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2023.04.07
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カテゴリ: 気になる本
図書館で村上春樹の『蛍・納屋を焼く・その他の短編』という本を、手にしたのです。
おお 村上春樹の初期の短編集ではないか・・・ということでチョイスしたのです。





村上春樹著、新潮社、1984年刊

<出版社>より
秋が終り冷たい風が吹くようになると、彼女は時々僕の腕に体を寄せた。ダッフル・コートの厚い布地をとおして、僕は彼女の息づかいを感じとることができた。でも、それだけだった。彼女の求めているのは僕の腕ではなく、誰かの腕だった。僕の温もりではなく、誰かの温もりだった……。もう戻っては来ないあの時の、まなざし、語らい、想い、そして痛み。リリックな七つの短編。

<読む前の大使寸評>
おお 村上春樹の初期の短編集ではないか・・・ということでチョイスしたのです。

shinchosha 蛍・納屋を焼く・その他の短編


奇妙で意味不明のタイトルに惹かれるので、この短編を見てみましょう。
p111~113
<めくらやなぎと眠る女>
 背筋をまっすぐのばして目を閉じると、風のにおいがした。まるで果実のようなふくらみを持った風だった。そこにはざらりとした果皮があり、果肉のぬめりがあり、種子のつぶだちがあった。果肉が空中で砕けると、種子はやわらかな散弾となって、僕の裸の腕にのめりこんだ。そしてそのあとに微かな痛みが残った。

 風についてそんなふうに感じたのは久しぶりだった。長く東京にいるあいだに、僕は五月の風が持つ奇妙な生々しさのことをすっかり忘れてしまっていた。ある種の痛みの感触さえ、人は忘れ去ってしまうものなのだ。肌にのめりこんだ何かが骨を浸すあの冷やかささえ、みんな忘れてしまう。

 僕はそんな風について(この傾斜地を吹き抜けていく豊満な初夏の風について)いとこに説明しようと思ったが、結局はあきらめた。彼はまだ十四歳で、この土地を離れたことは一度もなかった。失った経験のない人間に向かって、失われたものの説明をすることは不可能だ。

 僕はのびをして、首をぐるぐるとまわした。昨夜遅くまで一人でウィスキーを飲んでいたせいで頭の芯にかすかなしこりのようなものが残っていた。
「ねえ、いま何時?」といとこが僕に訊ねた。僕といとことは20センチ近く身長差があったので、彼はいつも僕の顔を見上げるようにしてしゃべった。
 僕は腕時計を見て「十時ニ十分」と答えた。

 いとこは僕の左腕をつかんで自分の顔の前にひきよせ、直接時計の文字盤をたしかめた。デジタルの文字を反対側から見るぶんだけ手間がかかった。彼が腕を放すと、僕も少し心配になってもう一度時計を見たが、やはり十時ニ十分だった。

「時計、あってる?」といとこが訊ねた。
「あってる」と僕は言った。
 彼はまた僕の手首をひっぱって時計を見た。彼の指はすべすべとして、見かけよりずっと力が強かった。
「ねえ、これ高いの?」と彼は訊ねた。
「高くない。安物だよ」と僕は言った。

 返事はなかった。いとこの方を見ると、僕は唇をうすく開けて、ぼんやりと僕の顔を見上げていた。唇のあいだからのぞいている白い歯が退行した骨のように見えた。
「安物だよ」と僕はいとこの左耳に向けてくりかえした。「でも安物のわりには正確なんだ」

 いとこは「うん」と言って肯き、唇を閉じた。僕はポケットから煙草を出してライターで火を点けた。いとこは右の耳が悪いのだ。小学校に入った頃、耳にボールをぶっつけられて、それ以来耳が聴こえなくなってしまった。まるで聴こえないというのではなく、ぼんやりとは聴こえる。また比較的よく聴こえる時期と、そうでない時期とがある。それからごくまれにどちらの耳もまったく聴こえなくということもある。

 彼の母親、つまり僕の父の妹に言わせると、これは神経症のようなものであるらしい。つまり両方の耳に均等に神経をふりわけていると、ときどき右側の沈黙が左側の音を押しつぶしてしまうのである。そして沈黙が油のように五感を覆う。

 僕はときどき彼の難聴そのものが、外傷のせいというよりは神経的なものではないかと思うことがある。でもそれはもちろん僕にはわからない。彼がこの8年間にわたり歩いた医師たちにもわからない。





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Last updated  2023.04.07 00:12:40
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