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< 雨の日和山 > 前夜、妻はご機嫌で帰宅した。甥の結婚式で飲んだワインが効いていたのだろう。マラニックの当日の朝もまだ少し酔っているのか、歌が聞こえている。昨夜、「愛犬との散歩はまかせて」と言っていた妻の言葉を信じて、そのまま朝食を摂った。そして自転車で出発。微かに雨が降っている。これも想定内のこと。途中コンビニでお握りやスポーツドリンクなどを買う。実はこれが結果的に私を救うことになった。 長町駅6時19分初の電車で仙台へ。そして仙台発6時32分の石巻行き快速電車に乗り換える。松島海岸、東名浜などで曇り空の下に海が見えた。7時41分石巻駅到着。車内で読んだスポーツ紙。楽天が勝った余韻がまだ残っている。石巻駅は閑散としたもの。まずトイレを済ませ、駅舎内で上着とトレパンを脱ぐ。そして駅の外で軽くストレッチ体操。 何人かの高校生が私の方を見ていたが全く気にせず、雨の中を気合を込めて走り出す。気温が高くなるはずなので、上はへそ出しのランシャツ、下はランパンの軽装にした。そして帽子はグレーのメッシュで、背中には小型の青いリュック。駅前を左折すると繁華街。石ノ森章太郎の漫画がそこらじゅうにある。どうやら漫画ロードのようだ。 先ず向かったのは日和山公園。地図では駅の南方1km辺りにあるはずなのだが、分かり辛い。そこで女子高生に方角を聞いた。真っ直ぐ行けば公園の案内があるはずとのこと。やがて公園への標識が見つかり、山道へと登って行った。だが登り切ったところで迷子に。そこから先には何の案内もない。細い道を真っ直ぐ行くか広い道を右折するか迷って、ドライバーに尋ねると山の方向に左折するのだとか。 「不親切な案内だわい」と文句を言いながら走って行くと、確かにそれらしい雰囲気の神社に出た。案内図によれば芭蕉の像や新田次郎の石碑などがあるようだ。だが私が見つけたのは川村孫兵衛の石像。彼は伊達政宗の命により、北上川を改修して石巻をたくさんの船が出入り出来る港町に作り変えた人だ。眼下にはその石巻の港が見える。芭蕉と弟子の曾良が訪れた時、山の上からは煙が立つたくさんの人家が見えたようだ。 「石巻さ~よ~その名も高い 日和山とえ~」有名な民謡、大漁謡い込みの一節にも、当時の石巻の繁栄振りが偲ばれる。三十五反の帆を張った船が米を満載し、仙台を経由して江戸まで上ったのだ。そしてこの山はかつて石巻を支配していた葛西氏の居城だった由。政宗に敗れて滅んだ葛西氏だが、頼朝が奥州藤原氏を滅亡させた後、この地の鎮護を任され交通の要所である石巻に300年ほど陣取っていたようだ。 城跡に残る神社は香取神社。奈良時代に朝廷の命令で関東から移民して来た人々が、郷里の神を勧請したのだと思う。現在石巻市内を流れるのは旧北上川だが、太平洋とかつての北上川は往古から人々や豊かな物資や文化を運ぶ役目を担っていたに違いない。やはりマラニックのスタート前にここを訪れて良かった。そう確信した私だった。 さっきとは違ったコースで山を下る。標高60m余りの日和山だが、海の直ぐ傍にあるため、実際よりかなり高めに感じる。名前の通り、船出の日和を判断するには絶好のポイントだったのだろう。当て推量で走っていたが心配になり、老人に「開北橋」までの道を尋ねた。だがどうもおかしい。改めて地図を取り出して調べると、行過ぎていたようだ。少しだけ戻って県道石巻河北線を北上。いよいよここからが本来の旅の始まりだ。<続く>
2009.07.21
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< ゴール後の走友と老ランナー > 競技場の入り口で誰かが手を振りながら私の名前を呼んだ。Eちゃんだった。女性陣は73.3km地点の第3関門でバスに収容された由。でも女性陣って誰々だろう。だが質問する暇は無い。時計を見るともう直ぐ制限30分前。これはいけない。せめて13時間30分以内にはゴールしたい。そう思って最後の力を振り絞った。 ゴール前にはYちゃんがいた。そしてゴールに飛び込むとH口さんが写真を撮ってくれた。スタッフの人がメダルを首にかけてくれ、私はそのまま完走証を取りに行った。タイムは13時間29分31秒。初めての13時間台ではあったが、これで「いわて銀河」3度目の完走だ。ようやく100kmの旅は終わった。体育館でアーリーエントリーの2千円を受け取り、荷物と完走賞のTシャツを受け取る。 体育館内でM井さんと遭遇。T田さん、C一さんら大崎市の古川3人衆と一緒で13時間を切ってのゴールだった由。シャワーを浴びて着替えし、荷物をまとめる。盛岡駅経由北上行きのバス乗り場に荷物を置きに行こうとした時、偶然秋田のJunさんと遭遇。彼はゴール後スタート地点の北上まで戻って車を運転し、私を待ってくれていたのだ。「川の道」と「錦秋湖」でのダメージがありながら9時間台であの難コースを走破したとは信じられない荒業だ。 体調が悪く前夜祭には出なかったと彼。道理で幾ら探しても見つからなかった訳だ。彼の健闘を称えて握手。その後、おにぎり、ビール、お茶、焼肉を引き換えてバスに乗り込んだ。その車中で東京のぬまっちさんと遭遇。これでほとんどの走友に会えたが、唯一大阪のむいむいさんに会えなかったのが残念。バスの中で遅めの食事を摂る。100km完走後にこれだけ食べられるのは、体調が良かった証拠だろう。さよなら岩手山。また来年素晴らしい勇姿を見せてね~。 新幹線の車中で神奈川のWさんに会った。「磐梯高原」で同じ部屋に泊まったことのある彼は70歳。端正なフォーム。ゆっくりだが安定したペース。削ぎ落とされて無駄の無い筋肉。まるで哲人のような老ランナーは13時間10分台でのゴールだった由。今回もコース上で何度か後ろ姿を拝見したが、どうしても追いつくことが出来なかった。昨年の大会後、制限時間の延長を事務局に訴えたことを話すと、「完走出来たのはそのお陰」と、哲人はとても喜んでくれた。それだけでも強く訴えた価値があった。 後日談も含め、走友のレース結果を記しておきたい。大崎のK彦さんは初めて10時間台での完走。O川さんは12時間10分台。腰を傷めたのは長距離の練習をかなりこなしたためだったそうだ。Y田さんは私に続いてのゴール。Y川さんのタイムは聞いてないが、11時間台の可能性もある。一度も姿を見かけなかったDさんは66kmでリタイヤした由。やはり「川の道」のダメージが残っていたようだ。 女性では、K野さんが初挑戦で見事な初完走。35km辺りで追いつかれたのは、やはり実力だったのだ。K藤さんは89km周辺で出会った収容バスに、思わず手を挙げて乗ってしまったとか。その後のレースを考え無理をしなかったのだろう。途中で抜いたK村さんはもっと早めにバスに乗ったと聞いた。 73.3kmの関門で止めたのは結局Yちゃん、H口さん、Eちゃんの3人だった。H口さんはこれまでの最長距離だったはず。足首を捻挫し、痛み止めの注射を2本打って出場したEちゃんは、足首を庇うあまり膝の裏側を傷め、しばらく走るのを休むようだ。こうしてそれぞれの「いわて銀河」は幕を閉じた。 レースの数日後、香川のEddieさんから私のブログに書き込みがあった。「完走したのにメダルがもらえなかった理由は何でしょう」と。頭をひねって答えたが、彼が大会本部に直接質問してようやく理由が分かった。予想より完走率が高くなったためにメダルの数が間に合わなかったのが真相とか。滅多に無い珍事だが、それだけ走り易くなったことの証明だろう。そんな訳で、私も後何年かは挑戦する楽しみが持てそうだ。<完>
2009.06.22
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< インタビューと若いライバル > 鶯宿ダムが近づいた頃、突然コース上でインタビューを受けた。追い駆けながらカメラを向けての質問。完走を確信していた私は落ち着いて答えた。何が印象的だったかと尋ねられ、「昨年自分のブログに大会の改善点を要請したら、今回ほとんど希望が叶えられたことがとても嬉しい」と。 実は前夜祭の会場でもインタビューを受けた。その時の質問の一つが「ウルトラマラソンの魅力とは」。「人生と良く似てることです」。私は即答した。意味が理解出来ないテレビ局の人に、「長い距離を走るウルトラマラソンはレースの間にいろんなドラマが起きるんです」と補足。 横にいたEちゃんが素早くフォロー。「100kmの中で自分がどう変化するか楽しみなんです。苦しみにどう対応出来るかも含めて」。一昨年の暮れにたった1回フルマラソンを走っただけで100kmに挑戦し、2度の「宮古島」と「しまなみ海道」で堂々3連続完走を果たした彼女だが、短期間にウルトラ魂が成長していたことに驚かされた。 昨年捕まった86.3km地点の第4関門を難なくクリヤー。だがそこにY田さんの姿はなかった。歌を口ずさみながら賢治ワールド前の第5関門に向かう。途中でリタイヤした選手達を乗せた収容車がひっきりなしに通るようになった。そして力なく道を歩くランナーも増え出す。90.7km地点の第19AS到着。この最後の関門にY田さんはいた。 声を掛けると「やっぱり1本じゃ足らなかったね」と彼。どうやらビールパワーの限界だったようだ。私は手早くエネルギーを補給し先を急いだ。100kmレースはここからが本番。視界が開け、秀麗な岩手山が一瞬だけ見えた。2年ぶりで臨むことが出来た山容は、レースの象徴とも言うべき光景だ。 92km過ぎ、「一歩ずつランナー」が友人と連れ立って歩いていた。66km辺りで彼を抜いた後、復活した彼に抜き返されたのが84km付近。若い彼らだがやはり体力の限界だったのだろう。声を掛けて先行すると、背後で「おおっ!」と言う驚きの声がした。見よ、これがベテランランナーの走りだ。彼らには厳しい現実だが、きっと今後のレースに生かされるはず。 緩やかな坂道を登り切ると95km地点。岩手山から秋田駒ケ岳にかけての雄大なパノラマが眼前に展開する。田圃道を黄色いTシャツの若者が歩いている。多分明走会所属だと思うこのランナーとは、これまで約50km近く前後を繰り返していた。私が先行すれば彼が追い抜く展開だったが、ここでようやく追い着くことが出来た。だがその前に私が探していたゼッケンナンバーを付けたランナーが歩いていた。紛れもなく香川のランナーEddieさんのはず。 「いわて銀河」に参加する私の予定を知って、たまたまブログに書き込んでくれた彼のナンバーをプログラムで見つけたのが前夜。偶然番号が秋田の走友Junさんの一つ前だったため、記憶に強く残っていた。ゴールまで残り3km地点で行き逢えたのは、私が要望したゼッケンを体の前後に付けることが実現したため。胸の1枚だけでは決して見つけられなかったことだろう。 直前に走った「えびす大黒100km」で足を傷めたEddieさんは、「いわて銀河」の激烈な下りで膝痛が発生した由。「時間内完走は確実なのでこのまま歩く」と言う彼と別れ、再び走り出す。その間に黄色いTシャツの若者はかなり前方まで行っていた。慌てて後を追ったがそのスピードには着いて行けなかった。きっと歌を歌いつつ横を通り抜けた私を「ライバル」と見做していたのかも知れない。 その時車の中から私の名前を呼ぶ声が聞こえた。ゴールを終えたS木さん一家が帰宅する途中で私を見つけてくれたのだ。思わず手を振り「気をつけて帰ってね~!!」と叫ぶ。良かったねS木さん、奥さんと結婚したばかりのお嬢さんが応援に来てくれて。私は晴れやかな気持ちで雫石総合運動公園へ向かった。だがエネルギーは限界状態で、全くスピードが上がらない。<続く>
2009.06.21
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< 恐るべきビールパワー > コースは銀河高原ビール工場の敷地内に入る。この「銀河高原」と言うのも、多分宮沢賢治のネーミングだったはず。立っていたスタッフの人に、「どこでビールを売ってますか?」と尋ねたら、「あの建物だよ」と教えてくれた。迷わずY田さんとその建物に入る。支配人の方(?)に「ビールをください」と言ったら驚かれてしまった。「ジョッキですか?」。「いや缶ビールです」。 冷蔵庫の中から冷えた「銀河高原ビール」を取り出す。実はエードが改善されてないことを想定し、自販機で飲み物を買おうとポシェットに小銭を入れていた。それが思いがけずに役に立ったのだ。一方のY田さんは昨年の「磐梯高原ウルトラ」でバテた時、缶ビールを飲んで復活したことがあった。だからこの「いわて銀河」でも一度試してみたかったようだ。 建物の外に出てベンチに座り、ビールを開ける。このビールは前夜祭の会場でも飲んでいた。フルーティーな味が特徴の地ビールだった。今再びレースの真っ最中に飲む。冷たいビールが腹に染みる。思わず「美味い」と2人で顔を見合す。ふう~っ。これは生き返った感じ。東京のK川さんは驚くようなビール好き。今日も途中で会った時、30kmと60km付近でビールが買えると教えてくれたが、まさか工場内でビールが飲むことまでは彼も思いつかなかっただろう。 「先に行ってて良いですよ」。Y田さんはそう言い残して開いたビールの缶を返しに言った。まさか1人で行くわけにはゆかないだろう。彼が戻るのをまって再びレースに戻る。ビール工場の外が73.3km地点のだい16ASで第3関門。喉を潤したばかりなので、ここで摂るべきものはない。Y田さんは先に行ったが、私はペットボトルにスポーツドリンクと塩を補給するためにASへ寄った。その間わずか2、3分だろう。だが彼の姿は遥か彼方へと消えていた。 苦労した登りを分岐点まで下る。ここがコース唯一の折り返し。誰か知ってるランナーがいないか道路の向かい側を見るが、生憎誰も走友はいなかった。しばらくしてスタッフの誘導で雫石町方面に左折。再び登り坂が続く。緩いけど直射日光に晒される坂道は結構辛いものがある。遥か前方にオレンジ色のシャツ。あれはY田さんだろうか。何とか追い着きたい気持ちはあるのだが、ビールを飲んだせいかそんなことはどうでも良いような気分になっていた。 次の第17ASまで5km弱。昨年第3関門を10分残して通過したものの、必死で辿り着いたここのASには、全く飲み水がなかった。あの時の驚きは大変なものだった。まさかASにランナーの生命とも言うべき水がないとは。しかもその深刻さを、スタッフの小母ちゃん達は少しも理解してなかったのには2度ビックリだった。予想以上に気温が上がり、あまりの暑さに先行するランナー達が水を被ったのだろう。だが、水を補給する体制が昨年の大会本部には出来てなかったのだ。 幸い今回は飲み水も被り水もたっぷりと用意されていた。「岩谷堂」の水とか言う冷たい水が喉に美味しい。だが、登り坂がその後も続く。厳しい坂をノロノロ走る。依然としてY田さんの姿は見えず苦しくなる。監察車が止まり2名のスタッフが道端に立っていた。そこで「出来れば来年は第16ASと第17ASの間に水を置いてください」とお願いした。日陰の無い登り坂が続くあの辺は体力が落ちていることもあって、ランナーにはかなり厳しいと感じられる地点なのだ。 ようやく下り坂になって80km地点に到達。だが、慎重に坂を下りる必要がある。ここはとても長く、かつ急角度で降りる下り坂なのだ。まだ元気があった頃は猛スピードで駆け下りることが出来た。そんなことをすれば足への衝撃が強過ぎて、今はとても無理な話。深い谷間は涼しくて有難い。昨年はこの坂道を大崎市のT田さんがトボトボ歩いていたっけ。確か直前の「野辺山100km」で足を傷めたと話していた。だが今年の彼は速かった。きっとそれだけ強くなったのだと思う。 遠い道。遥かな道。86.3km地点の第18ASがまだ見えない。そこは昨年私が制限で捕まった第4関門でもあった。1時間制限が延びた今年は完走する自信があるため、全く関門を意識してはいなかった。道端に咲くヤマアジサイを愛でながら歌を歌う。静かなる山間。それにしても全く追い着かないY田さん。まさに恐るべきビールパワーだった。<続く>
2009.06.20
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< 1歩ずつ > トンネルを抜けたところが57.7km地点の第11AS。去年はここでパイナップルの缶詰が出た。楽しみに寄ったのだが、今回は残念ながらなかった。スタートしようとするY田さんを発見。「ここからの下りを慎重に走らないとね」。2人はそんな言葉を交わした。果物とスポーツドリンクで喉を潤しY田さんを追ったが、彼の姿は見る見る遠ざかって行った。ほほう、今年はかなり好調みたい。きっと彼も今年こそ完走しようと気合が入っているのだろう。 去年はこの坂を猛スピードで駆け下りた。35kmから45km地点までの10kmは股関節の痙攣でほとんど走れず、その遅れを取り戻そうとしたのだ。それが後半のスタミナを奪う原因にもなった。故障知らずの第2回、第3回は軽快に下り、ゴールを目指したものだ。かつて自分にもそんな時代があったことが信じられない感じ。制限時間が延びた今は、たとえゆっくりでも確実に走ることが大事。 61.9km地点の第12AS通過。去年は迫る制限時間との戦いで必死だったところ。今回は安心して食べ物を口にし、手にしたペットボトルにもスポーツドリンクや塩を補給出来る。さらに下ると50kmの部のコースと合流し、やがて県道1号線に出る。ここからゴールの雫石総合運動公園まで北上することになる。だがここは緩いけれど登り坂が延々と続く難所。ジリジリとした暑さ。大量の発汗で自分でも臭いを感じるほどだ。 やがて前方左手にレストステーションが見え出す。ここが66.5km地点。スタッフの人が選手のゼッケンを読み上げると、荷物係の方が該当する袋を選手に届けてくれる。ようやくここまで来た。Y田さんがちょうど出発するところだった。ずいぶん離されてしまった。だが焦る必要はない。荷物を受け取り、座れる椅子を確保。そしてポシェットから不要な手袋、ビニール袋、カロリーメイトを取り出してゴール行きの袋に戻し、その代わりにアミノバイタルの小袋を補給。 次いで、味噌汁のカップに小さなおにぎり4個を入れてかき混ぜた「猫マンマ」を食べる。さらに味噌汁とおにぎり2個を追加。これがもっとも大量にかつスムースに食べられる秘訣。長い距離を走るウルトラマラソンは、エネルギーを補給しながら走る必要があるが、後半は弱った胃が食べ物を受け付けなくなることがある。ヴァームドリンクを飲み、ジェリー状のヴァームを半分飲む。残りはポシェットへ。そして最後に3杯目の味噌汁を飲み干し、脇と股にワセリンを塗ってスタート。休憩時間は約8分。Y田さんの姿はとっくに見えない。 69.4km地点の第15AS通過。つい先ほど食べたばかりなので、水を飲むだけで再び炎天下のレースに復帰。目の前を1人の青年が歩いている。Tシャツの背中に「一歩ずつ」のロゴ。思わず「諦めないで一歩ずつ進めばゴールは近づくよ。ウルトラには復活があるからね」と声をかけた。「ありがとうございます」。振り返った青年が律儀に挨拶を返す。「一歩ずつ」。実に良い言葉だ。100kmの遥かな道のりも、一歩ずつの積み重ねでしかない。 70km地点を少し過ぎた辺りで歩いているY田さんを発見。「どうしたの?」と尋ねると、「いつもここでエネルギーが切れるんですよ」と彼。励ましながら先行すると間もなく銀河高原へ左折する地点へ到達。振り返ってY田さんに叫ぶ。「銀河高原だよ」。追って来た彼と合流して73.3km地点の第16ASへ向かう。ここは3つ目の関門。昨年はわずか10分前の通過だった。「よし、あそこで銀河高原ビールを飲もう」。2人の意見が一致した。途端に足が軽くなる。少しだけ雪を残した和賀岳が目の前にあった。<続く>
2009.06.19
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< 目には青葉 山ホトトギス > 高倉山温泉前を通過。「もう直ぐダムだっけ?」。いつの間に近づいたのか、東京のSさんが尋ねる。「先ず小さなトンネルがあって、鉛温泉を過ぎたらダムだよ」と私。その小さなトンネルが見えた。そしてトンネルを抜けるとスキー場が左手に見え、さらに過ぎると右手に温泉の建物が見えて来る。そこから少し下ると豊沢ダム。ダムの放水口を珍しそうに覗き込むランナーが数名。おそらく今回が初出場なのだろう。 ダムの堤防上が道路なのだが、狭いために交通規制をしている。小さなトンネルを抜けるといよいよ山道に入る。目に鮮やかな新緑。そして時折聞こえるホトトギスの鳴き声。素晴らしい大自然。ホトトギスとウグイスの二重唱をしばし楽しんでいるうちに、一つの考えが閃いた。「目には青葉 山ホトトギス いわて銀河」。そうだこれを完走記のタイトルにしよう。 左手にダム湖が見える。その水面がドンドン下に見えるようになる。ダムに沈んだ集落の記念碑や取り残された小さな神社を見ながら走るうち、次第に道路の傾斜がきつくなる。左足底の痛みはなくなったが、その代わりに左足のアキレス腱が珍しく痛む。果たしてこのままゴールまで行けるのだろうか。 登り坂で大勢のランナーが歩いている傍を、歌を歌いながら走る。曲は夏川りみの「童神」。沖縄のとても優しい歌だ。高音だがゆったりとした曲がこの坂には良く似合う。いつしかダム湖の湖面は去って、ブナの深い樹林となった。本当に登りなのだろうか。後ろを振り返るとやはり相当登っている。道理でスピードが出ないわけだ。でも昨年苦しんだ股関節痛が起きないだけありがたい。 やがて前方に一つ目のトンネル。ここは短いがトンネルの中も緩やかな登り坂。そして二つ目のトンネル。ここは長くて暗くて涼しい。コーンでランナーが走る部分が仕切られてはいるが、きっと閉所恐怖症の人は通れないだろう。横から何かが飛び出して来そうな深い闇。思わずつまづきそうな気になってしまう。「あ~みま~」私は大声で叫んだ。トンネル内に反響する声。これはアースマラソンで目下北アメリカ大陸を走っている間寛平ちゃんのギャグだ。応援の人も彼と一緒に叫ぶこれを、私も一度やってみたかったのだ。 第三のトンネルに入る前が55km地点。このトンネルが最長で暗く、中では寒い風が吹いている。まだ5月開催だった第2回と第3回は、このトンネルを抜けたところに雪が残っていた。この寒さに耐えられないランナーは歩き出し、さらに体を冷やしてリタイヤしてしまう難所なのだ。選手受付の際、防寒対策用にビニール袋を配っていたのはこのため。私はそれに加え手袋もポシェットへ忍ばせていた。だが気温の高い今日は涼しくて気持ちが良いくらいだ。約2kmのトンネルを脱出すると外が眩しい。<続く>
2009.06.18
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< 指定席 そして「なめとこ街道」へ > あれほど快調だった足が止まったのは、確か23km辺りだったと思う。やはり長距離の練習や速いスピードで走ってないため、限界だったのだろう。昨年の「立山登山マラニック」は室堂で終わったが、今年の「萩往還」では初めて250kmを完踏したと話していた東京のK川さんはとっくに前へ行った。 「野辺山」でのT田さんやS藤さんら大崎グループの楽しいエピソードを聞かせてくれたC一さんも前に行った。レース前に腰の不調を心配していたO川さん、今年度一杯で定年になり故郷に帰ると話していたY川さん、高校の後輩で今回は奥様とお嬢さんが応援に来ていたS木さん、ひょうきんでいつも明るいM井さんらの仲間も既に前へ行き、その姿はもう見えなくなっていた。 だが私は嬉しかった。たった23kmだがレースのほぼ4分の1を、スピードのある仲間達と一緒に走れただけでも満足だった。加齢から来る故障が続いた昨年のレースでは、何せ最初から置いて行かれたのだ。あれに比べれば今年はわずかでもスピードに乗ってレースをした実感が得られたのだから。 これが自分の定位置。ここからようやくマイペースでのレースが始まる。8km辺りで感じた左足足底部の痛みは薄らいでいた。後は前回苦しんだ股関節の痙攣が出ないことを祈るばかり。時折仲間のY田さんの姿を見かける。K野さんに一旦追いつかれたのは29.4km地点の第6ASだったか。やはり彼女はスピードランナーだけあった。 カメラ小僧のT田さんに抜かれたのは35km周辺だったはず。記念写真を撮ってくれた後颯爽と去って行った姿に、「野辺山」の疲れは全く感じなかった。彼も昨年は私同様に86.3kmの関門に捕まった。ニコニコして何も語らないけど、きっとあの時の悔しさをバネにして走っているはずだ。時折ちらちらと見えるオレンジ色のランシャツは宮城UMC「群馬支部」の方みたい。 走り易かった曇り空は7時50分まで。その後は強い太陽に照らされることになった。いよいよ暑さとの戦いが始まる。やはりランシャツ、ランパンが正解だった。オレンジ色の帽子を後ろ向きに被り直す。これは延髄を太陽に晒さないため。ここが熱気を帯びると運動機能が落ちるからだ。 40km地点通過は5時間ちょっと。県道12号線を左折するといよいよ花巻温泉街へ入る。宮沢賢治の小説では「なめとこ街道」と呼んでいたとか。道は緩やかに登り、松倉温泉に続いて坂道の途中に志戸平温泉が見えて来る。木陰が涼しくて気持ちが良い。道路脇の気温表示は18度だが、20度を超えているように感じるのはそれだけ体力が消耗している証拠だろう。大沢温泉、山の神温泉とひなびた温泉が続く。<続く>
2009.06.17
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< 食べ物、飲み物はランナーの命 > 競技場内へ入る。やはり風を感じる。だが高まる緊張感で、それも気にならない。宮城UMCのオレンジ色のTシャツを着た仲間が既にスタートを待っていた。岩手県出身の、間もなく103歳になられるアスリートでマスターズ世界新記録保持者である下川原さんが開会の挨拶。とても素朴でお元気な激励に心が和む。続いてソウルオリンピックの女子マラソン代表だった浅井えり子さんがスターター役で挨拶。 短いカウントダウンの後の号砲。一斉に走り出す選手の群れ。空は既にうっすらと明るい。トラック内を2周して場外へ出、運動公園内をスタッフの方に見送られながら走る。M井さんと話しながら走っていると、ポシェットに挟んだビニール袋を落としてしまった。直ぐに拾って再び走り出す。新しく買った小型のポシェットが、少し小さ過ぎたかも知れない。 仲間のEちゃんを追い越し様、「マイペースだよ」と声をかける。「分かった」と彼女。腕にはフェルトペンで関門の制限タイムを書き込んだようだ。彼女を含め、Yちゃん、K野さん、K藤さんが今回このコースに初めて挑戦する。そしてH口さんは50kmの部から満を持しての参加。果たして女子軍団がどんなレースをしてくれるか楽しみだ。ガンバレ女性陣 運動公園内を抜けると4km地点。ここからいよいよ一般道へ出る。わずかながら応援の方がいる。早朝からありがたいことだ。体調が良いのか自然と足が進む。仲間のM井さん、Y田さんを振り切って前へ。大崎市グループのC一さん、東京のSさんと話しながらのラン。Sさんはまだ故障中だが今年も「佐渡島一周」に出る由。 間もなく声をかけながらK藤さんを抜く。案外前を走っていた彼女だが調子は良さそう。やがてO川さん、Y川さんの姿も見え出す。ふ~む。今日はなかなか調子が良いぞ~。昨年は故障上がりで全然スピードが出なかった。おまけに35km辺りから10kmほど股関節の痙攣に苦しみ、結局86.3km地点の第4関門につかまった。今回から制限時間が1時間延びたので完走は間違いないだろうが、暑さとの戦いが果たしてどうなるか。 涼しい朝だ。先ほどの場内放送だと朝の気温が15度と言っていたが、微風があるためとても走りやすい。きっとそのこともスピードを上げさせる原因になっているのだろう。気持ちの良い田舎道。ここ「いわて銀河」のコースは、ずっと緑に囲まれた自然豊かなコースなのだ。先行していたO川さん、Y川さんが給水所で休んでいる。だがペットボトルを持った私はその横を通過する。 10km地点を1時間2分台で通過。私にとっては速過ぎるがそのまま押すことにする。18km地点周辺の良く整備されたゴルフ場。確かこの周辺は第2回大会で熊が道路を横切ったとか。20km地点の通過は2時間3分ほど。思ったより以上に快調だ。アスパラガスのお浸しが出たのは第4ASだったか。それにしてもASの内容がこれまでより相当改善されている。 昨年の第4回大会から6月開催に変わったのだが、まだ歴史の浅いこの大会は運営の経験も乏しく、去年は飲み水のない給水所が出た。1ヶ月遅くなったため気温が上がったのだ。それにASの給食の内容も良くなかった。暑いのに水も飲めず、ランナーが過酷なレースを乗り切りために必要な食べ物もないAS。完走率が悪かった原因は単に気温のせいだけでもない。私は強くそう感じた。 レース後、私はそのことをブログに書いた。そしてそれを大会本部の方が見てくれ、どう改善したら良いかを尋ねて来た。先ず制限を1時間延長すること。ゼッケンナンバーを体の前後に付けること。AS(エイドステーション)で提供して欲しい具体的な給食内容。十分な飲み水の確保は当然のことなどだ。制限時間の延長はエントリーした時点で分かったが、果たして問題のASはどうかと疑い、レースを走り切るための準備は自分なりにして来た。 だが私の懸念を他所に、ASは立派に改善されていた。ランナーの体に優しい食べ物。良く考えられた食品。「アーリーエントリーの料金を返すくらいならASの食べ物を良くして欲しい」。私が自分のブログで訴えたことが、思いがけず実現されていたことが嬉しい。これ以降もキュウリやトマトなどが用意されていたASがあったし、私が望んだ「柴漬け」やシソの香りがする「ユカリ」のおにぎりはどこでも食べられた。やはり真剣に訴えた価値はあったのだ。率直に意見を聞き入れてくれた大会本部には、心から感謝したい。<続く>
2009.06.16
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< 友を探す > 6月14日(日)レース当日。午前1時51分に目が覚める。夜中に2回トイレに起きたが、5時間は眠れたはず。直ちにポットのお湯を沸かす。これは朝食時の味噌汁とお茶を飲むためのもの。次いで冷蔵庫から幕の内弁当などをテーブルの上に出す。2時ちょうど、頼んでおいたモーニングコールの電話が鳴る。 次に両膝を中心に丹念なテーピング。昨年傷めた左足足底部にはテープを2回巻く。味噌汁、お茶の準備をし、早速冷えた弁当をパクつく。長い距離を走るウルトラマラソンはスタート時間が早いため、真夜中に朝食を摂る必要がある。味噌汁やお茶は塩分と水分の補給になるし、円滑な食事を助けてくれる。ホテルの前では三々五々集まって来たランナーが、次々にスタート地点行きのバスに乗り込んでいる。それを眺めながら、ゆっくり食べ物を胃に送り込む。 食後はスズメバチ飲料を飲み、血圧降下剤を服用。問題の服装だが、所属する「宮城UMC」のオレンジ色のランニングシャツと白いランパンにした。気温が上がるとの予報のため、自分にとってもっとも走り易いのがこれだった。ただし、ポシェットには寒さ対策用のビニール袋と手袋に加え、ヴァーム粉末とカロリーメートも入れた。脇の下や股にワセリンを摺り込む。これも極力痛まずに走るための重要な対策の一つ。 66.5km地点のレストステーションに送る透明な袋には、予備用の半袖Tシャツ、薬類(ワセリン、消炎剤、痛み止め用の塗り薬)を入れ、チューブ入り栄養剤2個とヴァームドリンクは凍った濡れタオルで包んだ。これも100kmを走り抜くための重要な戦略。使わずに済むものがあってもそれはそれで良いのだ。 長袖Tシャツ、セーター、トレパン姿でバスに乗り込む。JR北上駅周辺のホテルに泊まった仲間の女性陣の姿が見えないが、一足お先に会場へ向かう。20分ほどで会場へ到着するなり、先ず66.5km地点行きの袋を所定の場所に置く。陸上競技場の建物内には既に大勢の選手でごった返している。出走確認の手続きをした時、バスで隣の席だったランナーが私と「音」だけだが同姓同名の方だったことに驚く。 走友の姿を探すがどこにも見当たらない。特に心配だったのが秋田のJunさん。前夜祭の会場でも5回ほど回って探したのだが会えなかった。彼は5月の「川の道」で520kmを走ってかなり足を痛めていたし、直前の「錦秋湖」30kmで無理し肉離れを起こしていたようだ。スタート地点へ出発する朝、彼のブログへ「決して無理はするな」と書き込んでおいた。だから彼の姿がないのは心配でもあるが、その一方私の忠告を聞き入れてくれたのかと安堵もした。 やがて宮城UMCの仲間達が集まって来た。所属する南仙台走友会の仲間達は、例年会場周辺の芝生にテントを張って一夜を過ごすのだが、今回は大会スタッフの方が会議室への宿泊を許可してくれた由。遅れて来た女性陣も交え、スタート前の記念撮影で盛り上がる。皆は既に走る姿だが、唯一ユニフォームの私は寒さを用心し、まだセーターのままだった。トラックには肌寒い風が吹いている。気温は15度。寒いと感じるのは一時。走り出せば何とかランシャツで行けるはず。スタート15分前。ようやく走る姿になり、ゴール行きの荷物を預ける。<続く>
2009.06.15
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< 栄光の新記録達成 > 午後3時。5時間走の選手(個人、駅伝の部)がコースから消える。逆走が多いため良く出会った仙台明走会のM井会長。先日走った「仙台国際ハーフマラソン」について、「あれは半端じゃなかった。練習不足で出て苦しかった」と話していたひょうきんなAさんも、きっと今頃は着替えを終えたころだろう。 シニアマラソンに出ていたA山さんはレースを終えて本来のスタッフに戻り、ASに座っていた。心臓の不調でここ数年走れない日々が続いた彼だが、ようやく病が癒えてフルマラソン完走100回を達成した。きっと今日も気持ち良く走れたと思う。 もうコース上にいる選手は僅か。相変わらず降り続く雨。4時まで残り42分でASを通過した時にA山さんが言った。「後1周だよ」。「もう2周走らせて」。咄嗟に私は怒鳴った。朝のスタート時間に12分遅れて参加した私。あの分をプラスすれば後2周は出来るはず。「だが」と走りながら考え直す。我がままを言えばスタッフの人に迷惑を掛ける。ここは潔く止めよう。周回数は25周目。距離に直せば75kmに相当。これは私の自己新記録なのだ。 最後の坂道を登りASに到着。周回札を1枚剥がし、スタッフの人に「これで止めます」と宣告。直ちにゴールの記念写真撮影に向かう。両手を広げてゴールのポーズを決め、ようやく微笑が浮かぶ。 YちゃんとH口さんは既にレースを終えて荷物をまとめていた。この近くにある市のセンターでお風呂に入りたいと2人。雨の中を訪ねると、お風呂は3時半で終了していた。だが親切な職員の方に更衣室を借りることが出来た。脱いだ靴下が泥だらけ。着替えの前に、まずその靴下を洗った。玄関で脱いだシューズも泥だらけ。そのまま地下鉄に乗れる状況ではない。慌ててティシュで泥を落とす。 仙台明走会のリリーさんが女子の新記録を作ったことを知ったのは、レースの数日後だった。会の掲示板に彼女が書き込んでいた。周回数31回距離93km。彼女自身が昨年出した記録を塗り替えたのだ。昨年3回骨折して以降、長い距離を走ってなかった彼女にとって、きっと今回のレースは不安だったと思う。だが彼女のペースは最後まで変わらなかった。あの冷静な試合運びは、きっと記録達成を狙ってのものだったのだろう。さすがは一流選手だ。 さて今回の私の課題事項だが、「八丈島一周」での62kmを上回ると言う1つ目の課題は、案外簡単にクリヤーすることが出来た。2つ目の「底の堅いシューズでのウルトラマラソン完走」も無事達成。3つ目の「高機能ロングタイツのテーピング効果」だが、これもかなりの効果があったように思う。 翌日は打って変わっての好天気。早速泥だらけのシューズを洗った。昨年の8月に怪我をして以来、底の堅さを感じてなかなか履けなかったこのシューズだが、ようやく履けるまで足が回復したようだ。その感謝を込めて丁寧に洗った。「まだまだ行けるぞ。俺の足もこのシューズも」。シューズを干しながら、私は心の中でそうつぶやいた。 地下鉄の階段で足を引きずりながら歩いていたH口さんの疲れは取れたろうか。そしてレースの途中で帰ったEちゃんと最後まで頑張ったYちゃん。この3人がいよいよ来月、制限14時間に延長された「いわて銀河」の100kmに挑戦する。自分も同じだが、結果を怖れずひたすらゴールを目指したい。緑のシャワーを浴びながら走ったあの10時間は、決して無駄にはならないと思うから。<完>
2009.05.22
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< ウルトラと復活 > 早朝から藤棚の下で響いていた尺八の音も止んだ。雨の中で白鳥が泳いでいる池。今日は日曜と言うのにほとんど公園内に人影がない。その池で偶然カワセミを発見。翡翠色の羽が美しい。午前11時、疲労骨折の影響があると話していたランナーがレースを終えた。自分では「根性無し」と言っていたが、その足で5時間走れれば十分。何事も無理は禁物だ。 空腹を感じ、コンビニで買ったお握りを食べる。飲み物の他にお握りを3個自分でも用意していた。そのうちタラコ入りのを選ぶ。お茶と一緒に食べるお握り。その塩味が美味しい。ASにも炊き込みご飯のお握りはあったのだが、芯が残っていて食べにくかったのだ。レース中に少しゆっくりしたのはこの時くらいか。 逆周り中に出会った時、M井さんが私とT橋さんの写真を撮ってくれた。後日M井さんのHPを観たらビニール袋が写ってないため、早い時間帯だったかも知れない。そのM井さんとEちゃんは午後1時でレースを終えると言う。逆周りをしながら2人と握手。今月「吾妻スカイライン」でも走る予定のため、今回はあまり無理をしないのだと思う。 さらば友よ、後はまかせて。YちゃんとH口さんは最後まで走るみたい。これは楽しみだ。T橋さんが午後2時で走るのを止めたのを知ったのは後日のこと。コースから徐々に選手の姿が消えて行く。私は相変わらず歌っている。静かな朝は「アヴェ・マリア」。午後からは「ヒナゲシの花」や「夜明けの歌」など色々。そして楽しい空想も。それは庭に垣根を作ること。「あの場所にはこんな材料で」などと考えていると退屈しないで済む。 ASに戻った時に何度か栄養ドリンクを飲んだ。受付でもらったものと、自分で買ったもの。ところが最後のドリンクの後にヴァーム水溶液を飲んだ途端、口の中が苦くなった。体調が悪くなった訳ではない。きっと成分が混じり合って変化したのだと思うのだが、慌ててペットボトルのヴァーム液を半分ほど捨てた。ゴール時間まで残り少ないから、それでも間に合うはず。 黄色の合羽のYちゃんを追い抜く。ゆっくりだが足取りはまだしっかりしている彼女。「また抜いてね」。レース後、彼女が言う。「一度はダメだと思ったけど、また走れるようになった」と。「ウルトラマラソンには復活があるからね。だから諦めてはダメなんだよ」。私はそう答えた。また彼女の話では、千葉からこの朝会場へ着いたT野さんは5時間走に出て30km走った由。仙台に来たのは用事があったからとか。道理であんな大きな旅行バッグを持ってた訳だ。 赤い合羽のH口さんも良く頑張っている。だが走後聞いた話では、レース中に胃がムカムカしていたとか。長い時間走るウルトラでは、血液が足の筋肉などに多く使われるため、本来食べ物を消化すべき胃に大きな負担がかかる。またどんどん水分を摂るため胃液が薄まり、それをカバーしようと逆に胃液の分泌が活発になり過ぎるのがムカムカの原因。走後彼女には、「ウルトラでは食べながら走るのも練習のうち」と。 「記録を狙う」と話していた山形の青年が坂道を歩いている。「もうギブアップです」と彼。きっと飛ばし過ぎて体力を消耗したのだろう。「このコースは最初からペースを守って走らないと、最後には坂を登れなくなるんだよ」。ところが後日この青年が私のブログに「あの叱咤激励で最後は復活出来ました」と書き込みしてくれた。だからウルトラは面白い。人生と同じで何が起こるか分からないのだ。<続く>
2009.05.21
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< 会話と課題 > 降り止まない雨。スタート時に雨を気にしていたのが山形のランナーだった。これまで1度も雨の中で走ったことがないと言う。確かに濡れながら走っていると体が冷えて来る。手袋はビショビショで、軽く握ると水が滴り落ちる。再びビニール袋を被る。それだけでも寒さを防ぐことが出来る。この日の最高気温は13度のようだが、森の中のコースはさらに低く感じる。 あれは何周目だったか。偶然ASでEちゃんと会えた。調子が良さそうな彼女に、思い切って疑問をぶつけてみた。そんなことを全く予想してなかった彼女は素直に私の話を聞き入れ、「周回札」を1枚めくるのを止めた。「気分を悪くさせてゴメンね」。私の言葉を彼女は笑って否定した。ほぼ同時にスタートしたM井さんや私の周回数と比較すれば一目瞭然なので、彼女も納得してくれたのだと思う。 快調なリリーさんの走り。「もう体調は戻ったの」と尋ねる。「多分大丈夫だと思う」。そりゃそうだ。もしそうでなければそんなに速く走れる訳が無い。「あんまり無理しないでね」。ランキング日本一のランナーに言う言葉ではないが、「ありがとう」と答えた彼女の後姿が見る見る遠ざかって行った。 生意気そうな「Ironman」シャツのランナーに尋ねる。「バイクの距離は180km?」。答えは「さあ忘れた。背中に書いてるから見て」。だが、背中にそんなことはプリントされてない。言葉を交わすのはどんなランナーなのかを知りたいからなのだが、相手にその気がなければ会話は成立しない。 緑の森を走る赤い合羽を発見。あれはH口さんの姿。いつの間にかYちゃんと離れたようだ。長い距離を走るウルトラマラソンでは、無理にペースを合わせるといつしか調子が狂ってしまう。だから自分のペースを守ることが大切なのだ。「頑張って。辛くても最後まで走れたら「いわて銀河」の練習になるからね」。そんなことは彼女自身も承知のはず。でも生真面目に「ありがとうございます」と頭を下げる。 一方、このレースでの私の課題は3つ。1つ目は昨年8月の大怪我以来走った距離の最高は、3月の「八丈島一周」の62km。今回はそれにどれだけ上乗せすることが出来るかだ。2つ目は底の堅いA社のシューズで走って、怪我をした足がどれだけ耐えられるのか。そして3つ目が新しく買ったロングタイツの効果。つまり両膝にテーピングしたと同じ効果が、このタイツで得られるかどうか。無事ゴールするまで「実験結果」は分からないが、今のところすこぶる順調。次第に自分のペースが掴めて来た様だ。 午前10時。5時間走の部(個人および駅伝)、フルマラソンの部、3時間走の部。ペアの部が一斉スタート。新たな仲間が加わった。たすきを肩に掛けた若者が、もの凄いスピードで追い抜いて行く。彼らの脚は既に泥だらけ。走り易かったコースが、どうやら降り続く雨でぬかるんで来たようだ。ゴールまで残り6時間。まだまだ先は長い。<続く>
2009.05.20
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< AS風景 > ここでエードステーション(ASと省略)のことを記しておこう。コースは1周3kmの周回だから、ASは1箇所で十分。トライアスロンチームである仙台鉄人会の方がスタッフとして、このASで色んなお世話をしてくれる。もう何度か参加しているため、スタッフの方とはすっかり顔なじみだし、色んなレースで一緒に走ることもある。 ここのレース参加費は2千円と格安。それで当日自宅から出て間に合うし、10時間も楽しめるのだから、私にとってはお気に入りの大会なのだ。そして特筆すべきが当日参加も可能と言うこと。つまり「飛び入り歓迎」ってのもなかなか国内では珍しい。 ASには心の籠もった食べ物や飲み物が用意されている。それはこれまでの長い経験から割り出されたもの。大福、草もち、バナナ、オレンジ、梅干、キャベツとキュウリの漬物、お握り、お菓子など。そして走り終わった後は味噌汁のサービスも。当日受付を済ませた後に手渡される袋の中には、ご丁寧にも栄養ドリンクや栄養補助食品が入っているから安心してレースに臨むことが出来る。 私は自分でも幾つかのものを準備していた。まず大き目のドラ焼き2個。これは全く不要だった。それにペットボトルが4本。まずヴァーム粉末と塩、アスリートソルトを入れたのが2本。これは前夜のうちに冷蔵庫に入れておく。ハーブティーが1本。これは普段から愛用しているもの。スポーツドリンク系を飲み続けていると味に飽きるし、お握りを食べる時にもお茶はに飲みやすくて貴重なのだ。そしてCCレモンが1本。ビタミンCやクエン酸は疲労回復に役立つ。 汗っかきの私はレースではいつもペットボトルを手に持って走っている。飲みたくなったら直ぐに飲めるし、場合によっては給水所やASに寄らずに済むからだ。今回はその3種類の飲み物を交互に飲んだ。本当は牛乳も欲しいところ。長時間走ると体内のカルシューム分がかなり消費されるからだ。 何周かするうちに不思議なことに気づいた。まだ1度も抜かされていないEちゃんの「周回札」が、常に私より先行した周回数になっている。あらら。これはきっとどちらかが間違っているに違いない。雨で濡れ、冷え切った手で札をちぎると2枚一緒に取れる場合がある。それとも私が1回ちぎるのを忘れたのか。ふ~む。<続く>
2009.05.19
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< 10時間走のメンバーは > 2周目は反時計周りに廻る。ここの大会は逆周りも許されている。同じ方向にばかり回っていると、なかなかランナーの顔を見ることが出来ない。果たして10時間走にどんなメンバーが出ているのか確認しよう。そのための逆周りだった。1周して暑くなったため、被っていたビニール袋は脱いだ。 仙台明走会のリリーさんがやって来た。彼女は1歳刻み全国ランキングの1位の人。年齢は確か私の1歳ほど下のはず。昨年は3回色んな箇所を骨折した彼女。だが、今の走りっぷりではすっかり回復したようだ。快調なピッチ。この10時間走レースの記録保持者(女子の部30回90km。男子は34回102km)である彼女の足取りは、いかにも軽やかだ。 坂を下り切るとコースは平らになり、地下鉄「旭が丘駅」の前を通過する。前日はここに「走る男」こと森脇健児さんが来ていたようだ。フラットな部分は3km中この周辺の、わずか300mほど。後はアップダウンの連続で極めてタフなコースなのだ。今度は緩やかな登り坂が続く。 色んなランナーと摺れ違う。どうも知り合いはいない感じだ。仲間のM井さんが誰かと連れ立って向かって来た。県内のランナーT橋さんとM井さんが紹介してくれた。かつて開催された「SUGOマラソン」以来の知り合いなのだとか。驚いたことにT橋さんは私のブログの愛読者とのこと。ふ~む。意外なところに接点があったとは。 雨の公園内に人影は少ない。木々の緑がここ半月ほどの間に、すっかり濃くなった。美しい新緑。その鬱蒼とした茂みの間から降り注ぐ5月の雨。これは緑のシャワーだ。レースともなれば脳内から興奮物質が分泌されるせいか、雨がちっとも苦にならない。今日は一日、この緑のシャワーを浴び続けよう。思わず歌を口ずさむ。 向こうから赤と黄色の合羽を着た2人連れが近づく。良く観ると仲間のY広さん(以下Yちゃん)とH口さんだった。ラジオ体操を終え、ようやく走り出したようだ。思わず「信号機コンビだね」と漏らす。それとも黄色は交通整理の小母さんか。笑い出す2人。その調子で最後まで走れたら、きっと自信につながるはず。こうして熟年ウルトラランナーが誕生するのだ。 2周目のAS。ここは1周する毎に周回告知用の紙を自分でちぎるのがルール。3周目は再び通常の時計周りに戻す。何周かしてランナー同士で会話を交わすうちに、おぼろげながら10時間走のメンバーが分かって来た。 仲間のM井さん、Yちゃん、E名さん(以下Eちゃん)、H口さん、明走会のリリーさん、ハワイのトライスロンレース「Ironman」のシャツを着たスピードランナー、筋トレの指導者をしてると言う若者、疲労骨折の影響で無理出来ないと言う中年ランナー、山形県大江町から来た若者、東京から山形へ転勤して20年目の「サロマ100km」初挑戦の若者、そして私のブログ愛読者のT橋さん。 全国トップクラスのベテランからホヤホヤのウルトラランナーまで。この12名が雨中の10時間走に挑戦する仲間。それにしても毎周のようにリリーさんに抜かれるように感じるのは、私のペースがあまりにも遅いせいか。それとも彼女が速過ぎるのか。<続く>
2009.05.18
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< 走友の顔ぶれ揃う > 地下鉄の「台原駅」が近づいた。ホームに下りると誰かが手を振っている。同じ走友会に所属しているM井さんとE名さんだった。M井さんが10時間走に参加することは知っていた。だがE名さんも来ていたとは。そしてエスカレーターに乗ろうとしたE名さんが、突然大きな声を上げた。 一体何事?と振り返ると、千葉へ転居したT野さんが大きな旅行バックを持って立っていた。あらら。これは一体どうしたのだろう。それにしてもたかがマラソンでこんな大きな荷物が必要なの? と、思う間もなく彼女は私達に早く受付に行くよう勧め、ロッカーを探しに行った。 急げや急げ。10時間走レースのスタートは6時。もう時間が無い。台原森林公園の受付場所へ行くともうスタートした後で、選手は誰1人残っていない。ゼッケンナンバーをTシャツにつけ、ビニール袋を被り、手袋をはめる。今日はロングタイツに宮城UMCの半袖Tシャツと帽子。オレンジ色だから良く目立ち、サボれないのがきっと役立つはず。 M井さんが一足先にスタートした。私も正規の時間から約12分遅れでスタート。敢然と雨の中に飛び出す。3kmの周回コースを1周すると、約60mの高低差があるこの難コースのキーワードは「辛抱」。雨の中を10時間飽きずに走ること。それが来月の「いわて銀河ウルトラマラソン」100km完走につながるはず。 そのために必要なのは、イーブンペースで最後まで走り通すこと。そうじゃないと厳しい高低差の坂道が、後になればなるほど効いて来るのだ。ここの大会にはこれまでに6回は出てるだろうか。10時間走が今回で2回目。5時間走が1回でフルマラソンが確か3回。昔に比べれば相当走り易く改善され、ずいぶん足にも優しいコースに変わった。 1周してASに戻ると同じ走友会のY広さん、先月「かすみがうらマラソン」で一緒だったH口さんを発見。E名さんも含め3人とも、今年から制限時間が14時間に延長された「いわて銀河」へ向けての練習とか。うち2人が初挑戦なのだ。ここで最後までしっかり走り切れたら、結構良い線行くだろう。だが慎重なH口さんが準備体操のため、ラジオ体操をしたいと言い出した。う~む。私達より遅れて来たこの2人。何時になったらスタートする積りだろう。<続く>
2009.05.17
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< 帰途の旅 > 朝食に満足し、帰り支度をする。9時の飛行機で帰るのはO川さんと私だけ。後の6人はレンタカーを借りて島の観光を楽しむ由。F田さんの希望は八丈富士登山。H多さんは黄八丈の見学をしたいようだし、M井さんは温泉に行きたい由。皆に挨拶し、H多さんと握手して別れた。きっと昨日のレースは女性陣にとって相当厳しかったはず。 リュックを背負い、お土産のゴクラクチョウの花束を手にして空港までの送り便に乗り込む。空港が近づいた時、運転手を務めていた宿のご主人が急に怒り出した。レース前日に空港まで3台の迎えの車を出したけど1人も乗らなかったとか。そう言えば最終便が着く直前にレースの説明会が終わるなど、私にも納得が行かないことがあった。 ご主人の怒りの理由は他にもありそうだった。未知の島で開催されるウルトラレースは、我々ランナーにとってとても魅力的で好奇心が刺激されるものだ。だが初めての開催ともなれば、主催者も受け入れる地元の方も苦労の連続だろうし、時には行き違いが生じることもあると思う。私は一言「どうも済みません」と謝った。それでご主人の怒りは幾分収まったようだ。 空港で「あしたば饅頭」を買う。懇親会で聞いた通りマラソンの参加者であることを告げると、若干値引いてくれた。島の産物を揃えた名産品コーナーに、焼酎の銘柄がたくさんあることに驚く。それは人口9千弱の島に不釣合いの数だった。くっきりと映える八丈富士を見ようと、一旦空港の建物の外へ出る。きっとこの風景も見納めになるはず。 前日の嵐がまるで嘘のように鎮まり、島は3月の空を取り戻していた。最後に雲峰師匠と握手をして飛行機に乗り込む。悪天候の割には好記録だったと喜んでいた師匠。飛び立った機内から八丈島と八丈小島が見えたが、それも一瞬のうちだった。やがて煙を吐く三宅島と御蔵島が眼下に見え、館山湾辺りからは房総半島の地表が大きく迫り出した。 東北新幹線ではO川さんと隣の座席になり、偶然車窓から「荒川市民マラソン」の様子が窺えた。大崎市のT田さんが走っていたことを知ったのは数日後のことだ。さてO川さんが読んだ本によれば、八丈島に流される罪人は多くても1800人までと決められていた由。確かに土地の痩せた火山島なら、それくらいの人口しか養えないはず。それも幾つかの集落に分散していたのではないか。 「もう八丈島は良いね。来年の3月に「東京マラソン」が外れたら、今度はどこを走ろうか」。2人の話題はそこに移った。「そうだ、伊豆大島の100kmマラソンはどうだろう」。「それは案外面白いかもね」。 無事帰宅すると妻が「今日は風が強くて飛行機が飛ばないかと思った」と一言。少しは私のことを気にかけてくれていたのだろうか。荷物を片付ける間もなく、私はいつものように愛犬との散歩へ。こうして非日常の世界から、再び日常へと舞い戻ったのだった。<完>
2009.03.25
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< 宴とアシタバ > O川さんから電話があった。そろそろ懇親会が始まるので至急会場へ来て欲しいとのこと。会場の温室に急ぐと室内ではストーブが焚かれ、たくさんのランナーで埋まっていた。T橋さんのゴールも見届けていたので宮城UMCの8人全員が完走したのだが、男女バラバラの席になったのが少々残念。 S木さんの挨拶で懇親会が始まる。彼の発表によれば優勝したのは20代の女性。また2位の方は最終便で既に帰ったようだ。また案内標示が上手く読み取れずにコースアウトしたランナーも数人いた由。ちっちさんの後日の書き込みによれば、ゴール直前で抜き1位になった女性ランナーは、「篠山マラソン」の優勝者の由。道理で悪天候の中、62kmの厳しいコースを5時間半ほどでゴール出来たわけだ。 また最後に抜かれたランナーは、今月初めにあったお台場の24時間走では挫骨神経痛を押して190kmを走り、「八丈島」からとんぼ返りした翌日には、自ら主催する「湘南ゆるゆる苺食べにゆこうマラニック」でも再び走られたのだとか。これも全てちっちさんの情報だが、世の中には人間離れしたランナーがいるものだ。 S木さんが氷が入ったボウルに3本の焼酎を注ぎ込んだ。芋と麦を原料とした25度の焼酎「鬼ごろし」は八丈島の産。それを全員で回し飲みすると言う豪快さ。それと共に自己紹介が始まる。今回が初ウルトラマラソンの人や最高5kmしか走ったことのない人の他、今回が初めてのレースと言うランナーがいたのには、正直ビックリだった。 机の上にはたくさんのご馳走。鴨鍋は脂が乗っていて美味しかったし、岩海苔と漬けマグロの「島寿司」はとても珍しかった。暖かいこの島ではわさびだと腐ってしまうため、洋辛子を寿司に塗ると言う話に驚ろく。島のHPで八丈島から沖縄の大東島へ移住した人がいると言う情報を得ていたが、そう言えば大東島の寿司も洋辛子を塗ると聞いたことがある。O川さんはすっかり「くさや」のファンになったようだが、私はあの臭いにはどうしても馴染めなかった。 飲むほどに酔い、酔うほどに飲んだ。信じられないほどの悪天候の中を走ったことで、きっとどのランナーもハイテンションになっていたのだと思う。沖縄出身のYさんは芸能部長として人気を博し、サングラスをかけて挨拶をした兵庫のKさんは、舘ひろしにそっくりと大評判になった。その夜、ようやく安心した私は8時間ほどの睡眠を取ることが出来た。 翌朝、私はアシタバを採ろうと早めに起きた。それは民宿の隣の空き地で簡単に見つかった。レースの途中でも、畑で栽培しているアシタバや、自然に生えているアシタバをたくさん見かけた。きっと生命力が旺盛な植物なのだと思う。八丈島の特産みたいで、アシタバのお茶や粉を混ぜ込んだうどんもある由。袋いっぱいのアシタバはきっと妻も喜んでくれるはず。<続く> WBCでの侍ジャパンの優勝おめでとうございま~す
2009.03.24
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< 不思議な言葉と火山弾 > ボランティアの方が運転する車で温泉へ向かう。その途中私達が迷い掛けた三叉路が見えた。なるほどこれならコースアウトし易い訳だ。私達より先に通過したランナーの中には、コースを示す矢印が強風で剥がれて見え難かった人もいたようだ。15分ほどで「ふれあいの湯」に到着。 ところが脱衣所で不思議な言葉を耳にした。まるで韓国語か江戸時代の言葉のような響き。この八丈島は流刑の地だったことで有名。古くは平安朝の鎮西八郎為朝や、関が原の戦いで敗れた西軍の将宇喜田秀家が流され、江戸時代は罪人が島送りにあった。それらを先祖に持つ島民も多いとか。やがて地元の方は明快な標準語で話し出した。 湯船に入ると股ずれが沁みて痛い。温泉に強い塩分が含まれているみたいだ。舐めるとかなり塩辛い。ようやく芯まで温まった体で露天風呂へ。直ぐ裏が駐車場。脱衣所に戻ると突然クラクラっと来た。温まって血管が膨張し、脳貧血になったのだろう。傍にいたI藤さんが驚く。私の驚きは彼の頑丈な足。道理でウルトラに強い訳だ。幸いにもほどなく眩暈が治まってくれた。 その時、心配していた先輩のF田さんがひょっこり。帽子と携帯電話が残されていた理由を訊ねてビックリ。彼は間違ってゴールに着き、レースをやり直したのだそうだ。それも車で温泉に向かう途中でコースアウトした場所だと気づき、そこから再び嵐の中に飛び出した由。まさにドラマのような話だった。 公民館経由で民宿に戻り、3人でビールを飲んでいるところへ通りかかった栃木のHさんに、先刻海岸で拾った黒い石の鑑定をしてもらう。彼が石に詳しいことは「佐渡島一周」の時に知っていた。彼が今回採集した石を持参。8kgほどの重たい石と小さな1kgほどの石は火山弾なのだとか。これを採集するためわざわざ2日前から島へ来て事前調査をしていたとの話にも驚く。 彼が採集した石の中には、流れる溶岩がそのまま固まったものもあった。そして私達が拾った黒い小石は、約500年前の噴火の際に吹き飛んだ溶岩が空中で固まったものだとか。南北の2つの山の特徴などを教えてくれたのも彼。島内10箇所ほどある温泉が全て島の南部に集中しているのは、きっと過去の噴火と深く関係しているのだろう。それにしても趣味とは言え、あんな重たい火山弾を持ちながら悪天候の中を走る不思議なランナーがいることに驚かされる。<続く>
2009.03.23
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< 栄光のゴールと謎の携帯電話 > だが私には、寒さよりも剥がれかけたインソールの保護材の方が心配だった。シューズの中で保護材がよじれている。幸い軟らかい素材のため足が痛まないのがせめてもの救い。このクッションをどうしたら元の状態に戻せるだろう。私の左足はこれまでの障害ですっかりアーチが落ちてしまったため、この医療用インソールがないとレースに出るのは無理なのだ。 道の右手に地層が剥き出しになった箇所が見えた。きっと縞模様は八丈富士の火山灰が積み重なったものだろう。記憶を残そうと時々後ろを振り返って八丈小島を眺める。その時後ろから私達に迫って来たランナーがいた。同じ走友会のI藤さんだった。先ほど休んだASで、仙台の人が少し前に出発したばかりと聞き、必死になって追いかけた由。ここからゴールまでの旅は3人連れとなった。 標識の集落名がゴールのある三根に変わった。コースは小刻みなアップダウンを繰り返す。55km地点通過。残り7km足らず。ここまで来れば今日の完走は間違いない。右手に特徴のある神止山が見え出し、左手の眼下に港や集落が見えた。その集落をめがけ坂道を左折。下り切った交差点でSパパが傘を差して立っていた。 そこからコースは海へと下る。アライケ海岸で珍しいもの発見。無数の小さな穴が開いた黒石だ。きっと噴火した際の溶岩だろうと思い、1個拾って2人に見せた。記念に小石を拾うI藤さん。冷たい雨に打たれ緩い登り坂を喘ぎながら登る。曲がり角にボランティアの方がいて、ゴールまでのコースを教えてくれた。ここが59km地点だった。 この朝下った敷石道を最後の力を振り絞って必死に登る。遅れ出したI藤さんが「先に行ってくれ」と弱音。私達を猛スピードで追いかけた疲労が今になって出たようだ。「ここまで来たら一緒にゴールしましょう」とM井さん。2つ目の信号を左折した辺りで北海道のランナーにも抜かれた。次の信号から右折すると最後の直線のはず。最後の苦しみに耐えるI藤さんを2人で励ます。 坂の途中で左手奥に三根小学校が見えた。スタッフの人が何人かいてゴールテープを手にしている。唐突に現れたゴールがとても不思議な感じ。3人が手をつないでテープを切る姿を撮影してもらう。ようやく8時間22分10秒の厳しい戦いは終わった。雨でぬかるんだ校庭を横切り、着替えを置いた公民館へ急ぐ。 濡れた服装のまま温泉へ行こうと言うM井さん。気持ちは分かるけど、まず着替えてから温泉に行った方が良いと私。温泉までは車で15分ほどもかかり、冷えた体のままだと風邪を引く恐れがあるからだ。時間も十分あるため、ここまで来たら慌てる必要は全く無い。「さすが年の功でしたね」と着替えを終えたM井さん。 ようやく落ち着いた時、F田さんの帽子と携帯電話をスタッフの机で発見。だが彼の持ち物が放置されている理由が分からない。遅れた女性陣を迎えに行ったのか、それとも何か突発事故でも生じたか。そのうち宮城UMC仲間のK藤さんも到着。H多さんはもっと先に着いたと彼女。ますます深まる謎に首を捻る仲間達。<続く>
2009.03.22
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< 南の島で寒さに震える > 下り坂は降り続く雨でまるで小川みたい。私のシューズは底に穴が開いているタイプのため、水が浸入しないよう慎重にコースを選ぶ。工事中の荒れ道を下り切ると、やがて左手に高い擁護壁に護られた漁港が見えて来た。八重根漁港のようだ。30隻ほどの漁船が低気圧を避けるため、ロープでしっかりと固定されている。 さらに下るとと八重根港。突堤に白波が打ち付けている。コースはそこから海岸沿いに進む。いよいよ瓢箪形をした島の北部の一周が始まる。雨はますます強くなり、顔に当たると痛い。だが猛烈な風のため帽子を被ることが出来ない。飛ばされないよう手に持つか腰に挟むだけで何の役にも立たないのだ。 水溜りを避けながら大潟浦海水浴場に沿って西行すると、やがて45km地点の千畳敷ASが見えた。1台のライトバンの傍に立つ中年の女性がずぶ濡れ状態で私達を迎えてくれた。荒れ狂う自然の前では成す術も無い人間。大急ぎで食べ物を口にしていると「舘ひろし」氏が追い着き、ライトバンの陰で風を避けている。御礼を言って出発。沖縄出身のランナーYさんに後で聞いた話では、この女性も偶然沖縄出身だった由。 コースは八丈富士の裾野に沿って海岸を北上。だが次第に舗装状態が悪くなる。ひょっとして道を間違えたかと不安になった時、前方からやって来た巡回車にS木さんの笑顔を発見。やはりこの道で良かったようだ。そのまま坂道を登って行くと、46.8km地点でようやく島の一周道路とぶつかった。 そこから左折。道路の状態は良好で緩い登りが続き、時計回りに右へ右へと廻って行く感じ。追い着いた「舘ひろし」氏が突然左手を指した。雨に霞んだ海上遥かに、八丈小島の姿が初めて見えた。おお、あれがどうしても見たかった八丈小島か。 尖がった頂上部が雲に隠れている無人島を見ながらのランが続く。やがて行く手にビンロウジュの森が見え、さらに行くと小さな白い灯台。そこが島の最北端のようだ。思いがけず家屋の中にASがあった。51km地点の大越鼻灯台前ASだ。中へ入るとストーブが燃え、何人かのランナーが休んでいた。風雨を避けられるASは初めてのこと。ちょっぴり寛いだ気分になり、ゴマお握りを貪る。 さて、ゴールまでの残りは10kmちょっと。僅かの距離だがここからが案外辛いのだ。若い「舘ひろし」氏と追い着いた沖縄出身のYさんが先行し出す。前夜彼らは、まさかこの嵐でマラソンの開催はないだろうと、深夜まで飲み明かしたそうだ。それにしても寒い。ASで休んでいるうちに体が冷えてしまったのか。否、そうではない。きっと気温も下がり出したのだと思う。雨でTシャツや手袋がビショビショに濡れているせいもあるが、体感温度は5度程度。これが数日前まで最高気温が17度になると予報された同じ南の島だろうか。<続く>
2009.03.21
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< 逆流する「滝」と迷い道 > お婆ちゃんにもらった塩飴を口にしながら先を急ぐと、左手に鬱蒼としたビンロウジュの森が見えた。とても珍しい光景だ。やがて道は登り坂となり、先方にはトンネル。大坂随道のようだ。「雨が凌げるね」とM井さんが喜ぶ。だがあまりにも小さ過ぎて直ぐにトンネルは終わった。 トンネルを出たところで2人の若者が呼び止める。そこがちょうど40km地点のASだった。断崖の上に張り出した逢坂橋の上は、まともに強い風雨の影響を受ける。そして崖下の横間ヶ浦には次々に打ち寄せる大きな白波。出来れば一刻も早く立ち去りたい場所だ。だが通過のチェックを受ける必要があるため、どうしても寄らざるを得ない。 本来ならここはコース随一の絶景ポイント。高い位置にある橋の上からは右手に秀麗な八丈富士が見え、その左手には紺碧の海に浮かぶ八丈小島が見えるはず。だが目前にあるのは荒れ狂った自然だけ。橋の隙間から落ちた雨水が、崖の下から吹き上げる強風で逆流する信じられない風景だ。 これでは風雨に曝されながら奉仕活動を続けてくれている青年達が気の毒。小休止してゴマがたくさん付いたお握り、クリームパン、バナナなどを食べ、お礼を言って立ち去る。再び走り出すと強風で体が煽られる。小柄な女性ならかなり大変だったと思う。 坂道を下り切った辺りで両足に異常を感じてストップ。道路の縁石に腰を下ろしてシューズを脱ぐ。テーピングしたテープが雨で濡れて撚れたのだろうと思いテープを剥がす。だが走り出しても足の異常は治まらない。どうやらインソールの上から保護のために張ったクッションが濡れて剥がれてしまったようだ。アーチが落ちた左足が最後まで持ってくれるか心配だ。 だがこうなったからには走り続けるしか仕方がない。やけになってスピードを上げると、「ペースが上がった?」とM井さん。「いや上げてないよ」と私。「そうか登り坂だもんね」彼はそれで納得したようだ。大里バス停付近で玉石垣を巡らした珍しい家並みを発見。風の強いこの島で安全に暮らすための工夫だろうが、こんな大きな川原石をどうやって入手したのだろう。風雨の中、歩道に敷石を敷き詰める工事関係者が3人もいるのに驚く。 その先で三叉路にぶつかった。本来ならすんなり右手に進むはず。そう思ってそのまま走り出すと後ろからM井さんが呼び止める。彼のところまで戻ると、目立たない場所に張ってあるコース案内の矢印が左手を指していた。前夜の説明を受けていない私達には意外だったがここは矢印を信じるしかない。急勾配の荒れた道を海岸へ下る。 やはりここが落とし穴だったことがレース後に分かった。何人かのランナーが迷って右折してしまったみたいだ。そのまま進むとゴール地点に着く。だが激しい風雨の中を間違った地点まで再び引き返す気力は失ってしまうのが普通だろう。少し後ろにいたM井さんの適切な判断が無かったら、きっと私達もコースアウトしていたと思う。ひゃ~危ない危ない。<続く>
2009.03.20
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< 老婆と塩飴 > 富士登山道入口まで下り切ると、都道の角にSパパがいた。来月から「トランスヨーロッパ」に向かう勇者が、今私達のために雨の中に立ち、声を掛けてくれる。いつに変わらぬ柔和な笑顔に一瞬心が和む。コースはそこから左折して底土キャンプ場のある海岸へと下る。 椰子の木に似た街路樹と黒い敷石が続く。後で栃木のHさんに聞いた話によれば溶岩が地下の深いところでゆっくり固まった玄武岩なのだとか。それをスライスして敷き詰めたようだ。良く整備された歩道がこの後も島内のそちこちで見られた。 底土港を通過し、くれど橋を左折すると再び山道に。八丈島は瓢箪のような形をしているのだが、これから島の南部に聳える700m余りの三原山の麓を一周することになる。ところが海岸は絶壁のため、道路は山の中腹を通るのだ。海抜0mから450mほどの高さまで、うねうねと登り坂が続く。 かなり登った辺りに深い谷が2つ。谷底には川が流れているような気配。これも栃木のHさんから後で聞いた話だが、三原山は八丈富士より古い火山で植物層が豊かなため島で唯一水が湧く場所なのだとか。激しい風雨に交ってウグイスの声が幽かに聞こえる。「越後くびき野の山に似てるね」とM井さん。時々道端に現れる周回道路の案内図で、現在地が確認できるのが嬉しい。雲の中から三原山が顔を覗かす。 23.4km地点の登龍峠展望台ASで小休止。ここには2人の青年がいた。レースでのボランティアは職場の上司から頼まれたため。島内には4つの小学校と3つの中学校があり、彼らは島にある都立高校の卒業生とか。陸運の管轄が品川らしく、島内で何故品川ナンバー車としか遭遇しなかったのか謎が解けた。 バナナ、クリームパンを食べ、アスリートソルト3粒を口にして出発。末吉地区との境界に近い25km地点付近でようやく下り坂となる。この辺りで舘ひろしに良く似た兵庫のKさんが追い着く。結局彼とは57km地点辺りまで併走することになった。 長く厳しい下り坂を下り切ったところが30.3km地点の末吉地区。このASでもバナナを食べたはず。ボランティアの方から間違って左折し、海岸へ行かないよう注意を受ける。集落を過ぎると再び登り坂。M井さんと二人坂の途中から歩き出す。やがて左手に小高い山が見える。島の最南端である小岩戸ヶ鼻はその山の先にあるようだ。 峠を越えると中之郷集落。左手奥に小さな沼が見え、さらに進むと大きなガラス球を浮かべた沼が右手に。きっとこれが島民の貴重な飲料水なのだろうと推測。三原小の手前で雨の中佇む一人の老婆が、4つの塩飴を私達に差し出す。遠慮して1つだけもらったら、全部持って行けとの意思表示。遠慮せず2個ずつもらう。きっとこんな悪天候の中で走っているランナーを、何とか応援したかったんだろう。ありがとうねお婆さん!!<続く>
2009.03.19
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< 凧かグライダーか > 午前6時、いよいよ八丈島一周のスタート。S木さんの車が先導を勤める。スタート前に地元の方が危険だと思われる箇所が何箇所かあるので、急遽コースの一部を変更するよう進言するのを、私は傍で聞いていた。また島の人でレースに出る予定だった方が、突然ボランティアに廻ると言い出した場面も見ていた。それだけ異常な天候だった。 コースは先ず標高854mの八丈富士へと向かう。最初の信号のところに2台のパトカー。誰もいない交差点でお巡りさんがランナーのために待機してくれていた。思わず選手から「ありがとうございます!」とか「ご苦労様です!」の声がかかる。彼らもきっとこんな状況下でもスタートを切った選手達に驚いていたことだろう。 登山道へ入ると傾斜が急に厳しくなった。先のことを考えて歩き出す選手も出だす。道路の両側の風景に懐かしさを感じる。月桃など沖縄と同じ植物が生えているせいだ。宮城UMC仲間のO川さん、M井さん、I藤さんに次々に抜かれる。年長のF田さんはもっと先を走っているようだ。やがて歩き出したI藤さん発見。声を掛けて前に出る。後で聞いたらI藤さんは全く覚えていないとのこと。きっと悪天候との戦いに夢中だったのだと思う。 そのうちにもどんどん強まる風雨。八合目の周回道路付近で最初のエード。そこから右折して周回道路を一周。平らになった分走り易いのだが、後ろから猛烈な風に押されつんのめりそうになる。そして残り半分を過ぎると、今度は暴風をまともに受けることになった。体を前傾しても進まないほど。もの凄い風圧に耐えながらの前進。近くにいた女性選手は「もう棄権しようかと思った」と話す。 先を走っていたはずのM井さんが後ろから追い着いて来た。トイレ休憩だった由。そこからゴールまでの50km近くを彼と一緒に走ることになるとは、この時予想してなかった。周回道路をほぼ一周し終えた後、一旦下ってASへ立ち寄る。先行していたO川さんとすれ違う。結局この後彼と会うことはなく、彼は私達より約1時間早くゴールしたようだ。 地元の方の風雨に曝されながらのASでのお世話に心から感謝。ここでバナナとクリームパンを食べ、ボトルに水を補給する。再び周回道路へ出、分岐点から登山道を下山。分岐点の標識が下を向いていた。もう全ての選手が通過したのだろうか。後ろから北海道の男女ランナーに抜かれる。男性はとても72歳とは思えないNさんで女性は元気者のAさんのはず。彼らも私達より1時間以上速かったようだ。 一層強まる風に抵抗され、坂道を下るのが難しい。思わず両手を広げてグライダーのように滑空。もし体に糸をつけたら、凧のように空を飛ぶのではないか。そんな風にも思えるほどの強風。これはきっと低気圧が島を通過中なのではないだろうか。
2009.03.18
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< 嵐の予感 > 民宿でのチェックを終え、部屋へ向かう。私は宮城UMC仲間のF田さんM井さんと、I藤さんは雲峰師匠達と、そしてO川さんは埼玉のO野さんと、それぞれ同部屋になった。いずれも以前からの顔なじみ。女性達3人も同部屋だったはず。懇親会を兼ねた夕食時にはこのメンバーが同じ食卓に就いた。雲峰師匠がお元気そうで何よりだ。 夕食のメニューが家で食べているような内容で期待外れ。それでも黙々と食べ、アルコールを飲み干す。初めて会ったSパパとI藤さんが、偶然にも小学校、中学校の同窓だったことが判明。昔話に夢中になる二人。これだから人生は面白い。このSパパが来月「トランスヨーロッパ」に出場すると聞いた。後日調べたら、今年のコースはイタリアのバーリからノルウェーのノールカップ岬までの4500km。これを64日間連続で走破するみたいだ。 部屋で一頻り話し込んだ後、F田さんとM井さんは8時半ごろ就寝した。風呂でSパパと遭遇。「トランスヨーロッパ」に向けてずいぶん走り込んだようで、とても私と同学年とは思えないほど鍛え抜かれた肉体だった。床に入っても隣の部屋の話し声が聞こえて来て眠れない。話し声が止んだのは10時半頃。ようやく眠りに就いたものの12時過ぎには目が覚めた。 風の音が異常なほど強く聞こえる。それに雨も降っているみたいだ。これはまるで嵐。天気予報を最後に確認したのは、確か木曜日の夕方頃。あれから既にまる一日以上経過している。果たして明日の天候はどうなるのだろう。不安を抱きつつもいつしか再び眠りに就いた。 目が覚めたのは4時過ぎ。多分睡眠時間は4時間足らずのはず。それでも100kmレースの時よりはずっとマシ。トイレに行き、薄暗い部屋で両足にテーピングを施していた時に2人も目覚めた。彼らは良く眠れたようだ。明りを点けて本格的な準備にかかる。一旦は半袖Tシャツとハーフタイツの組み合わせにしたものの、外の様子からそれでは寒いと判断し長袖Tシャツとロングタイツに着替えた。その上にビニール袋を被る予定。さらに薄手の手袋をポシェットに仕舞う。結果的にこの装備が大正解だった。 5時前に食堂へ仲間と集結。こんな悪天候だと言うのに、誰一人レースの開催を疑っていないのはウルトラランナーの性だろう。結構充実した内容の朝食に満足。部屋へ戻って洗顔しようとしたらF田さん曰く。「どうせ雨に濡れるから顔は洗わなくて良いよ」。先輩の冗談を真に受ける私。でも血圧降下剤だけはしっかりと飲んだ。 着替え、洗面具などの入ったリュックを背負って公民館へ。ゴール後は温泉へ行く予定なのだ。コース図は雨に濡れないようビニール袋に入れてある。若干の食べ物とアスリートソルトなどもポシェットへ入れた。手にはスポーツドリンクのボトルも。先ず公民館で最終チェックを受けてから、スタート地点の小学校へ移動。雨と風の洗礼を受けながら、カウントダウンが始まった。さて、今日は一体どんなドラマが行く手に待ち構えているのだろう。
2009.03.17
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< 八丈島便は果たして飛ぶのか 着陸出来るのか > 羽田空港の67番ゲートへ向かう途中、何とも言えない緊張感を感じた。電光掲示板を見ると鳥取便はフライトを取り止めたようだし、私達が乗る予定の八丈島便は「天候調査中」とある。南の島で62kmを楽しく走ろうと気楽に考えていた私にとっては、予想外の出来事でとても信じられない。これは一体何が起きたのだろう。 暫くして宮城UMCの仲間6人が大きく手を振る姿が見えた。だがお世話役のM井さんの表情が少し硬い。午前の便で既に八丈島へ着いたO川さんからの電話だと、島が強風の場合は着陸できずに羽田へ引き返す場合があると機内放送された由。「もし八丈島へ着陸出来ない場合は東京で残念会をやりましょう」。M井さんは私達にそう言った。まんざら冗談でもなさそうな感じ。う~む。今日は文字通り「13日の金曜日」となってしまうのか。 幸い八丈島便のフライトは決まった。だが、羽田を飛び立った途端、厚い雨雲に閉ざされて全く何も見えなくなった。そして「万が一八丈島へ着陸出来ない場合は引き返しますのでご了承願います」と、例の放送も。35分後に再び機内放送。「間もなく着陸態勢に入ります」。おおおおおお。これで何とか八丈島へは降りられそうだ。 高度が下がり、雲の隙間から青黒い海が見えた。そして泡立つ白波も。何だか嵐の前のような風景。ちょっとだけ見えた山が南側の三原山なのか、それとも北側の八丈富士なのかも分からない。滑走路に下りた時、強風で機体が横揺れした。何はともあれ下界に着いた。空港からマイクロバスで受付会場へ向かう。既に説明会は始まっているはず。車窓から見える植物はやはり南の島特有のもので、どこか沖縄の雰囲気も漂っている。 会場の公民館に着くと既に説明会は終了し、大勢の選手がアルコールを飲み出していた。主催者のS木さん、スタッフのSパパやT本さんと久しぶりに再会。急いで登録を済ませ資料を受け取ったものの、明日のレースでコースをどう走るのか説明を全く受けずじまい。不安を抱きながら雨の中民宿へ向かう。<続く>
2009.03.16
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<それぞれの成果> 帰宅した翌日から立山の始末記を書き始めた。60km地点標高2450mの室堂まで走った疲れ、再び始まった残業の疲れ、左足の痛みと戦いながらの作業は、それでも10回分の大作になった。パソコンの前に飾られた参加賞の手ぬぐい。そこには海抜0mから3003mまでのコースを懸命に走る選手の姿がある。それを見ながら気力を奮っての作文だった。 TANさんの帰宅の翌日のHPには、早速「立山登山マラニック」に関する紹介が載っていた。大会要項から転載した内容に加えて、実際に参加した彼の経験を踏まえて、「大会の情報」、「案内」、「私の場合」、「気づいたこと」など細かく記載されている。今日改めて見たら、さらに内容が充実していた。「立山」を目指すランナーにとって良い案内書になると思う。 亀仙人さんのHPには、数日して「立山」のレースの模様が写真入りで紹介されており、その中に懇親会の時の同氏と私が写った写真が載っていた。嬉しく眺めていたのだが、今日覗いたらその部分がもう無くなっている。きっと私に無断で掲載したのが拙いと判断されたのだろうが、私は特に気にしてなかったのだが。(笑)それはともかく、彼の書かれた文章の中に、「来年の課題が分かった」とあったはず。今回室堂で終わったレースを反省し、既に来年の作戦を練っているところが並みのランナーと違うところだ。 途中でお会いした地元ランナーの方からは、ブログへ書き込みがあった。今回は還暦記念の参加だったそうだ。初参加で初完走は立派の一語。それも時間短縮と気象条件が悪い中での見事な完走だ。よほどこの日のために練習を重ねて来られたのだと思う。富山県では昔から一度は立山の頂上に立つのが男子の証とか。彼はそれを海抜0mの海から走って実現したのだ。 走る歌人、雲峰師匠のHPには今回参加した際に詠まれた短歌数点が数日前に掲載された。そのうち何点かを以下に紹介したい。このことは師匠の了解を得ていないが、心の広い師匠のことだ。きっとお許しいただけると思う。 ぽつぽつと落ち始めたり標高の 二千五百の雨の冷たし 高原に降る雨冷たしゴールなる 雄山山頂ガスに覆はる 土砂降りを簡易合羽にわれ濡れて 着替へに苦戦す手が悴(かじか)みて 手袋を嵌めむとするが悴みて 萎えたる指に力が入らず 抜きて行くビニール合羽の剛の者 透けてランパンランシャツが見ゆ 閂(かんぬき)が下りて閉ざせり山頂の 神社のお祓ひ山小屋の中 私の成果は何も無い。ただ自己満足の駄文を書いただけだ。それでもTANさんからは、「立山」に挑戦しようと思ったのは昨年私が書いた完走記を読んでと聞いたし、地元富山のランナーも同様の時期から私のブログを訪れてくれていたように思う。パソコンの知識に疎い私は、とても他の方のような内容のあるHPを作る事は出来ないけど、文章に関するひたむきさについては自負している。一過性のブログが、何かのお役に立てれば嬉しいと思う。 今日さる方のブログを読んだら、あの日の山頂はかなり悲惨な状況だったようだ。気温は3度。低温と酸素不足による高山病の症状。カップ麺を食べて暖を取ろうとして山小屋に殺到するランナー達。頂上手前で意識が無くなりながらテレビ局のインタビューに答えていた人。友のザイル確保で辛うじて下山できた人。救助しようにもヘリコプターも飛べないほどの悪天候。室堂では元気だった人も3003mの頂上へ向かったことにより、体力と体温を奪われ意識が朦朧とした人も多かったようだ。 果たして1時間制限時間を短縮したことがランナーの安全につながったのだろうか。逆に悪天候と相まってランナーの心を追い込み、無理な登山を強いた面はなかったか。どうやら私の左足の痛みの原因は疲労骨折から来たもののようだ。これは過酷なレースによる負傷とは言わない。きっと加齢による筋力の衰えと、蓄積疲労からのものと思う。これで楽しみにしていた3年ぶりの「秋田内陸」への参加に赤信号が点った。 色んなことがあった今年の「立山」だが、それでも素晴らしい大会であることだけは間違いない。自然を舐めてはいけない。そして山の天候を軽く考えてはいけない。万葉の時代から、人は立山を神と畏れ、敬い続けて来たのだから。<完> 立山に降りける雪を常夏に 見れども飽かず神からならし 大伴家持TANさん、亀仙人さん、雲峰師匠のHPへは、それぞれ上のブックマークを開けば辿り着くことが出来ます。
2008.09.10
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<立山よさようなら> 翌朝、空はからりと晴れ上がった。窓の結露がすごい。きっと外と室内の温度差が大きかったのだろう。6時半から食堂へ赴き早めの朝食。私は大きな皿2枚に様々なおかずを取り分けた。たんぱく質も野菜も十分に摂れて満足。 廊下で愛知のH川さんにバッタリ。「Aさんって若く見えるけど70歳を超えてるの?」と彼女。昨夜の懇親会で私が記念品のTシャツを受け取ったのを見ていたのだ。「残念ながら仲間の代理だよ」と私。前日のレースで脱兎のごとく八郎坂を駆け上った彼女だったが、結局弥陀ヶ原のASでリタイヤした由。次のレースを訊ねると翌週トライアスロンの予定との返事。ウルトラマラソンにヨガにダンス。それに加えてトライアスロンまでこなすスポーツウーマン。道理で足の筋肉が鍛えられていたわけだ。 少し外へ出てみる。雷鳥沢にはたくさんのテントが張られていた。今日は絶好の登山日和だろう。地獄谷に行こうとしたが思い止まり、雷鳥荘の裏側から覗き込むだけにした。早めに荷物をまとめ室堂へ向かう。O川さんはリュックを背負って地獄谷経由で室堂へ向かった。血の池を見下ろす稜線に色鮮やかなリンドウの花。そしてみくりが池には、雄山の姿が逆さまに写っていた。 室堂平周辺にはミヤマトリカブトやウメバチソウの花々。この一帯には130種類の高山植物が自生しているようだ。「立山玉殿」の湧き水をペットボトルに汲む。この水はアルペンルートのトンネル工事の際に湧出したのだとか。晴天の今朝は雄山山頂が良く見える。一旦富山駅行きのバスに荷物を置いてからお土産を買いに行く。 9時。5台のバスは次々に発車した。見送るスタッフの手には「来年の出会いと再会を念じて」と書かれた横断幕があった。「制限を1時間短くしておいて来年も再会したいと言われてもなあ・・」。私の唇からそんな憎まれ口が漏れた。心なしか松原委員長の表情も昨年より硬いように見えた。主催者として制限を1時間早めたことをどう判断しているのだろう。山岳救助隊が出動したことを考えれば、室堂でレースを打ち切る選択は出来なかったのか。そして来年の制限も今年のままなのか。それでは「立山」は一部のエリートランナーだけが対象になるのではないか。 バスは大きく蛇行しながら昨日苦しみながら走り、歩いたアルペンルートを下る。秋晴れの空に映える立山連峰。そして眼下に広がる富山平野。O川さんもTANさんも共に寡黙だった。TANさんは富山駅からサンダーバードで大阪へ出、高松へ帰る。熟女3人組は「越中おわら風の盆」の踊りの練習を見る予定と聞いた。 10時45分富山駅北口到着。予定より3時間も早い列車で新潟へ向かうことが出来た。富山駅では白海老の酢漬けとホタルイカの沖漬けをお土産に買った。車中でビールと早めの弁当。ラッキーなことに新潟から仙台へは2便早いバスに乗ることが出来た。 長距離バスの中でもO川さんは室堂までしか行けなかったことを残念がっていた。でもきっと来年は頂上まで行けると思う。何故なら彼が制限に間に合わなかった原因はトイレが混んでいたのとコースを知らなかったためだからだ。 予定より4時間早く帰宅した私は早速泥まみれのシューズを洗って干し、雨に濡れたTシャツなどを水洗いして洗濯機に放り込んだ。荷物を片付け、夕食を食べ、ようやくブログにレース結果を書き込んだのは9時過ぎだったろうか。まだレース時の緊張が残っていたのか、その夜も眠りが浅い私だった。<続く> 予告:いよいよ明日が最終回の予定です。
2008.09.09
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<宴と走友> 17時20分食堂へ集合。テーブルには私達宮城UMCの仲間5人と雲峰師匠、香川のTANさんが並ぶ。皆に永年の走友であるTANさんを紹介。TANさんと雲峰師匠は名刺の交換。TANさんは前から師匠のHPを見ていた由。また熟女3人組と師匠は、前夜立山駅付近のペンションで一緒だった由。師匠は毎年「エンジョイジョガーinみちのく」に参加されており、親しくさせてもらっている。ウルトラにつながる縁は不思議なもの。激走を労い、さっそくビールで乾杯する。 疲れた体にビールが染み渡る。高い山の上の宿泊施設の割りには、案外豪華な夕食とも言えようか。かなりのエネルギーを費やした一日。それを埋めるべく余さずに食べる仲間達。疲労が心配されたH多さんも、用意されたメニューを完食出来たようだ。飲むほどに酔い、満腹してようやく落ち着いた私達だった。一旦部屋へ戻り、再び温泉へ入る。 8時からの懇親会には、雲峰師匠とTANさんと私の3人だけが出席した。私はブログの材料探しと、制限を短縮した結果を開催者がどう評価しているのかを知りたかったのだ。もちろんこの時点で完走率が極端に低かったことや、頂上部でランナーが山岳救助隊のお世話になったと言う情報は知らなかったのだが。 松原委員長の挨拶に続き成績発表。マラニックの部男子1位は7時間09分のU田氏。女子は8時間19分のO戸さん。ウォークの部男子の1位は4時間51分で女子が6時間40分とのこと。距離が30kmで標高差2500mもあるウォークの部はルール上走ってはいけないことになっているが、タイムが少し速過ぎないか。 引き続き昨年10回記念大会の上位入賞の副賞としてブルネイの「キナバル登山マラソン」(注:名称は不確か。標高4094m)へ参加したランナーから、レースの概要が報告された。2人はベテランの部とエリートの部に分かれてレースを楽しんだ由。次にレース参加者中最高齢者への記念品贈呈があり、マラニック女子の部でH多さんが授賞されたが、寝ていた本人に代わって私が記念品のTシャツを受け取るハプニングもあった。 「取材」を終えて雲峰さん達のテーブルに移り、日本酒を飲んでいるところへ千葉の亀仙人さんが訪ねて来られた。朝のスタート時には緊張の面持ちだった同氏も、レースを終えて安心したのか穏やかな表情になっていた。私の背に手を廻し、私も彼の肩に手を置いてカメラに納まった。スピードランナーの彼も、室堂の関門を僅かの差で通過できなかったようだ。その彼が長野の走るナースさんから私によろしくと言伝を頼まれた由。私にとっては何にもまして嬉しいニュース。一度もお会いしてないナースさん。メッセージ、本当にありがとうございま~す♪ その夜、私は3度トイレのために起きた。用心はしていたが、ベッドから降りるはしごがその都度きしんだ。後日知ったのだが、雲峰師匠もトイレのために4、5度起きたとか。それに私も含めて何人かがいびきをかいていた。女性達はきっと眠れぬ夜を過ごしたのではないかと思う。師匠の懐中電灯が時折光を放つのが気になりながらも、いつしか深い眠りに落ちて行った。<続く>
2008.09.08
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<レース後の走友達> 早く風呂へ入って体を洗い、そして心行くまで暖かい温泉に浸かりたい。だが風呂場はもの凄い混みようとのこと。仕方なく乾燥室へトレイル用のシューズを乾かしに行く。乾燥室の中は大変な数の雨具やシューズで溢れていた。早く冷えた体を暖め、早く濡れたシューズを乾かしたいと言うランナーの気持ちが良く分かる。 部屋へ戻って暫く話す。室堂の関門にわずか15分遅れただけのO川さんは、さすがに元気がなかった。足もまったく痛んでないだけに悔しい思いが募るようだ。室堂へ向かう途中氷雨に濡れてとても寒く、私同様にビニール袋に両手を突っ込んで歩いていたと話す彼。かなり手前のホテルを室堂と間違え、何とか間に合いそうとぬか喜びをした途端、周囲のランナーにゴールはまだ先と教えられ、戦意喪失したそうだ。 私より1時間も早く雷鳥荘に着き、既に入浴を終えた彼は、2段ベッドに身を横たえながら何かを考えているようだった。翌日、からりと晴れ上がった遥か上空に、前日どうしても辿り着けなかった雄山山頂がくっきりと見えた。ゴールの位置を彼に教えようとしたのだが、彼は決してその方向を見ようとはしなかった。それだけ悔しい思いが強かったのだと思う。 一方ウォーク組のK村さんとK藤さんは比較的元気そうだ。それでも寒かった頂上は登頂者にとっても過酷だったようだ。標高3003mの雄山山頂。氷雨による低温は急速にランナーの体温を奪い、低い気圧はランナーの体調を悪化させる。後日雲峰師匠から頂いたメールによれば、雄山神社の扉には閂(かんぬき)が掛けられ、神主による御祓いは少し下の小屋の中で行われた由。 心配なのはH多さん。一度部屋へ顔を出したきり、とんと姿が見えない。彼女が部屋へ戻ったのはずいぶん後になってからのことだ。1時間短くなった制限時間は、今回が最後と臨んだ彼女にも相当の無理を強いたに違いない。頑張り屋の彼女のことだ。きっと頑張り過ぎて体調を崩し、仲間に心配をかけまいとの気遣いから体が落ち着くまでどこかで隠れていたのだと思う。 突然雲峰師匠が部屋へやって来た。お互いに顔を見合わせて驚く。何と言う奇遇。「山頂では会わなかったね」と師匠。「今年は1時間短いですからね。もうマラニックは無理なので次回からはウォークの部にします」と私。それにしても雲峰さんは元気だ。2度の手術を受けて、なお闘志満々。月の内どれくらい家を空けてランやウォークの旅に出ているのだろう。 香川のTANさんも顔を出した。ずいぶん早く私を追い越して行ったのだが、やはり室堂の関門に捕まったようだ。それにしては様子がさばさばしている。かつて任地だった九州で数多くの山に走って登った彼。今回初めて「立山」を体験し、コースの概要と制限時間の厳しさとを身を以って知り、十分納得できたのだと思う。17時20分から一緒に夕食することで合意。 ようやく風呂へ向かう。風呂の入り口で会った東京のK島さんに、大浴槽の奥に在る展望風呂にも入ったか訊ねたが、良く理解できなかったようだ。洗い場で先ず体を洗い、階段を登って展望風呂へ。一部開いた窓から地獄谷の硫黄の匂いが入って来る。雨に煙る地獄谷の風景。浴槽に冷え切った体を沈める。ふ~っ。やはり天然温泉は良い。完走は無理だったものの今年も健康で立山に参加し、素晴らしい眺めが見られただけでも嬉しい。浴槽は各地の言葉でレースの厳しさを語るランナー達で溢れていた。<続く>
2008.09.07
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<雷鳥荘への道> 「連絡がつかなくて心配していたんですよ」とスタッフの人。多分収容バスにも乗らずに最後まで室堂を目指したランナーが誰か分からなかったのだろう。私は制限を1時間20分オーバーしての到着だった。でも昨年までの制限なら20分オーバーで済んだはず。しかも自分の足でここまで来たんだから立派なものと胸を張ることが出来る。テントに入って腰を掛け、水を所望。喉が渇いてカラカラの状態だったのだ。2杯の水を一気に飲む。 次に暖かいお粥。袋に入ったインスタント物だが、中に刻んだ塩昆布と梅干が入っていてとても美味い。今は何よりのご馳走だ。2杯目は半分ほどにしてもらった。隣の席にランナーが座ってお粥を食べ始める。青色のポンチョを着た青年。おそらく彼が室堂へ到達した最終ランナーのはず。彼の苦しみが分かるだけに、「良く頑張ったね」とねぎらう。 暖かいお粥は嬉しかったが、暫く休んだせいで体がさらに冷えて来た。急いで2個の荷物を受け取り歩き出す。バスで着替えが出来ると聞いたが、男女一緒だと困る。何しろ裸になって着替えないと寒くて仕方がない。そこで室堂のバスターミナルへ向かい、最上階へ登った。屋上から室堂平の広場へ出て、雷鳥荘まで歩くのだ。建物の屋上へ出るとウォークの部に出ていたK藤さんが立っていた。どうやらH多さんを待っていたようだ。 「一緒に雷鳥荘へ行こう」と誘うK藤さんに「寒いからまずトイレで着替えをする」と断る。「個室」の狭い空間で真っ裸になる。寒い。思わず声が震える。Tシャツも半ズボンもびしょ濡れ。それを便器の上で絞る。凄い水だ。靴下は泥だらけで絞ると泥水が。乾いたタオルで全身を拭き、順次着衣。靴がびしょ濡れなので靴下は昨日履いたので十分。やはり薄手のセーターを持って来て正解だった。一旦捨てたビニール袋をスポーツバッグに被せ、雨に濡れない工夫をする。 雷鳥荘までの道はアップダウンが険しい。青いポンチョの青年と再び一緒になった。彼が一緒にお粥を食べた最終ランナーだと思う。名前を尋ねると東京のK島さんとのこと。立山を走るのは初めてだがスキーで良く来ており、雷鳥荘の前の急斜面も冬はスキーで降りるのだとか。「頂上まで走ってこの道を歩くと膝がガタガタになってね」と私が昨年のことを話すと、周囲のランナーが一斉に振り返った。きっとこの悪条件の中を頂上まで行けたランナーはどんな奴だと誤解したのだろう。 後日何人かのブログやHPを読んだら、236人の出走者のうち制限時間内に頂上まで行けたのは106人だったとか100人以下だったとか書かれていた。もし106人だったとしても完走率は45%以下だ。中には寒さのあまり頂上で倒れ、山岳救助隊のお世話になったランナーもいたとか。K藤さんの話によれば、頂上から降りて来たランパン、ランシャツのランナーが寒さでガタガタ震えていたそうだ。また室堂の関門をクリヤーしても、体調不良で頂上へ行くのを止めたランナーもいたことを後で知った。 頂上部での体感温度は5度か6度だったと誰かに聞いた。(雲峰師匠だったかも)。それが薄手のランニングシャツでびしょ濡れならば、きっと零度以下にも感じるだろう。そして体温を奪われたランナーの体が硬直することは十分考えられる。ゆっくりランナーの私があれだけ苦しんだのだが、スピードランナーの中にも苦しんだ人がいたのだ。やはり山の天候は甘くない。 深い緑色のみくりが池。赤茶色の血の池。ガスに霞む立山連峰。登り下りが激しい道に無情の氷雨。疲れたランナーにとって、重たい荷物を持っての雷鳥荘への30分もの道のりはさらに過酷な試練となるが、これもまたレースの一部。じっと耐えるしかない。道が川になり、靴の底から容赦なく水が侵入する。 やっとの思いで雷鳥荘に辿り着く。脱ぎ捨てられたビニール袋や合羽。受付を済ませ指定された部屋へ入ってみてビックリ。何と男女が一緒の部屋だった。でも山梨と静岡のランナー以外は皆仲間。雲峰師匠も一緒だったのには驚き。「失礼します」と部屋の外から声を掛けたK村さんだが「はい」の返事が男の声だったのに驚いて「失礼しました」と慌てる様子が愉快だ。「K村さん、ここで良いんだよ」と私。徐々に仲間が集まって来た。<続く>
2008.09.06
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<8月の氷雨> 眩暈による休憩が約20回。よろけた回数が7、8回。意識して山側に倒れたが、もし谷側へ倒れたらもちろん谷底へ転落だ。滑る大岩、足場の悪い泥道。いつの間にか左の足首を傷め、軍手も泥だらけになった。急な坂道の要所要所にスタッフの人。最後の眩暈から立ち上がった時はスタッフの人が心配そうにこちらを見ていた。そして「道路まであと10分ですよ」と。暫く登ると「道路まで2分です。頑張ってください」。今度は女の方だった。雨の中、ランナーのための見張り、ご苦労様です。 山道が緩くなった。両側にはクマザサが茂る。道には雨が溜まり、まるで小川のようになっている。仕方なくその中を歩くと、シューズの底から水が侵入する。このトレイルシューズは川の中も歩けるよう底に小さな穴が開いている。むしろ入った水が出易いよう、穴が開けられているのだろう。やがて緑のトンネルの先が明るくなり、ようやくアルペンルートに出た。ここにもスタッフの人。 さすがに舗装道路は歩き易い。暫くして50km地点の弘法AS。時計を見ると11時58分。去年は1時間ほどで登れた八郎坂が、今回は1時間40分ほどかかってしまった。60km地点の室堂ASまで残り10km。そして高度差は400mほどか。午後1時の制限までに室堂へ着くのはもう無理と諦める。泥だらけの軍手を捨て、雨具代わりにビニール袋を被る。そして頭にはこの日初めての帽子着用。水を飲み、ゼリーを3個ほど口にする。 出発して直ぐ木道へ入る。バス通りよりも安全だからだ。雨に濡れた草が足にまとわりつく。おまけに所々で木道が傾いでいてとても歩き難い。トップグループのランナーが通った時もやはり走り難かったんだろうな。私は漠然とそんな空想をしていた。時々バス通りに出るが、再び木道がありガッカリさせられる。やがて広々とした湿原に小さな池とうが点在。弥陀ヶ原のようだ。バス道路を横切ると53km地点の弥陀ヶ原ASへ到着。 キュウリを3本とバナナ1切れ食べ、ペットボトルに水を補給する。室堂ASまで8kmとか。水も半分で良いかと妥協。そこへスタッフの人が飛んで来て、バスに乗らないかと誘う。「どうしても室堂へ行く」と答えると態度を変え、「雨の立山も良いものですよ」と急に優しい声になった。ポシェットから豆大福を取り出し、歩きながら食べる。次第に手が冷たくなり、ビニール袋の中へと手を引っ込める。風が当たらない分暖かい。こんなことなら泥だらけの軍手を捨てるのじゃなかった。 青いポンチョを着たランナーが後ろから着いてくる。私が走り出すと、彼の姿はやがて視界から消えた。蛇行するアルペンルート。念のため先ほどのASでスタッフの人に、レースが続行されているか確認してみた。時間内に室堂へ着き、雨具を持っていれば雄山山頂に向かわせているとのこと。そうか。そうなるとこのまま室堂へ着いてもリタイヤ扱いだ。それでも元気を出して行こう。しかしどこか変だ。もし弥陀ヶ原ASが資料どおり53km地点なら室堂まで残り7kmのはず。それを昨年も今回もスタッフの人が8kmと言うのは、どう考えてもおかしい。 手を振りながら歩くと寒さも気にならない。時々通るバスの中から乗客が驚いて私を振り返るのが愉快だ。流れるガス。そしてガスが晴れると前方に懐かしい山が見え出す。大日岳に奥大日岳。別山の彼方には剣岳の山容も。やがて地獄谷の奥に一瞬だが雷鳥荘が見えた。道端にホテルが見え出す。去年室堂と間違えた建物だ。黄色のポンチョを着たランナーが足を引きずりながら歩いている。訊ねると股関節を傷めた由。 収容バスが止まり、「乗りませんか」と窓からスタッフの声。手を振って断り、走って見せると車内から驚きの声が上がった。前方から雷鳥荘のライトバン。「大丈夫ですか」の声に、「黄色のポンチョの人が股関節を傷めているから声を掛けてやって」と一言。暫くして戻って来たライトバンには、手を振るランナーの姿があった。大きなカーブを曲がると室堂ASのテントが見え、スタッフの方が数人手を振っている。私は最後の力を振り絞って走り出した。まるでビクトリーランのように。14時20分室堂到着、氷雨の中の戦いに終止符を打つ。<続く>
2008.09.05
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<>山の神の怒り> 常願寺川の支流である称名川に架かる橋を渡って称名滝レストハウス前ASに向かう。H多さんが振り返り「飴いる?」と訊ねる。「いらない。もう他人のことは気にしないで自分のことだけ考えて」と私。昨年の立山帰りの車中で私は彼女を叱った。彼女が称名滝ASでリタイヤしたと聞いたからだ。「簡単にリタイヤしちゃダメだよ。「立山」は出たくても出られない人がたくさんいるんだから」と。時計の電池が切れたことが理由だったようだが、きっと体調も良くなかったのだろう。だが、それ以降のレースで彼女の粘り強いランを目の当たりにし、私は彼女に対する認識を変えた。同時に他人へ気遣いし過ぎるほど優しい人だと言うことも知った。 私の声に押し出されるように彼女は走り出した。称名滝ASまではわずか6kmの距離だが標高は900mあり、立山駅ASからの高低差は500mになる。結構勾配がきつい道だ。それを物語るように称名川の中にある砂防ダムの段差が凄い。去年は30度を越える暑さで、山から湧き出る水を頭から被った。きつい勾配に耐え難い暑さ。初めてのコースに戸惑いながら、それでも山頂のゴールを目指したっけ。途中から立山有料道路が別れ、見上げると対岸の絶壁を沿うようにその道が見えた。 最後のトンネルを抜け、坂道を登るとスタッフの姿。そしてゼッケンナンバーと名前を呼ぶ声。ようやく称名滝のASだ。先ず売店に寄りお茶を買い、それから荷物を受け取る。愛知のH川さんがストックを片手に走り出すのが見えたが、既にH多さんの姿はなかった。袋から軍手、トレイル用シューズ、大福、雨対策用のビニール袋を取り出す。逆に入れたのはカロリーメイトなど。だがポケットの中の懐中電灯を入れ忘れる。よほど慌てていたのだろう。 10時06分に到着したこのASで食べたのは素麺3杯とパンとお汁粉。シューズを履き代える時に足が痙攣した。ここまで来る間にも股関節にも軽い痙攣が来ていた。やはり無理をしたのかも知れない。合計10分の休憩で慌しく出発。橋を渡り対岸へ。いよいよ八郎坂の取っ付きだ。周囲に人がいないことを確かめ、称名滝の方に向かって放尿。この行為がやがて山の神の怒りを買ったようだ。 ここは3kmの間に500m登る急坂。それが数日来の雨で滑りやすくなっている。どうしたことかいつになく胸の動悸が激しい。よろける足。転ばないように踏ん張ると、今度は痙攣が起きる。苦しい坂に難儀しているうち、突然右膝に激痛。思いがけない神経痛の発生だ。これはもう駄目かもと諦めた頃、何とか痛みは治まった。だが一難去ってまた一難、眩暈がし出す。慌てて膝に手を置き頭を下げる。足の筋肉に血流が偏り、血圧が下がって脳貧血になったのだろう。こんなことは初めてのこと。やはり先ほどの放尿が山の神の怒りを買ってしまったのだろうか。 称名滝が見え出す。その左右にも細い滝。3本の滝を見るのは初めてのこと。やはり降り続いた雨で水量が増えているようだ。その滝に時々ガスが掛かる。昨年と違って今回は景色を楽しむ余裕がない。山道の所々で崖崩れ。谷側に滑ったら命を落とすか大怪我をする。繰り返し起きる眩暈。後ろのランナーに道を譲り、休むこと20回ほど。去年はたった4回しか休まなかったのに。悪いことに心配していた雨まで降り出した。万事休す。もはや時間内完走は絶望か。<続く>
2008.09.04
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<登り坂と走友達> 走っているうちに大量の汗が流れ出す。Tシャツも半ズボンもびしょ濡れ。きっと湿度は100%近いのだろう。大日橋の袂に最初のAS。ここは水しか置いてないため寄らない。私はいつものようにペットボトルを持って走っているからだ。亀仙人さんに抜かれたのはこの辺りか。 スタート前、亀仙人さんが走友と話しているのをたまたま聞いた。「富士山や野辺山と比べたらどうですか」と亀仙人さん。「ずっとこっちの方が楽だよ。立山が40kmなのでそこまで5時間で行けたら十分間に合うよ」と先輩の方。「レベルの高いランナーの話は違うなあ」。それが私の感想だった。それにしても立山って立山駅のASのことだろうか。そこまで5時間のペースで行ければ良いのか。一応その情報を頭の中にインプットしておく。 暗かった堤防が少しずつ明るくなって来る。既にたくさんのランナーに追い抜かれた。昨年よりずっとスピードが速い。それに若いランナーが多いような印象。昨年は地元のランナーと話しながら走り、ゴールの雄山がどの方向かを尋ねたりしたものだ。その立山連峰が今日は雲に隠れて全く見えない。 19km地点、第2ASの岩くら雄山神社が見え出す。ペットボトルに水を補充し、急いでバナナとパンを食べ折り返す。前方にO川さんの姿を発見し、ハイタッチを交わす。私よりもずっと前に行ったとばかり思っていたのに、スピードランナーの彼にしてはずいぶん遅いペースだ。橋を渡って対岸へ。そして間もなく登り坂が始まる。いよいよここからが長く苦しい坂道の連続だ。 えっちらおっちら走っていると「どこかでお会いしたことがありますね」と1人のランナー。思わず顔とゼッケンの名前を見る。Pちゃんの仲間のK川さんだった。これまで「磐梯高原」、「奥武蔵」、「越後くびき野」などで一緒だったことがある。今年の磐梯高原ではビールの飲み過ぎで途中リタイヤしたそうだ。「1時間短くなったので」。そう言い残し、彼は走り去った。 「マックスさんですか」。地元のランナーが話し掛けて来た。どうやら宮城UMCのTシャツを見てのようだ。「良く分かりましたね」と私。「良くブログを見ています」。「ひょっとして○○の方?」と企業名を挙げると正解だったようだ。今回が初めての参加の由。「完走記楽しみにしています」。そう言って彼も走り去った。果たして今回は楽しめるような内容の完走記が書けるかどうか。 25km周辺でO川さんに追い着かれる。「どうしたんですか」と彼。「こんなもんだよ」と私。O川さんは雄山神社のトイレで10分以上待たされたそうだ。それなのにもう追い着くとはやはりスピードランナーだけある。颯爽と走り去る彼。暫く走った後で前方に愛知のH川さんの姿を発見。「E子ちゃん」と呼ぶとビックリして振り返る。「仙台のAです」と名乗ると握手を求めて来た。 「良く分かりましたね」。「浜黒崎行きのバスでも見かけたんだけどね。去年雲峰さんの掲示板を見たけどヨガの先生をしてるんだって?」。「ダンスや他にも色々」。「去年はE子ちゃんがペースを教えてくれたお陰で完走出来たんだよ」。「今年も同じくらいのペースだから大丈夫ですよ」。「俺はマラニックは今回でお終い。次からはウォークの部にするよ」。「行けるところまで行きましょ」。「分かった」。優雅な趣味を持つ人なのに、後姿は鍛えられた肉体そのものだ。 H多さんに抜かれたのはどの辺りだったのだろう。彼女も今回が最後のマラニック挑戦と考えているようだ。前になり後になり頑張り屋の彼女と15kmほど併走する。お互いに坂道は苦しい。どちらかが引っ張って先行し、どちらかがその後を追う。坂道の途中にある岩くら寺の私設ASはとても助かる。水とスポーツドリンクで喉を潤す。 再び坂を登り、そして下る。スタッフの人がいる所から右折して立山大橋を渡る。常願寺川の水面が遥か下に見える。そこから立山駅ASまでが遠く感じた。9時06分。ようやく立山駅ASに到着。ここは36km地点で標高は約400m。どうやら亀仙人さんの走友がスタート前に話していた40kmと言うのは違っていたようだ。ここまで5時間6分が経過している。 縁石に腰を下ろして梨とパンを食べ、ペットボトルに水を補給し、塩、アスリートソルト、ヴァーム粉末を混入。休んだのは9分間。H多夫人からもらいポシェットに入れていたお握りを走りながら食べる。今は少しでも時間が惜しい。<続く>
2008.09.03
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<委員長の真意はどこに> 富山駅到着後ホテルでチェックインし、直ちにレースの受付を済ます。今年の参加賞は洒落たランニング用の帽子と日本手ぬぐい。手ぬぐいには「立山登山マラニック」のコースとランナーが雄山山頂を目指す様子が描かれているようだ。昨年は茶色いTシャツだったが、これがイマイチで私は農作業用にしか着なかった。 O川さんからH多夫人がマラニックに出ることを聞いていたので部屋に電話してみた。一緒に夕食をと思ったのだ。ウォークの部に出場のK村さんとK藤さんは、既に立山駅に向かったそうだ。永年の走友である香川のTANさんもロビーに来たので集合時間を話し、4人で夕食を共にすることにした。一旦部屋に行き、第1関門の称名行きの荷物と第2関門の室堂行きの荷物を整理する。 夕食はホテルの隣のビルにある郷土料理店に行った。富山名産の白海老のてんぷら、ホタルイカの沖漬けなどの料理がきれいに盛り付けしてあるセットを注文。そして生ビールで明日の健闘を祈って乾杯する。確かに美味しい料理なのだが、私には野菜分が少し不足しているように感じた。夕食後は翌朝の食糧の買出し。H多さんが気を利かしてお強のお握りを差し入れしてくれた。 翌朝の目覚ましを深夜1時半にセット。ニュースを観て7時半には就寝した。目覚めたのは1時10分ごろか。直ちに冷蔵庫からトンカツ弁当、サラダ、野菜ジュース、お茶を出して朝食。トンカツもご飯も冷え切っているがレースのエネルギーになることを信じて黙々と食べる。ただし、ポテトサラダだと思ったのがマカロニサラダだったのが失敗か。トイレも済ませて身支度へ。 両膝には念のためのテーピング。そして体の擦れそうな部分にワセリンを塗る。下はインナーと半ズボン。上は宮城UMCの半袖Tシャツにした。私には多分暑く感じるだろうが、高度3千mを越える雄山山頂に向かうにはそれくらいが適切との判断からだ。帽子、ポシェット、タオルハンカチを装備し、両関門行きの荷物を手にバス乗り場に向かう。 3時過ぎスタート地点の浜黒崎に向けてバスが出る。車中のランナーは寡黙そのもの。きっと厳しいレースを前に、皆緊張しているのだろう。浜黒崎に到着後、直ちにトイレへ。ここで千葉の亀仙人さんとバッタリ出会う。同学年の彼とは初対面だが、私は彼のおぼろげな顔写真を観たことがある。念のためにゼッケンを見ると、まさしく彼の名前が書かれていた。「亀仙人さん?仙台のマックスです」と挨拶すると、驚きながらも笑顔になった。気がかりだったネットの走友にも、こうして無事お会いすることが出来た。 「立山登山マラニック」スタート前の「儀式」である、日本海の海水に手をつける。松原委員長の開会挨拶。今回から大会がリニューアルされたことが強調される。1時間制限が短縮されたこと。室堂でリタイヤした場合は直ちにゼッケンが外され、雄山山頂へ向かうことが出来なくなる由。それにリタイヤする際は選手自身のサインを求めるらしい。そして宿舎の雷鳥荘へは必ず17時前までに入ること。「リニューアル」は選手にとって不自由で厳しい内容になった。 午前4時スタート。松明を持った松原委員長の直ぐ後ろに付く。少しでも早めに前に出るためだ。思い切って委員長に何故1時間制限を短縮したのかを訊ね、あの厳しい山道で1時間縮めることがランナーにとっては過酷であることを話した。委員長は「早くお酒が飲めて良いでしょ」とはぐらかす。真意がそんなところに無いことは明らかだ。「これまでだと完走し終わった後勝手に行動し、「行方不明」になるランナーが多いんですよ」。確か委員長は小さな声でそんな話をしたように思う。 たとえどんなルールでもランナーはそれに従ってレースに臨むしかない。既に賽は投げられたのだ。砂利道の走りにくい堤防。暗闇の中に浮かぶ数々の水溜り。まるでレースの困難さを象徴するようなスタートだ。もう走友のことなど眼中になく、無我夢中で走る。前へ前へ。<続く>
2008.09.02
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<不確かな記憶> 未明、強い雨の音を聞いた。早朝に目覚め、立山行きの挨拶をブログに書き終えた頃は、雨の音も鎮まっていた。いつものように愛犬との散歩を終え、いつもの時間に傘を差してバス停に向かう。新潟行きのバス待合所でO川さんと合流。バスの中での話はやはり立山の天気についてだった。 私もそうだがO川さんもここ数日来、立山の天気が気になっていたようだ。全国的に天候が荒れ模様で、北陸でもレース当日は100mmほどの大雨になるとの予報。それでも心配しない方が不思議なくらいだ。だが私は意外に開き直っていた。山の天気はどうなるか分からないし、最悪の場合はレースが中止になる可能性もある。 宮城県内では小雨模様だったのが、福島県の会津地方に入ると空が明るくなった。そしてトンネルを抜けて新潟県に入ると、何と青空が見え出した。黄色く色づいている田圃。曇り空と低温続きの宮城県内では稲の生育が心配だったのに、山を越えた日本海側では気温も高そうだ。 だがそんなこととは別に、私の心には新たな心配が芽生えていた。それはO川さんの一言からだった。「制限は11時間ですよね。去年の制限は12時間だったのに」。一瞬「ん?」と考え直す。確かに今年の大会要項には制限が11時間と書いてあった。雄山山頂が15時だと記憶している。だが私が昨年その頂上に到達したのは確か15時15分だったはず。それで完走したのだから制限は16時だったのだ。 「立山」は昨年初めて参加したばかりだが、今年で最後の挑戦にしたいと考えていた。きれいごとかも知れないが、人気の高いこの大会では選考漏れになる選手も多いと聞く。今回参加出来れば2回目。他の人に出場の機会を譲っても良いと思えたのだ。それに本音を言えば、今年の3月に走った24時間走で膝を傷めて以来、坐骨神経痛に悩まされるようになりスピードもガクッと落ちてしまった。私はここらが潮時だと覚悟していた。 12時間の制限でもきついと感じるランナーにとって、制限時間が1時間短縮されることは「絶望」に近い。そうなると時間を詰める場所は、浜黒崎のスタート地点から岩くら雄山神社までの約19km、つまり常願寺川の堤防以外にはない。さらに第1関門のある42km地点で高度900mの称名ASまでも苦しい走りになることは必定だ。何と不確かな私の記憶。そして何と迂闊な資料の誤解。それにしても何故大会要項には昨年と大幅に制限時間が違っていることを明記してないのだろう。それが不思議でならない。 JR新潟駅で新潟ー富山往復の割安切符「北陸往復切符」を購入。2千円以上得をした計算だ。糸魚川を過ぎ、トンネルを抜けて富山県側に入ると空はやはり曇っていた。富山駅が近づいた頃、O川さんに「あれが常願寺川の堤防だよ」と教える。どれだけあの砂利道がぬかるんでいるか。そして、明日はどれだけのスピードでそこを走り抜くことが出来るのか。一抹の不安が胸を過ぎった。<続く>
2008.09.01
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華麗なフォームの女性ランナーに抜かれたのはその直後。仙台明走会のU宮さんのようだ。彼女は「仙台国際ハーフ」にも出てるスピードランナーだ。その後ろから大崎市のS藤師匠が追いかける。私を追い抜きながら「彼女が良いペースで走ってるので、付かせてもらいます」との言葉。今年の「さくら道ネーチャーラン」では相当の速さでゴールした強者のS藤さんだが、黙ってヨレヨレランナーを抜いて行く人が多い中でのこの行為。いつもながら配慮が良く行き届いた人だ。素晴らしいランナーほど人の痛みが分かり気遣いが出来るのだろう。 道端に「薬莱薬師の湯まで2km」の看板。そこで左折し国道347号線に別れを告げる。ようやくここまで来れた。ゴールはもう時間の問題だ。橋の袂まではゆっくり走ったが、勾配がきつくなる橋のところからは歩いた。道端の花壇に植栽工事をしている人がいる。土手には山百合の花。近くまで行って匂いを嗅ぐ。芳しい香りに生き返った感じ。勾配が緩くなったところから走り、11時04分薬師の湯へ到着。スタートしてからちょうど8時間。昨年よりも30分遅いがこの体調では仕方がない。 受付を済ませ、荷物を持ってまず温泉へ。体を洗い、着替えをする必要がある。裸になって洗い場に座ると、隣にO川さんが居て、かみそりをくれた。まずシャンプーし、次に体を洗おうとして屈んだ時に最大の異変が起きた。再び目の前が真っ白になる。そして背中は強烈な力で掴まれたような苦しさ。これは変だ。左手で台を押さえ、その痛みと苦しさに耐える。小刻みに震える背中。下半身の強烈な痙攣はこれまで何度も経験しているが、上半身の異常は初めてのこと。痙攣が上半身に及び、心臓に達した時は死ぬと聞いたことがあるが、これがそうなのか。 10分ほど耐えているうちにあの表現出来ない苦痛はようやく去った。ゆっくりと体を洗い終えるが浴槽には入れない。仕方なく水風呂に移動し、足だけ入れて筋肉を冷やす。どうやら体の異常反応は、極度の疲労から生じたもののようだ。そう言えばこのところ残業が続いている。それもかなり体にとっては負担になる重労働だ。それに加えての沖縄本島縦断。暑さの中での過激な運動が蓄積疲労となって私の体を蝕んでいたのかも知れない。ゆっくり露天風呂へ移動し、仲間と談笑。そして最後に短い入浴。 脱衣所に戻ると、私の顔が青ざめているとM井さん。そうか。自分では強く意識してないのだが、日に焼けた黒い顔が蒼白になるまで苦しんでいたようだ。口を濯ぎ、冷たい水を飲むうちに元気が回復した感じ。仲間の待つ2階の大広間へ急ぐ。襖を開けるとH多さんが見つけて「凄いね」と一言。隣にはK藤さんがいる。きっと彼女が沖縄本島縦断のことをH多さんに教えたのだろう。「そんなことないよ。ただ歩いただけだから」そう言いいながら私は彼女の側に寄った。ハグに応じる彼女。彼女とは去年の「立山」帰りの車中でずいぶん話し、気持ちは分かっている積りだ。何気ない彼女の言葉だが、私にとっては十分過ぎる労わりだ。 隣の座席のO川さんに、「体調が悪いのであまりビールは勧めないでね」と最初にお願いしておいた。乾杯の後懇親会が始まり、やがて会員の挨拶へ。明走会の若いメンバーが近々チャリティーランを予定してるとの紹介から始まる。若い人は積極的だ。我が宮城UMCの雰囲気がすっかり変わった感じがする。老いも若きも同じウルトラマラソンの仲間。これからも刺激し合って、大いに活動を盛り上げて行きたい。 会の進行が進んで終わりに近づき、女性陣はじめ何人かの仲間は再び温泉へ行ったようだ。私は建物の外に在る物産館へ行った。妻へお土産の野菜を買うためだ。トウモロコシ、インゲンなど4種を買って600円。帰り際食堂に寄りラーメンを食べる。おつゆの一滴も残さず完食。これで失った塩分の補給にもなったはず。 帰りの車中ではKさんから良いことを聞いた。今月末に参戦予定の「立山」の話だが、もし室堂の関門(標高2500m)で捕まっても、ゼッケンを外せば雄山頂上(3003m)への登山を許可してもらえることもある由。もちろん制限時間内に関門を通過することが一番だが、これで少しは気持ちが楽になった。 後日、大崎市のT田さんから写真つきメールをいただいた。レースがあった後はいつも親切にその結果を知らせてくれる同氏。今回の写真には疲れて眠る私の姿と、元気回復した私の2つの姿が写っていた。体力の限界点、そして疲労の限界点と戦いながら走った55kmの道のり。もうあんな経験は二度と出来ないように思う。体調の異変を感じた今回の「とお足」では大勢の仲間に心配をかけてしまった。今後の戒めとして深く心に刻んでおきたい。そしていつも変わらぬ走友達の友情に心から感謝して、結びとしたいと思う。<完>
2008.08.09
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再び走り始めたものの視界に白い「もや」がかかったみたいに見える。そんな現象は「勝田マラソン」の帰りなどに何度か経験した。だが走ってる途中の異変は初めてのこと。きっと血中の血糖値が下がって来たのだろう。後ろから追って来たY田さん、I藤さんに抜かれる。調子が悪いことをY田さんに告げると、ゆっくり走った方が良いとの助言。もちろんこれ以上のスピードは出ないのだが。 少し先でM仙人が車を停めエードを開いてくれている。もうペットボトルのお茶が残り少ないのでこれは助かる。コップに並々とコーラを注ぐ仙人。それをゆっくりゆっくりと飲み干す。だが体が安定しないため、左手で車に触り固定しながらの作業。それでも全て飲むことが辛くなり、残りを路上に捨てる。左手を離し体を戻そうとした時、眩暈が襲って来た。よほど体の疲労が激しいようだ。 Y田さん、I藤さんは気遣いながらも先に出発した。その後ろをゆっくりと追いかける私。吐き気と軽い頭痛が襲う。それを必死に堪えながらのラン。田圃の中の道はまだ続く。ようやく色麻町の最後のコンビニに到達。やれやれY田さん達に追い着けた。店内でアイス最中を捜したが見つからず、カボス味のアイスキャンディーを買う。ところがI藤さんはちゃんとアイス最中を食べている。ちゃんと捜せないほど注意力が散漫になっている感じ。 アイスに続いてポシェットから小さめのアンパンを取り出して食べようとしたら、喉に違和感がある。何だか痺れていて飲み込めない。慌てて口の中から食べかけのアンパンを吐き出す。窒息の怖れがあるとの判断からだ。Y田さんに「ひょっとしたら軽い脳卒中が起きた可能性があるので注意して私を見ていてね」と告げる。言葉が話せているのできっとそんなことは無いのだろうが、何せ父が40歳で脳卒中で亡くなり、兄が38歳で倒れた家系だ。 心配する2人には先行してもらった。ゆっくりと走り出す私。もう歩くようなスピードになった。今日スピードを出して走れたのは40kmもないかも知れない。それでも「立山」の練習にはなったはず。後ろからO川さんが抜いて行く。彼は今年初めて「立山」に挑戦する。出発して直ぐ、「立山に関して何か心配なことがあるか」訊ねたら、「特に心配してないが、JRの座席指定を取らなくて良いかが心配」との返事。大物だ。元々が強いランナーなので、3003mもの高低差がある登山も全く気にしてないようだ。 鳴瀬川に架かる橋を渡ってようやく加美町へ入る。川の中ではアユ釣りの人が何人か竿を出していた。薬莱山方面に左折する国道の角にある、コース最後のコンビニに到達。店内を覗くが誰もいない。もう行ってしまったかと諦めて裏の方へ少し移動したら、道端に座ってアイスを食べている3人組発見。ここで仙台明走会のS間さんがエードを開いてくれており、私は良く冷えたプラムをいただいた。ここからゴールまでは残り7kmのはず。ゆっくり行っても十分辿り着ける。 3人組は既に行った。ゆっくり走り出す私。だがこんなに涼しいのに汗が異常に出る。きっと湿度が高いのだろう。腰に下げたタオルハンカチが大量の汗でビショビショ。その滴る汗がシューズを濡らす。右手で時々ハンカチを絞りながらのランになった。加美町の「繁華街」を走っていると明走会の若者が何人か抜いて行った。そのスピードの速いこと。皆初めて見る顔。新入会員が増えたようだ。いつもの場所で気温を確認。10時半現在で23度C。色麻町の入り口では22度だったからさほど上昇していない。しかし、こんなに走り易いコンディションなのに苦しむのは何故だろう。<続く>
2008.08.08
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沖縄本島縦断の完走記を書くのに夢中になっていたが、この間先週の土曜日、宮城UMC(ウルトラマラソン・チャレンジ・クラブ)主催の「薬莱山とお足マラニック」に参加している。1週間近く経って記憶もやや不鮮明になってはいるが、その時のことを思い出しながら記しておきたい。 当日の朝4時に目覚ましをセットしておいた。走友会の集合場所は仙台市体育館で、スタートは3時の予定だった。だが沖縄本島縦断から帰った後も残業続きで疲労困憊していたため、体育館には行かず自宅からリュックを背負って一人でゴールの薬莱山まで走る積りだった。果たして約束の12時までにゴール出来るかは分からないが、その方が少しでも体が休まるだろうと考えてのことだった。 だが夜中の2時05分に目が覚めた。これから体育館に行っても何とか間に合う時間だ。幸い味噌汁は前夜のうちに作っておいたので、後はカレーを温めるだけ。併せてサラダもカスピ海ヨーグルトも食べ、トイレも済ませた。問題は荷物の入れ替えだけ。リュックの中からポシェットなどを出し、走る格好のまま自転車で家を出る。愛犬はこれまた前夜のうちに犬小屋に閉じ込めておいた。吠えられると近所迷惑になるからだ。 集合場所へ行くと、もう大勢の仲間が集まっていた。その中にはつい最近オーストラリアのゴールドコーストマラソンを走って来たばかりの3人衆、K山さん、I藤さん、M井さんの姿もあった。今年も伴走を買って出てくれたM仙人の愛車に荷物を預けてようやく身軽になれた。3時04分。予定より少し遅れてのスタートになった。 疲れている身にはゆっくり目のスタートがありがたい。それに涼しくて気持ちの良いこと。灼熱の沖縄本島縦断に比べたらまるで天国のようだ。問題は体がどう動いてくれるか。相変わらず残業が続いているが2、3日前から1時間減らしたため、ようやく帰宅ランが可能になった。だが全くスピードが出ないのが現状。今月末には「立山登山マラニック」へ行く予定だが、このスピードだと関門に捕まってしまうのは必定だ。 「薬莱山とお足」を絶好のスピード練習の機会と捕らえ、積極的に走るのが今日の課題。最近は走ってもまるで歩くようなスピードなので、どこまで持つかはまったく分からない。本当は仲間とランニングの話でもしながら走れば楽しいところだが、それを振り切って単独走を目指すつもりでいた。 最初の異変は直ぐにやって来た。走り出して6kmほどの五橋付近で腹痛。慌ててコンビニのトイレに駆け込む。間一髪でセーフ。原因は下痢だった。ようやく東二番町通りで仲間に追い着きそのまま前へ出た。北仙台から台原辺りまで来た時に後ろから足音。追いかけて来たのはM井さんだった。 M井さんも五橋周辺でコンビニのトイレに入ったとか。皆に遅れたため慌てて後を追い、私が一番ビリだと思っていたようだ。どこで仲間を追い抜いたのか分からない模様。暫く併走しながらのマラソン談義になった。彼のHPを見たが、ゴールドコーストマラソンも楽しかったようだが、オプションの各種ツアーが良かったみたい。私のケチケチした沖縄本島縦断とは大違い。何せ私の方は自販機で1本100円の缶入りの飲み物を買い、それを手持ちのペットボトルに移し変えての走り旅だった。1本で50円違うと10本では500円になる。 Sさんに抜かれたのは富谷町辺りだったろうか。涼しいのでスピードが上がるようだ。大衡村手前でF田さんがエードを開いてくれ、彼にはそこで一旦追いついたものの、その後再び追いつくことはなかった。かなり調子が良さそうだ。途中、大和町の「七つ森」も今日はボンヤリ雲の中に煙っていた。大衡村大柳で国道4号線に別れ、色麻町方面に左折。この辺りでもまだ足は動いており、背後から迫るI藤さんとの距離もまだあったはず。 色麻町の坂道のもう少し先でM仙人の車発見。手を振る仙人の手とハイタッチし、給水を断ってそのまま走り通した。いつものように手にペットボトルを持っているので、自分では大丈夫の積りでいたのだが体は正直。その後に重大な異変が生じることなど、この時は露ほども考えてはいなかった。 陸上自衛隊王城寺原演習場から空砲が聞こえて来る。これも毎年のことだ。左折して間もなく右折し、加美町方面に向かう。田んぼの中の長い長い一本道。気温が高い年はここが一番苦しい場所。何せ8km以上コンビニも自販機もないのだ。ひたすら暑さに耐えながら次のコンビニを楽しみに走るのがせいぜいのところ。それが今年は涼しくて助かる。でもスピードがドンドン鈍って来た。ついに立ち止まり、ポシェットから取り出したアスリートソルトを何粒か口にした。う~む。やはり今日はどこかおかしい。<続く>
2008.08.07
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<幻のヤンバル路> 今回沖縄本島に滞在した間に見たランナーは全部で4人だった。第2日目那覇市から名護市まで走る途中、宜野湾市大山周辺で会ったランナーが最初。この人はスピードランナーで、あっと言う間に視界から消え去った。同じ国道沿いでも那覇、浦添、宜野湾辺りの歩道は案外凸凹が激しく走りにくいところが多いのだが、あのランナーは物ともせずに駆け抜けて行った。よほど強い筋力の持ち主だと思う。 2度目に見たのは第3日目の名護市内。ちょうどMさんの車に同乗してこの日のスタート地点である辺戸岬に向かう途中だった。3人のランナーが話をしながらゆっくり走っていた。日曜日の朝だったので、きっと仲間同士の練習だったのだろう。 仙台へ帰る最終日、私は那覇空港からHさんの自宅へ電話した。初日、那覇のホテルから摩文仁平和祈念公園まで送ってもらったお礼を言うためだった。それに無事沖縄本島を縦断し終えた報告もしておく必要があった。初日22kmを3時間、2日目65kmを13時間11分、3日目53kmを11時間40分、合計140kmを27時間51分でゴールしたことを話すとHさんは大層驚いていた。 彼はNAHAマラソンを第1回から連続23回完走しているランナーだが、この日も1時間30分の練習でクタクタになった由。私が真夏の日中に3日間も走り続けたことが信じられないようだ。何故沖縄の人達はそんなに驚くのだろう。私が今回の計画を知らせた時、彼らは「自殺行為」とまで心配していたが、一体何に脅えているのだろう。Hさんは沖縄本島内のレースしか知らない。まして100kmとか200kmの超長距離を走るウルトラマラソンなど参加したこともない。今回の私の挑戦で、ウルトラランナーの強い体と心を少しは認識してもらえたかも知れない。 話は変わるが、昨年の秋1人のイギリス人ランナーが日本へ来た。ヨーロッパ、アフリカ、アジア、南北アメリカ大陸を全て走破した上での来日だと聞いた。彼は日本列島を北から南まで走り通し、ついでに沖縄本島も縦断した。確認はしていないが、彼が走った沖縄本島のルートは、今回私が走った同じコースではないか。もし西海岸でなく東海岸を単独で走ったのなら、とても勇気ある挑戦で尊敬に値する。ヤンバルの東海岸を単独で走破するには、季節にもよるが10kg以上の水と食料を背負って、少なくても70kmほどアップダウンのきつい坂道を走る必要があるからだ。 あまり見かけなかったランナーに対して、自転車族は良く見かけた。ただし、必死になってペダルを漕いでいた人は一人もおらず、ボトルの装備も見かけなかったのでゆっくりと長い距離を走る練習をしていたのだろう。高松のTANさんの書き込みによれば、沖縄の人は真夏の自転車のロングライドについても強い警戒心があるとか。沖縄本島北部の国頭地方。通称ヤンバルが11月の「ツールド・オキナワ」の舞台のようだ。私が見かけた自転車族はそのための練習だったのだろうか。 那覇市平和通りの土産物店「K」のアルバイト女性が話していた、ヤンバルを「8の字型」に走る連中とは、ひょっとしてランナーではなく自転車族なのではとも思える。確か「ツールド・オキナワ」のコースが最も起伏が厳しい林道を使う8の字型と聞いた記憶があるからだ。ともあれ私にとってヤンバルの東海岸を走るのは夢のまた夢。このまま幻で終わるのもまた楽しと言ったところだろうか。
2008.08.04
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<一冊の本と残された夢> 那覇空港でフライトの時間を待つ間、そして仙台行きの機内でも私は一冊の本を読み耽っていた。昭和52年に日本歴史叢書第35巻として吉川弘文館から出版された、宮城栄昌著の「琉球の歴史」だ。買ったのは30年前の筑波勤務時代。将来読むべき資料として、当時は「積読」の対象だった。 私は平成元年4月に偶然にも沖縄で勤務することになった。唯一の手持ちの沖縄関係資料として一度は手に取ったであろうが、多分早々に読むのを止めたのだと思う。3年間の沖縄勤務時代も何度か読破を試みたと思うのだが、読んだ記憶がないのを見るとやはり断念したのだろう。 難解な専門書を最後まで読みこなせなかったのは、当時まだ沖縄に対する基礎的な知識が乏しかったせいだ。それが今回は何故か書かれた内容が心にすっと入って来、7ヶ月を要したものの、何とか読み切ることが出来た。それが沖縄への旅から戻る当日の機内だったのも何かの縁だと思う。書かれた内容は30年より以前の事象だが、私にとっては斬新な知識であると同時に心から納得出来るものであった。沖縄を去って17年。沖縄に対する私の想いがようやく熟成して来たのだろうか。 今回の旅で見聞きした動植物は、マンゴー、島バナナ、クワズイモの実。マングローブ、ランタナ、サンダンカ、ハイビスカス、ブーゲンビレア、ギンネムの花々。風に揺れる芭蕉やフクギ並木。それにモクマオウやガジュマルの木々。煩かったはずのセミの鳴き声も全く気にはならなかった。真っ暗な夜道で鳴き、私を驚かせた動物は一体なんだったのだろうか。そして誇り高い沖縄の野良犬や猫達。 今回の旅では大勢の人達にも出会った。色んな表情を見せた沖縄人(うちなんちゅ)と、南の島に魅せられた大和人(やまとんちゅ)達。青い空に青い海。そして灼熱の太陽。「熱い道」を歩いた今回の4日間の走り旅を、私はこれからも決して忘れないだろう。 かつて名護市内の一部や国頭村の宜名真トンネルから奥集落までの合計12km程度の距離については、沖縄勤務時代に走友と駅伝方式で走ったことがあった。それが今回は南の摩文仁平和祈念公園から最北端の辺戸岬まで、たった一人で走り通した。ただ島の西海岸を通る今回のルートは比較的走破し易く、残された東海岸沿いに北上する道こそ魅力に溢れ、かつ冒険心を刺激する厳しいコースなのだ。果たしてそれに挑戦する機会があるかどうかは分からないが、自分の胸に深く刻んでおきたいと思っている。残された人生の最大の夢として。<完>
2008.08.03
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<生真面目な娘さん> 「K」と言うその店はなかなか洒落た店だ。名のある写真家が撮った写真、クジラやサメの歯で作った細工物など芸術的なセンスに溢れた品物をたくさん陳列している。私がそれらの作品に見とれていると背の高い女性が近づいて来た。身長は1m80cmもあるだろうか。目に凄い力を宿している。 「クジラの歯は捕獲禁止以前のもので許可を得たものです」。聞きもしないのに娘さんは私に向かってそう説明し出した。環境保護を訴える団体から何度かクレームがついたそうだ。「私の子供の頃は良くクジラを食べていました。戦後暫くの間クジラは大切な食料でしたからね。クジラを食べる伝統的な食文化が日本にはあったんです」。私はそう応えた。「私の故郷の宮城県にも鮎川や女川と言う捕鯨基地があったしね」。 「実は店のオーナーは青森の出身なんですが、沖縄で潜水の仕事をしているうちに沖縄が好きになってこの店を出したんです」。ふ~む。第2日目に出会った若夫婦の父親も宮城出身の潜水夫で、沖縄が好きになってダイビングスクールを経営してると聞いた。それにヤンバルのバンガローに停まっていた岩手ナンバーの車。どうも東北人は沖縄を好きになる人が多いようだ。 娘さんは京都出身。沖縄へ来て、最初は伊江島で介護の仕事をしていたとか。自然保護に関心を持ってるうちに、このオーナーと知り合ってアルバイトをしているそうだ。「ところが」。彼女は急に声を潜めた。「肝心の沖縄の人達があまり熱心でないんです。まるで諦めてしまったような感じで。基地の移転問題もそうなのですが」。どこか思い詰めたような彼女の瞳。 私は1600年代の初頭、島津藩が琉球王国を支配下に置いてから沖縄人の苦難と諦めが始まり、明治期には鹿児島出身の奈良原県令が沖縄の教育界を蹂躙したり、山林のかなりの部分を鹿児島県関係者に安く売り払ったことや、沖縄出身で東京帝国大学農学部卒の若き農林技師謝花昇が奈良原県令の悪政と戦った挙句、県民の理解を得られず狂死したことなどをかいつまんで話した。沖縄人の無関心と絶望とは、何も今始まったことではない。 私は3日間の旅で沖縄本島を走って縦断したことも話した。彼女の話だと本島の北部地区通称ヤンバルの自然保護を訴えるために、あの辺り一帯を「8の字」型に走り回っているグループがあるそうだ。どうも私はその仲間と間違われていたみたい。「これから沖縄はどうなるんでしょう」。彼女の問いに、「沖縄のことは沖縄人自身が決めることじゃないかな。例えどんな結果になったとしても」。そう答えて私は店を出た。路地の向かいにもう一つ「K」の分店があることに気づいた。どうやら結構繁盛しているようだ。 マチグァー(市場)に入ると、サングラスをかけた豚の顔があった。沖縄の言葉でチラガー(面皮)と言ってこれもポピュラーな食べものなのだが、サングラスは観光客を呼び込むためのディスプレーなのだろう。魚屋の店頭には色鮮やかな熱帯の魚が並び、それを買った観光客には調理して食べさせてくれるお馴染みの光景が見られる。 少し早めだが私は再び花笠食堂へ寄り、ゴーヤチャンプルー定食を注文した。これが今回の旅最後の食事だ。さて次にこの島へ来るのは何時の日になるか。食事を終えると最寄のモノレールの駅へ歩いて向かった。最終日のこの日も相変わらず熱風が舞っている那覇の街だ。<続く>
2008.08.02
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<愉快なバスと3日間の走り旅> 間もなく那覇空港行きの各駅停車バスはやって来た。客はつい先ほどトイレの有無を訊ねた娘さんと私の二人だけ。彼女に「3日間かかって沖縄本島を縦断したんだよ」と話すとビックリしていた。バスは国道58号線をひたすら南下。第2日目の夜にハブに脅えながら走った幸喜付近の歩道は、藪もさほど茂っておらず特に心配しなくても良さそうな状況だった。人間恐怖が先に立つと慌てることが分かった。 娘さんは「かりゆしビーチ」で降り、乗客は私だけになった。バスの運転手さんに「トイレに行きたくなったらどうするんですか」と訊ねると、「その時は仕方ないから停めますよ」との返事。それは愉快な話だが、女性客の場合はどうなるのだろう。休日の朝のせいか那覇空港行きのバスに乗る乗客はいない。まるで貸切の観光バスのようにドンドンスピードを上げるバス。 瀬良垣ビーチ付近からバスは旧道へ入った。きっと広い道は後から出来たバイパスで、海沿いの集落を巡るこの道が本来の国道だったのだろう。そう言えば本島北部ヤンバルの集落を通る道は古い時代からの街道で、人々はあそこを歩いて通行していたのだと思う。思えば3日間、暑い中を良く140kmも走ったり歩いたり出来たものだ。 ゴール後、那覇市国際通りのあまりの熱風に、良くもこんな道を走ったものだと思わず「ぞっ」とした初日。昼食を摂る間びしょ濡れのシューズや靴下を日向に出しておいたらたった5分で乾いてしまった2日目の日中。あれは暑いというよりは「熱い道」だった。第3日目のことは、正直言ってあまり記憶に残っていない部分がある。たまたま地図に書き込みしてたために完走記が書けたが、きっと軽い熱中症に罹って意識が朦朧としていたのだと思う。 今回の沖縄行きに際して、宿泊先のホテルや友人の連絡先、私の仕事上の連絡先などを書いたメモを妻に渡して来た。「もしも」の時のためだ。沖縄の友人達が私の事故を怖れていたが、私自身も慎重に行動した積りだ。沖縄の過酷な暑さは人を極度に疲労させるし、もし強度の熱中症に罹れば生命の危険性すらあるからだ。 第3日目の長い海岸線を、私は愛犬の名を呼びながら歩いた。「マックス~、お父さんは頑張ってるよ~!」と。また、どんな状況にあれこの旅を許可してくれた妻に対しては、「お母さんありがとう~!」と大声を出して感謝した。そんな訳で真夏の沖縄本島140kmを無事縦断出来たのは私一人の力ではない。特に忙しい中、現地でフォローしてくれたHさん、Mさんには幾ら感謝しても足らないくらいだ。 バスの車窓から第2日目に走った道を眺めているうちに、何時しか私は暫しまどろんでいた。ようやく安心して疲れが出たのだと思う。国道の脇に広い空き地があった。沖縄では珍しいことだ。あれは一体どこだったのだろう。ともあれ私は2日ぶりに那覇に戻り、国際通りでバスを降りた。驚くことに60km以上も乗ってわずか1660円也。バスに頼らざるを得ない沖縄ならではの料金だろう。さて、昼食を摂るにはまだ早い。ここは平和通で時間を潰すしかない。そう考えて、とある土産店に入った。<続く>
2008.08.01
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<贅沢な犬> 第3日目の食料について補足しておこう。辺戸岬から名護市までのコース上にはコンビニが少ないと考え、出発前に食料を調達しておいた。お握りが3個。これは出来るだけ長持するよう、筋子、昆布、梅干入りのを各1個ずつ選んだ。バナナ3本。これも手軽に食べられるため重宝したはずなのだが、食べたと言う実感が乏しかった。大きなアンパン。これは結果的に一口しか食べなかった。オレンジジュースは飲んだ覚えがあるのだが、スポーツドリンクを飲んだ記憶はうっすらとしかない。この他、別途持って行ったお菓子や梅干のうち口にしたのはチンスコウを1個だけ。第2日目に比べて食欲があまり湧かなかった。かなり疲れていたのだと思う。 ともあれこの日の行程でコンビニを見たのは2軒だけ。しかも、結果的にそこへ寄ることはなかった。北部で目立ったのは各集落の「共同店」。おそらく住民が資金を出し合って作ったお店で、唯一の万屋として集落の人々に重宝されているのだろう。だが私が走ったのは日曜日で、どこも閉店していたようだ。役立ったのは2つの「みちの駅」。ここで「さつま揚げ」や「味噌汁定食」を食べたことで休憩を取り、かつ水分と塩分の補給が出来て良かった。こうしてみると、出発前にお握りなどを仕入れ、リュックに入れて走ったのは正解だったと思う。 朝6時頃、私はホテルを出て再びヒンプンガジュマルに会いに行った。枝から無数に垂れるまるでヒゲのような気根(きこん)。それらが束になって地上に着くと地中の養分を吸い上げ、台風などで幹が倒れないように支える役割を果たす支柱根に変わる。樹高は20mほどもあろうか。国指定の天然記念物だけあって堂々たる風格。あれほど見事なガジュマルは沖縄でもそうはないだろう。さすがに妖精でも棲みそうな風情だった。 幸地川に魚が群れている。とても水がきれいだ。「鮎はいますか?」と近くにいたオジーに訊ねると、ウナギは良く獲れるが鮎はたまにしか獲れない由。ふ~む。とすると群れていた魚は鮎ではなくハヤだったのだろう。沖縄原産の琉球アユは水量の激減と川の汚染のために絶滅し、奄美大島から逆に移入したのだが、それでもなかなか増えないとか聞いた。 海岸沿いにホテルへ戻る。コンクリートで固められた海岸。その岸壁を一部壊して親水公園化する工事をしてるようだ。わざわざ大金をかけて自然海岸を無くしておいて、さらに輪を掛けて資金を投入する国の無駄遣い。これは沖縄だけの問題ではないと思うが。 朝食は存分に食べた。3日間の走り旅を終えて、再び食欲が戻ったようだ。お粥を2膳お代わりし、シークァーサージュースも2杯飲んだ。いよいよチェックアウト。那覇へ帰ろうとしてフロントへキーを返すと、マスターが「伝言があります」とメモを渡した。昨夜の8時45分、私を辺戸岬まで送ってくれたMさんが心配して電話をくれたようだ。慌てて彼の自宅へ電話する。無事ゴール出来たことを報告すると初めて安心した様子だった。ゴメンネMさん。昨夜のその時間はホテルを一旦通過し、コンビニで買い物中だったんだよ。 最寄のバス停まで行くと若い女性がいた。「那覇行きのバスにはトイレがあるか」と彼女に尋ねると、急行も各駅停車もトイレはないとの返事。各駅停車は終点の那覇空港まで2時間半ほど、急行はそれより30分早く着くようだ。急行は行ったばかりだし、冒険だがここは各駅停車のバスに乗ってみるか。そこへ一匹の野良犬登場。残り物のチンスコウを与えたが、チンスコウが嫌いなのか見向きもしない。昨日出会った宮城島のトラーと言い、今日のチビ助と言い、沖縄の野良犬は何と誇り高いのだろう。<続く><7月のラン&ウォーク>走った回数:8回 走った距離:193km 歩いた回数:毎日 歩いた距離:180km☆月間合計:373km ☆年間合計:2500km ☆これまでの累計:64、022km
2008.07.31
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<夜のヒンプンガジュマル> 帽子は頭上に戻った。後は名護市のホテルを目指すのみ。間もなく後原(くしばる)を通過。ここはもう名護市の領域だが中心街まではかなり遠いはず。本部半島の山並みが次第に大きく見えるようになった。源河(げんか)川の河口を渡る。この上流のオオシッタイで、地域興しのマラソン大会に出たことがあった。参加賞は手作り味噌や玉子やタンカン(沖縄の柑橘類)などだった。だが後で地図を見たら、オオシッタイは帽子が飛ばされた平南川の上流だったようだ。 羽地内海に浮かぶ屋我地島から古宇利島に架かる橋も見えて来た。私が去って以降、沖縄には離島とつなぐ橋が数多く架橋されたようだ。すべて沖縄振興の一環だろう。真喜屋大川の水が青い。河口から海水が上がって来てるようだ。ちょうど満ち潮みたい。釣り客が数名、川岸で釣り糸を垂れている。 19時15分。ガス欠を感じ、仲尾次(なかおじ)のバス停でお握りを食べる。賞味期限から既に12時間も過ぎているが、最後に梅干入りのを残しておいて正解。あれだけリュックで熱せられたのに、少しも傷んでいない。太腿を何箇所か蚊に刺された。次のバス停で野球の練習を終えた羽地中の生徒がたむろしている。もう黄昏なのにまだ羽地か。これはいけない。この調子だと何時にゴール出来るか分からない。 19時50分。川上の交差点周辺からようやく走り出す。陽は翳って日中よりかなり涼しくなった。田井良(たいら)を過ぎ、第二伊差川の信号を左折。ここを行けば名護市内への近道のはず。思わず足取りが軽くなる。だがアップダウンが意外ときつい。市街地への入り口で真っ暗闇になった。そして歩道の両脇は藪。再びハブの恐怖が脳裏を掠める。キャ~。逃げろや逃げろ。 ようやく明るい繁華街へ。歩行者にヒンプンガジュマルの場所を聞くと、直進して右折せよとのこと。説明を信じてひたすら東行するとオリオンビール名護工場の正門にぶつかった。右折して次の通りに出、少し戻ると闇の中に大樹が浮かんだ。名護名物ヒンプンガジュマルだ。ヒンプンは目隠しの現地名でガジュマルは小さなイチジクのような実をつける。沖縄にはガジュマルの大木にはキジムナーと言う小人が棲むと言う伝説がある。大木の尖端は闇に紛れ、見ることは出来なかった。 20時45分ホテル前通過。第3日目53km11時間40分の戦いはついに終わった。そのままコンビニへ直行し夜食などを購入。部屋でシャワー後、衣類をすべて水洗いし、大浴場で体を洗う。その後遅めの夕食。3日間に亘った140km27時間51分のゴールを祝してオリオンビールで乾杯。この日飲んだのはスポーツドリンク2本、サンピン茶2本、水2本、紅茶1本、グァバ茶1本、日本茶1本(以上500cc入りペットボトル)にカキ氷。前日に比較して摂った水分が少なく、アスリートソルト始め塩分の摂取が少なかったことが苦戦の原因か。この夜は室温を23度に設定し、6時間ほどの睡眠が取れた。<続く>
2008.07.30
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<孤高の犬と風に飛んだ帽子> 浜集落を過ぎると間もなく大宜味村(おおぎみそん)に入る。この村は沖縄の中でも特に長寿なことで有名だ。そして喜如嘉(きじょか)集落の中を歩む。しんと静まり返った家の庭にはバナナの葉のような植物。これが芭蕉で、その繊維で紡いだのが国指定重要無形文化財の「芭蕉布」。とても繊細な生地で昔は王朝に納められ、王族の夏服として用いたとか。 海沿いに「板干瀬」(いたびし)の標識。炭酸カルシュームがセメント化して板状の石になっている珍しい海岸だ。県指定の天然記念物とか。辺土名高校前のバス停でお握りとゼリー状の栄養剤を補給。大兼久集落辺りではついに脚までが痛み出す。名護までの道はまだまだ遠い。昔の人の苦労を考えてみる。食べ物はサツマイモくらいなもの。腰に下げた抱き瓶(だちびん)に入っているのは水だけ。そんな粗末な食料で、テクテク那覇や首里まで歩いたのだと思う。それに比べたら自分は何と贅沢な旅だ。 涼しい集落の道を行くと、役場と大宜味小学校があった。根路銘(ねろめ)集落でグァバ茶を買う。柿の葉も入っているので体には良さそうだ。まもなく国道脇に「みちの駅おおぎみ」が見えて来た。16時15分。腹が減ったし汁も飲みたいので沖縄ソバでも頼もうと思ったら、麺類は全て売り切れとのこと。仕方なく「味噌汁定食」を注文。沖縄風の味噌汁は味が薄い代わり具沢山で、ご飯付きなのだ。 味噌汁の具は豚の三枚肉、豆腐、玉子、レタス、ニラだった。それにゴーヤのサラダと山菜の漬物。箸置きは何と芭蕉の葉を折ったもの。「もしかして芭蕉の葉?」と店の女性に訊ねると、彼女は建物の外を指差した。なるほど指の先には1本の芭蕉の樹。そして海風にそよぐ葉が見えた。ここで立て続けに3杯の冷たい水を飲み干し、味噌汁も全て飲んだ。最後に食卓塩を手に取って舐める。そのお陰で意識が鮮明になった。やはり軽い熱中症になっていたのだろう。 元気を回復して再び歩き出す。海上の遥か遠くに幾つかの島影。伊平屋島と伊是名島は分かるが、その先にも2つの島が離れて見える。あんなところに島があるはずは無いのだが。ほどなく塩屋湾に到着。紺碧の深い海。ここは海神(ウンジャミ)の祭礼が有名と聞いた。塩屋橋をまず渡り、次に宮城橋を渡り終えた時、前方から一匹の犬が橋を渡って宮城島へ歩いて行った。あれは間違いなくトラー(琉球犬)だ。明るい茶色に黒い縦筋が入って、まるで虎のような模様だから直ぐに分かる。野良犬のようだが悠然としたその態度。孤高の犬は静かに視界から消えた。 もう夕方なのだが陽はまだ高く、しかも暑い。頭から水を掛けながら歩いているのだが、掛けても掛けても蒸発し、直ぐに乾いてしまう。平南橋の上まで来た時、突風が吹いた。慌てて頭を押さえたが帽子が無い。下の河原を覗いても分からない。仕方なくタオルハンカチを頭に載せたが、それでは暑さが凌げるはずもない。遠回りして河原に下りてみる。2組の客がテントを張っていた。しばらく捜してようやく帽子が見つかった。やれやれ。安心して川面を見ると魚が泳いでいる。ひょっとしてあれが幻の琉球アユか。<続く>
2008.07.29
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<集落を歩く> ごく短い座津武(ざっつん)トンネルを抜ける。狭い歩道は注意を要するが車が通らないので心配はない。宇嘉集落の手前に沢があり、崖から水が流れ出している。沖縄では珍しい風景だ。その付近に小さなバンガローが建てられ、岩手ナンバーの車が停まっている。様子からすると岩手出身の人が気に入って別荘にでもしたようで、とても不思議な感じがした。 10時45分、辺野喜(べのき)集落で小休止。お握り、バナナ、梅干を食べ、オレンジジュースを飲む。そのままベンチで眠ろうとしたが果たせず、再び灼熱の国道58号線をひたすら南下。佐手(さって)と謝敷(じゃしき)は集落内を通ってみた。少し遠回りだが、所々に日陰もあって助かる。建物の陰で涼んでいる老人。いわゆるヤンバル(本島北部の通称)は典型的な過疎地。この辺の現金収入は何なのだろうと考えた。 謝敷では「兄ちゃん、お茶でも飲みな」と屋敷内から声。ここは確か走ろう会の先輩であるT事務長の故郷のはず。「ええっ?」思わず声を出したが、そのまま通り過ぎた。集落の一角に沖縄民謡「謝敷節」の石碑。幹の皮が黄色い染料になるフクギ並木が美しいこの村を讃える歌のようだ。ひっそりとした集落にドブの臭いが漂う。きっと下水処理がなされてないのだろう。 与根には新しいトンネルが出来ていた。歩道も広くとても明るい。それにひんやりして気持ちが良い。思わず走り出す私。古いトンネルは曲がりくねった海沿いにあった。ここは私が沖縄を去った後に完成したようだ。集落の中にまたもや民謡「与根節」の石碑。昔の難しい言葉だが恋の歌のようだ。与根川の上流には職場の演習林があったはず。12時40分、道端でアンパン、ゼリー、チンスコウを食べる。 辺土名は国頭村(くにがみそん)の役場が置かれている最大の集落。名護市からここまではバスが何本か通っているようだ。そしてこの先の過疎地へは村営のマイクロバスを運行しているようだ。村一番の繁華街には飲み屋が数軒連なり、夜はここで村の衆が飲んでるのかと思うと、とても愉快な気持ちになった。 「みちの駅国頭」に「クンジャンサバクイ」の石碑。クンジャンは国頭の現地名。サバクイは元来捌理(さばくり)と呼ばれる琉球王朝時代の村役人の総称なのだが、かつて王都である首里城を建てた時に国頭地方の山林から建築用の丸太を切り出したお祭りの意味に転じている。かつて私も、再現された祭りで木挽きの様子を首里城近辺で見たことがあった。 みちの駅で休憩し、カキ氷とチキアギを食べる。チキアギは練った魚肉を「搗き揚げ」たものでさつま揚げのこと。これが巨大でとても美味しい。小片をガチマヤー(腹ペコの猫)に与えているうちにすっかり元気回復し、意識がはっきりし出した。もしここで休まなかったら、きっと熱中症になっていたに違いない。<続く>
2008.07.28
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<沖縄人の来た道> 夜半何度も目が覚めた。特にウルトラマラソンなどの旅先では、大抵は寝不足になりがちな私だ。疲れているのに眠れないのは神経が昂ぶっているせいだろう。結局この夜眠ったのは合わせて5時間くらいだろうか。朝になって鏡の前に立つと眼窩が落ち窪んでいる。それに酷い吐き気と頭痛。 ロビーで新聞を読み、6時半に食堂へ。食欲が湧かないが食べなければ走ることは出来ない。無理して色んな食材を皿に取り分ける。だがご飯を止めお粥を選ぶ。それもさらっと1杯だけ。いつもなら2杯は飲むジュースと牛乳をミックスしたものも、この日は全く飲む気が起きなかった。食後も少しベッドで休む。時間が来てフロントに鍵を渡しに行ったものの、吐き気が治まらない。よほど体調が悪いのだろう。慌ててコンビニに行き、栄養ドリンクを飲む。 その間にMさんが迎えに来ていた。鍵は既に預けてあるのに私の姿が見つからず、Mさんは慌てて捜したようだ。早速第3日のスタート地点である辺戸(へど)岬へMさんの車で向かう。そこは沖縄本島の北端で、交通の便がないためだ。車中、Mさんと色んなことを話した。私は1月にMさんの故郷である宮古島を走ったことなど。彼は定年退職後も再雇用され、仕事の傍ら創立40周年になる職場の記念事業の一環として、沖縄の未来につながる子供達の詩を選定していることなど。彼は本来の業務もさることながら、詩人としての名声が高い人だ。 1時間ほどで辺戸岬到着。岬の石碑の前で記念に写真を撮るMさん。「これが遺影になるかもよ」と私。「熱中症にはくれぐれも気をつけてくださいよ」と彼。石碑は沖縄の日本復帰を祝ってのものなのだが、Mさんに「本当に日本に復帰して良かったのだろうか」と訊ねると、「経済的には良かったんじゃないですか」との返事。 ペットボトルに水を満たし、自販機でサンピン茶を2本買いリュックに入れる。「お土産を買って来なかったので、ガソリン代にして」とお金を渡しても「冒険を援助したいので」と受け取らない。そんなやり取りの後、9時5分に第3日目のスタートが切られた。車の中から写真を撮る彼。「職場の皆さんにもよろしくね」と私。ゆっくり彼の車が私を追い越し、ついに見えなくなった。最後の一人旅だ。今日は名護市のホテルまで慎重に走ろう。 向かう道の先に安須森御嶽(あすもりうたき)が見える。絶壁の上にある聖地だ。この島にいた頃、私はそこへ登ったことがある。「ここは私達が神と交信する聖地です。汚さないでください」と立て札が立っていた。粗末な香炉のほかには何も無い拝所。360度見渡せる崖の上から海に向かって拝むオバー達。シンプルだが厳かな沖縄の原始神道の姿だ。 沖縄人の祖先であるアマミキヨとシネリキヨの夫婦神が初めて上陸した地点がこの辺戸岬とされる神話が残されている。岬の真下の海中には洞窟があり、そこには人が暮らした痕跡があることが琉球大学理学部の木村教授達の調査で分かっている。また岬の上にある宇座(宇佐)遺跡からは縄文後期の土器が発掘されているが、これは鹿児島の市来式土器と同じ系統のようだ。いずれも沖縄人(うちなんちゅ)の遠い祖先がどこからこの島へ渡って来たかを示唆するような話だ。 私は今来た国道に出ず、直進して「茅打ちバンダ」と呼ばれる絶壁上の名勝に向かった。そこにも宇座第2遺跡と呼ばれる貝塚があるようだ。崖の上からオーシャンブルーの東シナ海が望めた。麓の宜名真(ぎなま)集落まで慎重に降りる。武見集落まで来ると容赦ない真夏の太陽が私の走りをストップさせた。スタートしてまだ数キロしか来てないのに、これは大ピンチ。果たして今日の旅が最後まで続けられるのか。<続く>
2008.07.27
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<ハブに怯える> 「ラマダルネッサンスリゾート」、「ムーンビーチ」、「タイガービーチ」、「サンマリーナ」。そんな横文字のリゾートホテルや海水浴場が続く海岸に、突然「おんな売店」の看板を発見。「さて、どんな女性を売ってるんだろう?」。もちろんこれは冗談。村の名前が恩納(おんな)なのだ。 南恩納でついにガス欠。1軒の売店に飛び込みお握りとトマトを2個ずつ買う。店には2人のオバーがいて、私が宮城県から来たことを知ると、福島で地震が起きたことを教えてくれた。椅子に座り、クーラーが効いた店内で黙々と食事を摂る。トマトには持参の塩。そして牛乳も飲んだ。これでようやく元気回復。17時30分。外はまだ暑いけどそろそろ気合を入れて走るしかない。 間もなく自転車に乗った外国人の少女達と出会う。その発育の良さに驚く。少年は何と浴衣を着ている。そのうち姿が見えなくなった。きっと米軍海兵隊恩納通信所の家族で、村役場周辺での夏祭りにでも行っていたのだろう。自転車に乗った男2人にも出会った。薄汚れた服装で時々道端のペットボトルなどを拾っている。富めるアメリカの子供達と対照的な島の貧しい住民。 名嘉真(なかま)集落付近の岸壁で魚釣りの人。釣れるのはタマンと言う肉厚の魚のよう。19時15分頃ようやく名護市へと入る。幸喜集落付近で真っ暗になる。対向車のライトで足元が見えない。藪の中で「キャッ!」と何かが鳴いた。あれは野ネズミか。ハブの餌は野ネズミとか聞いた。「耳」の傍から赤外線のようなものを発射して相手の距離を測るハブは自分の体長くらいはジャンプする。ハブの毒は猛毒。もしも咬まれたら30分以内に血清を打たないと死んでしまう。見えない闇の恐怖に戦慄が走る。 許田で沖縄自動車道と合流し、高架の下を駆け抜ける。これだけ照明が明るいとハブの危険は少ないはず。夜釣りの人に訊ねるとホテルのある東江まではまだ5kmほどある由。一難去ってまた一難。思わず気落ちして歩き出す。国道を突っ走る暴走族。今夜は本部の海洋博公園で花火大会があるとか。時間は20時を遥かに過ぎた。きっとホテルの人も心配しているだろう。名護湾の向こうに本部半島と伊江島がくっきり。瀬底島大橋まで照明に浮かんでいた。せめてもの空元気で、両手を振って歩く。 21時06分ようやく名護のホテルへ到着。第2日目65kmの旅に要した時間は13時間11分。この日飲んだのは、結局サンピン茶7本、ウッチン茶1本、ウーロン茶1本、紅茶1本、コーラ1本、ビール1本だった。このほかにドリンク剤1本、アイスキャンディー3本、水も2本は飲んだろう。那覇から送ったリュックは無事届いていた。チェックインを済ませ、シャワーを浴び、休む暇なく遅い夕食の買出しに行く。<続く>
2008.07.26
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<沖縄の2つのシンボル> 宜野湾市大山でスピードランナーに遭遇。良く鍛えられた足であっという間に過ぎ去った彼は、きっと県内でもかなりの実力ランナーなのだろう。結局2日目までに遭遇したランナーは彼だけだった。間もなく右手に広大な普天間基地が見え出す。湾岸戦争当時は素早く着陸と離陸を繰り返す「タッチアンドゴー」の訓練をしている軍用機が、職場の上空を旋回していたのを思い出す。 しばらく基地が続くため、もう右側の歩道を走っても日陰はない。それに自動販売機も皆無。仕方なく交差点で国道58号線を横切り、左側の歩道へと移る。10時40分、北谷(ちゃたん)町北前のコンビニでビールとアイスバーで喉を潤す。国道の向こうはキャンプ瑞慶覧(ずけらん)に変わる。正午。嘉手納基地に到達。ここにも広大な飛行場があり、2月の「おきなわマラソン」時には基地内の一部がマラソンコースになる。私もヤンキーガールからキャンディーを手渡してもらったことがある。 12時10分、コンビニ前で大休止。冷やし中華、ソーメンチャンプルー、梅干を食べ、肝機能を高めるウッチン(ウコン)茶を飲む。軒下で裸で食事中、偶然にも目の前に宮城ナンバー車が止まる。運転手さんは宮城県大崎市出身で、奥さんが利府町出身とのこと。奥さんの両親が昨年から沖縄でダイビングスクールを経営しているのだが、彼も義父の仕事を手伝うために沖縄へやって来た由。こんな風に、沖縄の魅力に取り付かれて内地から移り住む人が結構多いのだ。 読谷(よみたん)村に入ると17年前とは様子が違う。通称「象の檻」と呼ばれた米軍の対中国電波傍受用の巨大なレーダーが無くなっている。それに補助飛行場が跡形も無く消え去っていた。13時30分、読谷村喜名のコンビニでアイスキャンディーを食べ、栄養ドリンクを飲む。ここを左折すれば残波岬と世界文化遺産の一つの座喜味城へ行ける。円形の城壁が美しい城だ。 恩納村への緩い登り坂が苦しくなり、ついに歩き出す。夕方が近いはずなのに太陽は容赦なく頭上から照りつける。だが今日のゴールは遥か先。ようやく下り坂になり恩納村へ入る。ここの海岸線は長く、かつ小さな岬が多いため景色の変化が激しい。沖縄本島でも随一の観光地だろうか。基地と並ぶ沖縄のシンボルである巨大なリゾートホテルが林立する浜辺は、ほとんどがプライベートビーチだ。幽かに本部半島が見え出す。
2008.07.25
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<熱い道にはサンピン茶が一番> 沖縄第2日目の朝食はホテルでしっかり摂った。これが今日一日の元気の源になるはず。食後、ロビーのパソコンで自分のブログを確認すると、新潟の銀のねこさんが書き込みをしてくれていた。第1日目の報告を書こうとキーボードにタッチしたが、どうやら「かな変換」にセットされているようで字を拾うのが大変。「沖縄」と打つだけで5分も掛かる始末。ローマ字で打つ手もあるが、ここは諦めるしかない。 今日のランニングに不要なものを入れたリュックサックをフロントに出し、宅急便で名護市のホテルまで今日中に着くように依頼する。少し心配な面もあるが信頼するほかない。2日目の服装は半袖Tシャツとランパンにした。帽子はひれ付きのもの。首には水を含んだパルプ製の布。これは首を冷やすためのもの。長い道中を考え、膝にはしっかりとテーピングを施す。もちろん紫外線防止用に日焼け止めも。 ウエストポーチにはアスリートソルト、ヴァームの粉末、塩の小袋、クエン酸入りの小袋、サングラスが入っている。そして腰には小さ目のタオルハンカチ。小型のリュックに入れた食料はピーナツ煎餅、醤油味の煎餅、一口羊羹、甘納豆。これらは自宅から持参した。ちんすこうと黒砂糖は前夜購入。沖縄の道を走るのには地元の食べ物も必要と考えてのこと。頭から被る水はペットボトルに2本用意。地図とボールペン、財布はチャックつきのケースに入れ、濡れないように工夫。 小型のリュックは別にあったが、長い間走ると背中が汗でびしょ濡れになるのが難点。そのため今回軽くて走り易いものを購入した。結果的にこれが大正解。とても快適に走れて助かった。やはり長い距離を走り歩く場合は装備が最大のポイントになると思う。 7時55分、第2日目のスタートだ。先ずは国際通りを北上。ここは戦争での壊滅的な被害から急速に復興し、奇跡の1マイルと呼ばれた街。那覇市で一番の繁華街でNAHAマラソンのコースにもなっている。安里交差点から左折し崇元寺前を通過。この寺は琉球王朝の霊廟で、美しいアーチ型の石門だけが辛うじて残っている。泊港から右折し、国道58号線へ。 米軍の管制下にあった時代、戦車が通れるよう片側3車線と広く堅固に造られたこの道。日本復帰時には苦労したようだ。本来国道は2つ以上の県にまたがるもの。ところが沖縄は島のため、他県とつなぐ道はない。そこで当時の大臣が地図を広げ、海の上に赤線を引いて「これが国道だ」と宣言したとか。沖縄初の国道誕生の逸話だ。また右側通行の米国式から左側通行の日本式への切り替えも大変だったようだ。 出来るだけ日陰になるよう右側の歩道を走る。那覇市を抜け浦添市へ。左手にキャンプキンザーが見え出す。最初の米軍基地だ。平成元年に赴任し、初めて参加したマラソンがこの基地内を走るハーフマラソン。だがスタートしてわずか300mで私は走るのを止めた。足に肉離れが起きたのだ。参加賞の英語のロゴ入りTシャツは、沖縄勤務時代の貴重な練習着になった。 浦添市屋富祖(やふそ)を通過。ここのスナックへは職場の仲間と訪れ、泡盛を飲んでは沖縄の歌を歌ったものだ。とても優しいママだった。左手に沖縄電力の高い煙突が見え出す。牧港の銀行前で最初の休憩。気温は既に30度を越え、走るのが苦しくなって来た。自販機でサンピン茶(ジャスミンティー)を買う。香りが良くて沖縄の風土に良く合ったこのお茶が私は大好きだ。結局この日は名護まで6本のサンピン茶を飲んだと思う。<続く>
2008.07.24
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