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歩世亜さんComments
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図書館で『 ウクライナ侵攻 10 の焦点 』という本を、手にしたのです。
この本には 朝日新聞取材班 が見たクリミア ( クリム ) と北方領土 ( クリル ) が解説されていて興味深いので・・・チョイスした次第です。
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<table border="1"><tbody><tr><td width="550" height="50">
【 ウクライナ侵攻 10 の焦点 】
webp 画像につき開示できず
< 「 BOOK 」データベース >より
ロシアのウクライナ侵攻は、全世界に衝撃をもって受け止められた。侵攻から1年の間に、現地では何が起きていたのか。ウクライナ入りした記者たちのルポを中心に、10の角度から戦争を浮き彫りにする。
<読む前の大使寸評>
追って記入
rakuten<a href=" https://books.rakuten.co.jp/rb/17394527/ "> ウクライナ侵攻 10 の焦点 </a></td></tr></tbody></table>
「第 2 章 [ 占領 ] 閉ざされた空間で起きた被害 」に監禁された市民の過酷さが見えるので見てみましょう。
ウクライナ侵攻の際に見せたロシアの領土意識の頑迷さに触れる思いがするのです。
</a><TABLE border="1"><TR><TD width="550" height="50">P59 ~ 64
<font color="brown"> 監禁された市民の見たもの </font>
穏やかな日差しのなか、その村では子どもたちがキャッキアと走り回っていた。
「学校はどこにある ? 」「あっちだよ」。女の子たちg教えてくれた方向に進むと、れんが造りの校舎がが現れた。屋根は崩れ、窓ガラスは割れている。木の扉を開き、階段を下りる。薄暗い地下室には絵本や布団が散乱していた。静まりかえリ湿った空気に、壁時計の病身のおとが響く。
「ここに 28 日間、 350 人以上の住民がロシア軍によって閉じ込まれていたのです」と管理人の男性は言った。
壁には手書きで、 10 人分の名前と日付が記されていた。
( 中略 )
村にロシア兵がやってきたのは 3 月 3 日のことだった。兵士らは 1 軒ずつ民家を回り、地下室に隠れる住民たちにライフルを突きつけた。
「学校の地下室に行け」
携帯電話や腕時計は、その場で撃たれて破壊された。「パソコンやスマホを隠していたら、あと 10 人殺すぞ」と脅された。
警察官や元兵士だと疑われた男子たちは、射殺された。少なくとも 4 人。釣り用の迷彩服を持っていただけに、ウクライナ兵だと疑われて命を落とした人もいたという。
3 月 6 日までには、ほとんどの住民が学校の地下室に集められた。
大小 7 部屋に 350 人以上。最大の 80 平方メートルほどの部屋には 175 人が押し込められた。
廊下にも人があふれた。子どもたちは 70 人以上。最も幼い子は 1 歳半だった。地下室には子どもたちの泣き声が響きわたった。
地下室での生活は過酷をきわめた。歩いて通る隙間もないほで、部屋は人で埋め尽くされた。小さなベッドに子どもたちを寝かせ、多くの大人は座ったまま寝た。
外は雪が降る寒さ。それでも室内は熱気で蒸し風呂のようになった。暑さで福を脱ぐ人さえいた。小さな窓はいたで目張りした。新鮮な空気が欲しくても、激しいほうげきがそれを許さなかった。窓を破って砲弾の金属片が飛び込んでくる恐れがあった。
電機はなく、懐中電灯の電池はじきに切れた。どの部屋も、ろうそく 1 本で灯をとった。トイレも無かった。部屋の隅にバケツを置き、布切れで隠しながら用を足した。恥ずかしさも、やがて感じなくなった。
食料の備蓄も足りなくなった。ロシア軍がときおり提供するパンや携行食には人が殺到した。
暗がりの中、時間の感覚も失われていった。
幼稚園の先生を務めるバレンティナ・ダニロバさん (60) は、鉄のドアにきおくを刻み始めた。燃えかすの炭を使い、カレンダーを書いた。毎朝、日付を加えた。砲撃の激しい日には下線を引いた。隣には、死亡した人たちの名前を刻んだ。
最初は 3 月 9 日。 90 歳を超えた男性だった。翌 10 日にもう 1 人 11 日には 2 人。 13 日。 17 日にまた 2 人・・・。リストはどこまでも続くように思えた。亡くなった人の多くは 70 代以上の高齢者だった。
地下室には湿気と悪習が充満した。新鮮な空気が足りなかった。ロシア軍が地下室から出ることを赦すかどうかは「その日の彼らの気分次第」。外に出られても 1 日 15 分ほで。砲撃を恐れ、地下に閉じこもる人は多かった。
意味不明なうわごとを言ったり叫び始めたりすると、それが死の予兆だった。 2 日ほどすると、彼らは息を引き取った。ロシア軍の許可が出るまですうじつかん、亡がらとともに眠ることもあった。砲撃の合間をみて、遺体は外のボイラー室の並べられた。
「正直、誰も生きて帰れないとおもっていました。ドアに記録を残したのは、誰かにここでの出来事を伝えるためでした」
ダニロバさんはそう言うと。遠い目をした。
住民たちを地下室に監禁する一方で、ロシア兵は学校の 1 階や周辺の民家に陣取った。
地下に自住民が閉じ込められているため、ウクライナ軍は学校を砲撃することができない。それをいいことに、ロシア軍は住民を「人間の盾」とし、学校を前線拠点にしていた。
ロシア兵は「我々はあなたたちを解放しにきた」「ナチはどこに隠れているんで」と、ロシア政府の主張に沿った定番のセリフを繰り返した。
偽情報を伝えるロシアの新聞を住民に配り、「ウクライナの多くの都市はすでに降伏している」と言いふらした。ときには子どもたちを外で遊ばせ、ロシア兵がお菓子を配るようすをビデオに収めた。ロシア兵の善良な振る舞いを発信するプロパガンダ作戦だった。
解放の日は突然やってきた。
3 月 30 日。いつもより早く、朝 10 時にロシア軍は地下室のカギを閉めた。車両が騒々しく動く音や砲撃音が 2 時間ほど続き、やがて静寂に包まれた。
人々は、ドアを破って外に出た。学校の裏庭の並んでいたロシア軍の車両が消えていた。兵士もいなかった。まだ状況をのみ込めなかった。
翌日昼、ウクライナ軍の部隊が村に到着した。
住民たちに笑顔が戻った。兵士と抱き合って涙を流した。多くの住民の生存を知り、ウクライナ兵は「まさか生き残っていたとは」と驚いた。長期間の監禁で、人々は歩くのも難しくなっていた。脚がむくみ、靴は切断しないと脱げない人もいた。
オルガ・メニャイロさん (50) は自宅でスマホを見つけ出すと、地下室に戻ってシャッターを切った。「写真を歴史に残すべきだと思ったんです」
地下室内に所狭しと座る人々の顔が並ぶ。疲れ果てた表情のなかに、少しの安堵感がみえる。
</td></tr></tbody></table>
<a href=" https://plaza.rakuten.co.jp/foret/diary/202604120001/ "> ウクライナ侵攻 10 の焦点』 1 </a>
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