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ヒマなので何かやりたいなぁと思っていたら安くて格好いいFMラジオが有ったので買った。キットなので自分で半田付けが必要だけど、愛天堂のキットがケース無しなのにケースが付いていてACアダプターも付いている。これです。3000円超なので僕のお小遣い上限に近いけど、やっぱりアクリルケースが付くと高級感有り。早速作ってみた。難しいのはラジオICのTEA5767のモジュールの半田付けくらいであとは易しい。このモジュールが何故難しいかと言えば、不良品だから。いや、僕らの使うレベルとしては良品と言ってよく、ちゃんと動く。ただ、工場の自動機に使うには不良品と言われると思う。勘ぐって言えば、その不良品をタダ同然の価格で買ったのを使っているのだろう。なので、安いのかも。工場の自動機には適さない理由はモジュールにのっているチップコンデンサーが暴れている。恐らく半田ディップの際の温度管理が悪く、或いは水平の管理が悪く、(本当は基盤の設計が悪く部品配置に失敗しただけかも?)半田が溶けた際に流れたのだと思うチップコンデンサーが斜めに半田付けされている。ほとんどの場合は大丈夫だけど、1万個に1つ位は導通不良になるだろう。僕が働いていた工場ならば不良として下請けに返す。製品に不良が出たら大変だから。で、作ってみて失敗したなと思った。説明文には下のように書いてあるが使えない。87.5MHz~108MHzしか受信できないし、LEDの表示と受信周波数がずれている。さらに別の説明文では受信局を50局記憶できると書いてあるが、そもそもその為のスイッチが無い。恐らく中央に見えるマイコンのプログラムが間違っている(日本向けでない)のだ。早速売り主に連絡すると、売り主は良い人みたいで製造元の中国のメーカーに聞いてくれた。すると「受信できる周波数はどのくらいか?」と聞かれたみたいなので、「87.5MHzから108MHzだ」と答えると、「誤った製品を送ったみたいなので代替品を送る」と言う返事が返って来たので待った。てっきり、同じタイプの良品が送ってくるのだと思っていたら、日本語と中国語の連携が悪かったみたいで、別の同程度のラジオが送って来た。普通の人ならば怒るのかもしれないけど、僕は暇つぶしにラジオが作りたいだけなのでOK。むしろ感謝したいくらいである。前のラジオはFM用DSPICのTEA5767を使ったFM専用ラジオだったけど、これはFM/MW/SWオールバンドICのSI4825をFM部分だけ使ったラジオ。早速作ってみたら、これは結構良いラジオなのかも?音が良いし、出力が5Wも有る。唯一の弱点は写真を見ると分かるように受信周波数が分からない。でも。一応76MHzから108MHzまで受信できているようなので、恰好悪いけど自分で紙に受信周波数を書いて張り付けた。うーん。何とも恰好悪い。でも、東京FMから(ワイドFMの)ニッポン放送まで聞こえる。何よりもLEDのインジケーターが格好いい。これって良い。小学校高学年から中学生の男の子の夏休みの工作に最適だと思う。何よりも「自分で作った」達成感は味わえるし、見た目も格好いい。周波数表示部分を自分で工夫すれば、もう最高なんだと思う。友達にも自慢できる。でも、おじさんはこれで満足してはいけない。SI4825はオールバンドラジオのICなんだからせめてMWくらい受信したい。幸いに説明書に回路図が載っている。うん?思った通り、変な所がある。写真の上で右クリックして、新しいタブで画像を開くを選択すると大きな画面で見られる。このFM専用ラジオの回路図、R4(261kΩ)、R5(39kΩ)とR6(196kΩ)は何だ?R4とR5合わせて1つの300kΩじゃいけないのか?実はこのSI4825と言うラジオICはTUNER1からアースまで500kΩの抵抗を分圧して、その分圧比によって受信バンドを決めている。元の回路アースから196kΩが64MHz~108MHzのFM帯を受信する抵抗値なのである。じゃぁ39kΩは?実は196kΩ+39kΩ=235kΩは522kHz~1620kHZAM帯を受信する抵抗値なのである。実は似たようなラジオがAMAZONでAM/FMラジオとして売っている。LEDインジケーターが付いていないのが弱点なんだけど、AM放送が聞ける。このラジオが実はR4とR5のつながった所から配線を引いた場合がAM放送になってるみたい。確かめたわけではないけど、理論的にはそう。そこで早速改造した。ついでに僕は耳が悪くてスピーカーは近所迷惑なのでイヤホン端子をつけた。「スイッチのAMへ」と言う部分がR4とR5のつながった部分で、AM放送選択時にBANDに接続する。なのでその左下のラインを削り、SI4825のBANDからこの削った部分に来ているラインにAM/FM切替スイッチをつなぐ。次にAM用のアンテナなんだけどバーアンテナを付けるスペースが無いし、放送局の方向にラジオの向きを限定されたくないのでループアンテナを作り、ラジオの向きとアンテナの向きを独立して置けるようにした。AMアンテナはだいたい180μH~400μHが適しているみたいなので300μHを目標にする。最初は上の写真のようにコンデンサー(104)でカップリングする方法と、2次巻線でインピーダンスを落として接続するのはどちらが良いか比較しようと思い、2次巻線は大体何回巻けば良いのかを調べる為に、タップとして35回だけ巻いてみてそこをタップにすることにした。うーん35回巻きで63μHだから目標の300μHはその約5倍だから、1次巻線の巻き数はその2.2倍くらいかな?そう思って80回巻いてみたら278μHだった。もう少し巻こうかと思ったけど、面倒くさいのでこのままにした。そして色々と研究していたら、なんかタップは計算が面倒くさそうなのでコンデンサーでカップリングする方式に変更した。で、完成したが、AMもそれなりに入る。ついでにせっかくLEDインジケーターがついているので、それを利用してアンテナの向きと放送局の方向の関係を調べた。「夏休みの研究」みたい。最初は放送局の有る方向に垂直。当然ながら最強の受信出力。最高の赤まで光っている。ボリューム等の条件をそのままにアンテナだけを放送局の有る方向に向けた。かなり落ちた。上の写真と比べると全然ダメ。最後に昔の真空管ラジオのアンテナみたいに立ててみた。予想に反して一番感度が落ちた。昔の真空管ラジオのアンテナは立てていたのに。何故?理由は簡単なんだけど、面白いなぁ。<後日追記>Rasbeeと言う会社のFMラジオが極端に安かったので買ってみました。送料を足しても379円+299円=678円と安い。ついつい買ってしまった。(後からネットで調べてみたら200円以下と言うのもあるみたいだが送料を加えると同じ位みたい。)組立はラジオICの半田付けが難しいくらいで1時間かからないで完成する。最初は説明書も何も無いので戸惑ったが、基盤の裏側にディスクリートの値が書いてある。なので心配はない。ただ、初めての人はラジオICの向きが分からないかもしれないが、上の写真のように左下が1番ピンになるように配置する。ICに丸いくぼみが有るのが1番ピンだ。組立が終わったので聞いてみたが、なんとなく受信バンドが76~108MHzではなく76~90MHzのような気がする。FM東京やNHK及びFM横浜は入るのだが、文化放送やニッポン放送及びTBSが聞こえない。SEEKは押し続けなくても自動で上がったり下がったりして放送局を見つけてくれるので、何度か繰り返してみたのだが、(一番高い周波数まで行くと)1回転してFM東京に戻る。なので多分旧FM日本バンドに設定しているので379円と安いのだと思った。でもまぁ安いのでOK。<後日追記>2021年11月7日ヒマなので再度受信局を試してみた。最初NACK5(79.5MHz)から上向きにSEEK(+)すると、次にFM東京(80.0MHz)が入り、次にFM横浜(84.7MHz)が入った。さらにUPすると無音(周波数不明)で止まって、さらにUPするとNACK5に戻った。やはりワイドFMはカバーしていない。ネットで調べると、プログラムをI2Cで書き換えてレジスターの設定を変えると、ワイドFMも受信できるようになるらしいのだが、情報が少なくて断念した。NACK5が非常によく入るのは100nHを外して自作した(下の方に記載)のせいで、最高感度受信周波数が「低い」のかもしれない。-----っとごめんなさい。そう思ってコイルを広げたら(つまりインダクタンスを小さくしたら)「駅伝の中継」を受信。これって文化放送だ!もしかしたら電波の受信感度が低くてワイドFMはとばしていたのかも?もしかしたらこのコイルの調整で最高感度受信周波数を「あげられる」?そうしたらワイドFMも聞こえるようになる?色々と調べて再度挑戦してみよう。後日追記いったん終了感度が悪いのかもと思ってワイヤーアンテナを付けてみたが、イヤホンアンテナの方がましだった。ちなみに電解コンデンサー下のピンヘッダーがアンテナの切替で、(下の回路図参照)1-2ショートの時に外部アンテナ、2-3の時にイヤホンアンテナに切り替わる。最初はこのことが分からなかったのだが、ネットで回路図が見つかり判明した。回路図を載せる。例によって右クリックで「新しいタブで画像を開く」で大きな画像を見られる。なお、回路図にはL1を10μHと書いてあるのだが、基盤には100μHと書かれており、データシートが見つからないのでどちらが正しいのか分からず、とりあえず入っていた100μHを付けた。(今日見てみたらC5=100pFになっていますが、実物は33pFですね。)なお、ネット情報では100nHが正しいと言う情報もあるが、確かにFMと言う周波数帯から考えるとμHと言う単位は大きすぎるような気がする。完成した写真は下の通り。感度は低いが音はそれなりに良い。先に紹介したFMラジオがモノラルなのにこれはステレオ。このHex3653と言うラジオICは外付け部品が全くと言えるほど必要なく、クリスタルの発振回路さえ、(通常のICは22~27pFのセラミックコンデンサーがいるのに)外付け部品がいらない。音声出力も電解コンデンサーでアース側を切る(イヤホンアンテナとして使う為に必要)だけでイヤホンが鳴らせる。とても便利で優秀なラジオICだと思う。それとネットを検索していてHex3653は「ステレオにならない」と書いている人がいるけど、それは多分誤解で、中国のラジオICの出力は日本の昔のラジオの出力とは違い、イヤホンアンテナ前提なので、イヤホンのアースラインが高周波ラインで、電源ラインのアースと独立していますから、(高周波ラインと電源のGNDが一緒ならアンテナとアースがショートしてアンテナにならない)イヤホンのアースは電源ラインのアースと100μHのコンデンサーで直流的には切れています。つまり昔の日本のイヤホンはアンプが真空管のプッシュプル増幅器からスタートしたので、L出力の-とR出力の-を併せてGNDとしてLとRはアースを挟んで対称となり、(L+R)と(L-R)の和から2Lを、差から2Rを作りますが、中国のイヤホン出力はイヤホンアンテナを前提としてアースをアンテナにしており、L出力の-とR出力の+を併せてGND(電源のGNDとは別で独立)としているので、たとえばL出力の+とR出力の-からL+Rが取り出せて、イヤホンの構成次第でステレオにしたりモノにしたりしています。L+ L- R+ R- (ステレオL) (ステレオR)L+とR-を使い、L-とR+を直結するとL+Rつまりモノラル出力がステレオにならない人は、このことを知らないからでしょう。中国製のラジオICのデータシートを見ると、多くのICは高周波用のGNDと低周波用のGNDが別端子になっているのはこれが主因です。上の回路図で外付けアンプへの出力(Bと書かれた5端子)につながる、L出力につながる100μFのコンデンサーとR出力につながる100μFのコンデンサーの向きと接続の仕方をみれば簡単に分かるのですが、この回路図が出回っていないから誤解しても仕方ありません。ICの高周波用GND(2,3番端子)は低周波用GND(11番端子)にはつながってません。またイヤホンの通常の(日本の)アースがGNDではなくsleeveと書いてあるので分かります。<さらに後日追記>L1が100nHだと言う情報源を見つけた。下のICがHex3653の同等品(どちらがオリジナルかは分からないが)らしい。こちらはちゃんとデータシートがあり、モデル回路が載っていた。まぁ、どちらでも動作するそうである。でもせっかくだから実験してみることにした。回路を見るとDSP用ICの入力の高周波増幅回路の前置同調回路みたいなので、スーパーヘテロダイン方式のラジオで言えばバリコンの代わりに固定コンデンサーを使った高周波同調回路、極端に言えば大まかなバンドパスフイルターみたいな物(厳密には違います。)なので中心周波数はF=1/2π√(100nHX33pF)=約87.6MHz76MHz~90MHzのFMラジオならばちょうど良いと思う。(上の回路図のように25pFならば100.6MHzで87.5MHz~108MHzにちょうど良い。)なので、100nHのコイルを巻いてみた。L=k(長岡係数)Xμ0(真空の透磁率)Xπ(円周率)XaXa(コイル半径の2乗) XnXn(巻数の2乗)/b(コイルの長さ)なので、手元に有ったミニドライバーの柄の部分(直径約6mm)にΦ0.4mmのスズメッキ線を12回巻いてみた。L=0.9561X(4XπX10-7)X1XπX0.0032X0.0032X12X12/0.015 =110nHなお、コイルの長さは密着巻きならば本当は0.0048mなんだけど僕の実力だとスズメッキ線の弾力と半田付けの際の狭さから無理だなと判断して3倍の0.015mつまり1.5cmで計算した。出来上がりはこんな感じ。FMNHK=82.5MHzを受信して音が最大になるように調整したら、計算とは違って幅が2cm位になっちゃった。恐らくコンデンサーは33pFなんだけどストレー容量なんかが10~20pF位有るので、写真には100nHと書いてあるが、調整後のインダクタンスは100nHではなくて70nH位が正解だったのかも?だったら8回巻き位でいいのかも?(後日訂正)5回か6回が良いようです。何か放送局を捕まえたら、捕まえた状態でコイルを開け閉めすると結構音量が変わります。現在6回巻きにしていますが、FM東京(80.0MHz)とNHKFM(82.5MHz)及びFM横浜(84.7MHz)が入ります。そして今日ベランダで聞いていたらラジオ日本(92.4MHz)が入った!ワイドFM始めたんだ!うん?じゃぁ何で日本放送(93.0MHz)や文化放送(91.6MHz)がはいらないんだ?シーク途中で無音の所がありますが、電波が弱い放送局に捕まっているのかも?その場合、素直に再度シークボタンを押すと次の放送局に移ります。FM東京に合わせているので、上の方が入らないのかも?
August 28, 2021
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古事記の神話はどこまでが神話でどこまでが真実の出来事の暗喩であろうか?よく古事記の神話の元を他国の神話や自然現象に求めることがあるが、それこそ妄想ではないだろうか。いやしくも日本あるいは倭国の、また皇祖の歴史を書く時に、皇族や天皇といった偉い人のチェックは無いのだろうか?僕は編纂する時に偉い人はチェックすると思うし、よほどのバカでなければ胡散臭いことは書かせないと思う。「これはあのことを書いているのだな」と、その暗喩の元を知っているので許可すると思う。今の人は昔の人をなめすぎていると思う。例えば昔の人は「祟りをおそれていた」と言うが、もちろん本当に信じていたバカもいただろうが、頭の良い奴はそれをどう利用するか、その事により民衆はどう動くか、ライバルはどう考えるか、それを脳みそを全部動かして考えて行動していたと思う。<後日追記>よく株の銘柄が当たると言う占い師なんかまさにそうだと思う。株価のチャートをパソコンの画面で見て、この株は上がるぞなんて言うのは「祟り信者」と同じ。よく当たる占い師は独自の情報網(主に業界やその会社の社員)からの情報をいち早く入手し、的確な分析による結果を「お稲荷様のお告げによるとこの株が上がる」と言っているのである。だったら自分で売買すれば良いのにと思うだろうけど、それをやったら元になっているのが「インサイダー情報」なので御縄になるのでできないのだ。だからそれを十分承知している顧客から占い(本当は確実な情報提供)の報酬をもらうのだ。もちろん、めざましテレビの占いなんかは多人数に対する「当たるも八卦」なんだけど。金メダルを噛んで、それをみんなはどう考えて、どういう結果が起こるか考えない市長とは違う、結果によっては命に係わる問題だからである。少なくとも天皇や皇族の存在意義に関わる書を作るのだから真剣に考えると思う。<後日追記>雷による「祟り」はまだ火薬が日本に伝わってくる前の話ならば、政敵の屋敷を火薬で吹き飛ばして火災にして、それを雷だと言うことにしていたのではないか?政敵は死ぬし、生き残った者も恐れおののくので一石二鳥である。木造平屋建ての家屋に落雷などあり得るけど、何か火薬で爆破したと言うのが本当のような気がする。日本人が火薬を見たのは元寇の頃が最初らしいけどもっと前の時代にも有ったのではないか?菅原道真の祟りで死んだ藤原氏の面々も毒殺で、殺したのは藤原氏の他の派閥の人間で、菅原道真のせいにして政敵を殺しただけなのではないだろうか?であれば、神話には何らかの目的かもしくは真実が有るのではないだろうか?魏志倭人伝の倭国や卑弥呼が後世のヤマト王権につながるのであれば、それは形を変えて神話の中に潜んでおり、神話の解析により魏志倭人伝と古事記や日本書紀のつながりが分かると思うので、研究(妄想かも?)してみる。一例として面白いのは「稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)」かなと思う。出だしで大国主命は兄達と一緒に、兄達の荷物を担いで、因幡の矢上姫の元へ向かう。これはいわゆるプロローグで大国主命の立場や状況を表している。王族なのだから荷物は家来たちに持たせるはずで、恐らく荷物は矢上姫への贈り物なのだから、そんな大事な物はライバルには持たせない。夜中に寝ている際にいたずらされて、自分に不利になったら大変なのだから。後から大国主命を蹴飛ばして償わせても、他の兄弟に負けては意味がない。兄弟は大国主だけではないのだから。この場面は事実ではなく、大国主命に同情を集め、彼が弱い立場と説明しているだけである。進んで行くと裸に剥かれたウサギがいる。兄達はウソの治療法を教えてウサギをもっと痛めつけ、大国主命は正しい治療法を教えてウサギを助け、矢上姫はあなたを選ぶと言われるのだが、このことは出雲族が医学的な知識を持って他種族の信頼を得ていたことを示している。またウサギが人間だったらどうだろう?実はウサギは因幡の民で、ワニが象徴する敵国の捕虜になり大国主命が助けたのだったら?ウサギが言う「矢上姫はあなたを選ぶ」と言うのが出雲と因幡の同盟を意味するのでは?大国主命と兄達が矢上姫を求めて行くのはアイドルと握手しに行くのではない。政略結婚が目的で、あわよくば美人ならもっと良しなのである。ならば上に書いたようにウサギやワニが人間の暗喩だったら神話ではなく史実では?実は宇佐八幡宮に伝わる伝説には似た話がある。(それが真実かは僕も分からない。)宇佐(菟狭)氏は記紀にみえる神武朝の菟狭津彦命(うさつひこのみこと)を家祖とし、高御産巣日神の子孫である。今では神社庁にだまされて神社庁筋の人間に奪われてしまったが、元の大宮司の到津家は神代から続く名門である。(神社庁は到津家の当主が女だからと難癖をつけて宮司の座から引きずり下ろし、 神社庁総長が前総務部長を送り込むと言う罰当たりなことをやったらしい。 色々と彼女の行動をあげつらい非難するが、まぁ彼女もバカなんだけど、 そもそも女は宮司になれないとは誰が決めたのか? 天照大御神も八幡神もそんなことは言っていないし、卑弥呼は女ではないのか? 何よりも宇佐八幡宮の禰宜は降神秘儀(託宣を行う為に神を降ろすこと)の為に、 禰宜は女性が担当しており、有名な弓削道鏡の事件の際に和気清麻呂を助けたのは、 辛島勝与曽女と言う正6位上の位にあった禰宜で、 主神司(現代の大宮司にあたる)の大神田麻呂よりも偉かったと 弘仁12年の「太政官符」に書かれているそうだ。 また、東大寺大仏が完成した際にも八幡宮禰宜大神杜女(こそめ)が上京しており、 宇佐八幡宮に関しては女性が禰宜として神事に携わって来た経緯が有る。 近年の神社庁は政治に走り横暴で黒いうわさが相次ぎ、統理と総長は仲が悪く、 おかげで元々神社庁に属さない出雲大社や靖国神社及び明治神宮をはじめ、 日光東照宮や伏見稲荷大社や富岡八幡宮及び金毘羅宮等も単立神社として脱退している。 宇佐神宮解雇裁判一審判決が確定 問題の“根っこ”は神社本庁 | 週刊金曜日オンライン (kinyobi.co.jp) 自浄.jp (jijyo.jp) を見ると神社庁の横暴が分かる。 近年の九州の大雨や地震災害はこれを怒った八幡神の祟りではないだろうか>)稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)は菟狭津彦命の子孫の菟狭(うさ)族ではないだろうか?そしてワニはヤマト王権とも深い関わりのある和爾(わに)族ではないだろうか?和爾氏と言えばその本拠地は大和国添上郡和邇(現天理市和爾町・櫟本町付近)と添下郡だが、琵琶湖の大津市付近に「和邇」と言う駅が有るので分かるように、かっては日本海側から琵琶湖を利用して近畿に進出してきた種族であり、Wikiを見ると、2世紀頃、日本海側から畿内に進出した日の御子信仰または太陽信仰をもつ朝鮮系鍛冶集団とする説や、漁労・航海術に優れた海人族であったとする説がある。と書かれている。また、和珥氏族の上祖は天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の子とされる和邇日子押人命であったと考えられる。とも書かれているので、孝安天皇 - 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)や神功皇后 - 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)など「たらし」が名前に付く人たちに関係があるのではと思う。大国主命の時代には気多(因幡国気多郡)あたりにいたのではなかろうか?その時の菟狭(うさ)族との争いが「稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)」の神話になった?実は神話の「稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)」の地である備北地方では、日本の中でも珍しい「わにの刺し身」を食べる習慣がある。そして日本では他に「わにの刺し身」を食べるのは、山幸彦の奥さんである豊玉毘売命のわにへの変身のエピソードがある宮崎だけなのだ。両者は隣接して勢力争いをしていたが、出雲族が仲介してともに出雲族と同盟した?それが「稻羽之素菟」の神話の元になったのではなかろうか?現にいる菟狭(うさ)族と和爾(わに)族のことで、何らかの事情でストレートに書けなかったのでは?それは多分神功皇后と応神天皇及び継体天皇が関わっているからだと思う。この3人は神宮皇后のお名前気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)に「たらし」があり、応神天皇が宇佐八幡宮の「八幡神」であり、継体天皇は応神天皇の5世孫であり、宇佐と和邇両方の因子を持っているからである。和邇氏らしき一族のことは古事記の他の部分でもたくさん出てくる。まず、有名な山幸彦(火遠理命)の奥さんである豊玉毘売命のエピソードである。綿津見大神の元から帰った火遠理命のもとに身ごもった豊玉毘売命が来て、出産の時に「八尋和邇」となって子である神武天皇の父となるウガヤフキアエズを生む。ワニが人間の子を産むわけがないから綿津見大神と娘の豊玉毘売命は和邇(わに)族である。もう一方の菟狭(うさ)族も面白い妄想がある。元は中国の玄菟郡から新羅を経由して日本へやって来た一族ではないだろうか?なので古事記では「素菟」なのである。「白兎」と書いたものは無い。後世の学者の創作?素人とは平安時代に芸のできないダメ芸人がおしろいを塗ったのを揶揄したのが語源らしいが、「素」が白を表す字なのは昔から有ったのだろう。また「玄」が中国では赤みをともなった黒を表すのも相当に古いらしいので、古事記編纂の時代には有ったのかもしれない。(よく「白黒」は囲碁から来ていると言われるが、 素人(しろうと)と言う言葉は字はともかく言葉は平安時代から有るし、 「玄(くろ)」と言う使い方は老荘の時代から有る(玄学の玄は暗いの意味)。)なので菟狭(うさ)族が玄菟郡から来たのを知っている知識人は「玄菟(くろうさぎ)」と陰口をたたいていたのかもしれない。陰口をストレートには書けない和邇族サイドは「素菟」と言っていたのかも?うん?中国の玄菟郡から新羅を経由して日本へやって来た一族?そう言えば宇佐神宮に近い日田から魏の曹操の鏡に匹敵すると言われた鉄鏡の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさく がんしゅ りゅうもん てっきょう)が有名だな。この鏡である。三角縁神獣鏡など足元にも及ばない技術と芸術性である。(原本はさびているので写真は複製)もしかしたら滅びた中国の王朝の子孫が玄菟郡から新羅を経由して日本へやって来たのかな?その王朝の子孫の鏡だったのか。なら魏の曹操の鏡に匹敵する鏡を持っていてもおかしくない。卑弥呼の鏡ではなく、中国の王朝の子孫の鏡?ウサギの言う「淤岐ノ島(おきのしま)」とは新羅と九州の間の「沖ノ島」だったのか。滅びた中国の王朝?時期的に漢じゃないよな。じゃぁ秦?もしかして秦氏なのか?徐福は実は不老不死の薬ではなく、いざと言う時の避難場所を日本に造りに来ていたのか?<後日追記>いくら妄想だからと言っても誤解を招く話になってはいけないので追記。歴史上秦氏が日本に来たのは仁徳天皇の時代で、仁徳天皇が彼らに姓を与えている。新撰姓氏録には秦氏が仁徳天皇より姓を賜った際には「ハタ」のあて字として「波多」を使い、また秦氏の祖先の「弓月王」は新撰姓氏録では「融通王」と書かれています。ただ、秦は始皇帝の中華統一(紀元前221年)後のわずか15年後に滅亡しています。もし秦氏が秦の子孫なら700年の間どこに隠れていた?と思うのです。なので、仁徳天皇の時代よりも前に一部は日本に来て隠れた国を作っており、もう中国には居られなくなった「弓月王」の時代に主力も渡って来たのかなと思うのです。Wikiには「新撰姓氏録」によれば、応神14年(283年)に大陸から百済を経て日本に帰化した氏族でありと書いていますが、八幡神や稲荷社を作ったのも秦氏です。ただ、僕は百済を経てと言うのは違うと思うのです。283年と言えば卑弥呼の時代より40年くらい後です。つまり経路に後漢や魏の戦力がおり、大きな民族の移動はできないからです。だから秦の滅亡時に僻地の玄菟郡付近に逃れて隠れていたのかも?前漢により玄菟郡が設置されたのが紀元前137年つまり秦滅亡から70年くらい後です。でも。僻地のせいなのか当時の玄菟郡付近のことは良く分かっていません。その後も僻地なので中国の各王朝の攻めは届かず、隣の地に公孫氏成立頃に危なくなって、公孫氏や百済等の手の届きにくい新羅側を通って日本へ来たのだと思います。後漢書巻85辰韓伝や三国志魏書巻30辰韓伝によれば、新羅の元となった「斯蘆(上古音でしら)」は秦の始皇帝の圧政から逃れて来た秦人の国で、Wikiを見ても辰韓伝には「辰韓」を「秦韓」と書いてあるなぁ。秦人はあえて王とはならず、馬韓人を主(あるじ)としていたらしい。そう言えば日本に来た秦氏も表面には出ずに天皇を支える一族としてるみたいだな。土木・建築や医療技術及び農耕技術等たくさん日本人に教えているのに、韓国(新羅)に居た頃からそうだったのか?後漢書ではこう書いている。「耆老自言秦之亡人,避苦役,適韓國,馬韓割其東界地與之。 其名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴,相呼為徒,有似秦語,故或名之為秦韓」三国志ではこう書いている。「辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。 有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴」馬韓の言葉ではなく、秦の言葉に似ていたそうである。魏志倭人伝の邪馬台国や卑弥呼の記述を信じるのであれば、秦韓の記述も信じるべきだろう。後日追記終わり。Wikiによれば秦氏は日本に来て「豊前」の国に入り、その後は中央政権へ進出していった。大和国のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、摂津国豊嶋郡、針間国(現在の兵庫県)、阿波国、伊予国など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。と書いてあるので、「稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)」の妄想に合うのです。豊前は景行天皇がしばらくおられて仮の都を作り、今でも「京都郡」が有るし、宇佐神宮のあたりは元は豊前で、前の大宮司である到津氏は豊前小倉藩におられた。いやもっと妄想するならば、豊前から範囲を広げて熊本まで来ており、魏志倭人伝の邪馬台国と戦う狗奴国は彼らのことで、「稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)」とは宮崎の邪馬台国(わに族)と豊前の狗奴国(うさ族)の戦いで、出雲の国が両国の戦いを治めたと言うことじゃないだろうか?おーぉ!魏志倭人伝と古事記がつながった!いやぁ、妄想は楽しい。<さらに後日追記>上記の秦の子孫=秦氏が豊前と言うか鉄鏡の見つかった日田の辺りに居たと言うのは、実はある程度根拠が有るので、妄想とは言い切れないかもしれない。隋書巻81に倭国伝が有り、その中で倭国の竹斯(筑紫)の東に秦王国が有り、そこからさらに十数国行くと海岸に出ると書いている。其の国の人間は華夏(中国の事)に同じ。なので夷州(台湾のこと)なのかと疑うもそれを明らかにすることはできないとも書いている。つまり筑紫の東とあるので大分県で、海まで十余国有ると言うので内陸部、日田の辺りである。ここに日本人でも朝鮮人でもない「中国人」の集落が有ったと言うことなのだ。鉄鏡の発見と併せると日田には秦王国が有ったと言っても良いのではないだろうか?ただ、この鉄鏡については考古学のタブーなのか、(何か都合の悪いことがばれるから?)国宝にもなっているのに誰も解析していないのだ。宇佐神宮をはじめ全国の八幡宮では8月に放生会を行う。他の八幡宮では亀や鳥を放ち生き物を大事にする行事とされるが、宇佐神宮だけは特別で、放生会の根源であるとする銅鏡奉上儀礼(田川郡の採銅所の元宮八幡宮の宮柱が、銅鏡を御正躰として宇佐宮に奉納する儀礼)が行われる。もしかして、元は「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」で儀礼を行っていたのが起源ではないだろうか?伊勢神宮でも3種の神器で同じようなことをするなぁ。秦氏が豊前に根拠を置いたと言うのは有名な話で、説によっては山背に根拠を置いてから豊前に進出したと言う説もあるが、僕は夕月王以前から秦氏は日本に来ており、その中心は北九州から豊前であり、夕月王はそこに居た人達を頼って日本に渡って来たのではないだろうか?また、上に書いた宇佐八幡宮の放生会のしきたりで銅鏡を宇佐八幡宮に収めるのは、奈良の大仏の建設にも関わっているのではないかと思っている。広隆寺を建てた秦河勝は聖武天皇に仕えたとされているが、大仏の材料となった銅の産地は山口県の長登銅山が有名であるが、実は上に書かれた田川郡の採銅所(香春岳)の銅も多く使われているのではないかと思う。豊前の秦氏が採掘した銅が秦河勝により聖武天皇にささげられたのではないだろうか。それで当時の宇佐八幡宮の巫女(後に禰宜)の大神守女は皇族でもないのに外従五位になり、後に従四位下になり孝謙天皇と同じ紫輿に乗った。(ただ、後に弓削道鏡一派により失脚)日本にまだ有力な銅山が少ない(足尾銅山は16世紀の発見)時代で、当時はまだ中国や朝鮮からの輸入が主だった時代なので、この銅山や長登銅山は大事だったのである。それでこの放生会の行事は当時のこと(宇佐八幡宮が銅の生産を仕切っていた)を伝える為に、現在でも宇佐八幡宮に銅鏡を奉納するお祭りなのだと思う。誰も知らない事実を調べるのは楽しいなぁ。
August 13, 2021
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2021年5月5日の「横浜市金沢区の富岡八幡宮は古墳だよ!(その10)夏島付近の調査」及び2020年5月30日の「横浜市金沢区の富岡八幡宮は古墳だよ!(その4)金沢古墳群2」に書いた「古墳らしき山」に関して調査しているが、横須賀市が出している本「古老が語るふるさとの歴史(北部編)」を読んで、いくつかの謎の答えが判明した。まず下写真の「やぐら」であるが、以前は付近にはもっとたくさんのやぐらがあったらしい。しかし隣接する岡村製作所の工場やその他の施設ができた時に、そこに有った18か所のやぐらは全部壊されてしまったのだそうだ。ただ、道を隔てた反対側のこのやぐらだけは残ったらしい。そして、もしかするとこのやぐらは源範頼の伝説において彼が隠れた裏山の洞窟なのかもしれない。<後日追記>鈴木かほるさんの本を見たら、源範頼の伝説の洞窟はやはり岡村製作所の方らしい。つまりもう今は無い。残念!また、岡村製作所の敷地の造成工事中に壺型土器とともに、滑石製勾玉・有孔円盤・ 剱形模造品・臼玉などが出土したそうだ。(追浜地域運営協議会の歴史年表)え?だったら何で工事を中止して調査をしなかったの?つまり「洞窟」はただの穴ではなく遺跡だったんだと思う。岡村製作所はひどい話だと思う。この付近の地名である追浜は「乙浜」から来ていると言う説もあるが、地元では、源範頼を追いかけてきた梶原の手の者である山伏を範頼を匿っていた須田平太・平次の兄弟がこの浜で追手をナタで追い払ったことから追手を「追う浜」と言うことで「追浜」と言うようになったと言う言い伝えがある。通説では源範頼は伊豆の修善寺で誅殺されたことになっているが、ここ追浜の地元では、彼は密かに逃げ延びてここまで来ていたことになっている。須田平太と平次は浦郷に年老いた母と住んでいたが、領主の三浦家に魚介類を納めるのを生業としていた。ある日の夕方平次は瀬ケ崎の薬師寺の堂守の娘のこぬさが病気の父の為に手織りの布を売って薬代にしていたのを買って助けたのだが、そのあと三浦家に届ける鷹のひなをとらえて帰る途中に梶原家の者から難癖をつけられてそのひなを奪われそうになった時に、蒲の冠者(源範頼)に助けられた。その後、ささいなことから源頼朝の怒りをかって伊豆の修善寺に流されていた源範頼が梶原景時に殺されそうになっていたのを2人は助け榎戸の港まで連れて帰って自宅へ匿った。しばらくすると榎戸の里に梶原の手の山伏達が現れて源範頼を探し始めたので昼は裏山の洞窟に範頼を隠し夜になると連れて帰るようにしていた。しかし追手はついにかぎつけて2人の母を問い詰めて危害を加えたので、平太は腰の大ナタで殺してしまった。源範頼は三浦家にも迷惑がかかるといけないと兄弟に短刀と蒲の姓を与え、瀬ケ崎の薬師堂で割腹されました。それを祀ったのが当時瀬ケ崎に有った太寧寺である。このことから須田兄弟が住んでいた地域を「鉈切」と呼ぶようになり、この付近には「蒲」の姓を名乗る人が多いのだそうです。なお、今では「鉈切」と書くけれど、かっては「鉞切」と書いていたらしく、正確には「鉈(なた)」ではなく、当時は「鉞(まさかり)」も「なた」と呼んでいたようです。範頼が隠れたと言うやぐらも戦前までは残っていたのが、工業団地の造成の為に一帯の丘陵は削られて無くなったそうなのだが、実は事情を知る地元の人達が1つだけ残していて、このやぐら跡がそうなのではないかと思う。何故なら通常のやぐらに比べて奥行きが深く洞窟のようで、中も広いので隠れるのには格好の場所だからだ。でこのやぐらの上にあるのが古い古墳なのだと思う。下の写真がこの洞窟のある山で古墳らしき山。古墳らしき山の右側のくびれの部分にこの洞窟(やぐらの跡?)はある。この辺りの古い地図を下に示す。古い地名や等高線が残っている。夏島や野島は等高線を見るとやっぱり古墳らしい。地図の下の方の神明社の下にこのやぐらは有り、山はgoogleMapで見ると古墳の形だ。なお、有名な「鉈切遺跡」はこの古い地図では海岸線(砂浜)で、この辺は現在日産スタジアム」と書かれた付近で、追浜地域運営協議会の歴史年表によれば、「砂丘上に破砕泥 岩で大小の区画が設けられ、内区には牛骨埋納壙、イルカ推骨の 埋置、土器の一括出土といった特異な状況が遺されている。」と書かれており、層の状況を調べると縄文時代から8世紀位までの色々な遺物が出てくるらしい。祭祀遺跡としては当時日本最古のもので、牛骨埋納壙は6~7世紀にかけての雨乞いの儀式である「河伯の儀」を行った跡とみられ、日本書紀の皇極天皇の時代、干ばつが続いた為に民衆が牛馬を殺して神に祀ったと言う記述を裏付ける貴重なものである。つまり、長い期間この辺を住処とした一族が生活をしていたと言うことで、鈴木かほるさんの言う、三浦氏の祖である平忠光の奥さんのお父さん青雲介の一族は、ここの出身だったんだと思う。2つ目に判明したのは、その源範頼が割腹した場所の近くに有るジープ山だ。上の地図を見ると、今は金沢区の片吹にある太寧寺は海軍の飛行場の拡張により移転する前はここに有ったと分かる。同時に源範頼の墓もここから片吹に移したらしい。そしてその近くに有る古墳らしき山は前回調査した時には名前も由来も分からなかったのだが、地元では今回ジープ山と呼ばれていることが分かった。僕は削られて残念だと嘆いたが、削った犯人も分かった。海軍だ。飛行場を拡張する際にこの古墳を削って埋め立てに使ったらしい。付近は海軍の用地となり、戦後も国有地として使われ現在は公務員住宅とその前の公園になっている。ジープ山も大きな地図で見ると削られる前は古墳らしい等高線をしている。偶然削られる前の等高線が分かる地図を見つけた。さすがに1000年以上経つので削られる前でも変形しているが、古墳と分かる等高線である。現在でも上空から撮影すると古墳の形状が残っている。なお、左の既に削られて平地になっている方は「室の木遺跡」と呼ばれていたらしい。凝灰岩で作られた切石積横穴式石室が見つかり、ここからは唐草文ハート形の杏葉を含め馬具が多く出土し、当時は馬具の出た古墳として有名だったらしい。立地上(古い港の傍なので)房総への海上交通に重要な位置を占める人だったのだろう。とすると右上のジープ山が室の木遺跡の主の先祖(ジープ山の方が古そう)に違いない。でも海軍に破壊され、その後宅地造成に際して破壊されたらしい。それにしても、こんな近くに複数の古墳らしきものがあるのは何故だろうか?三浦氏は前九年の役で手柄を立てて相模国三浦郷を与えられた三浦為通を祖とするが、彼は元は村岡為通であったのを地名である三浦をとって三浦為通と名乗るようになったらしい。(一説では為通の祖父の平(村岡)良文が平将門の乱で将門に与して常陸国信太嶋へ配流となり、後に赦されて三浦郡に着し、在地土豪の青雲介の婿となり、三浦郡・安房郡を押領し、「権中将 三浦忠光」と称し、三浦一族の祖となったと言う説もある。)千葉氏や上総氏等もそうで関東に下った桓武平氏の子孫は皆地元の地名を一族の名にしたらしい。なお、三浦は日本書紀では「御浦」とされ持統天皇6年5月に元号「朱鳥」の元になった赤いカラスのヒナを捕らえた地として出てくる。ヤマトタケルの伝説も有り何か神聖な土地だったのかもしれない。横須賀の歴史研究の第一人者の鈴木かほるさんによれば、「源平闘淨録」では忠光こそが三浦氏の祖で、「前太平記」を見ると前九年の役に既に「三浦太郎公義」を名乗る相模武士がおり、これが「尊卑文脈」における「為次」であると彼女は推察している。それは尊卑文脈、源平闘諍録等の様々な文書を見ても、公義、為名、為通の子が皆「為次」で一致しているからだそうである。彼女の研究は深い。「常陸大掾伝記」や「千学集抜粋」にも忠光を三浦氏の祖とする記述があるらしい。上記の土豪の青雲介が居たのがこの辺だったらしい。つまり室の木古墳から出た馬具は青雲介一族の物だったのであり、彼らは海の一族でここから房総へ渡るあるいは古くは漁業の安全の為の儀式を行う人達だった。つまり三浦氏の祖となる平(村岡)忠光の嫁さんの生家の祖先がこの辺の古墳の主なんだと思う。付近には鉈切遺跡や夏島貝塚・野島貝塚が有り、縄文時代から人が住んでおり、また、桓武天皇の孫娘がこの辺の土地の管理者として下されたと言う記録も有るらしいので、その子孫が勢力を伸ばしていたんだと思う。最後に分かったのは、そんなに多くの古墳が有って色々と伝説が残っているのに、横浜市の歴史の中ではこの辺が空白で何も無かったことになっているのは何故かであるが、何も無かったのではなく、海軍の基地や施設が有り秘密だったことと、海軍の施設や後の京浜急行や国道16号線と国鉄横須賀線及び横浜市の施設や埋め立てにより壊されて調査不可能なまでに破壊しつくされたからだろう。そして破壊に関わった人や機関により都合が悪いと隠されてしまったのだと思う。でも、少しでも残っていて良かった。僕の老後の楽しみになったから。また富岡八幡宮についても、何回か書いたが、結論としては古墳で、等高線を見ると明らかに古墳の形状をしている。さすがに1000年以上もたつので高さは変わり、あちこちが削れているけれども。どこの八幡宮もそうであるが、地元の神様が仏教の伝来の際に生き残り策として、「八幡神」として名前を隠すことにより神社として残ったのだと思う。上の写真を見ると墳墓部分が八幡宮により削られているが、ここに祀られていた神様は、富岡八幡宮の奥の殿に「八幡宮」として祀られているのだと思う。そして元々は海の民の神(種族の王)だったので「祇園舟」の祭事に表に出てきて、写真のように禰宜さんに扉を開けてもらって、お祀りの儀式をしてもらっているのだと思う。祇園舟の祭祀の時にそう思った。<後日追記>実は八幡宮の総本山である九州の宇佐八幡宮もそうだと想像する人達がいる。九州の宇佐八幡宮も古墳の上に立てられているらしい。僕はまだ自分で調査していないので、それが正しいのか誤りなのかは断定できないが、下の宇佐八幡宮を上空から見ると確かにそのような気もする。え?箸墓よりも大きくて古い前方後円墳が有るのかって?古事記や日本書紀が正しいのなら、また宇佐八幡宮の御由緒書きが正しいならば、(宇佐八幡宮のホームページにはこう書かれている。 宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、 神代に比売大神が宇佐嶋にご降臨されたと『日本書紀』に記されています。 比売大神様は八幡さまが現われる以前の古い神、地主神として祀られ崇敬されてきました。 八幡神が祀られた8年後の733年(天平5年)に神託により二之御殿が造立され、 宇佐の国造は、比売大神をお祀りしました。)箸墓に祀られている第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の前に神武天皇以下7代がおられ、宇佐八男宮の由緒書きに記されている八幡神以前に祀られていたとされる比売大神様の墓で、比売大神様の古墳が箸墓等の前方後円墳の原型だった可能性もあるのであるから。Wikiで前方後円墳の起源を見ると、円墳とそれに付随する祭祀施設から発展した説と各地方政権の墳墓の糾合による説があり、後者が正しいならば、(神武東征が本当にあったならば)比売大神様の古墳は弥生時代の神武東征以前の墓で箸墓の原型かもしれないし、宇佐八幡宮の御由書きにあるように、その古墳の上に宇佐八幡宮を建てたのかもしれない。僕が子供の頃に初めて古墳を見た(学校帰りに土器:須恵器をとりに行った)近所の古墳も、やはり古墳の傍に篠崎八幡宮が有った。ここも例によって高速道路の工事で壊されてからあわてて調査したのだが、公共事業の場合はさすがに一時工事中止するので、僕等も見に行った。当然立入禁止なんだけどガキンチョは裏から忍び込むから立札なんか無視。こうしてみると「八幡宮」と言うのは特定の神様の名前では無くて、地元に古くからあった御先祖様の古墳を祀る為に仏教から守る一つの手段だったのではと思う。仏教が入って来た時に須佐之男命や大山祇命を祀る大きな古い神社は別として、地元の御先祖を祀る神社(当時は当然「神社」とは呼ばれてはいなかったけど)は生き延びる為、姿形を変えて「八幡神」と言う事にして残したのだろう。また、今回の調査で分かったが、実はこの富岡八幡宮の裏山は横浜市の文化財としては認められている。とは言っても古墳ではなく、社叢林が天然記念物として認められているのだけれども、とにかく保護されているのは良い。それは「横浜市行政地図情報提供システム」で確認できる。横浜市行政地図情報提供システム | 利用許諾 (yokohama.lg.jp)を開き、下に有る同意するボタンを押すと地図による検索ができる。また地図上の「埋蔵文化財包蔵地」をクリックすると埋蔵物のデータが表示される。面白い。これだけで一日がつぶれる。年寄り向き。最後に2021年4月10日の「横浜市金沢区の富岡八幡宮は古墳だよ!(その8)古墳と思われる場所の調査」で調査した下の写真の古墳であるが、ここも等高線を見ると明らかに古墳である。場所が特定されると迷惑がかかるかもしれないので名前等は赤で消したが、見事な古墳の形状が分かると思う。1000年以上たつのでさすがに崩れたりしてはいるが。ただ、ここが不思議なのは円墳部の通常の埋葬部分ではなく方墳部分に石室が有ることだ。でも、これは複数の人を祀った古墳では良く有ることで、今城塚古墳を調査しに行った時に見た別の古墳でもそうだったので、1つの古墳に複数の人(家族や子孫?)を祀る時には、1つの石室の中に同時に祀る場合(持統天皇と天武天皇の御陵がそう。藤ノ木古墳も。九州の装飾古墳の王塚古墳は1室に4人祀られていた。)と、同じ古墳ではあるが少し位置を変えて祀る(例えば子や孫ならば同じ石室にしない?大仙陵古墳:仁徳天皇陵はこちらで明治5年方墳部から石室が発見された)場合があり、それは両者の関係や時期により違ったのかもしれない。また「古老が語るふるさとの歴史(北部編)」のおかげで、この古墳の周囲の形状の不思議も、江戸時代や明治時代に石を削りだして売り出したせいだと分かった。この近くに鷹取山が有り、そこの石は品質が良いのでよく売れて、周辺の山から切り出した経緯があるらしい。そのせいで、この古墳の傍には切り出したお店(又は職人)の印が刻んである。江戸時代の絵図を見るとここには建物が有ったらしいので、江戸時代にはこの部分は山(古墳)が有り、写真の道は石を切り出した為にできた溝的な感じなんだと思う。つまり江戸時代には写真の一番上位まで石や土が有った?色々と調べると面白いなぁ。
August 5, 2021
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