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昨日は高校の同期会がありました。2007年12月以来ですから3年ぶりの再会。今回は母校の校内で開催ということで、八尾まで出掛けて参りました。折からの台風接近でお天気の方が心配されましたが、それたようにて、雨も止み、風も強くは吹かず、無事の開催となりました。 午後3時開会ということで、自転車で行けなくもないのであるが、雨の心配もあったので、電車で行くことに。 卒業生500余名であるが参加者は80余名。小生は3組であったが、何と同じクラスは小生のみ。事前の参加申し込み者は4名居たようだが、いずれもキャンセルになったらしい。会場に入るなり、「お前のクラスはお前一人やぞ。」という友人の声。唖然である。まあ、それでも見知った顔や一年生の時に同じクラスであったり、同じサークルであった者の顔もあり、楽しいひと時となりました。(近鉄八尾駅) 小生が通っていた頃は未だ高架になって居らず、電車は地上を走っていました。駅の場所も移動したので、記憶にある風景は見当たらない。通学路であった商店街も立派になり過ぎて、歩いていてもよそよそしい気がする。(通学路であった商店街も昔の面影はなく・・。) 通学路であった商店街に入り、記憶につながる店がないかと探すが、どれも記憶にない店ばかり。変わらぬのはお寺と神社だけのようであります。 という訳で少し立ち寄ってみる。(常光寺山門)(常光寺境内) 常光寺は臨済宗南禅寺派の末寺。「八尾の地蔵さん」と呼ばれて親しまれている。8月23,24日の地蔵盆には境内で行われる河内音頭による盆踊りが有名で河内の名物となっている。(八尾天満宮) 八尾天満宮は「八尾の天神さん」と呼ばれ、八尾寺内町の鎮守。慶長年間に片桐且元が創建したと伝えられる。(長瀬川) この川まで来ると安心。川沿いに行けば八尾高にたどり着く(笑)。校歌の二番の歌詞が「高安山に照る月を 長瀬の川に映すとき・・」で、小生には馴染みの川。上流に辿ると大和川に至り、下流に辿ると、小生が高校2年の春から通い出した日本基督教団小阪教会があり、更に下って寝屋川に注ぐ。(校門) ここを入ってすぐに校舎建物が右側に建っていて、左側がプール、突き当りが体育館。その前に広いグラウンド、というのが当時の姿であったが、今は校舎がグラウンド南側に建て替えられ、我々が学んだ校舎は取り壊されグラウンドの一部となっている。 母校も記憶に繋がるものと言えば、校庭の南西の隅にあった旧大和川の堤防跡の小山、キツネ山くらいなもの。そのキツネ山も新校舎の裏側に隠れて目立たなくなってしまっている。キツネ山なのにタヌキ寝入りしているようだ。校門を入った処で前を行く同期と見えた女性に声を掛けて彼女と話をしながら、受付まで行ったが、彼女が「見る影もない」と評していたように、母校も亦よそよそしい顔になってしまっているのでありました。 母校は遠くにありて思ふもの、そして悲しく歌ふもの、でありますな(笑)。(校舎)(狐山)(同窓会の会場の「ゆうかりホール」)(会場内風景) 「北は札幌から、南は大分から」(幹事代表の横○さんの言葉)集った同期の桜80余名。楽しく話に花を咲かせました。 記念写真撮影、開会、乾杯、食事、歓談、恩師のスピーチ、閉会、後片付け。終った頃にはとっぷり日は暮れて、暗くなっていました。<関連記事>2007年12月1日 2009年8月29日
2010.10.31
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(承前) 仏號寺を左に見て、細い坂道を上って行くと鳥居が見えて来た、という処で前回は終りました。鳥居には「飛鳥戸神社」と刻された石板が掲示されているのだろうが、けん家持の視力では判読できない。飛鳥戸神社のそれと信じて上って行くと程なく、突然という形で道脇に飛鳥戸神社が現出した。 小さな神社である。(飛鳥戸神社)(本殿は小さな祠である。) 境内の説明板には次のようにある。「飛鳥戸(あすかべ)神社は、飛鳥上(うえ)の段(だん)の一角に鎮座する延喜式内の名神大社(めいしんたいしゃ)であり、雄略朝に渡来伝承をもつ、百済系飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)一族の祖神(おやがみ)である「飛鳥大神(百済の昆伎王(こんきおう))」を祀っている。平安時代初期には、子孫にあたる百済宿禰(くだらのすくね)や御春朝臣(みはるのあそん)たちの働きかけにより、貞観元年(859年)8月に無位から正四位下を授けられ、翌2年10月に「官社」に列し、元慶4年(880年)8月には春秋の祭礼費として神領田1町が支給されている。現在の本殿は、南面の桧皮葺(ひはだぶき)の流造りで、美しい姿を留めている。」 (注)昆伎王の「昆」は原文では王ヘンが付きます。 二三カ月前に車中で読むべしで旅の出掛けに買った文庫本、内田康夫著「明日香の皇子」という小説の終盤に登場する神社が、この飛鳥戸神社であったかと記憶する。「明日香の皇子」として村人たちが崇め敬い、この神社に伝承されて来た人物の肖像画に、主人公が瓜二つで、明日香の皇子の再来として迎えられるというような展開の中で、この神社が登場するのだが、勿論、虚構にて、現実の飛鳥戸神社とは関係ないストーリーである。タイトルに興味を引かれて書店で手にしたのだが、読み飛ばしたからか、ストーリーの詳細は殆ど記憶に残っていない。それにその文庫本、旅先のホテルに忘れたのか、何処かに捨てたのか、手許にもないので、確かめようもない(笑)。 まあ、地図で飛鳥戸神社の名を見つけて、この小説のことを思い出して、訪ねてみようと思い立ったのが、今回の銀輪散歩でありました。 神社の前に矢印のある案内板があって「観音塚古墳0.5km」とある。ついでにと訪ねることにする。更に坂道を上って行くこととなる。(観音塚古墳への道) 葡萄畑の間を行くと、やがて大きな池に出くわす。そこを左に入った小山の上に古墳はある。ここでも行き過ぎてしまい、道脇の畑で農作業をされていたご夫婦にお尋ねして、また引き返す(笑)。(観音塚古墳) 観音塚古墳は7世紀に築造された横口式石槨の古墳である。棺を納める石槨と石槨の入口前の前室(死者とお別れする場所)とで構成される。(横口式石槨古墳) 古墳は高い場所にあるので、眺望はなかなか素晴らしい。前の池も眼下に見える。丘の斜面はセイタカアワダチソウが咲き群れて秋風に靡いている。(観音塚古墳からの眺め) 近くには観音塚上古墳、観音塚西古墳があると古墳前の説明板には記載されているが、場所が分らないので探索はしないこととして、下に降りることにする。(セイタカアワダチソウの群れ)(ノブドウ) (センダングサ) (ヤマゴボウ) さて、時計を見ると午後2時ちょっと前。そろそろ帰途につくことといたしましょう。坂道を一気に下る。飛鳥戸神社の前を通過、竹内街道まで一気の下り坂である。月讀橋で竹内街道にお別れ、飛鳥川左岸の道を駒ヶ谷駅付近まで走り、逢坂橋で右岸の道に移り、石川との合流点まで下る。後は石川沿いに北へ。玉手橋を渡って、石川左岸から河川敷の自転車道に入り、大和川まで。(玉手橋) この橋は昭和3年の架橋の五径間吊橋にて、文化庁登録有形文化財に指定されている。(玉手橋の上から石川上流を望む。) 大和川を渡ったところで南東を見やると二上山。この眺めが何故か好きなヤカモチである。あの山の手前まで走って来たのかと振り返る。(大和川から二上山を見る。)(近鉄安堂駅。停車中の電車は、上本町行きの各駅電車。) 近鉄大阪線安堂駅の前の踏み切りを渡り、恩智川沿いの道を帰る。途中でいつものCafe de nanaにて、珈琲休憩。この喫茶店も久し振りである。30分ばかりゆっくりして出発。少し雲が出て来た。 川辺の藤棚の下でいつも将棋に興じている男達の集団が今日も。初めてカメラを向ける。見ず知らずの人達にカメラを向けるのは気が引けるものである。(将棋をする人々) 帰宅すると午後4時過ぎ。5時間余の銀輪散歩。本日もお付き合い下さり、有難うございました。 今日は台風接近の中、高校の学年全体の同期会が母校の八尾高校を会場にして、午後3時からあります。午後から出掛けて来ます。心配した台風もこちらはどうやら直撃はないようで、昨夜吹いていた強風も今は止んで、雨も小止みになっている。大丈夫なようだ。ただ、東京方面から参加予定の諸氏は大変かも。東京近郊の市で市会議員をやっているM君の顔など思い出しながら、そんなことを思っている次第であります。
2010.10.30
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本日は南へ。思い立って飛鳥戸(あすかべ)神社まで銀輪散歩して来ました。午前11時に家を愛車MTBで出発。恩智川沿いのいつもの道を走り、柏原市役所前へ。ここで11時45分。少し早いが市役所東側の喫茶店で昼食。 腹もふくれた処で、長瀬川沿いに下り、JR柏原駅の北西にある、三田家住宅などを見て行くこととする。(長瀬川)(JR柏原駅西口)(三田家住宅) 三田()氏は、三田浄久(さんだじょうきゅう)が大坂伏見呉服町で大文字屋という屋号で商売をしたのが、その始まり。寛永13年(1636)に、代官末吉孫左衛門(すえよしまござえもん)に協力して柏原舟(かしわらぶね)を興し、寛永17年(1640)に当地に移住して来た。干鰯(ほしか)や油粕などを扱う肥料商を営み、柏原船の営業や地主としても栄えた家であったとのこと。現在の建物は、明和3年(1766)から同5年にかけて建てられたもので、重要文化財に指定されている。三田家の表側は奈良街道に面し、裏側は了意川(りょういがわ)に面している。柏原船の積荷を直接屋敷内に運び込める構造になっている。(三田家住宅裏側と了意川) 三田家住宅から少し先に行くと寺田家住宅がある。寺田家住宅は北条屋の屋号で油粕問屋や柏原船を営業して栄えた家にて、主屋のほか、敷地内の離れ座敷、内蔵、土蔵、米蔵、南門、東門が登録有形文化財に指定されている。(寺田家住宅) 寺田家住宅の北西隣に柏原神社がある。創建年代などは不明とのことだが、柏原市にお邪魔したからには、ご挨拶して行かずはなるまい(笑)。(柏原神社)(同上) (境内の芙蓉の葉) (手水鉢にはジュンサイか?) 寄り道はこれまで。 大和川に戻るべく引き返すことに。三田家の裏に流れる了意川べりを行くと、柏原舟ふなだまり跡の碑があった。 (柏原舟ふなだまり跡の碑) 碑の裏面には「大和川の洪水で度々大被害を受けた柏原村を救うため、1636年から柏原船(大坂への舟運事業)が始められた。4年後70艘にまで増え、明治になって鉄道が開通するまで大いに栄えた。ここはその『ふなだまり』の跡地である。」とある。 新大和橋で大和川を渡り、石川に入る。石川の左岸を走り、石川橋で右岸に移り、西名阪自動車道の下を潜った先で、石川に注ぎ込んでいる小川、飛鳥川に沿った道を行く。(石川) 飛鳥川と云うと奈良県明日香村の飛鳥川のことかと思われる向きも多いかと思うが、それは大和の飛鳥川にて、こちらは河内の飛鳥川である。この川の上流にかけての一帯は、大和の飛鳥に対して、河内飛鳥、近つ飛鳥と呼ばれているのである。 古代にあっては、百済系渡来氏族紀氏、田辺氏、蘇我石川氏などの本貫地でもあった。下記の万葉歌は河内の飛鳥川を詠ったものとされている。明日香川 黄葉(もみぢば)流る 葛城の 山の木(こ)の葉は 今し散るらし(巻10-2210) 飛鳥川に架かる月讀橋で小休止。この橋を通る道は日本最古の古代の国道(官道)・竹内街道である。竹内街道を行く。(月讀橋から飛鳥川下流を望む。)(月讀橋から飛鳥川上流を望む。) (竹内街道。写真左・柏原方面。写真右・上ノ太子方面) 竹内街道は上の写真のように住宅の間をクネクネと続く狭い道であるが、処々で国道166号らしく広い道になったりもする。 (竹内街道。広くなったり、狭くなったり。)(八丁橋で飛鳥川を渡る。) 八丁橋で飛鳥川を渡って集落の中に入ると道は狭くなる。目指す飛鳥戸神社へは、上の写真右の撮影場所で左に入って坂道を登って行くのだが、見落として先に進んでしまい、気が付けば近鉄南大阪線・上ノ太子駅の前。引き返す。正しい道に入り、行くと鳥居が見えて来る。(近鉄南大阪線・上ノ太子駅)(仏號寺)(飛鳥戸神社鳥居) この鳥居を潜って、更にずっと坂道を上って行くと飛鳥戸神社である。いよいよ目的地到着であるが、続きはまた明日です。いい処で終るのが連載物のコツなのであります(笑)。
2010.10.29
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偐万葉・nanasugu篇(その3) 偐万葉シリーズ第80弾です。 本日は久々に偐万葉・nanasugu篇であります。 偐万葉・nanasugu篇(その3)をどうぞお楽しみ下さい。 <参考>過去の偐万葉・nanasugu篇はコチラからどうぞ。 nanasuguさんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持がnanasuguの郎女に贈りて詠める歌19首 併せて俳句2句世を捨てて 狸寝入りを 決め込むも よに大阪の 友は許さじ (けん少納言)ゆく年は ゆくにまかせよ くる年は くるにまかせよ あるがままにぞ南国は 冬もスープで 汗を掻き(筆蕪蕉) 睦月はつ 青き月夜の 道よしと 妹しも犬(ナノ)と たもとほり来る (注)ナノ=nanasuguさんの愛犬の名日の本は 春立ち梅の 花咲きて 遠き山の端 雲立ちなびく春の戸を 開けてや妹が あたらしき 家に幸(さ)きけと 風も光れり月讀(つくよみ)の 空行く時ぞ 塵(ちり)泥(ひぢ)の 身に針立てて 仰ぎまつらめ (苦行家持) 春節の 花の虎吠え めでたさも 二倍なりけり ななすぐの春招き猫 人を招けど タッパ持つ 卑しき日本の 人お断り (バイ菌グ) 多用した 珍妙なれる 日本語の 皮を剥(む)きつつ マンゴープリン (何のこっちゃ) 夢桜 咲きて妹待つ 大和はも 春日(はるひ)の霧(き)れて 今盛りなり我はもや 猫にありけり 花の香の 過ぎて強きは 逃げるほかにゃし (猫家持) サンダルも 似つきて時に 韓人(からびと)と 問はれけるかな 大和撫子 (下駄家持)鬼灯(ほほづき)も 郷に馴染んで スイーツに (鬼蕪蕉) 草の上は 坐るによけど 草の椅子 あるとは知らじ しばしも唖然 (芝し家持)ゲゲゲのゲ 目玉オヤジの 出でも来て 上々なるや ガチャガチャの姫 (ゲゲゲの家持) つつくだけ つついて鳩は 去り行きぬ ピリ辛大盛 喰ふは誰が胃ぞ (辺野古郎女)梅雨空を 吹きや飛ばせる サムライブルー 乱舞狂喜の ゴールゴールゴール (偐蹴持)青シャツの 牛は一番 なりしかど 敗れて今朝は 何や思(も)ふらむ (爽やかブルー) 我妹子も かくとや見しか 墺国(おうこく)の 街のをのこの 何や召すらむ (偐ナナ) (注)墺国=オーストリア野焼きはも ほどほどにせよ ヘイズれば 禁煙分煙 無意味なりけり (喫煙する嫌煙家) (注)掲載の写真は全てnanasuguさんのブログからの転載です。
2010.10.27
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別に大笑いしている訳ではありません。 当ブログのアクセス数が88888を超えました。 一昨日24日夜のことであります。 ダルマさん5個となった方はというと、888912010-10-24 21:58:18童子森の母さん 888902010-10-24 21:50:04*.ocn.ne.jp 888892010-10-24 21:28:02*.eonet.ne.jp 888882010-10-24 21:24:44*.asahi-net.or.jp 888872010-10-24 21:24:38*.eonet.ne.jp 888862010-10-24 21:24:09*.dion.ne.jp 888852010-10-24 21:16:29松風6923さん という訳で今回も楽天ブログのお方ではありませんので、どなたとも分りません。 当ブログをよくご覧いただいている松風さん、童子森の母さんのお名前も近くに見えますが、どちらも前後3番違い、時間にして8分早過ぎ、34分遅過ぎました(笑)。 いずれにいたしましても、88888という何やら目出度そうな数もクリア。9万も目前、10万も近くなってまいりました。 これもご覧いただいている皆さまのお陰であり、深く感謝申し上げます。有難うございました。今後とも更新に相努めますれば、引き続きてのご愛顧の程、よろしくお願い申し上げまする。
2010.10.26
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(承前) 上篇は桂川の土手道に上った処までで終りましたが、先を続けましょう。 天王山を左手に見つつ、土手道を行くと桂川に注ぐ小川、小泉川の処で左にカーブ、再び国道171号に出る。そこが大山崎IC。その巨大な構造物の下を潜って右折。国道478号に入り、天王山大橋で桂川を渡河。京守交差点で高架道から地上に下りて府道13号(京都守口線)に入る。御幸橋で宇治川、木津川を渡る。宇治川の処に「淀川」という国交省設置の表示板がある。物理的な三川合流地点は現在はもう少し下流、京都府と大阪府との境界線辺りになるのだが、河川敷としてはここで合体、淀川になるということなんだろうか。川の名はとかくややこしい。(桂川・天王山大橋から上流を望む。)(宇治川・御幸橋から上流を望む。)(木津川・御幸橋から上流を望む。) 御幸橋を渡ると石清水八幡宮は目の前である。一昨年(2008年)の2月10日に偐山頭火氏と大阪城公園で待ち合わせ、石清水八幡宮まで銀輪でやって来た時に入った喫茶店にて昼食とする。前回は前日に降った大雪が残る雪道を走っての銀輪行。帰途には、小生の自転車(この時はMTBではなくトレンクルでありました)が壊れて走行不能となり、寝屋川辺りでコースアウト、小生のみタクシーを呼んで帰宅する羽目に陥ったのでありましたが、今回は天候もMTBも快調。リベンジを果たしました。 <参考>2008年2月10日の記事(石清水八幡宮のある男山・御幸橋から) 昼食は「おまかせ定食」。ヤカモチにはピッタリのメニューであります。昼食後に鳥居前の老舗で、やわた名物「走井餅」を家づとに購入。 走井餅は、明和元年(1764年)、大津の地で走井の名水を用いて、井口市郎右衛門正勝が餡餅を作ったことに始まるという。 明治43年(1910)に6代目市郎右衛門の四男・喜四郎によって、この八幡の地に引き継がれたとのこと。昭和初期に大津の本家は廃業し、跡地は現在の月心寺であるという。 餅の形は、三條小鍛冶宗近が走井の名水で名剣を鍛えたという故事に因み、刀の荒身を表しているそうな。もっともザックに入れて持ち帰ったので、重力の関係で変形、写真(下掲)のように、寸詰まりに縮んでいました(笑)。(走井餅・はしりゐもち) 刀の荒身の形の筈が帰宅すると地蔵の形になっていました(笑)。 真清水の 走井もちを 二つたべ (高浜虚子) 走井の もちも地蔵と なる銀輪 (筆蕪蕉) 京阪線の踏切を渡り左折。橋本の宿場町を経て、淀川河川敷の自転車道に入る。(橋本宿の家並み) 処々に風情ある建物が残っている。 偐山頭火氏によると遊郭もあったとか。 河川敷の自転車道に入ると走行は爽快。ついスピードも出したくなり、ペダルに力が入る。河川敷であるが大きな木が繁っている処もあり、森の中を走っているような気分になる場所も。何やら顔にパチパチあたるものがあるので、停車して見てみると、Tシャツにも裸の腕にも黒胡麻を振りかけたようにびっしりと小さな羽虫。中にはカメムシも混じっている。タオルで払い落して・・。それでも次々と顔に虫が当たる。そのうちに虫の区域を脱したようにて、感じなくなる。シャツや腕に止まっていた奴もいつしか消えていました。どうやらトトロの森も脱け出たようだ(笑)。そうこうしているうちに天野川に出会う。(天野川・後方の橋は鵲<かささぎ>橋である。) 天野川は淀川に注ぐ小川であるが、その名が示す通り、天の川である。上流には七夕伝説に因むものがあり、牽牛・織女の逢瀬が今もこの川の上流ではイベントとして執り行われている。 この川の上流にある親水公園「水辺プラザ」にある在原業平の歌碑に刻まれている歌をご紹介しておきましょう。 <参考>2008年6月14日記事 狩り暮らし 棚機(たなばた)つめに 宿からむ 天の川原に われは来にけり (古今集) 天野川を過ぎた辺りで河川敷から堤防道に移動。河川敷公園では何やらイベントが行われていて多勢の人影。往路で渡った枚方大橋が見えて来た。(何のイベントかな?)(枚方大橋遠望) 鍵屋資料館の処で淀川にお別れして左折、京阪線を渡って線路沿いを南へ。淀川にお別れした地点に郵便屋の渡し跡の碑がありました。(郵便屋の渡し跡の碑) 碑文には、「郵便屋さん 走りんか もうかれこれ 十二時や」とある。 時に午後2時16分。「ヤカモチはん 走りんか もうかれこれ 二時半や」でありますな。先を急ぎましょう。 京阪香里園駅手前で左折。坂道を上って、ショートカットして外環状道路に出る。後は旧道に入ったり、恩智川沿いの道に回ったりしながら、一路南下。(第二京阪道路) 午後3時半前後に智麻呂邸に到着。ご夫妻から「お帰りなさい」と歓待を受け、暫し歓談の時を過ごさせていただきました。智麻呂新作絵画4点もしっかりゲットしました。智麻呂氏はベロペロネの絵を制作中でありました。この妙チクリンな花が智麻呂さんの手でどのように表現されるのか、今から楽しみであります。 6時間半ののんびり銀輪万葉、水無瀬神宮篇、以上で大団円であります。最後までお付き合い下さり、有難うございました。
2010.10.25
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昨日23日は約半年ぶりの偐山頭火氏との銀輪万葉にて、70km余を走って来ました。 午前8時50分。水走交差点付近で偐山頭火氏と合流。外環状線道路を北へ。枚方大橋を渡って大阪府三島郡島本町にある水無瀬神宮へ。(枚方大橋上から淀川下流を望む。) 枚方大橋を自転車で渡るのは高槻市の今城塚古墳などを訪ねた時以来の久々である。橋を渡った処で淀川右岸堤防の道を走る。(淀川右岸の道)(水無瀬神宮) 水無瀬神宮に11時過ぎに到着。 水無瀬神宮は後鳥羽上皇の造営になる水無瀬離宮の跡地に後鳥羽上皇の菩提を弔うために建立された水無瀬御影堂がその原形で、明治6年に後鳥羽、順徳、土御門三上皇を合祀し、水無瀬神社となり、昭和14年に水無瀬神宮となったもの。 この地は京都・大坂を結ぶ交通の要衝の地であるが、桂川・宇治川・木津川の三川が合流し、淀川となる風光明媚な地でもある。後鳥羽はこの風光を愛し、たびたび水無瀬離宮を訪ね歌合せや蹴鞠などに興じている。 友人の凡鬼さんに薦められて、そのお知り合いの大垣さなゑさんの作になる小説「夢のなかぞら-父藤原定家と後鳥羽院」(東洋出版)を以前に読みましたが、後鳥羽上皇と藤原定家のことなども思いつつ、しばし境内に遊びました。 後鳥羽院の前で蹴鞠に興ずる定家の息子の青年・為家の姿なども彷彿として来るのでありました。(大垣さなゑ著「夢のなかぞら」) 境内では生け花の展覧会が開催されていましたが、神社の門前には洗心流華道家元の碑がありましたから、その流派の方々の作品展であったのでしょう。しかし入場はせず。洗心はいざ知らずお手洗いはお借りいたしました(笑)。 後鳥羽は幼帝・安徳天皇が平家と共に三種の神器もろとも檀之浦に沈んだ後を承けて帝位に即いた「神器なき」天皇でありましたが、鎌倉幕府のゴタゴタに付け込んで政治権力を朝廷に取り戻そうとした承久の変で失敗、自らは隠岐に、息子の順徳は佐渡に、土御門は土佐に配流されることとなる。 佐渡に流された順徳院は、菊を愛した後鳥羽を偲び、佐渡の行在所(真野町)に菊を植え「都忘れの菊」とこれを名付けた、という伝説があり、ミヤコワスレの花の名の語源ともされているが、真偽のほどは知らぬ。 境内には佐渡から移植したというミヤコワスレが「都忘れの菊」として植えられていましたが、春から夏にかけて咲くこの花、今は花もなく寂しい風情なのも却って水無瀬神宮には似合っているかと思われたりもするのでありました。(水無瀬神宮本殿)(都忘れの菊)いかにして 契りおきけん 白菊を 都忘れと 名づくるもうし (順徳上皇) 翌24日(即ち今日)午前11時から名物行事「湯かぐら」が挙行されるとあって、境内にはテントがあちらこちらに張られている。写真撮影には障害でありましたが、折りしも七五三詣りの子供の姿も。これは可愛らしくて写真になります(笑)。(七五三詣り)(神宮正門) この神宮の境内に湧く水は名水百選に選ばれていて、水を汲む人が後を絶たない。食事であれ、水であれ、味については大雑把なヤカモチは名水をわざわざ汲みに行くなんぞということは「予の辞書にはない」のでありますが。(離宮の水)(水汲む郎女) 神宮においとまし、水無瀬川を目指す。 水無瀬川は淀川が桂川と名を変える辺りに注ぎ込む小さな川であるが、万葉にも登場する川である。うらぶれて 物は思はじ 水無瀬川 ありても水は 行くといふものを (巻11-2817) 笠郎女が大伴家持に贈った歌にも水無瀬川が出て来る。恋にもぞ 人は死にする 水無瀬川(みなせがは) 下ゆ我(あれ)痩(や)す 月に日に異(け)に (巻4-598 笠郎女)(水無瀬川)恋のこと 知らじと水の 流れゆく 水無瀬(みなせ)と聞きし 川にしあるを (偐家持) 水無瀬川沿いの道を西へ。JR東海道線を渡ると東大寺河川敷公園である。東大寺という地名が今もこの地に残っているのは、天平勝宝年間(749~757)に水無瀬荘が聖武天皇から東大寺に荘園として与えられ、室町時代まで東大寺の領地であったことに由来する。その石碑が道路脇に立っている。 (東大寺水無瀬荘跡碑) 時計を見ると11時57分。食事をする店を探そうと提案。以前二人で石清水八幡神社まで銀輪行した際に昼食を取った門前の喫茶店にするか、ということになり、石清水八幡を目指すこととし、国道171号に出て大山崎ICに向かう。途中で桂川の土手道を走ろうと階段を自転車を担いで上る。これは却って遠回りとなりましたが。(桂川の土手道)(道の前方に小さく見えているのが偐山頭火氏。後方の高架道路は京滋バイパス。) さて、この後桂川、宇治川、木津川の三川を渡り、石清水八幡宮の鳥居前の喫茶店で昼食にありつくのであるが、そろそろ一回当たりの記事の文字数制限に引っ掛かりそうなので、以下は「下巻」にてご紹介することとし、本日はここまでとします。今回もお付き合い下さり、有難うございました(笑)。
2010.10.24
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偐万葉・童子森の母篇(その2) 本日は偐万葉シリーズ第79弾、偐万葉・童子森の母篇(その2)をお届け申し上げます。 <参考>過去の偐万葉・童子森の母篇はコチラからどうぞ。 童子森の母さんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持が母御前改め童子桜郎女に贈りて詠める歌16首 併せ俳句2句 並びに童子桜郎女の返しける歌7首併せ俳句1句長月に なりて我妹子 帰り来や 風も秋づく 夕べなりけり 童子桜郎女の返しける歌暑き日に とどきし歌の ありがたや 優しき思い 身に沁みる夜 凌霄(のうぜん)の 色なまめきぬ 雨のあと(筆蕪蕉)秋されど なほし日は燃え からあゐの 花の色にも 出でにけるかも秋なるに 隠(こも)れば暑き 出で行かば 身もや焼かれむ いかにかせむや 童子桜郎女の返しける歌セロシアの もゆる想いを しずめよと 傍(そば)でサラサラ フウチ草 ピラミッドの 空駆け上る 紋白蝶 (筆蕪蕉)サンチャゴの 旅寝の夢の こぼるるや 真白き蝶の ひとつ舞ひ行く (偐アルケミスト) 童子桜郎女の作りたる句 野アザミの 一輪愛し 津軽富士 (姥桜)一輪の あざみの先に お岩木の 山デンとある 秋の大空 (太宰偐麻呂)コスモスの 風に遊べば 身もいつし 蝶となるらし 野辺のまどろみ (秋桜郎女) 童子桜郎女の返しける歌青き空 一人畑で 花遊び 傍(そば)のカボチャも いとほしきかな (秋桜子) 百日紅(さるすべり) いづち行くらむ 吾亦紅(われもかう) あと追ひたけど かくしぞなりぬ (吾亦枯(われもっこ))瓔珞草(やうらくさう) 濃きも薄きも みちのくの 秋くれなゐの 色にぞ咲きぬ (秋海棠郎女) コルチカム 冷たき雨に 濡れてあり その薄紫の 色ぞかなしきコルチカム 咲く川の辺に 秋雨の いたくな降りそ 家もなき道 童子桜郎女より贈り来たりける歌雨の 夜中につくりし 渋皮煮 甘き香りと たわむれる猫 (童子桜) 偐家持の追和して詠める歌栗の実の 煮る音のみの 秋の夜の 雨のしくしく 猫と更けゆくみちのくの 津軽真弓の はじけてや 色にな出でそ 人の知るらむ (陸奥恋麻呂(むつのこひまろ)) 童子桜郎女の返しける歌寒き朝 リンゴ道ゆき みつけたる 乙女のような 桃色マユミ (童子桜) オクラらは いまは咲くらむ 花咲くらむ それその母も わを待つらむぞ (畑中オクラ)津軽はや 満天星(だうだんつつじ) もみつ葉の 燃え立つ秋ぞ 光る朝露 童子桜郎女の返しける歌朝影を みつめ数える わが着衣 ブログみなおし クスリと笑う (童子桜) 津軽では 霜の備へを なすといふ 聞けば浪速も 寒き朝風お岩木の 山ぞ見が欲し 恋ひ来れば 遠く青めり 神さびにけり 童子桜郎女の返しける歌お岩木の 姿見せたく 山裾へ なんとおそまつ カメラ忘れた (ボケ森の母) (注)写真は全て童子森の母さんのブログからの転載です。<追記・注>満天星(ドウダンツツジ)の写真が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月13日これを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2010.10.22
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第65回智麻呂絵画展 本日は智麻呂絵画展であります。もう少し作品点数が増えてからと考えていましたが、7点ありますので、このまま公開といたします。どうぞごゆるりと智麻呂絵画をご散策下さいませ。 今回は友人の凡鬼さんの俳句も掲載させていただきましたので、こちらもお楽しみ下さいませ。(なお、凡鬼さんの俳句は、若草メールでお送りいただいている「俳句便り」を保存しています小生のファイル「凡鬼俳句集」から、絵の花を題材にしたものを、けん家持の独断にて選びました。掲載については凡鬼さんの事前のご了解を得ておりませんが、友人のよしみにてお許しいただけるものと思って居ります<笑>。)<参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ (朝顔) (彼岸花) 花よりも 名のいかめしき 牽牛花(けんぎゅうか) (凡鬼) 屋根に来て 朝顔一つ 小ぶりなり (凡鬼) 上の彼岸花、下の白い彼岸花、その下のコスモスやカボチャは、凡鬼さんが先日、智麻呂邸にお届け下さったものです。(白彼岸花) 華やぎも 瞬時のことぞ 曼珠沙華 (凡鬼) 世俗とは 一線画すか 曼珠沙華 (凡鬼) 紅白で 競ひたつかな 彼岸花 (凡鬼)(コスモス) このコスモス、凡鬼さんが遠方からお車でお持ち下さった時には、ゲンナリしていて駄目かと思われたそうですが、恒郎女様が水をタップリ入れた花瓶に活けられたら、たちまちに元気を回復、シャンとしたとのこと。小万知情報であります。 人恋いし ときに優しき 秋桜(あきざくら) (凡鬼) 自生する コスモス低きも 風を呼ぶ (凡鬼)(カボチャ)(燻製) 上の燻製は、上から鯖、サンマ、チーズ、玉子。偐山頭火氏は趣味と実益を兼ねてご自宅の庭で燻製を楽しんで居られますが、これはそのお裾分けとて、智麻呂邸まで銀輪散歩の傍らお届け下さったものであります。 若草メールのやり取りで、偐山頭火氏と凡鬼氏の合作のような形の句が出来上がって居りましたので、ここにはそれを拝借です。 燻製の 煙いつしか 鰯雲 (偐山頭火・凡鬼) 鯖と秋刀魚の燻製の煙でありますが、雲になるとやはり鰯になるしかないようでありますな(笑)。(あん栗) これは、けん家持の手土産のお菓子ですな。ビッグジョンさんがトマトと秋茄子から連想されたトーマス・アキナスにかこつけて、偐家持も戯れ歌を1首。 秋茄子は トーマス・アキナス 駄洒落とて 口あん栗の アウグスティヌス (小栗判官) 以来、トマトや茄子を見るとアキナスを思い、キャベツを見るとマキャベリを連想しと、けん家持の右脳は変調をきたして居りますな(笑)。 このままでは、ちょっと変な終り方になるので、凡鬼さんが智麻呂さんのことを詠んだ句にて締めくくりといたしましょう。 病得て 車椅子(くるま)の友に 小鳥来る (凡鬼)
2010.10.20
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この処の銀輪散歩の傍ら目に止まった花などをご紹介する銀輪花遍路であります。 目は蝶に なりて秋風 花遍路 (筆蕪蕉) 先ず目に止まりたるは鮮やかな黄色。 夕風は 黄金の色に 吹くならむ 秋の川の辺 妹と行く道 (偐家持) こすもすは みなこちら見て ゐるといふ 我妹のはしき 笑みにしあらむ (偐家持)(何の花とは知らねども・・) 散りぬれば 何の花とは 知らねども 実のはじけてや 明日は見えける (偐家持)(フジバカマ) 藤袴は秋の七種の一つだが、その由縁となった山上憶良の歌に登場するのみで、単体で詠われた歌は万葉集にはないようだ。 萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝顔の花 (巻8ー1538) 駄洒落になるが、山上憶良と来れば、畑中のオクラの花も見逃せない。(オクラ) 喰ふてよし 花もかんばし 畑中の 我はオクラぞ 心して詠め (偐家持)(ガマ) 蒲の穂の 先の川面の さざれ波 光りてわれに 行けといふらし (偐家持)(セイタカアワダチソウ) セイタカアワダチソウは外来の植物にて、またたく間に日本の野原を占領してしまい、ススキが追いやられているというようなことを一時耳にしたものだが、最近はおとなしくなってそれなりに日本の風景に融け込んでいるようだ。これを馴化というのであるが、ススキともどうやら折り合いを付けたようですな(笑)。 しかし、10文字の名では字余りとなって、歌には詠めない。名前の方は我が大和言葉には馴化できないようでありますな。(イヌタデ) タデもこのように群生して咲いていると見事というか、なかなか可愛らしい。ホンタデ(ヤナギタデ)は葉に辛味があるので香辛料として使用されるらしいが、こちらは葉に辛味がないので利用価値がない。よってイヌタデと「名付けけらしも」なのであります。 タデを詠んだ万葉歌2首をご紹介申し上げまして、花遍路お開きにございまする。 わが屋戸(やど)の 穂蓼古幹(ほたでふるから) 採(つ)み生(おほ)し 実になるまでに 君をし待たむ (巻11-2759) 小児( わらは)ども 草はな刈りそ 八穂蓼(やほたで)を 穂積の朝臣(あそ)が 腋草(わきくさ)を刈れ (巻16-3842)
2010.10.19
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偐万葉・カコちゃん08篇(その4) 本日は偐万葉第78弾、偐万葉・カコちゃん08篇(その4)といたします。カコの郎女さんの透明感のあるさやけき絵と偐家持の歌の競演をお楽しみ下さいませ。 <参考>過去の偐万葉・カコ篇はコチラからどうぞ。 カコちゃん08さんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持がカコの郎女に贈りて詠める歌19首オーロラの 色に染(そ)みつつ 地のそきへ 果てなる空に カラーの咲くや (注)そきへ=「退(そ)き辺(へ)」。地の果て。 虞美人の 涙の花は 夏ごとに 咲きて恋(こほ)しき 人思(しの)ふらむ春の香は 如何にかあらむ 桜花 青める柳 筍(たけのこ)の皮 (家持綴り方教室) 筆よ 絵筆持ち 絵具よ み絵具用ひ この部屋に 果実(このみ)描く児 家聞かな 名告(の)らさね 瑞々し やまとの果実(このみ) 熟れごろに われこそ喰(く)へ 食べごろに われこそ食(は)め 我こそは 喰はめ 林檎も梨も (喰ふ略天皇) うすべにの 淡き桜の 色の雲 立ちてこの春 暮れゆくならむ桜木の 青葉の繁み しくしくに 雨は降りける 春から夏へ 今さらに 何か思はむ 道の辺に わすれな草の 咲きてはあれど春風は 草にし遊ぶ 池の面(も)に 命のめぐり 絶えなくあらめ をみなめも 花となるなれ 愛でてこそ をのこの道の それとは知れど (昔家持)さまざまの 花にさそはれ 偐(にせ)万葉(まにやう) 生(あ)れ来たりける さまざまの歌 (勝手家持)くれなゐの 花とともにや 我妹子(わぎもこ)は 帰り来たれり この日の幸(さ)きけ しあはせは 慈愛の色に 包まれて 人知れず咲く 薄きむらさき ことほぎの 黄色き花と 帰り来や 我妹の咲(ゑ)みの 影にし見えて秋薔薇の 咲(ゑ)みし迎へて 果実(このみ)らの 色息づくならし 君を待ちつつ さみどりの 色に流るる 時ありて 窓辺に寄れば 君が声する市女笠(いちめがさ) さして行きゃるか 海月(くらげ)どん 雨は降るまい 青き海底(うなそこ) (水母麻呂(くらげまろ)) 日の本の 夜明けのことも ほの見えて 山手木陰の 坂の道行く (坂の上の雲麻呂) 夕暮れて ほのかに酔へる 芙蓉花 悲しき恋の 色にやあらむ(注)上に掲載の絵画、写真は全てカコちゃん08さんのブログから の転載です。
2010.10.14
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梅田スカイビルでの囲碁の会は毎月第一、第二水曜日にあります。という訳で本日も生駒山の麓から梅田まで銀輪散歩を兼ねて自転車で行って参りました。 もう10月半ばというのに最高気温27度という夏日にて、自転車で走っていると結構汗をかきます。 10時過ぎに家を出発。11時28分に梅田スカイビルの西側にある小さな喫茶店「アポロカフェ」に到着。ここで昼食とする。最近はこの店で昼食(日替わり定食)を取るのが囲碁の日の習いとなっています(笑)。12時前とあって、客は未だ誰もいない。貸切状態でゆっくり昼食を楽しむ、と言いたい処であるが、早飯食いのけん家持。料理が目の前に置かれるや、数分で食べ終わってしまうのはどうしようもありませんな。(アポロカフェ)(店内) 食後、スカイビルの一階にある喫茶店に移動しコーヒータイム。ついでにスカイビルの写真もアップして置きます。 ワンダースクゥェアと名付けられた中庭からビル最上階の「空中庭園展望台を見上げたショットです。囲碁の会場は写真右側のビルの21階(渡り廊下のブリッジのある処が22階なのでその一つ下の階になります。)にあります。(梅田スカイビル) ブリッジの上に見える2本の斜めにある構造物は空中庭園展望台に繋がっているシースルーのエスカレーターです。 さて、本日の囲碁の会、出席者は竹○氏、福○氏、青○氏、荒○氏、小生の5名。けん家持の戦績は竹○氏に1敗、青○氏、荒○氏に各1勝して2勝1敗でありました。
2010.10.13
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また、秋の祭の時期となりました。 今月14~15日は枚岡神社(河内之国一之宮)の秋郷祭である。各地区から太鼓台が神社に繰り出すのであるが、今はその練習の時期とあって、太鼓を打つ音があちこちでしている。 父の従弟に当たる方の奥様がお亡くなりになり、昨夜はお通夜、今日は告別式でありましたが、昨夕、通夜に向かう途中、商店街を通ると、リハーサルでしょうか、この地区の太鼓台が練り歩いていました。(河内太鼓台)<参考>枚岡神社秋郷祭2009 (2009年10月16日)
2010.10.11
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偐万葉・松風篇(その12) 偐万葉シリーズ第77弾、偐万葉・松風篇(その12)をお届します。鶴見緑地の画伯、松風さんの素晴らしい水彩画に、ちょっこと添えた偐家持の歌が織りなすコラボの世界。お楽しみいただけたら幸いであります。 <参考>過去の偐万葉・松風篇はコチラからどうぞ。 松風さんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持( にせやかもち)が松風朝臣麻呂(まつかぜのあそんまろ)に贈りて詠める歌23首ももよろずの かねとふはなの すずなりに さきかこぼれむ みれどもあかず 亡き人の 帰り来るとふ 盂蘭盆会(うらぼんえ) 木の長椅子も 並び待つらむ 苑辺行く をとめのふたり 鶴見野の 木陰に咲ける 花のしるしも 森青み 丘の風車(ふうしゃ)の いちしろく 立ちやつくせる ふたととせ経(へ)し夏草の なほし繁けく 日は照るに 乾ける道を 走る人あり ポプラはや もみたひ始(そ)むと 背子いへば すこしの秋の 見ゆぞうれしき鶴見野は まだ夏なるも あけぼのの 杉の朝風 秋のとばくち (注)アケボノスギ=メタセコイア 処暑なりと いへど大池 秋立たず 猛暑に草も ゆらぎてぞ見ゆ (温暖化家持)自転車の をとめは風を まとへるや 髪はなびきて 光る朝なり 鶴見道(つるみぢ)は 青きポプラの 並木道 さやけき風の 白き道なりユリノキの 後(ゆり)にも逢はめ 落陽の 葉に照る秋に 恋ひてしわれは 草の原 木々遠巻きに たたずみて 鶴見の広野 見れども飽かず朝風は 夏の終りを 告ぐやらむ 銀輪をとめ 木陰を行ける まだ夏の 日差しとどめて 秋風の そよりと岡に 五本の檜(ひのき)朝風は 秋にあるらし 自転車の をとめの髪の なびける見れば 秋づけば はや冬見据ゑ 我が背子は 木の間の白き 道の先言ふ(太古より 我ここに在り 水底(みなそこ)の 青き孤独の 時の記憶の<再掲>) 秋の色 いかにと問へば 黒き服 着てぞ鶴見の をとめら行ける (南原黒秋)木々の芽は 未(いま)だ含(ふふ)めど たんぽぽの 咲きて光は 春にしあれり 秋晴れて 透きとほりたる 気の光る 深みかゆかむ 季節(とき)は来にけり青ざめし 馬は来たれり 人はみな 顔仰向けよ せめてその時 (家持の黙示録) さくさくと 誰や随(つ)き来る 音のして 返り見すれば 己が足音 秋山の道 (注)575777の仏足石歌体の歌ゆきあひの 坂にしあれり 国境(くにざかひ) ここと定めむ 女神の二人 (領土問題なし麻呂) ユリの木の さ枝にもみつ 葉な散りそ しばしあり待て わが行くまでは (参考)掲載の絵画は全て松風さんのブログからの転載です。
2010.10.09
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第64回智麻呂絵画展 智麻呂絵画ファンの皆さま。お待たせいたしました。本日は第64回智麻呂絵画展であります。最新作やいづこからか発見された古い絵など織り交ぜての絵画展であります。どうぞごゆるりと智麻呂ワールドにお遊び下さいませ。(タジン鍋1)(タジン鍋2) モロッコの鍋料理をタジンと言うそうですが、転じてその鍋のこともタジン鍋と呼ぶようになったとか。奇妙な形の鍋である。恒郎女様は野菜などがとても美味しくたけるとしてご愛用されているそうな。お嬢様からのプレゼントだとか。小生、帰宅してこの絵を示しつつ、これはタジン鍋と言って、と受け売りを始めたら、家人が我が家にもあるという。男子厨房に入らず、のヤカモチではあるが、我が家の日常の会話不足が如実に露呈された瞬間でもありました(笑)。(ツユクサ)トンボ草と 我妹の言へば ツユクサの 花もトンボに いつしか見えて (偐家持)(ドーナツ) ドーナツは偐山頭火氏が銀輪散歩の途中に智麻呂邸にお立ち寄りになられた際に、これでランチにせよと手土産代わりに持参されたものだそうな。とても美味しそうですが、種を明かすと、ドーナツは偐山頭火氏の言葉通りにランチとして早々に食べてしまわれました。絵に描くのを忘れていたと気付くもドーナツは既に腹の中。止むなく、それが入っていたボックスの写真だかをモデルに描かれたそうな。そうは見えないですな。(ムクゲ)赤と白 寄り添ひあれば ムグンファの 花は継ぎてぞ 咲くにしあれり (偐家持) (注)ムグンファ(無窮花)=ムクゲ(ランタナ)落日の 藍の空なる ランタナの 実にこそ秋は 光ると言はむ (光芒家持) ランタナの実は緑から黒へと色が変化して行きますが、上の絵はその過程にあるのでしょうか、美しい藍色です。この実は有毒らしいですが、可愛らしさは花と同様でありますな。花と実が共存しているこの絵は「七変化」とも呼ばれるこの花の「時の移ろい」の一瞬を切り取ったものでもあるようです。(金魚鉢) 金魚鉢と金魚はずっと以前に恒郎女様への誕生日プレゼントとしてお嬢様のどなたからか贈られたものだそうです。当初は金魚もこのように沢山入っていて元気に泳いでいたそうです。その当初の頃の絵がこれ。金魚鉢は今も智麻呂邸の一室を飾っていますが、金魚は巨大化した奴が一匹いるだけ。諸行無常か、はたまた生存競争の果てか、金魚は一匹、また一匹と死に、最後に残った一匹が巨大化しているという次第。 ご記憶の方もいらっしゃるかと存じますが、その巨大金魚は第60回智麻呂絵画展に既に登場して居ります。さて、上の4匹のうちのどれがそやつでありましょうな(笑)。(大阪・空堀商店街) 空堀商店街は大阪空襲でも焼失を免れた地区で、昔ながらの路地やお地蔵さんや古きよき大阪の町並が残っていて、最近は古い長屋を改造したお洒落な店も進出して来たりと、人気を呼んでいる処である。智麻呂氏が少年時代を過ごされた街でもあり、今もご実家がこの一角にある。 けん家持も囲碁で梅田に出る時など、たまにこの商店街を自転車で走ることもあるのだが、考えてみれば、まだ、このブログで取り上げたことがありませんな。大阪城の南側にもうけられた空堀(外堀)がこの辺りにあったからの地名です。(通天閣) 前回(第63回)の通天閣の絵を見て、NGを出したのでもあるか、偐山頭火氏が通天閣を背景に雑多な新世界の街の雰囲気を伝える大版の写真を持って来て、「あれは通天閣ではない。これを描け。」とのたまったそうな(笑)。それで出来たのが上の絵。下を行き交う雑踏の人波はさすがにギブアップ、省略された智麻呂氏でありました。「ずぼらや」の看板を描いてあとは「ずぼら」をしたというのが、智麻呂流のオチであります。(葡萄1)(葡萄2) この葡萄は先の読書会の折に、けん家持が手土産に持参したものとのこと。当日、皆でいただいたように記憶するが、一部残っていたのでしょうか、それとも智麻呂さんが記憶で描かれたのでしょうか。<参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~
2010.10.07
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本日は囲碁の会の日。天気もよし。いつもの通り自転車で梅田スカイビルへ。出席者は青○氏、福○氏、荒○氏、村○氏と小生の5名。戦績は青○氏に1勝1敗、福○氏に1敗で1勝2敗。これで今年の通算戦績は30勝15敗。会発足以来の全通算戦績は44勝21敗となっています。 少し早く着き過ぎたのでスカイビルの前の公園の木陰に自転車を停めて休憩していたら、友人の蝶麻呂君からメールが入った。彼に依頼している或る件について一度電話をくれとのことであったので、電話を入れ暫し話をする。 蝶麻呂君は、この時、沖縄の蝶仲間の誰かさんの依頼とかで、武庫川畔にて、蝶(アサギマダラ)のマーキング調査を遂行中であったらしく、メールにはその現場の写真(下掲)が添付されていました。(武庫川畔<写真提供:蝶麻呂氏>) 写真の白い花はミズヒマワリ。アサギマダラが旅の途中にこの花に立ち寄って翅を休めるので、マーキングのある蝶を探したり、彼自身もマーキングをしたりしているということなのであろう。ここは今年の1月に彼とサイクリングした処でもある。(参考:「武庫川銀輪逍遥」) 因みに、上の写真の奥の赤屋根の建物は宝塚歌劇場である。 囲碁を終えて自転車で帰途に。今日は大阪ビジネスパーク(OBP)を通るコースを取る。寝屋川にかかる片町橋を渡っていて川を覗くと、青鷺が一羽、思索に耽っていました(笑)。蝶麻呂君が蝶・アサギマダラなら、ヤカモチは鳥・アオサギだ。(アオサギ) アオサギの居た川。その場所から目を上に挙げると、下のようなビル街の眺めです。大阪城公園が直ぐ近くなので、そちらから飛んで来たのでしょうか。(寝屋川。右がOBP。) 帰宅して、パソコンメールを開くと若草メールで小万知さんの「コスモスと茸」の写真が送られて来ていました。自転車で秋の花を探しに出掛けました、とのこと。膝の調子も余程は良くなられたということでもあるか。 (コスモスと茸<写真提供:小万知氏>)
2010.10.06
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偐万葉・ビッグジョン篇(その2) 本日は偐万葉シリーズ第76弾、偐万葉・ビッグジョン篇(その2)といたします。わが隣人とも言うべき交野歩麻呂殿とのコラボ和歌をお楽しみ下さいませ。 <参考>偐万葉・ビッグジョン篇(その1)はコチラからどうぞ。 ビッグジョンさんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持が交野歩麻呂(かたののほまろ)に贈りて詠める歌23首ラ(La)・ヴィー(Vie)と 叫べど空し アブラゼミ 腹より蟷螂(たうらう) 喰(く)ひ始(はじ)めける (偐蝉丸) (注)ラ・ヴィーはフランス語で「生命」という意味。 上の歌を修正して後日に詠める歌 ラ( La)・ヴィー(Vie)と 鳴きて蝉はも 頭から はや蟷螂(たうらう)に 食(く)はれ始(そ)めける 焔(ほむら)立つ 薄紫の 夏水仙 煽られをちこち 鳴く法師蝉さなかづら 隠(こも)り咲くらむ 木(こ)の陰に 待ちて秋はも 赤き実照らな 見る人の なけれ道の辺 ふたつみつ 咲きて秋づく 秋田村草(あきのたむらさう)ちゅらうみの さやけき風の 色に咲く うりずんの花 猛暑にはあれ 歩麻呂また 帆麻呂なるらむ 婿殿に 風のサーフィン けふも教へつ (風野波麻呂)ねぶの草 夏野に咲けば 面影の 立ちて間無くし 妹しぞ思(も)はゆ田や畑は 草刈るものぞ 交野なる 八十(やそ)の草間に 延(は)へる子やたれ (田麻呂(たのまろ))たらちねの 母が呼ぶ名は あるなれど 草刈る人に などて告(の)らめや (滑娘子(すべりのをとめ)) 日照り焼く 道はいつしか 穂谷なる さやけき秋の 里にしなれり古(いにしへ)の 人もかくしか 近江の海(み) 見つつぞ越えむ 辛(から)き山道(やまみち) ばったどん 齧るはよけど ほどほどに ともにぞ里の 秋をし守らむ (人飛蝗和平条約)手に取りて めでむ人もが こがんぴの 花ひと知れず 咲ける里山 思ひ侘ぶや 老いたる母の ひと言の 沁みる青空 庭木の剪定(ていれ) (偐剪麻呂)母御前の 弱音の言葉 秋さりぬ (筆蕪蕉)われもかう ありたきものぞ 秋の野に 咲きて目立たず 見る人ぞ見る 妻問ひの 虫も甲斐なし 網戸なる 家守(やもり)の餌と なれる夜長の (虫養家守)みちつくり 知らすや鐘を 朝床に 聞けばときめく 祭のわらべズッキーニ 真綿の白き 色のして 十個の団子 押しくらすらし (未確認家持) 夜半の雨 露とやのこる 紫蘇の花 咲きてはつかに 秋はも見しか朝風に つましく咲きぬ 紫蘇の花 すがしき秋の 香にしもあれり名は知らね 野辺にぞ愛(は)しき 色添へて 縷々(るる)くれなゐに 咲けるその花 何もかも 遊びにしてぞ よきことは なるといふなれ 四角ななりそ (偐ホモ・ルーデンス) (注)ホモ・ルーデンス=ホイジンガーの名著(注)掲載の写真は全てビッグジョンさんのブログからの転載です。
2010.10.05
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雨の音を 床に聞きつつ 目覚むれば 窓遮(さうしゃ)の布に 朝は明けたり (偐家持) 今朝は雨の音で目が覚めました。午後からは晴れるという予報でありますが、その通りに今はもう上っています。昨日も雨にて、銀輪散歩は休止。久しぶりに傘を差して近くを散歩して来ました。この2日間、偐万葉が続きましたので、本日は銀輪散歩ならぬ徒歩散歩の日記と致します。 家持も歩麻呂となりぬ秋の雨 (筆蕪蕉) 枚岡梅林には、梅の木の下の其処此処に彼岸花が咲いていました。雨とあって人影もなき梅林。三脚を持ったカメラの男性が一人歩いて居られましたが、雨に濡れた彼岸花を撮影しに来られたのでしょうか。(梅の古木の下に咲く彼岸花) 道の辺の駐車場のフェンスに風船葛がありました。茶色になって萎み始めている風船もありました。この風船の中にある種子にはハートの模様があるとか聞いていたので、ちょっと失敬して拝見する。(風船葛) 風船状の袋の中には種子が3個ずつ入っている。「三つ栗の中」ではないが、栗と同じですな。下の写真のように、確かにハートの形がくっきりとある。種子の大きさは直径5mm位の小さなものである。(風船葛の種子。ハートの模様がユーモラス。) 槇の実を見かけました。近寄って見るとすっかり熟れて暗紫色になっているのが一杯。尤も本来「種子」と言うべきは先端の緑色の固い部分であるのだろう。種子を果肉で包み込んだものが実であるなら、槇のこれは何と言うべきか。果肉から種子(もしくは種子を包みこんだ固い部分)が飛び出しているのであるから、奇妙奇天烈である。真木は真奇であるか。(槇の実) 昨日の当ブログへのコメントで、ブログ友の「カマトポチ」さんが槇の実を食べた記憶がないと仰っていましたので、写真を掲載して置きます。 左位になると食べ頃である。真ん中のように赤味の残っているのは少し渋みが残っている可能性がある。味は、これもブログ友である「木の花桜」さんが「アホらしい味」と形容されていましたが、まさにその通りにて、薄ぼんやりした甘さで、何とも頼りない味である。甘味の抜けた熟柿の一歩手前、のような感じでしょうか(笑)。美味とは言えませんな。糖度の高い実もあるのかも知れませんが、一般的には他人様にお薦めできる代物ではありませぬ。まあ、話のタネ程度にはなるでしょうが。
2010.10.04
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偐万葉・木の花桜篇(その8) 本日は、偐万葉シリーズ第75弾、偐万葉・木の花桜篇(その8)です。木花桜姫・偐家持のコラボをお楽しみ下さいませ。 <参考>過去の偐万葉・木の花桜篇はコチラからどうぞ。 木の花桜さんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持が木花桜姫に贈りて詠める歌22首 並びに木花桜姫の返しける歌4首併せ俳句1句偐万葉 言葉遊びに ありければ 歌のよしあし 言ふは野暮なり (ゲゲゲのヤカモチ)羽化したる 蝉の翅にも 似つきてや 今し咲きたり 茗荷の花は 原爆忌の 朝また来たり クマゼミは 声繁みかも アメリカ楓(ふう)の木白木槿(しろむくげ) 夜来の雨の 露負ひて 咲ける花あり 落つる花あり (悲喜家持) なにはとて 残れる夏の 居座れば 吉備もきびしけ なほしぞ暑き (汗のかき備)金柑の 白き花咲く をさなごの ゑみにしあるや 面影立ちぬ 朝風に 秋をし見むと 吾(あ)が来れば 青田の水際(みぎは) 白鷺の行く空の青 白鷺の影 映し行く 水にもなりなむ 暑しこの夏 木花桜姫の作れる句後退る ほどの暑さや 百合の白猛暑日に 焼けず白百合 真白にぞ 咲きてしあるは ともしろきかも (夏野黒百合) 木花桜姫の返しける歌黒百合は 恋の花かと 君の名は 焼野が橋の 別れ悲しも 藤袴 咲き始(そ)めたれば 花水木 実もや色づく 秋恋ひ待たな 木花桜姫の返しける歌露あらば こぼさず受けて 藤袴 青き花色 染めて咲かまし おひはぎと いへるはぎはも あるなれど われなにをかや ぬすめりといふ (萩の愚痴麻呂) 秋なるに いづち遊べる 龍田姫 迎へか行かむ 待ちにか待たむムギワラ帽 いづち忘れむ シオカラの ひとりし来たる 初秋(はつあき)の庭 なすことも なくや暮れゆく 秋の日を 松葉牡丹の いかにと咲ける (偐中也) 木花桜姫の返しける歌なすことも なき身のあはれ 秋の日の 花の姿を 眺めつるかな秋晴れて 手(た)ゆこぼれ行く もののあり 澄みてかなしき 思ひの果ての (偐詩人) 山陰(やまかげ)に 逢へる兒やたれ 仙人も 山の御坊も 白き花愛(め)づ 恨み侘ぶ 芙蓉の帳(とばり) 今開き 風は秋へと 吹きゆくならむ (短恨歌) 野迫川(のせがは)の 風のやさしみ 火の神の 荒き魂(みたま)も 和魂(にぎたま)となり 木花桜姫の返しける歌み仏の 慈悲の光に 荒魂(あらみたま) 幸魂(さちみたま)へと 舞のぼりたり 夜半の雨 うけてぞ咲ける 風の花 しるくや恋の いかにか秘めむ (西風皇女) ゼフィロスの 花にさまざま 色あれど 白こそよけれ 玉簾花(たますだればな) (西風皇子(にしかぜのみこ))ハナミズキ 赤くぞ照れる 実のさはに 生(な)りて秋はも 深みかゆかむ いかならむ えにしにあるや やまかはを へなりむすべる ことのうれしき(注)掲載の写真は全て木の花桜姫さんのブログからの転載です。
2010.10.03
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偐万葉・ひろろ篇(その6) 本日は、偐万葉シリーズ第74弾、偐万葉・ひろろ篇(その6)をお届け致します。 ひろろさんの絵に魅せられてそのブログを訪問させて戴くようになって約1年5ヶ月。ブログ訪問の都度、書き残してまいりました歌も今回の20首を加えて、合計105首になりました。 <参考>過去の偐万葉・ひろろ篇はコチラからどうぞ。 ひろろさんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持がひろろの郎女に贈りて詠める歌20首並に俳句1句 併せひろろの郎女の返しける歌1首秋づける 山を映して 真澄鏡(まそかがみ) 最上(もがみ)の川の 暮れゆくならむ落日の 光は微塵(みじん)の 砂なりて 木々を包めり 森を包めり 山を包めり (注)575777の仏足石歌体の歌です。 玉梓(たまづさ)の 使(つかひ)のあれば 妻迎へ 船はや出(づ)らし 吾(あ)が恋益さる (エマの郎女) 白樺も しばし眠りに 入(い)るらむか 裏磐梯に 冬来たるらし差し交はす グラスの音の 気は澄みて 花は吾(われ)にし 笑みてあるらし (乾杯家持) かく吾(われ)も ありたきものよ 猫じゃらし (野良蕪蕉)さ丹塗(にぬ)りの 小橋が上は いかにあれ われは変らじ 漁(いさり)する船下町の 船にしもあれ 黙してぞ わがなすべきを なすにしあれり 朝開(あさびら)き 泊まれる船の 帆柱の 先の山々 雲立ち昇る降りて止み 止みて降りぬる 雨の間を 沖辺(おきへ)漕ぐ船 影遠みかも二筋に 光るレールの 向かふから 春の来るとふ 朝は明け行く こっちゃんの クレパスの音 こつこつと 音も愛(は)しきや 飽かず眺めむ (偐ひろろ)かにかくに 秋や恋(こほ)しき 高原(たかはら)の もみたふ朝の 風をし待たな 藪椿 手(た)折り飾りて つらつらに 見れども飽かず 春日(はるひ)暮らさむ朝なさな 白き花咲(ゑ)み 日日草(にちにちさう) その花もがも 愛(は)しき我妹子 南へと 朝の道ゆく ランドセル ふたつみつよつ 今日も秋晴れ (通学路)ひとり寝の 麻呂にわれ告ぐ 寒き夜は 会津の奥の 村訪ねませ白雪を 負ひてありしや 崑崙の 西の果てなる 丘に咲く花 牽牛子(けんごし)の 塚に眠るや おほきみに 一枝(ひとよ)たむけな 崑崙の花 (偐斉明)真澄鏡(まそかがみ) 水面(みなも)に影を 映しつつ 秋となりゆく 白きそぼ舟 ひろろの郎女の返しける歌ふなくびが 閑もてあまし みぎひだり だぁれもいない 秋のさんばし 初夏(はつなつ)の 風と遊びし 日は今も シロツメ草の 花と咲きてや(注)掲載の絵画、写真は全てひろろさんのブログからの転載です。
2010.10.02
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(承前) 菅浦で道は行き止まりとなる。その先の葛籠尾崎(つづらおざき)へと回り込む道はないのである。反対側の塩津へは「奥琵琶湖パークウェイ」で行くこととなる。何年か前に長浜を出発し、塩津からこの道を通って菅浦、大浦、マキノ、安曇川、新旭と走ったことがあるが、今回はパークウェイはパスして置く。(東四足門) この東四足門から先は道がなく、湖岸沿いに鉄板を敷いた簡易通路のようなものがあるが、「通行禁止」となっている。止むなく引き返すことに。村の道沿いにある寺などを覗きながら、ゆっくりと引き返す。小さな集落なのに寺がやたらに多いのは何故なんでしょう。(真蔵院)(安相寺)(「浅井長政所縁の寺」とある。)(阿弥陀寺)(同上)(長福寺跡) 石碑には「淳仁天皇菩提寺菅浦山長福寺跡」とある。淳仁天皇(大炊王)とこの地はどういう因縁があるのでありましょうか。大炊王は、父・舎人皇子と母・当麻真人山背との間の子であるから、母方もこの地とは無関係。淳仁に仕えていた人達が隠れ住んだのでもあろうか。(菅浦にお別れして大浦へと、来た道を引き返す。)(またも彼岸花) 路の辺の 壱師の花の いちしろく 人皆知りぬ 我が恋妻を (万葉集巻11-2480 柿本人麻呂歌集)(ススキの穂が風に光る。) 人皆は 萩を秋と云ふ 縦(よ)しわれは 尾花が末(うれ)を 秋とは言はむ (万葉集巻10-2110)(はつかに色づく葉もありて)(やや日も傾き、湖面の輝きが増す。) 大浦が近くなる。大浦川を渡り、海津大崎を目指して走る。こちらもなかなかいい風景である。(大浦川)(何とはないが建物もいい雰囲気を醸している。) 花と琵琶湖二題 コスモスの 花は揺れけり 夕風の さきにぞ見ゆる つづら尾の崎 (偐家持)(イタドリ) 上の彼岸花の処で挙げた万葉歌の「壱師」は「彼岸花」ではなく、この「イタドリ」(すかんぽ)の花だという説もあるようだが、連れは彼岸花よりもイタドリの方が歌にしっくり来ると言っていました。(再び、竹生島が網代木の向こうに・・。) 網代木( あじろぎ)に 寄す波の音( と)も 今は絶え 竹生(ちくぶ)の島は 寝にやつくらむ (偐家持)(海津大崎は桜の名所。立派な桜並木が続く。)(トンネル) トンネルを潜って暫く行くと雨がポツリ、ポツリ。予報では夜には雨とのことであったので、本降りになる前にとホテルに引き返すことに。トンネルを出た処ですれ違った自転車の男性と二本松水泳場の手前でまたすれ違う。雨が降り出したので彼も引き返して来たと見える。(GFC奥琵琶湖・今回の宿) 予報通り、夜になって本降りの雨。明日の空模様が気に掛かるが、これは天に任すしかない(笑)。 ホテルで朝食を済ませて外に出るとすっかり晴れて、山々に雲立ち昇るのでありました。では、今日は大浦川沿いを走ってみるか。 大浦川に沿って行くと自然に永原駅の前に出る。駅を通り過ぎ、どんどん北へと、長閑な田園風景の中を走る。大浦街道に出て山門まで走り、Uターン。ずっと行くと以前行ったことのある深坂古道に至るのであるが、今回はパスです。永原駅に戻り、トレンクルをたたみ、電車で帰途につく。以上で奥琵琶湖銀輪散歩終了です。三日間もお付き合い下さり有難うございました。(JR永原駅)(大浦川沿いの道。風もさやかに吹いている。)(この道をずっと行けば、沓掛から深坂古道へ続くのであるか。)(湖北サイクルロードの標識)(永原駅ホームから琵琶湖方面を望む。川は大浦川である。)
2010.10.01
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