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アマチュアのダメな所であり、しかも良い(楽な)所なんだけど、2日前に考えた事が夜寝て考えるだけでがらっと変わってしまうのは、口から出たあるいは活字になってしまったことは変えられず、もしかして違っていたのかもと分かっていても、主張を変えられない学者先生には申し訳ないのだが、一昨日の「邪馬台国はどこにあったか(その23)検証旅行その1」で、海幸彦と山幸彦の話も竜宮城が鹿児島のことだと考えれば、これは邪馬台国の王の相続争いのことであり、と書いたのは間違いかもしれないし、或いは正しいのかもしれないし、少し迷っている。それは何故か。昨日書いた「邪馬台国はどこにあったか(その24)検証旅行その2」で、宮崎神宮は宮崎県西諸県郡高原町狭野(小林市)でお育ちになったイハレヒコ(神武天皇)を祀ると書いてあるのを見つけたからである。この事が真実ならば山幸彦は奴国から小林市経由で宮崎に進出してきた天孫族であり、海幸彦が海人族の隼人を意味するのであれば、小林市付近に王国を築いた天孫族が現在の曽於市付近に居た隼人と勢力争いをして勝ち、天孫族の国を開いたことを神話は示しているのではと思うからである。神話で幸を交換したと言うのは、天孫族(山幸彦)は大淀川下流への進出経路を得て、隼人(海幸彦)は農耕技術を獲得したことを指しており、2者は結局1つの国にまとまろうとするのだが、その時に天孫族の皇子と隼人の姫が結婚するのである。その経緯が神話としてまとまったと言うのが一昨日の「邪馬台国はどこにあったか(その23)検証旅行その1」の天孫族相続争いとどちらが正解かなと迷っている次第である。学者なら迷ってはいけないんだろうな。おそらくこの想像だとじゃあ熊襲と呼ばれるようになった経緯や、神武東征及び国譲りとの関連はどうなっているのかと疑問を持つであろうが、答は簡単。神話なので時期と場所が違うだけである。僕は初期大和王権は出雲の王朝だと思っている。まず、古事記や日本書紀の崇神天皇の行動を見ると分かる。彼は出雲の大物主の祟りを恐れて三輪山に祀られた大物主の子孫の大田田根子を探す。そして見つけると大田田根子に三輪山の大物主を祀らせる。つまり、崇神天皇は大物主に祟られるようなことをしたのである。それは彼が大物主を殺して王座を奪ったと言うことに違いない。ならば崇神天皇の前は出雲の王朝だったと言うことである。さらに言えば、彼とその子の垂仁天皇は祖先の神である天照大御神を伊勢に祀る。古事記や日本書紀の神話によれば、天照大御神は三種の神器の八咫鏡を自分だと思い身近に置けと言ったはずである。それを伊勢に祀ったのは三輪山の大物主が怖いからである。恐くなければ枕元に置けば良い。なので2人の前は出雲の大物主が大和王権の王だったのだろう。そもそも学者先生が邪馬台国だと主張する纏向遺跡は、昭和の初めまでは「太田遺跡」と呼ばれていたのを、箸墓を卑弥呼の墓と主張したい勢力が「纏向遺跡」と改名したものである。「太田遺跡」とは大田田根子が住んでいた太田荘と言う地名からつけられた名称で、この名称のままだとすぐに出雲の遺跡だと分かるからである。出雲は島根のはずだと言う人は古事記や日本書紀を読んでいない。古事記には、大国主命は兄達に2回も殺されそうになり、心配した母親が「木の国(紀ノ國)」へ逃げるように言い、そこでもさらに追いかけて来た兄達から逃げて素戔嗚の住む「根の国(熊野)」へ逃げる。そこで素戔嗚命の試練に耐えて娘のスセリヒメを得て新しい国をつくったとある。それが纏向の里なのである。ただ、国譲りの際に負けて島根の出雲に流された可能性はある。また国譲りの場所は島根ではない。島根で国を譲ってもらって宮崎に天孫降臨するのは理にかなっていない。大和の地で譲ってもらったから大和が日本の中心になったのである。国譲りの場所は宇陀市の榛原石田である。ここは古代は「伊那佐」と呼ばれており、古事記に書かれた「伊那佐之小浜」である。日本書紀に書かれた「五十田狹之小汀」の「五十田狹」が「石田」になまったものである。古事記にも日本書紀にも「稲佐」と書かれた部分は無い。話は戻って熊襲と呼ばれるに至った経緯であるが、皇孫が大和へ進出した頃に隼人が反撃して、人吉付近の勢力と結び宮崎を襲った。それを大和の景行天皇やヤマトタケルが兵を派遣しておさめたのが熊襲征伐であれば、全てのことは形を変えた神話通りなのではないだろうか。なので古事記や日本書紀に書かれたのだと思う。そうでなければ根拠のない神話を正史である日本書紀に載せるはずもなく、ベースに真実があり、それを南九州出身の藤原氏(中臣氏)が書いたので、それはそう言う事ならば仕方ないと、諸貴族も納得せざるをえなかったのだろうし、魏志倭人伝に書かれたことも形は変えられているが含まれているのだと思う。で、今日はそれをふまえて、小林市から大淀川を経由して宮崎に来た人の古墳の調査報告。そもそもなんで小林市から宮崎市に進出してきたか?それは彼らの生活形態の変化によると思う。縄文時代には一部自然的農耕技術は有ったのかもしれないが、主は狩猟と採取。なので山幸彦は山に、海幸彦は海辺にいたのであるが、その時代の自然的農耕技術は「陸稲」や川沿いの湿地にもみをまくスタイルだった。狩猟と採取に比べて、技術力は低くても農耕は養える人員数は圧倒的に多く、人口の増加によりより広い「川沿いの湿地」を求めて大淀川を下って行った。後に人工的農耕技術による灌漑が定着するまでは川沿いこそが大事だったのである。そのせいで小林市から下って来た人達は大淀川の周辺で大きな国に発展し、その首長は川沿いの生目古墳群に祀られた。しかし稚拙では有るけれど水を人工的に引ける人工的農耕技術が発展するに従い、台風時や梅雨時に危険な川沿いから少し離れた地域に移るようになってきた。これが上北方古墳群及び下北方古墳群の人々である。そのうちにそれらをまとめて小林市から宮崎市までをまとめる大きな国ができ、その首領が宮崎神宮の船塚古墳に祀られた人である。彼の子孫はさらに発展して西都市あたりまで国を広げて、美々津の港から大和を目指す。これが日本神話のもとになったのだと思う。なので西都原古墳の主は瓊瓊杵尊ではなく、神武天皇と逆転していると思う。上に書いたストーリーは、それぞれの古墳の考古学的年代順に並べたものだが、国を広げて行くと言う筋合い的に事実関係と合うからである。で順番は進出順とは違うけれど、僕の見学した順と言うことで、昨日は下北方古墳だったが今日は上北方古墳。宮崎神宮の船塚古墳よりも下北方古墳が古く、ここはそれよりも少し古い。まずは入口。ここを見つけるのは大変だった。道路の影だし案内も何もない。この神社は成務天皇が武内宿禰を使いとして崇祀されたという伝説が残っている。『日向地誌』によると、神社名も村社磐戸神社とし、「天然の岩窟なり、窟口の広さ1丈余、深さ15間、その中に鎮座す」と書かれているそうだ。つまり神社創建前から横穴墓が有り、それは今でも本殿裏に有ると言うことである。本殿の裏に横穴墓が有ると言うことは、裏山が古墳であり、その横穴墓は古墳の玄室の址なんだと思う。そして元は神社はその古墳を祀る(あるいは守る)為に作られたもので、現代のお寺の中のお墓が先祖代々のお墓を祀り、和尚さんが守っているのと同じなんだと思う。昨日の宮崎神宮が船塚古墳の造出し部分に造られているのと同じである。そして実は横浜の瀬戸神社も同じで、本殿のすぐ裏にやぐら(元は横穴墓)が有るのである。下の写真が現在の瀬戸神社の本殿の裏のコンクリートで塞がれたやぐらである。この磐戸神社の本殿裏にも、こんな感じで横穴墓が有るのではないだろうか?また、本殿裏の横穴墓以外にも傍らに小さな横穴墓が有り、中に小さな祠が有った。横浜の(古墳だと僕が思っている山の首領の墓とは別に有る)古いやぐらと同じだなと思った。磐戸神社に祀られた本殿裏の首領の墓の下に、その部下か子孫の墓が有るのである。横浜のやぐらは、単なる洞窟ではなく天井・壁が平面だから横穴墓ではないと言う人もいるが、横浜の新しい(鎌倉時代の)やぐらは天井・壁が平面で明らかに法華堂を意識しているが、古い物は横穴墓を改修してやぐらとして、中に祠を設けた物がある。その場合は古い横穴墓の形が残っており、ここのこの小さな横穴墓を見るとそれと同じ形だ。こんなにたくさん横穴墓が有ると近くに古墳が有りそうな気がするが、説明板が有った。付近の横穴墓多数を含めて「瓜生野村古墳群(説明板では瓜生野古墳)」と呼ぶのだそうである。つまり周辺には相当に大きな集落があったようで、古墳の時代を調べるとこの辺の衰退後に下北方古墳群や宮崎神宮(船塚古墳)の時代が続くらしい。周辺は横穴墓が主で、説明板右手に書かれた平和ヶ丘団地付近に有る「奈古神社」の裏山の、奈古山陵と呼ばれる前方後円墳1基(未調査)が唯一の前方後円墳とされている。しかし、僕はそれは違うのかなと思った。理由はこの磐戸神社を写真に撮って見たからである。裏山が前方後円墳みたいだし横穴墓が円墳部の南側で玄室の痕だったのではないかと考えたから。そう考えてもおかしくない「古墳ぽい山」と穴の位置である。でも今となっては何の証拠も無い。またもう一つはこの神社のすぐ西にある、日高氏が「卑弥呼の墓」と主張する山である。遠景はこんな感じ。遠すぎて本当かどうかは分からない。かと言って近くに行っても登れないし調べる時間は無い。でも、日高氏はこの山を突っ切る写真の道路が建設される際に、何とかしないといけないと毎日通って出てくる土器等の遺物を集めたそうである。そんなのが出るならば古墳じゃん!宮崎市も調査すると言うので安心していたら、すぐに工事が始まったそうである。田舎なので仕方ない。田舎では文化よりも産業や住宅が優先する。日高氏の主張(卑弥呼の墓)が正しいかどうかは確かめようも無いが、土器等の遺物が出たのならば古墳なので、googleMapで確かめてみた。上の写真の「鳥のような形」が日高氏の主張する古墳である。前方後円墳に羽がついている。古事記や日本書紀に、高天原と豊葦原の中つ国を行き来する「天の鳥船」が出てくる。これが死者を冥界に運ぶ船ならば、古墳が鳥の形をしているのは筋が通っている。はたして前方後円墳は(卑弥呼の墓かどうかは別として)天の鳥船が原型なのだろうか?面白い仮説だと思う。まぁ、それはそれとして上のgoogleMapの道路を左下に進むと大淀川に出る。僕の仮説が正しければ川の右手は自然の湿地帯または簡易な人工的湿地だった土地であり、より古い集落が有った所で、左手は上北方古墳や下北方古墳が存在する後年の人為的な灌漑施設が必要な所である。いずれにしても初期の農作には大きな川の近くが有利だったと思う。そしていよいよ、僕の仮説で天孫が小林市から下って来た大淀川の右手の生目地区である。僕は上北方古墳群と日高氏の主張する卑弥呼の墓を見たので、ここまで歩いて来たが、通常は宮交シティバスセンターから、31番線に乗り「坂の下」で降りる(下の全体図の上の7号墳の近くのバス停)か、30番線に乗り「生目の杜運動公園北」(下の全体図の下の池のさらに下あたり)のバス停下車。休日ならば34番線が遊古館(下の全体図右下)に来るが1日3本なので注意が必要。僕は歩きで、大淀川の相生橋を渡ったので、右に曲がって坂の下に着いた。この交差点を左に小道を進むと階段が有るので登るとすぐに7号墳が有る。ただの草の山である。この7号墳は地下式横穴墓が有ったらしい。ここを右手に進むとお目当ての5号墳と地下式横穴墓が有る。5号墳は調査後に復旧工事が行われて、表面は葺石で覆われている。元の古墳では傍の大淀川の川原石が葺石として使われていたらしい。生目古墳群のパンフレットにも古墳の構造や作り方が載っている。5号墳手前の地下式横穴墓は南九州独特の埋葬形式である。説明板が汚いので読めないが、遊古館の説明板の方が綺麗なのでそちらをのせる。通常の古墳や横穴墓では斜面部分に穴を掘り、羨道部分を通って玄室に至るが、この形式では地下に垂直に降りて横に進んで玄室に至るので埋葬された位置が分かりにくく、盗掘されにくい長所がある。また、他の地域の古墳と違い王(首領)の墓である古墳と部下や家族の墓の地下式横穴墓が近い。恐らく王と部下の信頼関係が深いか、上下の差が小さかったのではないだろうか?それが顕著なのが21号墳である。古墳の周囲を囲むように地下式横穴墓が有る。これを見ると魏志倭人伝の一節が思い浮かぶ。卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人卑弥呼が亡くなった時に径百歩の大きな塚(円墳)を作り百人余りの奴婢が殉葬したと書いてある。これを一般的には百人の奴隷を「生き埋め」したと解釈する学者が多いが、この21号墳を見た時に僕は違うのではと思った。殉葬ではあるが、生き埋めではなくちゃんとした墓、例えば横穴墓だったのではないかと思った。ただ、日本書紀を読むと埴輪を古墳に使うようになった経緯として、垂仁天皇が、夜な夜な埋められて死にきれない殉死者が泣きうめくのは残酷だ。何とか良い方法はないものかと言われた野見宿禰が、殉死者の代わりとして人馬の埴輪を提案したと有るので、やっぱり奴隷を生き埋めしたのかなとも思うが、僕には分からない。所で、ここで垂仁天皇の話が出たが、ここ生目古墳群と垂仁天皇は関係が有るのかもしれない。日本書紀を見ると、垂仁天皇のお名前は、(垂仁天皇と言うのは後世に送られた和風諡号)「活目入彦五十狭茅天皇」や「活目天皇」と記されている。「活目」である。後年の「令集解」に至ってはストレートに「生目天皇」と書いてある。垂仁天皇はここ生目と何らかの関係が有ったのではないだろうか?お父さんかお祖父さんが生目の人だったとか、逆に(景行天皇以外の)子や孫が居たとか。或いは景行天皇の兄弟が居て、景行天皇の九州行幸はその兄弟との兄弟げんかとか。また、魏志倭人伝に面白い一節がある。南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬である。「伊支馬」これはイキメと読むのではないだろうか?もしここが卑弥呼の居た邪馬台国ならば、「生目」が「伊支馬」ならばこれ以上の証拠はない。まぁ、確証ではないけれど。生目古墳群の中で最大の古墳は3号墳である。134mもある。古墳だと言う意識が無ければただの山にも見える。そして生目古墳群の中で最古の古墳は1号墳である。4世紀前半の古墳とされているが、もっと古いと言う人もいて、僕は卑弥呼の墓ではと思った。上のパンフレット全体図の左端に、他の古墳とは独立して有るのが1号墳である。普通は登れない。坂はきついし、草木がぼうぼうで、そもそもどこが円墳か分からない。でも卑弥呼の墓かもと思って登った。降りるとズボンはひっつきぼー(九州の方言オナモミやコセンダングサ等服に着く草の種)だらけ。でも冷静になって考えたら、魏志倭人伝には卑弥呼の墓は大きな塚としか書いていないのだ。もし前方後円墳ならば、中国のお墓と明らかに違うので、珍しいからきっと書くはず。何も書いていないと言うことはありふれた円墳だと言うこと。どうなんだろう?生目古墳群を全部見たので、帰ることにしたが、移動手段がない。バス停まで歩くしかないが1号墳に登ったせいでくたくたで死にそう。なので調べたら休日限定ですぐ下の遊古館までバスが来ることが分かった。(34番線1日3本)良かった。遊古館はこんな感じ。ここには生目古墳群から出た遺物が飾られており、また色々な古墳に関する説明がある。バスが来るまで勉強した。まずは3種の神器のうちの勾玉と鏡を見つけた。ここにもちゃんと全部あるじゃん!次は刀。この刀には、柄の部分などに銀装が見られたそうである。この時代の銀装が施された刀であるから、相当な権力者である。やっぱり垂仁天皇の一族かな。こんな感じで邪馬台国はどこに有ったかの検証旅行は終わった。結論として、南に水行10日陸行1月は十分に考えられるし、魏志倭人伝の記載通りに行けるのはここしかないと思う。そもそも資料が間違っていることを前提にしないと成立しない証明など世の中に有りえない。一部分誤りで一部分正しい資料による証明など、証明ではないからである。近畿説にせよ北部九州説にせよ、証明と言える理論ではない。生目が垂仁天皇と何らかの関係が有るならば、ここは魏志倭人伝に書かれた伊久馬の居た場所であるばかりではなく、日本書紀に書かれた初期大和王権に関係の有る地と言う事になり、魏志倭人伝と日本の古事記や日本書紀をつなぐ大事な場所になるような気がする。誰か偉い先生に研究して欲しいものである。僕には荷が重い。単なる妄想ならば可能だけど、学問となると徹底的な検証が必要だから。まぁ今回はこれで終了。もっと勉強してまた来よう。
November 29, 2021
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宮崎に着くと季節外れの花火大会をやっていた。今年は新型コロナの影響で花火大会が無かったから、寒かったけれど見に行った。「みやざき元気花火」と言うらしい。商工会議所主催。でも「納涼花火大会」と言うのは変だよ。田舎の人は面白いです。市内で最初に行ったのは「宮崎神宮」僕の持論である、仏教でお寺さんにお墓があって御先祖様を祀るように、日本では偉大な御先祖様を国津神として神社に祀る文化が有り、お坊さんと同様に神主さんがそれを祀ることを生業としているのだから、名の有る神社の裏山は国津神の墓、つまり古墳が有る場合が多い。(特に八幡宮)なのでここもそうだと思っていたら、まさにそうで「船塚古墳」があり、しかも本殿が近畿の古墳で言えば円墳と方墳のつなぎ目にあたる造出しの位置にある。今城塚古墳の例でも分かるように、造出しは祭礼の場だったらしいので、ここに神社本殿が有るのならば理論通りである。(金沢区の富岡八幡宮もそうかも?)宮崎神宮のバス停を降りると立派な参道と鳥居が有る。寄り道になるが、この広場の右手に不思議な鳥居から入る不思議なお稲荷様が有る。五所稲荷と言うのだが、変わっている。見て分かるようにお稲荷様なのにお狐様ではなく狛犬がいる。何かちょっと変だと思った。もしかすると元は「御所神社」だったのではないだろうか?それが大人の事情により、「御所」が「五所」に変わり、神社からお稲荷様になった?社殿もお稲荷様の造りではなく八幡造に近い(純粋には八幡造ではない)。何か理由を知りたい。戻って宮崎神宮の鳥居をくぐって進むとおきよ丸が有る。おきよ丸とは、古事記や日本書紀の神話に基づいて復元製作された古代船である。全長12m幅2.2m高さ2.6m排水量3t杉材で西都原古墳出土の埴輪の舟をモデルに、平成17年に作られた。高原の狭野で育ったイハレヒコ(神武天皇)は東征を決め良き日を探っていたが、8月1日に突然「おきよ!おきよ!」と皆を起して、美々津の港を出発した。この時の「おきよ!」と言う言葉からおきよ丸と名付けられたものである。宮崎神宮本殿はこんな感じ。境内には明治天皇、大正天皇、昭和天皇、平成天皇の歴代天皇のお手植えの木々が有る。宮崎神宮は宮崎県西諸県郡高原町狭野でお生まれになったイハレヒコ(神武天皇)を祀る。鳥居の所に戻って五所稲荷を経由して宮崎神宮の右手の森を抜けて行くと広場が有る。ここの片隅にご神田が有る。ここでは新嘗祭等で使われる稲等を育てるのだと思うのだけど、神社の神域に有るのを初めて見た。この広場から右手の道を進むと宮崎総合博物館の民家園に出る。ここには宮崎の旧家が移設され見学できるようになっている。うーん、長崎のお祖父ちゃんの家がこんな感じだったなぁ。茅葺で、縁側が有って、その下にはニワトリが住んでいた。新しい道路が通るからと言って立ち退きの際に壊されたのだけど。僕が小学生の時に庭に井戸を掘ったなぁ。まだ若い親父なんかが自分で掘っていた。今だったら保健所とか水道局がうるさいんだろうけど、当時は何でも自分で作った。今思えば、アメンボなんかがスイスイ泳いでいて、よくあの水を飲んでたもんだ。宮崎総合博物館の庭には延岡市の古墳(地下式横穴墓)から持ってきた石棺が有る。3つ有って、二つは箱式石棺で一つは刳貫式石棺である。まずは箱式石棺。意外に細工が細かい。次は刳貫式石棺。もう一つの箱式石棺。近畿なんかは木棺だったらしいので、宮崎の方が少し進んでいるなぁ。ただ小さいなぁ。もし生き返ったら閉所恐怖症になりそう。最初はこちらから船塚古墳へ行けると思ったのでこちらに来たのだが間違ってた。本当は参道の途中から左に進んで神宮会館の脇の道を行くのだったらしい。そうすると小道ではあるが途中に船塚古墳の立札(案内板)が有る。本当は古墳のそばに行きたかったのだが、船塚古墳は前述のおきよ丸伝説の元になった神武天皇の船の霊を祀った古墳だし、宮崎神宮の元になった御先祖様の御墓なので立入禁止になっているので、遠くから望遠レンズで撮影するにとどめることにした。周濠幅13mと有るので眺めてみると確かに溝状に有る。周濠の字が間違えて周溝になっています。周濠が正解です。ただ円墳部及び方墳部は遠すぎて分からなかった。上空から見た宮崎神宮と船塚古墳はこんな感じ。前方後円墳の造出し部分に宮崎神宮本殿が有るのが分かる。昔からここの部分で祭祀を行っていたのが神社に発展したのだろう。僕の理論=神社と言うのは仏教の寺と同様に神様(寺の場合は仏)を祀るので、寺の墓地にお墓が有るように、祖先や首領の墓=古墳の傍に神社が出来たのだろう。宮崎神宮から北西に歩いて1km位の所に平和台公園が有る。健脚なら歩いて行ける。はにわ園や平和の塔(八紘一宇の塔)が有り観光地なのだが、実は下北方第13号墳も有る。最初に八紘一宇の塔。上の写真の左下は塔の前面50m位の所に有る八角形の石の台。上に乗って手をたたくと共鳴して「ビーン」となるそうだ。耳の悪い僕には無理。真ん中下は第18回オリンピック(東京大会)の聖火リレーの起点の記念盤。今年再び東京でオリンピックが開かれた、その年にここに来れたのは感慨深い。右下は「八紘一宇」の言葉に従って作られたこの塔の象徴として世界中の石を集めて土台とした印である。この平和の塔(八紘一宇の塔)は紀元2600年記念事業として作られたもので、説明板がはにわ園に置いて有った。観光地なので東京や大阪からも人が来るが、意味が分かる若い人はいるかなぁ?次ははにわ園だけど、ここは園内に様々な種類の埴輪が置いて有る。宮崎以外の埴輪も。可愛いと言うより少し怖いハニワも有る。でも観光客のお姉さんには評判が良いみたい。そして最後の目的である、下北方第13号墳へ。説明が無いとただの山に見えるほど大きい。場所は分かりにくく、平和の塔のすぐ裏から上った所。と言うか、その登り自体が古墳を登っているのであるが。宮崎神宮の裏の船塚古墳は平野部に土を盛り上げて造られているが、ここは、また明日行く予定の生目古墳群も山の上に造られている。この古墳の造られる場所が横浜の古墳に似ている。吉備(岡山)の古墳もそうなので、古墳の原型は山の上に造る物なのだと思う。この後に行った、宮崎のアマチュア考古学者日高氏の主張する卑弥呼の墓の古墳と、九州最大規模の古墳が多数存在する生目古墳群は、邪馬台国はどこにあったか(その25)検証旅行その3に書く。
November 28, 2021
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父親と母親の法事で九州の長崎に行ったので帰りに宮崎によってみることにした。特に僕が2020年12月19日の「邪馬台国はどこにあったか(その18)まとめ」で主張している邪馬台国が宮崎だったことの証明の為に、伊都国から陸行で大宰府(不彌國)の宝満川-筑後川-有明海(南へ水行10日)-八代又は水俣で上陸し-人吉-えびの-小林-都城-宮崎(陸行1月)と言う経路を実際に見てみたかったからである。その結果かなり自信を持ってしまった。この説の最大の弱点だった、地図で見る九州の中央の山地は卑弥呼が陸行するには厳しいのではと言う考えが、実は大丈夫だと確認できたからである。邪馬台国近畿説は「魏志倭人伝が間違っている」のが前提で、ならばそもそも「邪馬台国」や「卑弥呼」の存在も間違っている可能性も有るのだから、考古学として議論するのは無理が有る?と言う難点があり、北部九州説も、伊都国からそんなに遠くないのに「一大率」を伊都国に置く必要性は無いし、何よりも「陸行1月」する必要が全くないので、これも魏志倭人伝が誤っていることになり、近畿説と50歩100歩だと言うことから両説とも間違いで、何よりも日本の正史「日本書紀」や「古事記」との関係から、宮崎が神話の通り皇室の祖先の地で、(神様では無かったかもしれないけれど)天照大御神は卑弥呼だとすれば、魏志倭人伝の記載通りに素直に邪馬台国にたどり着くからである。南へ水行10日は太宰府(不彌國)の傍の宝満川・筑後川経由で有明海なら方角も距離も合うし、八代から九州山地を横断するのならば陸行1月も道の整備されていない時代ならばそんなもの。そう思うからである。さて今回は長崎からバスで熊本に来て、ここから高速バスに乗って宮崎なので、実際は太宰府(不彌國)は通らなかったが、太宰府が博多湾から「御笠川」で行けるし、宝満川・筑後川経由で有明海に行けるのは、2019年1月23日の「邪馬台国はどこにあったか(その5)で両河川の写真付きで書いた。なので今回は省略した。経路を地図で示す。今ならば高速バス3時間であるが、当時は道も無いので1月はかかるかもしれない。しかし、越えられない道ではない。心配していた山越えは、実は以外に簡単そうだった。川である。当時は草木に阻まれて山の中は大変だが、球磨川等の河川脇は比較的通れそうだし、何よりも傾斜が緩くて山越よりも楽である。ただ、季節による水位の変化や気候の厳しさは有るので、通過する時期の選択は必要だ。球磨川の流域はこんな感じ。何か所か川が無く山越えが必要な場所は有るが、箱根なんかよりもずーっと楽そうである。まずは八代市内から。有明海を挟んで天草が見える。この辺は十分に広い平野で、大宰府経由で渡来人も来ていたようで「百済来」の地名が残る。ここから球磨川を遡って人吉に着く。なお高速はトンネルで山を突っ切るが川は山を迂回している。人吉は九州の田舎なので、それほどの人口はいないが山奥ではない。ここを出るとえびの市に着く。人吉からここへは少し山を越えるがたいしたことはない。えびのは、すすきの色から付けられた地名だと言われているが、僕は、ではすすき野原は日本中えびのと言うことになるので違うと思っている。八代の「百済来」同様に、ここにも渡来人が来て住み、夷(えびす=渡来人)の住む野から付けられた地名だろうと思う。現に宮崎や鹿児島の古書にはこの辺に鬼の住処や仙人が居たと言う伝説があり、これらの伝説は日本人ではない人達が住んでいたことを示すのだと思う。また、もっと分かりやすい話がある。古事記の中の天孫降臨の際に、天孫が天下り、高千穂の韓国岳から下界を眺めて、この峰は韓国を望みと仰っているのは、えびのに渡来人が住んでおり、そこを「韓国(ここで言う韓は韓国ではなくよその国の意味)と仰っているのだろう。(赤い枠内の訳)はたどたどしくて申し訳ないが、ここに瓊瓊杵尊がおられる場所は、韓の国に向かいと書いてある。笠沙の岬が韓の国に向かって船が出る港と言う解釈もできるが、大分を回るにしても鹿児島を回るにしても直接韓の国に船で向かうには当時の技術では難しい。相当の危険を犯せば不可能ではないが便利ではない。なので僕は、韓の国(えびの=医者や鉄の製造技術者及び農耕土木技術者がいる)からも近いし、便利な港(笠沙の岬)にも近いと言う意味で、後の朝日が直接さし、夕日が明るく照らすに続けて、こんなに良い条件が整った所と言う意味で、天孫が住むには良い所と言っているのだと思う。また、そもそもその際にあらわれた猿田彦の神は鼻の形状や顔の色から日本人とは思えず、ここえびのに住んでいた人間、もしくは後述する曽於市付近の隼人が道案内に来たものだと思う。その韓国岳は。ここえびのと小林市が面する霧島連峰にある。<後日追記>鹿児島県姶良郡霧島町には霧島山中には「神仙峡」があり、深林幽谷で異相の老翁や絶世の美女に会い、柑橘系の果物を貰う伝説が有る。(霧島町郷土史)また肝属郡高山町にも同様の言い伝えが有り(高山町郷土史)、鹿児島には似た話が多い。また都城や宮崎の佐土原にも同じような言い伝え(異国の人が住んでいた)があるので、実際に渡来人が住んでいたのではないかと思っている。また後年、百済が滅亡した時には、何故か百済の禎嘉王が子の福智王と華智王を連れて、宮崎に逃げて来て新羅の追手に捕まり華智王は殺されて、それを祀る神社が有る。何の縁もゆかりも無い所へ王様が逃げてくるはずは無いので、この付近には百済の縁者がいたのではないだろうか?えびのを過ぎると小林市に着く。左手に霧島連邦がある。なお、小林市には「夷守(ひなもり)」と言う所がある。魏志倭人伝の各国の「官」の説明に出てくる「卑奴母離」である。例えば奴国の場面では「東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸」とある。卑奴母離は壱岐等にもおり、博多の東にも夷守と言う地名が残っているが、現代の日本語に残っている感覚からすると「ひな=鄙(いなかのこと)」から里を守る人で、ここの場合、渡来人のすむえびのや北部九州から攻めてくる勢力から邪馬台国=宮崎を守る砦のようなものが有ったのだろうと思う。つまり魏志倭人伝に示された卑奴母離と言うのは、それほど大事な官職名だったのだ。地図の真ん中に有る大淀川は宮崎市内を流れる河で、僕は当時はまだ道路が整備されてなく、川がその役割を果たしていたと思うので、ここは邪馬台国の勢力圏内だったのだろうと思っている、ここの下に都城があるので、ちょっと寄り道。ここは宮崎と鹿児島を結ぶ重要な地である。すぐ下、上の地図で一部見えているが、すぐ下には曽於市が有る。昔の伝説に九州の「朝廷に従わない種族」として「熊襲」が出てくるが、ここの曽於と熊本特に人吉辺りを含めて、この辺に居たのが熊襲(熊+曽於)だと思う。僕は大和王権はここ出身の皇族の祖先や中臣氏と、出雲と越及び尾張が派閥争いを繰り返していて、大和王権内でこの辺の出身の皇族の先祖や中臣氏一族が弱かった時期に、皇族の先祖の支持基盤であるこの辺の種族を攻めようと、尾張の出身の景行天皇やヤマトタケルが攻めた時に「熊襲」と呼ばれたが、現皇族と中臣氏が覇権を握った日本書紀の創世期に名誉回復し、薩摩が日本の歴史のポイントポイントで活躍するのはそのせいだと思っている。(鎌倉幕府の立ち上げ時には島津忠久が、明治維新に際しては島津斉彬が活躍する。)話は元に戻って旅は終わり、邪馬台国=宮崎に着く。上述したように大事なのは、道路の無い当時の重要な交通機関である大淀川である。僕は古事記に語られる日本の神話は、あくまでも神話なんだけど、史実の変形だと思っている。分かりやすく言えば、例えば高天原は奴国(後に伊都国へ移動)であり、天孫は奴国の王族で、今日僕の通って来た道を宮崎まで進出して来たのであり、それが天孫降臨の神話として残っているのだと思う。それ故に、途中には韓国岳から見た韓国(えびの)の話や、道案内に来た猿田彦命(隼人の首領)の話が残っているのだと思う。海幸彦と山幸彦の話も竜宮城が鹿児島のことだと考えれば、これは邪馬台国の王の相続争いのことであり、隼人の王の娘豊玉姫を嫁に迎えた山幸彦(彦火火出見尊:神武天皇の祖父)が勝って、後の神武東征につながるのだと思えば現実的だし、その隼人の娘豊玉姫が「わに(古事記では八尋の和邇)」だと言うのも、その子孫が後の「和邇氏」なのだと思えば現実的だ。神話は直接的に言えない事(皇族の母方の祖が隼人である事)を比喩的に表したものだと思う。「わに」が人間の子を産むわけはないけれど、和爾氏の娘ならば強い子を産むだろう。以上で僕の主張する邪馬台国=宮崎で、陸行1月は八代~宮崎の旅だったと言うのは検証できた。多分これが邪馬台国の真実なんだと思う。そうそう1つ忘れていた。宮崎が邪馬台国ならば陸行1月は必要なく、水行30日でも行けるのでは?この答えは2つの事実の複合原因だと思う。一つは黒潮である。黒潮は流れが速く当時の日本の舟では制御が難しく遭難の危険が有り、安全に行くには八代まで陸行して、そこから安全な有明海を行く方が確実だったのと、もう一つは途中の国々でも仕事をこなしていたんだと思う。上で書いたように奴国から宮崎の邪馬台国に進出する際には、武力によるものだけではなく、政治的な駆け引きや婚姻によるもの及び人質の話も有った?もしそうならば、素通りする訳はなく、お嫁に行ったお姉さんやその地を治めている弟たち、そして将軍たちに有って情報収集をしただろう。なので単なる水行よりも時間はかかるけど陸行したのだと思う。邪馬台国はどこにあったか(その24)検証旅行その2 へ続く。
November 27, 2021
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ヒマなので8月22日に続いてAMAZONのラジオキットを買いました。8月22日はこんな感じ。AMAZONのFMラジオキットを作りました。改造もあるよ! | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)買ったのはアーテック社のラジオキットです。値段は1300円ちょっとだし、送料が無料なので安い。ただ箱が値段相応に紙製なのでしょぼく、キットを組み立てた後もこの紙の箱に収めるので貧弱ではある。もしちゃんとした物にしたいならばアクリルケース等を加工して入れると良い。ただ、スピーカーがおもちゃ的なので音が悪く、大きなスピーカーに交換した方が良い。モノラルのラジオなのでそこまでしなくても良いとは思うけど。僕は家がマンションで騒音にうるさいのでスピーカーは外してイヤホンにした。値段相応に液晶表示ではなくバンドや周波数を示す物が無いので工夫が必要。この意味ではアクリルケースを自作した方が良いかも。僕は面倒くさいので紙に書いた。但し、見ると分かるようにFM東京から日本放送まで幅が狭く同調が難しい。この辺は仕方ない。値段が高ければプーリーと糸でスライド式の表示にしたり、同じ回転式でも幅を広くしたりできるのだけど、値段的に無理。さらに言えば最初はもっと狭く、TBSから日本放送しか入らなかった。僕の買ったのが「はずれ」だったのか、もともとそうなのか分からないが、FMの受信周波数が87MHz~108MHzになっている。いや気のせいではなく、基板を見ると抵抗値が間違っている。ネットで回路図を探してみて判明した。このラジオのICはBEKEN社のBK1198と言うICなのだが、1番PINとアースの間の電圧を分圧した電圧を15番PINに入力することにより、BANDを選ぶようになっている。中華のラジオでは一般的なBANDセレクト方式である。で、基板を見ると上の回路図のR11+R12+R13=270kΩ、R10を30kΩ+30kΩ(2個直列になっていた)として60kΩ、R9を30kΩにしている。つまり元々、FM1=87-108MHz(100kステップ)の基板なのである。このままの状態でFM東京を受信できた人がいるのだろうか?<後日追記>どうも外観が同じなのに中身が違う(改良型か?)バージョンがいくつかあるようです。僕のは選局を「ボリュームで行う」仕様でしたが、今日見た別のバージョンは「バリコンで行う」仕様のようです。どうりで1300円ちょっとの物や2000円以上する物の数種類があるはずだ。でも調べるとバリコンを使っているのでスーパーヘテロダインかと思ったら、AMはC7642と言うストレートラジオICを使っているようなので100均ラジオと同レベル。多分分離が悪くて、もし近くに強力なC国の放送が有ると重なって使えないんじゃないかと、また、FMもICの型番で調べると87MHz~108MHzなんじゃないかなと思われるICだった。大丈夫なのかなぁ?まぁ文句を言っても仕方ないので改造することにした。要はR9を60kΩ位にすれば良いのである。こんな感じで30kΩを56kΩに交換した。え?60kΩじゃないのかって?手持ちが56kΩしかなかったので仕方ない。それに回路図で275kΩが270kΩ、56kΩが60kΩになっているのだから、これくらいは誤差の範囲。するとうまい具合に64-108MHzが受信可能になった。それが上の完成品である。紙に書いた周波数放送局表示は恰好悪いし、局間の幅が狭いけど。(思うに100kΩのボリュームだから局間が狭いのであり、 今のFM東京~日本放送の部分だけ抵抗値が変化すれば良いのだから、 ここを25kΩの抵抗+50kΩのボリューム+25kΩの抵抗に変更すれば、 不要な(変化しなくても良い)部分は固定抵抗で、 必要な(変化が必要な)部分はボリュームにできるかも? でも基盤を削らなければいけないしボリュームの半田付けを外さなければいけないし、 不要な部分が25kΩでちょうど良いのか調整が必要だし面倒くさいから今のままで良いか? 後で大事なことに気がついた。 FMは真ん中に放送局が集まっているからその方が良いけど、 MWにした場合下の方のNHKや上の方のラジオ日本が入らなくなってしまうじゃん! 従ってこの改造はダメだと分かりました。)まぁ、このラジオはその部分を除けば良いラジオである。受信感度が相当に高い。何か余計なK国やC国の電波まで拾う。音質はちょっと悪いが値段相応。何よりも半田付け部分が低周波増幅段の、ちょっとくらい失敗しても大丈夫な部分だけ、と言う安心設計が子供の半田付けの練習にちょうど良い。なので、「目的によっては(子供の半田付けの練習)良いラジオである。」次に8月22日の記事の最後に載せたRasbeeと言う会社のFMラジオの改造の続きである。元々付いているコイルが100μHで100nHの間違いではないかと言うネット上の噂から、自分でコイルを巻いてみたのが上の写真なんだけど、噂通りコイルが間違っているのでFMの感度が悪いと言うのは本当だった。この13回巻きのコイルに換えただけでいくつかのFM局が入るようになる。(僕は耳が悪いので分からないが、耳の良い人ならばもっと聞こえるのかも?)FM東京が入るようになっただけでももうけもの。でも上のコイルでもNACK5やFM東京は入るが日本放送などのワイドFMは入らず、FM東京の受信感度を最高にするにはコイルをそうとうに広げなければならなかったので、13回巻きではインダクタンスが大きいのかも?もっと小さなインダクタンスなのかもしれないと言うことで、コイルを巻きなおしてみた。コイルは上の写真のように百均のドライバーに0.4mmのすずメッキ線を巻き付けて作っている。(写真には0.7mmと書いていますが0.4mmの間違いです。)で、前回は13回巻きだったのだけど今回は6回巻きにした。この位がほぼ正解みたいで、概ね日本放送(93.0MHz)まで入るようになった。でも、少し低い方の感度が落ちてNACK5(79.5MHz)は受信感度が落ちてしまった。思うにこのコイルはICの入力部分についているので、前置同調回路と言うかバンドパスフイルターみたいなものなので、今までは同調周波数が誤ったコイルのせいでずれて感度が悪かったのかもしれない。概念的にはこんな感じだと思う。元々の100μHだとインダクタンスが大きくて同調周波数が低く、上の図の橙色のグラフのように通常のFM部分は感度が低い。自分で巻いた13回巻きのコイルは少し良くなって青いグラフの同調周波数が80MH位になり、NACK5(97.5MHz)やFM東京(80.0MHz)が入るがワイドFM部分は低くギリギリ入る。今回作ったコイルはインダクタンスが小さくて同調周波数が高く、緑のグラフのようにワイドFMも入るようになったが、相対的に低い周波数(80MHz位)の感度が落ちてしまった。そんな感じだと思う。なお、上のグラフの幅や高さは実際の電波とは違うので、幅の大きさや高さには意味が無いのであしからず。
November 20, 2021
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わの会も新型コロナのせいで何回か中止になってしまい、久しぶりに参加しました。今回は本来のスケジュールでは5月6日に行う予定だったのが繰り延べになっていたもので、金沢八景駅から野島までを散策し、古い歴史を探索するものでした。コースは金沢八景駅→平潟湾プロムナード→夕照橋→染王寺→野島掩体壕(西側)→野島山展望台→弁天社→野島掩体壕(東側)→旧伊藤博文金沢別邸 です。距離はさほどでもないのだけど、展望台への上りの階段の傾斜がきつく、普段は反対側のシーサイドライン野島駅から続く緩やかな傾斜の坂を上る所を、この坂が工事中で、階段を登らざるをえなかったのが大変だった。金沢八景から最初に通るのは平潟湾プロムナード。対岸は洲崎や野島だけど、昔はこの辺は海と潟だったらしい。今は整備されて上をシーサイドライン(無人運転のモノレールみたいな乗物)が走っている。その下にこの付近の昔の景観=金沢八景の由来となった景勝の説明が書かれた石の椅子がある。八景分を一つにまとめてみた。小さくて見にくいが、写真を右クリックして出る「新しいタブで画像を開く」を選択すれば、別のタブ(上部のタブを選んで別の画像を表示する)で大きな画面を見られるので見やすい。プロムナード脇には北条政子が鎌倉から母の為に勧請した弁天様を祀る枇杷島神社が有り、遠く野島やシーサイドラインも見える。(シーサイドラインは頭の上にもあるが)上でも書いたが、この辺は昔は海の中で周囲はほとんどが埋め立て地。ガイドさんが昔の海岸線の載った地図を見せてくれたので、少しお借りする。左側の黒い点がたくさん有るあたりが金沢八景駅付近で、右側のピンクの右が野島である。中央下が室の木で今向かっている所。右クリックで拡大が象を見ると面白い。さらに進んで室の木の手前に侍従川が有る。侍従川は、このブログの2021年1月8日の「横浜市金沢区わの会3回目のイベントに参加しました。」で紹介したが、上流の六浦駅の近くで六浦川に分かれるが、歌舞伎や浄瑠璃で有名な小栗判官照手姫に出てくる照手姫が身を投げたことを嘆き、その侍従がこの川に飛び込んだことからこの名前がついたと言う由来が残っている。対岸に見えるのは関東学院で、ここにはその昔「室の木遺跡」が有ったらしい。遺跡からは約5000年前の縄文前期終末の「十三菩薩式土器」と呼ばれる土器が発見され、遺跡そのものは縄文時代から中世までの長期にわたる各時代の遺物が発見されたらしい。既に破壊されて無くなっているが、付近の鉈切遺跡や夏島貝塚と共に、この付近には縄文時代から人が住み、恐らく瀬戸内海と同様に各地から出荷され近畿に運ばれる米や産物を管理していたと思う。平たく言えば通行料をとっていただろうと思う。武力があり裕福だったのではないだろうか?室の木遺跡が破壊されたのも残念なんだけど、もっと残念なのがこの先の夕照橋たもとの「ジープ山」である。地面から見ても分からないがGoogleMapで見るとかなり初期の前方後円墳である。地元の人も誰も知らないと思う。ジープ山の名前の通り、進駐軍がこの辺にいたのは、この辺が元は海軍の飛行場の後で、上記の室の木遺跡と同様に海軍の飛行場の建設時にほぼ破壊されたからである。残念。すぐ傍には夕照橋がある。今は「ゆうしょうばし」と読むが、昔は「せきしょうばし」とも読んだらしい。金沢八景の一つ「野島夕照(のじませきしょう)」から「せきしょう」と読むべきだと考え、お年寄りはそう読んでいたのだそうである。でも、この橋の前身は洲崎と野島の間に運河が作られて野島に渡るのに不便だから作られて、海軍の都合で作られたので「徴用橋」と呼ばれたのが初代で、その後「八紘橋」と呼ばれるようになり、昭和27年にかけ直された際に「夕照橋(ゆうしょうばし)」と名付けられ、今は4代目。なので、正式には「ゆうしょうばし」が正しいらしい。なお、初代は下を船が通れるように真ん中付近が高くなった木製の橋だったらしい。ガイドさんが絵を持っていたのを見たら、跳ね上がった跳ね橋みたいな感じだった。まぁ、当時は車も無く人が渡るだけなので、構造上それでよかったのかも?ネットで探していたら初代ではないが昭和20年頃の「八紘橋」時代の写真が有った。まだ室の木が残っており、六浦からの下流は埋立てられていない。つまり今の侍従川の下流域は無い。と言うことは、この写真は野島から写したのかな?夕照橋から染王寺に向かう。このお寺は真言宗御室派で、元は室町時代に野島の上に建てられたらしい。それが強風により倒れてしまったので、下に移したのだそうだ。境内には4基の「筆子塚」が有り、寺の住職の名前が彫られている。文字を教える寺子屋の先生である住職の名前が彫られていたのらしい。そこを過ぎて野島の掩体壕に着く。掩体壕は写真の説明のように戦争時アメリカ軍の空襲の被害から航空機を守る為に、野島に作られたトンネルで、日本の各地にも有ったが、ここのものは100機も収容でき有名。ただ、危険性から今は内部には入れない。掩体壕をあとにして、いよいよ野島の山に登る。普段はシーサイドラインの駅からゆっくりと坂を上るのだけど、今は工事中なので階段を登る。ものすごく急だ。しんどい!何とか頂上にたどり着くと、眼下にNISSANのテストコースが見える。確か誰かの小説で産業スパイがここから写真を撮る場面が有ったような気がする。スカイラインの試験だったかも?この写真の後ろ側に展望台が有る。確か30年位前に女の人が殺された事件が有ったと思った。さて、一休みしたら元の坂を下って弁天社に向かう。このすぐ裏に野島稲荷神社が有る。「稲荷神社」と言うのに神社の造りは「八幡造」である。僕はもしかすると本当は稲荷神社ではなく、富岡八幡宮の縁がある八幡宮ではと思った。何故ならば「舟に乗ったお稲荷様」が有るからである。どういうことなんだろうと不思議に思った。でも鳥居を入って本殿までの階段にはずらりとお稲荷様が並ぶ。やっぱり稲荷神社なのだ。ちょっと写真では見えないけど、数十柱ものお稲荷様が並んでいる。しかも由緒を見ると相当に古い。これによると1227年に阿波の守長嶋維忠の発案で、その子の頼勝が建てたらしいが、その時代ならば既に八幡様は確立しているし、お稲荷様とは混じりようが無い。また京都伏見稲荷の系統だと書いてあるが、社殿の造りが全く違う。そもそも「稲荷」と言う言葉から分かるように田んぼの稲作の神様で舟は関係ない。何か事情が有りそうだけど、ガイドさんも御存知ないそうだ。いつの日にか調べてみたい。でもどこに資料があるだろうか?最後は伊藤博文金沢別邸で解散した。会長が見学の手続をしてくれたのだが、みんな階段の昇り降りで疲れたのか帰ってしまった。僕はせっかくだから見学したのだけれども、僕の職業柄面白かったのが天井照明。今の人の感覚だと暗いかもしれないけど、趣が有る照明だと思う。そしてトイレ。やっぱり総理大臣の使うトイレともなると良い作りだなと思う。庶民には無理。最後はランプ。当時としては贅沢品。最高級品だっただろうなと思った。こんな感じで久しぶりの「わの会」は終了した。
November 4, 2021
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11月3日の夜7時から富岡八幡宮の「卯陪従(うべじゅう)」に行って来ました。卯陪従とは、富岡八幡宮に鎌倉時代より伝わる伝統神事で、「卯」の日に行う「陪従(べいじゅう)=宮廷の供人・舞人」の神楽で、11月と2月の年2回行われる夜神楽(湯立神楽)として行われます。つまりこの富岡八幡宮が単なる横浜の一神社ではなく、古くから奈良時代よりも前から有る、しかも古代大和朝廷につながる格式高い神社であり、そんなに古くから絶えることなく続いてきた神社である証と言うことであります。僕は2020年1月1日のブログからずっとこの神社の研究をしてきていますが、その発端はGoogeMapで上空から見た神社の裏山が明らかな古墳の形状をしている事からです。形状的に古墳時代の応神天皇陵(4世紀末~5世紀初)等に似ており、とても古いものです。僕の他は誰もこの事を主張してはいませんが、それは地上から見ても形状が分からないから。また近畿地方の古墳や埼玉の古墳のように平地には無く周囲に周濠も無いからです。それは祀られている古代の首領が「海人族」だからであり、前面の海(今は埋立てられています)等が周濠の役割を果たしており、切り立った山そのものが同様に周濠の役割を果たしているからです。逗子で見つかった「長柄桜山古墳群」も同様で山の頂上に造られており、この付近の古墳の特徴だと思います。僕が「海人族」の首領だと思うのは、富岡八幡宮には「蛭子様」が祀られており、毎年6月に「祇園舟」行事が行われるからです。茅舟(かやぶね)の舟縁には1年分12本の御幣(ごへい)を並べ立て、小麦の粒を敷いた折敷(おしき)に 大麦の粉で作っただんご(=しとぎ)を供え、中央には大きな御幣を立て掛け、海に流します。同じ神奈川県の川崎大師の由来を見ると、崇徳天皇の御代に平間兼乗が海に流れ着いた大師様の像を引き上げたのが始まりとあり、同様にこの辺の神社や仏閣には「海から神様や仏さまが来た」と言う話が多く残っています。これは元々、この辺の発展が海を生活の基盤とする人達により行われてきたからです。この富岡八幡宮もこの辺を治めていた首領の墓である古墳を守る神社が、神仏混交の時代に八幡信仰に飲み込まれて八幡宮になったのが始まりだと思います。富岡八幡宮の由来を見ても、およそ八百年前、建久二年(1191)に源頼朝公が当郷鎮護の為、摂津の西宮の恵比寿様をお祀りしたのが始めで、のち安貞元年(1227)には八幡大神を併せ祀り、社名も八幡宮と改めました。と書いてあるからです。恐らく源頼朝公が蛭子様を勧請する前に、既に神社が有ったのでしょう。この辺は元は武蔵野国の「久良岐郡」と呼ばれて皇室に献上された屯倉(荘園)が元で、安閑天皇元年(534年)の「武蔵国造の乱」の際に献上された、倉樔(倉樹(くらき)の誤記)屯倉がこのあたりだと言われています。なので、倉樔屯倉の支配者は、よく言われる笹下ではなくここに居たのだと思っています。何故なら「富岡」と言う地名は近くに「鳥見塚」と言う地名がある様に、古くはこの丘の上から東京湾を眺めて鳥(恐らく鵜)を見つけ、その鵜の近くに魚群が居ると言うことから舟を乗り出したのが祇園舟の前身で、「鳥見丘(とりみおか)」が「富岡(とみおか)」になったのだと思うから、古くには地域の支配者がここにおり、その子孫が倉樔屯倉の支配者となったのだと思うから。それは今回見た「卯陪従」の神楽で確信に変わりました。では、卯陪従であるが、こんな感じ。まずはオープニングの前の様子である。神社は典型的な「八幡造」で境内に神楽の舞台が作られています。コロナのせいで例年よりも人が少ないが、平日の夜にしては多いと思いました。神楽の最初は「羽能」です。禰宜が扇子(扇かも?)にその年に採れたお米をのせて、四方の神と神楽座の神に米を撒供(さんく)をしてお鎮まりいただく。皇室で行われる新嘗祭と同じである。地域のまとめ役がここに居たのだなと思いました。写真は右クリックをして「新しいタブで画像を開く」で別のタブ(画面)で大きくできます。ここの神楽の特徴であるが窯場が有り、まずはここをお祓いをします。写真はお祓い前なのですが、この後に舞の際に神官がお祓いをします。恐らくは禰宜のお孫さんだと思うけど、子供が神楽に合わせて踊っていた。可愛い。禰宜とは別に(神社のHPを見ると他から鶴岡八幡宮かも?)招いた神官も神楽を舞う。下は「射払い」。弓矢を扇面に戴き、四方拝の舞の後、四方・天地に矢を射放って厄災を退けると書いており、この舞を見た時に、ふと思ったのだけど、この舞を地域の住民に見せることにより、この神社の主=倉樔屯倉の支配者は、ここの地方を外敵から守り、みんなの平穏を我々が守るから安心して作物を作れと、アピールしていたのではないだろうか?四方の神の力で病や戦争からみんなを守ると言う意味が射払いにはあるのかもしれないが、それならば弓で射る(神様に向かって矢を射る?)必要は無いような気もするので、ここの支配者は武士と言う職業ができる前からの武道の輩で、「俺は強いんだぞ、このように弓矢でお前達を守ってやる」と舞を舞っていると思います。最後の舞を見るとその思い付きは確信に変わりました。このお面は「剣舞」の際につけるお面で、からす天狗みたいなお面です。禰宜はこの面をつけて最後の「剣舞」を舞います。鼻高(てんぐ)が剣を持って舞うことに意味が有ると思う。恐らく、面をつけることにより首領は人ではなく神に変身するのである。その瞬間に地域の人々は領主を敬い、自分達を守ってくれる神に服従を誓うのだと思う。最後は湯座(ゆぐら)です。笹の葉の束をもって四方拝の舞の後、釜の熱湯に笹を浸しこれを左右に振ってしぶきを散らすそれを浴びる事によって邪気を祓い、無病息災であるといわれる舞です。これにより富岡八幡宮の卯陪従は終わるのであるが、それぞれの舞にきっと意味が有るのだと思います。僕は湯座(ゆぐら)は最初は盟神探湯(くがたち)が起源ではと思っていました。でも見た後は考えが変わり、収穫された米を湯で煮て「おかゆ」等を作ってふるまった?それが形を変えて神事になったのだと思います。地域の支配者に必要なのは強さだけではなく、民を思う気持ちなのだから。年貢を取り上げるのだけではなく、それを民に還元することが民に信頼される元だと思う。今の日本の政治家にもそうあって欲しい。
November 4, 2021
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