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2021.03.19
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カテゴリ: アート
図書館で『遠い太鼓』という本を、手にしたのです。
ギリシャ・イタリアへ長い旅の旅行記とのことであるが・・・
村上さんの若い頃(若いといっても30代末期)の三年間の旅の記録だそうで、興味深いのです。






村上春樹著、講談社、1990年刊

<「BOOK」データベース>より
ある朝目が覚めて、ふと耳を澄ませると、何処か遠くから太鼓の音が聞こえてきたのだ。ずっと遠くの場所から、ずっと遠くの時間から、その太鼓の音は響いてきた。-その音にさそわれて僕はギリシャ・イタリアへ長い旅に出る。1986年秋から1989年秋まで3年間をつづる新しいかたちの旅行記。

<読む前の大使寸評>
ギリシャ・イタリアへ長い旅の旅行記とのことであるが・・・
村上さんの若い頃(若いといっても30代末期)の三年間の旅の記録だそうで、興味深いのです。

rakuten 遠い太鼓

ミコノス島


ミコノス島に住みついたベルギー人との交流を、見てみましょう。
p166~169
<ミコノス撤退>
 11時15分にジョンがやってくる。
 ジョンはベルギー人だ。この男の本名はすっかり忘れてしまった。耳なれないかなりややこしい名前だった。この男もずっと昔にギリシャにやってきて、そのままここにいついてしまった。非常に流暢な英語とドイツ語とフランス語とギリシャ語を喋る。歳はたぶん40前後だろう。髪のはえ際はずっと後ろまで後退して、いつもほころびたセーターを着ている。たぶん結婚しているのだと思う。ギリシャ人の女性と、その母親らしい婦人と一緒にいるところを一度見かけたから。

 でもエーゲ海に住んでいる割りには顔の色は青白い。そして唇はいつも6ミリほど歪んでいる。アントワープの方にむけて歪んでいるのだ。彼はおおかたのギリシャ人のことを憎んでいるし、一方おおかたのギリシャ人は彼のことを無視するか馬鹿にするかしている。僕が作家だというと、彼はそのことで僕にとても興味を持った。

「なあミスタ・ムラカミ、君と僕はインテリだ。ここにいる他の奴らはみんな阿呆だ。阿呆の野蛮人だよ」とジョンは言う。彼はミコノスに住みついている他のヨーロッパ人たちの頭脳程度のことも馬鹿にしているのだ。

 彼は旅行代理店に勤めていて、僕の借りた部屋の現地のエージェントをやっている。僕は彼に家賃を払い、苦情があれば(いくつかある)苦情を言う。ジョンは今日、電気料金を精算するためにやってきたのだ。彼はメーターの数字を手帳に書きこみ、金額を計算する。僕は彼に五千円ほどの電気料金を払う。

 彼は入っていいかとも聞かずにレインコートを脱いで部屋に入ってくる。そして気むずかしそうな顔をしてソファに座り、30分ばかり僕と話をする。
「ねえミスタ・ムラカミ、僕は昔は編集者になるつもりだったんだよ」と彼は言う。「でも結局ならなかった。どうしてだと思う?」

 わからないと僕は言う。わかるわけない。
「失望したからさ」と彼は8ミリほど唇をアントワープの方に歪めて言う。「出版界のありかたに対してね。わいかるかい?」
 よくわからない、と僕は答える。

「僕が我慢できないのは、あの大量生産システムだよ。イアン・フレミング著、007がなんとかかんとか、シリーズ第18作。あれじゃまるでハンバーガー・ショップのチェーン店だ。資本のある出版社はそんな具合にくだらない本をだしてますます儲ける。肥え肥る。そして志のある人間は最後まで踏みつけられるんだ。これが現在の出版状況なんだよ。僕はそういうのに我慢ができなかったんだ。今だって我慢できない。わかるかい、ミスタ・ムラカミ?」
 ふむふむ。

「だからこそ僕はベルギーを離れたんだ。さっぱりとね。そしてギリシャに来た。どうしてギリシャを選んだのかって? それはギリシャがヨーロッパの端っこだったからさ。ヨーロッパを出てやっていけるという自信はなかったからね。だあから端っこまで来たんだ。良いところだよ。ギリシャ人を別にすればね。正直に言わせてもらえば、あいつらはどうしようもないと僕は思うね。たとえばヴァンゲリス。あいつなんか英語だって喋れない。グズで気がきかない怠け者だ。救いというものがない。ああいうのを見ていると、ときどきうんざりしてベルギーに帰りたくなる。たとえそれがインチキの文化であるにせよ、少なくともあそこには文化というものがあるものな」

 ベルギー版団塊の世代というところだ。やれやれ、世界中のあらゆる場所で我らが世代は健在なのだ。さすがに少し疲れて色褪せているにせよ。でも僕は何も言わない。実を言うと、僕はジョンよりグズのヴァンゲリスの方がずっと好きなのだ。20倍くらい。でもそんなこと言うわけにはいかない。

「僕はミシマとオーエが好きだ」とベルギー人のジョンは言う。「君はどちらかと会ったことがあるか?」
 ない、と僕は答える。
 ジョンは何度か首を振る。それは残念、という具合に。「ところで君はどんな小説を書いているのかな、ミスタ・ムラカミ?」
 それを説明するのはとても難しい、と僕はいう。

「前衛的なものかな?」
 少しは前衛的といえるかもしれない、と僕は答える。そうかな?
 彼はまた首を振る。首を振ることが人生の重要な一部であるというように。僕は膝の上で手をこすりあわせる。僕にだって人生の重要な一部はあるのだというように。


『遠い太鼓』1





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Last updated  2021.03.20 15:06:43
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