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後、12時間ほどで今年も暮れる。だれもが溺れることのないように「年の瀬」を越したいものだ。とは言え、年の瀬は自分の意思で越えるものではなく、好むと好まざるとに関わらず全ての人が時に連れて行かれてしまう。晦日はみそかとも、かいじつとも読み、毎月の朔日の前日の事である。その年の最終の晦日は、 12月31日で特に大晦日と呼ぶ。大晦日は、一年の最後の日のことで年越、大つごもり、大年などともいう。 もともと、一日(いちにち)は夕方から始まるとされる考え方もあって、大晦日の夕方は新年に含まれるというのだ。そのような考えから、大晦日の夜には正月の正式な食事をするものだとされ、お節をこの時に食べる地方がある。このような習慣のある地域では、お節は節(せち)の日に特に作る料理やお供え餅のことであるから、大晦日の夜の食事が一年中でもっとも重要な食事とされる理由である。宮廷で季節ごとに、節会と呼ばれる宴会が催されており、江戸時代に幕府がそのうちの5つを公的な行事として定めたのが、人日・上巳・端午・七夕・重陽であり五節句の始まりである。節の日に特に作る料理やお供え餅のことを「御節供」と呼び、節句料理はもともとは五節句の祝儀料理を指していたのだが、のちに最も重要とされる人日の正月料理のことだけを指して言うようになった。大晦日の食事は「お年取り」と言い、「年とり」とは大晦日に行う歳神様を迎えるための行事のことである。お年取りの膳には、お節料理に加えて年取り魚を添えて祝う。年取り魚は大まかに関西は鰤、関東は鮭とされるが、年取り自体の風習が無い家も多いようだ。戦国時代の京都や大阪地方では、年とりの魚として北陸産の寒鰤が食膳に付いた。その習慣が、信州の伊那谷から松本あたりまで広まり江戸時代中期には定着したといわれる。これよりも北もしくは東の地方では、北から運ばれてくるサケが年取り魚とされるそうだ。信州伊那谷の実家では、年末に鰤一本を買って来て父親が捌いて切り身にし、大晦日の夜の食事に粕汁で食べるのが習わしであった。東京で所帯を持って35年間この風習を守ってきたが、今年から粕汁にするのは止め照り焼きで食べることにした。自分の子供の頃は、大晦日に食べる鰤の入った粕汁が待ち遠しかったのだが、家内も子供も孫もこの味を好まないのだ。時代と共に味覚と好みに変化が起こっている。お節料理に用いる品々にはそれぞれに理由があって、子孫繁栄や豊作、長寿など様々な願い込めて縁起ものが用いられている。 海老=長寿と赤色は晴れやかさから。 鯛=メデタイ。 鰤=出世魚である。 昆布=よろこぶ。紅白かまぼこ=半円形が日の出に似ている。伊達巻き=見た目の豪華さ。巻き物に似ているところから学問や習い事の成就を願って。栗きんとん=色から富を得る縁起物。かちぐり=勝つの意味。八ツ頭またはサトイモ=子孫繁栄。蓮根=先が見えるように。くわい=出世を祈願。黒豆=健康など。不信心者で日頃神仏に不義理をしていても、年の初めくらいは縁起の料理を食べて新たな年の幸せを祈るくらいは許してくれることだろう。
2012年12月31日
1950年代までに生まれた人で、ノミによる吸血の洗礼を受けたことが無いと言う人はいないと思う。都会・田舎の区別なくどこの家にもいて、ノミの活躍する6月から11月位までは、就寝時には吸血の痒みで熟睡出来ないほどであった。朝起きるとパンツのゴムの辺りには、血痕状のノミの糞が点々と着いていたものだ。吸血時以外は、衣服や布団の縫い目、畳の縁の併せ目などに潜んでいた。当時は殺虫剤の人体影響についての知識も無かったために、BHCやDDTなどの殺虫剤の他、除虫菊から作った「ノミ取り粉」を畳や衣服、布団に大量に散布したものだ。殺虫剤の効果と、衛生状態の改善もあったのだろうか、1960年代になって急激にその姿を見ることは無くなった。人を寄主とするヒトノミは、日本から駆逐されたと唱える衛生動物研究者もいる位だ。ノミやシラミは、地球上から駆逐されても一向に構わなく、誰も保護が必要な希少生物とは言わない。二度と、ノミやシラミのいる世界には戻りたくないものだ。現在ノミによる被害は、ネコを飼育している特定の人が受けるネコノミの被害が散発している位になった。 ノミは、節足動物門に分類される昆虫である。シラミとともに、代表的な外部寄生昆虫で体長は1mm~3mm程度の小さな虫である。世界各地に分布する。ノミの成虫が、生存・産卵するために哺乳動物や鳥類などの恒温動物の体表から吸血する。ノミの名前は、動物の血を飲むことからとか、よく跳ぶの「跳び」からの訛りといわれている。漢字の「蚤」は、「掻きたくなる痒い虫」を意味していると言う。カやアブの吸血昆虫と同じように、二酸化炭素を感知して寄主を探す。容易に寄主から離れ、新たな寄主を探して移動する。シラミと異なり、ノミ類は運動能力が高く容易に宿主を離れ、寄主を厳格に選ばない。寄主から脱落して、新たな寄主に寄生できないと数日で死んでしまう。ネズミノミは、人間の血も吸うためにネズミから人へペスト※を媒介する。ノミの名前を冠した市が、イタリアやフランスで有名である。「蚤の市」flea marketは、フランス語marche aux pucesの訳であり、もともと「のみがわいた」ような古着が主な商品として扱われていたことに由来するとされる。世界各地で、ノミの市が開かれている。フランスのパリの「蚤の市」が有名である。イタリアの「蚤の市」では、昨日盗難にあって盗られたものが、翌日には市で売られているとも言われる。 日本でも「蚤の市」が各所で開催されるが、フリーマーケットの名で行わる場合が多い。「東京のみの市」は11月下旬に、福岡「護国神社のみの市」は12月下旬に行われる。年末年始の東京で盛大に行われ、430年もの歴史があって有名なのは、世田谷のボロ市であろう。その他同様の市が、各地で骨董市の名前で行われている。のみの名前を冠した、次のような言葉がある。吸血昆虫のノミは雌の方が大きいことから、妻のほうが夫より身体が大きな夫婦のことを「のみの夫婦」と表現する。「蚤の心臓」と言う言葉は、肝っ玉の小さい非常に臆病な人を喩えて言う。力の弱い者や矮小な者でも一心に行えば何事でも成し遂げることができることを譬えて、「蚤の息さえ天に上がる」と言う。昔の人も、ノミやシラミには難儀をしていたようだ。芭蕉と一茶に次のような句がある。のみしらみ 馬の尿(しと)する 枕もと 松尾芭蕉よい日やら 蚤が跳ねるぞ 踊るぞや 小林一茶※ペストは、日本では1926年以降発生していない。インドで1994年に2500人の患者と50人の死者が発生し、パニックになった。
2012年12月30日
カテゴリ:カテゴリ未分類 年末年始のテレビには、必ずもの真似番組が組まれる。27日と28日には、異なるテレビ局がそれぞれゴールデンタイムに特番を組んでいた。他人の声を吃驚するほどそっくりに真似する人がいて、驚かされることがある。それも複数の人の異なった声色だと、その芸に本当に感心する。人や物の音声を真似る芸を、元来は声色遣い(こわいろづかい)と言った。多くの人に知られていることから、有名な歌舞伎役者の声や仕草を真似たのが声色の起源である。江戸後期から戦前まで、声色は脈々として受継がれ寄席演芸の重要な演目であったのだが、戦後になって単なる「声帯模写」や「ものまね」が登場してからは徐々に下火になってしまった。他人を真似する芸のほかに、江戸時代から動物の鳴き真似の芸もあり猫や犬、虫、鳥などいずれも真に迫っており洗練された芸であった。他人の声や仕草を真似るのは、人間だけの特技では無い。多くの鳥が、もの真似をする。中でもヒトの声を真似るのがうまいのは、九官鳥やインコである。オーストラリア東部には、コトドリと言う名前の1メートルにもなる大型の鳥がいるが、世界で最も多くの鳥の鳴き声や物音の真似をするのはこの鳥であろう。大きさは1メートルほど。長い尾を持ち一見日本の雉に似ている。冬の繁殖期を迎えると、森に雄の鳴き声が響くようになる。この歌声を詳しく聞いてみると、他種の鳥の鳴き声がまるでメドレーのように20分以上も続くのだ。カワセミやヒタキ、インコ、カラスなど付近に住む鳥のさえずりをほとんど網羅しているといわれる。人の声・カメラのシャッター音・チェーンソーの音やサイレン・電車の音まで真似すると言われる。(NHKの番組から)真似をする鳥として日本で一般によく知られているのは、オームを含めて300種もの種類があるインコ科の鳥であろう。インコは、教えることにより100語も話した個体があったとの記録がある。インコほどポピュラーではないが、良く知られた鳥で東南アジアに生息する九官鳥がいる。言葉を教えたヒトの声や動物の声、物音を声色まで真似た言葉で話すことから、物まねの完成度では九官鳥がトップであろう。インコは舌で発音するのだが、九官鳥は喉にある鳴管から直接音を発するためだとされる。「九官鳥」の名は、江戸時代九官と名乗る中国人がこの鳥を持ち込んだときに「この鳥は自分の名前を言う」と説明したものが、鳥の名前として誤って定着したものという。日本の鳥で、飼い鳥ではないが百舌鳥とカラスはもの真似をする。繁殖期に百舌鳥が、ウグイス・オナガ・オオヨシキリ・ホホジロの鳴き真似をするのを実際に聞いたことがある。カラスは、個体によっては猫や犬の鳴き声などを覚える。その他、近年帰化して特定外来生物の指定を受けているガビチョウもウグイス・キビタキ・オオルリ・サンコウチョウなどの鳴き声を真似る。鳥が人語を真似たり、他の鳥の鳴き声や物音を真似るのは、雌に対するアッピールとテリトリー宣言をしているからだと言われている。雌は多くの鳥の声を真似る雄に魅かれ、他種の鳥は既に他の個体の縄張りになっていると勘違いして、入ってこないという利点もあるのだろう。自然の妙と言えるのではないだろうか。
2012年12月29日
餅搗き正月を迎える行事で重要なものに、餅搗きがある。一般的には12月28日か30日に餅を搗いた。正月飾りと同じ発想で29日は「苦餅」に、31日は「一夜餅」に通じ縁起が悪いとされたためである。しかし、中には29をフクと読んで「福餅」だから良いとする家もあると言う。餅と言う言葉の語源には諸説あるが、新井白石が著した「東雅」(辞書のように注釈が描かれた書物)には、餅飯(モチイヒ)から出た言葉だと書かれている。また餅の字は、中国で小麦粉を捏ねたものに使用されており、これと形態が似ていることからモチに餅の漢字を当てたものと言う。餅が正月の膳に上るようになったのは、正月飾りが行われるようになった平安時代からとされ、当時歯を強くする儀式として、年の初めに硬い餅をかみしめる「歯固め」の風習が中国から伝わったことが始めとされる。それに加えて、米の収穫祭としての意味も持たせ、米が取れたことを歳神と祖霊に感謝し、また収穫された米を供えることで一年の平穏を祈るものへと変化したものである。鏡餅は、神の召し上がりものとして献上しそこに新たな歳神が宿って、福が来るようにと願って供えられるものである。名前の由来は、神が宿っているとされる「銅鏡」に似ていることから、「鏡のような形の餅」の呼び名が変化したものである。丸い餅を重ねるのは、太陽と月を表しているとの説もある。12月28日から飾ると縁起が良いとされる。松飾りは、松の内が過ぎると取り外すが、鏡びらきは1月11日におこなう。ほとんどの地域や家庭では正月に餅を食べるが、餅を「搗かない・食べない・供えない」という決りによって、正月に餅を食べてはならないという地域や家庭もある。これを「餅なし正月」といい、餅の代わりに食べるものがイモであれば、「芋正月」と言う。この風習の興りは、正月3が日の間は餅は神様に供えるものだから、食べてはならないという考えから来ているという説が有力とされている。餅が深く関わる年中行事には正月の他、三月三日(上巳)の草餅、五月五日(端午)の柏餅、十月亥日の猪子餅がある。1974年ころから、家庭用の餅つき機が普及を始めたため、米屋・菓子屋などでの賃餅や一般家庭での、年末の風物詩としての餅搗き風景を見ることはほとんどなくなった。我が家では結婚以来長い間、毎年家内の実家から正月用の餅を貰っていたが、義父が他界した27年前からは小型の餅搗き機を購入して、自前で餅搗きを行っている。 今朝28日は、家を出て八王子で所帯を持っている次男家族のために、一家が健康で明るい家庭を守っていけるよう祈りながら餅搗きをした。自宅用には、例年30日に餅を搗くのが我が家の習慣になっている。
2012年12月28日
ウメモドキの実バラ科の樹木の多くは、人に有益な果実を実らせる。バラ科で果実をつける樹として、アンズ・ウメ・サクランボ・プラム・ナシ・モモ・リンゴの名前は多くの人が挙げることができる。しかし、ビワをバラ科と答えられる人はかなり植物に知識のある人であり、イチゴに到ってはほとんどの人が正答することが出来ないと思われる。 和名で、「…もどき」が付けられた多くの植物や動物がある。「もどき」とは似て非なるものを指して言う言葉で、肉の代用品として考案された料理で誰もが知っているものにガンモドキがある。モドキが付いた植物で良く知られたものに花や葉の形、枝振りがウメに似ていることからその名前が付けられたというウメモドキがある。果実は、全然ウメの実に似ていない。バラ科の植物とは異なり、モチノキ科モチノキ属の植物である。5月頃に淡紫色の小さな花を葉の付け根に群れて咲かせるが花はあまり目立たない。果実は9月頃から真っ赤に熟し、落葉しても枝に残っている。このため落葉後の赤い実が美しく目立つので庭木として植え、生け花にも使用される。アユモドキという魚がいるが、それほどアユに似ているわけでもなく、キュウリウオ科のアユとは異なり、髭を有していてドジョウ科の仲間である。 12月16日に行われた衆議院議員総選挙では、集票のための党の乱立が目に余った。選挙日の直前に選挙目当てで結党した党からの当選者が、国会活動も始めないうちに僅か1か月で解党することになった。サンタクロースが乗った橇を、トナカイとイヌの二頭が先頭で引いても旨く進むはずが無い。異種動物が引くそりに乗ったサンタクロースが、日本の未来に資する何ほどかのプレゼントをもたらして呉れるかもと期待した342万人は、僅か10日で見事に肩透かしを喰ったようなものだ。国会議員は両院合わせて定数722人だが、このうち真剣に日本の未来を考えている人は何人いるのだろうか。2011年に最高裁判所は、一票の格差が違憲状態になっているとの判断を示している。この問題は、国会において議論されながらも遅々として進展が無く、一向に是正の機運が見えてこない。議論している本人が、利害の当事者でもあることが深く関係しているからだ。「もどき」と名前の付いた動植物は、誰にも何に対しても一切迷惑をかけていない。選挙で選ばれた訳だから贋とか似非では決してなく本家本元なのだが、国会議員や政党にも名前だけで職責を果たしていない、「もどき」と呼ばれても仕方が無いような人がいたりまた、そんな政党もある。「議員もどき」や「政党もどき」は日本の未来にマイナスにこそなれ、絶対にプラスにはならない。議院定数を大幅に減らし、一票の格差を解消することは勿論、願わくは「もどき」議員と政党も淘汰されて欲しいものだ。
2012年12月27日
在りし日の舞鶴の松 北杜市には、1930年に国の天然記念物に指定され、さらに1990年に、日本名木100選に選ばれたアカマツの、優美な姿をした樹齢460年と言われる「舞鶴の松」があった。惜しくも松食い虫の被害であっという間に枯死してしまい、2008年3月に伐採されてしまった。文字通り日本の宝だったのに、今では写真を見てその姿の美しさを想像するほかない。マツノザイ線虫の拡散を危惧して根まで抜き去ったのに、市内には未だ案内標識が立っている。常緑樹の松は、冬も緑の葉を茂らせていることから若さ・不老長寿の象徴としてめでたい樹とされる。能舞台の背景には必ず描かれており、日本の文化を象徴する樹木ともなっている。木の梢には神が宿ると考えられていたことから、年神様を家に迎え入れるための「衣り代」(憑代ともいい、神や霊が現れるときに最初に宿ると考えられているもの。樹木・岩石・御幣・動物など神霊の代わりに祀られた。)として正月には門に松を飾る。これを門松といい正月に門の前に立てられる一対の松と竹の正月飾りは、松飾りともいう。平安時代に貴族の間で、新年に松を家に持ち帰る習慣があった。小松引き(年の最初の子の日に、小さな松を引きぬいて遊んだ行事。)の松を長寿祈願のために持ち帰っていたものが、室町時代になって門松飾りの現在の様式に変化したといわれている。現在の門松は「竹」が中心で目立つが、名称や起源からも分かるように「松」が主役の飾りである。 松と共に飾る竹の先端部の形状には、斜めに切った「そぎ」と呼ばれるものと、真横に切った「寸胴」の2種類がある。「そぎ」は、徳川家康が生涯で唯一敗北した三方ケ原の戦いの後、相手の武田信玄を次には必ず斬るという意気込みを込めて作ったのが始まりとも言われている。江戸期の門松は、二階の屋根まで届くような高さの松が飾られていたという。地域・地方により、松飾りの飾りや飾り方は様々である。関東の本格的な門松は、3本組の竹を中心に周囲に短い松を配置し、下部をわらで巻くという形態が多い。関西式では3本組の竹を中心に、前面に紅白の葉ボタン後方に長めの松を添え、下部を竹で巻く。その他、笹枝付きの切り出したままで加工しない竹と松の枝を立てるものも多い。門松の設置は12月13日からだが、12月29日は「二重苦」、さらに9の最後の日でもあるので「苦待つ」、「苦松」といって嫌われる。また、12月31日は「一夜飾り」「一日飾り」といって、慌ただしく行われる葬儀の飾りに通じるということから、それぞれ避けることとされている。1月7日までを松の内といい、年末から飾っていた松飾りは6日の夕方や翌7日に取り外す場合が多い。取り外された松飾りは1月7日または15日に、左義長(どんど焼き)で焚かれ松は正月飾りとしての役目を終える。都会では、取り外した松飾りはごみとして処分する以外に方法が無く、次第に松飾りを付ける家庭が少なくなってきた。また地方においても、少子高齢化の影響で年中行事を中心になって行う子供がいなくなり、いつまでも幼な心に残る懐かしい行事が次第に消えてなくなるのは淋しい限りだ。一休禅師は、「門松は 冥途の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」と狂歌に詠んだ。門松を飾る新年を迎えることはめでたいが、年を取ることは死に向かって歩む一里塚のようでもあるという意味だ。近年は、年毎にこの歌が身近に感じられるようになった。
2012年12月26日
丸に九曜紋自分の家の家紋について、知らない若い人が増えているようだ。日常生活の中で、ほとんど意識することが無くなった今日では、テレビの水戸黄門の印籠の「三つ葉葵の紋」を目にする位になってしまった。家紋は歴史の中に忘れ去られ、単なる文化遺産になってしまうのだろうか。紋章は、ヨーロッパと日本だけに発達した文化で、他の国には見あたらない。遠く離れた地域で、別々に発案されそれぞれの特色と方式を持ちながら発展したものである。紋様.色.彩色等に大きな違いがあるが、ヨーロッパでは盾に日本では幟、鎧兜などの武具に付けられたことが始まりで、発想や使用方法は良く似ている。日本の家紋は、家系・血統・家柄・地位といった自分の出自を表すために、平安時代から使われてきた紋章である。読み書きができない人でも一目で見分けることできるため、衣服や調度品など、生活の様々な場面で取り入れられた。全ての家には1つ以上の家紋があると言われ、その図案は植物や動物、天体、文字、幾何学模様など実に様々であり、千年の歴史を持つ日本の文化である。初め公家の間で使われ始めたがその後、戦場で武士が「敵味方の判別をする、自分の武功を印象付ける、後日恩賞に与る」ための標識として使用し始めたことで、広く普及することになった。 戦国の騒乱期から太平の徳川時代になり、幕紋や旗紋などへの需要がなくなったため、家紋の用途は家格を表す儀礼的なものへと変遷した。幕府に正式の紋として届け出た紋を定紋いい、定紋により家の挌がランク付けされ序列の目印とされた。一般庶民には苗字帯刀が許されていなかったが、家紋の使用は自由であったため多くの優れたデザインを生み、美を競うこととなった。図案は植物紋が最も多く、武官の紋である尚武紋(しょうぶもん)、動物紋、天然紋、文様紋、図案紋、器物紋、調度紋などがある。 今日では、着物や家具調度品などに家紋を入れたり、武具に付けた名残から、五月幟、五月人形、兜飾りなどに付けられることもある。江戸時代の名残としては、商店の暖簾、漆塗りのお椀、袱紗、風呂敷、衣裳行李、蒲団表地、鏡、鏡台掛け、法被、幟旗、酒盃、提灯、線香立て、神輿、幔幕(まんまく)、襖、瓦、墓石などにも付けられる。また現代では、ネクタイ、タイピン、カフス、コンパクト、帯留、バックルなどの装飾にし、また応接間に家紋の額を掛ける人もある。現在判明しているだけで、家紋の種類は2万とも2万5千以上ともいわれている。 テレビの水戸黄門は、番組終了時間の7分前になると「三つ葉葵の付いた印籠」を出すと言われている。この葵紋は、徳川家康が征夷大将軍になった際、権威ある紋として将軍家の家紋となり、その後尾張・紀州・水戸の御三家、親藩(しんぱん 江戸時代の藩の分類の一つ。徳川家康の男系男子・子孫が始祖 となっている藩。徳川姓を名乗った。将軍家の血筋。)でも使用されることになったものである。 我が家の家紋は「丸に九曜」だが、女性の着物では紋がゴチャゴチャして目立たないとして、昔から丸抜きの九曜紋を付けるのが習わしである。家紋としての利用数ランキングで九曜紋は19位、丸に九曜は59位である。 我が家の子供たちも家紋には興味も関心も無いので、恐らく九曜星がどんな図柄かも知らないのではないかと思われる。
2012年12月25日
ピカピカの台所今年も、後残すところ愈々一週間となった。この一年を振り返って見るには、一番良い時期だ。陰暦12月の異称は、師走である。年金暮らしの私には、縁の無くなった言葉だ。師走の意味について、「12月は、普段椅子に座っているような先生でも忙しくて走り回る」意味だと教えられてきた。師走の語源で信憑性があるのは、年の暮れに経を上げるために、坊さんが東奔西走する月で「師馳す」に「師走を」当てたとする説がある。(平安時代 ;色葉字類抄)その他には、「年果つ」、四季が果てる「四極(はつ)」、年の最後に仕上げる「為(し)果つ」からとの説がある。年の暮れに、平素世話になった人や、目上の人に感謝の心をもって物を贈ることを歳暮という。現在では、中元とともに形式化し、儀礼的な面が強くなっている。もともとは先祖の祀りをする時期で、子孫が食物を持ち寄って共同飲食をするという習俗行事があった。そのため正月や盆に食物を調理して親里に持って行くことがありこれが、贈答という形に変化したものとされる。大まかに12月後半のことを年末、年の暮れあるいは暮れ、年の瀬という。年の瀬と言う言葉は、江戸時代には庶民が借金を返済して、新たな年を迎える準備をすることに大変な苦労をしたが、これをどうしても渡らなくてはならない流れの速い「瀬」に喩えたものである。12月13日は正月事始めと言い、正月を迎えるためのさまざまな準備を始める日でもある。正月事始めには、昔から歳神様(としがみさま)を迎えるため家の中の大掃除をしたり、門松やお雑煮を作るための薪を取りに山に入る日でもあった。歳神様を招き入れるための準備期間は、12月13日から元日までである。12月29日は二重苦で縁起が悪いとされ、餅を搗いたり正月飾りの準備をしない。大晦日の飾り付けは縁起が悪いと忌み嫌われる。葬儀は一夜で急いで準備するので、一夜飾りといわれるところから、正月の準備を一夜で行うのは縁起が悪いとされる。昭和37年頃の官公庁では、28日は執務しないで管理職から訓話を聞き乾杯をして、年末年始の休みになった。現在はどこでも、終日勤務となっている。私の出身は信州伊那谷だが、少なくとも実家には年越し蕎麦の習慣は無かった。何代も続く江戸っ子の上さんと一緒になってから、我が家にも年越し蕎麦の習慣が出来た。文献によると1814年には、大晦日に蕎麦を食べる風習のあったことがわかる。(大阪繁花風土記)由来は、蕎麦は細く長いことから延命・長寿を願ったもので、引越し蕎麦の「末永く宜しく」と意味が同じとされる。金銀細工師が金箔を延ばしたり、金粉銀粉を集めるのにそば粉を使用したことからとする説もある。 今年と来年の境目に撞かれる鐘を、除夜の鐘と言う。除夜の鐘は108回撞かれる。この数の由来については、人が持つと言われる108の煩悩から出たとの説が有力である。その他には、四苦八苦を表す4×9+8×9=108から出た数とも言われている。108回のうち107回は12月31日のうちに撞き、残りの1回を1月1日に撞くものとされる。我が家も10日遅れで、家の中の掃除を始めた。脂汚れがひどい台所は、私の役割だ。一年振りで、壁に飛び散った油煙や油滓を清掃して、スッキリと新築の頃に甦ったと自画自賛している。 Mの字の 手紙にに多き 師走哉 正岡子規
2012年12月24日
メマツヨイグサのロゼット植物に関心がある人は、冬場になると「ロゼット」と言う言葉を一度は聞いたことがあると思う。ロゼットとは、バラの花形から出た言葉である。花のバラは、バラ科バラ属の一つである。ばらは、いばらから変化した言葉である。いばら(茨・荊・蕀)は、「うばら」・「うまら」・「むばら」で、バラやカラタチなどの棘のある低木を総称した言葉であり漢字の薔薇はバラで、音では「そうび」または「しょうび」と読む。バラは、花の鑑賞用として栽培されることが多いが、花弁から抽出した精油は香水の香料の原料とされ、花弁を蒸留して得られる液体はデザートの香りづけに、乾燥した花弁はペルシャ料理では薬味として用いられる。日本では花弁の生食や、実(ローズヒップ)をジャムや砂糖漬けにして食べ、乾燥したものをハーブティーとして飲用することもある。イタリア・ウフィッツイ美術館展示の「ヴーナスの誕生」(ボッティチエリ)では、西風がバラの花弁を吹いている。バラの英語Roseから派生した言葉に、ばら色を意味するロゼワインの名前がある。また、植物が地表に葉を平らに並べた状態を、八重咲きのバラの花に見立てて「ロゼット」と呼んでいる。ロゼットは、茎がほとんど節間成長しないため、地上茎が無いか極端に短く、葉が放射状に地中から直接出ていたり、それに近い状態である。植物が、環境に順応するための形である。前年に発芽し、越年して春から成長する植物にはロゼット葉をつけるものが多い。春になると、ロゼットの中央から茎が伸びて花をつける。多くは、伸びた茎にも葉をつける。この、伸びた茎につく葉を茎葉といい、茎葉が発達すると根出葉をなくしてしまうものが多い。代表的なものに、オオマツヨイグサやヒメジオンがある。野菜のダイコン・ニンジンなどは、冬は根出葉のみで春になると茎を延ばし薹立ちするが、これもロゼットの変形である。ロゼットは、茎を作らなくても良い利点があるが、背の高い競合する植物のある場所では、葉に日光が届かないため不利となる。多くの畑では、秋の収穫が終わると栄養分に富む裸地となるため、ヒメジオンやオオアレチノギク、ヒメムカシヨモギ、メマツヨイグサ、オオマツヨイグサなどの秋に芽生える植物のロゼットが形成される。これらは、冬季の競合する植物が少ない間はロゼットで過ごし、春から芽生える高い位置に葉を形成する植物が生え始めると自らも茎を形成する。結実のために花は目立つように高い位置にある方が有利であり、種子散布に関しても同様であるためである。耕作地と異なり、草刈り場にはタンポポ、ギシギシ、スイバなどが生育する。これらの植物はごぼう根を持ち、栄養分を蓄えているので、葉を刈り取られても地下の栄養分で速やかに葉を再生できる。多年生植物に多い。ロゼットの日本語言い替えが見つからない。バラの花から連想する、ロゼットに代わる良い名前が無いものだろうか。
2012年12月23日
7年古酒 クリスマスの頃から、年末にかけての寒波をクリスマス寒波とか年末寒波と言う。今年は、長い夏が続いた後、快適な秋の期間は僅かであっと言う間に冬になってしまった。標高600メートルを越える山小屋辺りでは、12月上旬から凍結防止の水道の水抜きが必要になる程の寒波が居座っている。今朝の関東地方は冷たい強い雨が降り続き、外気温は5℃を下回ってまるで1月下旬頃の真冬の寒さである。もう少し気温が下がれば、間違いなく雪になると思われる。地表気温が4℃以下になると、雨から次第に雪にかわる。個体の形態での降水には雪、霰、雹、凍雨、ダイヤモンドダストがある。霙は、雨と雪が混ざった状態のものを言う。雪とダイヤモンドダストは「氷の結晶」で、霰・雹は雪が落下する過程で融解と凝固を繰り返すことで作られた「氷の粒」である。凍雨は、雪が解けて再び凍ったもので雪が雨に変わる際に見られる。雪は雲から落下してくるが、ダイヤモンドダストは地表付近の水蒸気が昇華(液体を経ずに気体から固体へと変化する現象)してできるため、低温で晴れた日に空中から落下してくる。霰は厳密には、雪あられと氷あられに区別される。「雪あられ」は雪の周りに水滴がついたもので、「氷あられ」は白色半透明および不透明の氷の粒である。単にあられと言った場合、雪あられをさすことが多い。 霰と言う言葉を冠した言葉には、様々なものがある。代表的なものに次のようなものがある。霰小紋 霰を撒いたように大小の白斑を並べた模様霰釜 胴の地紋につぶつぶを鋳出した茶釜霰菓子 餅を細く切断し、焼いた菓子霰粥 鯛や鱸などの魚肉をほぐしたものを入れた粥 霰降り 「鹿島(かしま)」「杵島(きしみ)」「遠江(とほつあふみ)」にかかる枕詞。 「きしきし」「とほとほ」と聞こえる霰の降る音から。霰酒 あられもちを、焼酎に漬ける作業を数回繰り返し、みりんの中に入れて密封・熟成さ せた酒。奈良の特産。 炉びらきや 雪中庵の 霰酒 蕪村 あられを冠する言葉に「あられ-もない」と言う言葉がある。この「あられ-」は全く気象用語に関係ない言葉だ。この場合の「あられ」は、「ある」の未然形に助動詞「れる」が付いた「あられる」の名詞形「あられ」に、助詞「も」、形容詞「ない」が付いて出来た言葉。意味は、あるはずがない。考えられない。とんでもない。そうあってはならない。ふさわしくない。はしたない。と言う意味を表し特に、女性の態度や振る舞いについて言われる。あられじ・あられ・あられぬ・あられるなどと使われる。「感謝感激-雨霰」と、気象用語が二つも入った言葉がある。親しい間柄の人に対して、ありがたい気持ちを軽く表わす言葉だが、戦時下に戦況を報じる新聞の見出しで使われた「乱射乱撃雨霰」を洒落て言った言葉とされる。今日のように寒いと、湯豆腐をつつきながら 熱燗で一杯したいところだ。
2012年12月22日
談合坂のイルミネーション中央道は杉並区高井戸を起点として、3方向に分岐する富士吉田線・西宮線・長野線の3路線から成る。旧街道の甲州街道及び中山道に沿う形で整備された、私が最も多く利用する有料道路である。開通当初は中央高速道路と称していたが、「高速」という名称で速度超過による事故が頻発したために、中央自動車道という呼称に改められたという。現在、笹子トンネル崩落事故によって大月インターチェンジから先、勝沼インターチェンジまでの区間は通行止めになっている。起点の高井戸という名前の由来を調べて見ると、高い所の井戸から水が出ていたからとの説もあるようだが、昔この地で高井家が代々宮司を務めていた神宮寺に、「お不動様」が祀られたお堂があったことから、「高井の堂」と呼ばれたのが転じて「たかいど」となったとする説に説得力がある。稲城インターの稲城の由来は、明治22年の合併の際「稲毛」の名称を選んだが、千葉に同名があり不許可になったことから、検討が重ねられ最終的に「稲城」に落ち着いたものではないかとされている。府中の名前は、今から約1300年前大化の改新により武蔵国が誕生し、その国府が現在の府中市に置かれたことに由来している。同一市名を認めない唯一の例外として、広島県にも府中市がある。これは2市の市制施行がほとんど同時であったという特殊事情によるものである。八王子という地名は、全国に分布している。牛頭天王(ごずてんのう)と8人の王子を祀る信仰の広がりの中で、八王子神社や八王子権現社が建立され、それが地名として定着したものである。八王子市には、八王子城の八王子神社がある。インターチェンジの名称になっている相模湖は、相模川をせき止めて作った人造湖である。命名者は内山岩太郎元神奈川県知事である。戦後にできた最初のダム湖(1947年)で、ダムに○○湖と命名した最初の例とされる上野原の名前は、康治2年(1143年)頃、武蔵七党の一つ、横山党の古郡忠重が上野原城を支配したことに依る。上野原インターの先には、談合坂サービスエリアがある。自衛隊の装備発注やヘリコプターの発注で、官制談合が行われたことが新聞を賑わしているが、談合坂の名称については次のように解説する人がいる。1.周辺の集落の話し合いの場がこのあたりで行われた。2.戦国時代に武田氏と北条氏との間で停戦調停が行われた。3.武田氏から北条氏へ嫁に行く際の決まりごとが話し合われた。4.この地に桃太郎伝説があり、ここで雉や猿や犬をキビ団子で手なづけた。 この説を引用している人は沢山いるが、調べて見ると何れも同じ人の説に辿りつく。この場所で様々な談合が行われたとする説は、荒唐無稽で説得力が無い。中央道のこの坂は、5~6パーセントのかなりの急勾配である。中央道が開通する以前から、この地域には随所に階段・石段があったと想像できる。談の「だん」は、段々のだんではないだろうか。てんでん…こ、替わり番…こ、鬼ごっ…こなどと同じ、状態を表す接尾語で、段々になった場所即ち「だん…こ」→「だん…ご」→「だんごう」になったのではないだろうか。 大月インターチェンジは、大月市にある。第10代谷村(現都留市)城主(現留市にあった城)、秋元但馬守秦朝が農業振興のため完成させた「五ヶ堰」に大槻(ケヤキの別名)が群生していたことから、地区名を「大槻」と言うようになり、その後駒橋(大月駅から130メートル、富士みちとの分岐で今の大月橋)より見た月がひと際大きく見えたところから「大槻」が「大月」となったという。トンネル天井崩落で通行止めが続いている笹子トンネルは「ささご」と言うが一般的には笹子は「ささこ」で、まだ整わない鳴き方をしている冬のウグイスの別名である。町の名称由来として詳しいことは分からない。 「石垣の 上の竹垣 笹子啼(な)く/虚子日本一のブドウの里勝沼は、1889年(明治22年)の町村制施行に伴い、東山梨郡勝沼村が誕生したことが名称の始めである。釈迦堂パーキングエリアの東側の土手の階段を登った所に遺跡博物館がある。中央自動車道建設の際、290を超える竪穴住居跡や、土器廃棄場、土坑などが発掘され、それらの資料を展示している釈迦堂遺跡博物館の名称から取ったものである。
2012年12月21日
大月市 岩殿山昔から「馬鹿と山羊は高いところが好きだ」と言う言葉がある。山羊は、習性で本当に高い所へ上る。昭和33年に完工した高さ333メートルの東京タワーでは、翌年の塔乗者が513万人の記録を作り、今もなお年間入場者数が300万人を越えているという。東京タワーの高さを遥かに越える、高さ634メートルの東京スカイツリーが今年の5月22日に開業した。6か月後の11月21日までに塔へ上った人の数は328万人で、開業一年間では640万人が入場する見込みだという。人は馬鹿でなくても、山羊に負けずに高いところが好きな証拠である。東京方面から下りの、中央道大月インター手前に巨大な岩山を刳りぬいた岩殿トンネルがある。トンネルの上の岩殿山は、岩殿城跡である。山の周囲は全方面が急峻で、東から西まで絶壁を連ね北側も急傾斜であり天然の要害をなしている。1582年に織田が甲斐に侵攻した際、岩殿城主の小山田信茂の裏切りにより韮崎の新府城を逃れてきた武田勝頼は城内に入れず、進退に窮した勝頼は天目山(甲州市大和町)で自害して果てた。武田家滅亡に深く関わった小山田信茂だが、織田信忠から主君を裏切った不忠者として咎を受け、甲斐善光寺において嫡男とともに処刑された。岩殿城址は、標高634メートルの山である。新潟県にある標高634メートルの弥彦山は、弥彦神社の祭神を祀った山として人々の崇敬を集め、山全体が神域とされている。新潟県南魚沼市の東の坂戸山には、直江兼続ゆかりの山城跡(国指定文化財)がある。この山の標高も634メートルである。標高634mで、花の美しい山として知られる天蓋山(てんがいさん)は、新潟県村上市にある。新潟県五泉市五頭連山の北端にある荒川山は、従来630メートルと言われてきたが、5月22日の東京スカイツリーの開業に合わせて則量し直した結果、晴れて634メートルと認められ、地元の有志が最高地点の荒川山に標高634mのアルミ製の標柱を立てたという。島根県にある標高634メートルの矢滝山は、石見銀山を守るための城郭が築かれた山である。 東京スカイツリーの高さの丁度634メートルの山を探してみたが、山国日本にしては案外少ない感じがする。しかし、平地で634メートルの土地はどこにでもあり、北杜市白州町横手の私の山小屋の300メートル先は、正に標高634メートルなのだ。10月に私も山羊と同じで、328万人の仲間入りを済ませた。〈註〉東京スカイツリーの塔の高さとの比較をしたが、実際には海抜1.1メートルの高さの上に塔がたっているから、標高635.1メートルの高さが無いと塔より1メートル低くなってしまう。 国土地理院は、GPSを使って簡単に標高を調べることのできるシステムを公開した。次のURLを開いて、簡単に国内の標高を知ることが可能である。http://saigai.gsi.go.jp/2012demwork/checkheight/index.html
2012年12月20日
若宮八幡神社 モミの木 師走の半ばを過ぎて、最低気温が零度を記録するようになって、いよいよ本格的な冬の季節となった。半世紀も前のこの時期には、街中に大音量で朝から夜中まで「ジングルベル」の流れる喧騒があったが、現代はこの狂気染みた恒例の行事もすっかり落ち着いて来たように感じる。日本のクリスマスの習慣は、大正15年12月25日に大正天皇が崩御し、この日が休日に定められたこともあって広く普及した。昭和23年にできた新たな法律によって、大正天皇祭は休日から外されたが、商業施設での飾り付けや家庭でツリーを飾り、子供にプレゼントを贈るなどのクリスマスの行事は定着して、益々盛大に行われるようになった。クリスマスは、もともとキリスト教徒がキリストの降誕を祝うための行事だが、我が国ではキリスト教とは全く関係なく飲み食いをし、プレゼントを贈ることが習慣とされる日となっている。近年は、電気使用量の少ないLEDが発明されたこともあり、家庭での電飾を競い合い楽しむ風潮もある。クリスマスツリーに使用される木は常緑針葉樹で、ヨーロッパではヨーロッパモミが使われてきた。現代は、入手しやすいドイツトウヒなどもつかわれている。アメリカでは毎年、オレゴン州だけで、農地で育てた700万本もの幼木が使われている。常緑樹のモミの木が使われるのは、冬季も葉を落とさないため強い生命力を象徴としているからとも言われ、またO.クルマンの著書『クリスマスの起源』の中には、中世に行われた「聖夜の降誕祭の舞台劇」でリンゴの木の代わりに、モミの木に禁断の木の実を飾ったことが由来であるとの記載がある。モミの木は日本の、秋田県から屋久島まで広く分布している。雌雄同株で球果(マツボクリ)を作るが、熟すと鱗片は種子と共に飛び散って果軸だけが残る。松やヒマラヤスギは球果を落とすが、モミは固まったマツボクリを落とさない。モミの種子はリスが好んで食べるので、樹下に青い鱗片が固まって落ちていることがある。北杜市の白州道の駅の隣地に、白須若宮八幡神社(しらすわかみやはちまんじんじゃ)がある。由緒ある神社だが、普段は宮司が常駐していない無人の神社である。その境内に樹高15メートル、目通り幹囲5.8メートル、推定樹齢400年のモミの大木がある。このモミの木は山梨県下で最も大きな樹であり、1975年に旧白州町指定天然記念物に指定された。有名な諏訪大社の御柱のモミはおよそ樹齢200年から300年で径1メートル、長さ16メートルとされるから、若宮八幡神社のモミが如何に大きいか想像できる。このモミは、落雷の影響で地上6.6メートルから樹幹が折れ、火災により樹皮を残して内部がすっかり焼けて、ヒトがゆっくり入ることができるほどの空洞となってしまっている。折れた部分の樹皮から生じた径20センチから30センチほどの一本の枝が、約30センチ横に延びた後直角に10メートル直上し、外部から見ると全く枝とは気づかせないで、一本の樹として神社の杜を形成している。このモミの木は今なお、活力旺盛であり自然の力強さを見せつけられる気がする。来客がある度にこの木を案内するが、自然の生命力にいつも驚嘆する。 …原田甲斐は庭にある樅の巨木の孤高を語った。「私はこの木が好きだ。この木は何も語らない。だから私はこの木が好きだ」。宇乃は甲斐が、樅の木に己の生き様を重ね合わせているように思えた。『註』山本周五郎 「樅ノ木は残った」より。 まさにこの満身創痍のモミの木は、山本周五郎ばりに言えば「それでも残った」と言えるだろう。
2012年12月19日
わが国には、物事や事象にランキング付けしたものが多い。これが高さ・大きさ・色彩・量・重さなど五感で確認できるものは良いのだが、人の主観や好悪での判断によるものだと中には?と首をかしげたくなるものもある。日本三大銘石と言われるものに佐渡の赤玉石、神戸の本御影石、鳥取の佐治川石がある。 台座か砂をしいた水盤の上に自然石を置いて鑑賞することが好事家の間で古くから行われているが、その鑑賞する石のことを水石と言う。水石という名前は、水盤に入れた石に水をかけると色彩が美しく見えるからであるとも、古来公家や武家社会の茶席で床の間の置物に飾られ重用された「山水石」、または「山水景石」から来た名前であるとも言われる。現在鑑賞石として珍重されているのは、山景や海上の岩の姿が連想される「山形石、遠山石、岩潟石、滝石」と言われるものや、「菊花石、虎石」など模様が珍しい「紋石」、形の面白い「姿石」、色彩の美しい石などである。明治以前に鑑賞用とされた石は、そのほとんどが山水石であったとされる。1961年に日本水石協会が設立され、第1回展覧会が三越で開催されたことが契機となって、昭和40年頃に石ブームが湧き起こり好まれる石は多種多様になった。日本三大銘石のうちの赤玉石は佐渡島に産し、魔よけと言われる朱赤色をしており、色が美しく縁起の良い石として飾られ、色彩石として珍重されている。石英に含まれる多量の酸化鉄が高熱と高圧で結合した石である。非常に硬く、磨いたときに透明感のある美しい光沢がでる。かたちの良いものは、水石としても価値がある。近年ではほとんど産出がなく、庭石・飾石・貴石として非常に貴重な石である。本御影石を水石として鑑賞することはほとんど無い。神戸市に産し、御影石の語源となった。水石としての鑑賞よりむしろ、庭石や加工して墓石などにされる。昭和9年国立公園指定に伴い採石が制限された。佐治川石は鳥取の千代川の支流に産し、流水によって磨がかれた石の肌合いや起伏が珍重され盆石・景石として有名になったが、昭和40年に採取が禁止された。この中には入っていないが、岐阜県根尾に産する紋石に有名な菊花石がある。母岩は輝緑凝灰岩で、これに含まれる方解石や石英の放射状結晶体が析出し、石面に菊の花が開いたようにみえる見事な模様をみせる。白花が多いが、青・黄・赤花などがありいずれも華麗である。花は数ミリから1メートルを超えるものまである。花の形の現れる位置もさまざまで、この石の愛好家が多い。水石としての歴史もかなり古く、昭和10年代からとくに人気が出た。1952年に国の特別天然記念物の指定を受け、この区域での採取は厳禁されている。 昭和の、鑑賞石収集ブームの頃に義父が集めた多くの水石の中から、今年の夏重量40キロ、一花の長径37センチの菊花石を譲り受けてきた。我が家に越してきてから半年にもならないのに、今では玄関の内庭にすっかり馴染んでその存在感を誇っているように見える。
2012年12月18日
11月16日の衆議院解散にともない、12月4日の公示から始まった選挙狂想曲が昨日で漸く終わった。選挙投開票の結果は、衆議院解散の時点から既に予測されていたもので、決して驚くに値するものではない。この選挙で盛り上がったのは候補者だけで、有権者は冷めきっていたのではないだろうか。今までの国会運営の視線は国民に向かず、政治屋の政争の具となり下がってしまったように見える。前回は、国字もまともに読めなかったり、腹痛と言って首相の座を途中で投げ出した人のせいで、羅針盤を失って迷走し閉塞感の蔓延していた日本を、新政権が夢のあるバラ色の社会に変えてくれるかも知れないとの熱い期待からの投票行動があったと思われる。所が実際に政権交代がなされた後、新政権は政治に未熟な鵜合の衆であったため、益々政治は混迷し日本丸は沈没寸前まで疲弊してしまった。甘い蜜の公約はほとんどが反故となってしまい、国民の多くは最早政治に何も期待しなくなっている。今回の投票率が前回を10ポイントも下回わることが予測されている。そうなれば戦後最低の投票率となり、それは国民が政治に何も期待しなくなっていることを明確に示しているのではないか。今までの国会運営を見る限り、国会自らが有権者の投票行動を否定するような虚しさを助長しているのも事実だ。今回の当選者480人は、たった半数の有権者の投票で選ばれたわけだから、これで果たして「国民の信託」を受けたと言えるのだろうか。勿論、棄権する有権者に最も大きな責任があるのだが、投票行動を促すような何かが欲しい。何かとは、期待が持てる政治を行うことに尽きる。こんな現象は、小選挙区・比例選挙区並立の制度になってから如実になって来たような気がする。選挙の度毎に、政治に不信感を持った人の付和雷同型投票で政権がコロコロと替わる。今回選ばれた政権に不満があった時、次回は4度目の正直でまた前の政権に戻るのだろうか。被選挙人の利害と保身のためだけでない、抜本的な選挙制度の改革と真剣な国会運営がなされなければ、これからの日本に未来は無い。
2012年12月17日
都心のイチョウ並木も落葉が進んで、すっかり葉を落として枝ばかりとなった。イチョウの葉の紅葉は黄金色一色で、冬の日が当たると目に眩いばかりだ。神奈川県で最も有名なイチョウに、樹齢千年を超え、源頼家の子で八幡宮の別当を務めていた公暁がこの銀杏の木に隠れて待ち伏せ源実朝を殺害したという伝説から、「隠れ銀杏」とも呼ばれていた鶴岡八幡宮の大銀杏があった。この木は、平成22年3月10日未明の強風で根こそぎになって、倒れてしまった。 1年後の3月11日には、東関東大地震が起きて関東から東北にかけての太平洋側に甚大な被害を及ぼした。千年目に起きた鶴岡八幡宮の大イチョウの異変は、一年後の大地震を暗示していたのかも知れない。イチョウは銀杏、公孫樹、鴨脚樹とも書き、イチョウ綱の中で一科一目一種の種で裸子植物に分類される。広葉樹にも針葉樹にも属さず、葉の原始的な平行脈は二又分枝している。 註: オシドリの雄の両翼の風切り羽の内側の一対が発達した、橙色でイチョウの葉の形の羽をイチョウ羽という。移植により世界中に広められ、年平均気温が0 - 20℃、降水量500 - 2000mmの地帯に広く分布している銀杏と書くのは、ギンナンが杏の実に似ていて白いことから付いた名前であり、イチョウの葉がカモの足に似ていることから鴨脚樹と言われ、中国語では、「イチャオ」、 「ヤーチャオ」と読まれるので「イーチョー」、「イチョウ」になったとされる。また、植えてから実がなり始めるのは孫の代になってからということから公孫樹という漢字があてられた。多くの大木には、気根と呼ばれる枝から垂れ下がった円錐形の突起を生じる。この円錐状の突起は、「乳」と呼ばれ、「乳イチョウ」と呼ぶこともある。イチョウは油分を含み水をよくはじく上、材質も均一で加工性に優れ、歪みが出にくいなどの特質を持つ。カウンターの天板・構造材・造作材・建具・家具・水廻りなどのほか、碁盤や将棋盤にも利用され、なかでもイチョウ木のまな板は高級品である。イチョウは、雌雄異株であり、結実するには受粉が必要である。5月に伸びた新芽に雌花、雄花が開花する。花粉は1km程度離れた株からでも飛散してくるという。裸子植物であるイチョウの受粉はまず、雌花の胚珠(種になる部分)に取り込まれた花粉が、胚珠の上部の花粉室で4か月程そのままの状態を保つ。直径約2cmほどに成長した胚珠内の花粉で数個の精子が作られ、9 月から10月頃放出された精子が花粉室の液体の中を泳いで造卵器に入り、受精して種子の成熟が始まる。ギンナンは、かぶれなどの皮膚炎を引き起こす。また、食用とする種の中身にはビタミンB6の類縁体が含まれていて、多食によりビタミンB6拮抗作用によりビタミンB6欠乏となり、まれに痙攣などを引き起こす。その種の雑誌や本で、イチョウの葉の効能が喧伝されているが我が国では、イチョウを医薬品として認可していないのでイチョウ製品に効能を謳うことは出来ない。民間療法でイチョウの効能が喧伝されているが、生の葉は摂取しない方が良い。また、雑誌などに「イチョウ葉茶」の作り方が掲載されることがあるが、自分で調製したお茶にはかなり多量のアレルギー物質の、ギンコール酸が含まれると思われ飲用は勧められない。昨年12月岡山県の北部、勝田郡奈義町にある「高貴山菩提寺」の樹高45m、幹周り13.48m、樹齢900年の国の天然記念物のイチョウの大木を見学した。幹周りでは、全国9位にランクされるイチョウの巨木である。菩提寺は鳥取との県境の那岐山の標高600mの中腹にある。役の小角が開いた山岳寺とされ、後に、僧行基が十一面観音像(現在の本尊)を安置したと伝えられる。菩提寺は長年無住職の寺で、僧房も何時使われたのか分からないほどに荒れ果てていた。本堂の屋根が腐って抜け落ちたところを、小雨の中2人の職人がひっそりと修復作業をしていた。寺の入口に寄付要請の立て看と寄付金入れがあった。檀家はないようなので、修復費は本山からの費用と寄付などの浄財で賄っているのだろうか。菩提寺は荒れ寺で見る影もないのに、境内の端に威風堂々と佇立するイチョウの姿の巨大さに圧倒された。金色の ちひさき鳥のかたちして 銀杏ちるなり夕日の岡に 与謝野晶子
2012年12月16日
婚姻色のオシドリの雄鴛は雄の、鴦は雌のオシドリのことでどちらもオシドリと読む。昔から仲睦まじい夫婦の事をオシドリ夫婦とか鴛鴦の契と言い習わしてきた。しかし、オシドリを含めてカモ類の全ての鳥は、毎年必ず相手を変え雌雄が2年以上共に過ごすことは絶対にない。冬季には、川や沼で大小の群れをつくる。群れの中でグループディスプレイがおこなわれる。人間社会で言えば、流行の合コンとも言えるものだろうか。求愛のディスプレイは夕方や明け方に多く行われ、数羽の雄が1~2羽の雌の周囲を泳ぎながらメスの横で、冠羽やイチョウ羽を立てて求愛のディスプレイをする。 番(つがい)の形成は、9月頃から翌年の2月頃まで続く。番になったオシドリは木の洞穴などに巣を作るが、4月から7月の繁殖期の巣作り・抱卵・育雛は全て雌のみが行い、雄が協力することはない。雌が子育てに大童の時期に番を解消した雄は、雄同士で群れを作って遊びに夢中になったり、さらには再婚を目論むものもいるのだ。何故、オシドリが仲睦まじい夫婦の代名詞にされたのだろうか。ペアリングのオシドリは一夫一婦で、どれを見ても同じ色・模様の羽色で見分けがつかない。寄り添う2羽を見ていると、いつも同じペアが連れ添っているように見えることから勘違いしたものであろうか。実際は、50年以上も連れ添う人間夫婦の方がオシドリの見本になるのかも知れない。オシドリの飛来地で有名な、鳥取県の日野町を流れる日野川には、10月頃から3月にかけて多数のオシドリが飛来する。20数年前からボランティアが餌付けを始め、現在では多いときには千羽以上のオシドリを観察小屋から間近に見ることができる。今年は、12月2日に飛来数が700羽を越えたと言う。日野川を一年前に初めて訪問したが、昼近くだったためオシドリは全て観察小屋から離れた川の対岸に散ってしまっていた。オシドリは、非常に臆病な鳥で、餌場に撒かれた餌を食べに集まる以外は、岸から離れた場所に移動してしまう。ドングリ・コメ・大豆などの餌を早朝に撒くので、オシドリ観察は早朝か夕方が良い。
2012年12月15日
カキは、グリコーゲンや必須アミノ酸・ミネラル類を多く含み、海のミルクとも言われる。我が国で最も多く食べられているカキは、マガキである。マガキの旬はおおよそ9月から4月の間とされる。カキの産卵期には味が落ちるためである。岩ガキは、マガキと産卵期が異なるために、夏場にも食べられる。カキの名前は、「おかきのかい」とか「かきおとす」と言われたことに由来する。密集して岩に張り付いている貝を「掻き取る」ことからついた名前と言う。1966年12月中~下旬にかけて、広島産カキの生食が原因と思われる下痢症が発生し、東京以西の11都府県で1,596名の集団患者が出た。24時間から48時間の潜伏期間で発症し、軽度の腹痛と下痢が主症状であった。カキの産地の当時の広島では、筏で養殖したカキを出荷前に河口近くの河川水が流れ込む場所へ移動して身を太らせる、「ドブ漬け」と言う作業を行ってから出荷していた。河川水には、汚水処理場では除去出来ない大量の細菌やウイルスを含んでいる。カキ1個は、1日におよそ150リットルの水を吸入し、中の植物プランクトンを餌として取り込んでいる。同時にこの水に含まれるウイルスも取り込まれて、生物濃縮によって中腸腺に蓄積される。カキが原因で発症した、急性胃腸炎患者の便から、非常に微細なウイルスが検出され、小型の(S)・球形(R)・表面に構造物を持つ(S)・ウイルス(V)と名前が付けられ、以来わが国では小型球形ウイルスと呼ばれてきたが、2002年7月に国際ウイルス命名委員会で正式にノロウイルスと名付けられた。ノロウイルス下痢症は、一年を通じて発生するが特に冬季に多く発生する。ノロウイルスによる食中毒は、カキやアサリ、シジミなどの二枚貝によると言われてきた。これは、カキを生食する機会は冬場が多いこと、かつて比較的高率にカキからウイルスが検出されたことが理由と考えられる。2001年~2003年のカキの汚染状況調査では、生食用カキの12.9%、加熱加工用カキの24.4%がノロウイルスで汚染されていた。しかし一方では、ノロウイルス感染症の原因がカキと特定される割合は年々低下しており、2006年後半にはカキが原因食材と特定された集団食中毒の発生はなかった。1966年の事件をきっかけとして、ドブ漬けの禁止などのほか細かい成分規格や加工基準、保存基準が作られた。また消費者に対する啓発、生ガキの生産から販売に至る経路対策も功を奏し、カキを原因とする食中毒の減少につながったものと考えられる細菌性食中毒の発生は、食品中に万単位の大量の原因菌が増殖していることが必要で、数十個程度の菌が付着している食品を食べてもほとんどの場合発症しないのが一般的である。ノロウイルスの感染は飲食物によるほか、寒さや乾燥に抵抗性があり微細であるため、吐物や排泄物が乾燥してて空気中に舞い上がって空気感染したり、ドアノブなどに付いたウイルスが手指を介して感染する。非常に感染力が強く、30個以下でも発症するといわれている。乳幼児から老人までの幅広い年齢層で感染・発症するため、集団感染を起こし易い。典型的な症状は、前兆無しの激しい吐き気と嘔吐で、次いで腹痛と下痢がおこる。発熱は38度程度である。症状は比較的軽いが、下痢と嘔吐が激しいと水分が失われて、体力のない乳幼児や老人では脱水症を起こして重症化することがある。経口的に水分補給ができないときは、点滴で補液を行うことが必要となる。通常は3日程度で症状は治まるが、便からのウイルスの排出は1~3週間続くことがあり、7週間を越えて排出した例も報告されているので、症状が治まった後も二次感染に対する注意が必要である。感染経路の遮断には、石鹸を使用した手洗いや器具の洗浄が必須である。消毒薬の逆性せっけんや消毒用エタノールでは不活化できないことにも注意を要する。吐物や排泄物の消毒には、次亜塩素酸ソーダが有効だが、皮膚を荒らすので手指の消毒には使用できない。食品では加熱が最も確実な消毒方法であるが、ノロウイルスは60℃30分程度の加熱では不活化されず、85℃以上で1分以上の加熱で初めて不活化される。十分な加熱が必要である。かつて、ニュージーランド南島のクイーンズタウンと言う小さな町の、ロープウェイで行く眺望絶景のレストランで食事をしたことがある。同行の妻は食べなかったが、美味しかったので食中毒を心配しながらも生ガキを4皿もお替わりした。幸い、心配したことは何も起こらなかった。生カキ一辺倒だった50年以上前の流行様式は、すっかり様変わりしてしまったようだ。牡蠣汁や 居続けしたる 二日酔 正岡子規
2012年12月14日
1982年に「さざんかの宿」と言う演歌が唄われ、流行ったことがある。明日はどんなにしても見ることは出来ないが、今でもカラオで良く唄われるらしい。山茶花山茶花咲いた道と、「たき火」と言う童謡の二番の歌詞にも山茶花が出てくる。この歌は、昭和16年に作られたもので、その年の12月9日と10日の二日間だけNHKで放送されたのだが、翌日軍からから戦時下の非常事態に焚き火とは不謹慎な歌詞だとして放送が禁止された曰くつきの歌だ。ところで、山茶花に誠に良く似た花に寒椿がある。区別がつきにくい事を指して、「何れが菖蒲か杜若」と言う言葉が使われるが、菖蒲に負けず劣らず椿・山茶花・寒椿も区別がつきにくい。サザンカのことを「山茶花」と書くのは、中国語で椿の事を「山茶」と書くことに由来する。椿の葉はお茶の葉と同じように、飲料にしたと言われている。その花は「山茶花」である。したがって山茶花とは、山に生えているお茶の木と言う意味である。我が国で山茶花と言う言葉が使われ始めたのは、中世になってからで当時は「サンサクワ」と発音していたのが、ササンクワ→サザンクアになったとされる。江戸時代になってから、現在のサザンカに「山茶花」の文字を当てるようになったものである。山茶花に似ている花に寒椿がある。寒椿には二種類の系統があり、現在の主流は中国原産のカンツバキと山茶花の交雑種の「寒椿群」という系統である。「寒椿群」は山茶花の一種として認知されている。山茶花の学名はCamellia sasanquaと言う。この仲間には山茶花群、寒椿群、 春山茶花群の3群があり、このうち寒椿群はすべて立ち性(椿系)で通称は立ち寒椿と言われている。一方、中国原産の「カンツバキ」は学名はCamellia hiemalisで、冬咲きの椿を意味する。名前のごとく、冬咲きで矮性であることが特徴である。つまり山茶花も寒椿も同じ仲間なのである。交雑種なのでどちらの血も流れていて、山茶花と寒椿の二種を区別することは難しい。しかし、山茶花と椿は特徴を覚えれば、区別は比較的容易である。山茶花の子房と新葉の葉と枝に微毛があるが、椿には無い。椿の花は筒咲きで平開せず、花弁は纏まって落ちるが、山茶花や寒椿では、花弁や雄蕊がバラバラに散るなどで区別する。兵庫県篠山市にある西方寺には、樹齢600年という天然記念物の山茶花の老木がある。高さ4.5メートル、枝張り10メートルの良く手入れが行き届いた木として知られている。山茶花、椿、茶の木など椿科の葉を食べる害虫に、チャドクガが知られている。発生を知らないでいるとわずか1週間ほどで、樹木が丸裸にされてしまう。この毒蛾の卵塊、幼虫、繭、成虫、抜け殻には毒針毛があり、触れると猛烈な皮膚炎を発生させる。直接触れなくても、木の下を通ったり風下にいるだけでも毒針毛に触れ被害にあうことがあり、公園など幼児に被害を与えるような場所の植栽を伐採したところもある。スミチオンなどの殺虫剤を使う他、着いている枝を切り落として幼虫を踏みつぶす、新聞紙を丸めて火を点けて焼き殺すなどの方法で、早期に退治することが必要だ。 間もなく私も誕生日がくるのだが、12月8日の誕生花は寒椿で、花言葉は「謙譲・愛嬌」だそうだ。
2012年12月13日
果実に砂糖を加えて煮詰めたものをジャムと言うが、このうち完成した時に果実の原型が残るものはプレザーブと言い、かんきつ類の果皮を入れて作るものはマーマーレードと呼ばれている。ジャムには多くの果実が使用されるが、野菜や花を使ったものまである。ジャムはそのままでは食べないで、パンやクラッカーに塗ったりヨーグルトに入れたりして食べるのが一般的だ。 キウイフルーツは、冬季の気温がマイナス10度を下回るような地域でも栽培が可能である。山荘には、植樹後13年のキウイの棚が2基あり、一基は緑色のヘイワード種で他はゴールド種である。ヘイワードの方は、中々育たなくて、2前年から漸く成り始めたところだ。ゴールドは収獲が始まってから8年ほどになるが、雄木がカミキリの幼虫にやられて、何回植えても枯死してしまう。雌木しか無いので、実を採るためには授粉をしてやる必要がある。しかし山荘と住まいとが離れているために、授粉の適期に訪問するのが中々難しいのだ。今年は春先からの天候不順もあって開花の時期がズレ、授粉に訪れた時期と合わず、遅れて咲いた3分の1位の花にしか授粉が出来なかった。今年も少し早目の10月末に収穫したのだが、昨年より大幅に収量は減ったものの、それでもコンテナに2杯ほど収穫出来た。本当は、初霜の降りる頃の11月中旬まで木に付けておけばよいのだが、猿の軍団が悪戯をして全て落としてしまう。さすがに木成りのキウイは酸っぱくて食べられないらしいが、噛み跡を付けて落としておくと1週間ほどで熟して食べられるようになる。猿はこの4年ほどで、すっかり酸っぱいキウイを甘くして食べる方法を学習してしまったらしい。収穫後追熟には、リンゴの出すエチレンガスがキウイの追熟を早めるという。しかし、ゴールドは熟すのが早いので、そのままでも収穫後1週間もすれば素晴らしく甘くなる。昨年は知人や親戚にお裾わけしたのだが、残ったコンテナ2杯分のキウイはとても食べきれなく、一部はジャムに加工した。それでも殆どが熟しすぎてしまって庭に捨てるはめになってしまった。毎日せっせと10個ほども生食していたのだが、今年も柔らかくなり過ぎたので生食は諦めてジャムを作ることにした。キウイジャムはペクチンを加えなくてもトロミがつく。皮をむいて軽く潰した果肉の重さの半量のグラニュー糖を振りかけ、暫らくおいて水分が析出したら火にかけて適度に煮詰めるだけで良い。庭に柚子が沢山生るので、酸味を足すためにその果汁を入れる。30分程の加熱で、綺麗なグリーン色は失われてしまうが、ほど良く酸味の効いた美味しいジャムが出来る。果実のキウイはなかなか長期の保存が難しく、来年は多量の収穫が出来なくてもよいので、ブドウの房のように数多く結実させないで少し摘果した方が良いかも知れない。
2012年12月12日
東京都を始めとして、千葉・愛知・大阪・鳥取・高知など多くの都道府県によって絶滅危惧種の指定を受けているものに、カワセミがある。カワセミは、翡翠・魚狗・川蝉などの別漢字がある。魚狗でカワセミとはなかなか読めない。水色の体色と長い口嘴が特徴で体色が美しいことからヒスイとも、青い宝石とも譬えられる。カワセミの青い色は、色素によるものでは無く羽毛の微細構造が光の具合で青く見えるもので構造色と言われる。シャボン液に色が無いのに、シャボン玉が様々な色に見えるのと同じ理屈だ。宝石の翡翠は、カワセミの背中の色から付けられた名前だと言う。したがって漢字の翡翠はカワセミ、ヒスイのどちらにも通用する。カワセミ科にはショウビン亜科、カワセミ亜科、ヤマセミ亜科がある。カワセミがブッポウソウの仲間と言われてもピンとこない。ブッポウソウは、ゲェーゲゲゲと鳴き、ブッポウソウと鳴くのはコノハズクの鳴き声であり、このミミズクは、別名声のブッポウソウと言われる。同じ科のアカショウビンなどの「ショウビン」はカワセミのことで、同じ「翡翠」の字を当てている。今年の山里の気温は、早くも連日の零下を記録している。日中でもプラスの気温にならない。これがマイナス10度を下回るようになると、鉄製のドアノブに触ると掌が吸いつくようになる。自噴式の水飲み場の吐出口は、直径1センチメートル弱で先端に穴が開いた丸い状態である。その穴から絶えず水を噴出しているのであるが、地下を通って来た水は、噴出の瞬間には凍っていない。だが水を飲むときには、金具に直接唇を着けないように注意しないといけない。私は中学生の頃、酷い目に遭ったことがある。金具に唇が吸いついて離れなくなってしまったのだ。瞬間に凍りついたものである。無理をして剥がした唇は、上皮が剥がれて血だらけになってしまった。坪田譲治の日本むかしばなしに、「権兵衛とカモ」という民話がある。私が子供の頃聞いた話とは若干違う気がする。私が聞き憶えているのは、「かもが沼で休んでいる夜の内に、寒さで足が凍りついてしまって動けなくなった…。」と言うものだった。こんなことはおはなしの中の事だと思っていたが、自然界でも実際に起こることがあるのだ。高校への通学の途次、天竜川の支流の小川に架けられた、木の丸太橋を杭に結わえていた鉄の針金に、カワセミがまるで鳥モチにかかったようになってばたついているのを見つけたのだ。ひと(トリ?)助けのつもりで保護して、40分程かかって学校に着いた頃には、残念ながら死んでしまっていた。同級生の旅館の息子が持って帰って、はく製にして暫らく玄関に飾られていた。今ではむごいことをしたと反省している。
2012年12月11日
強風の忍野富士春は足音を忍ばせてやってくる。春一番早く咲く福寿草の花は、庭の片隅でいつか知らない内に密やかに咲く。梅の花から桜に移る頃には、文字通りの百花繚乱の世界となる。対照的に、山里の季節で最も激しい変化を見せるのは、秋から冬への装いの変化であろう。たった10日ほど前には、彩錦に彩られていた山裾が、おどろおどろしい強風であっと言う間に葉を散らされ、夏の間は緑の葉で見えなかったのに、遠い山の稜線の木の梢を通して空が見えるようになる。そして昨日まで茶色の山肌を見せていた山は、今朝はもう雪で真白になっている。春にも初冬にも強風が吹くのだが、同じ強風でも春一番は生命の復活を感じるのに、木枯らし一番では年の終焉を感じるのだ。人の感覚は、不思議なものだ。我が家のシンボルツリーは、玄関前の槲(かしわ)の木である。槲は落葉樹であるが、正月縁起の良い木として飾られる常緑の譲葉(ゆずりは)と同じように春、新芽が出てから枯れ葉が落ちる。代を継ぐと言って、こちらも庭木では縁起の良い木とされている。今日の白州は、稀に見る強風が朝から吹き荒れ、山から吹き下ろす風に落ち葉が天高く舞い上がっていた。槲の枯れ葉は一般的には、手で毟っても取れないほど強固に着いている筈なのに、枯れ葉のほとんどは、度び重なる強風で千切れて飛散し既に丸裸になってしまっていた。南アルプスはすっかり冬化粧をした。強風で、2千メートルを越える山から舞い上げられた積雪が、里にも絶えず舞って来る。今年は例年より、10日も早く冬の季節が進んでいる。やがて里山で聞こえるものと言えば、風の音以外に無い長いモノトーンの世界に入る。そんな灰色の世界の中でも、多くの野生動物が跳梁跋扈している。畑の取り残しの野菜は動物たちのご馳走だ。山芋は、猪が大きな穴を掘って食べて行く。大根は猿が、地上部を余さず食べ尽くす。人参は鹿の好物だ。捨てたサトイモの親芋さえ、食べられるか齧って試してみているのだ。今年も畑の作物を散々荒らされたが、長い厳しい冬の期間せめて野菜くずを漁る位は大目に見てやりたい。笹子トンネルの天井崩落事故による通行止めもあって、いつもは140キロメートルほどの行程を2時間余りで行けるのに、今朝は倍の4時間を要した。帰りは河口湖・山中湖を通って来たが、途中忍野八海に立ち寄った。中央道が通行止めとなって、代替の迂回路はこれから積雪や凍結をする。危険性を考えると、山小屋へは今日が今年最後の訪問になるのだろう。孫達が、冬休みのバーベキューを楽しみにしていたが、道路状況で中止した。
2012年12月10日
渡嘉敷島全景那覇市の西方32キロに位置し、慶良間諸島の中で一番大きな島が渡嘉敷島で、面積は僅かに15.8平方キロメートルで南北に細長く、中央部から北側に200メートルを越える山が連なっている。その間にあるわずかな低地に合わせて700人の渡嘉敷と阿波連二つの集落がある。那覇泊港からは高速艇で35分の距離にある。島は深いリーフに囲まれ、魚種も豊富で優れたダイビングスポットがあり、ダイバーにとってあこがれの島であり多くの人が訪れる。12月~3月の冬季には島の周囲に鯨が現れるので、ホエールウォッチングでも有名である。態々ウォッチングのボートを仕立て無くても、島へのフェリーや高速船でも見ることができる。戦後60年余を経過した現在は、空き巣や窃盗、喧嘩などの話も聞かない平和な島であるが、渡嘉敷島は、米軍が最初に上陸し村民が『集団自決』に追い込まれた悲劇の島としても知られている。昭和十九年の終り頃、水上勤務隊と称する朝鮮人軍夫3百人がN中尉を隊長として来島した。朝鮮人慰安婦たちは、昭和十九年の十月に連行されてきた。米軍は翌年三月二十六日午前八時に、水陸両用艇で阿嘉島の南部海岸から上陸した。しかし、島に駐屯していた守備隊は出撃せず、自らの手で唯一の攻撃手段の特攻艇を破壊してしまった。この時A大尉は住民に対して集団自決を命令し、三月二十八日午後三時、現在は青年の家が建つ山の近くで三百二十九人の島の人たちが悲惨な自決を遂げたとされている。自決について命令は明確で無かったかも知れないが、住民それぞれに自決用の手りゅう弾が渡されていることからすると、自決を促す意図は明確に感じられる。A大尉は自決を命じていないとしているが、その際たまたま生き残った夫人がいて、直接話を聞くことが出来た。今では多くを語らないが、彼女が生き延びることが出来たのは、乳飲み児を抱えていたことに依るらしい。村の責任者から「あなたは死ななくても良い、赤子がいれば敵も保護してくれるだろう」と言って、手りゅう弾を渡されなかったと言う。集団自決の悲惨な歴史の陰に、別の悲惨な出来事も隠されている。今も従軍慰安婦の問題では、韓国との間にしこりが残っている。昭和十九年十一月朝鮮全羅南道出身の女性28人が那覇に着いた後、渡嘉敷と阿波連の2カ所の基地に7人ずつが送られてきた。戦争末期のその後の3か月間、連日20人もの兵隊の相手をさせられたと聞く。明日をも知れない戦時下故に許容された出来ごとだったのかもしれないが、現在の我々には思いも及ばないおぞましい出来ごとと言うほかない。渡嘉敷港から阿波連に向かって間もなく、車一台が通れるほどの舗装道路を左に折れ、山道を登って行くと山頂の直ぐ下の道路右側開けた場所に、従軍慰安婦慰霊のモニュメントがある。このモニュメントは、平塚市在住の伊集院真理子氏により1997年7月に制作完成されたものだ。碑文には次のように刻まれている。「このモニュメントが、過去の戦争のあやまちを語り継ぎ、反戦平和を誓うモニュメントであり続けることを願ってやみません。」
2012年12月09日
沖縄は事台風に関しては、「台風銀座」と言われるほど台風の通り道になる。毎年平均で25個程度発生するが、その中5個ほどが通過する。今年は、過去に例を見ないほどの強風を伴った台風が2回も直撃した。フィリピンの東海上で9月21日に発生した台風第17号は、大型で非常に強い勢力を保ったまま9月28日から29日にかけて沖縄・奄美を通過した。この台風により、非常に激しい雨が降り猛烈な風が吹いた。また、海上は猛烈なしけとなり、沿岸では高潮が発生した。渡嘉敷島では瞬間風速58.9メートルを記録した。阿波連小学校の岩を抱いたガジュマルの大木が、三分の一ほど根を残して、ブロック塀に横倒しとなった。屋根が飛ばされた民宿も出た。本土で60メートルの風が吹いたら、多くの家屋が飛ばされることになるのだろう。沖縄で台風が直撃する割に被害が少ないのは、十分な台風対策が取られているからである。建物の構造は鉄筋コンクリートか頑丈なRC構造の建物となっている。耐風圧・気密・水密性のサッシが使用されていて、ガラスは4mm以上の厚さがある物を使用している。観光旅行で、シーサーが乗った伝統的な木造赤瓦の町並みを期待しても、その点では裏切られてしまうことになる。それでも何十年振りかの猛烈な台風では、被害が出るのだ。台風がもたらすプラスの面もある。土地が狭く山の低い沖縄では、雨水は直接海に流れ込んでしまい自然の貯水能力は無い。川が無いので、河川の氾濫は無い。水の供給は、従来は天水に頼っていた。したがって日照りが続けば、水飢饉に陥るのだ。今でこそ、貯水タンクの普及やダムの建設によって水事情が緩和されたが昔は断水も多かった。一方では沖縄の空中塩分濃度は本土に比較して10倍以上も高く、台風が来れば、数十倍から百数十倍になると言われる。今回の17号台風では、渡嘉敷島のスダジイで覆われた山の木が塩害を受けて、全山が紅葉の後の枯れ木の山ようになっていた。金属は塩の付着で直ぐ錆びるので車やサッシ・ガラス窓に付着した塩も落とす必要がある。沖縄を縦断したこの台風の被害は、保険金の支払い額が過去最大の57億638万円にもなったそうだ。自然災害大国の日本に居住する以上、過剰に思われるくらいの災害対策でちょうどよいのかもしれない。
2012年12月08日
平家物語に「盛者必衰の理をあらわす。」とある。栄える国家にも、いつかは必ず衰退する日が来ることは、過去の歴史が如実に示している。過去に栄えた、六大文明発祥の地とされる「文明のゆりかご」も、今や歴史の中にしか名残を止めていない。現代のヨーロッパ諸国の衰退は、目を覆うばかりだ。日本国も例外ではない。焦土と化した第二次大戦後の国土が、20年を経ずして驚異的な復興を成し遂げ、一時は世界に誇る経済大国にまで上り詰めることが出来たのに、今や凋落の一途を辿っている。こんな原因を作った責任の多くは為政者にあり、政治に失望した国民は、政治から目を逸らせてしまっている。その結果、国民のために有るべき政治は、有権者の半分にも満たない人から選ばれて両議院に所属した政治屋のものと成り果ててしまった。今日は、第46回衆議院選挙が公示される。現行選挙では最多の12もの党が乱立している。選挙にのみ勝つために、離合集散を繰り返し新たな少数政党が乱立することで、有権者は益々候補者を絞りにくくなってしまった。3年6か月前に選挙公約で候補者を選択した多くの人は、選挙詐欺に遭ったと同然な気持ちだろう。外交・経済全てにわたって未熟さ丸出し、失敗繰り返しの政権運営を見て、国民の誰もが政治家を信用しなくなっている。国会が二院制を採るのは、それなりの崇高な理論があるのだが、今や屋上屋の感が否めない。これでは、参議院不要論も出てくるだろう。わが国では、古より為政者が変わる度に、国家に劇的な変化があったことは歴史が物語っている。現在の閉塞感漂う混迷と低迷が続く日本丸の進路を、正しい未来に向けて舵を取り、再び活気ある日本に変貌させて貰いたいと全ての国民が願っている。今度こそ、旨い言葉で綴られた選挙公約に惑わされないで、日本の未来のために正しい判断をして投票したいものだ
2012年12月04日
(画像は12月3日 朝日朝刊より)福島原発の大事故は、大地震による津波の影響という自然災害が誘発したとは言え、元になった巨大地震の発生と津波の規模が予測出来ずに、危険性が指摘されていたにも関わらず津波対策が後手に回ってしまったことも原因となっていて、全く関係者の責任無しとは言えない。事故後関係者の発言に、「想定外の…。」という発言が多かった。つい先日は、同一会社製造エレベータの不具合により、数年前の教訓が生かされずに同じ死亡事故が発生した。昨日の、中央自動車道笹子トンネルの天井板落下事故のニュースを聞いて、まさかと言う気持と、若し自分が通行中だったらどうなっていただろうかと胸の詰まる思いをしている。この事故で、多くの人命がまた失われてしまった。閉じ込められた人が無事であることを祈るとともに、雪の舞う中夜を徹して懸命な救出活動に従事している関係者に敬意を表したい。生家が伊那谷で、セカンドハウスと菜園が北杜市にあるので、年間50回ほどこのトンネルを往復している。このトンネルが開通したのが1977年だから、現在までの35年間の内には恐らく500回程度は通行したことになるだろうか。このトンネルは、換気のために1枚1トンを超すコンクリートパネルを吊り下げて天井が作られていて、トンネル内が二重構造になっている。開通した頃にはこの構造が一般的だった。当然のことながら、今までこの構造のトンネルでの天井パネルの落下事故は無く、今回が初めてだという。重力に逆らってアンカーボルトによって吊り下げたコンクリートパネルは、施工の当初から荷重がかかっていたわけだ。ボルトには経年劣化があるのに、荷重は変わらないのだから極めて危険な構造物だったと言えるのではないだろうか。全国の国道・県道を含めて、約1万本もあると言われるトンネルの安全確認と早急な総点検が求められる。場合によっては、経費を度外視してでもパイプと送風機による換気装置への転換も進めるべきではないだろうか。こと、人命に関わる事項については、「想定外」と「試行錯誤で」という言葉は通用しない。諺に「石橋を叩いて渡る」というのがある。人の作りだした技術については常に謙虚であるべきだ。科学の危ういことは、PCB(カネミ油症事件)でも経験している。技術は常に未完成であり、どこかに陥穽のある事を悟るべきだ。
2012年12月03日
県の運転試験場は、日曜日も業務を行っている。特に平日用事があるわけでもないが、日曜日の事務手続きは混雑しないのではないかと思ったのが大間違い。朝8時半からの受付に間に合うように、日曜日にも関わらず薄暗いうちに起きて出掛けた。道路には、駅から徒歩で行く人の波が続き、隣接の駐車場近辺は入庫待ちの車で大渋滞になっていた。試験場の係員の話では、日曜日には3000人が手続きに来るそうだ。日曜日の手続きはいつも午前中に集中し、午後遅くなってからの方が待ちが少ないのだと聞いた。免許は、技術・技能が一定の条件に達していると判断された場合に、特定の人に禁止事項を解除する行為である。行政法上は、許可と特許がある。最も身近で一般的な例としては、自動車運転免許がそれに当たる。一定の運転技術に達しているかどうかの検証は、最初の免許を取る際運転技能試験で確認される。さらに、道路交通法規と自動車の構造についての知識は、二者択一の○×試験で一定以上の点数を取らなくてはならない。また特定の病気が無いか、運動機能と一定以上の視力・聴力があるかが免許の条件となる。自動車運転免許は、運転技能が優れていることを証明するものでは無く、規則で定められた最低限度の技能・知識があることを認定しているに過ぎない。私は自動車運転歴40年だが、その間中央自動車道で覆面パトに速度違反で2回、通行区分帯違反で1回の違反切符を切られている。冬季に起きた追突事故では、免許停止の処分を受けた。車の前進にはかなりの自信がある。知人は評して老人暴走族とも言う。しかし、何時まで経ってもバックの際はドキドキする。現在の車には、左サイドとバックのモニターが付いていることで何とか普通にバック出来るような状態だ。70歳を超えた人に対して免許更新の前に、高齢者講習の受講が義務化された。これが75歳を超えると、痴呆の検査が加わる。免許更新手続きは、高齢者も一般も一緒の窓口で行われる。先ず長蛇の列に並んで、申請書を受け取り、その後視力検査がある。その次は、IC化に伴う二組の暗証番号の設定が必要だ。次の窓口では、免許更新通知のハガキ・所有の免許証及び申請書を出して確認を受ける。定められた額の証紙を購入して申請書の所定の場所に添付して、漸く申請書受付窓口に並んで提出するのだ。更新通知には、更新時に持参すべき必要な書類などが記載されている。高齢者に限らず、若い人でも必要な書類を持って来ていない人がいて、そんな人がいる窓口の列はストップしたままとなる。例えば更新通知のハガキを持って来ていない、証紙を買っても添付していない、暗証番号の設定ができていないなどだ。窓口毎に必要な書類や手続き方法が掲出されているのだから、並んでいる間に必要事項の記入や書類の準備をして置くべきだ。そうすれば、列の進みはもっとスムースになるのだろう。 今日の手続きの高齢者免許更新グループの中に、通知ハガキの内容を見ていなくて事前講習を受けないで来たという人がいた。こんな人の例は別だが、高齢者以外でも注意力が不足していると思われる人もいる。こんな注意力散漫な人が運転している多くの車が走っていると思うと、矢張り車は怖いものだと思う。
2012年12月02日
新蕎麦より、あなたのそばの方が好きと言う人もいるようだ。しかし、秋蕎麦の食べられる日を待ち望んでいた蕎麦好きから言わせれば、正に逆だ。暑い夏の日に真っ白に咲き誇る蕎麦の花を横目で見ながら、一日も早く旬の秋蕎麦を食べたいものだと願っていたのだから。新蕎麦は、収穫時期の夏と秋の季節の違いで2種類に分けられる。一般的に新蕎麦というと秋蕎麦を指している。地域によって収穫の時期が異なるが、秋の新蕎麦は10月下旬頃から11月上旬頃に食される蕎麦とされている。乾麺の公正競争規約では、蕎麦粉30%以上の製品について「そば」表示が認められている。沖縄の「そば」には、蕎麦粉は全く使用されていない。小麦粉に、ラーメン製法と同じ鹹水を使用して煉る。全く蕎麦粉を使わないのに「そば」という名称を使用することはできないと指導されたが、沖縄麺協組合の陳情の結果、特例として「沖縄そば」の名称が認められた経緯がある。蕎麦のもっともポピュラーな食べ方として、もり蕎麦・ざる蕎麦がある。最も古い食べ方で、茹でて冷水でぬめりを取った麺を蒸篭(せいろ)や笊(ざる)に盛り付け、つゆをつけて食べる。薬味として、ワサビ・ダイコンおろし・刻みネギ・山芋などを用いる。冷たい蕎麦である。かけ蕎麦は茹でて冷水でぬめりを取った後、麺を温め直して丼に盛り暖かいつゆをかけたもので、薬味には刻みネギや七味唐辛子が使われる。蕎麦好きには、真冬でも「もり蕎麦」を好む人が多い。食べるときにチュルチュル音を立てて啜り込む。パスタを食べる時のように少しずつ噛みきって、静かに食べていたのでは全く旨そうに見えない。かなりの比率で、蕎麦に対してアレルギー体質の人がいる。蕎麦アレルギーの場合、摂食直後からかなり強い症状が現れ、場合によっては呼吸困難で死に至ることもある。蕎麦はアレルギー物質の特定原材料に指定されていて、原材料として使用された食品には表示が義務付けられている。蕎麦屋では一緒に饂飩を提供している店舗が多く、蕎麦を避けて饂飩を注文しても同じ茹で釜を使用すれば蕎麦が混入し、ほんの微量であってもアレルギー発作を起こす。白く上品な香りを持つ一番粉を使用した蕎麦が「更科蕎麦」である。東京などでよく食べられる。粘りがないので、つなぎが使われる。田舎蕎麦(いなかそば)は、蕎麦殻も一緒に挽き込んだ、黒っぽい蕎麦粉で製造された蕎麦のことをいう。蕎麦の香りが強く、あまりつゆをつけずに食べる。つなぎには山芋などが使われる。藪系の蕎麦は、緑色の甘皮部分を挽き込んだ鶯色をした蕎麦である。種皮の緑色が鮮やかで「藪」系の蕎麦は香りが良い。 蕎麦屋で生蕎麦(キソバ)の語が使われるのは、上等な蕎麦を生蕎麦と呼んでいた頃の名残である。元来は「そば粉のみ、そば粉に少量のつなぎを加えたもの、小麦粉などの混ぜものが少ない」蕎麦を意味するものだった。当世は、立ち食い蕎麦屋等でも「生蕎麦(きそば)」という幟が掲げられており、まるでナマと乾麺との区別ほどの意味しか持たなくなってしまった。蕎麦を使った「刻そば」という、有名な古典落語がある。蕎麦屋台で起こる滑稽話である。元々は上方落語の演目「刻うどん」を東京落語に直したものであり、「煮込みそば」の勘定をごまかす様子を目撃した男が、自分も真似をして見たが反って損をしてしまった。」という滑稽話である。この場合、丼に入った蕎麦でないと、幾ら好きでもざる蕎麦ではやりにくいだろう。 そば打ちや 鶉衣に 玉だすき 其角
2012年12月01日
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