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中堅メーカーを舞台に起きたリコール隠しをテーマにした映画であるが、テンポがよく、面白い映画である。そしてなによりも俳優がうまい。ただこれは設定としていつ頃を想定しているのだろうか。まず会社の主要部分に女性が全くと言いほど見当たらない。重要な役どころの女性社員も役職はなさそうだし、名目上は「寿退社」という設定になっているが、いまどき女性の正社員で寿退社という人がどのくらいいるのだろうか。なにか会社そのものが一時代前の会社という感じがする。そして物語の終盤で監督官庁の調査が入るのだが、官庁が「正義の味方」のように描かれているのも違和感がある。今日では民間企業はともかくとして、官庁の信頼も大きく揺らいでいるように見える。ありていにいえば、組織のために不都合な情報を隠すのには民間も官庁も変わりないのではないか。企業を中心とした群像劇であるが、しいて主人公をあげれば内部告発をした社員かもしれない。映画の最後の彼の独白が聴かせどころである。組織のために不正を行うということは日本人のDNAに組み込まれていて、だから不正は絶対になくならないという。社会的動物としての人間には、多かれ少なかれそれはあるのだろうけど、稲作共同体で生きてきた日本人には特にそれが強いのかもしれない。日本では昔から、集団からの離脱は多くの場合、「死」にも等しい苦難を意味してきた。農民にとっては村八分、武士にとっては脱藩がそれである。今でも「蚊帳の外になる」、「とりのこされる」、「バスに乗り遅れる」といった善悪や利害得失の不確かな判断基準で物事を決めようとするのもその名残かもしれない。とにかく「皆と一緒なら安心」で「出る杭」にはなりたくないのだ。お暇ならどうぞ…という以上のお薦めの映画である。
2019年02月28日
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養護施設の施設長がその施設出身の青年に殺害されたという。報道される限りでは施設にも施設長にも特に問題はなかったようで、これは昨今頻発している無職中年の「親殺し」と似たような事件なのではという印象を持つ。家庭と違い嫌でも自立しなければならなった施設出身だったから、無職中年が「働け」と注意した親を殺害するような事件を20代初めで起こしたのだろう。施設長に問題があったのではなく、施設長や施設が犯人にとって唯一の絆であり唯一甘えられる相手だったからそこに矛先をむけたように思う。逆に言えば短時間勤めた職場、大家、それにおそらく交流のないであろう実親とはそこまでの関係をもてなかったわけである。いずれにしても犯人の成育歴なども気になるところである。これから先は想像であるが、犯人が施設出身でなくとも、こうした事件を起こしたように思う。サイコパスといわれるようなのが典型であるが、社会への適応力を欠くような人間というのは、どうしても一定比率で生まれてくる。やりきれなく、どうしようもない事件だと思うだけに、熱心に養育に取り組んでいたという施設長のご冥福を祈りたい。
2019年02月27日
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小学校の頃、学校で習う歌にはけっこう文語体のものがあった。冬景色の「さぎりきゆるみなとえの」で始まる歌詞は何のことだかよくわからなかったが、先生も特に説明はしなかった。それでもそんなものだと思って歌っていたように思う。「げにしろたえののどけしや」なんて歌詞どうみても小学生には意味不明である。けれどもそうした文語体の歌詞がよくなかったかといえばそうでもない。文語体といえども日本語で、荘重な響きだけはなんとなく伝わる。文語体の歌であったが「星の界」という歌が好きであった。もともとは讃美歌だった曲に杉谷代水という人が歌詞をつけたもので、合唱もよいのだが、ハーモニカの合奏にも合っていた。底知れぬ宇宙の広さとその広い宇宙に希望をみて、その神秘に挑戦していこうと意思を歌ったもので、人間は小さな存在だけれども、その小さな人間が宇宙のことを考えることができる。まあ、小学生の頃に、そんなことを考えていたとは思えないのだが、この歌を思い出すたびに、いつしかそんなようなことを思うようになったということだろう。それにしても、この歌詞は言葉が難しい。そもそも「無窮の遠(おち)」だの「究理の船」なんていう言葉はここにしかでてこないように思う。さすがに窮理を胡瓜とは思わなかったが、「究理の船」はいくらなんでも小学生には理解不能だろう。この歌には「星の世界」という別の歌詞もあり、こちらの方がやや口語的である。「星の界」の方は宇宙の神秘に立ち向かっていく人間の意思のようなものが歌われているのに対し、「星の世界」はもっと受動的に宇宙の神秘に感動する気持ちが描かれている。「星の界」の歌詞のような文語的な荘重さはないが、「きらめく光は玉か黄金か 宇宙の広さをしみじみ思う」という歌詞はすっと心に入ってくるようで、こちらの歌詞もまたよい。なおカーク船長さんのブログにもこの歌に関する記事がある。https://plaza.rakuten.co.jp/kirkhanawa/diary/201902230000/
2019年02月26日
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中東に観光旅行に行ってきた友人から土産話を聞いた。砂漠や高層ビルの写真もよかったが、印象的だったのは以下のような話である。おりしも春節の時期だったことでもあり、中国人観光客が大挙おしかけてきて、大変な賑わいだったという。そうした顧客をみこんで、空港の土産物コーナーには大きな春節用の飾りまであったという。最近では日本の観光地も賑わっているところは外国人をひきつけているところで、中でも中国人観光客は多い。こうした現象は日本だけではなく、世界中に及んでいるというわけである。あのバブルの頃に世界中どこに行っても日本人観光客がいて、世界中どこに行っても日本語で話しかけられたなどといっても、もはや「今は昔」なのかもしれない。友人の話では日本人の観光客は自分たち以外にはほとんどいなかったといっていた。たしかに、「若者の海外旅行離れ」なんて言葉もあるくらいなので、特に、日本人の若者の観光客は少なくなっているのかもしれない。そういえば、世界中に日本人観光客が闊歩していたような時代には、日本製品もまた世界中にあふれていた。でも、友人の話によると、ホテルの電気製品も韓国製のものが多く、日本製のものはみかけなかったという。そういえばあの頃に、世界を席捲した日本製品は時計、電卓、携帯用ゲーム、カメラなどだったが、そうしたものの機能の多くはスマホに代替されており、そのスマホでは日本製はほとんどみかけない。
2019年02月22日
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ソドムとゴモラは旧約聖書に出てくる悪徳に染まり神によって滅ぼされた都市の名であるが、作者はソドムに男性同性愛、ゴモラに女性同性愛の意味を込めている。したがって、この巻は、男性同性愛については、社交界の大立者の大貴族が美青年を求めて遍歴する物語、女性同性愛については、主人公「私」が恋人の同性愛を疑い嫉妬しそれが飽きかけていた恋情を再燃させる物語を重ねる構造になっている。そしてこうした物語の半ばで「私」の祖母の闘病と死の挿話が語られる。これは世界で初めてのLGBT文学という人もいるらしいのだが、LGBT自体はそれほど目新しいものではない。異性愛同様、これも人間の性(「私」が述べているように意外に多くの人々の性)である以上、昔からそうしたものも描かれている。有名な東海道中膝栗毛の弥次喜多の二人はそういう仲でもあるし、源氏物語にも光源氏が小君(12歳くらいの上品な少年)と同衾してなでなでする描写がある。異性には全く関心がない同性愛は少なくても、異性も同性もというのは相当にあって、稚児がそうした対象になっていたという話も読んだことがあるような…。読み方にもよるのだろうが、これは同性愛をテーマとしているというよりも、この巻での主人公の大貴族は自分の同性愛には誰も気づいていないと思っているにもかかわらず、実は誰もが知っており、そこから生じる波紋が読みどころになっているように思う。こうした同性愛に対する違和感は「私」の視点から延々と語られるが、実は作者自身は同性愛者であったという。「私」を主人公とする小説の多くは私小説であり、「私」と作者はほぼイコールなのであるが、ここでは、「私」というのは、むしろ作者自身から距離を置き、外からの視点を提供するフィルターのようなものではないかと思う。前巻でもふれたが、本巻でも、諧謔的に描かれているものの教養溢れる社交界人士と愚かな庶民の対比が目立つ。もちろん「私」は前者の世界に属し、背伸びしながら基本的な教養にかける庶民(御者、従僕の息子、ホテル支配人、エレベーターボーイ、女中)を皮肉な目で見つめている。
2019年02月21日
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万葉集に真間の手児奈の歌がある。山部赤人と高橋虫麻呂の両方があるのだが、印象的なのは、高橋虫麻呂の方だ。質素な麻の衣を着て、髪もとかさず、裸足でいても、錦綾で着飾った令嬢もその美しさには及ばないとしたうえで、「望月の足れる面わに花のごと笑みて立てれば」夏虫が火にいるように人々が求婚したという。一説には手児奈は国造の娘で嫁ぎ先の国と自国とが争いになったため子供を連れて戻りひっそりと暮らしていたという話もあるようなのだが、個人的には、虫麻呂の歌のイメージどおり人目をひくほどに美しい庶民の娘であると思いたい。万葉の時代に手児奈はすでに伝説になっていたが、そのとき既に水を汲んだ井戸の跡というものもあったという。手ずから水を汲んだのであれば、やはり庶民の娘だったのだろう。その手児奈には自分のために人々が争うのをみて世をはかなんで入水したという。若く美しい娘なのになんて厭世的な…と思うのは後世の感覚で、強力な父親といった後ろ盾をもたない娘だったらどうなのだろうか。多くの男にとって「手の届く娘」であり、だからこそ求婚者の間に争いが起こったのではないか。そうした争いで愛する人が殺害されたのか、いや、それとも愛する人が殺人者になったのか。どちらにしても手児奈は殺人の原因となった運命を悲しんだであろう。それに葛飾の真間の近くには国府があり、それは今も国府台という地名に残っている。国府には権力や武力をもった男がいて、そうした人々もまた際立った美貌をもつ庶民の娘を狙ったのであろう。ごくまれにはシンデレラストーリーもあったかもしれないが、多くはそうではなく、庶民の娘にとって美貌は決して幸福だけをもたらすわけではなかったのだろう。手児奈を祀る手児奈堂は今もある。変遷を経て、今では日蓮宗の寺院となっているが、お守り等には手児奈の絵が描いてあり、目のくりっとしたタイプの美女になっている。日本人の風貌には縄文系と弥生系とがあるといわれるが、東国の庶民の娘の手児奈は、やはり縄文系の目の大きな彫りの深いタイプの美人だったのではないか。京成の市川真間の駅から住宅街を歩いてゆくと真間川という小さな川がある。その橋を渡り、川に沿ってしばらく歩くと、手児奈通りという商店街があり、さらにすすむと、ひっそりとした一角…それが手児奈堂だ。小さいながらも寺院で住職もいるのだが、想像していたような万葉の歌碑があるわけでもなければ、手児奈の銅像があるわけでもない。けれどもこの方がかえって万葉の伝説の美女にはふさわしいように思う。
2019年02月20日
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都道府県魅力度ランキングで茨城県が最下位という結果がでたという。この魅力度なるもの自体誰がどうやって調べたのかわからないし、住む魅力なのか観光地としての魅力なのかも不明である。おそらく後者なのだろう。だとしたら理由はおおよそ推測ができる。有名な温泉がないからではないか。東京在住なので神奈川や千葉、埼玉はいつでも行けるという印象がある。これに対して茨城はちょっと足をのばさなければならない。けれどもけっこう気に入っている場所があって、茨城県が魅力ないとは思わない。この間、茨城を訪れ、つくば市、筑波山、常陸国出雲大社、水戸偕楽園、涸沼を見た。つくば市は研究学園都市で一般人も見学できる施設も多いし、そのほとんど(全部?)が入場無料なのもうれしい。訪れる人の少ない日なら常駐の方の丁寧な説明が聴ける。常陸国出雲大社はすでに書いたが、筑波山も何度訪れてもよい。男体山、女体山の二つの峰をもつ特徴的な山容だが、両方ともすぐに山頂に着けるし、特に女体山はロープウェイが通じている。平野の中の山なので展望、そして夜には夜景が楽しめる。その昔、山の神が息子の山たちを訪ねた。富士山は冷たかったが筑波山は歓待したという。だから富士山は頂上が氷におおわれ誰も行かないのに対して。筑波山には今でも大勢の人が訪れるのだという。常陸国風土記の中の話であるが古代からいかに筑波山が親しまれているかがわかる。偕楽園は有名でいまさら書くこともないが、帰りは霞ケ浦の夕陽をみるつもりだったが、時間の関係で涸沼での夕陽となった。筑波山の横に真紅の夕陽が沈んでいくのは忘れられない光景である。今回は行かなかったが、霞ケ浦もよい。湖といえば琵琶湖を連想することも多いが、霞ケ浦の茫洋とした湖面の光景も捨てがたい。昔は霞ケ浦にも遊覧船が浮かんでいたという。
2019年02月19日
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茨城県筑波山から遠からぬところに常陸国出雲大社という神社がある。本家の出雲大社そっくりの太いしめ縄がまず目を引く。参拝の方式ももちろん出雲大社と同じ4拍手だ。けれどもこの神社は創建は新しく平成に入ってからであり、おまけに本家の出雲大社は認めていないのだという。山腹にある神社の空気は清浄で、特に祭りの日でもないのに、けっこう参拝の人々でにぎわっていた。普通神社には霊園はおかないものなのだが、神社の先にはペット霊園や樹木葬の墓地もあり、そのお参りがてら神社によるという人も多いのだろうか。樹木葬やペット霊園が神社に関係あるかどうかはわからないが、いずれも今後需要が増えそうな分野である。子供や孫のいない人が増えれば無縁になるのが目に見える墓地よりも樹木葬の方がよいと思うだろうし、一人暮らしでペットが唯一の家族と言う人も増えているだろうから。そして神社の入口にはしゃれたガラス細工の店やレストランもあり、こちらもはやっている様子である。参道途中には見晴らし台もあり、筑波山はみえないが、なかなかの眺望である。空はかすんでいてすでに冬の空とは違う。思えば神社というのは、なにかの機会に創建して、お参りの人が集まるようになって神社になるのだろう。稲荷や八幡の神社は全国無数にあるが、全部が全部、稲荷や八幡の大きな神社から分霊の許可をうけているというわけではないだろう。そういう意味で常陸国出雲大社は平成時代に入ってからできたとはいえ、すでに立派な神社になっているように思う。靖国神社は明治2年であるし、明治神宮はもっと新しい。神社も古いものばかりではない。
2019年02月18日
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韓国ドラマ「未生」を視終わった。出生の秘密、事故、難病、記憶喪失、財閥の御曹司、孤児院育ち、先の読めない展開。そうしたもののないドラマである。俳優もあえて他のドラマにでていない人を使ったという。主人公がやたらイケメン(ただ受け口ぎみの唇が難で最初はどうしても唇に目がいってしまう?)である以外は、どこにでもいそうな風貌の登場人物がかえって職場生活のリアルさを感じさせる。それでもよく考えると、めちゃ優秀な女子社員の父がどうしようもない父だったり、とんでもなく身勝手な上司がでてきたりして、さすがにこれはないだろう。職場は戦場、職場の外は地獄というくらいに厳しい世の中なのだが、そんな世の中に生きる人々への応援歌のような作品で、視聴した後はすがすがしい。こんなドラマ、職業生活、会社人生での悩みの真っただ中の頃に見ていればよかったと思う。職業人生には出会いのチャンス、成長のチャンスがいくらでもある。そうしたものを自分はいくつも見逃してきたのかもしれないなと、少し後悔をする。韓国ではこのドラマの原作となった漫画は「サラリーマンのバイブル」といわれているそうである。あと出番は少ないが専務が印象的だった。重役としてのオーラや存在感が際立ち、善人か悪人かわからず、最後までドラマをひっぱっていったように思う。一度見たのちも、もう一度見返したくなる。そんなドラマである。
2019年02月17日
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だいぶ前になるが、熊本に行く用事があり、たまたま時間の余裕があったので、熊本盲学校に行ってみたことがあった。言わずと知れた松本知鶴夫、つまり麻原彰晃として世に知られるようになった人物の母校である。彼が成人するまでの多くの時間を過ごした学校はどんなところか見たくなったのである。それは熊本の繁華街から離れた畑の中にあった。生徒たちが付近を出歩くこともあまりないせいか、周辺には店もない。こうした場所で、半盲の生徒が全盲の生徒に交じっていたらどうだろうか。麻原はそういう状況で人格形成期を過ごしたわけなのであるが、きっと世の中から隔離され、監禁されているという感覚をもっていたのではないだろうか。その一方でテレビなどを通じて外の情報はどんどん入ってくる。おりしも時代は高度成長期で世の中全体はいけいけどんどんで右肩上がりで発展していった頃だ。そうした華やかな情報を横目でみながら、いつかは世の中を見返してやる、無視してきた連中に思い知らせてやる…そんな憎悪の黒い炎を燃え上がらせていたとしても不思議ではない。麻原のような人間はあまりにも特異なのかもしれないが、世の中から遠ざけられている、あるいは世の中から隔離されているといった感覚をもったのは彼一人ではなかったのではないか。そういえば惨劇のあった重度障碍者施設も相模原の山の中にあった。事件後、施設が地域と交流があったことが協調されていたが、あんな山と畑しかないようなところで、それはないだろうと思った。事件により何人もの犠牲者がでたが、新聞に掲載された性別と年齢だけの記事をみて、多くの人は異様な感じをいだいたのではないか。児童相談所や児童養護施設を作ろうとすると地域からの反対運動が起きることがよくあるという。そうした反対運動のニュースは施設で暮らす子供たちの目や耳にもふれるだろう。そうした報道を通じて、施設の子供たちが自分たちは社会から遠ざけられている、疎外されているという感覚をもたなければよいと思う。
2019年02月16日
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NHKが総合ニュースのかなりの時間を使ってある水泳選手の病気について報道していた。最近のNHKはワイドショー化が酷すぎる。有名スポーツ選手だって競技を離れれば一私人だし、もうすこしそっとしておくべきではないのだろうか。なにか最近では重要なことは報道されないことにこそあるのではないかとさえ思う。民放とは違って強制的に受信料をとっているのに、誰がどんなメシを食べているとかといったどうでもよい番組が多すぎる。そしてその一方で、社会問題に鋭く切り込み、ワーキングプア、ネットカフェ難民、無縁社会などの語を普及させた番組は削られていくようだし…。それはともかくとして、テレビと言うのはその時には気が付かなくても、後で思い返すと、けっこうその時代の世相を反映しているものが多い。子供の頃、面白いと思ってみた番組も、わずかな記憶でネットで検索することができる。本当にありがたい時代になったものである。昔、テレビで宝塚劇場というのがあって、けっこう楽しみでみていた。そこでの物語の一つに「虹を追って」というのがあった。レインボニアというヨーロッパの小さな王国にトランジスタラジオを売りに日本人青年がやってくる。姫は青年に一目ぼれをし、たちまち二人は恋仲に…。ところが王国にウランの大鉱脈が発見され、米国とソ連のエージェントがウラン目当てに姫に接近しようとするというコメディ。これもレインボニアで検索するとでてきて、しかもビデオ化もされているので、何回かリメイクされているのかもしれない。トランジスタを売りに来た日本人なんて言っても、今の人はわからないだろうな。たしかにひところはトランジスタが主力製品だったし、米国とソ連の冷戦すら歴史の一コマになっている。あのころは米ソ対立なんか永久に続くと思っていたのに。そして日本人青年の名前が権次郎なんて…ダサい。ダサすぎる。今のテレビニュースなども、何十年もたつと、この頃は総合ニュースでもまともな報道はなかったんだな、マスコミは何をやっていたんだろうなと思うようになるのかもしれない。
2019年02月14日
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中学時代のクラスの同窓会の案内が来た。懐かしい名前をみながら思いだす。思えばいろいろな家庭の子がいた。小学校の頃はクラスの半数くらいは農家の子だった。それが都市化とともに、毎月のように転校生がやってきて、卒業の頃にはクラスもまるまる増設されていた。その頃転向してきた子の中には炭鉱離職者の子もいたし、転校生ではなかったのだが、近くの引揚者住宅の子もいた。思えば、子供の世界にもそうした戦後史の反映があったのだ。全くの田舎というわけでもなかったので、クラスには中学受験組もいたし、越境組もいた。自分の場合には、成績がよくもなかったので、当然のように地元中学に進んだ。中学でも転校してくる子がいたが、その頃になると、社宅官舎暮らしをやめて一戸建てを購入したという家の子が多かったように思う。子供の噂などあてにならないのだが、クラスには、相当の金持ちの家の子もいる反面、生活保護受給者の家の子もいた。公立中学とはそうしたものだった。実はそうしたものこそ公立中学のよい点だと思う。偏見や幻想は実態を知らないところから生まれる。実態を知らないと間接情報だけでそういうものかと思ってしまう。金持ちの子が威張る、貧乏な子が貧乏ゆえに虐められる…経験した範囲ではそんなことはなかった。スポーツができるかどうか、勉強ができるかどうか、いいやつかどうか、面白いかどうか、子供の間の価値基準はいつの時代もそんなところである。貧しい家庭で勉強のできる子もいれば、その逆という子もいる。親がしている生活の苦労と子供の人格にも全く関係がない。ときどき世間には深窓の令嬢があれっと思う男性に熱を上げる例があるという。これなどは、世間を知らずに育った人ほど「貧しい家庭で苦労してきた」人に対して、実態以上に立派だとか偉いだとかいう幻想を抱いてしまうのではないのだろうか。
2019年02月13日
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最近では養護にかける子供について施設よりも家庭での育児が望ましいという議論が多い。なにか施設自体が悪いような論調もあるが、離別や子連れ再婚が増え、その一方で、祖父母などの親族間ネットワークが希薄になっている現状では、やはり居場所のない子供の受け皿としての施設の役割は大きいように思う。施設よりも家庭での育児が望ましいという意見の中には里親や養子縁組(特別養子縁組)を薦める人も多い。養子縁組はさておくとして、里親による養育が施設よりも本当によいものかという点については疑問をもつ。「里親家庭を家とよばないで」というサイトがある。これは施設で育ったものの立場から里親制度を批判したものであり、最初はどうしてこんなに里親に対して悪意のある見方ができるのかと不快に感じた。里親は善意の人であり(事実多くはそうであろう)、里親家庭での養育は施設よりも恵まれているに違いないと思ったからである。https://gladiolus2009.wordpress.com/けれども、それはあくまでも里親の側の見方であって、子供の側からはどうであろうか。里親による虐待は論外としても、善意あふれる優しい里親であっても、子供にとってそれが「幸福な環境」であるだけに、子供はいつそれが消えてしまうのではないかと言う不安にさいなまれるのではないか。施設であれば一定年齢までは確実にそこにいることができるが、里親であれば、いつこの関係が消えるかわからない。里親事業を否定するのではないが、一方で、施設にいる子供達の養育環境の充実と言う面も考慮すべきであろう。そうした意味で、こうした施設ができると、周辺の住民が反対するというのは嘆かわしい。子供たちにとっては必要なのは社会からの隔離ではなく、社会の中で育つことである。「両親がそろって様々な習い事をしている子供も多い。あまりにも幸せな子供をみて、施設の子供が辛い思いをするのでは…」という心配をする声もあるというが、そんなことはない。裕福な家庭で習い事に通うのが「あまりにも幸せ」というが、子供の世界はまた別である。そして子供は様々な家庭環境の子供とつきあって世の中を学ぶ。施設の子供にしても、両親のそろった家庭の友人を通じて、親子関係も様々であることを学ぶだろうし、もし裕福な家庭の友人をうらやましく思うことがあれば、それが社会的成功へのインセンティブになるかもしれない。里親になるほどの善意の人にはなれなくとも、周辺に児童養護施設が建設されるとしても、それに反対しないくらいの心の広さはもちたいものである。児童相談所のできることに反対運動が起きているという某地域にしても、決して反対している住民ばかりではないと思う。
2019年02月12日
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児童虐待の事件について再び書く。ちょっと迷ったのは、野田市の事件に限ってみれば報道は騒ぎすぎだと思うからである。ネット情報なので真偽のほどはわからないが、某政治家などは子供の頃、お前は頭が悪い…と父親から辞書で頭を叩かれていたなんてことが書いてあったし、まあ、世の中にはそうしたことも往々にしてあるだろう。ただ叩いてもなにしても、基本は親は子供のためを思うからこそであって、寝ているところを起こして思い切り叩いたという野田市の事件は異様である。けれども、これも、父親にも事情があったかもしれないし、外での鬱憤を身近な弱い人間に向ける弱い人間は世の中には多い。犯罪の中では厳罰が抑止に効果をあげるものもあるが、そうでないものもある。家庭内の虐待は後者であろう。児童相談所や学校が批判されているが、これは「いじめ」とよばれる小中学生による暴行恐喝事件が起きるたびに学校が非難される構図とよく似ている。人間の行動がある一線をこえたときに、それに対処する機関は警察しかないのではないか。もし、異変を察した学校が児童相談所と共に、警察とも連携をとり、警察がのりだしていたら、異様な虐待の実態が明らかになり、子供の生命は救えたのではないか。
2019年02月11日
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韓国ドラマ「未生」にはいくつか印象深い場面がある。というよりも、このドラマ自体、波乱万丈で先の読めない展開を楽しむというよりも、そうした個々の小さなエピソードや台詞に真価があるように思う。会社を去った元同僚が連絡をとってくる話の続きである。会社を去り、退職金と貯金でフランチャイズのピザ屋を経営したが、うまくいかず閉店してしまう。せっぱつまって昔の仲間を訪れてくる。今では次長に昇進している元同僚と酒を飲みながら「会社は戦場だが、会社の外は地獄だった」という言葉がせつない。やがて次長は再び元同僚に会う。酒に酔っている姿をみながら「そんな姿を子供にみせられるか。酔うな。酔うと機会を失う。」と言い、元上司の連絡先を手渡す。元同僚を会社から追い出した上司だが、今では会社をおこして専門家を探しているのだという。それが次長が元同僚に対してできる最大限のことであった。「恨んではいないさ。追い出すものもいれば追い出されるものもいる。それが会社だ」日本でもそうなのだが、会社を辞め、独立したものの失敗した例など山ほどあるだろう。フランチャイズが大変なのはコンビニやピザ屋がしょっちゅうできたりつぶれたりするのをみてもよくわかる。ドラマの舞台になっているのは総合商社で、主人公を除けば、英語はできてあたりまえ、それ以外に同期三人をみても、それぞれロシア語、ドイツ語、中国語を駆使する。そして案件を通すためには、その業態や相手国の政情、相手会社の状況について、ものすごい量の情報の蓄積をする。そうした能力や蓄積があってこその、人的ネットワークなのだが、それでも、会社を離れると「地獄」というほどの厳しさである。高卒でコネ入社の主人公は契約社員で同期の三人とは立場が違う。契約期間の終了は間近になってくるのだが、さて、どうなるのだろうか。努力に努力を重ね、上司からは「うちの奴」(ウリエ)と呼ばれ、同期とも友情を結ぶようになったのであるが。
2019年02月10日
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今年の流行語候補、ついに出た。それは森羅万象。私は森羅万象を所管するって…それってなんか凄すぎる。それとも森羅万象の定義についての閣議決定をするとか。韓国ドラマの「未生」にはほろ苦いエピソードもでてくる。会社を辞めて退職金と借金をつぎこみ起業したが失敗した元同僚が訪ねてくる話だ。職場は戦場だが職場の外は地獄だという言葉もでてくる。それまでは主人公を中心に同期の絆や課内の結束が明るく描かれていたのだが。そういえば主人公も契約社員ということで2年経過したら辞めることが既定路線になっている。そのあたり、韓国もやはり厳しい社会のようだ。
2019年02月08日
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お伽話を一つ…御姫様が毎日鏡を見てこんなことを聞いていました。「世界で一番きれいなのはだあれ?」「それはあなたです。」鏡はいつもこう答えました。御姫様のご機嫌をそこねると割られてしまうと恐れたのです。けれども、そこに風がやってきて御姫様にささやきました。「鏡は嘘をついてます。あんな鏡は嘘つきです。」御姫様は鏡を責めました。「酷いわ酷いわ。嘘つくなんて。本当の姿を見せてちょうだい?」鏡は仕方なく御姫様の本当の姿を映しました。何年もの間にかつての美しさは衰えていました。「嘘つき。あんたは嘘つきよ」御姫様は鏡を詰りましたが、風は歌って通り過ぎました。美しかった御姫様、今では美貌も下り坂…問題なのはそこじゃない?鏡を責めてどうするの?
2019年02月07日
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少年の一夏の体験と彼には想像もできない人生の難問。真夏の方程式とはなんてうまいタイトルだと思う。殺人事件が起きて探偵役が登場する。そこまでは普通の推理ドラマと同じだ。そして探偵、ご存知のガリレオであるが、彼が究明していく真実は一つだけ。ただその真実を究明してその後どうするのが正解なのか…これは人によって答えが違うだろう。そして思う。現実の世の中にも、冤罪とは別に、真実と違う形で処理されている事件というものがいくつもあるのではないかと。まあ、ネタバレにならないように、映画からは離れるとして、昔見た弁護士を主人公にした漫画をふと思い出した。父親の家庭内暴力に苦しむ母子がいた。ある日、酷い暴力に耐えかねて中学生の息子は父を窓から突き落として殺害してしまう。母は息子の罪をかぶって自首し、裁判が進んでいくのだが、家にやってきた弁護士に息子は真実を告白する。すると弁護士は言う。この畳の上であなたの裁判はすんでいる、あなたが今やるべきことは勉強をしてきちんと高校に進むことであり、それこそが母親が望んでいることだと。舞台になっているのは陽光が水晶の破片のようにきらめくので「玻璃が浦」と名付けられたという架空の海辺なのだが、撮影はほとんどが西伊豆で行われたという。海岸洞窟の向こうに海を臨む竜宮窟をはじめ、海辺の光景も印象的な映画である。
2019年02月06日
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またもや児童虐待死事件が世間の関心を集めている。継父が連れ子を虐待したのではなく、今回は実父による虐待なのだが、もしかしたら殺害した女児については「自分の子ではない」という感覚があったのかもしれない。昔は実家に事情があると、祖父母に育てられる子供と言うのもいたが、今はそうした親族の受け皿も細っているので、核家族の中で声をたてられないでいる被虐待児というのは案外多いのかもしれない。児童福祉課など役所の対応も批判されているが、職業的なかかわりにはどうしても限界がある。それよりも、児童福祉施設の門戸をもっと広くしてはどうだろうかと思う。無責任な親を助長するとか、そうした親のために税金が使われるのがけしからんという批判はもちろんあるだろう。けれども、子供の生命にはかえられないし、別の見方をすれば、子供を邪魔ものとした認識できない親に育児が押し付けられている状況が、まさに虐待の温床になっているのではないだろうか。この施設育児については、望ましくないとか、施設育児の比率が高いのは日本だけと言った議論がある。本当にそうだろうか。施設よりも里親育児がよいというのは、もしかしたら偏った思い込みかもしれない。「子供に家庭と言うものを体験させてあげよう」という里親は多くは善意の人かもしれない。けれども子供にとっては、慣れない家庭に入り、しかもその家庭はいつ消えてしまうかもしれない、いつまた施設に戻るかもしれない…となると、非常に不安を感じる環境かもしれない。実際に施設に戻った子供の中には「僕は悪い子だから戻ったの」と思う子もいるという。あたりまえだが、実の親の代わりになることは誰にもできないし、実の子の代わりになることも同様である。少なくとも、実の親に虐待されるくらいなら、安定した施設の暮らしの方がずっとよい。そしてそうした施設の児童も地域社会の構成員という形で近隣住民が受け入れていけばよいのに…と思う。
2019年02月04日
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コンビニのコーヒーで100円のブレンドを注文しながら150円のラテを注いだという容疑で60代の男が逮捕されたという。これを読んで感想は人それぞれなのだろうけど、「こんなんで逮捕されるのか」というのが率直な感想である。セブンイレブンのコーヒーはよく買うのだが、ブレンドとラテで値段が違う。客はレジでカップだけを購入し、どちらのボタンを押すかはレジからは見えないようになっている。レギュラーサイズのカップを買ってラージサイズを注げば溢れてしまうが、ブレンドのカップでラテを購入しても見えないしわからない。これをやっている人は他にもいることだろう。あ、自分は好みがブレンドなのでやったことはないのだが、レジから見えず、客にボタンを押させる構造自体がこうした出来心を誘発すると言っても過言ではない。よく道路沿いに農産物を積み、代金を箱に入れるようになっている無人スタンドがあるが、あれも、何人かの人はお金を入れないで持っていくだろう?のと似たような話である。「事件」の詳細を読むと、何日か前に似たような被害があり、私服でコンビニオーナーが見張っていたところ、100円のコーヒーカップを買った男が150円のラテを注いだのを見てとりおさえ、警察に突き出したという。私人でも現行犯の場合は逮捕権があるし、50円分の窃盗と言えないことはない。けれども、これで警察が逮捕し、男の実名が全国に報道されるとなると、やはり変な感じがする。一罰百戒という考え方もわからんではないが、逮捕され実名が報道される影響はあまりにも大きい。似たような犯罪にキセル乗車がある。今の自動改札ではキセルはしにくいのだが、このキセル乗車でも逮捕され、実名報道される例がある。けれども、これは、子細にみると定期券などで長期間やっている場合にかぎっているようだ。これと比較してもラテ窃盗の男の実名を公表した扱いには疑問が残る。もちろんこの男が長期間にわたってこうしたことを繰り返していたというのなら事情は異なるのだが。※それにしてもよく行くセブンイレブン。砂糖は使わないが、ミルクは好きなので二個、三個と入れることがある。これなんか、持って帰って後で入れるつもりで、ミルクを五個ほどポケットに入れたら、私服のオーナーがやってきて…なんてことがあるのかな。なんか怖いなあ。
2019年02月03日
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東京オリンピックの時、先生に引率されてマラソンを見に行った。ちょうどコースになっていた甲州街道が学校から歩いて行ける距離にあったのだった。先頭を走っていた黒人選手が圧倒的一位でしばらく遅れて二位以下の一団が過ぎていった。先頭の選手の緑のシャツと赤いトランクスが印象に残ったのだが、それがアベベ選手だった。アベベ選手については裸足の英雄ということがさんざん言われたのだが、実際に観たアベベ選手の裸足は記憶にない。調べてみたら、やはり東京オリンピックでは靴を履いていたらしい。競技場に入ってからの英国選手と日本選手とのデッドヒートは教室のテレビで見たように思う。この場面はその後も何度もテレビで放映されたように思う。オリンピックが終わってしばらくして、図工の時間にオリンピックの絵を描くという課題がでた。あまり競技を観てなかったのだが、やはり女子体操のチャスラフスカ選手が一番印象的だったので、体操競技の絵を描いた。興に乗っていろいろ描いているうち、男子選手の平行棒まで描いたのは失敗だった。鉄棒に足をかけてぶらさがるウルトラCごっこや、教室の椅子をバーベルにみたてた重量挙げごっこが流行り、そんな遊びをしなくなった頃、子供の間のオリンピックブームも終わった。そして大人たちは次第に不景気を口にするようになり、「今はフケーキだからねえ」と子供も大人の口真似をした。そしてこれもオリンピックに関係あると思うのだが、女子の間でバレーボールが大人気になり、漫画雑誌にはバレーボール漫画が連載されるようになった。最後に、東京五輪の記録映画は学校の集会でよく上映され、小学校から中学校までの間に、少なくとも3回か4回は見たように思う。もう飽きたと思うほど。
2019年02月02日
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以前も書いたと思うのだが、韓国のインターネットで「ミネルヴァ」という論客が活躍したことがあった。経済についての的確なコメントで多くの読者を獲得し、「経済大統領」という異名までつくほどだった。留学して経済学を学んだこともある元ビジネスマン。そんな自己紹介の経歴を疑う人はあまりいなかった。けれどもその実態は30代のひきこもり青年で経済学についてのとりたてての学歴もなかった。これほど極端ではなくとも、ネット上のイメージと実像はあくまでも別である。言い方を変えればネット上ではたやすく別人になれるのかもしれない。女子大生がネットの掲示板で「知り合った」男性に殺害されるという事件が起こった。想像するに女子大生がネット掲示板の向こうに見たイメージと実在の中年男とはかなり違ったのではないか。事件の詳細はわからないのだが、ネット上のやりとりで「気の合う人」だと思い、好奇心も働いて実際に会ってみてもよいと思うようになる。最初はおそらくにぎやかな駅周辺や繁華街などに呼び出したのではないか。その後、どんな手口を使ったのかは不明だが、特に若い女性はネットでの見ず知らずの出会いには慎重になるべきだろう。被害者の父親は「溺愛していた」と言っていたが、愛されて育っただけに他人に対する警戒心をみにつける機会がなかったのかもしれない。
2019年02月01日
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韓国ドラマ「未生」には三者三様の同期新入社員が登場する。英語ロシア語のできる女子社員、みるからに秀才エリートという雰囲気の社員。そして人当たりのよく如才ない感じの社員だ。秀才君は最初からお客様扱いで仕事の流れにのれず、転職を考え始める。「いったい私の何が気に入らないのですか」と上司に詰め寄ると、上司は「君を嫌いほど君のことを知っているわけではない。ただ訓練ができていないと思うからだ」と答える。やがて秀才君は自分の資料の作り方の不十分な点に気づき始め、次第に仕事を任されるようになる。職場は学校と違い、基本的に教わるよりも、周囲を見て仕事の方法を身に着けていくものだ。そしてその「気づき」が重要である。そのあたり学校秀才は自己を過信して気づきに遅れることが多い。女子社員は能力を妬まれ、酷いパワハラをうける。ただ、雑用もひきうけ、必死に仕事をしているうちに、頑張りと熱意が認められて、企画に参画するようになる。一方、最初は何の問題もなく、上司とも円滑に意思疎通でき、廊下トンビで情報通となっていった新入社員は気が付くとオーバーワークぎみでちょっと心配な状況である。一方で主人公、上司からも全く期待されていなかったが、あるとき、上司の「うちの奴」という言葉に感激する。幼いころから囲碁棋士の養成塾に通い、集団作業の経験のなかった彼はそんなことを言われたことがなかったのだ。こんな新入社員のありそうなエピソードを見ていると、自分の新入社員時代を思い出す。なんといっても初給料の感激が一番大きかったなあ。
2019年02月01日
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