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2021.03.11
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カテゴリ: 気になる本
図書館で『エトロフの恋』という本を、手にしたのです。
冒頭部を読むと、ソ連領となったエトロフ島が舞台となっていて・・・興味深いのです。





島田雅彦著、新潮社、2003年刊

<「BOOK」データベース>より
あの人は、深い森へと姿を消したー。恋に破れ、家は破滅し、声を奪われ、穢れた死者として追放されたカヲルは、最果ての島へたどり着く。「一番いい時代の私をあなたに預けます」-あの人の微かな声に導かれ、黄泉の国と繋がったこの場所で、恋は今再び、脈打ち始める…。島田雅彦の代表作「無限カノン」第三部完結編。

<読む前の大使寸評>
冒頭部を読むと、ソ連領となったエトロフ島が舞台となっていて・・・興味深いのです。
rakuten エトロフの恋



冒頭の語り口を、見てみましょう。

p5~11
<1>
 その人は私の顔を見て、使う言葉を選んだ。私には通じると思って話しかけてきたのだ。こちらが旅人であることを見越した表情から察するに、たぶん、何処へ行くのかを聞いているのだろう。私は無数の皺に埋もれたその人の顔を見て、「あなたの言葉を話せません」ともう一つの言葉で告げた。

 赤銅色に潮焼けした顔、赤みを帯びた腫れぼったい手、小熊を思わせる立ち姿は、市場で働く老婆たちに共通の特徴だった。細かいうろこに覆われたかに見えるひび割れた頬を緩め、老婆は私に「ニホンジンデスカ」と訊ねた。
―日本人です。あなたは日本語も話せるんですか?
―ダー、ヤポンスキー、ムカシ、ナラッタヨ。アナタ、カレツキー、ニ・パニマーエシ?
 英語と交じり合った日本語はよく耳にしたが、ロシア語混じりの日本語を聞くのは初めてだった。朝鮮語はわからないが、ロシア語はほんの少しできる、と日本語で応える。老婆はしきりに頷き、忘れかけていた日本語を手繰り寄せ、自分の舌の上で転がしてみようとしてか、乾いた唇を舐めていた。

―ドコニイクデスカ?
 老婆が繰り出す日本語は何処にもない訛りを伴っていた。
―イトルップへ行きます。
―アア、イトルップ。ナ・チェプラホッジェ?
―そう。船に乗って。日本語は子どもの頃に習ったんですか?
―ダー、ワタシ、ハチジュウゴサイ、ヤポンスキー、ワスレタ。ニホンジン、イナクナッタ。

 そうだろう。1945年を境にこの地から日本人は姿を消してしまった。そして、日本語とそれを覚えている舌だけが残った。彼女たちはこの土地で生きて行くために、朝鮮語に馴染んだ舌のほかに、もう2枚の舌を必用とした。日本語もロシア語も老婆とっては、何をしろ、何をするなと命令する異国の統治者の言葉である。

 その2枚の舌を交互に使い分けながら話す老婆に敬意を払い、彼女にはそれと気取られないように頭を下げた。彼女の舌に一番馴染んでいるのは朝鮮語のはずだが、それが通じるのは自分とよく似た市場の仲間か、娘、息子たちだけになってしまった。だから、ロシア人とは明らかに異なる自分の息子に似たこの手の顔を見かけると、朝鮮語で話しかけずにはいられないのだ。

―パチェムー・ナ・、イトルップ?
 なぜエトロフに行くか…観光だといえば、変人と思われるだろう。山に登る人は、そこに山があるから登るといえば、それで通る。だが、そこに島があるからといって、わざわざ行くような島ではない。そこへ行くには理由が必要だった。私は一応、ロシアに1年間滞在できるヴィザを持っていたが、島に渡るには別のヴィアが必用で、もっともらしい理由を申告しなければ、入島ヴィザが発行されない。
―植物の調査です。

 ヴィザの申請を代行するエーイェントに島への渡航目的を聞かれた時も、そう申告した。島に渡るには、観光客より植物学者である方がよかった。私は米と麦の違いさえ見分けられなかったが、職業についてはうるさく問われることはなかった。
(中略)

<2>
 諦めてホテルに戻ってきた私のばつの悪そうな顔を見て、フロント係の若い女は含み笑いとともに部屋の鍵を手渡した。泊まっているのは自分だけかと思うほど不気味な静けさに包まれた幽霊ホテルだった。数人の従業員のほかに生きている人の気配がしない。時々、海鳥や風が空気を切り裂く音がするだけ。壁に憂鬱が塗り込められたような部屋に舞い戻るのは気が進まなかったが、日本語のできるフロント係に迎え入れられたのは気休めになった。対応はぶっきらぼうだが、必ず私の目を見ていた。微笑のサービスもついていた。日本語はハバロフスクの大学で勉強をしたという。名前を聞くと、「ニーナ」と応えた。
 この幽霊ホテル、もとは港湾で働く労働者たちのアパートだったらしい。15年前に日本企業との合弁事業でホテルに改装したが、工事が終わったとたん、役人とグルになったマフィアが日本人の共同経営者を追い出した。追い出された経営者は腹いせに日本の旅行代理店や観光ホームページあてに、そのホテルにまつわる中傷メールを流した。

 フロントは偽造パスポートをつくるために、客のパスポートを盗む、とか、壁には工事中に殺された男が埋められている、とか、四のつく部屋に泊まった客は必ず死ぬ、とか…私はその噂を稚内のスナック“流氷”で聞いた。宗谷海峡を越えてくる日本の観光客はみなこのホテルを避けるという。私は部屋のハンガーに刻印されたホテルの名前を見て、自分がその噂のホテルに泊まっていたことに気付いた。

 エントランスには別の名前が掲げられていたので、チェックインした時は気付かなかった。いつの間にかホテルの名前はすげ替えられていたのだ。しかもルームナンバーは24だった。それでも、フロントの彼女が親切だったので、ホテルにまつわる悪い噂は帳消しにすることにした。

 船の出港時間に合わせて、昼頃、荷物をまとめ、チェックアウトしようとしたところ、彼女は私に控えめな口調で、時間通りやってくるのは稚内発の日本の船だけです、と告げた。イトルップ、クナシールに向かう船は“予定通り”遅れることになっている、という。
―では賭けをしよう。時間通りに来るのがそんなに珍しいになら。
 私はそう持ちかけた。時間通りに船が来たら、港まで私を見送りに来ること。船が来なかったら、彼女に食事をおごる。賭けに勝っても、負けても、自分が不愉快な思いをしなくて済むように保険をかけておいた。私は首尾よく賭けに負けた。ちょうど、フロントは交替の時間らしく、ニーナは私の下心を疑わずに、食事に付き合ってくれた。

 今朝、紅茶を飲んだホテルの食堂の片隅に座ると、ニーナは冷蔵庫から霜のついたヴォトカの瓶を出して来た。私は港でカレツキーの老婆から買ったものをテーブルに広げ、肴にすることにした。

 レストランにメニューはなく、厨房で一人ヴォトカを飲んでいるコックが調理するものを黙って食べるしかない、といわれた。何ができるかと聞けば、厨房からエコーのかかったしわがれ声で「ペリメニ」という返事が返ってきた。シベリアの人が好んで食べる水餃子だ。





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Last updated  2021.03.11 00:18:17
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