全2件 (2件中 1-2件目)
1

ヒマなのでEXCELの勉強を兼ねてLOTO6の解析をしてみた。お小遣いが無いのでEXCELと言っても無料版なので色々と制約があるが一応完成したので、グラフ化してある。元になるデータは第1回から第1618回であるが、手打ちでは気が遠くなるので、コピペを最大限利用した。手打ちだと多分1週間を超えると思うのだけど、コピペなので基本的なデータ入力だけならば1時間程度で入力できる。データの大元はみずほ銀行の宝くじのホームページにある。過去の当選番号が50回ごとにデータとして載っているので、上の写真のようにコピーしてEXCELに張り付ける。これを手打ちで入力したら、どんなに気の長い人でも途中でイヤになると思うし、第一途中で必ず間違えると思う。これを張り付けたのが下の写真。横にA~Jの記号が見えるが、これは「セット球」と言う物のデータである。LOTO6は電動攪拌式遠心力型抽せん機(愛称:夢ロトくん)によって1~43の数字のついた高密度ポリスチレン製(第一世代は低倍発泡スチロール製)の球を抽選するのだけれども、どんなに丈夫で精密な球でも、製造時のばらつきや抽選時の傷つきから、出現率にばらつきが発生してしまうので、A~Jの10組の球をランダムに使っている。(でも以外に周期があるみたい)これをセット球と言い、第1回~第137回まで使用されたセット球を第1世代、第138回~第648回まで使用されたセット球を第2世代、第649回~第1366回まで使用されたセット球を第3世代、第1367回から現在のセット球を第4世代と呼んでいます。それをWEBから探してきてコピペしたのですが、元のホームページが数字が横に並んでいて、コピペすると横に一列になるので、上の写真のように、一度横に並べてEXCELで縦横変換したのです。(横着だけど、手入力すると大変なので)元にしたホームページはこんな感じでした。(なお、使うセット球は各回の抽選前に発表するようです。)ちゃんと記録している方がおられて、感謝感謝です。まずは全セット球の全数字の出現数のグラフを作成しました。EXCELがデータ範囲を指定すると自動的にグラフ化してくれるので、入力したデータを範囲指定してCOUNTIF関数で各数字の個数を数えた表を別に作れば、あっと言う間にグラフはできます。結構ばらつきがあって、上記に書いたセット球を使っても最大値と最小値では17%近く差が出ます。まずは各セット球毎の各数字ごとの差はどれだけあるのか?調べてみました。但し、4つの世代の違うセット球を混ぜて比較しても意味が無いので、第4世代の1~43の各数字の出現数のグラフです。結構ばらついています。特にセット球C,G,Hは最大値(赤枠)と最小値(青枠)が0~9,10と思い切り暴れています。まぁ第4世代は新しいから総数が少ないので、出現数にばらつきが有るのかもしれません。次にセット球の各世代間の格差を調べてみました。一番長く使われていた第3世代を見ると、一番出現数が多い「37」と一番出現数が少ない「21」では4倍以上の差があります。とてもじゃないけど、「1」~「43」まで43個有るので各数字の出現数は1/43の確率とは言えませんね。1等を当てるのは難しいけど、5等ならばデータを解析すれば当たる確率を上げられそうです。と言うことは、5等~4等狙いで資金力が有れば儲けることができるかもしれない。そんな気がしました。なお各写真は、右クリックして出てくるメニューから「新しいタブで画像を開く」を選択して、大きな画像を別のタブで見られます。くじを買ったお金を必要経費として認めてもらえれば、利益率?は上がるのですが、過去に競馬の馬券を経費として認めてもらおうとした裁判では敗訴しているので無理かな。政治家の投票に使う経費は認められるのに、くじの投票は認められないのは変な気がする。不心得な政治家の政治(支援者との宴会)費用も経費なのになぁ。不公平。
September 18, 2021
コメント(0)

武智鉄二先生の「古代出雲帝国の謎」と言う本を読んだ。武智先生は京都大学経済学部卒で、演劇評論家として活躍された方で、本来別分野の方だが、田中英道先生と同様にふとしたきっかけで古代史に目覚めた方のようである。で、読んで思ったのだが、よく大学の先生が、小説家が滅茶滅茶な理論でひっかきまわすので考古学が滅茶滅茶になって迷惑だと言うのが、この本のような感じかなと思った。田中英道先生の「ユダヤ人埴輪」も田中先生自身は博学でよく研究しておられるのだが、思いつきで奇抜すぎて(僕ら素人が)面白がって読むのには良いのだが、恐らく本職の先生にはいい迷惑だろうなと思うのだが、この先生の理論も同じだなと思った。でも、先生自身は博学でもしかしたらこれはと思う部分も多く、特に出雲に関わる部分の一部には面白い部分も有った。先生の主張でちょっと無理かなと思う一番最初の主張は、一大國が現在の板付あたりだと言う理論で魏志倭人伝に壱岐を一大國と書いてある事による。通説では帯方郡から伊都国までの行程は現実に即しているので、一大國は一支國の書き間違いで壱岐のことだとされておりほとんどの人はそう思っているが、彼は一大國は「いた」国で「いた」は現在の板付(当時は海辺)に違いないと言うのだが、中国からの使者がせっかく板付に来たのに、そこからまた舟で末蘆国へ行き、末蘆国から伊都国へ行くのはちょっと無理が有りすぎる。正常に考えれば板付などよらずに素直に末蘆国へ舟で行けば良い話である。あるいは板付に着いたのなら、そこから伊都国へ行けばすむ話である。彼は誰でも考えるこの論理を板付と伊都国の間に「ジャングルがあったから」だと反論する。いや、だったら大事な中国からの使者が通るのだから木や草は伐採すれば済む話である。それに彼は「末蘆国は弁辰の植民地だった」と主張するのだが、末蘆国が弁辰の植民地ならば、ますます末蘆国に寄ってから来た方が素直だと思う。恐らく彼の頭には須玖岡本遺跡等の弥生期の重要な遺跡が板付付近に見つかった事から、(遺跡自体は古くから知られていたがこの本が出た頃注目され昭和54・55年頃調査された。 この本が最初に発表された昭和50年には結果は出ていないが、あとがきが書かれた昭和 60年には既に結果が出ているのでそう思ったのだろう。)この付近が倭国の中で大事な場所だと考えたのだと思う。須玖岡本遺跡は巨石下甕棺墓で有名で、この付近の地名の「那珂川」「那の津」等から、恐らくはこの辺が奴国の中心部だったと言われているので、板付が倭国の中では重要な地域だったと言う意味では着眼点としては良いと思う。ただ伊都国へ至る経路の一部ではないかなと思う。(志賀島の漢委奴国王印(金印)は江戸時代の発見時は「巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の 形をした中に存した」と報告されているので、実はここで発見したものを盗掘がばれないよ うに嘘をついたと思われる=志賀島には巨石は無い。)先生は金印についても書いておられるが、金印は伊都国王が私的に鋳造した物だと主張する。理由は金印の紐を通す「鈕(ちゅう)」が蛇の形で龍では無いので私印なのだと言うのだが、漢は周辺の民族には、例えば北方民族には駱駝印を渡しているように龍印とは限らない。蛇印は南方諸民族に渡された印のようで倭国は中国に対して南方に有ると勘違いしたらしい。前漢初めから晋代まで蛇印は26例発見されているらしいので、先生の思い込みに過ぎない。しかしこれは最近までの研究により分かったもので、先生がこの本を書いた昭和50年頃ならばまだそこまでの研究はされておらず、先生の博識を貶めるものではない。時代である。<後日追記>金印で思いだしたが、最近朝鮮半島の歴史を勉強していて気がついたが、金印の文字の読みは「漢の倭の奴の国王」ではなく、「漢の倭奴の国王」と読むのかもしれない。「高句麗五部」と言うのが有る。Wikiによると、新唐書「東夷伝」高麗伝によれば、桂婁部、絶奴部、順奴部、灌奴部、消奴部の5部である。見ると桂婁部を除きみんな「奴」がつく。岩波講座「日本歴史」第1巻を見ると「奴」とは国や邑あるいは種族の事だったのだそうだ。高句麗風に言えば「倭奴部」で、それが中国に伝わった時に「倭奴」の国王になったのだ。つまり倭奴とは倭国のことで、金印は「倭奴=倭人の国」の国王と言ういみなんだと思う。女王国の北側の国々に「奴」が付く国が多いのは、倭国が南側に発展していく際に、征服した国々の名前を、征服した将軍や支配する為に現地に配した皇族の命名によるので、母国の字である「奴」を1字加えたのかと思っていたが、実は元々「奴」が「国」又は「邑」と言う意味ならば、元々その名前だったのかもしれない。(高句麗が倭国を作ったと言うのではない。「奴」と言う言葉が、 文字が伝わる前の倭国や高句麗が国として成立する前から有ったと言うこと)では、魏志倭人伝では何故「倭国」と言うか?これは奴国が2回出てくるのが、その理由を示していると思う。奴国は伊都国を中心とした親中国派と反中国派の新「奴国」に分裂していたのである。反中国派奴国は、王が「倭」と言うのは日本人を卑しめた言葉だと気づき、「倭奴」から「倭」を外したのである。後に天武天皇が「倭国」を「日本」に変えたのと同じである。で、反中国派は素戔嗚尊を中心に出雲の王朝を築いたのだと思う。後日追記終わり。先生は魏志倭人伝の当時の倭国は韓国からの侵略者により建国された国々であると主張するが、それは先生自身が書いておられるように古代韓国は不毛の地で、これもまた先生自身が書いておられるが、朝鮮半島に農耕が確立するのは5・6世紀(僕はもう少し早いかなと思う)である。(前身となる小国は魏志倭人伝の時代から有ったが、百済が成立するのは4世紀、新羅は5世紀 但し朝鮮と言うよりほとんど中国側(遼寧省)であるが高句麗はずっと早く紀元前とされる。)国と言うのは農耕の発展により財産の概念が起こって初めて成立するもので、先生自身が仰っているように騎馬民族は生産性を持たないので、支配下に定着農耕民を持たなければ存続できない。彼らは奪うのみである。なので、卑弥呼の時代には韓国は小国の集まりで日本を脅かすほどの国は無かったはずである。但し、中国は別である。中国ならば日本を攻撃し支配する力を持っていただろう。但し、コストパフォーマンスを考えるならば日本を攻めるメリットはない。朝貢して来るならば、(経済的な)危険を冒して攻めるよりも地元の首長を認めて、その者に任せる方がはるかに楽で実入りが多い。古代、日本が独自の国土を維持できたのは「日本海」の荒波と不毛の朝鮮半島のお陰である。騎馬民族は確かに強力ではあるが、日本に来るにはメリットが必要である。特に朝鮮半島には当時奪うべき食料が無く、攻めると戦うのではなく逃げてしまうので、国と言う概念を持たない草原の民は攻めるメリットの大きい中国の平原を目指したのである。(前漢の玄菟郡の首県から起こった高句麗は朝鮮にはメリットは無いので、 公孫氏滅亡後、魏と戦いながら帯方郡や楽浪郡つまりメリットの大きい中国側を攻めて、 安定後にようやく百済や新羅を攻めている。これが好太王の時代つまり4世紀末から5世紀)例えば北方の騎馬民族が「馬で」攻めてくるならば、当時の丸木舟では多くの馬は運べず、(中国ならば大きな船を持っていたので別である。)また、途中の兵の食料や馬の餌の調達も難しく、日本の海岸に着いた段階で矢を射られる。そんな苦労をするよりは中国平原を目指すだろうし、彼らは一定の土地に定着しない。このことは秦の成立時の宣太后(羋八子)の(2人目の)夫義渠の戎王を見ると分かる。彼は宣太后から秦に住むように言われるが、義渠(騎馬民族)は定住になじめず暴れるので、結局草原に帰る。彼らは種族としての国は持つが国境は持たないのである。なので、先生の言う「倭国は韓国からの侵略者により建国された国々」と言うのは無理である。<後日追記>ちょっと言い過ぎたので修正します。後から読むと、古代韓国は不毛の地で国など無かったと読めるように書いてますが、これは言い過ぎで、「倭国を攻めるほど大きな国は無かった」が正しいです。魏志韓伝を読むと、魏志倭人伝の時代の韓国は「馬韓」、「弁韓」及び「辰韓」があり、馬韓はおよそ50国、その後魏の楽浪郡・帯方郡に滅ぼされている。また弁韓と辰韓合わせて24国ほどで、狭い国土の中で多くの国に分かれていた。多くは魏から官位を授けられた「臣智」が治めており王はいなかったと書かれているので、先生が言う「倭国は韓国からの侵略者により建国された国々」と言うのが、「倭国は韓国経由で中国からの渡来人により建国された国々」と言うのならばあるのかも?何故なら魏志韓伝やその後の隋書に書かれているけれども、三韓のうち辰韓(後の新羅)は魏志韓伝の辰韓伝の中で、「古之亡人 避秦役來適韓國 馬韓割其東界地與之(途中略)今有名之為秦韓者」つまり古老が言うには、秦のひどい労役から逃れて来た中国の人達が韓国にたどり着き、馬韓から東のはずれの土地を与えられたのが辰韓で「秦韓」と言う者もあり、「有城柵 其言語不與馬韓同」と有るので、倭国の環濠集落と同じだし馬韓とは言葉も違ったらしいので、この人達がさらに東に逃げて倭国の元を作ったのならばあり得る話だと思う。いわゆる「徐福伝説」も何らかの関係があるのかもしれない。後日追記終わり。さらに先生は「漢字の読み方」が滅茶滅茶である。倭国の言葉を漢字で記す場合、音を漢字であらわすのだから、概ね1音1字で同じ音は同じ字である。(既知の固有名詞は別)後世におけるひらがなやカタカナと同じで音だけを表す表音文字としての扱いである。「カ」は「か」と1音で読むが「かて」とか「かま」等と2音では読まない。先生は同じ本の中で同じ字を色々な読み方をする。特にひどいのが「馬」で、「ま」と読んだり「め」と読んだり、果ては「ば」と読む。国によって同じ「馬」の読みを変えているのである。地名を比定する際に御自分の都合の良い地名に合わせて音をあてるのでそうなるのである。(逆は現代の日本人の発音と古代人の発音の違いからあり得る。 つまり「い」には伊都国の「い」と壱岐の「い」と言う現代人には同じ「い」でも、 古代人にとっては違う発音(現代人の母音は5音だが当時は8音くらい有ったらしい)で、 既に我々には聞き分けられない音があり得るからである。 東北の人は今でも学校の「が」と大学の「が」を聞き分けるみたいだが、(鼻濁音) 当時はもっと複雑な発音を使い分けていたらしい。)「馬」を「ま」と読んだら以降も全て「ま」としないと漢文が読めなくなってしまう。例えばひどいのは「難升米」を「なんしょうめい」と読むのは無理が有る。音ではなく意味の有る言葉ならば、南を「なん」、升を「しょう」、米を「めい」と読むが、音ならば、漢文の中で「音を表す字」と「文章中の意味のある字」の区別ができなくなるので、漢文のルール的に許されていない。(中国語には四声などが有るので、日本人には聞き取れない発音はあるかもしれない。)とまぁ、否定的に読める部分が多いのだが、これは昭和50年頃なら仕方ない話である。吉野ヶ里遺跡の調査が始まったのが昭和61年からなので、先生のあとがきの翌年。その他の色々な考古学的な発見も先生の本の後なので、当時の先生の入手できた情報を考えると、先生はよく調べて考えていると思う。なので非難される筋合いはない。むしろ本題である出雲の話が面白い。僕も「倭国は韓国からの侵略者により建国された国々」ではなく、「倭国の発展には中国や韓国からの渡来人の影響が重要であった」ことは認められると思う。記紀の中でも、先生の仰るように、例えばスクナヒコの神などは明らかに渡来人だと思う。舟に乗って来た神だし、最後は故郷に帰って行く。天津神ならば天に上るはずだし、国津神ならばそもそも大国主が「あれは誰?」と案山子には聞かなくても部下が知っている。しかも大分の別府温泉で大国主に傷つけられた身体を癒している。これは渡来人が医療技術をもたらしたことを示しており、スクナヒコの神は大国主を助けて国を広げたり、土木や農耕の技術をもたらしている。多分中国から来た僧侶又は技術者だろう。それも個人ではなく集団だったと思う。大分の別府に縁が有るようなので秦氏かもしれない。まぁこんな感じなので、邪馬台国の話にはあまり参考にはならなかったが、高木彬光先生の論と併せて考えると北部九州には倭国と倭国に敵対する2グループがあり、それは元は奴国が2つに分かれたもので、それが古事記の天照大御神と素戔嗚尊の争いの元で、天照大御神の系統は伊都国を中心とした倭国になり、素戔嗚尊の系統は出雲の国になったのではないだろうか?そのせいで、素戔嗚尊の出雲は宗像に縁が深く、出雲大社の大国主命は宗像の方を向いて座り、日本の大方は大国主命や素戔嗚尊を祀る神社が多いのではないだろうか?色々な人に聞くと「出雲は滅ぼされた」とか「出雲は日本の歴史から消された」と言うが、僕はそうではないと思う。「出雲は隠れた」のではないだろうか?天照大御神からこれは私の分身だからいつも枕元に置くようにと言われた鏡を何故手放して、大和から離れた伊勢神宮に置くようになったのか。日本書紀には「神威が強すぎるので」天皇の傍から離されたと書いてあるが、本当は天皇の裏に隠れた出雲が追い払ったのではないか?何故なら出雲の神である大物主は天皇の傍の三輪山に残り、天照大御神たる鏡はさまよった末に遠い伊勢に落ち着いている。天皇が天照大御神を排除する意味は無いので、裏に隠れた出雲が追い払ったのでは?三種の神器の原器は伊勢神宮や熱田神宮に置き形代(かたしろ)を持つようになったのは何故か。それらは出雲が決して滅びてはおらず、大和王権の陰に隠れたせいで、大和王権を立ち上げた日向(鏡)と丹波(勾玉)と尾張=出雲(剣)それぞれの縁地に置いた?(忌部によれば鏡と剣が皇統の印で玉は必ずしも必要ではない=日本書紀の持統天皇即位時は 忌部氏が「神璽の剣鏡」を奉ったとある。なので玉は祀った神社が無い?)つまり出雲は隠れて生き延びているのだと思う。<後日追記>昔の先生方が国譲りにおいて大国主命が死んで、彼を祀る神社を建てたと言うのは、下の写真の赤丸にある「隠」を死んだと解釈するからであるが、僕はすぐ後に赤丸で「侍」と有るので、(大国主の地位から)引退して隠居すると言う意味で、死んでしまったのであれば「侍」があるのはおかしいと思う。緑の四角内は自分の隠居後、息子の事代主を天皇の臣下として扱うならば、他の沢山の神々も反乱は起こさないであろうと言っている部分である。大国主は隠れただけで、滅ぼされたわけではなく、一族も生き残ったのだと思う。なお、赤い四角内はその隠居する住まい(住所)の大きさと様式を指定するもので、太い柱や天まで届く千木(たかしり)と書いてあるので出雲大社を連想させるが、弥生時代の高床式の建物を見ると分かるように必ずしも神社ではなく、当時の一般の住まいが竪穴式住居(庶民はそうだった)であったことを考えると、皇族や上級貴族の住居がこの神社のような形式だったのだと思う。下の写真は吉野ヶ里遺跡公園の復元建物であるが、切妻屋根の基本構造を考える場合、千木は屋根構造材の先端を見栄え良く加工し、その切断方向に意味を持たせ、(内削ぎ:女千木と外削ぎ:男千木で今では意味は失われたが古代には何らかの意味が 有ったのだろう)また置き千木とすることで防水性能を向上し、また鰹木とともに、当時は茅葺で有っただろう屋根の抑えの役割を果たすものなので、神社特有の物ではなく、雨の多い日本では有利な形状である切妻屋根特有の構造だったと僕は思っている。言葉で書いても千木とは何かが分からないと吉野ヶ里の復元建物の屋根構造と神社の千木の相似形が理解できないと思うので大嘗祭の悠紀殿と主基殿の千木の写真を示す。吉野ヶ里の復元建物では屋根構造の一部だが、悠紀殿と主基殿ではそれがデザイン化しているのだと分かる。出雲が滅んだのではなく「隠れたのだ」と言うのには、じつは証拠らしき事実が有る。特に関東では、皇大神宮系の神社や明治以降にできた神社を除き、天照大御神を祀った神社は少ない。(末社として神社庁に気を使ってお飾り的に祀った所はある)僕が「平将門の乱」や鎌倉幕府以降の武家政権が京都から離れたのは実は関東の独立運動だと、そう主張する理由でもあるが、ほとんどが大国主命(大国魂神含む)や素戔嗚尊等の出雲の神や八幡神及び大山祇神である。出雲が滅びたのなら何で神社は存続しているのだろう?(伊勢神宮の力を否定するものではない。横浜には伊勢神宮の荘園だった場所がたくさんある。)答は下の写真に有ると思う。これは(怒られるといけないので神社名は隠すが)関東で一番か二番目に大きい神社だ。2種の御紋が下がっている。手前に皇室の菊の御紋が見えて、奥に出雲の紋が見えると思う。この神社には明治天皇が東京にお見えになった時に真っ先にお見えになったそうである。つまり皇室とは御縁が深いのだ。また、この神社は素戔嗚尊と大己貴命と稲田姫命をお祀りしているのだが、境内には宗像の三女神を大きく祀ってある。しかも本殿より西の方角に。出雲大社で大国主命が正面を向かずに宗像の方角を向いているのと同じである。出雲の神々にとって宗像は非常に大事なものなのだ。府中の大国魂神社だって祭神は大国魂神(大国主命)である。宗像の三女神の一柱である市杵島姫命も祀られている。(但し神仏習合時に弁天と同一視されるようになっている。弁天は元はインドの神)関東は出雲の支配下にあるのだろうか?
September 12, 2021
コメント(0)
全2件 (2件中 1-2件目)
1

