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文芸家協会の作品合評会で、私の作品を読んでハグをしたい、とおっしゃる方がいらした。戦後70年の特集を読んでの感想であった。戦後生まれの女性には戦中戦後の社会情勢に翻弄される私の人生に、抱きしめたいという思いで作品を読んだとか。か細い女性に太めの10歳も年上の私が抱きしめられるという光景。何やらこそばゆい思いであったが、悪い気持ちではない。またレギュラー作品では共感したという声も聞かれて気分よく時間を過ごすことができた。 刻印を背負って(私の戦後70年) 一昨年、妹尾河童氏の自伝的小説『少年H』が映画化された時、家族中で映画館に足を運んだ。映画は昭和初期の神戸を舞台に一家族の目を通して戦争を語っていて、私の横浜での体験とあまりにも似通っていた。 少年Hの父親は洋服の仕立屋で消防士。私の父は時計修理屋で消防音楽隊員であった。外国人を相手にするなど商売の上でも共通していた。暗雲が忍び寄る昭和十九年から二十年前半を映し出す場面は、小学生だった私の目に焼き付いていた理不尽な情景と重なり息苦しくなった。 家に半長靴のまま、ずかずかと上り込んだ男たち。映画と同じ光景を幼かった私は見ていた。憲兵だったのか特高だったのか分からないが、父を乱暴に連れ去るカーキ色に覆われた男たちの不気味な姿。恐れおののく私たち家族に向けた冷たい一瞥。拘留後、友人たちに抱えられて家に戻ってきた父の姿から拘留中の過酷な状況が見えるようだった。時計修理屋にとっての大切な指は曲がっていた、背中には割竹のような鞭で叩かれたのか、血が滲み腫上った無数の線が、背中一面に残されていた。母が涙声で何やら口走りながら油薬を塗っていた姿を、私たち兄妹は立ちすくんだまま凝視していた。歯を食いしばって泣くまいとしていた。 戦死して戻った少年の骨壺に父は寄り添い、親の悲痛な気持ちを代弁して発した言葉が、咎められたとか、非国民だとか、時計修理を通しての外国人との交流があり、英語を話していたことが、スパイ容疑につながったらしいとか、憶測でしか伝えられていない。父は一生この忌まわしい事件を話さなかった。それに英語力があったとは誰も思っていない。映画の中では芸に生きたかった青年が召集に背いて自死する場面があった。切なくて空しくてたまらなかった。兄は九段の坂で自死している。戦後新聞記者になった兄は、当時学徒動員で戦死した人の記事を集めるのに奔走していた。新聞社では兄の死を殉死と記録している。計り知れない事情があったにせよ、私には父母を悲しませた兄を理解しきれないでいた。 映画の後半、少年Hは、戦後の大人たちの変わりように、「堪忍して、もう生きられん」と書いて線路に横たわり、何のための戦争だったのか、と叫ぶ少年の心の内が重く伝わってきた。兄の葛藤を思い巡らせたからである。 父は自慢の長男を亡くして気力を失くし働くことを忘れ、身勝手に生きていた。母が寝る間を惜しんで針仕事をして一家を支えていた。私はそんな父が好きになれなかった。父が旺盛な好奇心を取り戻したのは、NHKのラジオ放送『民謡を訪ねて』を聴くようになってからであった。民謡の世界に目覚めた父は、第二の故郷となった栃木の民謡のさびしい状況を知り郷土民謡協会の会長となり、埋もれかけた民謡を古老から聴き取り甦らせることに没頭していった。 父が採譜し甦りを願った『足尾石切節』を父のもとに通っていた若者が唄い、民謡日本一になった。その喜びを知ることなく、父は逝った。 湯灌をしたとき、背中の傷跡は消えていなかった。戦時中の忌まわしい刻印を背負ったまま、人生を閉じた父だが、忌まわしい傷跡に喜びを上塗り出来たと思いたい。
2016.02.24
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更生保護女性会では、毎週2日間の児童養護施設への訪問をしている。幼い子どもたちと1時間遊ぶ時間をとっている。久しぶりに初めて参加する友人と出向いて、部屋に入ると走って飛びついてくる幼児。思わず倒れそうになる。座れば膝に腰を下ろす。こんなおばあちゃんたちでも、よりどころになるのだと思えば、来てよかったと思う。おばちゃん抱っこして、ぐるぐるして、とせがまれ回先頭のように回してあげた。もっともっとという。さすがにこちらも目が回りそうになった。遊びに集中できる子、すぐ飽きてしまう子、さまざまだが、こうした子供たちの背景には何があったのだろうと思うと、たまらなく愛おしくなる。おりしも3歳の子の虐待のニュースが新聞紙面にあった。
2016.02.20
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午前午後と集団検診を受けに出かけた。胃の検診を除いてすべての検診を受診。病院で受けること多かった私だが、久しぶりに集団検診を受け、あまり混雑しないのに驚いた。もっと大勢を予想していた。手際よくスムーズで、待ち時間の多い病院より感じがよい。かつて私の胃がんはこの集団検診で見つけられ、命が救われている。3か月遅かったら命はなかったといわれた。忙しさにかまけて検診をおろそかにするなかれを身をもって知っている。午後は婦人科検診。閑散としている。なんでこんなに少ないの?今乳がんなどは4人に一人だなんて言われているのに、この受診者の少なさ。駄目だよ検診を受けなきゃ。私は大きな病気をいくつも体験しているが、よみがえっているのは、早めの検診のお陰。病気発見はタイミング。
2016.02.17
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息子のボトックス注射の日。連如く、病院まで車いすで出かけた。好天気がうれしい。外を車いすに乗って歩くことはめったにないので、いやに神妙だが、とおりの車の多さに興奮して物を投げるのを警戒する。帽子ひざ掛けを車道に投げることのないよう警戒して歩道を進む。本当は目を保護するように言われているがメガネ蓮後放り投げてしまうため帽子を目深にしてメガネはかけないで行く。元来小学校に上がったころからメガネのお世話になっていたド近眼息子だが、このところめったにメガネは付けていない。息子にとって煩わしいとしか感じられないものらしい。もしかしたら事故の衝撃で近眼が治った?なんてことはないだろうけど。病院の医師はかつて事故当時を知っておられる脳外科医だ。何となくほっとする。注射は、硬直を避けるために行われている。直すのでなくこれ以上硬直しないためになされている。なんでも高価な治療薬だと聞いている。息子は重度障害ということで、医療費はかからない。ありがたいことだ。それだけに薬効への期待も大きい。
2016.02.12
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今日は独協大学病院での定期健診。いつかここで新型インフルエンザをもらってしまい大事になったことがあった。この時期は要注意。二重マスクで検査を待つ。いつもよりわずかながら人が少なく見える。インフルエンザ流行期を警戒しているのかな。「もう6年に入るね」と話す担当医師.「今のところどこも心配はないね」というが、もういいでしょうとはいわない。10年様子を見るのかなあ。悪性リンパ腫は悪性と言われるくらいの病気だから、慎重なのだろう。かの高倉健さんの命を奪ったのもこの病気だ。いつどこに部分に出てくるかしれない血液の腫瘍なのだから。まだしばらくは病院と縁は切れそうもない。私には息子を見守らねばならない使命がある。再発はしてくれるなよ。
2016.02.10
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母校でもあり、私の最後の赴任先だった小学校で茶道の体験会が開催されました。対象は6年生120名ほどです。日本文化の体験学習です。私が退職する1年前に私が頼まれて地域の方にお願いして始めた事でした。もう20年続いています。今では私も伝える立場で参加していますが、あのころと、校舎も会場の家庭科室も変わっていません。全員が二人で向き合って茶をたてる人といただく側両方を体験し、興味津々でした。わたしとて気慣れない着物を引っ張り出して身につけ、朝からてんやわんやでしたが、我が家の普段眠っているお道具も日の目を見ることができたし、まだまだ私も何年かは役に立てそうです。
2016.02.10
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