力を振り絞って走る。 やっぱりそうだった。ゴルフ場のある巨大なリゾートホテルが、今ようやくその威容を現す。ここが76km地点で、カヌチャベイリゾートホテルへの入り口。煌々と光る椰子の並木が奥の方まで延々と続いている。警備員の人に呼び止められる。これからホテルへ泊まると言うと、一瞬怪訝そうな表情になった。それも無理からぬ話。フロント棟まではここからまだ700mもある由。涙が出そうになるほど遠かった道だが、今日のランニングが間もなく終わる。<続く>
2009.12.02
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< 夜道の黒い物体は何者? > 右足の甲が痛む。まるで疲労骨折のような痛み。きっと長い下り坂で、足への負担が大きかったのだろう。こんな状態でホテルまでたどり着けるのだろうか。不安が広がるが、兎も角前進しないと今夜眠る場所が無い。村境から7km下った辺りで集落が見えた。どうやら高江(たかえ)のようだ。16時05分到着。ここが43.4km地点。 共同売店横のベンチで休憩。だが風が強くて直ぐに体が冷え出した。慌てて頭からビニール袋を被る。ようやく一息ついた。工事関係の人が見るともなしに私を見ている。たった1人でこんなところを走るとは変なヤマトだ。言葉は発しなくても、彼らの目がそう言っている。構わずにエネルギー補給。食べたのはお握り1個、魚肉ソーセージ半分、一口羊羹。 そして小袋に入ったインスタントの味噌汁の素を舐め、水を飲む。これは初めての試みだった。しょっぱいけれど、塩を舐めるよりはずっとマシ。味が良く、塩分補給と栄養にもなるから一石二鳥だ。店に食品を配達に来たトラックの運転手さんに「ゴルフの宮里藍ちゃんは東村の出身だけど、家はどこですか?」と尋ねる。村役場のある平良集落との答。その藍ちゃんが卒業した東北高校がある仙台から来たと言うと、驚いていた小父さん。16時22分ここを出発。 緩い下り坂が続く。高江集落の中心部はもう少し海寄りにあるのだろうか。4kmほど下ると、福地ダムの先端に出た。ダムの最上流部に、海岸への排水溝がある珍しい構造。ダム本体は10km以上下流にあるのだが、先端部が海岸に近いと言う不思議な地形。水が堪り過ぎた場合は、サイフォンの原理を利用して海に放流するようだ。 さらに3kmほど下ると、宮城地区の魚泊集落。道路際にコンクリート製の見慣れない穴がある。小父さんがその中に餌を撒いた。近づいて覗くと、イノシシの成獣が1匹。この付近にはイノシシが多いため狩猟しているが、これはウリボウ(イノシシの赤ちゃん)の時から育てているそうだ。ブイブイ鳴きながら私の匂いを嗅ぎに来た。 「あれが鷹の声だよ」と小父さん。「サシバですか?」と私。サシバはタカの一種で渡り鳥。確か昔、宮古島では捕らえて食料にしたようだがと言うと、この辺では食べなかったそうだ。もちろん今では捕獲が禁止されている。夕方が迫って暗くなったため、「鳥目」のサシバはもうこれ以上飛べず、今夜はここで泊まるしかないみたいだ。 私が宮城から来たと言うと、最近この周辺にも内地の人が家を建てたとのこと。「ここは住み易いからね」。人の良さそうな小父さんはニコニコ笑ってそう話した。これからカヌチャベイホテルまで走ると言うと、驚いて途中の集落名を数え始めた。主な集落がまだ8つほどある。ホテルまでの距離は25kmほどか。小父さんに別れを告げ、再び走り出す。「イノシシの肉あります」。暫く行くとそんな看板を見つけた。あのイノシシもいずれは肉として売られる運命なのだろうか。 17時50分。53.6km地点の宮城集落到達。自販機でスポーツドリンクを買い、リュックからヘッドランプ、懐中電灯を取り出して点灯。赤色灯も点ける。いよいよ最初の夜道ランの開始だ。果たしてどんな危険が待ち受けているのか。急に緊張感が増して来る。 18時40分。平良(たいら)集落の少し手前で休憩し、お握り、ソーセージの残り、ピーナッツ煎餅を食べ、「袋入り味噌」を舐める。18時50分にスタート。間もなく平良集落に到達し、念のためお店でクリームパンを買った。だが気が焦って、藍ちゃんの実家がどこか聞くのを忘れた。ここが56.8km地点。ホテルまで残り20kmを切った。そしてここから国道331号線に変わり、道路脇にあった奥集落からの距離表示が消えた。 次の目標は闇夜にピカピカ光っている慶佐次(げさし)の通信塔。あそこが61.4km地点だ。夜道を走り出して仰天。道路に何か黒いものが渦巻いている。あれはハブか?と一瞬血が凍る。恐る恐る近づくと、道路のヒビを補修したアスファルトだった。夜道はハブが怖い。そんな恐怖心が、きっと黒い物体をハブと見誤ったのだろう。<続く>
2009.12.01
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< 無人のテント > 12時23分。安田(あだ)入り口到着。ここから海岸にある安田集落までは険しい山道を4kmほど往復する必要がある。そこまで行けば何か食料は手に入るだろうが、今はそんな余裕はない。三叉路の傍に「ヤンバルクイナ飼育場」の看板。国の天然記念物であるヤンバルクイナは飛べない鳥で、道に出て来て車に轢かれたり、マングースに襲われて死ぬケースが増えているようだ。きっと飼育場では、怪我をしたヤンバルクイナの保護と増殖を手がけているのだと思う。 暫く行くと合羽を着、長靴を履いた小父さんが道端に立っていた。思わず「何をしてるんですか?」と尋ねると、「マングースの調査」がその答え。猛毒のハブを撲滅するため沖縄に導入したマングースが、予想に反して無防備なヤンバルクイナを餌食にしたため、貴重なクイナの生息数が激減したのだ。やはり人間の考えることにはどこか手抜かりがあるのだろう。 雨の中を再び走り出す。奥を基点とした県道70号線の路傍には、100m毎に奥からの距離が書かれている。それに辺戸岬からの9kmを足すと、これまでに走った距離が分かることに気づいた。間もなく2つ目の石碑。今度は開放してもらった国有地を開拓して農地にした記念碑だった。これは日本復帰後の話のようだ。広い畑に緑の植物が並んで植えられている。酸性土壌に強いパイナップルだ。 坂道を下ると小さな入り江と集落が見えた。13時23分、安波(あは)集落到着。ここが約29km地点。道端に腰を下ろし、稲荷寿司2個と魚肉ソーセージを食べた。安波川に架かる橋の上から下を覗いているお婆さんがいた。何を見てるのか尋ねると、透明な川の水に見とれていたのだとか。 お婆さんに2つ目の質問。それはスタート後からずっと見かけていた花の名。答えは芙蓉だった。そう言われてみれば確かに芙蓉。ただ、園芸種ではなくほとんど野生に近い種類だと思う。ここは大きな集落ですねと言うと、次の高江も大きいとの返事。そこは隣村の最初の集落で、ここから山を越えたずっと先にある。坂から振り返ると安波は100戸ほどの集落だった。 ヤンバルの東海岸は、かつて倭寇の基地だったとの説がある。九州の海賊が遠く中国周辺まで荒らしに出かけたのだろうか。先ほど通った楚州(そす)などの言葉が、沖縄の他の地区と異なるのは、ひょっとしたらそんなことが原因かも知れない。 東村との境界まで約8kmの登り坂。その境界に14時58分到着。長い長い国頭村(くにがみそん)をようやく通過することが出来た。ここまでで37km走った計算。坂を下って行くと、間もなくテントが見えた。その向かいにはツタで覆われた小屋もある。どうやら車中Mさんから聞いていた基地反対派のテントのようだ。中に目つきの鋭い男が1人居て、雨の中を走る怪しいヤマトンチュー(日本人)を睨むかのようだ。 米軍海兵隊普天間基地のヘリコプターをここに一部移転して、「ヘリパッド」を建設する計画のようだが、テントはそれを牽制する狙いがあるのだろう。Mさんの話だと反対派はかなり強硬と聞いたが、雨の土曜日とは言えたった1人の見張りではどうしようもない。 暫く先に、海兵隊演習場への入り口があった。ここがジャングルでのゲリラ戦の訓練場。堅く閉ざされたゲートの中に停まる3台のジープ。だが米兵の姿は見えない。それから5kmほど下ったところにも反対派のテントが張られていたが、ここも無人だった。長い長い坂道を海に向かってどんどん下る。<続く>< 11月のラン&ウォーク >月間ラン回数:9回 うちレース:ジャーニーラン1回 月間走行距離:280km ウォーク回数:毎日 ウォーク距離:197km 月間距離合計:477km 年間走行距離:2313km 年間距離合計:4308km これまでの累計:69、730km
2009.11.30
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< 楚州の小母さんと那覇の小母さん > 糸満のランナーは今日のゴールは奥集落と話していた。1回につき15、6kmとも言っていたけど、今日はどこから走り始めたのだろう。だが間もなく奥さんの待つ場所へゴールする彼と、この先まだ60km以上未知のコースを走る私とでは条件があまりにも違い過ぎる。今は自分のレースに集中することしかない。相変わらず風が吹いて体が冷える。 10時40分。右手に小さな集落が見え出した。伊江(いえ)は家が5軒ほどしかない淋しい集落だった。走っていて何かを蹴飛ばした。コロコロと転がるものを見ると、フクギの実。フクギは屋敷の防風用に植えたのだろう。沖縄の代表的な織物である紅型(びんがた)の黄色い色は、この木の樹皮を使うと聞いたことがある。 11時ちょうど。楚州(そす)集落に到達。ここまでがようやく16.2km。まだそんな距離かとがっかりするが、この悪条件だから仕方がない。手に持ったスポーツドリンクが飲んで無くなったため、新しいのを買おうとお金を入れるが何度も戻ってしまう。仕方なく隣の店に入って事情を話した。「中が空じゃないかな」と小母さん。きっとここで買う人が少ないため、業者も補充に来ないのだと思う。 小母さんの店でシークァーサーのジュースを買った。これは沖縄ではレモンに当たる果物で、とてもビタミンが豊富な飲み物だ。宮城県から来たと小母さんに話すと驚きの表情。彼女も私がヤマト(内地の人)だと言うことは、顔を見て直ぐに分かったはず。軒先で雨宿りをしながら、お握り1個と蒸しパンを食べた。朝食から既に4時間を経過。ここは早めのエネルギー補充が必要だ。 食事を終えてふと見ると、小路の奥に拝所(うがんじゅ)が見えた。近寄ると貧弱な香炉がある。きっと長い間、この集落の繁栄を祈った場所なのだろう。ここ楚州は沖縄でも言葉が他とは違うと言う研究があることを聞いていた。そういえば小母さんの容貌もどこか中国人に似ているように感じた。お礼を言って再び雨の中を走り出す。 坂道を登りながら集落を振り返ると、わずか10軒ほどの戸数。しまった。とても大事な忘れ物をしてしまった。よほど引き返そうと迷ったが、そうすればさらにホテルに着く時間が遅くなる。ここは諦めて前進するしかない。 私が一瞬迷ったのは、この楚州(そす)集落出身の小母さんを1人知っていたからだ。那覇の国際通りから少し入った市場のお菓子屋さんで、昨年偶然話をした時に知り合ったのがその人。たまたま「楚州を知ってますか」と聞かれたので、「知ってるよ」と答えた。そんな小さな集落名を知ってる内地の人はまず居ない。私が3年間沖縄で勤務していたため、たまたま知っていただけだ。 それがまさかこんな小さな集落だったとは。僅か10軒ほどの集落なら、店の小母さんも那覇の小母さんのことは良く知ってるはず。そう思うと、何故那覇の小母さんのことをあの時に思い出さなかったのか、とても悔やまれた。話せばきっと懐かしがるだろう。そしてヤマトのランナーが話す偶然の物語にも、相当驚いたことだろうに。 山道を登ると前方に2基の風力発電機が見えた。強風なのにプロペラがさほど回転していないのは、きっと風向きが違うのだろう。さらに進むと右側に石碑。近づくと「伊部岳演習阻止記念碑」とある。昭和45年に突然米軍がこの周辺で実弾演習を開始すると宣告したのに対して、3つの集落から住民が集まり、体を張って抵抗した結果、米軍は已む無く引き返したとある。住民数など知れたものだから、彼らの必死さが伝わって来る。まだ日本復帰前の話だ。 12時に伊部(いぶ)入り口に到着。被っていたビニール袋を脱ぎ、ピーナツ煎餅を食べる。目前のホテルは倒産したようだ。これは銀のねこさんが教えてくれたジョギングシュミレーターの地図にも載っていた建物。だがこんな過疎地での「体験ファーム」とホテル経営には無理があったのだと思う。スタート後、ここまで約25kmで残りは51km。まだまだ前途は遠い。後で計算した結果、先ほど出会った糸満のランナーの今日のスタート地点が、この場所だったことが分かった。<続く>
2009.11.28
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< 海の上の1本の線 そして思いがけないランナー > 林の奥から突然ウグイスの鳴き声。11月のウグイスはあまり歌が上手ではないようだ。スタートして8km近く、ようやく山荘への入り口が見えた。懐かしく思い起こしながらその横を通過。右手の深い谷底から今度はせせらぎの音。道は下り坂になった。前方に何やら横たわる物体。近づくと死んだ蛇だった。走ってまだ間もないと言うのに、早速ハブにお目にかかるとは。 やはりこの時期にもハブが活動してるのだ。そして、道路上に出没することも分かった。これはよほど注意しないと。一気に高まる緊張。次に小さな黒い物体が道路を横切るのが見えた。これは一体何だろう。形から言えばサンショウウオかイモリかアカハラ。車が通ったら轢き殺されてしまうだろうに。亀は見なかったが、やはりこの辺りは小動物が多いようだ。 9時30分。坂を下り切った左手に集落が見えて来た。戸数は20戸ほどか。何とも清らかな家の佇まい。庭には青い実をつけた数本のパパイヤ。ここ沖縄ではパパイヤはまだ青いうちに実を取り、野菜として食べるのが普通。千切りにし、油で炒めたりサラダとして食べるが、とても淡白な味だ。 海が見える。風に煽られた青い波。その海には1本の見えない線が引かれている。ここ奥集落は国道58号線の沖縄の基点。ご存知の通り、国道は2つ以上の都府県をまたぐものと決められている。沖縄が日本に復帰する際、道路を整備する上で問題になったのがこの法律だった。困った建設大臣は地図を取り出し、海の上に赤鉛筆で線を引いたとか。鹿児島から沖縄までが1本の国道でつながった一瞬だった。開発が遅れていた当時の沖縄を物語るそんなエピソードを思い出した。 海岸部は強風が吹き荒れ、濡れた体が一気に冷える。前方に亀の形をした東屋が見えた。そこで初めての休憩。テーブルにリュックを置き、取り出したビール袋を頭からすっぽり被る。至って簡便だが、これで風による体温の低下を防げる。ウルトラランナーの常識だ。それにしてもトレーナーが捨てられているのは何故?誰かがここまで走ったのだろうか。 再び風雨の中を走り出す。案の定体が温かく感じられるようになった。唇から歌が漏れる。「月の砂漠」だった。遥々と1人淋しく旅をする心境が、きっとその歌を選ばせたのだろう。やがて前方から走って来るランナーの姿が見えた。一瞬「ええっ?」と我が目を疑う。沖縄本島最北部の辺鄙な場所。しかもこの嵐の中を走るランナーが私の他にも居たとは。 そのランナーを止めて話を聞く。彼は糸満市阿波根(あはごん)集落の人。そこはNAHAマラソンの34km地点辺りだ。沖縄本島を何回かに分けて一周しているそうだ。走るのは1回につき15km程度。その都度奥さんに車で送ってもらっており、今日は16回目に当たる由。私が辺戸岬から与那原(よなばる)町までの140数kmを2日間で走り、今日はカヌチャベイホテルまで走ると言うとビックリしている。 本島を一周した沖縄のランナーの話を聞いたことがあるが、完走には確か2週間以上かかったはず。仲間の伴走付きで走った後は自宅に戻り、翌日再びゴ前日ゴールした場所から走り出す方法だと思う。そうでもなければとても完走は無理。私の計画は3年越しだが実際に走るのは6日だけ。ただし、本部(もとぶ)半島と勝連(かつれん)半島の45km分(?)は省いているが。糸満のランナーとはガッチリ握手して別れた。しかしこんな場所でランナーと出会うとは、何と不思議な縁なのだろう。<続く>
2009.11.28
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< 雨と風の中の第1歩 > 猛烈な風雨の中をMさんの車は国道58号線を北上する。良かった。これで最悪のシナリオにならずに済んだ。車内が寒く感じ、先ずクーラーを切ってもらう。体を実際の気温に慣れさせるためだ。Mさんとは1年4ヶ月ぶりの再会。去年の西海岸縦断の際も彼には名護のホテルから辺戸岬まで送ってもらった。自宅からの運転は、往復すると200kmを楽に越えるだろう。そんな苦労をしてまでも、彼は私の希望を叶えるために協力を申し出てくれたのだ。 Mさんとは昨年の縦断走のこと、今回の東海岸縦断の計画、職場のこと、かつての走友の消息など時間を忘れて話した。その中で東海岸の狭い道を観光客がかなりスピードを出して走ること、ヤンバル地方では「偏降り」(かたぶり)と言って、雨が集中して降ることなどを教えてくれた。それらは重要な情報として、しっかり頭に入れた。ヤンバルに国営ダムが多い理由もこれで分かった。 国頭村(くにがみそん)辺戸名(へんとな)辺りで1台の軽トラックが前方をノロノロ走っている。「遅いなあ」焦る気持から思わずつぶやくと、Mさんが「少しスピードを上げますか」と訊ねた。「良いよ無理しないで。事故でも起こしたら大変だから」。宜名真(ぎなま)付近でようやく軽トラックは集落へ入った。トンネルを抜けると間もなく岬。車内で上着とトレパンを脱ぎ、走る準備にかかる。いよいよスタートの時が迫った。緊張感が一気に高まる。 8時13分、岬の突端に到着。強風と横殴りの雨が物凄く、どこにも人影は見えない。「これは嵐ですよ。大丈夫ですか?」とMさん。だが今年3月の「八丈島一周」では、風速30mの暴風雨の中で62km走っている。8時18分、記念撮影の後、緊張の第1歩を踏み出す。本当にありがとうMさん。手を振りながら「宇座浜遺跡」を左折し、国道58号線に向かう。だが風が強く、雨に濡れた体が急速に冷えて来た。 これでは最後まで持たないだろう。咄嗟にそう判断して足を止め、アダンの木の下でランニングシャツから半袖Tシャツに着替えた。8時22分再スタート。半袖シャツも直ぐにびしょ濡れ。風がとても寒い。実際の気温は18度くらいだろうが、体感温度は12度を下回っている感じ。国道に出ると樹木が風を塞ぎ、ようやく強風から逃れることが出来た。 道路脇に「ヤンバルクイナに注意」の看板。そして間もなく「動物に注意」の亀の絵。ヤンバルクイナは飛べない鳥で国指定の天然記念物。亀は確かヤマガメの仲間で背中が丸い亀だったと思う。どちらも貴重な種なのだが、道路に出て来て車に撥ねられる事故があるのだろう。標高248mの絶壁の上に辺戸の御嶽(うたき)が見える。沖縄の神であるアマミキヨとシネリキヨが最初に寄ったのが辺戸岬で、御嶽はそれを祀る神聖な場所なのだ。 それにしても最初から道がきつい。自分ではここから下るとばかり思っていたのに、実際は急な登りの連続だった。20年前、かつての職場の駅伝大会で1度走った道なのだが、すっかり記憶が飛んでいる。あの時は全然走っていなかった車が、今日はビュンビュンと何台も通り過ぎる。これは危険かもと、歩道を走ることにした。ところが落ち葉が積もり、コケが生えて足元が滑って危ない。それに枝から枝へクモの巣ばかり。ここは誰も歩く人がいないのだ。慌てて車道に戻った。 法面(のりめん)の土が赤い。これはまるでブラジルのテラロッサだ。側溝の形も何だか不思議。中に緩やかな階段がついている。15km以上走った後に気がついたのだが、確かヤンバルの奥地では小動物が道を横切ろうとして側溝に落ちて死ぬケースが多いと聞いたことがある。その小動物を助けるため、小さな階段をつけた側溝に改良したのだと思う。 かつての職場の山荘がいくら走っても見えない。「変だなあ。こんなに遠かったっけ~?」。風雨が強い中を5kgのリュックを背負って走る登り坂がこれほどきつかったとは。その時後ろから声が聞こえた。Mさんの車だった。私のことが心配になり、わざわざ遠回りになる東海岸経由で帰ることにしたようだ。 「水は足りますか?」。「ありがとう、大丈夫だよ」。「あんな重たいものありがとうございました」。それはお土産として彼に上げた宮城県産の新米のことだ。「気をつけて走ってくださいね」。「ありがとう、Mさんもね」。Mさんの車はさも心配そうにゆっくりと視界から消えて行った。「こんなの初めてですよ」。そう話していた彼。昨年の西海岸縦断もそうだが、東海岸を2日で走るなんて話はこれまで聞いたことがないそうだ。<続く>
2009.11.27
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< 強風注意報発令中の朝 > 翌朝4時頃に目が覚めた。多分7時間近く眠れたはず。天候が気になってカーテンを開けると、強い雨と風になっていた。やはりそうか。すると昨日の鮮やかな夕日は一体なんだったのだろう。でもそれも想定内。気を取り直して走る準備に取りかかる。両膝へのテーピングと股の付け根にワセリンを擦り込む。 着替え、ビニール袋、懐中電灯、ヘッドライト、家から持参した食料、水が入ったペットボトル2本を入れたリュック。そこに裏側に氏名、血液型、住所、自宅の電話番号、妻の携帯電話番号が、表には「東海岸縦断中」と書かれ、反射材を張った「識別票」を取り付けた。また赤色灯も安全ピンで留めた。ポシェットには地図、筆記用具、小銭、塩、飴、アミノバイタルの小袋。それらの大半は雨で濡れないよう、幾つかのビニール袋にしまった。 一応の準備後、傘を差してコンビニに行く。買ったのはスポーツドリンク、お握り4個、稲荷寿司3個、クリームパン1個。それらもリュックに入れると、5kgくらいの重さになった。仙台から着て来た衣類や洗面具など、ランニングには不要な物をスポーツバッグに詰め込み、フロントに行く。今日中に東海岸にあるリゾートホテルに送るためだ。伝票に必要事項を書いて期日指定をし、代金1300円余りを支払う。 部屋へ戻って天気予報を見てビックリ。何と本島北部には強風注意報発令中とのこと。さらに午前中は強い雨の予報。道理で天気が悪かったわけだ。沖縄へ来る前から覚悟はしていたが、いざ本番となるとさすがに堪える。6時40分。ようやく周囲が明るくなって来た。日本列島の西側にある沖縄の夜明けは遅いのだ。 荷物を持ってレストランに行く。一日中、風と雨の中を走るのだ。せめて朝食ぐらいはしっかり摂っておきたい。だが、そろそろ友人が迎えに来る時間。慌てて大皿に食べたいおかずを取り分ける。生野菜としてゴーヤのサラダやトマトがあって嬉しい。旅先で健康に過ごすためには、動物質の食品だけでは駄目。半分ほど食べた時、駐車場に1台の車が入るのが見えた。きっとMさんに違いない。玄関に急ぐと、やはりそうだった。「今、食事中」と手でサインを送る。彼も了解したようだ。 再び戻って食事を再開。だが、もうゆっくり食べている暇はなかった。彼には7時までにはホテルに来て欲しいと頼んでいた。北端の辺戸(へど)岬を、出来れば8時にスタートしたいためだ。55km先の岬まで1時間はかかる。今、7時10分ほど。もう時間がない。食事を終え荷物を持って玄関に急いだ。だが彼の姿は何処にもない。あれ~っ!Mさんは一体何処へ消えてしまったのだろう。 雨の中を荷物を持ってウロウロ探す。だが何処にも姿が見えない。その様子を観ていたタクシーの運転手さんが、トイレに行ったようだと教えてくれた。1階のトイレを叩くと、中からMさんの声が聞こえた。ああ良かった。これでスタート地点までは行けそうだ。万一の時に備えて、55kmのショートカットコースも考えていたが、それでは念願の東海岸縦断にはならない。少し安堵はしたが、この騒動で胃の調子がおかしくなった。う~む、これは参ったなあ。<続く>
2009.11.26
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< 懐かしいソバの味 > 飛行機は定刻に那覇空港へ着いた。迎えてくれたのはデンファレなど鮮やかな花々。荷物を受け取り空港を出る。この日乗るのは那覇市内へ向かうモノレールではなく、本島北部の都市名護行きの高速バスだ。最初は私1人だった乗客が徐々に増え、最後に分厚いオーバーコートを着た男性が乗り込んで来た。雰囲気から見て、きっと北海道へ出張して来た研究者だろう。 空港付近のいかにも南国らしい風景だが、もう何十回も見ているため何の違和感もない。米軍の軍港跡地はまだ手付かずのままで、旭橋の県立芸能会館はいつの間にか閉鎖されていた。一旦バスセンターに寄った後、首里から沖縄自動車道に入る。西原町幸地(こうち)付近はかつての通勤路。その懐かしい風景はあっと言う間に遠ざかった。オーバーコートの人は琉球大学前で下車。やはり推理は当たったようだ。 高速道路の両側にピンクの花が見えた。トックリワタノキの花だ。ハイビスカスの赤い花も、高い椰子の木も見える。11月末だと言うのに沖縄はまだ夏。着ていた薄手のウインドブレーカーとセーターを脱ぎ、長袖シャツ1枚になったが、車内のクーラーが涼しくて頭痛がして来た。急速な温度変化に体温調整が追い着けないのだ。 石川、金武(きん)、宜野座(ぎのざ)などでは一旦高速から下りて国道付近のバス停に寄った。その都度道路の向こうに太平洋が望めた。そして2日後に走る国道329号線をしっかりと目に焼き付けておく。金武の米軍基地キャンプハンセン付近には「砲弾注意」の標識。県道越しに砲弾の実射訓練をする際の注意なのだが、沖縄が基地の島であることを再認識する場面だ。 やがて道路は左に大きくカーブして沖縄本島を貫く脊梁山地を越え、名護市の許田(きょだ)ICから国道58号線に出た。見える海は東シナ海。そして名護湾の向こうに本部半島の山々が見え出した。空は真っ赤な夕焼け。確か予報だと明日は雨だったはず。その後変わって本当に晴れるなら嬉しいのだが。 世富慶(よふけ)バス停で2050円を払って下車。空港から60km以上乗った割には実に安い料金だ。目の前に懐かしい沖縄ソバ店を見つけ、まだ5時を過ぎたばかりなのに迷わず入った。その店には何度か入ったことがあった。味が良く盛りも良いので有名な店だが、まさかまだ残っていたとは。これは旅の初めから縁起が良いぞ~。 嬉しくなって「ソーキソバ」の大盛りを注文。ソーキとは豚のスペアリブのこと。骨付きの肉が豪快に載ったソバだ。沖縄ソバは一見うどんのように見えるが、つなぎに「かん水」を使ったラーメンの仲間だ。出て来たソバにコーレーグースを掛ける。「高麗薬」と書くが、泡盛に唐辛子を漬け込んだ沖縄独特の香辛料だ。久しぶりの味に満足し、代金770円を支払う。 そこからホテルまでは約1kmほど。5kgの新米が入ったバックはさすがに重たい。チェックインを済ませ、翌朝発送した荷物が当日中に市内の他のホテルへ到着するかを確認。それが不可能なら走ることは無理だ。部屋で荷物の整理をした後入浴。そして魚肉ソーセージをつまみに、地元のオリオンビールを飲む。8時から沖縄の歌手、夏川りみの特集を観、9時過ぎには就寝。最難関のコースを走る日がいよいよ翌日に迫った。<続く>
2009.11.24
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< ちんすこう中作戦とは > 妻の頬に口づけし、愛犬の頭を撫でて家を出た。この朝、畑の白菜を紐で縛った。これできっと立派な白菜が出来るだろう。バスと電車を乗り継ぎ空港へ向かう。いよいよ沖縄本島東海岸単独縦断走の始まりだ。果たして今回はどんな旅になるのか。不安と緊張のジャーニーランになることは間違いない。 仙台空港発ANA463便は予定通り那覇空港に向けて離陸した。見る見る遠ざかる太平洋。この日機窓から見えたのは、雪を戴いた浅間山、河口湖、霞んでぼんやりした諏訪湖、遠州灘、渥美半島、知多半島、伊勢湾、的矢湾、英虞湾、そして熊野灘。それから先は全て雲の中で、次に見えたのは着陸寸前の糸満市だった。 3時間30分以上の機内では「ランナーズ」を全て読み終え、航空会社のPR誌の沖縄に関する特集記事も読んだ。だが、今思い出そうとしてもどんな内容だったか一切覚えていない。きっと私の心を占めていたのは翌日から走り出す東海岸の厳しいコースだけだったのだと思う。 一昨年の暮れのこと、私は翌年のカレンダーを観て突然一つの考えが閃いた。それは沖縄本島を自分の足で一周しようというものだった。何とか実現できないか、暫くそのことだけに心を奪われていた私だった。そして考えた末に出たのが3つの案。「ちんすこう大作戦」は1回で本島一周を果たすこと。「中作戦」は本島を縦断すること。そして「小作戦」は10回目のNAHAマラソン完走を達成することだった。 NAHAマラソンは既に9回完走しているため後1回でクリヤー出来、簡単過ぎて満足度は低い。一番大変そうな「大作戦」はどうか。一周するための距離と日数を試算するととんでもない数字になり、経費、休暇日数、自分の走力など全ての点で実現困難だと分かった。 残るは「中作戦」ただ一つ。しかし、試算の中で「東海岸縦断」はかなり困難だと知った。平坦な西海岸に対してアップダウンが厳しく、特に北部の適切な位置には料金が高いリゾートホテルが1箇所しかないのが最大のネック。やはり最初は比較的簡単な西海岸か。そう決めて実行したのが昨年の7月だった。 時期の7月は妻の要望。気温の低い冬の方が沖縄も走りやすいのだが、その頃だと仙台は寒く、朝夕の愛犬の散歩などが仕事を持つ妻にとっては重荷になると言う理由だった。この計画を沖縄の走友達に打ち明けると猛反対され、沖縄で夏に長距離を走るなんて自殺行為とまで言われた。3年間沖縄で勤務した私も判ってはいたが、他に選択肢はなかったのだ。 日中の路上は40度近く、3日目に2度熱中症の症状が出た。それに比べれば今回は気温が低いだけまだ楽なはず。だが1日の走行距離が長くなるのと、アップダウンの激しさが心配の種だ。さらに北部のヤンバルは極端な過疎地で、食べ物や飲み物を買えそうな集落が少なく、夜間ハブに咬まれたら絶対助からないだろう。 それにしても何故作戦名が「ちんすこう」なのか。ご存知のとおり沖縄名産のお菓子だが、お土産に上げてもあまり喜ばれないことが多い。それに憤慨しての命名だ。地元の名産をエネルギー源にしながら本島を縦断できたら、沖縄を愛する私にとっては二重に嬉しいことに思えたのだ。<続く>
2009.11.24
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< お土産は薄皮饅頭 > スタートを見送ったY田さんは、受付して初めてあれが自分が出るレースだと知った由。慌てて着替えスタートしようとしたら、強制的にE藤さんの車に乗せられ、4km付近の最後尾で下ろされたとか。どんなに自分の足で走りたいと訴えても駄目だったようだ。遅刻したA井さんも同様みたい。 車中でのE藤さんの話によれば、この大会は警察に届けてないため「練習会」扱いなのだとか。なるほど、それで「ランナーに注意。ランニング練習中!!」の看板を立て、順位の表彰もなかった訳だ。さらに「磐梯高原ウルトラ」は、参加選手が増え過ぎて手動でのタイム測定が困難になったことや、外注するには莫大な経費を要することが継続断念の理由とか。あの風光明媚なコースを走れないのが、とても残念だ。 さて、私達はダム湖畔の道をゴールまで真っ直ぐに来たが、Y田さんが走っていた時間帯はダム湖の入り口にスタッフの人が座っていて、向こう岸を走るよう指示していたとのこと。きっと50kmの部は私達が最後のランナーだったのだろう。だが無人ではコースを間違えても不可抗力。と言っても短縮したのは200mもないと思うけど。 話は変わって、Y田さんが前日泊まった町でもマラソン大会の準備をしていた由。レースの名は「ゴーマン杯ふるさと健康マラソン」。そこはゴーマン美智子さんの生まれ故郷だったのだ。大会名は聞いたことがあるが、まさか開催地が栃木県境の山奥だったとは。 すっかり話に夢中になってる目の前をEさんが通りかかった。山中で併走している時は分からなかったがなかなかの美人で、しかも若々しい。食事中の私達を見て微笑みながら立ち去った。ひょっとしたら私の帰りの足を心配してくれたのかな。でも、大丈夫。Y田さんの車で無事帰宅出来ますからね。 そうそう。Eさんとの会話で書き漏らしたことを記しておこう。それは「トランスヨーロッパ」から帰国したSパパが祝賀会で言ったことらしい。彼は何と「75歳になったら再びトランスヨーロッパに挑戦したい」と話した由。75歳と言えば後10年後。これまで距離4000km超級の「トランスヨーロッパ」を2度走破した彼だが、私と同じ年齢でそんな想いを抱いていたとは。さすが強者は違う。 帰路の車中でも話は尽きなかった。私は来月の沖縄行きと倹約中の話。Y田さんは来週走る「湯のまち飯坂マラソン」や「東京マラソン」の話。そして心ばかりのガソリン代を出そうとしても彼は受け取らない。私の切ない倹約話を聞いた後では、とてももらえないとのこと。う~む。決して「作戦」の積りではなかったのだが。 色んなハプニング続きでハラハラした今回のレースだったが、何とか無事に帰れるのが嬉しい。例によって高速道路ではものが二重に見えるけれど、ようやく安心出来た。それに僅かながら財布にも残金が。SAに寄った際にそれでお土産を買った。郡山名物「薄皮饅頭」。実にささやかな土産物だが、妻の喜ぶ顔が見えそうだ。<完>
2009.10.27
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< 高原の不思議な光景 > それでも名前を呼ぶ声は止まない。何気なく振り向くとY田さんが立っていた。おまけに佐渡で一緒だったA井さんの姿も。一瞬何事が起きたのか理解出来なかった。Y田さんの話によれば登山した場所から未明のうちに東山温泉へと向かったのだが、スタート時間を1時間間違えていたとか。そして大勢のランナーがスタートするのを不思議そうに眺めていたそうだ。 一方のA井さんはこの朝会津若松駅でもたつき、始発のバスに乗り遅れた由。そのため会場までの6kmを走って来たそうだ。遅刻した2人は遅れてスタートし、必死に追い駆けてここまで来たのだろう。まさかそんな事情があったとは知らない私は、ずっと1人で悩んでいたのだった。「どうも済みません」。何度も謝るY田さん。 ASで手早くエネルギーを補給した2人はあっと言う間に前へ行った。ここから先には50kmの部の選手しかいない。緩やかなアップダウンはあるものの、道路は舗装されてとても走りやすい。やがて視界が開け、布引高原が一望できる場所まで来た。周囲には夥しい数の風車。3枚羽根の風力発電機が風を受けて回っている風景は、とても信じられないほど壮観。さて、一体どれくらいの数になるのだろう。 ようやく2人に追い着くと、地元のランナーであるA井さんが私達に説明してくれた。ここ布引高原の標高は1080mで、設置された風力発電機は33機。日本でも一番多いとのこと。風車の高さは100mもあるらしい。そうなると羽根の長さは50mほどか。そしてスタート地点の東山温泉が標高350mだったから、ここまで一気に730mも登って来た計算だ。 33機もの風車が回る光景は、全く別世界のものだった。主催者のE藤さんが、フルの選手にも見せたいと話していたのが良く理解出来る。そしてこの珍しい風景を多くのランナーに知ってもらうために、彼はここ布引高原を舞台にしたレースを次々に企画したのだろう。 周回コースを半分以上回った地点にもASがあった。ここでは思いがけないトン汁のサービス。多分作り終えて数時間も経つのだろう。既に冷え切っていたトン汁だが、ありがたくいただく。地元のボランティアに冗談を言うA井さんが69歳で、206kmの佐渡島を完走したことを教えると、一様に驚いていた。65歳の私が153km地点で抜かれたと話すと、さらに驚く彼ら。 お礼を言って再び走り出す。右手の奥に磐梯山が見えるとY田さん。遥か彼方に特徴のある山容が確かに見えた。そしてその手前にはキラキラ光っている猪苗代湖も。さすがは標高1000mを超える高原。なるほど、E藤さんがレースの舞台にしたいわけだ。再び2人は先行して前へ行き、私は必死で後を追い駆けた。 復路29km地点のASで、ようやく彼らに追い着く。ここでもA井さんのことをスタッフの人に話すと大変な反響。それはそうだ。69歳の老人が若い人でさえ困難な距離を楽々と走るのだから。2人は食べ終わると早くも下山に向かった。50kmの部の制限は8時間。後はゴールまで真っ直ぐ下るだけ。私はスタッフの人と話をしながら、ゆっくり食事を摂った。「200kmを走るのにどんな練習をするんですか」。その質問に、「今日の50kmも練習なんですよ」と私。<続く>
2009.10.25
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< 背後からの呼び声 > 「もう直ぐお寺がありますよ」。Eさんが言う。「へえ~っ、こんな山の中にお寺?」。私はとても不思議な気持ちになった。前方では2人のスタッフの方が小旗を振りかざし、左折を促している。コースは一旦山道から外れて、お寺の境内へ向かうようだ。呆気に取られながらお寺の門を潜る。坂を登り切ると数名のスタッフの方が手を振って待っていた。 そこがちょうど10km地点の正雲寺AS。看板によれば境内には美術館もあるみたいだ。スポーツドリンク、コーラ、バナナなどが用意されていたが、私は水を飲み、ミニトマトとキュウリの漬物をいただいた。これは助かった。確かに長い距離を走るためにはエネルギーの補充が欠かせないのだが、体調を整える食べ物の存在もランナーにとっては有難いことだ。 再び山門を下り、山へと向かう。やがて舗装が途切れて砂利道に変わった。これは厳しい。小石がゴロゴロで走り難いし、下手をすると捻挫をしかねない悪路。おまけに未明の雨でぬかるんだ箇所もあった。それでも相変わらずEさんとの会話が弾み、気を紛らわすことが出来た。徐々に傾斜が険しくなり、懸命に彼女を追いかける。 18km地点のASを過ぎた辺りで、トップランナーが駆け下りて来るのが見えた。もちろんフルの部の選手。まだ30代後半か40代前半の屈強な若者で、相当鍛えているランナーみたい。後続のランナーの姿は暫く見えず、文字通りの断トツ状態だった。ようやく2番手の集団が下りて来た。こちらも若いランナーだが、表情に余裕が無い。きっと必死で走っているのだろう。 駆け下って来る選手の中に中年ランナーも混じり出す。ザザーと滑る音。この悪路を猛スピードで下れば、きっと転ぶ人も出て来るだろう。やがてEさんとの距離が次第に開き出し私は1人になった。「サロマ」を9回完走し、「サロマンブルー」に王手をかけている実力ランナーの彼女にとっては、きっとペースが遅過ぎたのだと思う。 苦戦しながら砂利道を登っていると、前方からランナーの集団。「マックスさ~ん、もう直ぐ折り返しですよ~」とEさん。でも直ぐに思い直したのか「マックスさんは50kmでしたね~」。その声を残し、彼女の姿はあっと言う間に視界から消え去った。軽快な彼女の姿を目に焼き付けながら、ひたすら山を登ると前方に人影。そこが21km地点、布引高原の第3ASでフルの部の折り返し地点だった。 目の前に巨大な風力発電機が3機ほど見える。これは凄い風景だと感心しながら、番号のチェックを受ける。ASに用意された稲荷寿司を食べ、スポーツドリンク、梅干、バナナなどを口にする。やれやれ。これほどASが充実してるならリュックを背負って走ることもなかった。ようやく気持ちが落ち着いた時、背後から何度か私の名が聞こえた。「きっと同姓のランナーだろう」。まさか自分の名前が呼ばれたとは少しも認識してなかったのだ。<続く>
2009.10.24
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< 会津魂と自然美 > 私の心配をよそに、コースの風景はどんどん変化して行く。スタートから1km辺りで東山ダムが右手に見え、ダム湖が暫く続いた。木々の中には色づき始めたものも多く、都会よりもずっと早く秋を迎えていることが分かる。川の名は湯川。いかにも温泉場らしい名前だ。 最初の給水所は4kmほどのところだろうか。スタッフの人が2人、小さな柄杓を手にしていた。私はそれを奪うようにして飲んだ。冷たい山の水が喉に沁みる。帰路にも立ち寄ったところ、何と2個の柄杓は雨だれのように岩から滴る湧き水を受け止め、ほんの僅かしか溜まっていなかった。あれではとても選手の給水に間に合わないだろうと思いつつ、なぜか微笑ましくなった。 「これくらい緩い坂なら楽ですね」。そう言って追い抜いて行ったランナーの背中に、「頂上付近はきっと傾斜が厳しいんじゃないの」と応じる。なおも走って行くと、渓谷に小さな滝が見え出した。「凄いなあ」。驚いているランナー。「これは自然そのもののコースだね」。私も驚く。 どれくらい走った頃か、「救急連絡員」のゼッケンをつけた女性ランナーが目の前に見えた。興味を抱いて話し掛けると、スタッフの人にその役目を頼まれた由。東京からレースに参加したが、地元出身なのだとも。そこで私の質問癖がむくむくと頭をもたげた。「会津の女性の気質はどうなんでしょう」。突然の不躾な問いにも関わらず、暫く考えた後で返って来た答えは「我慢強さでしょうか」。 ふ~む。案内してくれた小父さんは会津人の気質を「素朴さ」と答え、今また女性ランナーからは「会津婦人は我慢強い」との返事。なるほどと思う。きっと素朴で我慢強い会津魂が、かの会津戦争でも幕府に対する忠義心と相俟って、最後まで官軍と戦う道を選択させたのだろう。 「ならぬことはなりません」とは誰の言葉ですか。この質問に対しては、「野口英世のお母さんじゃなかったかな」と彼女。会津若松市内の看板に書かれていた言葉を思い出して尋ねてみたのだ。「駄目なことは駄目」。「人の道に外れたことをしてはいけない」。今時そのような道徳的な言葉を市内の中心部に堂々と掲げている都市が他にあるだろうか。誠実で清廉な会津魂は、やはり今でも健在なようだ。 女性ランナーの名前はEさん。現在お住まいの市を聞いて思い当たる人がいた。「ちっちさんを知っていますか」。「ええ、知っていますよ。良くお宅に伺っています。ご主人のさり~♪さんはお料理が得意なんですよ」。ひゃ~。これは驚いた。同じ市なのでもしやと思って尋ねたのだが、かなりの仲良しだったようだ。 続いてSパパ、星峰さん月峰さんご夫妻、髭カクさんなどの名前を出してみたが、どなたも良くご存知とのこと。その後はSパパが走った「トランスヨーロッパ」の話、国内の著名なウルトラマラソンの大会などの話に花が咲いた。偶然話しかけたことがきっかけで仲間の輪が広がったような気がし、心配事もコースの厳しさもすっかり忘れてしまった私だった。<続く>
2009.10.23
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< 会津人気質とは > 博物館を出てホテルへ向かう途中、たまたま鶴ヶ城の堀が目に入った。下を覗くと水はなく空堀状態。それでもその深さと大きさに驚く。上杉景勝が米沢へ去った後、城主は蒲生秀行から加藤嘉明と変わり、寛永20年(1643年)に徳川二代将軍秀忠の子で三代家光の腹違いの弟である保科正之が会津23万石の領主となった。彼が会津松平家の祖であり、爾来親藩として伊達や上杉の外様大名を牽制する役割を担う。 時は移って幕末の嘉永5年(1852年)。松平容保が第9代の藩主となる。容保は文久2年(1862年)に京都守護職を命じられ、後の新撰組と共に勤皇の志士を厳しく取り締まった。戊辰戦争が勃発すると、容保は奥羽越列藩同盟の中心となって鶴ヶ城に篭城して抵抗した。積年の恨みを晴らすべく、官軍の攻撃は激烈を極めたようだ。新撰組総長近藤勇もこの地で戦死。いわゆる会津戦争だ。堀も石垣も、それらの戦いを見て来たのだろう。 追手町の交差点から右折して神明通り、中央通りを経て駅前へ。ホテルは複雑な裏通りにあった。早速チェックインを済ませ、宿泊費4500円を支払う。大浴場は6時から入れる由。念のために近所のコンビニの場所を聞いておいた。安い部屋だが感じは悪くない。荷物を置いてテレビを点けると、偶然にも楽天の勝利インタビューが始まっていた。 あらら。何と、田中の先発で4対1の勝利だった模様。これでCS第2ステージへの進出が決定だ。不惑を超える山崎が3ランホームランを打ったみたいで、まさに勢いを感じる楽天の試合運び。試合を観ることは出来なかったが、実に嬉しい結果だった。放送終了時間まで観た後、暫し睡眠。 夕刻買い物のため外出。2食続けて弁当ではさすがに淋しいと思ったその時、ここ会津が発祥のラーメン店K楽苑を発見。喜び勇んで特製ラーメン、玉子乗せ丼、餃子のセットを注文。倹約中の身だが、800円ちょっとの料金も今夜は特別大目に見よう。帰路コンビニに寄り、缶ビールと翌朝用の弁当などを買う。 ホテルに戻って缶ビールを飲み干し、大浴場へ向かう。無人の風呂は気持ちが良かった。夜9時からNHKの特別番組で東北楽天の特集。内容は確かマー君の成長ぶりなどだった気がする。ベッドに入りながら観たせいか途中で眠ってしまい、いつの間にかスポーツニュースに変わっていた。楽天の勝利の場面を確認して就寝。 夜半何度か目覚め、朝4時15分には起床。タイマーは5時半にセットしていたのだが、やはり興奮していたのだろう。早速身支度を整え、早い朝食に取り掛かる。ところがポットがない。仕方なく水で味噌汁を作った。ヒレカツ弁当は冷蔵庫に入れなくても大丈夫だった。何とか喉に流し込み、デザートにミカンを食べる。最後に血圧降下剤を服用。 部屋の鍵を閉めてフロントへ。だが誰も居らず、鍵をカウンターに置いて出発。外はヒンヤリ。気温は10度ほどか。念のため手袋はしていた。前日に歩いたコースを逆に辿って博物館方面に向かう。空にはまだ星が出ていた。そんな早朝に歩くなんて滅多ににないこと。博物館を過ぎ、県立病院を過ぎると未知の道になった。夜が明けて、山の向こうの空が少し赤い。 宝町の交差点から東山街道へ向かっている時、リュックを背負った人が後を追い駆けて来るのが見えた。「マラソンに出るんですか?」。私が尋ねると「朝の散歩ですよ」との返事。同じ方向に行くようなので、小父さんに色々尋ねた。会津若松の人口は、合併前が11万人で合併後が約13万人。会津人の気質は素朴とのこと。ふ~む。どうやら私が感じていた通りだ。 レースのことを話すと、小父さんが驚いている。50kmコースの折り返し点である布引高原までの登りは勾配がきつい由。東山温泉の入り口を過ぎ、トンネルを抜けると気温がどんどん下がって来た。渓谷なので、市内と比べかなり冷え込むのだろう。結局ホテルが見える場所まで案内してくれた後、小父さんは引き返して行った。彼が行く山を後で地図で調べたら、少し方角が違っていた。それを厭わずに喜んで案内してくれたのは、やはり会津人の素朴さだ。それにしても道路脇にある「ランニング練習中 ~ランナーに注意~ 」の看板は何だろう。<続く>
2009.10.21
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< 会津の歴史を辿って > 福島県立博物館の正面には、稲束を積んだモニュメントがあった。豊穣の秋をイメージしたものだろうか。入館料を払って常設展から観覧。その途端に驚く。普通の県立博物館なら、ほとんどが考古学や日本史の学問的な展示のはず。だがここではそれらの展示の中に、民俗学的な芸術作品が混在していた。一体これは何を意味しているのだろう。 その疑問が直ぐに解けた。1時半から館長の講演会が開かれるとの館内放送。その館長の名前を聞いてピンと来た。赤坂憲雄氏と言えば山形にある東北芸術工科大学の教授で、民俗学の研究者のはず。何故ここの館長になったのだろう。館員に尋ねても、就任の理由は知らないとのこと。 彼は長年の研究成果を「東北学」として世に問う新進気鋭の学者。きっと民俗学の見地から、新たな視点で博物館全体の展示を見直したのだと思う。でも、民俗学のイメージが強い芸術作品を、考古学や郷土史の展示に混合するのはいかがなものか。 古墳時代の展示の中心に会津大塚山古墳があった。全長114mの前方後円墳は4世紀後半のもので、東北地方では宮城県の雷神山古墳、遠見塚古墳に次いで第3位の大きさ。この古墳の特徴は豊かな出土品で、全てが国の重要文化財として指定されている由。葬られた遺体を収める棺は2つ。いずれも割り竹式木棺のようだ。 出土品の中でも環頭太刀の見事さは群を抜いている。そして特筆すべきなのが「三角縁神獣鏡」の出土。これは奈良の椿井古墳を中心にして出土するもので、ここ大塚山古墳出土の鏡と全く同じ鋳型から作られた鏡が、九州、岡山、近畿、関東からも出ている。つまり紀元300年代後半には、近畿の政権と極めて近い関係にあった豪族が、既に東北南部に存在したことを意味する。 日本書紀によれば、開化天皇の同母兄にあたる大彦命(おおびこのみこと)、その子である武ぬな(さんずいに亭)川別命(たけぬなかわわけのみこと:古事記では建沼河別命:阿倍氏の祖と伝えられている)が四道将軍の一人として、諸国を統治するために王から派遣された由。父は北陸道を平定、息子は東海道を平定して合流したのが、ここ会津の地のようだ。それは神話に過ぎないが、一面の真実を伝えていると思うのだ。 ある研究によれば、父は阿賀野川を遡上して会津に到達し、息子は鬼怒川を遡ってこの地に辿り着いたのではないかとの説。いずれにしてもここ会津がかなり古い時代から、日本海側と太平洋側の双方から人々が集まって来た証左とも言えよう。前から抱いていた謎が少しだけ解けたような気がした。 一方企画展の「岡本太郎」関係は、少々期待外れ。展示の中心は彼が撮影した民俗学関係の写真だったからだ。漫画家である岡本一平を父とし、小説家の岡本かの子を母として育った太郎は奔放な芸術家として世界的に有名であるが、パリ大学で民族学(文化人類学)を専攻したことはあまり知られていない。そんな経歴のせいか、彼の足跡は沖縄の離島から東北の村々まで残されている。人々の暮らしや祈りを自分自身の目で確かめ、写真と言う形で後世に伝えたかったのだろうか。 中世以降の会津についても若干記しておこう。まずこの地を治めたのが芦名氏。至徳元年(1384年)に芦名直盛が黒川城を築いた。その芦名氏を天正17年(1589年)に伊達政宗が滅ぼす。だが豊臣秀吉の奥州仕置により、その翌年この地は蒲生氏郷のものになった。その後、豊臣の五大老である上杉景勝が慶長3年(1598年)に120万石の大大名として会津に進出し、新たな城の普請に取りかかった。 それを咎めたのが、秀吉亡き後の徳川家康。彼は豊臣の恩義を守る上杉に難癖をつけ、米沢への転封を命じた。それ以降家禄が一気に4分の1となった上杉家の困窮が続き、やがて九州の飫肥藩から迎えられた名君の誉れ高い上杉鷹山公が、米沢藩を救うことになる。そして幕末の戊辰戦争で会津は、官軍によって木っ端微塵に粉砕される。まさに血で血を洗う歴史の一こまだ。<続く>
2009.10.20
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< 謎を解く旅 > 10月16日金曜日。この日はパリーグCS第1ステージの緒戦。監督の辞任問題ですったもんだの大騒動があった我が東北楽天が、3位の福岡ソフトバンクホークスをKスタに迎えての戦いだった。結果は11対4の圧倒的な差で勝ち、第2ステージ進出に王手をかけた。エース岩隈の完投、主砲山崎のホームランを初めとする先発メンバー全員安打の猛攻は予想外のもの。この夜は遅くまでスポーツニュースを観、高ぶる気持ちで床に就いた。 だが眠ってから1時間後、0時過ぎに愛犬の異様な鳴き声に目が覚めた。犬小屋へ行って愛犬を庭に放す。きっとオシッコが詰まったのだろう。急いで裏庭へ行った愛犬が、暫くしてから戻った。案の定と安心して鎖につなぎ、再び床に就く。だが、結局3度起こされ、最後は真夜中の散歩となった。原因は下痢。それも血便だった。朝の5時にも起こされ、再び散歩へ向かった。異変の原因は、餌の配合率しか思い浮かばない。本来の餌が足らなくなって、他の餌を多目に混ぜていたのだ。 朝食後、妻が友人と会うために外出。その後、私も駅に向かった。会津若松行きのバスは9時50分の発車。ゆったり1人掛けにすれば良いものを、混み合うと考え1番前に相席で座った。品の良い老婆を横にして、私はスポーツ新聞の楽天勝利の記事に夢中。だが、徐々に暑くなる。1番前の席は直射日光が当たるのだが、隣の老婆はスヤスヤとお眠り。我慢して暑さに耐える。これも来月走る沖縄本島縦断のための訓練だ。 会津若松が近づいた時、老婆が「運転手さんが居眠りしてる」と私に耳打ち。座席からの角度でそんな風に見えなくもないが、もしそうだとしたらバスは蛇行し、道路脇のガードレールに激突するだろう。そう話すと、ようやく老婆は静まった。1番前にいる私達の会話は、当然運転手にも聞こえたはず。高速道路から会津若松市内に入り、老婆はそそくさと下車した。 市内の地理は良く分からないが、兎も角終点まで行ってみよう。終点近くなってから運転手さんに県立博物館の場所を尋ねた。だが知らないと言う。ちょうどその時、博物館への矢印が車内から見えた。案外近そうで良かった。リュックを背負ってブラブラ歩き、バス停で東山温泉行きの時刻を確認。そこからは8時台のしか出ていない。マラソンのスタートは8時だから、これではとても間に合わない。 歩いているうちに、お城への標識を発見。時間は12時半過ぎ。まずはお城へ行って昼食にしよう。トイレに寄ってから城内へ入る。天守閣の前にお誂え向きのベンチがあった。これは良い。どっかと腰を下ろし、リュックからお握りを取り出す。これも来月の沖縄行きの旅費を捻出するための倹約策として、この朝自分で作ったもの。塩加減も良かったし、海苔、梅干、昆布の佃煮の味もグー。おかずの卵焼きと漬物も美味しかった。 食べ終えて直ぐ、目前の観光案内所に気づく。近づくと観光用のパンフレットが何種類か置いてあった。正確そうな市内の地図を開くと、明日訪れる東山温泉も書き込まれている。案内所の人に、距離を尋ねるが車でしか行ったことがないと言う。しかもスタート地点のホテルはさらにその奥で、地図からはみ出しているようだ。 地図に書き込まれた距離を目算すると、最低でも6kmはありそう。駅前のホテルから歩くとたっぷり1時間半はかかりそうな気配。だが、大体の方向と距離が分かって少し安心。さて、会津若松城の別名は鶴ヶ城。戊辰戦争の時は官軍の猛攻撃を受けて焼け落ちたはず。それを飯盛山から眺めた白虎隊の少年藩士達が自害して果てたのは有名な史実。 今年はNHKの大河ドラマ「天地人」が人気沸騰。名門上杉氏が本拠地の上越から秀吉の命によりこの会津若松の地に移され、家康の怒りを買ってさらに米沢へと追いやられるストーリーが、人々の同情を呼ぶのだろう。例年より観光客が相当増えている感じだ。だが、見上げる天守閣がコンクリート製のちゃちなもので、いかにも人工物と分かるのが興ざめだった。 地元の方に道を尋ねながら、次に県立博物館へと向かう。場所はお城の近くで、一見して博物館と分かる佇まいだった。玄関に立つと、秋の企画展として「岡本太郎の博物館 ~はじめる視点~」の案内板。これは良い時に来た。かなり期待出来るかもと心が騒ぐ。私が博物館へ来たかった理由は「会津とは何か」を探ることにあった。 太古、人々は長い旅の末にこの盆地に辿り着いた。一方は日本海側から、そしてもう一方は太平洋側から。それらの人々が集まり出会った地が「会津」の名の由来であることを以前から知ってはいたが、それを実感させる展示がこの博物館で見つかるかどうか。「会津」の謎を解く鍵の発見。それが翌日のマラソンに次ぐ私の重要任務だった。<続く>
2009.10.19
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< 打ち上げ そして別れ > O川さんの待つテーブルへ行き、がっちりと握手。私の到着があまりにも遅いので心配だったそうだ。彼は33時間台でのゴールだった由。仙台を発つ時「O川さんは35時間台、そして俺は45時間台でゴールすると思うよ」と感じたまま話したが、結果はほぼその通りになった。 席に着くと早速兵庫県のK茂さんが、缶ビール、ご飯、スープ、ベーコンを運んでくれた。舘ひろしにそっくりの彼だが、疲労骨折の後遺症のため確か140kmほどでリタイヤし、その後はボランティアを買って出た由。途中リタイヤでも納得できる結果だったのか、表情は終始にこやか。その旺盛なサービス精神にはこちらの心まで暖かくなった。 スープにご飯を混ぜて食べ、ベーコンをつまみにビールを飲む。もうご飯は残り少ないようだが、ガス欠の体にはそれでも十分な量。食事後は早々に荷物を受け取り、部屋へ戻った。室内では仲間のT田さんと最年長のA井さんがまだ起きて私を待っていた。早速T田さんと堅い握手。K藤さんと共に39時間台でのゴールだった由。だが、新潟のF川さんと関西の若手ランナーの姿が見えない。 着替えを持って風呂へ行く。さっぱりして部屋へ戻ると、T田さん、A井さんの2人は既に布団の中。自分の布団を見ると、先刻座った場所に血が広がっている。股ずれによるものだ。汚してしまったが仕方がない。傷跡にオロナイン軟膏を塗り、電灯を消して布団に潜り込む。あっという間に深い眠りに落ち、起きたのが8時過ぎ。5時間近く眠れたことでかなり疲労が回復出来た。 朝、関西の若者は途中で道に迷ったと愚痴をこぼす。かなり難儀したようだが、コース説明の際に注意を良く聞いてなかったのが原因だと思う。1階の大広間へ行くとあの不機嫌な女性ランナーがベンチで寝ていた。「何時に着いたの?」と尋ねたら、返事は「1時間前」。それが制限の1時間前、つまり今朝の5時なのか、それともたった今なのかは不明だったが、詳しくは聞かなかった。 三々五々仲間が集まって来る。K藤さんはほとんど疲労の痕跡がなく元気そのもの。F川さんは最後までT居さんと一緒に走り、ゴールした由。T居さんに「1年間、良く頑張ったね」と話すと、彼女は急に涙声になった。ちょうど1年前、ご主人を癌で亡くしたことを聞いていたのだ。F川さんからは昨年の「佐渡島」のレース中に、ご主人が逝去したと彼女から連絡を受けてモチベーションが下がり、リタイヤしたと聞かされていた。 会に先立ち事務局のS木さんから、参加者80名中完走者は60数名で、時間外完走者が3名と発表。ビールで乾杯し、朝食兼用の打ち上げ会が始まる。晴れ晴れした顔の選手。疲れ切った顔の選手。私は刺身などの豪華なおかずが嬉しくて、ご飯も味噌汁も何度かお代わりをした。満腹したところで千葉のボクシ~どんを表敬訪問。来年春の「さくら道」を目指す彼にとっては多少不満な結果だったようだ。 挨拶に来てくれたのが横浜コンビ。私が完走したことが少々意外だったようだ。それくらい2日目の私はヨレヨレだった。それなのに仲間のT田さんとK藤さんは、6日後の「秋田内陸」へも挑戦すると言うのだから凄い。佐渡の厳しさを知るからこそ、2人の果敢な挑戦には頭が下がる。だが亡くなったR子さんの場合は、生前6週連続でウルトラマラソンを走ると言う離れ業を実行していたのだから恐れ入る。 帰路のジェットフォイルで、仙台のT橋さんと再び一緒になった。今回の佐渡島一周は、若い彼にも強いインパクトを与えたようだ。ウルトラレースの前夜にアルコールを口にしたのも初めての経験だったと彼。帰宅後彼から届いたメールには、「これからも出愛(であい)を大切にしたい」とあった。 長い距離を走るウルトラマラソンには色んなドラマが起こる。そして多くの仲間との出会いもある。同じレースに参加し、厳しい戦いを共有することで、一層親しみが増すのだろう。今回のレースが、果たして亡きR子さんの鎮魂になったかどうかは分からない。だが、人間強い気持ちさえあれば、何とかゴールへ辿り着けることだけは証明出来たように思う。 ありがとう仲間達。ありがとう遥かなる佐渡島。そして、ありがとう天国のR子さん。見る見る遠ざかる佐渡の島影を追いながら、私は心の中でそうつぶやいた。<完>
2009.10.08
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< 見つからないゴール > 旧佐和田町は佐渡の西海岸にある町で、北朝鮮による拉致被害者だった曽我ひとみさんとジェンキンスさんの一家が住んでいる町でもある。この町の長さを今回ほど感じたことはない。最後の食事をしてから私はひたすら夜の街を走り続けた。河原田、窪田、沢根。どれも旧佐和田町の町内だ。 今回34時間台で走破した秋田のJunさんが両津のフェリー乗り場へ帰る途中、車中から私のことを探してくれたようだ。多分苦しみながら走っている私に、薬などを渡そうと考えた由。だが、私がこの町に到達したのは、その7時間くらい後。最後の力を振り絞って、ひたすらゴールを目指していたのだった。 相川方面に向かう県道31号線との分岐点に達したのは、3日目の0時を既に10分ほど過ぎていたころだと思う。ここにゴール地点である「ホテル夫婦岩」の看板があり、距離は8.8kmと書かれていた。やれやれ、ようやくここまで辿り着いたかと言うのが本音。だが、ここからゴールまでは、まるで地獄さながらの旅となった。 辺りは真っ暗になり、初めは比較的緩かった傾斜が、疲労と共に物凄い坂道に感じるようになる。月も星もない夜。食べ物はとうに尽き、お茶を飲みながらの前進。悪化する体調を何とか和らげようとアスリートソルトを齧るものの、それでは少しもエネルギーにならない。 198km地点の羽生周辺。ここは第2回の時、真夜中の0時過ぎに女性が歩いていた場所。秋田のJunさんは、あれは確かに幽霊だったと言うが、私は懐中電灯を向けなかったので良く見えなかった。そのことを思い出し、周囲に懐中電灯を向ける。女性はおろか誰もいない。聞こえるのは虫の声だけだ。火力発電所までは何とか走れたが、ついにガス欠となり歩き出す。 200km地点の二見集落の自販機で、カフェオレを買う。これは何とか体が受け付けてくれた。甘さが少しはエネルギーに変わったようだ。だが、延々と続く登り坂を走ることは出来ない。そのうちに電柱や家の明かりが、二重に見えるようになって来た。これは私が疲労の限界に達した証拠。201km過ぎの岬を廻るのも分かったし、202km地点の米郷集落を通過したのも分かった。 だが203km地点の稲鯨集落辺りから、急に距離感が狂って来た。見覚えのある建物が見つかると安心するのだが、ゴール地点がなかなか分からない。ようやく下り坂になり、ゆっくりと走る。滲む明かり。あれが目指すホテルかと思って近づくと単なる灯火。徐々に落胆の度合いが強まり、最後は不安感に襲われるようになった。「マックス~っ!(愛犬の名前)、お母さ~ん!、R子ちゃ~ん!」闇夜に吸い込まれる叫び声。 ひょっとして、ゴールを見過ごしたのではないか。そう考えて再び戻り、やはりそうではないと前進。さらに行くと、もうゴールの先にある相川に達すると考え、2度めの逆走。丘の上に一際明るいネオン。やはりあれがホテルだったと近づくとまるで違う風景。あまりの疲労に、とうとう感覚がおかしくなったようだ。 電灯の下で地図を確認する。ゴールは104km地点の橘集落の先にあるはずだが、それが見つからないのだ。地図の記載に間違いないが、私が確認したのはバス停の名前。地図の集落名は大字なのに対して、バス停の名前は多分小字だったのだろう。神経が正常であれば簡単に気づくことも、異常だと地図がおかしいと感じパニくってしまうのだろう。 もう笑うしかない状態。もう何時までにゴールしようなどと言う考え方はとっくに捨てた。このまま朝まで彷徨うのも笑い話で面白いかも。やけくそになって3度めの逆走中に前方から車。これを逃す手はない。道路の真ん中で懐中電灯を点滅させ、車を停めた。地元の人なら助かる。そう思ったのだが、光の中から現れた顔はスタッフのSパパだった。 私の訴えを冷静に聞いたSパパは、「ナビゲーション」を指差しながらゴールまで後3kmほどあることを私に説明した。ええっ、後3kmも?? まさかあの分岐点からまだ5kmちょっとしか来てないとは。私の距離感は一体どれだけ狂っていたのだろう。良かった良かった。これでゴールを通過してないことは確認できた。 喜び勇んで坂道を下る。ゴールまでの実際の距離は残り1.5kmほどだった。前方にホテルの明かり。そして大勢の人がホテルの前でランナーの到着を待っている。喜び勇んでホテルの敷地へ。スタッフの人が私の名前を呼ぶ。「Aさんゴール」。時間は3日目の真夜中、2時11分35秒。ついに長いレースは終わりを告げた。そんな深夜にも関わらず、私の到着を辛抱強く待っていてくれたのがO川さんだった。<続く>
2009.10.07
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< 復活したランナー しゃがみ込むランナー > 182km地点の西大須辺りまで来た時、前方に揺れる赤色灯が見えた。近づくと女性ランナーが歩いているようだ。思わず「Yちゃん?」と尋ねると、「YちゃんでもI井のYちゃんなら前へ行きましたよ。私はY口のYちゃん」。とおどけた返事。さらに「真野湾が見えないとモチベーションが上がらなくて」とも。私は「真野湾ならもう直ぐ見えると思うよ」と答え、先を急いだ。 「へえ~っ、真野湾がねえ」。胸の中で女性ランナーの言葉を反芻する。やがて下り坂が右に曲がり出す地点に到達すると、眼下に巨大な明かりの連鎖が見え出した。私は後ろの闇に向かって叫んだ。「真野湾が見えたよ~!!」。右手前に真野の町並み。そして佐和田から対岸の台ヶ鼻灯台まで連なる光の輪が闇の中に浮かぶ。ゴールまで残り24km。洋上を越えて対岸まで真っ直ぐに行けるならさぞ楽だろうが、夜の道は湾曲して遥かに遠い。 183km過ぎ。背合バス停の待合室で一休みし、お握りを食べた。ここは第1回と第2回の時、夜通し走ったランナーが一眠りしていたところだ。冷たい夜風を避けるためには格好の場所なのだが、疲れて休もうと中へ入ると何時も先客で満員だった思い出の場所だった。 目の前を2人のランナーが続けて走り去った。そのうちの1人は先ほど抜いたY口さんに間違いない。「頑張って~!!」と声を上げる。つい先ほどまで歩いていたランナーが、湾の夜景を見て勇気を振るい起こし、ロングスパートを掛ける。私はあまりの変貌に驚嘆した。やはり若いランナーはパワーが違う。 再び夜道のランに復帰。だがとても彼女のようなスピードは出ない。恐らく他人から見れば、ほとんど歩くのと変わらない速度だろう。185km地点の豊田周辺で、ようやく平地となる。そこから真野の長い長い町並みが始まる。 187km地点。真野新町周辺で私より遅いスピードで走る青年と出会った。彼が言う。「ゴールまで後10kmです。頑張れば12時までにはゴール出来ますよ」。「12時までにゴール出来るの。それは嬉しいね」。そう返事して私は抜き去った。だが、彼の言葉を真に受けていた訳ではない。地図を確認してはいないが、これまでの経験からそんなに近いはずがないと感じていた。 ここは過去2回、真夜中に必死で歩き通した場所。189km地点の手前で国府川に架かる橋を渡る。橋の上に釣り人の老人1人。「何が釣れるんですか」と尋ねると、答えはセイゴ。体長15cmほどのスズキの幼魚が数匹、魚篭の中に横たわっていた。 橋を渡り切るといよいよ佐和田の街。ここも長い町並みが続くところ。だが疲れたランナーには町並みの明るさが嬉しい。そして夜間の車道はすれ違う車が極端に少ないため、安心して走れるのが助かる。日中のまだ明るいうちにここを通過したランナーは、凸凹の激しい歩道を走らざるを得ず、とても大変だったと後で聞いた。 190km地点の八幡まで来た時、急にガス欠を感じた。道端に腰を掛けて先ず地図を確認。やはり自分が思った通りだった。ここからゴールまでまだ16kmもある。リュックから食べ物を出す。第4ASでもらった小さなお菓子1個。カロリーメイト1本。そして栄養ジェリーが半分。あまり空腹を満たせないが、それが残された食べ物の全てだった。 先ほど抜いた青年がようやく追い着いて来た。私が「ゴールまで後16kmもあるよ」と言うと、「ええっ!」と驚き、自分でも地図を見始めた。そして私の言葉が偽りでなかったことを悟ったのだろう。長い沈黙の後彼は道端にしゃがみ込み、そのまま石のように動かなくなった。 ゴールが近いと信じていた青年にとっては残酷な結果だが、これがウルトラマラソンの怖さ。地図を確かめないで走っていると、先ず正しい現在地が分からなくなる。それに極度の疲労状態で走る夜の道はスピード感がまるで違い、判断を狂わすことが多いのだ。まさか自分までが彼と同じ苦しみをこの数キロ先で味わうことを、この時はまだ予知していなかった。<続く>
2009.10.06
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< ベテランの走り > 眠りから目覚めると、気分がすっきりした。食べた後で胃薬も飲んだためか、吐き気もすっかり治まっている。これは凄い。わずか15分ほどでも睡眠の力は絶大なものがある。心配していた横浜のA津さんのことをSパパに尋ねてみた。何と結局彼は約160km地点のここまで走り、たまたま居合わせたS木氏の車に同乗してゴール地点へ向かった由。そうか、それは良かった。 第4ASのボランティアの方々にお礼を言い、お菓子1個とバナナ1本を補給し、さらにトイレに寄ってから再びレースに復帰した。再スタートは14時50分。ちょうど1時間ここで過ごしたことになる。時間はロスしたが、体が休まったのが何よりの収穫だった。勇んで沢崎の橋を渡り、2つのトンネルを潜ってゴールへと向かう。残り46km。元気な状態なら5時間半ほどで着く距離だが、実際は11時間20分ほどかかった。ここからが残された体力と気力を振り絞っての本当の戦いだった。 163km地点の烏帽子島を眺めながら走っていた時、後ろから1人のランナーが追い抜きざま私に声を掛けた。「ずいぶん足に来ているねえ」。同室のA井さんだった。69歳のベテランランナーが軽やかな足取りで颯爽と走り去って行く。ほんのちょっとだけ追いかけてみたものの、追い着くようなスピードではない。 ゴール後に聞いたら、彼は仮眠所で7時間半ほど布団に潜っていたと言う。何という豪胆さ。いつもと変わらぬ睡眠時間を取れて、疲労もさほど感じてなかったのだろう。だがその陰には、日ごろの厳しい練習と努力があるのだと思う。最年長ランナーの見事なレース展開ぶりに脱帽した私だった。 間もなく江積海岸。ここの浜には黒い俵のような形をした枕状溶岩が転がっている。ハワイのどこかの島では今でもこの枕状溶岩が海中で誕生してるのだとか。165km地点から一旦山道となり、木流集落で再び海岸へ出る。井坪からの山道では過去の2回とも道を迷ったのだが、逆コースの今回は迷わずに済んだ。だが、体から急に力が抜けて歩けなくなる。農道に座り込み、夫婦の農作業を呆然と眺めながら、最後のお握りを食べた。 少しだけ湧いたパワーを武器に、何とか海岸へ下る。そこから4kmほど続く素浜海岸で、左手がすべて砂浜。釣り客が何人かとランニングしている人が1人。間もなく夕暮れが近い。浜辺の先は穴だらけの砂利道になり、所々に水溜りがある。懐中電灯はあるが、日が暮れると厄介だ。それよりも飲み水が残り少ないのが気がかり。 その時、後ろから1人のランナーが私を抜いて行った。還暦は過ぎているようだが、足取りは軽やか。先ほどのA井さんと言い、このランナーと言い、これまでの経験を十分に発揮したベテランの走りを見せてもらった感じだ。 周囲は徐々に薄暗くなり、あれほど暑かった気温もぐっと下がって来た。その点は助かるが、何とか落日前に悪路を通過せねば。でもここ数日の天気で、ひょとしたら水溜りの水もかなり蒸発したのではないかと楽観も。さて、夕日と鈍足ランナーの駆け比べは、鈍足ランナーの方が一瞬早かったようだ。 水溜りは私の推察通り少し小さくなっていて、足を濡らすことは無かった。175km過ぎでようやく国道350号線とぶつかり、角のマリンスポーツショップでお茶とスポーツドリンクを補充し、18時11分に食堂へ入る。何とそこに先ほど私を抜いて行ったランナーがいて、750円のカレーライスを注文していた。私は400円のかけうどんを頼んだ。 うどんが出来るまでの間にスポーツ紙をチェック。楽天は土曜日、日曜日と連勝したようだ。出て来たカレーは大盛り。一方のかけうどんはとても貧弱な内容。それでも日中からの念願だった汁を飲めるのが嬉しい。食後、ヘッドライトと懐中電灯を取り出し、赤色灯を点火。18時40分、先行するベテランランナーを追って、漆黒の国道に飛び出す。だが、彼の姿はあっと言う間に見えなくなった。 ここからが長い長い登り坂。178km地点の田切須は第2回の時に、夜間歩いて到達した場所。そして181km地点の小立は第1回の夜間到達点だった。良く夫婦岩の仮眠所からここまで歩けたものと感心する。周囲はすっかり闇に閉ざされ、私の足音だけしか聞こえない。ゴールまで残り25km、まだ先は長い。<続く>
2009.10.05
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< 彼岸花 > 私の思考回路は一体どうしてしまったのだろう。確かに道路標識には「宿根木」方面へ行ける旨の表示があった。だが、道路はどんどん寂しくなり、いつも通った小木の街とは似ても似つかぬ景色となった。先ほど引き返したランナーがいたが、やはりここはコースではないようだ。だが、間違えた箇所まで再び戻る元気と勇気が、その時の私には既になかった。 遊んでいた子供に尋ねる。「この道は宿根木に行くんだよね」。でも子供からの返事はない。その時、陰に隠れていた地元の人が「大丈夫ですよ」と代わりに答えてくれた。それで安堵はしたものの、あれほど楽しみにしていたラーメン屋に寄る夢は無残にも消えた。食べたかった稲荷寿司。そして飲みたかったラーメンの汁。2つとも果たせなかった小さな希望。 やがて道路は曲がりくねった坂道になり、私の足はもう走る力を失っていた。喘ぎながら登る田舎道。その脇に燃えるような色の花が咲いていた。彼岸花だ。今回はこの秋の花を走りながら探していたのだが、何故かなかなか見つけることが出来なかった。それが迷子になってようやく見つかったのが何とも皮肉。遠回りの無駄骨ではあったが、彼岸花に手を合わせR子さんの冥福を祈ることが出来た。 ようやく坂を登り切り、再び県道45号線に合流。だが、ここには直射日光を避ける樹陰がない。暑い。猛烈に暑い。紫外線対策は施してある半袖シャツだが、それが暑さ対策にはならないようだ。胸元のチャックを最大限に広げて、少しでも風が通るように工夫。蒸し風呂状態には変わりなかったが、それを脱いでランシャツに着替えると言う発想が出て来ない。恐らくこの時には、既に熱中症の症状が出ていたのだと思う。 暫く緩やかなアップダウンが繰り返す。登りは全く走れず、下りだけのろのろとしたスピードで走る。同じように登りで歩くランナーが目の前に現れたが、やがて走り去った彼の姿も視界から消えた。 154km地点の元小木集落から155km地点の宿根木新田までは案外フラットで田んぼが続く。その畦道に白い彼岸花と赤い彼岸花が交互に咲いていた。ここは第2回大会で、R子さんと最初に出会った場所。道端で一緒にお握りを食べ、少し会話を交わした鮮明な記憶が今も残っている。 あの時何故彼女は私のことを「お父さん」と呼んだのだろう。生前は兵庫の尼崎に住んでいたみたいだが、亡くなる寸前には故郷へ帰りたがっていたと言う彼女。R子さんの故郷って一体どこだったのだろう。そしてお父様はおられなかったのだろうか。 厳しい太陽を浴び続けたせいか、はたまた極度の疲労のせいか、私の足は一層鈍った。体の中から次々に沸き起こる吐き気、眩暈、倦怠感、そして眠気。ふらふらになりながらも「千石船展示館」に立ち寄ってかつての北前船の勇姿を眺め、江戸時代の停泊地である宿根木の集落を通過する。 157km地点の潮見橋、158km地点の小木強清水、159km地点の犬神平も、すべて歩いての通過。その途中ファンタグレープを買ったが、最後まで飲むことが出来ず、道路にジュースを捨てた。胃がそれ以上受け付けてくれないのだ。空き缶を手にしながらさらに進むと、ようやく深浦に架かる長者ヶ橋が見え出した。 橋の真下の深浦は火口跡で、濃紺の入り江。佐渡の絶景の1つなのだが、今は何の感慨も起きない。向こう岸の公園で誰かが手を振っている。そこが159.6km地点の第4AS。まずトイレに寄り、それから倒れるようにASへ。到着したのは13時50分。小木港からここまでの約8kmの間に、1時間50分もの時間を要している。 ASにいたのはSパパと3人のボランティアの方。中でも若いお嬢さんが元気で色々話しかけて来るのだが話をする気力がないし、第一水すら飲む気が起きない。それでも何とか冷たい水を飲み、バームクーヘンの小片を口にする。お握りも、笹団子も駄目。そこでリュックからトマトを取り出し、塩をつけて食べた。続いて竹輪2本も。本当はご飯ものの方が腹持ちが良いし、しっかりエネルギーも補給されるのだが。 わずかでも食料を口にし、岬の涼風を受けているうちに、少し安心感が沸いて来た。そうだ、思い切ってここで横になろう。ベンチに寝転ぼうとすると、Sパパがわざわざマットを敷いてくれた。きっと会話も満足に出来ない私を心配したのだと思う。優しい配慮に感謝しつつゴロリ。横になったのは20分ほど。そのうち何分かは記憶がないので、多分その間10分から15分ほど眠れたのだと思う。レース中に眠ったのは今回が初めて。私にとっては深く、心地良い睡眠だった。<続く>
2009.10.04
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< 不思議な話 そして迷子へ > 赤泊港への到着は8時17分だった。ここで着替えを済ませて走り出したものの、目当てにしていたお店がまだ開いていない。第1回、第2回の時は、小さな商店でトマトや牛乳を買った。残念だが仕方がない。さて肝心のレースだが、上だけでもランニングシャツにしたため、かなり涼しく感じるようになった。 139km地点の柳集落まで来た時、前方に横浜コンビが見え出した。やはり彼らも疲れ出したのだろうか。いや、そうではないようだ。走っては休み、また走っては休む繰り返し。私も何とか追いつきそうな感じ。やがて1人だけ走り去り、1人が取り残された。追い着いてみるとA津さんが苦戦している。傷んでいた腰を庇っているうちに、右足に変調を来たしたとのこと。 ここから私とA津さんとの併走が始まる。だが昨夜のような快調なペースではなく、とてもゆっくりとした走りしか出来ない。例えそんな走りでも、走れば少しは前進する。140km地点の新保集落を通過。142km過ぎの杉野浦集落でついにA津さんの足が止まった。彼はここから10km先の小木(おぎ)でリタイヤすると言う。 9時40分。道端に腰を掛け、2人でお握りを食べる。食事を終えた後で、持っていたエアサロンパスを彼に貸した。それで少しでも痛みを和らげることが出来るかも知れない。丹念に足首を冷やすA津さん。そのまま貸しても良かったのだが、彼は遠慮して直ぐに返した。再び立ち上がり、ゆっくりと走り出す。 146km過ぎの大泊まで来た時、彼がスピードを上げた。まるで調子が戻った感じ。私はもう後を追う元気がなかった。レース中の彼の姿を見たのはそれが最後だった。後で聞いた話によれば、当初リタイヤを考えていた小木港ではちょうど良いバスの便が無かったために、結局は159.6km地点の第4ASまで走り、居合わせたS木氏の車でゴール地点に戻った由。 レースの数日後に私のブログに書き込みしてくれたところによれば、まさかヨレヨレ状態だった私があのままゴールまで走れるとは思っても見なかった由。そして自分ももっと頑張れば良かったとも書かれていた。再び1人だけの戦いが始まる。どんなに無様でも、これが今の私の姿。他のランナーに比べても何の意味も無い。胸の喪章に触って完走を祈る。 150kmを過ぎて暫く行くと、左手にパチンコ店が見えて来る。ここは小木の入り口に近い。第2回の時に、R子さんがこのパチンコ店から出て来るところに行き合わせたことがあった。「ここでは何でもただでくれるんですよ。もらって来たらどうですか」。私の顔を見るなり彼女がそう言ったのを思い出す。 不思議な店だなあ。客でもない通りすがりのランナーに、食べ物をただでくれるとは。それとも佐渡島一周レースのことをニュースで知って、特別なサービスをしてくれたんだろうか。それがその時の私の気持ちだった。そうだ。実際はどうなのだろう。彼女の言ったことが果たして本当か確かめてみよう。そう考えて、私はそのパチンコ店へ入ってみた。 中はクーラーが効いて涼しい。だが騒音が五月蝿いし、タバコの煙の臭いも漂って来て、やはりレース中のランナーが立ち入る場所ではない。周囲を見回すと、確かに色んな食べ物や飲み物がたくさん置かれている無人のコーナーがあった。ははあ、R子さんが食べ物をもらったと言うのはここか。それにしても掲示によれば、食べ物や飲み物を取る際は、代わりにパチンコの玉を置いて行くように書かれている。 天真爛漫なR子さんはきっとその掲示文を読み落とし、つい喜んで食べ物をもらって来たのだろう。これであの時彼女に聞いた不思議な話の実態が判った。だが、もう1つ不思議な話がある。今回事務局から手渡された資料には過去のレースの結果が載っていて、第2回は彼女が32時間台で3位でゴールしたように記されている。 ところが私はこのパチンコ店の前で彼女と出会った後、6人を抜いたものの彼女に抜き返された記憶が全く無いのだ。あの第2回大会で私は40時間台で走り、第14位だった。パチンコ店前は当時126km地点くらいのはずだが、そこからゴールまでの80kmの間に、私に8時間近くの差をつける力が彼女にあったとは思えない。世の中には摩訶不思議な話があるものだ。 小木の街中に入る。ここでは今後の長いレースに備えて、どうしても食べ物を買う必要がある。一際目立つ「スーパーたんぽぽ」の看板。ここだ、ここだ。早速店内に入って目ぼしい品物を探す。だが食べたかった「いなりずし」がどこにも無い。あの少し甘しょっぱいタレが染み込んだご飯が、疲れた体にはとても美味しく感じられるのだが。 あまりにもがっかりし、「ご飯もの」を選ぶ気持ちが失せた。ここで買ったのはトマト2個と500ml入りの牛乳と竹輪。結果的にはここ以外で買い物をする機会が無かった。せめて「助六寿司」でも買っておけば楽だったのだが。早速店の前のロータリーで、芝生に腰を下ろして休憩。最初に牛乳を一気飲みし、次にトマト1個と竹輪を2本。やはり「生もの」は美味い。 ついでにここで一休みして行こう。そう考えてリュックを枕にして横になったのだが、どうにも寒過ぎる。ここに着いたのが11時25分。気温は相当に高いはずなのだが、日陰で風があることと、極度の疲労のために体温の調節が上手く行かないのだ。慌ててランニングシャツを脱ぎ、白い半袖シャツに着替える。これは紫外線対策が施されたもの。半袖でも暑さ対策の出来た素材が使われていると言うのが謳い文句。この「秘密兵器」を実際にレースで試すのは今回が初めてだった。 12時ジャストに再スタート。そうだ、食べ損なった「稲荷寿司」の代わりにラーメンを食べよう。第2回の時は、小木の裏通りでお婆さんのラーメン店に寄った。しょっぱいラーメンの汁を飲めるのがとても楽しみ。だが、その思いと体の反応が一致しない。私は道なりに直進したが、ここでは右折して小木の中心部に向かわないといけない場所。1人のランナーが前から引き返して来たが、その姿を見ても私はまだ道は間違ってないとの変な確信をもっていた。<続く>
2009.10.03
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< 夜明け そして苦しみの始まり > 赤玉トンネルに着いたのは確か3時40分ころだったはず。そしてここの歩道に横になったのは20分ほどの間。仮眠所同様に眠れることはなかった。レースのため脳内から活発に興奮性の高いホルモンが分泌され、なかなかランナーを眠らせてくれないのだと思う。でも、じっと目を瞑っていたお陰で、疲労感がかなり薄らいだように思う。 起き上がってチューブ入りの栄養剤を飲み、カロリーメートを1本食べて出発。思い切って軽いジョギングから入ってみた。ほほう、これくらいなら走れないこともない。116km地点の赤玉集落通過。 ここは文字通り赤い色の石が採れるところ。第1回の時、栃木のHさんがわざわざここで赤い石を拾っている。今回私はレース後に両津港のフェリー乗り場で、小さな赤石を記念に買った。1個100円。まるで瑪瑙のように輝いている石が、今私の書架に収まっている。 121.5km地点の東鵜島集落通過が5時5分。ようやく空が明るくなり、照明が不要になった。ここでヘッドライトと赤色灯を消す。今日も天気は良さそうだ。輝く海原の向こうに、新潟の山並みが見える。南は米山から北は弥彦山までが晴れた空にくっきりと映えている。そして広大な越後平野の後ろに聳える一際高い山々も。こんな美しい朝の風景は2度と見られないだろう。 123km地点の岩首集落へ5時20分到着。海岸で朝食を摂る。食べたのはお握り1個。こんな質素な朝食でも、206kmを走るための重要なエネルギー源には違いない。喉を潤して5時40分に再スタート。海風を心地良く受け、ゆっくりとだが思い切って走ってみた。 125km地点から松ヶ崎集落にさしかかる。ここは古代の港があった場所。対岸の寺泊との間に開かれていた航路は都と直結し、さらにここから佐渡国府が置かれていた真野までは官道が開かれ、要所に駅舎があったようだ。現代の松ヶ崎は「屋号」の町として親しまれている。良く見ると一軒ずつに特徴のある屋号を彫り抜いた立派な看板が見えた。 127km地点の多田(おだ)は、第1回大会の時に山道を大きく迂回して到達した集落。見覚えのある町並みを懐かしみながら走っているうちに、誰かが私を呼び止めた。訝しがって顔を見ると、スタッフのSパパ。何と127.6km地点の第3ASの存在をすっかり忘れていたのだ。到着したのは6時28分。公園のベンチに腰を下ろす。 先着のランナーが私に焼きソバを手渡してくれた。へえ~、こんなところで焼きソバに巡り合えるとはねえ。どうもそれが最後の1パックだったようだ。容器を開けてお湯を注ぎ、後は具とソースを絡める。疲れた胃には嬉しい食べ物。だが、後から着いたランナーは気の毒にも黙って見つめるだけ。こんな所にもちょっとした差での運、不運がある。 6時45分、勇躍第3ASを出発。ここから131km地点の筵場(むしろば)集落までは山越えの道。第1回の時は土砂崩れで大きく迂回した所だ。結構厳しい登りが続く。徐々に暑さを感じるようになって来た。それに目が痛む。前日のランで目に浸み込んだ汗が、今頃になって悪さをするのだ。7時5分。リュックからサングラスを取り出して掛ける。これで幾分痛みが和らぐ。 132km地点の白山神社では、今年も秋の祭礼の幟が立っていた。第1回大会ではここに第4ASが置かれ、ビールと美味しいショルダーベーコンをご馳走になったっけ。思い出に耽っているうちに、さらに目が苦しくなって来た。道路の白線が交錯して目に飛び込んで来る。疲労のための錯視。あまりの苦しさに片目を瞑る。それでようやく物が1つに見え、痛みが薄らぐ。ここから片目での長い旅が始まった。 後ろからA津さん、I島さんの横浜コンビに抜かれたのはこの頃だ。2人は快調なスピードで走って行く。慌てて後を追うものの徐々に差が開き、やがて彼らの背中がみるみる小さくなって視界から消えた。8時17分、137km地点の赤泊港に到着。漁港のトイレで洗顔と股ずれのケア。夜間着ていた長袖Tシャツを脱ぎ、ゼッケンをランニングシャツに付け替えた。 これからますます高くなると予想される気温に備えるためだ。そして下は半ズボンにするか迷った。半ズボンに代えれば涼しいし、股ずれ対策にもなる。だが、テーピング用のテープを持って来なかったために膝が心配。これから残り約70kmを最後まで走り切るためには、たとえ股ずれが悪化してもやはりサポート機能があるロングタイツに頼らざるを得ないと判断。 その時、目の前を新潟のYちゃんが通過するのが見えた。多分そのうちにどこかで追いつくだろう。そう思って声を掛けなかったのだが、その後彼女の姿を見ることは無かった。100kmのレースではほとんど完走したことのない彼女が、この200kmを超える「佐渡島一周」では、見事に完走するのがとても不思議に思える。きっと今回の彼女は、やはりR子さんの追悼を願って必死だったに違いない。<続く>
2009.10.02
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< 最初の異変と夕暮れ > ようやく坂を登り切った。左手に曲がれば57.9km地点の第2ASへ行く。その曲がり角が第1回の時に、私とR子さんが間違ったところ。右折して海岸へ降りるべきところを、直進してしまったのだ。あの時間違ったお陰で私はR子さんとしばし一緒の時を過ごすことが出来たのだった。 第2ASのある食堂へ向かうと、K藤さんとYちゃんが休憩を終えて再びコースへ飛び出すところだった。2人が差し伸べてくれた手とハイタッチ。こちらはヨレヨレなのに、2人とも元気そのもの。15時7分第2AS到達。スタート後既に9時間以上過ぎている。ここまでは思いのほか厳しい道のりだった。 ここで食べたのは、お握り、バナナ、そして新潟の名産である笹団子。Junさんのブログではうどんを食べたとあったが、どうもそれは第1ASで余ったもののようだ。兎もあれ、速いランナーと遅いランナーとでは、ASに残っている食べ物の種類が違っているのは確かだ。 先刻走った自然歩道の岩だらけの道で痛めたのか、左足が痛む。実はここまで元々シューズに入っていたインソールで走っていた。だがもう限界。やはりこの辺りから医療用のインソールにお世話になるしかない。左足を医療用のものに、そして右足には厚さを合わせるために普通のインソールを2枚入れた。これで足の調子が治まるかどうか。 15時20分再スタート。ここでの休憩は13分間で済んだ。59km地点手前から再び海岸へ降りる。ここは2度通っているため、馴染みが深い。矢崎海岸には弥生時代の人が住んだ岩窟がある。だが関心の無い人はほとんど見過ごしてしまうだろう。でも何故弥生人なのか。どこを見ても水田になりそうな地形は見当たらないのだが。 鷲崎集落を過ぎたころ、急に体調が悪化した。道路の白線が二重に見え出し、同時に吐き気と悪寒が襲う。灯台の手前で酷いガス欠になっていた。ASで急いで食べ物を補給したが間に合わなかったのだろう。今からこんな調子では、前途は真っ暗だ。リュックを下ろし、初めて胃薬を服用する。これは胃酸の働きを抑えるもの。長い距離を走るウルトラレースでは必携の薬だ。 暫く歩いているうちに何とか体調が戻って来た。その間に横浜コンビが抜いて行った。慌てて2人の後を追う。良い調子の2人。彼らに着いて行ければペースが掴めそうだ。65km地点の北小浦を16時35分に通過。69km手前の虫崎の通過は17時10分。徐々に周囲が暗くなる。 長さ1795mの「内海府トンネル」に初めて入る。大佐渡の北側を外海府海岸と呼び、大佐渡の南岸を内海府海岸と呼んでいるが、このトンネルが完成したのはつい最近のこと。明るくて広いトンネルはとても走り易かった。海に突き出た黒姫大橋が懐かしい。橋の下ではザブンザブンと音を立てている波。 73km過ぎの歌見海岸で新潟のF川さんとT居さんのコンビが小休止して食事を摂っていた。それを横目に通り過ぎる。18時5分。74km過ぎの浦川集落で横浜コンビが休憩。私も一緒に小休止し、残っていたお握りを食べた。ここでリュックからヘッドライトを取り出し、帽子の上から装着して点灯。リュックの赤色灯も点灯し、暗い道を3人で走り出す。 エネルギーを補給したせいか、かなり調子が戻った。快調なスピードで両津を目指す3人組。19時20分。81km地点の玉崎集落で小休止。ここでは一口羊羹を食べた。83km地点の白瀬を通過。85km地点の椿集落を過ぎれば両津は近いと思っていたのだが、考えてみればここを走ったのは朝のうちで、スタート直後のまだ元気の良い時間帯だった。 だが、夜の道は案外スピードが出てないものだ。それにもう13時間以上走って、結構疲れも溜まっている。89km地点でようやく旧両津市内へ入った。延々と明るい繁華街が続く。こんなに市街地が長かっただろうか。やはり夜間の感覚はまったく違うようだ。遅れ出した横浜コンビを後に、アーケード街をひた走る。 90km地点手前の曲がり角で、地図を広げたランナーが1人立ち止まっている。ここは間違いやすい場所と聞いていた。私はそこから左折して両津港方面に曲がり、第1回、第2回のスタート地点である「おんでこドーム」の横を通った。その方がきっと分かり易いと思ったのだ。結果的にこれが大成功。ランナーは疲労の度合いと判断力とが比例することを、経験上良く知っている。<続く>< 9月のラン&ウォーク >参加レース:1回 ラン回数:9回 走行距離:264km ウォーク回数:ほぼ毎日 ウォーク距離:191km 月間合計:455km 年間合計:3381km うち走行距離:1835km これまでの累計:68,803km
2009.09.30
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< 賽の河原はあの世の入り口? > 走り出して暫くすると、後ろから2人のランナーが追いついて来た。A津さんとI島さんのコンビ。共に横浜にお住まいとのこと。年長のA津さんは3度目の参加で、I島さんは初参加のようだ。スタート直後に歩くような足取りだったのが年長のA津さん。練習で腰を傷めたとか。だから出だしは慎重だったわけだ。 ここは高台が5kmほど続き、抜群の眺望が展開するところ。海に向かって黄色く色づいた田んぼが広がっている。「ここがR子さんが好きだったところなんだよ」と2人に教える。「私はこんな風景を見ると、思わずそっちの方に行っちゃうんですよ」と話していたR子さん。そして、「またどこかでお会いしましょうね」と風のように去って行った彼女。 あれは第1回の時だった。「またどこかでお会いしましょうね」と言われても、どこで会えるの?それが私の実感だった。だがウルトラレースの場合は距離が長いために何度かコース上で再会することが多く、きっと「また会ったらその時はよろしく!」と彼女は言いたかったのだろう。今ならそう思えるのだが、初参加の私は不安の方が強かったのだと思う。 49km過ぎ。とうとう下り坂になる。「第1回と第2回の時は、この家で脱穀をしていたね」とA津さんに話しかけると、「刈り入れが早かったんですね」との返事。「第2回の時、この坂は雨で川のようになってたね」。「そうでした。あの時は急に降って来たんでしたよね」。彼も覚えていた。「下り切ると3つの小さなトンネルがあるよ」。もう返事はなく、私は一気に前に出た。 いつしか強い風は治まっていた。北鵜島の荒々しい海岸には、やはり私の記憶通り、小さなトンネルが3つ連続して出て来た。1つのトンネルで私は雨を避けながら、地図に書き込みをした。それで鮮明な記憶として残っていたのだろう。前方にようやく本物の「大野亀」の絶景が見え出した。 海に突き出した火山岩の塊。そして麓には緑の芝生。その異様な光景は一度見たら忘れることはないだろう。それはまるでガラパゴス島に生息するゾウガメの背中のように丸くゴツゴツしている。53km地点。ここでトイレを済ませ、展望台のレストランで野菜ジュースと豆乳を飲む。いずれも体に優しい飲み物だ。間もなく横浜コンビが追い着くが、私は一足先に出発した。 分岐点で一周道路と別れ、二つ亀自然歩道方面に向かう。途中の「願」集落。ここはどの家にも表札が見当たらない。「表札が無いのは皆同じ姓だからだ」と誰かが言っていたのを思い出す。本当にそうなのかを確かめるため、たまたま通りかかった住民の方に尋ねてみた。答えは「山口が2軒いるけど、後はバラバラ」だって。ふ~ん。どうやら噂はガセネタだったようだ。 集落を過ぎると海岸に出、道路が凸凹の石の道になる。ここで不機嫌なっ女性ランナーを抜き去る。前方からは観光客の列。きっと「賽の河原」を見学して来たのだろう。500mほど行くと、右手におどろおどろしい風景が飛び込んで来る。先ずは岩窟の中の観音堂。そして何百体ものお地蔵さんと赤い風車。ここがあの世を再現した「賽の河原」だ。たまに映画のロケ地になることで有名なのだとか。どちらでも手を合わせてR子さんの冥福を祈った。 さらに進むと前方に「二つ亀島」。これも2匹のゾウガメが寄り添ったように見える佐渡の名所だ。ここが55km地点。足場の悪い海岸の道がさらに続く。私はここを1度しか通っていない。それも逆周りだったため記憶がない箇所もあって、分岐点では迷ってしまった。ようやく弾崎の灯台が見え出す。だが最後の上り坂でガス欠になった。もうすぐ第2ASなので我慢をしていたのが悪かったのだろう。フラフラしながら必死で坂を登る。<続く>
2009.09.29
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< 神様の馬鹿~っ!! > 初めは団子状態だったランナーの群れが、次第にばらけ出す。アップダウンを繰り返すうちに先頭グループは遥かに前へ行った。2番手が秋田のJunさん。その後ろ姿がカーブの向こうに消えた。彼の姿を島内で見たのはそれが最後、合わせても5分間もなかった再会だった。歩くような速度のランナーが気にかかる。後で一緒に走ることになる横浜のA津さんだった。 3km地点で春日崎を過ぎる。過去の2回はいずれも夜で、景色は見えない。それが今日は漁港や岸辺に打ち寄せる波が見えた。何だか不思議な気持ち。約5km地点が相川。ここにはコース上唯一24時間開いているコンビニがある。朝食を摂ったばかりで実感がないのだが、やはり何か食料を確保しておこう。 店内はランナーで混雑している。私は素早くアンパン1個と野菜ジュースを手にしてレジの片方に並んだ。ところが1人のランナーが私に「フェアじゃない」と言う。どちらにも並ばずに、空いた方に進むのがフェアなのだとか。「良いじゃないかそんなこと」。私はそのまま並んだ。事実彼の方が早く順番が来た。これから48時間近く走るのに、わずか数秒くらいの違いでフェアもへちまもないだろう。どのレジに並べば早いかなんてのは運のうちと思うのだがねえ。 6km過ぎには前後に誰も見えなくなった。左手の海を見ているうちに、何故か急に寂しさがこみ上げて来た。思わず我を忘れて叫ぶ。「R子の馬鹿~っ、何で死んだんだ~っ!!神様の馬鹿~っ、何でR子を死なせたんだ~っ!!」。だが誰も答えはしない。相変わらず朝風が吹きつけ、波が岸に打ち寄せるだけだった。 新潟のYちゃんの姿を発見したのは7km過ぎ辺りだったろうか。近寄って彼女の右手を握る。「R子ちゃん死んじゃったね」。私が言うと「私もビックリしました」と彼女。皆第1回の佐渡を走った仲間だ。案内の標識も、ASで配給される食糧も不備だったあのレースを共に走ったことで、心が強く結ばれたように思う。その大切な仲間の1人が、もう会いたくても会えない世界へ行ってしまったのだ。 Yちゃんと別れ、再び一人旅になる。海辺の集落の小さな畑に植えられた野菜や花々。そして道端のお墓には色鮮やかな供花。そうか。今は秋のお彼岸。昔からこうして島の人々は先祖の墓と日々の暮らしを守って来たのだろう。揺れるコスモスや干されている唐辛子に、少しずつ心が癒されて行く。 12km地点の手前から姫津港方面へ。言ってみればここは盲腸のような場所。極力佐渡の様々な風景に触れさせようとする主催者の考えで、時々「迷路」が現れるのだ。小さなアーチ橋が見えた。沖の岩礁から港へと押し寄せる高波。港を一周して県道に戻ると、真っ直ぐ通過して行く3人のランナー。追い着いて訳を聞くと、港への標識を見落とした由。まあ206kmの道程にはこんなこともある。 21km地点。南方辺トンネルには入らず、海岸へ向かえとの矢印。今では人も車も通らない厳しい旧道だ。ここを通るのは初めてのこと。草は茫々だし、道路は荒れている。岬に近づくにつれてアップダウンが厳しくなる。先ほどまで元気だったパキスタン人のBさんが、ついに歩き出した。彼はどうも登りが苦手らしい。彼の姿を見たのはそれが最後だった。<続く>
2009.09.27
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< 黒いリボンとピンクのリボン > 同室のランナーは宮城UMC仲間のT田さん、新潟のF川さん、福島のA井さん、そして名前を知らない関西の方。一番の年長者はA井さんで69歳。福島県内で手広くウルトラレースを開催しているE藤さんの仲間だ。その歳で206kmもの佐渡へ参加するだけあって、相当に走りこんでるようだ。関西のランナーが一番若く、体型からして一番速そうな感じを受けた。 大広間で説明会が始まる。先ずはSパパから挨拶と亡くなったR子さんの紹介があった。次いで縮尺2万5千分の1の地図25枚に基づき、コースの注意点が丁寧に説明。迷子になりそうな場所、4箇所のエードステーション(AS)と仮眠所の位置、レースの途中で買い物が出来そうな集落などだ。皆真剣に地図に書き込む。 最後にSパパの携帯電話の番号が知らされる。コースを間違ったり、リタイヤする時は連絡する必要があるからだ。と言っても、自分でスタート地点まで帰るのはとても困難な技。つまり島をグルリと一周しているバスはない。無論運行している箇所はあるが、それもせいぜい夕方まで。でも携帯を持っていない私は、結局自分の足で206kmを走らざるを得ないのだ。 説明会に引き続き懇親会に突入。皆大いに飲み、大いに食べた。そして1人30秒の持ち時間で挨拶が始まった。それでも出場者は80人だから、終わるまで相当の時間がかかった。40数名の参加だった第1回に比べれば雲泥の差がある。沖縄から参加したランナーの顔を覚え、後で挨拶に行った。名古屋出身の方だとか。7年ぶりに再会したボクシ~どんにも挨拶に行く。 懇親会が終わる頃、F川さんが舞台へ上がって何やら話し始めた。彼は亡くなったR子さんが好きだったピンク色のリボンを大量に用意していたのだ。希望者は明日のスタート時に、そのリボンを着けて欲しいとのこと。ピンクのリボンを着けた大勢のランナーが、R子さんを追悼しながら島を一周する。なんて素敵なアイデアだろう。そして心優しい配慮なのだろう。私は初めてF川さんの人柄を見直した。 その夜、室内にはF川さんの大きないびきが響き渡った。彼が外出から帰って来たのが10時過ぎ。島にいる知り合いと飲んで来たとか。仕事柄島内には知人が多いようだ。そのいびきが気になって、眠った時間は5時間半ほどだったと思う。それでも全く眠れないよりはマシ。ウルトラレースなんてそんなものだ。 9月20日(日)のレース当日、5時前には朝食を摂った。小ぶりのイカの煮付けなど、おかずはまあまあの内容。これから島をグルリと廻るためには、エネルギーになるものを摂る必要がある。ご飯を2杯、味噌汁も2杯お代わりする。そして宿に残す荷物は1箇所に集められた。まるまる1日不在になる間、他の客を泊めるためだ。 身支度を整えて外へ出る。いよいよスタートの時間が近い。胸に黒い喪章を着けた秋田のJunさんが外に居た。昨夜の真夜中2時に着いて、車内で眠ったとか。神経が興奮して眠った時間は2時間ほどと知ったのは後日のこと。遥々秋田から車を運転し、ほとんど眠らずに206kmを走るJunさんの体力には驚かされる。前夜はバレーボールの試合直後に車で出発したとか。互いの健闘を誓ってがっちり握手。 亡きR子さんを偲ぶ小さな祭壇がスタート地点に準備された。一人ずつその前に進み、お線香を上げる。周囲に線香の香りが漂う。煙の向こうには特徴のある「夫婦岩」。全員のお参りが済んだところで、記念写真の撮影。そしていよいよスタートだ。6時ちょうどランナーが一斉に走り出す。その胸に翻るピンクのリボンと黒いリボン。風が涼しい朝だった。<続く>
2009.09.26
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< 小さな祭壇 > ジェットフォイルはさすがに速い。1時間ほど早く出航したフェリーを途中で抜き、佐渡へとまっしぐら。青々とした佐渡の山々や岬が見え出す。とても懐かしい風景だ。1時間の旅はあっという間に終わり、私達は両津港に降り立った。だがいくら探しても迎えのバスは見えない。結局2台のバスがホテルへ向かったのは、途中で抜いたフェリーと私達の1時間後に着いたジェットフォイルが到着してからだった。 その間に続々と走友が集まって来た。先ず宮城UMC仲間のT田さんとは思いっきりハグ。新潟のF川さん、T居さん、U松さん、Yちゃん。長野のT野さん、福島のA井さん、東京のSさん、そして千葉のぼくし~さんの姿も発見。特にぼくし~さんとは私が「飛翔千葉」で60kmを走った時以来の再会だった。懐かしい顔ぶれに心が和む。第1回参加のF川さん達新潟グループと挨拶。「川の道」を走破したT野さんは、ずっとその話を続けている。 バスは国道350号線を経由して相川方面に向かう。ここはコースではなく初めて通る道。国中平野に実る稲穂。そして大佐渡に聳える山々。その山頂に特殊なレーダーが見えた。あれは北朝鮮などから発せられる電波をキャッチするためのものとか。佐和田の外れからようやく「佐渡島一周」のコースへ出た。 逆コースへ向かうのは今回が初めて。これまでの2回は、夜間歩いた場所だ。暗く淋しい道も車中からだと楽に見える。火力発電所周辺からアップダウンが激しくなる。まさか数十時間後に相当苦しむことを、予感するはずもない。スタート地点であり、ゴール地点でもある「夫婦岩」のホテルに到着。ここは第2回まで第1仮眠所(約90km)だったところだ。 受付を済ませてから主催者のS木さんにお願いした。「今夜の懇親会でアルコールが入る前に、1分ほど黙祷が出来ないだろうか」と。彼は私を階下へと案内した。そこには今年の「トランスヨーロッパ」4850kmを走破したSパパが忙しく働いていた。S木さんはSパパへ私の意見を伝えた後、あるものを示した。 それはR子さんの祭壇だった。遺影、線香、線香立て、そして生花。私はそれで納得した。スタッフである彼らにとっても、3年連続で「佐渡島一周」へ参加したR子さんの突然の死は大変な驚きだったはず。どうしたら彼女の冥福を祈りつつ、かつ彼女のことを知らない参加者に違和感を生じさせずに済むか。結論がこの祭壇だったのだろう。写真の中のR子さんは、いつものように微笑を浮かべていた。 S木氏は言う。この写真は昨年9月13日のスタート時に撮ったもの。そして彼女が亡くなったのがちょうどその1年後とのこと。とても運命的なことのように思えて仕方がない。色んなランナーの話で、彼女がハンドル名を「ちびた」と名乗っていたこと。関西地区では「ひまちゃん」と言う愛称で呼ばれていたこと。毎日24kmの通勤ランをしていたことも知った。どれもこれも私には初めてのことばかりだ。 名古屋の走友が見舞いに行った帰りの新幹線で、逝去のメールを受けたこと。そして彼女を知る大勢の仲間が、色んなウルトラレースでR子さんの追悼ランを考えていることなども。Sパパに「トランスヨーロッパ」完走のお祝いを言って私はようやく部屋へ戻った。<続く>
2009.09.25
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< 3人の女性ランナー > 9月19日土曜日の朝。駅の東口にある新潟行きのバス停へ行くと、待合室に宮城UMC仲間のO川さんとK藤さんが既に到着していた。まずK藤さんに「立山登山マラニック」の際の借金を返済。彼女はすっかりそのことを忘れていたようだ。「Aさんの帰宅ランって何km?」と問う彼女に「7kmだよ」と平然と答える。そして逆に質問。「去年の佐渡は何時間で走ったの?」。 答えは42時間台だった。私が2年前に走った時の40時間台に比べても遜色ない。道理でT田さんが送ってくれた写真に彼女の姿がたくさん映っていたわけだ。今なら多分実力は逆転しているだろう。そのT田さんは前日のうちに新潟へ向かった。新潟から佐渡への出航時間が連休に絡んで変更されたためだ。我々3人は初めてジェットフォイルに乗ることにした。 O川さんに言う。「きっとO川さんは35時間台で、そして俺は45時間台でゴールすると思うよ」。その根拠は彼が今回の「佐渡島一周」へ向けて、かなりの長距離練習をこなしているのを知っていたからだ。9月も既に200km以上走ったようだ。それに比べて7kmの帰宅ランが中心の私は、今月はわずか40km程度を走ったに過ぎない。 仲間とたわいもない話をしているうちに、私の胸の中にあった鬱屈した思いは、いつの間にか霧散していた。バスの車中から見えた磐梯山。そして県境の長いトンネルを抜けると、目の前に黄色く色づいた越後平野が展開する。さらに特徴のあるサッカー場が見え出すと間もなく終点の新潟だ。 万代のバスターミナルで乗り換え、佐渡行きのフェリー乗り場へ。そして到着後に昼食。私は麺類だけだったが、O川さんとK藤さんの2人は麺類とカレーのセットを注文。さすが力のあるランナーは食事内容から違うと感心。でも私の目はベビーカーを押した女性の姿を捉えていた。ひょっとしてあれはA子さんかも。 彼女は第1回の「佐渡」を走った仲間。だがその後妊娠と出産のため、暫くウルトラマラソンを休んでいた。まだお子さんが小さいため今回も出場は出来ないのだが、出航の時間だけは連絡していた。実に2年ぶりの再会だ。彼女が「銀のねこ」と名乗ってブログを開設してると知ったのはレース後のこと。それ以来お互いのブログを行き来している。 急いで探すと、やはり彼女だった。長男の悠理ちゃんも一緒で、2年ぶりの再会を喜ぶ。ご主人に7割ほど似てると言う悠理ちゃんは人見知りをしない凄い子だ。最近彼女が遭遇した事故の話を聞くと、携帯に保存していた写真を見せてくれた。車が1回転する大事故だったのに、3人とも全くの無傷だった由。とても強運の一家のようだ。 T田さんとも会ってずいぶん色んなことを話したと彼女。亡くなったR子さんの話をすると、彼女も大層驚いたようだ。T田さんはR子さんの小さな写真を持って走ると言っていたそうだ。第1回の佐渡島には若い女性が3人参加した。亡くなったR子さん。そして今回見送りに来てくれたA子さんと、新潟のYちゃんだ。 この中でレース中にランスカで走り、人目を引いたのがA子さんだった。R子さんは年齢の割りにウルトラの経験が豊富なことで注目を浴びた。地味な存在だったのが一番若いYちゃん。ウルトラ暦もほとんどない。ところが神様は、ウルトラマラソンの申し子とも言えるR子さんを天国に迎えたのだ。 出航時間が迫り、私達はジェットフェリー乗り場へと向かった。なるべく早くウルトラマラソンに復帰したいと話していたA子さんだが、私達が走るレースのスタート時間に合わせて、彼女も約1時間ほど追悼ランをしたことを知ったのは後日のことだった。かつての仲間達は、皆同じ想いだったようだ。 ジェットフォイルの座席で、偶然仙台のランナーに会った。名前はT橋さん。こちらは気づかなかったのだが、新潟までのバスも一緒だった由。体格が良い屈強な若者がウルトラマラソンを志すとはまた頼もしい。彼が最初のレースとして選んだのがウルトラマラソンだったとか。へえ~っと驚く。やはり世の中には不思議な人物がいるものだ。<続く>
2009.09.24
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< 突然の訃報と鎮魂の旅へ > 今、私の体はボロボロに傷ついている。やはり佐渡島一周206kmを巡る旅は、そう簡単なものではなかった。2年前の頃より一層進んだ老化、初めての逆周りコースに加えて、レース中の疲労、寝不足、錯視、擦り傷、肉刺(まめ)、吐き気、空腹との戦いはかなり壮絶なものだった。 それでもあの悪路を何とかゴールまで辿り着けたのは、胸につけた黒いリボンのお陰だった。レース中そのリボンに触れながら、何度完走を祈ったことか。あれは私一人が走ったのではない。今は亡きR子さんが、きっと私を前へ前へと導いてくれたからに違いない。変かも知れないが、私は堅くそう信じている。 「佐渡島一周エコジャーニーラン」は、私にとっては3度目の参加になる。初挑戦の62歳の時は不安が募ったものの、まだ挑戦しようとする気持ちが強かった。そして翌年の第2回目はコースを知っていたこともあり、比較的楽に走ることが出来たように思う。 だが、昨年「立山登山マラニック」で傷めた左足は加齢による障害がその基因であるだけに、事後のウルトラマラソンに不安を抱かせることになった。だから「佐渡島一周」への挑戦は今回が最後だと決めていた。ちょうど大型連休で休暇を取る必要も無いのも好都合だった。一人現場のため、休暇を申し出るのが大変なのだ。 さて、途中で走れなくなったらショートカットしてゴール地点へ向かえば良い。そんな自分勝手な考え方すら持っていたのが本当のところ。仕事でも強い疲労感が残るようになっていた。ウルトラマラソンの費用を稼ぐ「内職」が、逆にウルトラマラソンが走れないほど疲労させるとは皮肉な話だが、いつか必ず限界に来るのは確かなこと。 7kmほどゆっくり走る帰宅ランは、足の痛みがそれ以上増幅せず、強い疲労感を残さない練習としてちょうど良いと思われた。新しく作った医療用のインソールがなかなか足に馴染んでくれないことも、練習不足の良い言い訳になったと思う。 そんな状態で果たして200kmを超える道程を走り切れるものだろうか。不安の一方、これまでの経験で何とかなるだろうとの気楽な考えもあった。そんな時に飛び込んで来たのが、「佐渡島一周」の第1回と第2回で一緒だったR子さんの、突然の訃報だった。 まだ39歳と言う若さでの逝去。本人はどれだけ無念だったろうか。あれほど佐渡島のコースを愛したR子さんの鎮魂のために、何とかゴールまで辿り着きたい。私の考えはそんな風に変わって行った。悲しみを抱えての206kmの道のり。そうだ、胸には黒い喪章を着けよう。そうすればR子さんと一緒に走ったことになりはしないか。 「佐渡島一周」で2度一緒に走った秋田のJunさんも私の考えに賛同し、黒いリボンを着けて走ることを申し出てくれた。佐渡の後、520kmもの「川の道」を2度制覇した若い彼との実力差は相当なもの。だが他のランナーと比較しても意味はない。どんなにボロボロの姿でも、それが私の現実なのだから。これで覚悟は決まった。<続く>
2009.09.23
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< 走友達の話 > 古川のK彦さんはブログを読み、私が7月に石巻から気仙沼まで単独走したことを知っていた。彼も何かの集まりの際、古川から私が泊まった志津川まで50kmを走って参加したそうだ。さすがはネーチャーラン2回連続完走の勇者だけある。K藤さんの予定は8月が「立山登山」のウォークの部、9月が「佐渡島一周」と「秋田内陸」とのこと。秋田を除けば私と一緒で、楽しみが増えた。 Y広さんはゴールまで残り7kmを歩いたものの初完走。2時15分に自宅を出発した72歳のD堂さんも、この日が初完走だった。2人とも9月の「秋田内陸」に向けて、良い練習になったのではないか。さて、私が大衡村のコンビニで休んでいる間に抜いて行ったのは、やはり仙台明走会の青年だった。そしてその後を追い駆けていたのが同じ走友会のM井会長達とのこと。 私の缶ビールが2本目になる頃、若い女性ランナーが次々に大広間に入って来る。初めて顔を見る人ばかり。全員仙台明走会のメンバーとのこと。それも走り出してまだ日が浅いとの話に驚く。良くそれだけの経験で長距離練習に参加したことに、正直驚きを禁じえなかった。M仙人が良く冷えたワインを茶碗に注いで届けてくれた。それを一息に飲んだ私は、どうも暫くの間眠ってしまったようだ。 その間にも自己紹介が続いており、やがて眠りから目覚めた私も簡単な話をした。そして頃合を見てミスターXにシューズの件を切り出した。「他の人にもずいぶん言われたんだよなあ」。明らかに不満そうな彼の顔。とも角、今日私が履いて来たシューズを後で確認してもらうことにした。売店でカップヌードルを買うついでに下駄箱からシューズを取り出し、大広間の前に運ぶ。 後でミスターXに見せると、自分のシューズではないと断言。ふ~む。となるとこのシューズの持ち主は一体誰なのだろう。そして医療用インソールが入った私のシューズは誰が履いて行ったのだろう。いよいよ懇親会はお開きになり、私はお土産センターへ地産の野菜を買いに行った。1袋100円のシシトウと300円のマイタケだが、きっと妻が喜ぶはず。 帰路はM仙人の運転する車に乗せてもらった。来年夏の単独走として予定している「釜石~遠野~北上」コースの計画を車中で話すと、M仙人はコースの中ほどにある「仙人トンネル」のことを教えてくれた。トンネルの標高はかなり高く、古くかつ狭いトンネルであることなどだ。それは地図を見て予想した通りのイメージで、挑戦する気持ちが一層増した。 さらに仙人いわく。先日10名の死者を出した大雪山系のトムラウシ岳には、仙人の山仲間が、同じツーリストのガイドに引率されて翌日登山したのだとか。雨が酷かったために急遽ガイドが予定を変更し、早めに避難小屋に入った由。それで体温の低下を防げたようだ。そして天候が好転した翌日、彼らのパーティーは無事下山出来た由。ガイドの判断力が生死を分けたことになる。 あの涼しかった恒例のマラニックから、早1週間が経とうとしている。M仙人からは「トランスエゾ」へ向けて、今朝出発するとのメールが届いた。間もなく70歳になるM仙人が、自由走を含めて北海道の大地を600km以上走ろうとする偉大なる挑戦に、心からの拍手を送りたい。そして彼より数段若い我々も、負けてばかりはいられないと思うのだ。<完>
2009.08.07
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< ゴールと温泉とビール > 「Yちゃんはどうだった?」。Kさんに尋ねる。「前のコンビニまで一緒だったよ。後は一人で行くからと言って」と彼女。そうか。今回初めてゴールまで走りたいと話していたYちゃんが、とうとう加美町まで来たか。あそこからだと残り12kmくらいだろうか。「ミスターXにシューズのこと話してみたよ」とKさん。「でもあの日どんなシューズを履いてたかも覚えてないし、あれ以降そのシューズを履いてないみたい」。 う~む。ミスターXは無頓着なのか、それともシューズをたくさん持っているため全く気にしてないのか。「そうか。大いに見込みがあるかもね」。その言葉を待ってたかのようにKさんはスパートしてゴールへ向かった。よ~し、ついて行けるだけついてゆこう。私もその後を追った。一度は追いついたものの、やがて彼女の背中は見る見る小さくなった。 旧小野田町の街中は道路がクランク状態になっている。国道347号線をどこまでも行くとやがて鍋越峠で山形県に入る。戦国時代、伊達と争っていた最上氏の侵入を防ぐため、わざわざ道路を「カギ型」にし、曲がり角にはお寺を配置したのだろう。やがて街から離れると道路の温度標示が23度になっていた。涼しい風が心地良い。 ゴールまで2km地点。国道の左脇に「薬師の湯」の大きな看板がついに見えた。疲労困憊だった昨年はそこからずっと歩いたのだが、今年はゆっくりとでも走れるのが嬉しい。直線で500mほど先を走っているKさんの姿が見えた。鳴瀬川に架かる橋を渡ると、そこからは長い登り坂になる。 そこも歩かずに走る。と、急に空が明るくなって太陽が顔を出した。ゴールまで500m。ついに薬師の湯到着。誰かが温泉の前で手を振っている。目を凝らすとK藤さんとK村さんのコンビ。こちらも手を振り返す。10時50分ゴール。7時間50分のマラニックは無事終了した。どうやら彼女達は車で来て、ゴールから逆走したようだ。後で聞いたらK藤さんは「立山登山」のウォークの部に当選したが、K村さんの方は落選だったとか。きっと制限時間が厳しく人気の高いマラニックの部から、ウォークに切り替えたランナーが増えたせいだと思う。 受付でチェックし、荷物をもらってから温泉に向かう。昨年は体を洗っている最中に大きな痙攣が何度も起きて、10分ほど必死に堪えていた。肩や首まで固まったのには驚いたものだ。それが今年は疲労感がさほどなく、涼しかったためか何の心配もなく温泉に浸かれた。まずバブルジェット。次に露天風呂。そして最後に水風呂。大汗をかいて水分を失っているため長湯は禁物。そして冷たい水をゴクンと飲み干す。 大広間に行くとK彦さんら古川グループが既にビールを飲んでいる。それを横目に見ながらお茶を2杯。ここでも先ずはじっくりと水分補給に努めた。それから缶ビールを買いに行った。リュックからお握り、ミックスおつまみ、魚肉ソーセージ、キュウリの漬物などを出してY田さん、I藤さんにも勧める。 M井さんが大きな「おつまみセット」を袋ごと皆にくれた。そして風邪薬を飲んだ後畳に横たわり、そのまま眠ってしまった。相当体調が悪かったのだろう。そして「夜叉が池」完走の疲れも出たのだと思う。U海事務局長が不参加の今回は、なかなか約束の12時までに大広間に選手が集まらない。懇親会の前に勝手に飲み出す連中ばかりだ。まあ、それも自由な雰囲気で楽しいのだが。<続く>
2009.08.06
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< 去年は苦汁、今年はビールを > 一休みしているY田さんを尻目に先行する。田圃の脇で放尿中、Y田さんが抜いて行く。2本のペットボトルを1本にまとめて追走。追いついて話しながらのランとなる。「去年はこの辺で大変でしたね」と彼。昨年の「薬莱山とお足」は体調不良で、もう少し先のエードではめまいに苦しめられた。その後も嚥下障害が起きたり、ゴール後の大痙攣と散々な目に遭った。その時傍に居た一人が彼だった。 昨年の苦戦の原因は疲労。7月の中旬に体感温度40度の猛暑の中を3日間かけ、沖縄本島西海岸単独縦断を果たした。何度か軽い熱中症に罹る苦戦だった。その後7月の下旬から残業が始まり10月の中旬まで延々と重労働が続いた。その激務の最中に走ったのがこの「薬莱山」。ゴール後はビールを飲むことも出来ず、部屋で横たわっていたのだ。 あれにくらべれば今年は楽。もっとも去年9月の「立山登山マラニック」で左足を故障してから、スピードは一気に落ちた。元々偏平足で低いアーチだったのが、去年の無理が祟って左足のアーチがほとんどなくなり、足に過度の負担をかけるのだ。それを保護するために作ったインソールが入ったシューズを、6月の「エンジョグinみちのく」で誰かが間違って履いて帰った。今年は昨年ほどの疲労がない代わり足に弱点が出来た。 振り返ると七つ森、泉ヶ岳、北泉ヶ岳、船形山が青々とした田圃の彼方に見える。どうやら少し天気が回復したようだ。そこで彼に尋ねる。「今年の稲は大丈夫かな?」。農家の長男でもある彼が答える。「これは典型的な冷害のパターンですよ」。そうか。稲にとって開花期の今が、高温と日照が欲しい時期なのだ。「つい最近引っ越したんです。社宅も出なくちゃいけなくなって」。稲だけでなく、会社の体制もかなり厳しいようだ。 魔の一本道がようやく終わり、待望のコンビニに飛び込む。私は「あずきバー」を買い、彼はトイレに寄ってから、チューブ入りのアイスを買って来た。2人でアイスを食べながらのラン。「途中の道が真っ直ぐになりましたね」とY田さん。「そうだっけ?」と私。でも、そう言われて見ればいつも迷いそうになる変則5差路が、今年は迷わずに真っ直ぐ来れた。あれは道路の改良工事のお陰だったのか。 間もなくゴールのある旧小野田町(現加美町)へ入り、鳴瀬川に架かる旭橋を渡る。国道347号線の角にあるコンビニで休憩。私は迷わずに350mlの缶ビールを買った。彼は再びアイスを食べていたが私の手元を見、慌てて缶ビールを買いに戻った。ゴックンゴックン。冷たい缶ビールが実に美味い。昨年苦汁を飲んだ同じ場所で、今年はビールを飲める幸せ。幸福感に浸っているその時、Kさんが凄いスピードで走って来た。まさか彼女が背後に迫っていたとは。<続く>
2009.08.05
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< 田圃の中の一本道とエード車 > 吉田川の小さな橋を渡る。私のインソールを作ってくれた義肢製作所は、その山奥にあると聞いた。もし再度作ってもらうとなれば、車のない私には大変な苦労になる。間もなく大衡村。大柳で国道4号線に別れ、国道457号線(羽後街道)へ入る。いつもならこの分岐点にいるエード車がいない。スタートしてから4時間以上経ち、30km近く走ったはず。2時に朝食を摂ったので、そろそろエネルギーを補充する必要がある。 道路の右手にあるコンビニに入り、先ずトイレを済ませ、ペットボトルに水を補給。ここで買ったのはお握り。早速店頭に座って食べる。その時背の高いランナーが前方に走り去る姿が見えた。若い人のようだ。きっと仙台明走会の若者だろう。そしてその後から男女の2人連れ。思わず声を掛けたが、離れていたため聞こえなかったようだ。大至急お握りを食べて後を追ったが私のスピードではとても追い着かない。 ここ大衡村の工業団地には、自動車工業関連の工場が愛知県から移転して来るとか。きっと静かな農村地帯もこれから大きく様変わりするのだろう。沓掛川の小さな橋を渡り、坂道を登ると色麻町。ここには自衛隊の王城寺原演習場があり、昨年までは沖縄在留の米軍が訓練をしていた。その空砲の音が今日は聞こえて来ない。 自販機に寄りミネラルウォーターを買う。ここで小休止。これまでのペットボトルには、アスリートソルトとヴァーム粉末を入れ、ミネラルウォーターには塩を混入。2本のボトルを手に持って走るのは邪魔くさいのだが、間もなく左折して加美町方面に向かうと、コンビにはおろか自販機のない田圃の中の一本道が8kmほど続く。そこが例年暑さと渇水に苦しむ場所なのだ。 間もなく羽後街道を左折し、直ぐに加美広域農道へと右折。いよいよ一本道の始まりだ。例年太陽熱と戦うこの道が、今日は低温の曇り空でとても助かる。それに疲れや足の痛みもさほど感じないのが嬉しい。誰かが後ろから追って来たようだ。きっとY田さんのはず。気にせずに前へ前へと進む。田圃では穂が出始めた稲もあるようだ。今年の稲の出来はどうなのだろう。 やがて前方に車。M仙人のエード車だ。だが手を振ってる人がもう一人。近づくとM井さんだった。「どうしたの?」と尋ねると、「急遽撮影班になりました」と彼。顔色がとても青く、調子が悪そう。やはり風邪で体調が優れずにエードを手伝うことにした由。その彼曰く。「ミスターXにシューズのことを話しましたよ」。あれまあ、当の本人が言う前に話してくれたとは。これも走友としての心配の表れだと解釈。インソールの帰還がいよいよ現実のものになるか。 M仙人お手製のキュウリの一夜漬けをいただく。冷えたトマトも美味しい。ランナーが欲する食べ物を提供してくれるのも、彼自身がランナーで何を食べたいか熟知しているせいだ。ここで追い着いたY田さんに、キュウリの半分を手渡す。朝スタート直後に寄ったコンビニでは牛丼を食べたと彼。やはりランナーは食べないと走れない宿命なのだ。<続く>
2009.08.04
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< 他人と比べない走り > スタートして間もなくY田さんの姿が消えた。どうもコンビニへ寄ったようだ。街のど真ん中にある田圃まで来た時、急に尿意。「たんぼに肥料を上げるから」。そう言って仲間には先行してもらった。一仕事を終えて仲間を追走。この道は私の通勤経路だから信号の場所とかは良く知っている。早めに道路の向かい側に渡り、1.5kmほど先の信号で合流。 まだ4kmも来ていないのに、汗かきの私の頭からは既に大量の汗。だがランパン、ランシャツでリュックも背負わなくて良いマラニックは楽なものだ。五橋付近でYちゃんと握手し、先行する。今日Yちゃんはどこまで行けるか。そしてお葬式で来れなかったEちゃんがもし参加していたら、どこまで行けたか。折角長距離練習の機会だったのに残念だったと思う。 未明の都会をひた走る私。でもスピードはさほど出ていないはず。車の通らない信号は無視。そして大都会の路上で眠っているサラリーマン風の人。前夜の金曜日から飲んでいたのだろう。北四番丁の手前では高校生が自転車を脇において、道路に横たわっていた。こちらは徹夜で勉強したのか。 北仙台を過ぎ、泉中央を過ぎた辺りから足が草臥れて来た。スピード練習も、長距離練習もしていないからだ。それに医療用インソール無しでのランニングは、傷めている左足にはとても大きなショックになり、無理が出来ないこともある。今日はあくまでも「ちんたら走法」に徹するのが大事。 高速道路への地下道を潜り富谷町へ入って間もなく、手にした飲み物がなくなった。M脇書店の自販機で555ml入りのスポーツドリンクを購入。このボトルが結構後で役に立った。直後ひたひたと迫る足音。O川さん、I藤さん、S田さんのご主人の3人連れだった。「今日は調子が悪いの?」とO川さん。「こんなもんだよ」と私。昨年まで5回走った中でこんな場所で抜かれたことがなかったのだが、練習量豊富な彼らの方がより速くスタミナがあるのが道理。 だが3人に抜かれたことで、草臥れた足でも彼らを追おうと言う気持ちになれた。と、目の前に宮城UMCのオレンジの帽子とランニングシャツを着た人影を発見。近づくとアーリースタートしたD堂さんだった。「何時に出たんですか」と尋ねると「2時15分くらいだったかな」との返事。72歳のランナーが55km先のゴールを目指して、そんな時間帯から走り始めることには頭が下がる思いだ。 田圃の脇に咲くクズの花を横目に、さらに3人連れを追走。後ろからはS田さんの奥様が迫って来ているようだ。富谷町の中ほどで、仙台鉄人会のF田さんの車が停車中。そこが最初のエードだった。ようやく3人連れに追い着く。S田さんの奥様も追い着いて給水。間もなく引き返す予定の夫妻はそこから先行した。I藤さんの話だと、S田さんはGPSを持って走ってる由。25km地点で正確に折り返すS田さん夫妻の科学的な練習には感心させられた。 給水で生き返ったところで再スタート。3人で走り出したものの、O川さんとI藤さんのスピードに付いて行くのは無理と判断。他人と比べても駄目。自分の状況を一番知っているのは自分。ここはマイペースで行くしかない。富谷町二ノ関周辺でS田夫妻は仙台へ引き返した。そして大和町へ入った辺りで後ろから声。振り返るとバンダナを巻いたF田会長が手を振っていた。どうもそこから仙台へ引き返す様子。彼も往復で50kmを越えるはず。一緒にゴールすることは出来なくても、走友の熱い思いを感じることは可能だ。<続く>
2009.08.03
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< 2つの気になること > 前夜寝たのは8時半ごろだろうか。確か7回まで楽天は田中の好投で1対0で勝っていた。だが翌朝早い私は、試合の結果を気にしながらも眠りに就いた。目覚ましは1時45分にセットした。走友会の出発時間は3時。逆算するとそのくらいでもギリギリ間に合うはず。それにも関わらず私が目覚めたのは1時20分。長年のウルトラマラソンでの経験が、きっとそんな時間に私を起こしたのだと思う。 早速トイレを済ませ、朝食の準備。55kmもの道のりを走るためには、先ずエネルギー源となる食事をしっかり摂る必要がある。前日のうちにスーパーで買った助六寿司を冷蔵庫から取り出す。インスタントの味噌汁用にお湯を沸かし、野菜とさつま揚げの煮物をチンする。ほかにおかずはキュウリの酢の物、キュウリの漬物、魚肉ソーセージ1本、納豆。納豆はたれを付けずにおかずとして食べる。そして食後にはいつも通りカスピ海ヨーグルトも。 故障がちな左足の底部には念のためにテーピングし、股の付け根にワセリンを刷り込む。リュックは小さいものにした。今回のマラニックから、宴会のつまみは自分で用意することになった。お世話役の方に極力負担をかけないためだ。私が準備したのはミックスおつまみ、キュウリの漬物、魚肉ソーセージだった。 小さめのポシェットには、ヴァーム粉末、アミノバイタルの粉末、塩、アスリートソルト、クリーム味の「もみじ饅頭」、サングラス、そして現金2630円入りのビニール袋を入れた。そしてこの日のシューズは、6月の「エンジョグinみちのく」で私のシューズと入れ替わって置かれていたものを履くことにした。もしかしたら、今日の参加者の中に間違えた人がいるかも知れないと思ってのことだ。 あの時間違えて私のシューズを履いて行った人は、日ごろインターネットを見ておらず、しかも間違えたことに気づきそうもない人だろう。そんな人の具体的なイメージが、ここ数日で思い浮かんで来た。ミスターX。その人も今回参加すると知って、私の期待は膨らんだ。もしかして私の大切な医療用インソールが帰って来るかも知れない。 2時20分。自転車で自宅を出発。幸い愛犬は静かに見送ってくれた。暗い真夜中の道は妙に肌寒い。2時35分、集合場所の体育館に到着。まだ誰も来ていない。駐輪場に自転車を置き、コンビニでお握り3個と野菜ジュースを買う。これもゴール後の宴会用だ。 最初に現れたのがKさん。「エンジョグinみちのく」の代表世話人である彼女は、男性の参加者に完走証を送る時、無くなった私のシューズのことを一言書き添えてくれた由。あの後、6箇所の掲示板に「捜査願い」を書き込んだが、今日まで何の反応もなかった。あのインソールが無いと9月に走る予定の「佐渡島一周」ではかなり足にダメージを受ける可能性がある。 私はKさんにミスターXのことを話して見た。ひょっとしたらその可能性はあると彼女。少しは期待が持てるかも知れない。実は今日履いて来たシューズをその人に渡し、帰りに履くサンダルまでリュックの中に入れていた。三々五々、走友が集まって来る。72歳と今日のメンバーでは一番高齢のD堂さんは、アーリースタートで既に走り出しているとのこと。遅れて迷惑を掛けないための気遣いだ。 先日走った「石巻~気仙沼単独走」の完走記を読んだとO川さん。その背中にはハイドレーションパックが背負われている。これは走りながら給水出来るもので、ランナーズの特売品を買った由。今日は2kgの水を背負ってのラン。9月の「佐渡島一周」に向けて、長距離の練習を重ねていると言う真面目な彼の性格が良く現れた今日のいでたちだった。 M井さんは風邪気味とのこと。先日「夜叉が池」を無事完走したのだが、会社の飲み会の後、そのまま寝て体調を崩した由。ひょっとしたら今日はゴール出来ないかも知れないと、長袖シャツに着替える彼。どうも風が冷たく感じられるようだ。Y田さんとは「いわて銀河」以来の再会。10月の「東山温泉もみじマラソン」50kmの部にエントリーしたことを話すと、彼もつい数日前にエントリーを済ませた由。 頭にバンダナを巻いたF田会長は仕事があるため、今日は途中から引き返すとのこと。I藤さんはいつも通りのニコニコ顔で、調子は良さそうだ。Y広さんは今日は何とかしてゴールへ着きたいと言う。「いわて銀河」では72km地点でリタイヤしたものの、今やウルトラへの情熱が沸々と湧き上がっているのだろう。 そして今日のサポート役のM仙人。私たちのために車で伴走し、給水と給食を担当してくれる。もちろん荷物も預かってくれるため、私たちは身軽に走ることが出来る。ありがたいことだ。最後に闇夜からS田夫妻が登場。急遽参加を決意して、ここへ来たとか。ただし、所要があるため片道25kmのところから引き返す由。ご夫妻とは7月の「サクランボ狩り」以来の再会だった。 記念写真撮影後、2時58分30秒にスタート。ゴールは標高553mの薬莱山(やくらいさん)中腹にある薬師の湯。我が走友会の場合は55kmになるが、そこまで12時までに到着するのが宮城UMC(ウルトラマラソン・チャレンジクラブ)の約束ごと。だからスタート場所と時間を決める走友会もあれば、各自の自宅からそのまま走って来るランナーもいるのだ。夜風がひんやりとして気持ちが良い。だが、残念だったのが昨夜の楽天の試合結果。どうもあの後逆転負けをしたようだ。う~む。<続く>
2009.08.02
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< 線をつなぐ > 何気なく駅構内の看板を見た時、その画像が重なって見えることに気づいた。これはおかしい。片目を瞑って見ると真っ直ぐ見えるのに、両目では平行な看板と斜めの看板がクロスするのだ。この現象に気づいたのは2年ほど前だったろうか。マラソンを終えて高速道路で帰ると、道路の白線が交錯して目に飛び込んで来てとても苦しい。片目では見え方が正常なのだが、何時までも片目のままでは疲れてしまう。 これは推論だが、原因は脳の疲労だと思う。長距離走によって脳内のエネルギーが不足し、視神経に悪さを働いたのではないか。気にせず今度は500mlの缶ビールを開ける。つまみはイカの燻製。そしてスポーツ紙に目を通す。近くの字はちゃんと読めて安心。だが次なる異変が私を襲った。 突然目の前が白い光に包まれ、風景がぼんやりとしか見えなくなる。この自称「ホワイトアウト現象」と初めて遭遇したのが2年前の「おきなわマラソン」完走直後。特段極端な体力消耗があった訳ではなかったが、突然目の前が真っ白になったことに驚いた。幸いにしてこの時はものの数分で奇怪な現象は治まったのだが、その後レース終了後に、時たま同様の現象が起きていた。 ものがクロスして二重に見えたり、目の前が真っ白になってものが見え難くなったりするのは、疲労が関係しているのは間違いない。いずれもレース終了後にしか起きないからだ。どんな原理かは分からないが、注意することに越したことはない。ビールのせいか、はたまた疲労のせいか、私はいつの間にか眠りに就いていた。 目が覚めたのはトンネルの中。結構長いトンネルで、昨夜泊まった志津川はもう通り過ぎていた。出来れば前日苦しんだ場所を電車の中から眺めたかったのだが残念だった。次に電車が停まったのは柳津駅。となると、やはり先ほどのは横山トンネルか。やがて電車は濁流が河原まで溢れた大河を渡った。北上川だ。前日岩手県を襲った梅雨の大雨で、大量の水が上流域から押し寄せたのだろう。 56kmを約10時間かかって走った雨の初日。そして34kmの灼熱の道を7時間20分かかって走った今日2日目。合計90km、17時間20分の走り旅を何とか予定通り終えることが出来た。心配した左足だが、ゆっくりだったためか痛みが出ずに済んだ。そして東北の古代から近世までの歴史を再認識出来たことは、私にとって実に有意義だった。 そもそも今回の旅は、「佐渡島一周」の練習のために、3年前自宅から石巻までの60kmを走ったことと関係している。「磐梯高原100km」が開催されなくなったため7月は自分にとって適当なレースが無く、それならマラニックで石巻から先を走ろうと考えついたのだ。かつて家から山形の山寺までの52kmを走ったことがあり、これで地図上では、山形県の山寺から宮城県北部の気仙沼までが一本の線でつながったことになる。 こうなると来年の7月はどこを走るかが楽しみだ。候補としては 1)気仙沼から一関まで。これは46kmの山越えになりそう。 2)気仙沼から唐桑半島を経て、陸前高田か大船渡までの三陸海岸を走るコース。これはさらに海岸美を堪能出来そうだ。 3)石巻から一関へ出るコース。これは「奥の細道」で芭蕉が辿った道で、その一部は今回も走った。 そのほか、岩手県の釜石から遠野を経て北上市へ抜ける山道も面白そう。ここは柳田国男の「遠野物語」の舞台でもある。仙台から福島までも走ってみたいし、盛岡~仙台間もいずれは挑戦したい。そうなると相当「線」がつながることになる。今後の夢として大事に取っておくことにしよう。 また、今回足を傷めずに済んだことで、9月の「佐渡島一周」206kmが楽しみになって来た。制限は48時間。果たして今の私にそんな体力があるか分からないが、弱い足を労わりながら何とか完走を目指したい。ともあれ南三陸の海は素晴らしかったし、北上川の偉大さを再認識した今回の旅だった。無事帰宅出来たことを心から感謝し、拙い完走記の結びとしたい。<完>
2009.07.28
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< 真昼の疾走と異変の始まり > 道の駅を出て間もなくすると、国道45号線は東から北へと向きを変える。そして本吉町に別れを告げ、いよいよゴール地点の気仙沼市内へと入る。気仙沼の入り口が階上(はしかみ)。ここは徳仙丈山へ山ツツジを観に行ったバス旅行の時に通ったため、風景にも若干見覚えがある。だが今は色鮮やかなノウゼンカズラや猫の髭に似たクレオメなど、夏の花々が庭先を飾っていた。 JR最知駅周辺で何気なく時計を見たら時刻は2時過ぎ。そこで気仙沼駅から出る快速電車の発車時間が確か3時台だったことに気づいた。これはいけない。ひょっとしたら乗れなくなる可能性もありそうだ。仙台までの長距離バスが4時台にあるが、運良く快速電車に乗れたらビールが飲めそうだ。果たして残りの距離はどれくらいあるのだろう。 今はリュックを下ろして地図と電車の時間を書いたメモを取り出す暇はない。それより何より、駅に出来るだけ早く到着することが先決だ。そう思うと、故障中の左足のことを忘れてスピードを上げた。おおっ、走れる走れる。いざとなれば、人間は隠れた力を発揮するものだ。この時はまさに必死。見知らぬ土地をどれくらいの時間的な余裕があるかも分からずに夢中で走るだけ。 宝沢入口から右折して国道346号線へ入る。この道路は唐桑方面へ向かい、45号線経由で気仙沼駅に行くより1kmほどは短いはず。きっと市内の繁華街を抜けるのだろうと思っていたのだが、どこまでも郊外の風景が続くのには参った。どうも思い込みがあったようだ。そして駅までの距離を、間違って1.5kmほど短く地図に書き込んでいたことに、この時はまだ気づいていない。 分岐点のコンビニに入り、駅までどれくらいかかるか店員に尋ねる。「車で15分」。それが彼女の答えだった。ええっ!?車で15分の距離を爺さんの弱った足ではどれくらいかかるのだろう。道は登り坂になった。途中賑やかな街中を通ったが、それも一瞬。橋を渡り(どうもあれが大川だったようだ)、さらに坂を登る。道は曲がりくねり一層寂しい風景に。 おいおい、これで本当に気仙沼駅に出るの~?心配になった私は老人に確認して見た。やはりこの道で良いようだ。工事現場を通りかかった時、傍に居た小父さんが私に話しかけて来た。だが焦っている私は適当に返事をして走り去る。坂を登り切ったところでJR気仙沼駅方面への標識を発見。そこから左折し、広い道へ出る。駅まで残り800mほどか。そこもずいぶん閑散とした道で、とても寂しい駅前だった。そこを右に曲がるとゴールの気仙沼駅。先ずは腕時計を見る。時間は3時5分過ぎ。意外に早く着いた。次に駅舎に飛び込んで仙台行き快速電車の発車時間を確認。嬉しいことには何と3時50分発。十分セーフだったことに拍子抜けする。直ちに身障者用トイレを借用し中で着替え。濡れタオルで体を拭き、ランパン、ランシャツ、帽子、靴下などを全て水洗いする。それらの作業を終えて鏡を見ると、真っ赤な顔をした私が写っていた。 窓口で切符を購入し売店へ。買ったのはビール2本とつまみ、スポーツ紙。お金はあったが、家への土産物を買う心の余裕が全くなかった。急いで缶ビールを開け、一気に喉に流し込む。ぷは~。これは冷たくて美味い。これで何とか一息ついた。改札の前に暫く並び、到着した電車に乗って座席に座った途端、私の体に異変が起きた。<続く>
2009.07.27
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< 吐き気と暑さに苦しみながら > 海から上った荘厳な太陽が、今南三陸の空を照らしている。どうやら今日は暑さに苦しみそうだ。散歩から戻って新聞を読もうとしたら、まだ届いていないそうだ。我が家だと5時前には配達されているのだが、田舎は新聞が届くのが遅いようだ。6時半になってようやく女将さんが部屋まで新聞を持って来てくれた。高校野球の県予選では、悲しいかな母校がコールド負けを喫していた。 7時になるのを待ちかねて食堂へ急ぐ。さすがに昨夜のような豪華さはないものの、魚と野菜をふんだんに使った良心的な内容の朝食だった。ご飯をお代わりしてマラニックに備える。宿泊費の支払いを済ませてから走る準備。晴れて気温が上がる今日は、引き続きランシャツ、ランパンで走ることにした。帽子は宮城UMCのオレンジ色のもの。 宿のお嫁さんが領収書と一緒に、黙って茶色の小瓶を差し出した。それは強壮剤だった。「昨日は顔色が悪かったけど、今朝はもう大丈夫なようですね」。石巻から走って来た老ランナーの体調を気遣ってくれるお嫁さんの気持ちが嬉しい。「ええ、今日は昨日より20kmも短いですから」。そう答えながら玄関先で軽くストレッチ。どうやら足に痛みはなさそうだ。 手を振って別れを告げ、海岸から山へ入る。直接国道45号線へは向かわず、県道22号線を進むことにしたのだ。多分浜辺の美しいコースだろうと思っていたが実際は厳しい山道で、途中の谷では杉を伐り出していた。清水浜(しずはま)でようやく国道と合流。その手前で葉がユリ、花がナデシコに良く似たピンクの花を発見。旧歌津町に入ると、今度は土手に山百合の花だ。 登り坂を越えると管の浜までの緩い下り坂。目の前に伊里前漁港が見えて来る。ここに「歌津魚竜標本館」の案内板発見。名前は知っているがまだ観たことがない。国道から80mほど入るだけなので是非見学して行こう。その時車から「どこまで走るんですか」の声。「石巻から気仙沼まで走っている途中です」。と答えると、「頑張ってください!」との声。それに励まされて右折。 「水産振興センター」の隣にある物産館。標本館はその2階部分のようだ。だが体調がおかしい。寝不足が祟ったのか吐き気がする。冷たいお茶を買って2口ほど飲んだら、ようやく気分が治まった。2階に上って標本館内を観覧。「歌津魚竜」は世界でも最古の魚竜だと分かった。東北では昨夜泊まった志津川の「シヅガワリュウ」や福島の「フタバスズキリュウ」などの魚竜が、また北陸ではその後発生する恐竜の化石が出ている由。 残念ながら「ウタヅギョリュウ」の化石はレプリカだったが、その代わりイタリアで発見された巨大な魚竜の化石2体を見学出来た。国道へ戻り、そこから再び北上を開始。右手奥には泊崎半島が突き出ているようだが、山陰で全く見えない。JR陸前港駅を過ぎ、蔵内まで来てようやく紺碧の太平洋が見えた。 10時45分、二十一浜前を通過。夏休みに入ったのか大勢の子供達が海水浴をしている。気温表示は早くも28度C。これでは疲れるはずだ。11時26分、卯名沢のコンビニで早めの昼食。食べたのはお握りとカップヌードル。腹持ちするし、塩分の補給にもなるからだ。前日はコンビニがほとんどなく、それがガス欠の原因になった。11月末に走る予定の「沖縄本島東海岸単独縦断」。北部の山原では全く人家がないところが40kmほど続くはずだが、果たしてどんな作戦が取れるだろうか。 英気を養って11時50分スタート。日陰からカンカン照りの日向に飛び出すと肩や首が暑い。帽子の中に入れた濡れタオルが、少しは暑さ対策になるはず。登米沢から真っ直ぐ進めば本吉町役場に行き当たるはずだが、記憶がないのは道なりに右折したのだろう。小金沢駅通過。田ノ沢周辺で「大森府中館」の案内板発見。左手の山中には、奈良時代の古い城が3箇所あったとか。気仙沼地方の蝦夷に対峙するための、国府多賀城の前進基地だったのだろう。 13時ジャスト「道の駅大谷海岸駅」に到着。少し熱中症の症状が出始めて気分が悪い。ここはJRの駅舎を兼ねており、目の前は海水浴場になっている。日本で最も海水浴場に近い駅と書いてある。駅舎の涼しい席に座りながらアイス最中を食べ、濃い桃のジュースを無理やり飲んだ。これで少しは熱中症対策になったはず。13時17分、再び熱射の国道に飛び出す。<続く>
2009.07.26
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< ご馳走とお茶の話 > 風呂は家庭用のもので、一人か二人しか入れない大きさ。幸い誰もおらずゆったりと入ることが出来た。体を洗いながら傷んでいる箇所をチェック。まず左右の股がランパンで擦れている。右の脇腹と左の背中はリュックで擦れたもの。そして左足人差し指の爪が死んだようだ。だが、いずれも明日走るのに差し支えは無さそうだ。部屋に戻って傷口にワセリンを塗る。 脱いだランパンとランシャツ、帽子を水洗い。そのままだと臭気が凄いからだ。そのうちランシャツだけは乾きそうなので部屋に干した。さて、「夕食は6時半から自室で」と宿のお嫁さんが話していたのに、7時になってもご飯が届かない。ひょっとしたら自分で取りに行くのかと思って台所へ行くと、「子供達のご飯に手間取って」と申し訳無さそうなお嫁さん。 ようやく届いた夕食に驚く。載せた料理が重すぎて、運ぶ途中のお膳がグラグラしているのだ。そのメニューとは 1)岩ガキの蒸し物 2)刺身盛り合わせ(マグロ、タコ、エビ、ホタテ、銀ザケ、ホッキ貝) 3)ウニ 4)ホヤ(蒸し物) 5)ホヤ(酢の物) 6)イワシ佃煮 7)ノリ(佃煮) 8)カレイのから揚げ 9)ウニ炊き込みご飯 10)海草の味噌汁 11)梅シロップ煮 12)梅酒 13)マッコリ(韓国の酒) どうです、凄いでしょ? ビールを頼んだら、「お通し」にウニが付いて来たのには驚いた。料金は1泊2食付で6800円。志津川の民宿はほとんどが豪華な海鮮料理が夕食に出ると思って良い。疲労のためガス欠になって吐き気がした私だが、今は食べきれないほどの料理をゆっくり食べる。だがコップ1杯分のビールはとうとう飲むことが出来なかった。やはり本調子ではなかったのだろう。 食後も私の体はまだおかしかった。喉が渇いて仕方が無いのだ。ポットのお湯を急須に注いでお茶を飲む。途中お茶の葉を替え、結局ポットのお湯全てを飲んでしまった。それだけ脱水状態になっていた訳だ。10時過ぎには床に就いたが、夜半1時過ぎにトイレに起きる。それから2回ほどトイレに起き、3時過ぎにはすっかり目が覚めてしまった。お茶で水分補給をしたのは良いのだが、お茶に含まれる成分のせいで眠れなくなったのかも知れない。 4時半、着替えて散歩に行く。玄関でシューズの裏を確かめると物凄い減り方だ。医療用インソールが無いため、私は極力足に負担をかけないよう「すり足走法」を心がけていた。だからシューズの底が減ったことは私が足を傷めないための代償で、むしろ歓迎すべきことなのだ。「アースマラソン」中の寛平ちゃんのシューズの底が250kmほどで磨り減るのも同じ理由。長い距離を走るランナーは足を守るために、知らず知らず「すり足走法」を取るのだと思う。 先ず海岸沿いに歩いて荒島へ向かう。島へはコンクリートの道が出来ている。山頂まで登ると荒島神社があった。チリ地震津波で破壊された、塩竃神社、山神など幾つかの小さな祠を合祀したようだ。島は「魚付き保安林」に指定され、保護されている由。この小さな島影でも魚が寄って来るためには大事なのだろう。 再び海岸へ下りると男達が船から身を乗り出し、「箱眼鏡」を見ながら何かを捕っている。地元の方に聞いたらウニ漁らしい。なるほど、こんな近くでウニが捕れるのか。私が昨夜食べた2個のウニもここで捕れたのだろう。民宿に戻りながら山を見ると杉の大木がある。どうも神社のようだ。好奇心がムクムクと湧き出し、そこまで登ってみることにした。 神社は荒崎神社というようだ。遠くから見えたのは「太郎杉」で樹齢800年ほどの老杉。元は「次郎杉」と一緒だったようだが、そちらは残念ながら何年か前に倒れてしまったようだ。案内によれば、この境内にはもっと多くの大杉があったのだが、仙台城を築く時、広瀬川に架ける大橋の材料として15本が伐られ、遥々仙台まで運ばれた由。そう言えば大橋の傍の川の中に、橋脚が流されないための穴が穿たれている。きっとあれが往時の名残だろう。思いがけず歴史の勉強をして、宿に戻った私だった。<続く>
2009.07.25
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< ヘロヘロのゴール > 少し食べたお菓子がエネルギーになったのか、意外にそこからの走りは快調だった。ほぼ下り坂が続いたせいもあっただろう。間もなく志津川湾が見えて来た。紺碧の海に島が2つ。あれが目指す荒島か。いやいやそうではない。今日のゴールは遥か対岸。そこに小さな島が見える。きっとあれが荒島のはず。残りは後15kmくらいだろうか。 本当は西に向かっているはずなのに、私の感覚では北に向かっているように感じてならない。だが薄い太陽は前方にある。だからそちらが西の方向に間違いない。その太陽が北東に見えると言うことは、道路が南西の方角に向かっていることを意味するはずだ。後で地図を見たら、距離は短いが確かに南西に向かう地点があった。岬の道はそれだけ曲がりくねっているのだ。対岸に白い建物が見え出す。あれはホテルKだが、その隣の橋は何だろう。 水戸辺集落で標識発見。一体何だろうと近づいて読んでいると男の人が名刺をくれた。肩書きが「行山流水戸辺鹿子踊保存会会長」ほか5つ。本職は養殖漁業の由。標識は地元に伝わる踊りに関するものだった。念仏踊りが起源で、約300年の伝統がある由。どこまで行くのか聞かれたので、宿の名前を言うとちゃんと知っていた。御礼を言って再び走り出す。 とうとう志津川湾の最奥部まで来た。道は暫し北行、ようやく太陽が左手になった。だが私の感覚では何故か東に向かっているのだ。ペットボトルのお茶が残り少なくなった。少し行けば自販機が見つかるだろうと楽観。だがその自販機がない。とうとう登り坂で最後の一滴を飲み干した。ようやくホテルKに辿り着き、駐車場の一角にある自販機で飲み物を買った。きっとこの辺りからガス欠と渇水状態が始まり、判断力が鈍っていたのだと思う。 先刻対岸から見えた橋はJR気仙沼線の鉄橋だった。背後に山が迫る箇所では、道路も線路もごく近いところを通っているのだ。ようやく南三陸町の中心地である旧志津川町に入った。右手に「袖浜」の標識。おおっ、そこが今夜泊まる民宿がある浜辺だ。残りの距離は2kmほど。町立図書館と松原公園を通過。自分の頭ではもう直ぐ到着のはず。ところがなかなか袖浜に着かない。思い余って爺ちゃんに尋ねた。この道で間違いないがまだ先との返事。 橋を渡って魚市場を過ぎさらに進む。頑張って200mほど走ったところで急にエネルギーが切れた。17時5分、疲労で全く走れない状態。おまけに吐き気がして来る。思えば走り出してから食べたのがお握り2個と少々のお菓子。それにチューブ入りの栄養剤とチョコレートアイスだけ。後は飲み物だったがそれも最後の方はエネルギーにならないお茶しか飲まなかった。 海岸に放置された魚網から腐った海草の臭いが漂い、吐き気を助長する。今は苦しみに耐えながら歩くしかない。その時、袖浜まで2kmの標示発見。ええっ?と頭の中が大混乱。どこで距離の計算を間違えたのだろう。大森集落通過。大森崎を周ると荒島が目の前に迫った。広い砂浜の海岸は海水浴場のようだ。幾つかの民宿の案内はあるが、私の泊まる民宿の看板はどこにも見えない。 その時軽トラックが私の横を通過して行った。袖浜集落の入り口と思しき場所で、地元の小父さんに民宿の場所を聞く。さっき追い抜いて行った軽トラが民宿のものとか。最後の坂道を登ってようやく到着。宿の女性が氷が入ったコップを差し出した。よほど苦しげな表情をしていたのだろう。軽トラから私の姿を見ていた民宿の小父さんが、ひょっとしたらウチのお客さんじゃないかと女性に話していたそうだ。2杯の冷水を立て続けに飲んだ。水がこんなに美味いものだったとは。 やれやれ。最後はヘロヘロだったが、初日の56kmを約10時間かかって何とかゴール出来た。一番心配していたのが左足。医療用のインソール無しで良くそれだけの距離を走れたものだ。ともかく部屋に上がってチェックインを済ませ、先ず風呂に行くことにする。宿の女性はお嬢さんではなく、とても感じの良いお嫁さんだった。<続く>
2009.07.24
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< 神割崎で最後の食料を平らげる > 11時15分スタート。道は土手から集落へ下りる。ここは古くからの街道だったのだろう。再び北上川の堤防へ。前方に大きな橋が見えて来た。そこまでの距離は3kmほどか。大河に架かる橋は新北上大橋しかないはず。だが形がどこか水道橋のように見える。近づくと石巻から女川、雄勝を経由し、海岸沿いに通る国道398号線の標識。やはり新北上大橋に間違いない。 道路を渡り、橋の右手にある歩道に向かう。歩道のところどころに大きな水溜り。それを避けながら走る。それにしても北上川は大河だ。河口の追波湾は見えず広い川幅に圧倒される。橋の下を流れる濁った水。岩手県の山奥から流れ出た一滴の水が、間もなく大海に注がれようとしている。川は250mほどだが、さらに河原が続くため橋の長さは350mはあるだろうか。 橋を渡ると「北上」の標示。岩手県の北上市なら方角が違うはず。後で知ったのだが、ここは旧北上町。北上川の河口であることから名づけたのだろうが、私には馴染みの無い地名だった。数年前に石巻市と合併したため、さらに印象が薄くなったようだ。橋を渡って右折し海岸を目指す。途中土手から降りて、自販機でお茶を買う。旅人が珍しいのか、盛んに犬が吠える。 暫くして再度土手を下り、小さな店でカルピスウォーターとチューブ式のアイスを購入。そしてチョコレート味のアイスを食べながら歩く。間もなく海岸になるはず。小川の河口に閘門がある。きっと津波を防ぐためのものだ。確か南三陸では、昭和35年頃にチリ地震津波で大被害があったはず。 飯野川高校十三浜校の手前に廃屋。どうも旧北上町役場の庁舎のようだ。広域合併も良いが、合併された町は税金が高くなり、かつ住民が不便になるのではないか。松林の向こうから波の音が聞こえて来た。ようやく川がなくなり海になったようだ。暫く行くと最初のトンネルがあった。「白浜トンネル」の由。いよいよアップダウンが始まる。岬に向かう道はどうしても曲がりくねった坂道になる。前半、海岸沿いの国道398号線を避けた理由がそれだった。 白浜を過ぎた辺りに「広東船漂着地」の看板発見。その昔中国の船が台風に遭い、遥か遠い日本の寒村に漂着したのだろうか。小室集落の次に大室が現れ、小指(こざし)集落の次には大指(おおざし)が現れた。だから地名は面白い。この付近で戦国時代の古城の標識を2度見かける。小室では初めて南三陸の海が見えた。青い太平洋に幾つかの小島が浮かんでいるのが、不思議な光景のように思えた。 14時40分、神割崎到着。ここは南三陸町だとばかり思っていたのだが、まだ石巻市のようでガッカリ。それでも心を鎮め岬の先端まで走る。黒い岩にぶつかる波の音。どうやら岩には柱状の節理が走っているようだ。こじんまりとした風景だったのが意外だった。再び道路に戻って走り出すと、付近にも案内図。実はそこが南三陸町との境界で、神割崎はまだ続いていたのだ。 松林を抜けて海岸に行く。天候は悪いのに大勢の若者が集まっている。中にはミリタリールックの青年が30人ほど。どうも気持ちが悪い連中だ。どうやらここのオートキャンプ場に来たようだ。早々に退散し、少し離れた駐車場で休憩。お菓子とチューブ入りの栄養剤を補給。これで手持ちの食べ物は全て食べ切った。14時56分再スタート。岬に別れ、ここからは西へと向かう。<続く>
2009.07.23
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< 遠い道 > JR石巻線を過ぎてなおも直進すると、道はやがて旧北上川に出た。ここに架かるのが開北橋。橋の袂に芭蕉とその弟子曾良の絵があった。標識に目を通す。ここには長年渡し舟が通っていた由。当然「奥の細道」で訪れた芭蕉一行は渡し舟のお世話になったのだろう。そしてここから一関へ向かったのだと思う。 最初の木の橋が架かったのが昭和期。そして平成になってようやくコンクリート製の橋に生まれ変わった。下を流れる川が本来の北上川。だが流域面積が広いため、雨が降るとたちまち氾濫する暴れ川だった。このため明治になって川の付け替え工事を行い、本流を追波湾へ放水したようだ。水と戦い、川と戦って来た人々の長い苦難の歴史を思う。 橋を渡って暫く行くと左手に野球場が見えて来た。あれが県営石巻球場か。朝日新聞社の社旗が飾られ、高校野球の歌が聞こえる。八幡神社の傍に石の標識。表側には「南桃生郡」そして裏側に「北桃生郡」。桃生郡が南北に分かれていた時代があったことを初めて知った。石が比較的新しいので、明治以降のほんの一時期だと思う。 旧河北町大森集落の外れで案内板発見。裏手の小山が朝寄った石巻市日和山の城主葛西氏と争って敗れた豪族山内首藤氏の居城とのこと。風になびく早苗を見ながら走る。9時45分三叉路に到達。念のため地図で確認。左へ行くと国道45号線に出、北上川に架かる飯野川橋を渡って一関へ向かう。私は予定通り右手の道を行くことにした。雨が一段と激しくなって来た。リュックの中の衣類、地図、薬類、食料、ポシェットなどは濡れないよう、全てビニール袋に入れてある。左手に北上川の高い土手を見ながら小さな集落を通り過ぎる。新寺に板碑あり。北上川(追波川)の水難で亡くなった人を供養する室町時代のものだった。 赤柴集落から堤防へ上がる。県道30号線は広い舗装路で、車がビュンビュン行き交う。北上川はさすがに広い川幅だ。水が流れている部分だけでも200mはあるだろう。それに結構大きな漁船が何隻も係留されている。どうやらシジミを採る船のようだ。河口までの距離表示は7kmほどだが、釣り人が釣ってる魚はハゼ。やはりここまで海水が上がって来るのだ。 程なく雨が止み、初めて日が差した。11時、横川周辺の土手で休憩。リュックを下ろして唖然。何とファスナーが開いたままだった。案の定地図が1枚濡れて駄目になっていた。だが予備の地図は何とか使用可能。朝自宅付近のコンビニで買ったお握りを2個とも食べる。そして若干のお菓子も。 それにしてもこんなに道が遠いとは思わなかった。走り出してから3時間15分経っているのに、走った距離はまだ20kmほどの計算。地図の距離表示が間違ってないのだろうか。でも、女川、雄勝経由だったらさらに15km以上も遠くなる。やはりこの道を選んで正解と思うしかない。<続く>
2009.07.22
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