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ヤフーニュースを見ていて面白い記事を見つけたので考えてみた。記事はこう書いている。妖怪のカッパから贈られたと伝わる印鑑が、福井県敦賀市の真禅寺で長年保管されている。「川太郎の銅印」と呼ばれる銅印で、水難よけの御利益があるとされる。これまでに多くの人が解明しようと挑んだがいまだ分からないまま。前住職の平吹宣夫さん(77)は「何とか解読できないだろうか。やはり何と書いてあるか知りたい」と今後、解読者が現れるのを期待している。いやー期待されると頑張りたくなる。(誰も期待していないと言う意見もあるかもしれないが)問題の銅印(印刷したもの)はこんな感じである。僕は子供の頃からアルセーヌ・ルパンやシャーロック・ホームズの本が好きで、今でも恥ずかしながらコナン君が大好き。推理するのが大好きなので、こんなのを見ると徹夜したくなる。邪馬台国がどこに有ったかとか、日本書紀と古事記が何であるのかとかも同じである。とにかく「謎」が好きで解決したくなるのである。壊れたパソコンを修理したくなるのもそうかもしれない。で、銅印であるが、僕は以下の理由をヒントに「己淮己南」だと推理した。1.ある書物にこの銅印にまつわる物語が載っていると書かれている。 資料によると江戸時代、寄進した男性の先祖が敦賀で人足の親方をしており、 先祖の家に川太郎と名乗るカッパが訪れた。 「川底の光る物が怖い。人間様に危害を加えないから仲間と住めるようにしてほしい」と 懇願したという。 承知した先祖が泳ぎが得意な人足に頼み、川底からやりの先を回収させた。 喜んだ川太郎が 「これは水難よけの印形(印鑑)。 押し型を持っていれば、どの国のカッパも危害を加えない」とお礼に贈ったという。 体が元気になる鳥の卵も渡したと伝えられている。2.先々代の住職のほかにも関心を持った歴史愛好家や学生らが調べ、 さまざまな考察が寄せられた。 その結果、平吹さんは銅印本体は明代の中国と日本の生糸貿易で使われた「糸印」で、 文字は「篆字(てんじ)」と考えるに至った。 読み方は多くの人の意見から「日雅日学」「以雅以南」「台雅台南」が有力とみているが、 どういう意味なのか判然とせず、カッパとの関連も謎のままとなっている。上記1.のポイントは「川底のやり」と「どの国の人も」である。河童と言うのは「中国から来た船乗り」で、川底のやりは彼を追いかけて来た人間の武器では?(武器と言っても呪術的な武器です。単純な武器ならば自分で潜って取れば済む話です。 河童なんだから。 だからゲームでよくある様に善のパーティでは呪われるアイテムを悪のパーティがとりに行く そんな感じで日本人に頼んだのでしょう。)なので、本当はこの銅印は何らかの「符牒」で中国の船乗りはこれを見たら仲間だと分かり、持ち主を助けてくれる物なのではないだろうか?貿易をする場合には(罠を防ぐ為に)日本でも「割符」等相手を特定する符牒が使われた。これもその一種で当時の生糸貿易で使われたのではないだろうか?それで「これを持っていればどの国のかっぱも危害を加えない」のでは?「どの国の人も」は日本の丹波とか越と言う国ではなく、ストレートに中国や韓国では?それは2.からも分かる。日本の印鑑ではないからである。なので、「己淮己南」と読むのである。「己」はもちろん「おのれ=自分」であり、「淮」は「淮河(わいが)=古くは淮水。」で下図の中国の黄河と長江の間を流れる河である。赤い枠内がそうである。「南」はもちろん南で、「己淮己南」は我(もしかしたら我々)は淮水の民で南から来たの意味。なので、要は身分と言うか出自を証明する印鑑なのである。<後日追記>色々と書いてみた後、再び読み返しているうちに中学生時代の記憶がよみがえった。勘合貿易である。中国が「明」の時代には室町時代。足利義満が明との間で行った貿易である。当時韓国から中国沿岸では「倭寇」が暴れまわっていました。そこで、倭寇と正式な貿易船を区別するために用いられたのが「勘合符」と呼ぶ割符である。中学校の教科書に載っていたのはこんな割符。非常に分かりやすく有効な手段である。割符の片方を日本が他方を明が持ち現地で合わせた。一方、倭寇であるが、世間では「野蛮な海賊」のイメージがあるがそうではない。沿岸の御百姓さんをいじめても得るものはあまりない。荒れる海に乗り出して上陸して村を襲うよりも魚を採っている方が割が良い。なので実際は密貿易を行う組織的な船団だったようである。しかも明は「倭寇」と呼ぶが、実際は日本人だけではなく明や韓国人も多かったらしい。そこで考えたのだが、政権レベルで勘合貿易を行っていたのなら、倭寇たちも何らかの身元証明書を使っていたのではないだろうか?倭寇同士の争いもあっただろうし、罠を仕掛けて積み荷を盗む本当の海賊もいただろう。「河童」が倭寇ならば、今回の印章は倭寇の身分証明書では?他の倭寇グループからの強奪を防ぐには非常に大事だったのでは?そう思った。そうそう、記事で上記1.の最後に出てくる「体が元気になる鳥の卵」と言うのは、ピータンではないだろうか?ピータンに薬効があるのか不明だけど、不思議な食べ物なのでありがたかったのかも?(ピータンは明の時代に発明されたらしいので、どんぴしゃ?)何となくそんな気がする。
February 28, 2021
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2020年7月5日の横浜市金沢区の富岡八幡宮は古墳だよ!(その5)の最後に、磯子から金沢八景間の「(埋め立て前の元海岸沿いの)山の上に有る古墳群を探している」と書いて、1か所恐らく古墳らしきものの石室部分の跡を見つけたが、土地の所有者に迷惑をかけてはいけないのでそっとしておくと書いたが、(この写真)今度は逆に公表した方が良いのではないかと思われる場所を見つけた。金沢区の堀口町に有る「長浜みはらし公園」の隣に設けられたアンテナマストの下にある、恐らく元は神社が有り、その下に有ったと思われる古墳(素人の推測なので自信はない)である。こんな感じである。傾いて倒れそうになっている。公表した方が良いと思ったのは倒れると相当に危険だからである。設置したのはアンテナの形状から行政無線用ではないかと思うので行政機関だと思うのだが、右に見える傾きを押さえる支柱は建設当時には無かったものである。古い写真はなかなか見つからないのでgoogleEarthを見ると無かった頃の写真。この写真の当時には傾いていなかったらしく支柱はまだない。(アンテナマストが折れ曲がっているのはgoogleEarthが複数の写真を合成し表示するから)支柱が有る方向にはさすがに倒れないと思うが、支柱の無い方向は危ない。千葉の災害で倒れたゴルフ場の支柱につぶされた家はいまだに復旧していないので、ここだって危ない。落差を考えると被害は相当に大きいのでは?人命にもかかわりそう。なので、隠すよりも公表した方が良いと思ったのである。<後日追記>GoogleMapで、まだ傾いておらず支柱が無い状態の写真を発見したので追加する。上の写真の中央左の坂下から見た写真で、まだ傾いていない。これから何年くらいたつのだろう?逆に言えばあと何年位大丈夫なんだろう?令和3年3月7日に能見堂跡地に行き、そこからこのアンテナを写真に撮ってみた。危ない方向に、もう相当に傾いている。今度強めの台風が来たら倒れちゃうんじゃないかな?<後日追記>今日さらに別の方角から写真を撮ってみた。シーサイドライン幸浦駅からである。こんだけ傾いていると完全に重心は底面の外に出ている。つまり倒れる寸前。さすがに補助支柱が有る方向には倒れないとは思うがそれに対して±90度の方角は危ないと思う。アンテナマストが傾いているのは、アンテナマストが僕が古墳と考えている高い部分より一段低い位置にあり、2枚目の写真に赤い字で書いたように古墳に続く横穴部分の上に建てたからだと思う。下に空洞(横穴部分)が有るのでアンテナマストの重みにより横穴がつぶれて、そのせいで沈んで傾き始めたのだと思う。ここに古墳が有ったと考えるのはそこに昔の神社の跡だと思える石垣と階段が有るから。石垣と階段は古いので当然アンテナマストを立てる時に築いた物ではない。山の頂上に(元神社の跡と思われる)平地部分が有ったので、ちょうど良いとアンテナマストを立てたものと思われる。高い位置なので電波的には有利。<後日追記>現地を見ないと写真では信じてもらえないと思い、いくつか写真を追加する。特に傾いている原因と思われるアンテナマスト基礎部分。柵の中に入れないのでボケた写真。通常電柱を建てる場合は長さの約1/6を地中に埋めて傾くのを防ぐが、ここは埋める代わりに簡単な基礎を作ってその上に立てている。この場合は計算が必要。多分、僕の想像が正しければ、施工業者が建柱しようとした時に(横穴天井の)石にぶつかり、地形的に重機が入れないので、埋める為の穴を掘れないのであきらめて、アンテナマストを埋めずに基礎を作りその上に立てたのだと思う。本来は風圧荷重計算が必要。(もしかすると一応埋めてはいるのかもしれないが、紙のパック牛乳にストローを刺した状態 で、プランプラン状態かも?)基礎が倒壊する方向のモーメントを防げず平地ならば良いが山の上だと支えが無い状態になる。多少の短い期間ならば良いが、風圧荷重や耐震性能は全く期待できないと思う。(電力柱の場合は電気事業法及びそれを具体的に定める電気設備技術基準とその解説で、 埋め込み深さや風圧荷重計算についてちゃんと規定されており上記1/6埋めるとある。 このアンテナマストは通信用なのでこれには当たらないが、恐らく通信関係の法律で、 同じように決められていると思うので、現状は違法状態なのだと思う。)10m以下の短いアンテナマストならば、これでも良いがこれは多分15m近い高さが有るので、通常の電柱でも深く埋めるだけではなく「根巻き」をするのが普通。道路わきの電柱ならば、周囲の地面は道路舗装によりめくれにくいがここは山頂なので弱い。簡単に地表がめくれて倒れると思う。建築基準法により15mを超える工作物は届け出が必要なので、ぎりぎり15m以下にしていると思われるが、厳密にはコンクリート柱ならばコンクリート部分と付属部材が材質の違いにより区分できるが、パンザマストのような鉄材柱は柱と部材がともに金属なので区別ができず、柱の上の部材も高さに含めて計算されるべきなので15mは超えていると判断されるべきもの。なので、本来は建築主事に届けているべきだが、届けているだろうか?届けていれば、高い位置に設置されるので風圧荷重計算等が必要で難しいと思うので、恐らく発注者は業者に任せて業者は面倒くさいので発注者の責任だと言って誰も責任を持たず、何も届けていないのではないか?もし何かあれば責任を問われる物件だと思う。<さらに後日追記>考えると、もし設置者が横浜市とかだと立場上施工不良は認めづらいだろうなぁ。で、結局地震や台風等で倒れて落ちてから「想定外」だったとか言うと思う。でもそれでは被害を受けた下の民家は浮かばれないので考えてみた。倒れることは「想定外」ではなかったけど、下に「古墳があることは想定外」だったことにして、(施工不良ではなく)古墳の保護を理由にして再施工をしてはどうだろうか?施工不良だったと言うのは耐えられないけど、文化財の保護が理由ならば理由になるし、なにより下の民家が助かる。まず最初に石垣部分の電柱の支持に影響の無い部分にGoProが入る程度の小さな穴をあけ、下に空洞が無いか確かめる。無ければ、予想の外れた僕は悔しいけど、単なる施工不良で下の民家は諦めるしかない。有れば上の絵のような工程で古墳は保存されるし、アンテナは安全になる。予算的にも「文化財を保護する部署」と「無線アンテナを管理する部署」の両方の予算が使え、単独に施工するよりも経済的。下の民家も枕を高くして眠れる。何よりも「施工不良では無いので再度予算要求ができる。」検討に値すると思うな。ちなみに古墳部分と思われる山は上の写真の約1m位上で、下の写真のような感じ。多分、神社の裏になり、小さな神社だと思うのではっきりと言えないが本堂裏だったと思う。瀬戸神社の本堂の裏のやぐらと同じイメージである。元々古墳=御先祖様の墓を守るのが神社の発祥の原因なので、神社の裏には古墳が有った場合が多い。瀬戸神社本殿裏のやぐら(今ではコンクリートで塞がれている)の写真。瀬戸神社もここに祀られていた、恐らくは千葉氏の霊を守る為に作られたのが発祥だと思う。<後日追記終わり>ここは今こそ内地に有るが、埋め立てが行われる前には海を見下ろす景観の良い地。逗子の長柄桜山古墳と同じ立地である。僕は(と言うか横須賀市のホームページを見ると横須賀市の人も同じ考えみたいだが)この付近の古代の豪族は海人族で海を見下ろす山の上に古墳を築いたと考えているので、多分この山の下には古墳が有り、アンテナマストの下には石室に続く横穴が有ると思う。<後日追記>この問題はアンテナの所有者の方が配慮してくれて、2023年2月には解決しています。詳しくは下記に書きました。横浜市金沢区の富岡八幡宮は古墳だよ!(その15)金沢区長浜みはらし公園の鉄塔の問題は解決しました。 | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)写真を撮った帰りに近所の長浜公園の野鳥観察小屋に寄った。ここにはABC3か所の野鳥観察小屋が有り、都会の横浜には珍しくたくさんの野鳥がいる。特にAでは前回見に来た時には「かわせみ」がいる。字が小さいので見づらいが右の□の下の鳥がカワセミの紹介である。この日は見られなかったが、休日には朝から見ようとファンが待っている。でも難しいが。Bは広い地域を見渡せる。2枚の写真をつなぎ合わせたのでつなぎ目が変だが、相当に広い範囲。特に右手の島には鳥が留まれる棒がたくさん立ててあり、カワウやサギが留まっている。小屋にはここにいる鳥達の紹介が有り、子供達の勉強になる。良い事だと思う。都会の中にこんな良い公園が有るのは良いことだと思う。
February 13, 2021
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何故「古事記」と「日本書紀」があるのかと言う研究の為に「大王のひつぎ海を行く」を読んだ。ただ、本来のテーマとは直接の関係は無いので6.2と枝番。僕は神武東征は神話で何の根拠も無いが、九州から応神天皇の親か祖父が攻め上りヤマト王権を気付いたのは事実だと思っているのだが、その直接的根拠は継体天皇の墓である今城塚古墳から出土した3つの石棺の破片である。阿蘇のピンク石(馬門石)の石棺と吉備の竜山石の石棺と近畿の二上山の石の石棺が有り、阿蘇のピンク石が石棺に使われたのは、熊本のチブサン古墳等の例で分かるように、死者を取り囲む部屋や石棺に使われる赤い色が呪術的な意味を持っていたからである。また、熊本の石なのに近畿でしかその製法技術が見られないのは、製法技術を持った技術者集団が王と共に熊本を離れ吉備や近畿に移ってしまったからである。なので、応神天皇が伝説の通り北九州で生まれ、その親が熊本の出身で大分経由で近畿に出て、そこで吉備の一族と手を結んで、近畿を支配していた尾張の一族を滅ぼしたのなら、また継体天皇が応神天皇の子孫ならば、全てがつじつまが合うのである。継体天皇が筑紫の磐井を攻めて滅ぼしたのも先祖の土地を取り返したのだし、応神天皇の母である神功皇后は丹波の出身(息長宿禰王の縁者)だから吉備や越に縁があるし、仲哀天皇を殺して、その二人の皇子を倒して大和に帰って来たのもうなづける。恐らくヤマトタケルのモデルは尾張の一族で日本書紀に記されている景行天皇の子ではなく、成務天皇が景行天皇の子だったからである。仲哀天皇の親のヤマトタケルの実在性が薄いのは、日本書紀の元になった帝紀等が改竄され、尾張の一族が一時天皇だった事実をある理由が原因で消し去ったためであり、ヤマトタケルの命の九州や出雲の伝説が景行天皇や成務天皇の事績とダブり、東征の様子が大国主命や雄略天皇の事績とダブるのは、その改竄の結果である。それがお正月にNHKで放送された「邪馬台国サミット2021」で出た広輿図で明らかになった。14世紀の中国で作られた周辺の島々の様子を書いた地図である。番組では邪馬台国がどこに有ったかを考える為に出されたのだが、実は上記応神天皇の話に合っている。地図を見ると赤い枠の中に九州の肥前肥後豊前豊後平戸特に大宰府、山口広島、兵庫、静岡の当時の地名が記されているが、奈良や大阪や大和は無い。その代わりに尾張と思われる「尾汝」と言う国が有る。なので日本での実態はともかく、かなり遅くまで中国の認識では日本の中心は太宰府であり、大和の地は尾張が支配していた(野蛮人の国)と考えられていたと思うのである。倭の5王は九州にいたと思われていたのではないだろうか?(白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた後に太宰府に筑紫都督府がおかれ、 郭務綜以下唐軍2000人が占領軍として駐在した時に、天智天皇以下が救われたのは、 唐の人間の知識の中では九州の王朝が倭国であり、大和の天皇の所在を勘違いしており、 筑紫の国が平定されたのをもって日本の征服が終わったと勘違いしていたからかもと思う。 その後唐が弱体化し、新羅が唐と敵対したので結果的に日本は救われた?)<後日と言うか翌日追記>気になったので「邪馬台国サミット2021」で出た広輿図を調べてみて、自分の誤りに気付いた。倭奴国と日本が別であったと言うのは正しそうだが、中国が日本の天皇が九州に居たと勘違いしていたと言うのはなさそうだ。上の中国の地図は「地圖綜要」と言う本に載っているのだが、この本は中国及び周辺の古今東西の地図を集めたものみたいで、時代の違う地図が混在してる?中国語が分からないので、解説の文字部分が分からないから真相は不明。残念ながら。その中の「東南海夷圖」と言うのが上の地図だ。他にも琉球圖、朝鮮圖、日本圖が有り、日本圖は本州・四国と九州に分かれている。まずは本州・四国を紹介する。上が南なので分かりづらいがちゃんと山口から青森まで載っている。それなりに正確。この地図では「山城の国に天皇(日本国君主)がいることになっている。山城国(山背国)と言うと平安京なので天武朝以降なのだがちゃんと首都として認識されている。なので、僕の仮説「中国は九州に日本の中心が有ったと勘違いしていたので天智天皇は救われた」と言うのは間違いである。ただ、東南海夷圖は同じ本の中で古い地図を比較する為に載せているものかもしれない。で上図は新しいのかも?(逆に言えば東南海夷圖が相当に古い地図で、それこそ卑弥呼の時代に近い時代の地図かも? つまり卑弥呼の時代には倭奴国と日本は別の国として認識されていたことと、倭奴国が北九州な らば日本は宮崎あたりとして認識されていたのは正しいのかも?)同じ本の九州(恐らく上の本州・四国の地図と同じ頃?)はこんな感じ。これも上が南である。多分中国を中心に考えているので、遠い方(南)を上にしているのだろう。見るとちゃんと豊後は豊前の南、築後は筑前の南、肥後は肥前の南になっている。博多等も載っているので、国名とは別に主要都市も載っているのだろう。(後で気がついたけど、何故九州だけ別の地図なんだろう? もしかしてやっぱり中国人の認識では九州と本州・四国は別の国で、 ちょうどかってのソビエト連邦がロシアとウラル等が集まって一つの国であったように、 九州国と本州・四国國は連合国家だとおもっていたのだろうか?こうしてみると、邪馬台国の時代から時間がたっているので一概には言えないが、近畿説の人の言う、中国では「東と南を間違えていた」と言うのはウソだと分かるだろう。日本にまだ地図も何も無い時代に、取るに足らないと考えていた日本でさえ正確に書いている。いかに優れた学者がいたかと言うことである。近畿説の先生方、中国をバカにし過ぎである。なお、ある人々には朗報であるが、本州・四国の地図の右下を見て頂きたい。「竹島」が日本の地図の中に載っている。「独島」ではない。つまり竹島はこんなに昔から中国に「日本の島」として認識されていたのである。なので、韓国が無茶を言っていると分かる良い資料だと思う。<後日追記終わり>それ(その時代には尾張が実権を握っていた)は壬申の乱でも明らかである。古来、藤原氏に不満を持つ天皇は、天武天皇も聖武天皇もみな一旦は尾張方面に逃げる。その後天武天皇は尾張を味方につけ大友皇子に勝つのである。なので、藤原不比等の時代までは仲哀天皇が尾張の一族であったことが知られていた?天智天皇と藤原一族は勝ち目のない白村江の戦いに挑むように九州の王族とつながっていた?景行天皇の当時の交通事情を考えれば大軍を率いて九州を攻めるのは無理なので、景行天皇は少数精鋭で、むしろ九州の地元の勢力を利用して、九州を同盟国にしたのだし、その親の垂仁天皇は名前の「いくめのすめらみこと」から分かるように宮崎の「生目古墳群」の一族の出身である。そう考えれば、景行天皇とヤマトタケルノミコト及び成務天皇の関係が理解できるし、ヤマトタケルと言う人物の怪しさの原因が理解できるのである。ヤマトタケルノミコトは天皇家と藤原氏に葬られた悲劇の(尾張の)天皇なのではないだろうか?(尾張と言うと名古屋のイメージがあるが、元の出身地は葛城の「高尾張邑」である。 もしかすると上記の中国の地図にある「尾汝」はここで、葛城氏の中の尾張系の中心で、 ヤマトタケルノミコトは尾張の天皇と言うよりも葛城氏の天皇と言うべきかも?)またそのことは三種の神器の所在からも想像ができる。八咫鏡に関しては崇神天皇の「神威が強すぎる」発言から(本当は違うと思うのだが)皇室ではなく伊勢神宮に祀られており、天照大御神の言葉(私だと思って枕元に置け)に反して皇室には形代を置いていることを納得せざるを得ないのだが、草薙剣は意味が分からない。ヤマトタケルノミコトが帰ってきたら、個人の持ち物ではないのだから天皇家に返すべき。それが何故尾張の熱田神宮にあるかと言えば、元々尾張の持ち物だったからに違いない。すると尾張はスサノオに関係があるのか?実はそうなんだと思う。天武天皇は壬申の乱以前には吉野の里にこもっている。ここは葛城の一族の里だったのではないだろうか?乙巳の変で滅びたのは蘇我本宗家であり、蘇我氏そのものは乙巳の変でも天智天皇に味方し、石川家として生き延びている。もっと言えば藤原不比等の妻で房前の母は蘇我媼子である。蘇我氏は葛城氏の一支族の出身だと言うし、僕は纏向遺跡が「何もなかった所に突然できた都市」であり、出雲の大物主神(事代主命)を祀った三輪山の麓にできた都市なので、それを作ったのは吉野から葛城地域にいた葛城氏=出雲の一族だと思っている。そうそう、尾張の祖の中には「高倉下」もいるし、天忍人命以下は葛城氏の系統だし。藤原不比等は日本書紀によって蘇我氏を貶めると同時に尾張の歴史も消したかったのでは?後醍醐天皇だって吉野に逃げて南朝を立ち上げる。もしかして、その頃まで天皇家を助ける者が吉野にいたから?長くなって支離滅裂になったけど、つまり継体天皇の祖先=応神天皇で、応神天皇の親くらいまでが熊本に居たのなら、当地の一族の祀り事から阿蘇のピンク石を石棺に使うのは無理も無いと思うので、この本に書かれた「阿蘇のピンク石を畿内へ運ぶ実証実験」はものすごく大事な実験だと思う。さて本題に入る。「大王のひつぎ海をゆく」であるが、吉備や近畿の古墳には継体大王の墓とされる今城塚古墳や推古天皇の古墳と言われる植山古墳等の石棺が阿蘇のピンク石(馬門石:まかどいし)であることが分かり、これをきっかけに高木恭二先生(宇土市教育委員会文化振興課)が研究を始め、それまで二上山の石と思われていた石棺が成分分析の結果、実は阿蘇のピンク石製だと分かり、もしかすると宗教的な意味合いから特定の産地の石が使われているらしいことが分かった。(熊本では-福岡でもそうだが-装飾古墳の中は赤い色で装飾され、赤は魔よけの色とされている)今城塚古墳では阿蘇のピンク石、吉備の竜山石、奈良の二上山の石の3種の石が使われているが、5世紀末から6世紀初めには馬門石(先生はこれが継体大王の石棺と考える)、その後の追葬は竜山石、最後に二上山の石に変化していったのだろうと考えている。(但し、僕は最後の二上山の石棺が継体大王、竜山石が彼の親、馬門石が応神天皇の親で、空の石 棺を運んだのではなく故郷を離れる際に先祖の遺骸の入った石棺を連れて来たと考えている。)彼の調査により、九州から瀬戸内海を経て大阪までには適当な間隔で熊本の古墳と同形式の古墳が有り、そのことから「石棺輸送論」を思いつき実際に石棺を輸送する実験航海が出来ないかと思い周囲に働きかけ、2004年に体制の整備を始め、2か月かけて石棺を、6か月かけて古代船を作り、上記熊本の古墳と同形式の古墳から航路と22か所の寄港地を決め、2005年7月24日に宇土マリーナを出港して2005年8月26日に大阪南港に着くまでの1006kmの記録を、関係者の声を含めて残したのがこの本である。まずは問題の吉備や畿内のピンク石でできた石棺の有る古墳であるが、このような感じである。熊本の石なので地元で使われた形跡が有ると思いがちだが、実は熊本にはほとんどない。石切り場は有り、大王たちの祖先の地の宇土市には有るらしいが、他には無い。恐らく前方後円墳が後に埋葬者の地位により規模や形式が決められたように、大王墓にしか使われなかったらしく使用が制限されていたらしい。後年江戸時代でも、馬門石は細川家が藩の御用石として使っており赤石場見取締役を置いていた。特に前述の今城塚古墳(継体大王陵)、植山古墳(推古天皇陵)と吉備の築山古墳(吉備の大王の墓らしい)は重要で、熊本の王朝(応神天皇一族)が攻め上って来た経路と一致しているのではないかと僕は考えている。(神話の様に一気に攻め上ったのではなく世代を重ねて少しづつ範囲を広げた?)全経路は上の石棺の分布と熊本と同形式の構造の古墳の位置及び、古代の記録にあらわれている湊の位置から想像された経路と寄港地22か所が選ばれたようである。2020年12月19日の「邪馬台国はどこにあったか(その18)まとめ」でも書いたが、ある程度大きな船には港が不可欠で、小舟ならば砂浜でも上陸できるが、腰まで浸かって降りる必要があり、石棺を運ぶ台船の曳航も有るので寄港地は限定されるのである。例えばこの実験航海でも海王丸(古代船の名称)は砂浜で座礁している。しかもちゃんとした港でないと、潮の満ち引きや、瀬戸内海の場合潮流の変化に対応できない。また、上の写真の海王丸の形状を見ると分かるがカヌーや丸太舟のような形では実用にならない。特に前後の堅板は重要である。横波を受けると転覆するので、船の幅も重要であるが、それ以上に船が前進する以上波を切る。その為に舟の前面から受ける波はすごく、必ず船に海水が侵入する。侵入した海水をくみ出す「あか汲み」をしながらの航海は無理が有るので、前面からの波の侵入を防ぐ堅板は必需品なのである。なので古代船には前後の斜めになった堅板が必ずついている。東京博物館に置かれていた古代船の模型もこんな感じ。丸木舟の前面に堅板がはめ込んである。ただ、海王丸は見ると分かるように丸木舟の前の出っ張りは無い。この展示品の出っ張りは丸木舟に板を張り付けただけの「準構造船」なので仕方ないのだが、沿岸を「水行」するだけの舟ならば仕方ないが、造波抵抗が大きく波を受けて転覆するので、「渡る」ような岸を離れての航海には無理が有る。大阪市の「なみはや号」や角川氏の「野生号」はこれを理解していなかったので、日本海を渡る実験をしたが、途中で諦めてエンジン船に引いてもらう羽目になっている。海王丸は古代船とは言っても、ちょっと進化した「構造船」なのでこの出っ張りが無い。しかしそれでも海は激しく、外海ではない瀬戸内海でも海は荒れる。この写真を見ると前面(本当は後面も同じ)の堅板がいかに大事か分かると思う。航海はただ海を行くのが目的ではなく石棺を運ぶのが目的なので、石棺用台船もある。大変な航海だったのだと思う。最後に2か月かけて切り出して作られた石棺と、進水する海王丸の写真を載せる。この実験航海はもっと世の中に知られるべきだと思う。世の中の考古学者や史学者は頭の中で考えすぎるので、理論が滅茶滅茶なことが多い。しかも自分では滅茶滅茶であることを認識するのが難しいので「自分が正しく相手が違う」と思いやすい。そのせいで自信がない学者は権威主義に陥りやすく、先生を盲信する。この実験航海で実証されたのは「近畿のピンク石は熊本から運ばれた」と言う事だけではなく、応神天皇(とその親達)が本当に九州から攻め上り、継体天皇はその子孫であり、神話である神武東征も、実は時代とモデルを考慮すれば実際に有った話かもしれないと言うこと。今まで根拠もなく思い込みで否定されていたことが、実際にあり得ると言う事なのではないか?これからもこのプロジェクトのような試みが続かないかな?熱意の有る人が望まれていると思う。
February 5, 2021
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ヤフオクでNEC PC-VY22MA/Aを1100円で買いました。2010年の発売でCPUがceleron900と性能が低く現在では使い物にならないせいもあるが、何よりも液晶パネルは無事だけど液晶パネルのカバーがバキバキでヒンジが折れて切れていた。つまり物理的に使えない。また、動作可能と書いてあり、メモリー2GBとハードディスク160GBは有ったが、Windows7HOMEは認証されておらず、デスクトップ画面は真っ黒で、右下に「このwindowsのコピーは正規品ではありません」と表示されていた。なので1100円なのかと変に納得したが、何とか復活できないかと頑張ることにした。液晶パネルのカバーはバキバキだった。またWiFiのケーブルも切れていた。元が1100円なので、お金をかけずに修理する為にヤフオクを探すと、別の機種ではあるが、同時期の発売の形状が似たジャンクの液晶カバー(上半身)が有った。380円と安かったのでダメ元かなと言う感じだった。届いた物を見るとありがたいことに(色は違うしWiFiケーブルも無いけど)使えそうだ。元の上半身から外した液晶パネルとジャンク箱から見つけたWiFiケーブルを取り付けた。ただ元々のWiFiケーブルはカバーにねじ止めするタイプだったのだが、ジャンク箱から見つけたのはシールで取り付けるタイプだったので、ねじ止め部分が邪魔でシールとアンテナが張れなかったのでカッターで加工する必要があった。ちょっと手間がかかって大変だったけど上手く取り付けられた。液晶パネルが修理できたので電源を入れてBIOSで確認する。何とか上手くいき無事に動いている。次はWindows7の修理だ。このノートパソコンはリユース品らしく、本体裏を見ると、本来のWindows7Proのプロダクトシール以外にWindowsHOMEのシールが貼ってある。立ち上げてみるとKINGSOFTofficeが入っているのでやはりリユース品だ。システムのプロパティを見ると認証されていない。本体裏のWindowsHOMEのシールのプロダクトキーを入力するが0X80072F8Fエラーが出る。ネットで探すと「windowsの時計が狂っている時に出るエラー」らしい。?BIOSを設定する時に時計は合わせたはずだが?と思って確認したら狂っていた。そうか2010年のパソコンだからマザーボードのコイン電池がダメになっているのかも?早速分解してコイン電池の電圧を計ったら1.4Vだった。普通は3Vのはずだ。これか。電池を新しい物に交換して再挑戦した。時計は狂わなくなった。でも認証できない。Windows7そのものが壊れているのかもと思い、Windows7Proのプロダクトシールも有るので、Windows7Proを再インストールすることにした。でも0X80072F8Fエラーが出て認証できなかった。もしかしてと思いwindowsUPDATEを試してみたら、microsoftのサーバーにアクセスできない。検討を繰り返していると画面が真っ黒になり、画面の右下に「このwindowsのコピーは正規品ではありません」と表示されていた。そうかと気がついた。microsoftの意地悪戦略である。昔windows8を発売した時にユーザーがwindows7を使い続けてwindows8を買わなかったので、業を煮やしたmicrosoftがサードパーティ製のwindows7の排除を口実に取った戦略である。正規品で無いと言うくくりで排除したのでメーカー独自に工夫を加えたwindowsも影響を受けた。おかげで大混乱になったが、その後のwindowsUPDATEで対応したはずである。ただ、今回のようにWindowsUPDATEが使えないとどうしようも無い。そう言う場合は手動でwindowsUPDATEにアクセスするしかない。困っている人がいるかもしれないのでファイル名をのせる(windowsupdateagent-7.6x64.exe)これを実行するとwindowsUPDATEが実行される。結構時間がかかる。無事に認証されたので性能検査をクリスタルマーク2004R7でやってみた。うーん、やっぱりCeleron900だとこんなもんかなぁ。CPU換装しなくっちゃ。Celeron900はPenlynでソケットはPGA478だからCORE2DUOかPentiumだなぁ。ジャンク箱を探すとCORE2DUO P8400とP8600、そしてPentiumT4300が有った。Celeron900とPentiumT4300はFSB800MHzでCORE2DUOの2つはFSB1066MHzだ。Celeron900は1コアでPentiumとCORE2DUOは2コアだ。Pentiumはキャッシュ1MBだがCORE2DUOは3MBだ。もう迷う事無くCORE2DUO P8600だな。但しFSBが800MHzから1066MHzになるので、メモリーも換えなくては。元々のめもりーはPC-8500が2GBなのでPC-12800を6GBにしよう。この機種は多分同じ製造ラインで多機種を製造する為だろう、CPUにアクセスしやすい構造。この頃の機種は今のCPUとは違い、グラフィックの機能がチップセットに内蔵されている。従ってヒートシンクはCPUだけでなくチップセットも冷やす構造になっている。またFSBは上記のように多機種製造ラインに合わせて色々なCPUを扱う工場で製造するので、CPUの種類に応じて周波数や電圧が自動で変わるようにBIOSが作られているはずである。なので昔のように自分で調整する必要が無い。CPU換装後の性能検査結果。CPU関係の性能値ALUやFPUは2倍になっている。すごい!FSBが800MHzから1066MHzに上がった効果で、MEMもメモリーの動作速度が上がり1.4倍になっている。グラフィック関係も1.3倍くらいになっている。この位上がれば、最新機種には全然かなわないけれど、安物のATOMなんかには勝てるな。CPU換装も無事に終わったので安心してwindows10にアップグレードしてみた。windows7からindows10へのアップグレードは本来は終わっているが、正規のwindows7からは何とかアップグレードできる。何とかwindows10にもなり使えるようになったのだがWiFiが使えない。デバイスマネージャーを見るとintelのN6205として認識されており「正常に動作」しているが、設定で何度ONにしてもすぐにOFFになってしまう。一所懸命に考えて調べていたら、他機種の取扱説明書を見ていた時に気がついた。普通ノートパソコンにはWiFi用のスイッチがついているかBIOSでONにできるはずなのに、このパソコンにはスイッチは無いし、BIOSには設定項目が無かったなぁ?そう、この機種は元々WiFiは無いのである。前の持ち主も自分でWiFiを付けようとしたが手に入らなかったのだろう。他機種では前面パネルのボリュームの右にスイッチが有るので、この機種には穴さえも開いていないけどマザーボードにはスイッチが有るかもと思い、また分解してみた。おぉー!スイッチが有るじゃん!早速ONにして再度組み立てた。WiFi使えるようになった。受信感度も良好!intelの手動診断ソフトで試してみた。上手くいった。これで何とか使えるようになったので、これは色々なOSやソフトをインストールして壊れても大丈夫なような実験専用機として使おう!まずは、androidSDKとパイソンをインストールしよう。
February 1, 2021
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