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2020年12月19日の邪馬台国はどこにあったか(その18)まとめで一応の結果を出したが、それに際して思ったのが、世の中の先生方が「魏志倭人伝はあいまいな部分が多い」と主張しているのが間違いで、単に先生方が自分に都合の悪い部分を信じたくないが為に「間違い」だとしているのだと言う事。特に方位や距離に関しては、文章をよく読まないで自分の解釈で読んだり、他の時代や他の地域の別の本を参考にして「間違っている」としていること。特に「別の本を参考にする」場合、どちらが正しいのか分からないのに魏志倭人伝を悪者にする。自分の都合に合わないからと言って決めつけるのは変だと思う。例えば1里と言う距離の単位。確かに別の本では1里を400m程度としている本もある。でもそれは別の時代や地域で、魏志倭人伝はちゃんとその中で「統一」している。すくなくともこの本の中では1里=80m弱ですべてのつじつまが合う。なので、他の本、他の時代、他の地域とは違うかもしれないが、この本の中では1里=80mだ。「ドル」だってアメリカドル(1ドル=109円)とオーストラリアドル(1ドル=84円)は違うし、昭和30年ごろのドル(1ドル=360円)と令和3年のドル(1ドル=109円)は3.5倍も違う。学者先生方は先輩の先生の言うことが大事なので理論的な考え方ができないのだと思う。実際に魏志倭人伝を見てみよう。まずは韓国部分。帯方郡から狗邪韓國まで。水行7000里は1里80Mとすると、帯方郡(現ソウル付近)から狗邪韓國(現釜山付近)までの約560Kmとほぼ一致する。帯方郡の位置については諸説あるが距離は大差ない。また、韓国の海岸線は入り組んでいるので、水行する方角も、南に東にくねくねと岸に沿って行くので乍南乍東(南に行ったり東に行ったり)によくなじむ。次に九州の方角と距離が記載されている不彌國までは、確かに海の部分は多少長かったり短かったりするがほとんど一致している。と言うか当時の港の位置が分からないので正確には分からないのである。当時でも簡単な測量技術が有ったので、測量はできたかもしれないが、測量するには見通しの良い部分でしかできないので、航路とは一致せず結構ずれてしまう。時間で距離と換算する方法はあるが、潮流が時刻や季節で速さも方向も変わるので、湖の上ならばともかく海流の上で一定する訳がない。なので当時の技術力からすれば、相応に正確なんだと思う。ここで大事なのは陳寿が「水行」と「渡」を使い分けていることだ。その理由は2つ考えられる。1.「水行」に使われる船(沿岸用)と「渡る」に使われる船(大型船)が違うので分けた。2.この本が将来の戦争や貿易にも使われるので「航法」により分けた。最初は1.だと思ったが、乗るのは使者であり偉い人なので、沿岸を行く場合でも大きな船で安全に行くだろうから後者だと思う。また良く言われる「方向が変だ」と言う話であるが、これは先生方が文章を読んでないと思う。陳寿は魏志倭人伝の中で、方角を示すのに、「目的地を示す方向の場合」と「行動を起こす方向の場合」を使い分けている。例えば帯方郡から狗邪韓國までは「循海岸水行 歴韓国 乍南乍東」と途中の行動を書き、対馬から壱岐へは「又南渡一海」と壱岐の方角を示すのではなく渡る方角を示している。狗邪韓國から対馬までは(恐らく海流のせいで方角が一定では無いので)方角は書かない。なのでよく話題になる末蘆国から伊都国については、「東南陸行 五百里」と目的地の伊都国の方角を示すのではなく行動する方角を示している。つまり、方角+動詞で書かれた場合は目的地ではなく行動する方向を書いている。では目的地の方角を示す事は無いのか?と言うとちゃんと使い分けている。例えば伊都国から見た旧奴国の方角である。(首都が既に奴国から伊都国へ移っているので旧)「東南至奴国 百里」と書いてある。もし末蘆国から伊都国の場合のように行動する方向なら「東南陸行 百里 至奴国」と書くはず。ちゃんと使い分けているのである。他にも、投馬國の場合は「南至投馬國 水行二十日」であるし、邪馬台国の場合も「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」と目的地の方角を書いている。つまり、方角+目的地の場合は目的地の方角を示している。陳寿は正確に書き分けている。つまり、「伊都国が末蘆国の東南に有る」と考えるのは読む人が読めてないのである。<後日追記>もう一つ大事なことを書くのを忘れていた。不彌國までの書き方(奴国を除いて方角+動詞で書いている)と、それ以降の書き方(方角+目的地)で書き方を変えている理由である。これはその少し後に理由を書いている。(陳寿先生はこだわりが強いので理由を書いている。)「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳」女王国よりも北の国々は戸数(国の大きさ)や道里(道筋)は略載(大まかなこと)くらいなら分かるのだが、それらのどうでも良い国は遠絶(遠くて情報も無い)で詳しくは分からない。と言い訳をしている。前に書いたように伊都国までは中国からの出向者の管理が駐日大使としての使者の役目なので、そこまでは結構詳しいのだが、そこから先は使者の仕事では無いので、使者は知らないし陳寿も分からない。なので邪馬台国と投馬國は倭人から聞いた方角と距離と国の情報を書くよと言うことである。なので大事で主要な邪馬台国と投馬國くらいはちゃんと書くが他はいい加減なのである。また、書き方も不彌國までとそれ以降では書き方が変わるのもそのせいである。かって学者先生方は、不彌國までとそれ以降を一緒くたにして考えて、何とかつじつまをあわせようと、「連続説」=帯方郡から邪馬台国までの方角と道のりを連続していると考える説と「放射説」=伊都国から先を伊都国から放射的に方角と道のりを考える説の両派に分かれて議論していたが、書いている通りに読めばその必要は無いのである。不彌國までは駐日大使としての使者が仕事で言っているので復命書が有り正確だが、陳寿が言い訳けしている通り、そこから先はよく分からないから、伊都国(又は不彌國)からの方角と距離を書いているのである。難しくはない。後日追記終わり。ここで、たまに「末蘆国まで船で来たのならそのまま伊都国へ行けばいいのに」と言う人が居る。大きな間違いである。角川氏の「野生号」や大阪市の「なみはや号」が何故韓国へ無事に行けなかったか?あんな丸木舟もどきの船と言うか準構造船では行けても危険なのである。大事なお役人である中国の使者はそんな危険は冒さない。日本の船ではその500年後の遣唐使の時代でも何回も遭難しているが、日本海は甘くない。中国の使者は大きな構造船に乗っていたのである。え?この時代にそんなに大きな船が有ったのか?ちゃんと三国志を読まなくてはいけない。赤壁の戦いを見ると、出てくる船は500年後の日本の船と遜色ない。魏の曹操の乗る船は複層階有る構造船である。2020年12月19日の「邪馬台国はどこにあったか(その18)まとめ」に写真を載せている。御覧いただきたい。立派な船である。倭人の使っていた丸木舟とは違い日本海も渡れる。中国の使者の乗る船は曹操の船ほどではないが大きな構造船である。なので、伊都国の周囲が砂浜であったことを考えると伊都国までは沖にしか来れなかった。なので、海が深く岸壁を加工して大型船でも停泊できるようにした名護屋で降りたのである。そこからは陸行であり、用の無い唐津付近は素通り。陳寿は倭人の生活状態等の描写にもこだわっている。何故か学者先生は誰も(僕の調べた限り1人もいない)書かないが、人口を間接的に表す「住居の数」にもこだわっている。対馬から邪馬台国までほとんどの国で住居の数を「戸」で表している。例えば末蘆国は「有四千餘戸」と「戸」である。しかし不彌國は「有千餘家」と「家」で表している。これは何故かと言うと家の構造が違っていたのだと思う。当時の倭人はまだ「竪穴式住居」に住んでいたので「戸」で表しているが、不彌國だけは高床式住居だったのであり、だから「家」で表しているのである。何故不彌國は高床式住居だったのか?2つのことが考えられる。1.不彌國は後の大宰府であり、住居ではなく役所や宗教用の建物が有った。2.不彌國は旧奴国の郊外で奴国に招かれて中国から来た技術者や僧侶の中国式建物が有った。1.に関しては吉野ヶ里の最近の研究からあり得ることが分かる。吉野ヶ里では竪穴式住居には偉い人用と普通の人用の2種類あり、役所の高床式の建物のすぐそばに偉い人用の竪穴式住居が発掘されるので、当時の偉い人は政務や宗教儀式を行う場所と住む場所を分けていた(通勤していた)らしい。つまり不彌國には一般の人は住んでおらず役所や宗教的な儀式を行う建物があったと考える説。もう一つの2.は陳寿の書いた魏志倭人伝が不彌國までが距離や方角を書いて詳しいことの答である。よく中国の使者は不彌國までは実際に行っているので詳しく、それ以降は伝聞なのであいまい、そこまではみんな共通して言うが、それは何故なのか?と言う答えである。中国の使者は自国から奴国へ派遣された技術者や僧侶の管理をしていたのである。今の大使館の仕事と同じである。また、友人もいたのかもしれない。なので中国の使者は不彌國まで来ていたのであり、それ故に詳しく書かれているのである。<後日追記>自分ばかり分かったつもりで証拠を書くのを忘れていた。僕の悪い所である。不彌國を後世の大宰府と考えて、付近に中国の僧侶や技術者が住んでおり、中国の使者がその管理をしたり友人がいたと考える根拠は、すぐ傍の現在の須玖タカウタ遺跡から証拠が出てくるからである。ここの遺跡からは銅戈の鋳型等、当時の最先端の技術の所在を示す遺物が出ている。日本の他の遺跡とははっきりと違うレベルである。もちろん日本の技術者もいただろうが、技術は基礎無くしては開発はあり得ない。奴国の王達はもちろん中国に認めてもらいたいと言うこともあるだろうが、国交を開く本当の目的は優れた技術の導入である。後世の戦国時代の織田信長の躍進は彼の先進性と鉄砲をはじめとした技術の導入である。奴国の王もあの時代に遠い中国に行こうとするなど、同じだったんだろうと思う。なので不彌國つまり後世の大宰府付近には弥生のテクノポリスが有ったのだと思う。つぎによく議論されており。意地になった先生が滅茶滅茶な議論をするのが刺青である。倭人はそんな野蛮人ではないと言う先生がいるが、先生は自分で「ケンカをしたことが無い」戦いをする場合怖いのは当たり前である。実際に刀や拳を交わし始めると結構肝が据わるのだが、最初は恐い。まだ鉄製の鎧の無い時代、弓や刀から身を守る物は布一枚である。工夫をして竹や木の皮を纏うと動けない。なので、鬼道で強化するのである。まじないをしながら体に書いてもらった刺青は自信を持たせる「肌に描かれた鎧」である。刺青が描いてあれば死んでもまた生き返るのである。なので倭国大乱の時代の倭人は刺青をしていたんだと思う。(日本では西洋のようなレザーアーマーの記録が少ない。何故なんだろう?)陳寿のこだわりはこの辺で終わろうと思うけど、次回は纏向遺跡と箸墓古墳について考えてみようと思う。邪馬台国が宮崎に有ったのなら、纏向遺跡は何なんだと思うのが当然だから。史料がそろわないので妄想でしかないが、僕は邪馬台国は卑弥呼の死とともに分裂し、邪馬台国右派つまり伊都国主流派は前大和政権になり、左派は後の熊襲になったのだと思う。そして邪馬台国右派つまり前大和政権は出雲王朝と結びつき初期大和王権になり、その都が纏向遺跡なのだと思う。当時の日本国内のNo1である前大和王権とNo2である出雲が結び付いた為にNO3以下は従い、その象徴が前方後円墳であり、初期大和王権だけでなくNo3以下もそれに倣って古墳を築いた。前方後円墳は、No1である前大和王権の墳墓形式である円墳と、No2である出雲の墳墓形式である方墳が組み合わさったものであり、その最初の前方後円墳である「箸墓」には、出雲の王である大物主(第6代大国主)と、前大和王権の姫である倭迹迹日百襲姫命の2人が祀られている。それ故に「神と人が造った」と言う伝説があるのだが、藤原氏の陰謀により、出雲の歴史が消された際に大物主の墓である事実は消されてしまった。なので、纏向遺跡は大物主を祀る山である三輪山の麓にあるのである。この仮説を証明する資料を集めようと思う。だって箸墓は女性の墓にしては大きすぎるし、周囲に出雲関連の伝説が多すぎるし、何よりも出雲王権がどうなったかが(神話における重要さに比べて)扱いが小さすぎるから。日本書紀には事代主は国譲りに際して死んだのではなく大和王権の「家来になった」ので、出雲の神々は逆らわずに大人しくしていると書いてあるから。一書にいたっては事代主だけでなく大国主も家来になったと書いてあるし。絶対に秘密が有ると思う。<後日追記>「藤原氏の陰謀により、出雲の歴史が消された際に大物主の墓である事実は消された」のは、もしかしたら「蘇我氏が大国主の子孫だったから」かもしれない。藤原不比等が日本書紀を改竄して蘇我氏を徹底的に悪者にしたとはみんなが言うのだが、何故蘇我氏を悪者にしなければいけなかったかと言う理由については根拠が弱い。乙巳の変で蘇我氏(宗家)を滅ぼしたのだから、もう怖いものは無いはずで。よく言われる「乙巳の変を正当化する為」に改竄したと言うわりには大して正当化されてなく、読むと「蘇我氏の専横が激しくなった」と書かれている本が多いが、天皇家の取り込みは和珥氏や物部氏が既にやっていたことだし、藤原氏も後に同じことをする。それ以外のことは「さぼって出てこない」とか子供のケンカレベルである。本当は、蘇我氏が「国譲りをする前は俺たちの祖先がこの国の主だったのだから国を返せ」と暗に主張して天皇家に入り込もうとしたからではなかろうか?(明確には書いてないが)もし蘇我氏が大国主の子孫なら正当な要求だし、恐らくその実力も有っただろう。そもそも倭迹迹日百襲姫命やヤマトタケルの墓さえもちゃんと書いているのに、ほぼ同じ時代の大国主の墓について何も書かれていないのは変である。神だから?天照大御神の時代ならともかく、倭迹迹日百襲姫命の時代からならそう時間はたってはいない。島根にある出雲大社がお墓?では三輪山は何なんだろう?もしかして藤原氏は出雲の盟主としての蘇我氏を恐れていたんじゃないだろうか?
April 18, 2021
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2020年7月5日の「横浜市金沢区の富岡八幡宮は古墳だよ!(その4)金沢古墳群3やぐらとは」の最後に書いた「古墳と思われる場所」を調査してきた。それはこんな場所(所有者がいるので場所は秘密)上の蓋になる部分の石の底面があまりに奇麗な平面なので自然の物とは思えず、恐らく元は古墳で、地震の際に崩れたものだと思っている。何故なら文化9年(1812年)11月に発生した大地震で転がり落ちたと言う石が付近に有るから。こんな石である。<後日追記>上記は間違いであることが判明した。上記は横浜金沢観光協会のホームページに載っていたので引用したのだが、石が落ちたことは正しいのだが、時期は文化9年(1812年)11月よりも古いようだ。京都大徳寺の玉舟宗潘の「玉舟和尚鎌倉記」と言う本に、「○○(この場所の名前秘密) 六浦ヨリ鎌倉ノ方ニアリ。洞家ノ寺也。称名寺ノ四石ノ内、 飛石此寺ニアリ」と書いてあり、これが一六四四年頃なのだそうである。なのでもっと昔のできごとのようだ。調査の前に所有者の方にことわってからと思い、訪問したら出てこられず、インターホン越しで、一応写真に撮る旨をお話しした。ただ、インターホン越しなので正確に伝わったか不安。まずは1枚目の写真の右側の穴の中。底の部分が見えている。平面的な部分があるが、岩が重なってよく分からない。なお、穴の向こう側なら見えるだろうが下が見えるのかと言う疑問についてだが、今回調査にあたって秘密兵器を作った。GoProもどきを一脚の先に取り付け、WiFiを利用して携帯から操作できるようにした。携帯画面に映るGoProもどきの画面を見ながら録画や撮影ができるので、非常に便利。長さは約1.35mまで伸ばせるので、穴から差し込んで目的地で方向転換し自由にみられる。穴の中は暗いのでGoProの下に100均で買ったLEDライトをテープでつけている。GoPro は高いけど、GoProもどきなので4K動画を記録できて5000円程度と安上がり。静止画ならば6000X4000弱、つまり今時のAPS-Cタイプのデジタルカメラと同程度である。次は1枚目の写真の左側の穴から差し込んで下向きを撮影。こちらの穴から見ても底面と言うか床面は平面に見える。1枚目の写真の「蓋」の底面の平面的な形状と、3枚目の写真の「壁」の側面の平面的な形状を見ると明らかに人工的に加工された石である。3枚目の写真の下に書いたように石が自然現象で奇麗な断面を作ることもあるが、その場合、傍にはその断面を作った際にできる対となる面がそばにあるはずだが、向き合う石の面は明らかに合わない。つまり平面的な面は人間が加工したもので自然現象によりできたものではない。その上に床面が平らに見える。なのでほぼ100%古墳だと思う。但し、期待したほど古くは無く古墳時代後期か古墳時代より後のものだと思う。それは石の加工技術が見事だし、場所が関東だからである。近畿等中央に比べて関東は(当時は)田舎なので伝達が遅く、例えば仏教も中央から来た人やその側近は早めに仏教者になり墓も法華堂の石塔に葬るが、地元の人は「やぐら」をみるとわかるように地元のしきたりと融合して独自の葬送で行う。やぐらはこの付近の慣習で、首領(地元の豪族)の墓(古墳)の周囲に古墳時代初期には横穴墓を作っていたのが、そのうちに仏教と融合して、横穴墓の中に石塔や墓を(変な表現だが)作るようになった物。僕はそう思っている。その理由は、この付近の豪族は元々は海人族であり、同じ海人族である九州の宮崎の生目古墳ではよく似たことを5世紀頃にやっていたから。鎌倉のやぐらは鎌倉時代なので遅いが、発想は同じなんだと思う。生目古墳の第21号墳の例を示す。(パンフレットより)前方後円墳の円墳部に首領の墓の埋葬施設が有り、その周囲に家来たちの地下式横穴墓が並んでいる。(大和王権の古墳の陪塚も同じ?)僕の調査した「古墳」も周囲に取り囲むように「やぐら」が存在する。上の例と同じ。周溝墓が古墳の有る山の側面になっただけ。かなりの部分のやぐら跡が住宅になっているので一部しか残っていないが、ふと気がついたのは、やぐらの規模が大きいのと小さいのと色々と有ること。有力な家来とそうでもない家来の差がやぐらの規模にあらわれているのかもしれない。後から気付いたが、(今の末社は違うが)初期の神社の末社もそうだったのではないだろうか?宮崎の南部つまりこの生目古墳のある付近は古事記に残る神話の海幸彦の居たあたりである。なので、同じような海人族のいたこの辺とは考え方が似ているのであろう。ただ、この辺は平地が無く、また海を見下ろす山の上が好まれたので、こうして海辺の山の上に古墳を造って首領の墓として、家来はその下にやぐらを作ったと僕は思うのである。<後日追記>鎌倉の「やぐら」は以下のような感じで発生したのではないだろうか? 首領の墓 家来の墓弥生時代 海蝕洞を利用した墓 海蝕洞の首領の周囲のくぼみ古墳時代 山の上の古墳 古墳の周囲の横穴墓奈良時代 山の上の古墳 古墳の周囲の「やぐら」鎌倉時代 法華堂と石塔 寺周辺の山の「やぐら」鎌倉時代後期以降 寺の中の石塔 寺の墓地の石塔この事は単なる妄想ではなく、この古墳らしき場所の下には無数の「やぐら」があり、そのやぐらの下に「古墳時代の横穴墓」も発見されたらしいからである。危ない部分を隠してその説明板の一部を載せる。①のアンダーライン部を見ると「やぐら」の下に「古墳時代の横穴墓」も検出されたとある。下段のやぐらのさらに下の深さなので、僕の仮説通りである。つまり古い時代には横穴墓だったのである。それが仏教の伝来とともに、仏教と地元の宗教は融合し「やぐら」に発展したのである。さらに②のアンダーラインの様に単なる埋葬施設から法華堂もどきにまで発展している。ここまで物的証拠がそろうと僕の仮説は正しそうな気がするけどどうだろうか?少なくとも横浜市の主張する「やぐらは鎌倉時代に突然出現した」わけではないと思う。鎌倉時代以降は人口が劇的に増えていき、幕府は鎌倉周辺に墓を作るのを禁止したので、その後は簡単には墓は作れなくなり、有力者は寺や神社を寄進することにより特別に自分の墓を造る場所を確保することになったが、一部は高野山等に祀られた。庶民に至っては湘南の海に流されたり野焼きされたりして跡かたもないが、高級武士や僧侶は「やぐら」と言う形で(首領の墓とは離れたが)存続したのだと思う。それが最終的には寺に「代々の墓」として場所が確保されるようになったのだろうと思う。色々な資料を見ると(例えば金子隆一氏の論文によると)西暦800年頃(平安時代)の日本の人口は551万人、1280年頃(鎌倉時代)は595万人。1600年頃(江戸初期)までは1227万人だったのが1721年頃(江戸後期)には3128万人。今は1億3千万人。人口が増えればお墓の需要は増えて当然。その時代に見合ったお墓の形態と設置場所になるのは当然だな。土葬がメインだった欧米に対して、狭い日本が早くから火葬を始めた(持統天皇の時代)のは、死後の世界が地下にあると言う古来の日本の思想から、天のかなたにあると言う思想に変わる一つの原因だったのかもしれないな。うちの家内の実家の墓を改装する際に古い人骨にはまだ髪が残っていたと言うから、鎌倉のように人口密度が高い地域では必然的に火葬が普及する要素があったのかもしれない。最後に実は裏側に周って床面を見ようと考えたのだが、周囲はこの状態である。ちょっと簡単には行けない。古墳は右の崖(と言うほど高くはないけど)の上で、目的とする場所は切り立っており、すぐ脇は崖になっている。元はなだらかな古墳だったのだと思うのだけど、石が落ちた地震の際に崩れて崖になり、足場が無いのである。上の写真の反対側はこんな感じ。赤い矢印で示した部分が古墳の側面で、崖になっている。元はこの部分に落ちた石が有り、土で覆われていたのだと思う。床の部分を確かめようと思ったけれど、床はかなりの部分が落ちてしまい、今回撮影した床の一部しか残っていないのかもしれない。と言う事は、僕はこれを石の加工された平面的な形状から古墳だと思うのだけど、古墳である証明に必要な埴輪や土器等の副葬品は崖崩れと共に崩れ落ち、付近のお百姓さんが拾っていって既に無く、僕がいくら探しても後の祭りなのかも?また新しい「古墳と思われる場所」を探すとしよう。<後日追記>2021年4月3日の「横浜市金沢区わの会6回目のイベントに参加しました」に少し書いたけど、横須賀には「ヤマトタケルの伝説」や「桓武天皇の縁の伝説」がたくさん残っている。横須賀に桓武天皇の孫娘の墓が有るはずだが、まだ詳細がが分からないと書いたが、「鈴木かほる」さんの「相模三浦一族とその周辺史」で少し分かった。天平7年(753年)の「相模国封戸祖交易帳」によれば、桓武天皇ではなく、天武天皇の孫娘の「山形女王」が三浦郡走水郷に、また「檜前女王」が「氷蛭郷」の封人として禄が与えられたと書かれているらしい。封人とは国境を守る役人のことらしい。え?女性なのに?「檜前」って檜隈とも書く高松塚古墳が有るあたりだよなぁ。渡来人が多かったところ。調べたら2人は高市皇子の娘ででてくるなぁ。桓武天皇の方は桓武天皇の皇子の高見王の娘の政子の話らしい。政子が関東への下向経路、天安元年(857年)に平塚で病死したため、塚を築き葬ったが、いつしか塚は風化して平になったので、その辺りを「平塚」と言うようになったのだそうだ。えー!知らなかった。横須賀ではなくて平塚かぁ。まぁいずれにしても、この辺は天皇家の末裔が多くいたらしいので古墳が有ってもおかしくない。さらに鈴木かおるさんのおかげで別なことが分かった。三浦一族と言うと横須賀衣笠のイメージが強いが違うらしい。通説では、桓武天皇の曾孫・高望王の子の相模守平良文の孫の為道(この頃は村岡姓)が、前九年の役の戦功により康平6年(1063年)に源頼義から相模国三浦郡を与えられ、衣笠城を築き始めて「三浦姓」を名乗ったことになっているが、根拠は「寛政重修諸家譜」の「三浦系図」である。しかし鈴木さんはこれが江戸後期の書であり、それよりも古い「源平闘淨録」では、為道ではなく、叔父の忠光としており、そちらを推している。忠光は平将門の乱に与し常陸国へ配流となったが許されて三浦郡に着し、在地土豪の青雲介の婿となり三浦郡、安房国を押領し「権中将 三浦忠光」と称したとあり、「常陸大掾伝記」や「千学集抜粋」にも忠光を三浦氏の祖とする記述があるからである。つまり為道が衣笠城を築く前から三浦姓を名乗っており、忠光こそが始祖であると考えている。で、それがどうしたの?と思われるであろうが、これが大事なのである。彼女は、では三浦氏は「衣笠城以前はどこにいたのか」と言うことを推理して、実は横須賀市浦郷に居たと考えておられるのである。そう、鉈切遺跡のある浦郷から夏島、沼間、追浜、逗子市小坪つまり三浦半島北部は、三浦氏の始祖忠光の奥さんの父親である青雲介の先祖代々の地だったのである。そう、僕が海人族が居たと(勝手に)言っている、古墳が点在している辺りは三浦氏の始祖の地、だから古墳が有っても不思議ではない地域なのである。だからこそ、伊豆の北条氏と鎌倉を挟んで覇権を争い(負けたけど)、源頼朝の挙兵にあたっては北条氏と組んで関東の武家をまとめたのである。よく北条政子が女だてらに武家をまとめたと言われているが、それは彼女が源頼朝の妻であるとともに、父は北条家、母は三浦家の宗家だったからである。と僕は思った。そう、僕が古墳だと思って探しているのは、(前は北条政子の母方の先祖の墓と書いたが)縄文時代の夏島貝塚、野島貝塚、称名寺貝塚、鉈切遺跡等を残した土地の豪族が、時代の変遷とともに中央の政権と結びつき(その証として前方後円墳を造り)、天武天皇や桓武天皇の時代まで中央政権の人々を受け入れた人々、地元代表として関東平氏や関東源氏を名乗るに至った人々の先祖のお墓(古墳)だと思うのです。違うかな?<さらに後日追記>今回調査した古墳は弥生時代後期から古墳時代のものである可能性がある。この付近の地名で富岡と言う地名が有るかと言う理由を調べていて気がついた。「富岡」と言う地名は「遠見の丘」あるいは「鳥見ケ丘」が由来かもしれないからである。「遠見の丘」説は、称名寺貝塚でイルカの骨が見つかったことから分かるように、この付近ではイルカの追込み漁がおこなわれておりイルカを見張る為の丘が有ったと言うもの。「鳥見ケ丘」とは魚群の位置を知らせる「ウ」等の鳥を見張る丘が有ったと言うもので、いずれにしてもこの墓の主がその主役であったせいで、この山の上に墓が造られたと考えられ、三浦半島の「間口東遺跡」と同じで弥生時代後期から古墳時代である可能性があるからである。では、何でそんなものが今まで知られてこなかったか?それも江戸時代の絵より分かった。江戸時代までは上屋が建てられて人には見られなかったからである。江戸時代の絵を眺めていて気がついた。大事にされて来たのだと思う。
April 10, 2021
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4月1日は横浜市金沢区わの会のイベントでした。今回は富岡地区のイベントです。富岡と言う地名は日本全国に有り、例えば世界遺産の富岡製糸場等が有名です。富岡製糸場は群馬県富岡市に日本で初めて設立された本格的な製糸場なのでそう呼ぶのですが、富岡市は北甘楽(かんら)郡富岡町が付近の村と合併して市になった時につけられた名らしい。千葉浦安の富岡はこの地でウナギやボラの養殖をしていた富岡氏と言う人の名からきたらしい。埼玉県所沢市の富岡は元あった中富・下富の富と北岩岡の岡を組み合わせたらしい。とまぁ色々と由来が有るのだが、ここ金沢区の富岡は横浜市のホームページを見ると、この地に住む長者が、狩りで白い雉を得たので、これを帝に献じた。そして白雉(本当は娘では?)の霊を慰めるために塚をつくった。そこを「鳥見ケ丘」と呼び、これが「富岡」あるいは「留岡」となったと書いている。またもう一つ、この地域には、多くの丘が集まっていることから、「十三岡」が「富岡」になったといも書いている。横浜市は二つの説を併記しており、ガイドさん達は「一三岡」説を採用していたが、僕は「白雉の墓」だと思う。だって「鳥見ケ丘」と言う地名が残っているから。ヤマトタケルの時代からこの辺は大和朝廷との縁が深く古い伝説が多く残っているからである。横須賀には桓武天皇の孫娘の墓が有るらしいのだが、まだ調べ切れていない。本当は横須賀ではなくここで、桓武天皇の女御となった母親(白雉の前)の言うことも聞かず、都の人間関係が嫌になった孫娘がお爺ちゃんの所へ帰って来たのでは?(白雉(娘)を帝に献上した長者は実は倉樔屯倉の主で、 後年の久良岐郡の郡衙は弘明寺や笹下と言われているが、倉樔屯倉時代の中心は実はここで、 長者の墓が富岡八幡宮の裏山の古墳だったりして?僕の妄想です。)<後日追記>帝に白雉が献上されたのは孝徳天皇の時代が有名で、宍戸(長門国:山口県)国司の草壁醜経が献上し、これを記念して元号を白雉としている。長者はこれにならったのかも。で、誉められて御利益があった?<さらに後日追記>この辺には海人族が居たと主張する僕がこんなことにも気がつかなかったのは恥ずかしいが、富岡の地名の本当の由来に、中村勉先生の「海に生きた弥生人」を読んで気がついてしまった。もしかして、「遠見が丘」または「鳥見ヶ丘」そのものズバリが由来かもしれない。まず、「遠見が丘」であるが、傍証は称名寺貝塚のイルカの骨である。イルカはものすごいスピードで泳ぐので弥生時代や古墳時代の舟では捕まえられない。ではどうするか?追い込み漁である。湾内に追い込んで浅瀬で捕まえるしかない。能登半島の真脇遺跡はイルカ漁で有名だが、あそこの漁はまさにそうで、湾内に追い込んで捕まえたらしい。この辺もそうだとしたら、まず追い込む以前に見つけることが大事である。そう、遠くを泳ぐイルカを見つけるには高い丘から見張るしかないのである。なので「遠見の丘」から遠くのイルカを見つけて舟を出し遠くから回り込んで、イルカを湾内に追い込むのである。金沢の泥亀辺りは昔は(埋立てる前は)浅い海だったので絶好の漁域である。なので金沢の称名寺貝塚にイルカの骨が有ったのだろう。「遠見の丘」にはその他に敵の舟を見張る役目も有る。昔から海賊船はいて、女や財産を盗んで行くので見張りは大事な役割だったと思う。それをこの「遠見の丘(とみおか)」でやっていたのだろう。もう一つの「鳥見ケ丘」はこの辺は昔は「かわう(又はうみう)」が多かったらしいからである。今でも城ヶ島はウミウがたくさん巣をつくっていることで有名だが、2021年1月8日の「横浜市金沢区わの会3回目のイベントに参加しました。」の写真でも載せたが、今でもこの付近には「ウ」がいる。三浦半島先端の縄文時代から古墳時代までの遺跡「間口東洞穴」は、縄文時代から弥生時代中期までは生活の場として使われていたものが、弥生時代後期から古墳時代には葬祭の場として使われ、「う」を抱いた老婆の骨が見つかった。食べる為の「ウ」ではない。魚の群れを見つける為の「ウ」なので抱いていたのである。彼女はシャーマンで漁師たちは無駄に出航するわけにはいかないので、彼女が「ウ」が魚の群れを見つける性質を利用して魚の群れの位置を示すのに頼っていたのだ。いくら目の良い漁師でも浜辺から魚の群れを見つけるのは無理。あてずっぽうに出航しても成果はあがらない。シャーマンの老婆と「ウ」は大事である。なので、シャーマンの老婆は「鳥見ケ丘」から海「ウ」を見ていたのである。富岡八幡宮は源頼朝が八幡様を勧請する前は蛭子様を祀っていた。海人族の神様である。なので今でも「祇園舟」行事が行われている。後の世には海運にも使われていただろうが、元は漁労に使われていただろう。もしかして富岡八幡宮の前の神社には「鳥見ケ丘」の主が祀られていたのではないだろうか?漁師たちは鳥見で判断した主の合図で漁に出た。それが祇園舟行事の由来。違うかな?「富岡(とみおか)」は「遠見の丘」か「鳥見ケ丘」が由来なんだと思う。まぁ妄想はさておいて、今回のイベントのコースは、京急富岡駅集合→富岡トンネル→富岡古道→経塚→谷戸坂地蔵尊→持明院→悟心寺→宝珠院→十二天鼻松方正義別邸跡→慶珊寺→豊島明重父子供養塔→直木三十五文学碑→長昌寺で約2時間半のウオーキングコースである。下にコース地図を載せる。結構歩くが、いつも思うのだけど、こんな近くに全く知らなかった道や遺跡が有るんだなと感心すると同時に勉強になるなと思う。まずは富岡トンネルだが、何の変哲もない京浜急行のガード下のトンネルである。ただ、太平洋戦争時に、かっては近くに兵器工場や海軍航空隊の基地(富岡総合公園付近)が有ったせいで爆撃の目標になり、昭和20年6月10日つまり終戦2か月前に空襲にあった。その時に多数の方々がここで亡くなり近くの慶珊寺に運ばれ供養塔が建てられたのだそうだ。冥福をお祈りするとともに、かってそういうことが有ったと言うのを覚えておきたい。と言うか横浜市は何かそう言うのを書いた解説版くらい置くべきだと思う。行政が悪い。トンネルを抜けて左の階段&坂を上ると二松庵裏山の尾根に小道が有る。昔から鎌倉街道と村人が呼んでいたそうだが、富岡古道である。とても大都会横浜の山とは思えない道の両脇では地元の人が野菜を育てている。真下を京浜急行のトンネルが通り、トンネルから出た京浜急行が線路わきの桜並木を抜ける。のどかぁー。木々の隙間から東京湾や磯子の方が見える。古道の脇には古くからのお墓が並ぶ。その中に、持明院の丁塚墓地(持明院からは少し離れている)の経塚が有る。経塚はお釈迦様が入滅後56億7千万年後に弥勒菩薩が現世に出現して民衆を済度して下さるまで仏典を永く保存して後世に残し伝える為に、経文を経筒(金属製の茶筒みたいな筒)に入れ、土中に埋めた塚だそうです。かっては土饅頭だったのを昭和61年に石碑を建てたそうです。ここを引き返すように下ると谷戸坂地蔵尊が三叉路に立っています。「安永五丙申年祀 九月野本かな」と建てた人の名前が記してありますが、野本さんは地元の名主さんの家で、この付近は江戸時代から、鹿島、大胡、野本及び吉川の4家が名主を務めていたのだそうです。お地蔵様を左へ下って行くと持明院に着くが、その手前に大きな家があり鹿島さんと言うらしい。上に書いた富岡の名主様の家だそうだ。確かに大きい。持明院は真言宗御室派で、山号の海照山と言うのはかって長浜千軒と言う漁村にあったからで、応長元年(1311年)津波にあってから今の場所に移ったらしい。本尊は大日如来だそうだ。また、行基作と伝えられる薬師如来像も有るそうなのだが、残念ながら写真の通りしまっていて見れなかった。持明院の次は少し道がずれるが悟心寺に行った。ここは臨済宗建長寺派で、本尊は地蔵菩薩像。開山は鎌倉時代で明月院の住職の密室守厳禅師だそうだ。境内には鎌倉時代の五輪塔がある。悟心寺を出て次は宝珠院だ。左の新しい大きな地蔵菩薩の掌の上に載っているのが宝珠で、寺の名前はこれに由来する。小さな方の地蔵菩薩が古い地蔵菩薩なのだそうだ。持明院と同じ真言宗御室派で、本尊も同じ大日如来。建てたのは後述する豊島明重だそうだ。ここの境内には樹齢270年と言う大銀杏の木が有り、横浜市の名木古木に指定されている。横浜の中でもここ金沢区には古い木が多い。宝珠院を過ぎるとこれを建てた豊島明重の屋敷跡が国道16号線脇に石碑が残っている。国道16号線を渡ってしばらく行くと昔の海岸通り脇に十二天鼻松方正義別邸跡がある。この辺りは海岸の出入りが多く、岬の様に出っ張った部分を「鼻」と呼んでいて、それが十二有ったので十二天鼻と呼ばれていた。この宮ノ前海岸は明治時代別荘地だったらしく、第2・4代内閣総理大臣の松方正義もそうで、ここに別邸が有ったらしい。その向かいに慶珊寺がある。ここも持明院や宝珠院と同じ真言宗御室派で本尊は大日如来。寛永元年、上記宝珠院を建てた富岡の領主豊島明重が父母の菩提を弔う為に建てたのだそうだ。裏山の墓地には豊島明重父子供養塔が有る。豊島明重は寛永5年(1628年)江戸城内で最初の刃傷沙汰を起してその場で自刃し、息子の吉継も切腹を命じられて、豊島家はお家断絶となってしまった。慶珊寺門の右手には孫文上陸記念碑(岸信介元首相揮毫)が有る。ガイドさんが素通りしたので由来等が分からなかったのだが、ネットで調べてみた。孫文は1911年の辛亥革命で清朝(宣統帝)を倒して民主化を目指したが、(清朝を引き継いだ)袁世凱を倒そうとする第二革命に失敗し中国を離れ、亡命する為に日本を訪れ富岡に上陸した。その後中国国民党を作り、何度も挫折しながら蒋介石や毛沢東と結びついたり離れたりしながら、現中国の基礎を作ったとされ、「中国革命の父」と呼ばれる。つまり彼がここに上陸して(小舟でやっとたどりついたらしい)生き延びなければ今の中国は無く、ある意味、中国の人にとっては(認めたくはないかもしれないけど)大事な所なのかもしれない。慶珊寺脇の道を登って行くと直木三十五文学碑が有る。直木三十五は有名な大衆作家で、直木賞は彼の功績を記念して親交のあった菊池寛が昭和10年に創設した。彼の本名は「植村宗一」で、直木と言う名字は植を直と木に分解してつけたものである。名前の三十五は年齢を元にしたもので、スタート時は31歳だったので三十一で、三十二、三十三、と増やしていったが三十三は「さんざん」と読めて字面が悪いので三十五としたと言われている。その後は三十六は「三十六計逃げるにしかず」とからかわれるので三十五でやめたらしい。文学碑には「芸術は短く貧乏は長い」と書かれているが、元は「恋」だったのを、この碑を建てるに際し委員会(大佛次郎が委員長)が彼らしい言葉として「芸術」に変えたそうだ。文学碑の右手を登って行くと彼が設計した自宅が有るらしいのだが立入禁止だった。自宅の説明板が有るがそれによると彼は気候温和で風光明媚な富岡が好きでここに建てたらしい。最後は長昌寺と芋神様である。長昌寺の入口の石段は長浜検疫所が取壊される際にここに移設されて入口の石段とされたらしい。カメラマンのミスで石段が移っていなくてすみません。手すり左に「左芋神道」と書いた道標があるが、実際は外を回らなくても長昌寺の中から行ける。石段が検疫所の物を移設したのは、長昌寺の住職と検疫所の関りが深いためで、昔、外国航路の船中で伝染病に罹り長浜検疫所に収容されて亡くなった人達の供養をしていた為。ここで、ガイドさんからは何も説明が無かったが、面白い物を見つけた。長昌寺は臨済宗建長寺派で悟心寺と同じで、本尊は釈迦如来。建てたのは小田原北条氏の家来の柳下豊後守で天正2年に亡き妻の菩提を弔う為に建てたらしい。それで写真の様に北条氏の紋が残っているのである。長昌寺には何故か(慶珊寺の裏に文学碑が有るのに)直木三十五の墓が有る。また隣には彼を慕って隣に埋葬するように願った胡桃沢耕史の墓もある。でも(現代人の)お墓なので写真は無し。長昌寺の裏手には上記で書いたように芋観音が有る。(道標にあるように外側からも行ける。)芋観音はかっては富岡総合公園の中に有ったそうで、そこには一間四方の芋が繁る池が有り、この池の中に小さな観音様が現れて御利益(天然痘に効いたらしい)があったので、その観音様(楊柳観音様)を祀っているのだそうです。境内には観音様と小さな池?(と言うか人工的な水槽)も有ります。正面に北条家の紋が見えるなぁ。ちょっと歩いたけど気候も良く、心地よい散歩みたいなイベントでした。
April 3, 2021
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