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稗田阿礼と言う人については、「古事記の編纂者の一人」と言うことしかわかっていない。架空の人物で実在しなかったとさえ言われている。おかげで太安万侶もしばらく前までは実在性を疑われ、古事記自体まで偽書扱いされた時代があったくらいである。しかし1979年(昭和54年)に奈良県立橿原考古学研究所により、奈良市此瀬町の茶畑から太安万侶の墓が発見され、そこに残されていた木櫃内の骨や墓誌から太安万侶の実在が証明されて、古事記が偽書ではなかったことまでもが証明された。(但し「序」部分は彼の子孫の多氏が後年付け加えたと言う疑惑は残されている)であれば稗田阿礼も実在の人物だと思われるが、何故何もわかっていないのだろうか?Wikiによれば、彼女の実在性を疑う人達は、1.670年に施行された庚午年籍や、その20年後の庚寅年籍に記載がある畿内の人々は、 極僅かな割合の奴婢を除き、全ての者が「姓付きの氏」を持っていること。 しかし稗田阿禮は姓が不記載であり、その非実在性の問題へとつながる。 姓の不記載は阿禮が非実在か、阿禮の姓を序文の作者が知らなかったということになる。 また序文から、氏と姓の違いが曖昧になった後世のものであると見ることができる。2.「稗田阿禮」と「太朝臣安万侶」とが現実に『古事記』の編纂で接触していたのであれば、 安万侶が阿禮の姓を知らないことはまずありえないこと。 また自らは序文のおわりに「正五位上勳五等 太朝臣安萬侶」と書いていることからも 稗田阿礼について何も書いていないのは不自然である。3.例え暗記能力に優れた人物であったとしても、 姓のない庶民以下の者が王族や上級官人の傍近くに仕え、 その命を受けて重要な役割を果たせることは考えられないこと。 当然天武天皇が舎人という職に阿禮を登用することはない。 ましてや、その個人の能力を具体的に把握・評価し、 天皇自らが直接に命じて重要な国家の歴史書である帝紀と旧辞を誦唱させるようなことなど ありえない。4.また阿禮に如何なる学問の素養があって、 それがどのような環境で鍛えられたのかが不明であること。 「姓稗田、名阿禮」と言う書き方は漢文での名前表記のやり方であるから構わない という見解もあるが、姓のある日本においてこうした書き方はそぐわない。5.日本の重要文献の編纂関係者で、このような氏名表示をしている例は他見にない。と言うことらしいが、やっぱり学者先生の発想である。「自分はこんなことも知っているんだぞ」感が出すぎ。学者先生って「こんなことも知っているんだぞ」と言う知識重視で、「それがどんな意味があるか」を考える応用力が無い。こうあるべき(そぐわないとか)と考えるだけで、それがどのように(政治家達に)活用されて使われたかは考えない。ここに書かれた条件は「稗田阿礼が卑しい身分ではあるが天武天皇にとって大事な人」ならば、すべてクリアーされる。「舎人」とは天皇家が何かをする際に、本来なら出てこれない身分の低い人でも、役立たずの貴族子弟を飛び越えて力を発揮できる制度を作ろうとしたのではないだろうか?先進的で「皇親政治」を目指した天武天皇が、諸氏族(貴族)の影響を受けない能力の有る人間を登用する為に作った制度が舎人なんだと思う。特に古事記の編纂等は諸氏族(貴族)の祖先や功績に関わる記載が多いので、貴族の子弟なんかに任せたら嘘八百の歴史書になるのが目にみえているから、暗記能力に優れた人物で、姓のない庶民以下の者が王族や上級官人の傍近くに仕え、その命を受けて重要な役割を果たせる環境を作ったんだと思う。そのせいで、天武天皇の崩御後には、藤原氏等の諸氏族(貴族)が出しゃばってきて、古事記から重要な部分を削り自分達に都合良い解釈を新たに加えて日本書紀を作ったのだと思う。日本書紀には出雲関係の記述が減っているのが良い例である。つまり稗田阿礼の実在を疑う学者先生は、天武天皇が何故「皇親政治」を行ったのかが分かっていないので、姓が不確かな庶民を無理を承知で登用したのかが分かっていないのだと思う。稗田と言う姓から彼女は猿田彦命や天鈿女命の末裔のようだが、朝廷で巫女をやっていて天武天皇の目にとまったのではないだろうか?阿礼が名前とされているが、阿礼は巫女の呼称とされており、僕は逆に稗田阿礼以来巫女の呼称として阿礼が使われるようになったのではないかと思っている。先生方の言う「姓付きの氏」が無いのは身分が低いせいだろう。稗田阿礼は江戸時代の「山中村の権兵衛」と同じで「稗田家の阿礼ちゃん」的な感じの存在で、個人として扱われない低い身分だったのだろう。そう言う意味では実在はしたが実在に関するものの記録が無いのは当たり前なのかも?本題に戻り、そんな身分の低い女の子が何故「古事記の編纂」と言う大事業に必要だったのだろうか?いくつかの可能性を考えてみる。1.古事記の「序」にあるように、諸氏族に複数の(内容が微妙に違う)帝紀と旧辞が有り、 諸氏族(貴族)とのつながりが無く身軽で天武天皇の言うことさえ聞いていればよい、 中立的な彼女でなければ、諸氏族に余計な忖度が働かない内容で暗記できなかった。2.あるいは、元々帝紀と旧辞は文字に記されたものは無く、 祭祀時に儀式の場で唱えるものであり、 代々一族の代表者が暗記しているものを口伝で伝えるのが普通であり、 彼女はそれを伝えられる立場あるいは身近にそれを聞ける立場だった。3.帝紀と旧辞は蘇我蝦夷の屋敷が焼かれた際に船恵尺が救い出した国記同様に、 一応書物として書かれていた。 本来天皇家にあるはずの帝紀や旧辞が何故蘇我蝦夷の邸宅に有ったかと言う疑問はあるが、 これは日本書紀の推古28年に聖徳太子と蘇我馬子が天皇記と国記を録すとあるので、 置いてあったのだろう。 つまり中大兄皇子と中臣鎌足の乙巳の変は、 蘇我氏がやろうとしていた「元祖古事記=帝紀と旧辞」編纂事業を打ち砕くのも目的だった?4.帝紀と旧辞が書物だったのなら、 あるいは諸氏族の持っていた(内容がそれぞれ微妙に違う)帝紀と旧辞が書物ならば、 稗田阿礼が誦習する必要性が無く、太安万侶がそれを読んでまとめればよい? あるいは相応の地位の人達が集まってまとめればよいのでは? もしかして太安万侶が読めない「特殊な文字=蘇我氏に伝わる文字」で書かれていた?ここにポイントがあるのだと思う。稗田阿礼が実在しなかったと思う人がいるのは、帝紀と旧辞が書物として記録されていたのなら稗田阿礼はいなくても良かったと思うし、また暗唱すべきものだったならば、もっと地位の高い人あるいは朝廷で祭祀を司る別の氏族の子弟で良かったのではと思うから、稗田阿礼が何故必要だったのかが想像できないのではないだろうか?<後日追記>よく原文を読んでみたら、ちゃんと原文にそう書いてあるのを見つけた。僕の思った通り。原文の赤い枠の部分を見ると、「非常に惜しまれながら先紀(旧辞等)の誤った部分を正されました」とあり、青い枠の部分を見ると、「太安万侶は稗田阿礼がその正されたものを誦した所を選録するように命令されたので」とある。また、緑の枠内を見ると、「なるべく細部まで残さず記録しようと思ったが古い時代の今では使われなくなった言葉が多く、漢字で文章化するのは困難です。なので今の言葉に直すのではなく、訓(音=古い言葉)そのままで記述してみましたが、上手く訳せないところもありました。かといって古い言葉そのままでは長くなり、全部を記すのは大変です。なので、ある所では音・訓両方で書いたり、訓読みだけにしたりしました。言葉の解釈が簡単な部分はそのままで、難しい部分は注釈を付けました。」こう言う風に言い訳をしていますが、今までは単なる「言い訳」だと思っていましたが、元の先代旧辞が神代文字で記されており、その読み=暗唱した物も特殊な人=巫女しか読めないのなら、言い訳ではなく本当のことです。つまり蘇我氏が残した国記(天皇紀も有ったかも?)は「誤りが多かったと言うより天武天皇さえもよく読めなかった」ので、「多分こう言う意味だろう」と直しながら新たに稗田阿礼に読ませていたのです。そうなると、他の人には任せられず稗田阿礼は最重要な人物で、太安万侶も単純に記録するだけでは無かっただろうと思います。後日追記終わり。もう一歩進めて考えると彼女は「蘇我氏の行う祭祀」に使われていた巫女ではないだろうか?蘇我氏に関係ある祭祀に関わる氏族と言うと忌部氏があるが、稗田氏もそうなのではないだろうか?そのせいで彼女は蘇我氏に伝わる帝紀と旧辞を覚えていたのではないだろうか?あるいは蘇我蝦夷の館から救い出された國記も、蘇我氏に伝わる古代の文字で彼女にしか読めない物だったのではないだろうか?それゆえに古事記編纂には彼女が不可欠だったのだ。それで天武天皇は彼女が「物覚えが良い(覚えているのが彼女しかいない)」とか「賢い(高い唯一の識字能力を持つ)」と言い、彼女を舎人にして保護したのではないだろうか?だから彼女は通常の舎人と違うのではないだろうか?それ故に天武天皇が崩御された後は残念ながら彼女は殺されてしまい、「実在性が認められない」のはそのせいでは?つまり存在そのものが消された?そのせいで古事記編纂作業は30年間中断せざるを得なくなり、諸氏族の争いの落ち着いた和銅5年(712年)に稗田阿礼の意志を継いだ太安万侶が、「4か月で完成」して元明天皇に献上されたのではないだろうか?この推理だと稗田阿礼の実在性が薄い理由だけではなく、古事記編纂事業が中断された理由も説明できるな。元明天皇の時代に編纂事業が復活したのも、また諸氏族の力が復活し始めて「皇親政治」の危機を感じた天皇家の策略ではないだろうか?<後日追記>この推理だと稗田阿礼の実在性が薄い理由だけではなく、古事記編纂事業が中断された理由や、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)が崇神天皇と2人いる理由や、欠史八代の天皇がいる理由も説明できるな。蘇我氏が編纂しようとしていた元祖古事記(又は元祖日本書紀)は、蘇我氏(あるいは葛城氏)の祖先を崇神天皇の前に持ってこようとしていたのだと思う。後世の藤原不比等も同様に考えて、自分達の祖先=九州から来た祖先を載せたのだ。古事記と日本書紀を比べてみればすぐに分かる。よく言われる神武天皇から欠史八代の天皇の寿命は古事記と日本書紀では違っている。 古事記には神武天皇の生まれた日は書いておらず、寿命は137歳と書いている。 日本書紀には「庚午の年1月1日」に生まれ、即位は同じく日本書紀により辛酉の1月1日 (明治時代の計算により紀元前660年2月11日)となり、即位後76年に崩御とある。 つまり古事記にも日本書紀にも誕生年は明記されておらず、明治時代の学者の想像である。 欠史八代も含めて「古代では2倍年歴を用いていた」と考えれば、 不正確さは残るが現実的な寿命となるので、 国譲りの約束通り、昼(4月~9月)の1年は元大和王権、夜(10月いわゆる神無月~3月) の1年は出雲王権が治めていたと考えれば、矛盾は無い。この事が乙巳の変時の火災により失われた蘇我蝦夷の所蔵していた本、又は口伝により稗田氏に伝わっていたとすれば、僕の考えが正しければ、欠史八代の天皇は蘇我氏の祖先なので火事と共に詳しい事績は失われ、稗田阿礼の暗記していた記憶がつじつまが合わない部分は削られて事績無き天皇達になった。そういうことではないだろうか?後年日本書紀を作る際に、架空の天皇ならば、ちゃんと架空の天皇にすればよいのに、中途半端な実在性が残っているのは、元々の資料が蘇我蝦夷とともに燃えてしまったからでは?そう考えれば欠史八代の天皇の意味が分かるし、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)が2人いる理由も分かる。日本書紀の立場からすると、本当は藤原氏の祖先である崇神天皇をスタートにしたいのだが、一定の人達の記憶に残っているそれ以前の天皇(大王)の名前は消せないし、かといって燃えてしまったので詳しい事績は書けないし。仕方ないから自分達の記憶に残っている崇神天皇の前半生を神武天皇のものとして欠史八代の天皇の前に持ってきて、挟むようにして崇神天皇後半生をその後に記したのだろう。それで始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)が2人?古事記は4か月で完成する際に、多勢に無勢の太安万侶は藤原氏に殺されるのは恐いので、欠史八代とはいえ名前は残ることに妥協して日本書紀の欠史八代の天皇に合わせてしまった?僕の考えだと欠史八代の天皇の説明までできてしまうなぁ。何か小説かドラマのネタになりそう。太安万侶が稗田阿礼の恋人だったことにしてドラマにできないかな?NHKさん大河ドラマのオリジナル脚本にどうですか?主役の稗田阿礼は有村架純さんでお願いします。
May 27, 2021
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2021年4月10日の横浜市金沢区の富岡八幡宮は古墳だよ!(その8)古墳と思われる場所の調査で、鈴木かほるさんの三浦一族の話を紹介した。三浦一族に関する彼女の研究はすごい。彼女の研究によれば、三浦一族の祖は「源平闘淨録」では為道ではなく、叔父の忠光としており、そちらを推している。今までの通説とは少し違う。忠光は平将門の乱に与し常陸国へ配流となったが許されて三浦郡に着し、在地土豪の青雲介の婿となり三浦郡、安房国を押領し「権中将 三浦忠光」と称したとあり、「常陸大掾伝記」や「千学集抜粋」にも忠光を三浦氏の祖とする記述があるからである。すると、三浦一族の元々の起源は横須賀の衣笠ではなく、浦郷のほうになり、その後、時代とともに本拠を衣笠に移したことになる。ただ、僕はやはり三浦一族の根拠地は衣笠の方に有ったと思う。何故か。三浦半島の古墳の分布を見ると圧倒的に久里浜付近が多く、横穴墓も多いからである。また、先生方からは笑われるかもしれないが、記紀におけるヤマトタケルの東征において、ヤマトタケルが冠を渡したのが三浦一族の先祖だと想像しているからである。下の地図を見て欲しい。ヤマトタケルが富津へ渡るには、やはり走水から渡るのが近い。ただ、水先案内をしたのが漁民ならば、横須賀から猿島経由で渡るルートもあり得る。明治~昭和に建設された第1海堡と第2海堡付近は比較的浅く、漁礁が有りそうだからで、漁民がいつも利用しているルートだった可能性が有るからである。でも、どちらにしても横須賀なので、ヤマトタケルに対応した地元の豪族はこの辺にいた、そう思うのである。ヤマトタケルは大軍を率いて来たわけでは無いので、後の世にも三浦氏と千葉氏は仲が良かったように、当時も協力関係にあり、ヤマトタケルは戦争に来たと言うよりは通商関係と協力関係を築きに来たので、安全(航海の安全だけではなく地元の豪族との関係の安全)に対応したかっただろうから、ここを通り、そこにいた三浦氏の祖先に会って交渉し、千葉へ渡った?そう思う。なので、既にその頃から三浦氏は衣笠付近にいただろうと思うのである。ただ、浦郷にも原始三浦氏が居たのは確かだろうと思う。遠い祖先はこちらかもしれない。付近には今から9500年前の日本でも最古級の夏島貝塚があるし、貝山や鉈切遺跡もあり、まだ「国」の影も形も無い頃からここには人がいたからである。それらの人々が集まって村を形成し、定住化によって富の蓄積、郡の形成が行われた?文字等の普及が起こる前なので何も残っていないがそう思う。なので、今回は夏島付近の現地調査をしてみた。夏島には追浜駅からバスが出ている。平日にはすぐ近くの住友重機前や海洋開発研究機構行もあるのだが、朝夕だけ通勤用。なので、休日に行く僕らは手前のバスの追浜営業所行きで行くしかない。そこから歩き。終点の追浜営業所のすぐ近くに貝山緑地が有る。でもこちらからは入れない。裏側の「追浜浄化センター」にお願いしてそこから見るか(入るのは無理)、写真左手の貝山緑地入口から入る(こちらは入れる)しかない。追浜浄化センターは建設当時住民サービスで構内に「トンボの王国」、「メダカの小川」を造り、公開していた。今は公開しているのかどうか分からない。<後日追記>公開は一時的な設備の故障のせいで中止しているだけで、通常なら入れるそうです。平日8:30~17:00に入場可能(土日祝日不可)なお、2021年6月から整備が終わった貝山地下壕に入れるようになる予定だそうです。場所は下の写真の奥。全長2kmもあるそうで、戦時中の遺物らしいけど用途等は今でも謎だそうです。OPENが楽しみです。「トンボの王国」はこんな感じ。ふと山の中腹を見るとブルーシートがある。想像ではあるが、殺人事件の死体を埋めている訳では無いので、多分やぐらがあるのだろう。僕みたいに「あれは何だ?」と思う人がいるとややこしいので隠しているのだろう。それはすぐ左手の崖をみると分かる。ここは昔、海軍の基地が有り、掩体壕がたくさんあって戦後の今はタンク置き場になっている。海軍も中腹のやぐらを見て掩体壕を思いついたのだと思う。他の海軍基地にはないから。野島の掩体壕とは違い、小規模なので飛行機は入らない。かといって防空壕には大きい。なので、元々はやぐらもしくは横穴墓が有ったのを拡張したのだろう。航空機格納用の掩体壕ならば、出口の高さは地表面じゃないとおかしいし。貝山の周囲にはやぐらもしくは横穴墓の跡がたくさんある。2021年4月10日の横浜市金沢区の富岡八幡宮は古墳だよ!(その8)でも書いたように、大きさに差が有るのは、時代(掘削技術)や身分(経済力)の違いにより種別が違うのだろう。ここを後にしてバスの追浜営業所の方に戻り、貝山緑地入口に行く。ここは国有地で財務事務所から横須賀市が提供を受けて、市民たちが木を植えたらしい。少し登ると、元は海軍基地跡地で、有名な予科練の教習所が有ったと言う説明板が有った。僕の父親も予科練に入隊すると言って、学校の校長先生やお祖父さんを困らせたらしい。ただ、年齢的に幼く、田舎だったので結局終戦になってしまったらしい。予科練に行っていれば今の僕は居なかったかもしれない。貝山緑地の案内図を見ると、ここには首都圏を守る為に砲台が有ったらしい。案内板。案内板に書いたように、裏側の「トンボの王国」の中腹にあったやぐらは右上のあたり。砲台は少し道を登った所で、案内板の右側のお姉さんの顔の左の丸の所である。写真のように砲台の基礎が残っている。首都圏を爆撃から守る為に造ったのだろうけど、高高度を飛ぶB29には高射砲は届かなかった?貝山を降りてバス追浜営業所に戻り、夏島貝塚通りを北に進んで行くと夏島に着くのだが、途中に烏帽子岩跡地の碑が有る。説明通り北北東150mの位置ならば、今の日産の工場の中、夏島の手前付近だろうか?つまりこの辺りは昔は全部海で、今は陸地の夏島は本当に「島」で、貝山は海に近い高台だったんだなと思う。この碑をさらに北へ行って海の手前で面白いものを見つけた。車道橋である。人間が渡るのなら「歩道橋」だけど車が渡るので「車道橋」である。両側の日産の工場を結び、生産中の車が自走して移動する為の車道橋なんだろう。この車道橋を右に曲がると夏島が見えてくる。大きい。そして険しい。ちょっと登れそうにない。夏島のふもとには明治憲法起草地跡地がある。明治憲法は初代総理大臣の伊藤博文の別荘で作られたらしい。うーん、ここから南に200mと言うと貝山と夏島の中間付近だろうか?さすが初代総理大臣、良い所に別荘を持っておられる。<後日追記>烏帽子岩とか明治憲法起草地とかが日産自動車の研究所や工場の為に位置が変わっているので、元々の位置を知る為に、江戸時代の夏島等がまだ海の中に有った時代の絵を載せる。おおむね絵の右側が南で左側が北である。烏帽子岩の碑に書いてある様に、夏島と烏帽子岩の間には海が有ったんだなぁ。角度的に横須賀とは思えないから、この時代には夏島の向こう側に千葉が見えたんだなぁ。この碑のすぐ左に夏島貝塚の碑が有る。貝塚の碑と説明板は見やすいように写真を合成したもので、実際には離れている。今から9500年前って縄文時代初期じゃん。夏島も周囲はやぐらもしくは横穴墓だらけである。コンクリートで塞いである。危ないからだと思うのだけど、1か所くらいは整備して見学可能にしたらよいのに。たいしたお金はかからないと思うのだけど。もしかすると、整備すると「それが何でいつから有って背景には何があるか」を説明し、その証明をしなければいけないからかもしれない。僕の様に縄文時代の社会生活から、三浦一族に発展するまでを想像する人がいるかもしれない。そうすると「面倒くさい」し、他の穴もほじくり返さないといけないから困るのかもしれない。仕方ないのかな。そう言えば学者先生は縄文時代と弥生時代の境目を、最初は稲作の開始時期で分けていたが、縄文時代の遺跡から稲のプラントオパールが見つかり縄文時代に稲を食べていたのが分かると、プライドを傷つけられたのか、何としても稲作にこだわり、稲ではなくヒエ等のプラントオパールだろうと頑張っていたが、稲とヒエでは明白に違う。ならばと「農耕ではなく栽培だった」と屁理屈をこね、僕等に言わせれば「自然ではなく人間が手を加えた上で食用にしていた」なら同じじゃん?と思うのだが、先生方のプライドを傷つけると可哀そうなので言わないでおこう。アマチュアに気を使わせる学者先生なんて見苦しいと思うけど。「古墳」と言う言葉もプライドの高い学者先生のせいで振り回されてきた。元々は、円墳や方墳も含めて古代の盛り土状のお墓はみんな古墳と呼んでいたのだが、ヤマト王権の葬祭形式による支配の拡大を説明する上で、他の時代の古墳の存在が説明の邪魔になったせいから、古墳とは大和王権とその支配下にある各地の首長の築いた3~7世紀の前方後円墳と定義した。面倒くさい話である。非科学的な「想像による古代史」を作り上げてきて、新しい発見が有るたびにそれが覆されるので、その被害を限定する為の防衛策なのがミエミエである。みっともない。箸墓が日本最古の「古墳」じゃないと困るからな。「それ以前のものは古墳とは呼ばない」のだ。先生方の理論は新しい「古墳」が発掘されるたびに覆されてきたからなぁ。邪魔な古墳は「古墳じゃない」ことにしないと。ちゃんと覆されないようなきちんと証拠に基づいた古代史をつくらないからいけないのだと思う。日本の学者は「証明の仕方」が分かっていないと思う。「自分の想像で古代史を語る」のは責任が及ばない(それでお給料を貰っていない)素人の特権。ちゃんと大学や研究所からお金をもらっている学者先生は責任をもって勉強すべきである。ちょっと過激になったけど、実は下の写真からそう思ったのである。側面に見える穴はやぐらもしくは横穴墓の破壊されたあとだと思う。前にも書いた「室の木」の公園に有る破壊された古墳である。鉈切遺跡から近い。夏島貝塚に居た人達は鉈切遺跡で祭事を行い、鎌倉時代の三浦一族に連なるのだろうか?上空から見るとこんな感じ。頂上付近は円墳側も方墳側も破壊されて平面だ。これを見ると、2021年4月10日の横浜市金沢区の富岡八幡宮は古墳だよ!(その8)で書いたように首長の古墳の周囲に部下たちの横穴墓が並び、それが鎌倉時代には「やぐら」になった、そうじゃないかと思うのであるし、学者先生方が面倒くさがるので、こんな風に大事な古墳が破壊されてしまうのだと思うのである。室の木は源範頼が殺された地で(お墓は海軍の飛行場の建設の都合で谷戸に移設)、この辺には源氏や三浦氏に近い人達がいたから源範頼もここに来たんだと思うけど。先生方のお給料を増やせば携わる学生が増えて、古墳調査が進むかな?そうすれば先生方も無茶な忖度をしなくてもよくなり、正しい理論を考えられるかも?もしそうならば国の予算や市や県の予算を増やせばいいのかな?横浜市は文科系の予算が少ないからなぁ。
May 5, 2021
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前から使ってみようと思いながら、決断力の無さからおもちゃ箱に眠っていた、PIC(ワンチップマイコンの1種)をGWのヒマさのおかげで使ってみた。僕等が若い頃にはTK-80とかLkit-8とか言って、当時まだCPUとメモリーや周辺ICが別々のLSIで構成されていたマイコンを、ものすごく高いお金を出して買っていたのだが、それらの沢山のチップを1つのチップの中にまとめたようなLSIがPICである。これってすごいと思う。だってPINが8本だもの。昔のZ80(初期の8bitのマイコン)なんてそれだけで40PINも有ったんだもん。他にPIO(並列処理用インターフェースLSI)やCTC(基準時間発生用及び割り込み処理用LSI)及びSIO(シリアル通信用LSI)なんかがあったけど、それぞれも40PINとかあって、それらを配線するだけで頭の中がスパゲッティだったもの。しかもSRAMが高かったのでZ80のリフレッシュ機能を使ってDRAMを使うと大変だった。だから最初はPICを使うのも大変なんだと思っていたら、結論としては、本当は簡単なんだけどそこに至る過程が大変だった。後から考えると10分でできることが1日もかかってしまった。なので、自分の備忘録とするとともに誰かの役にたてるとうれしいな。まずは道具の入手。PICは安い。今回使ったPIC-12F683は1個120円だった。ブレッドボード90円抵抗8円x2=16円とLED10円及びコンデンサー5円で計241円である。ただ秋月で見ると書き込み装置が高い。AKI-PIC2プログラマボード(PICkit2互換)5300円である。これは無理。僕の1か月のお小遣いを超えている。奥さんに怒られる。なので楽天やAMAZONで探してみた。でもやはりちゃんとした製品は同じくらい高い。中国製で1700円弱のものもあるけれど使えるのだろうか?実は愛天堂でUSB-TTL変換ボード(メモリー書き込み機)1500円を買って、ひどい目に有ったことが有る。PL2303と言うUSB-TTL変換用ICを使っているのだが、メーカーが互換品対策としてRevアップの際に古いチップのドライバーを使えなくして、Windows10では使えなくなってしまったのだ。なので心配だったのだがチャレンジしてみてOKだった。互換品使えますよ。これである。amazonでも普通は互換品といえど2500円~2700円はする。何が違うか?一番大きいのはノンプレッシャーコネクター付の書き込みボードがついてない。次にソフト類が一切ない。(後から分かったがドライバーはソフトに含まれる。)最後にこれが一番きついのだが説明書が無い。でもここで貧乏人魂がむらむら湧き上がってくるんですよね。4千円も違うから。なので買ってみた。書き込みボードはネットを参考に作ってみた。結果としてこれは使えたのだが最初につまずいた時には、これがダメかと疑った。で、互換品にチャレンジしてみる人はブレッドボードをお勧めします。書き込み回路と同時に検証用LED点滅回路も作れるから。参考に僕が作った時の回路。これをブレッドボードに組みました。で、amazonから送られて来たので早速やってみた。最初はMPLAB(デバッガーソフト)=書き込みソフトとコンパイラーのインストール。この辺はまず失敗しないと思うので、参考になるホームページを紹介。使い方を含めて「東京海洋大学 田原研究室」のページが詳しくて分かりやすいです。詳しいのは「サヌキテックネット」の「PICマイコンの統合開発環境」のページです。インストールが済んだら早速使ってみます。まずはPICKIT3とブレッドボード回路の接続です。上の写真に書いたようにパソコンにつなぐ時には「使える端子」と「使えない端子」があり、使えない端子の場合には「電力不足エラー」が出ます。The target circuit may require more power than the debug tool can provide. An external power supply might be necessary. Connection Failed.いやー、これには参りました。1日のほとんどはこれでつぶれました。何か誤りが有って使えない場合にはソフトの見直しや半田付けのチェック等で分かるのですが、この手の間違い?はなかなか気がつきません。ノートパソコンなので電力的に余裕が無いのは想像がつきますが、例えばパソコンのオフ時に携帯を充電できる端子は特定の端子があるように、供給電力が多い端子と少ない端子が有るのかもしれません。接続したらMPLAB Xを立ち上げます。後から気付いたのですが、ここにチュートリアルなんかがあり、それで使い方を勉強できるみたいです。1600円なのでそんな親切な説明書は無し。左上のFileタブからNewprojectで上の写真のようなwindowが出てNextで進みます。ターゲットのPICによって端子Noや電圧等が違うので、ターゲットの入力。互換品なのでPICKIT3は認識されないかと言う心配はここで解消。ちゃんとIDも出ます。もしかしてIDをコピーしているのかなぁ?ここではデバッガーは使わないので無視します。使用するコンパイラーが(インストールされていれば)出ますので選択します。次にプロジェクト名や保存場所を記入します。プロジェクトの登録が終わったら、ファイルの作成に取り掛かります。NewFileを選ぶと作成するファイルを選べるようになります。今回はC言語によるmainfile。実はここで重要な作業が有ります。ネット上でも多くの人が「大事だから」と書いていますが、PICKIT3はUSB経由で電力を供給できるのでPICに書き込めるのですが、実はMPLABの初期設定は「安全の為に」電力を供給しない設定になっています。僕が動作させるまで1日かかった2つ目の原因はこれです。この問題を解決するには上の画面でちょっと動作が必要です。左のPIC10-12FXXXの所を右クリックしてPICKIT3のconfig画面を呼び出します。PICKIT3の色々な設定画面が出てきますので、その中からPowerメニューを選び、電圧の供給窓にチェックを入れて電圧を選びます。僕のは4.75Vにしました。本当に良いんですか?的な問い合わせが出ますが、必要なことなのでOK.。元に戻って作成するファイル名やプロジェクト名、保存場所を入力します。上の方のProductionを開き、中ほどのSet Configrationbit Bitsを選ぶと、そのPICに応じたConfigが下のWindowに自動生成されるます。既にプログラムの基本的な部分が自動生成されています。この時に大事なのは下のwindowでConfigration Bitsを選びコピーして、下の写真の様にwindowのmainのプログラムの前に貼り付けます。通常、PIC毎に違う個別のconfigは自分で書くのは大変ですが、ソフトが代行してくれます。最後にメインのプログラムを書き込みます。これを上のトンカチのアイコンを押すとコンパイルしてくれます。コンパイルが終わったら、トンカチの右側に有るゲジゲジと矢印のボタンを押す。これで書き込み終了です。今回はLチカつまりLED点灯プログラムを書き込みましたが無事動作してます。こんな感じで1700円のPICKIT3でも無事に動きました。ただ、最初に書いたように結果としては簡単だけど、そこに至るのは(電圧・電力の問題のせいで)大変でした。誰かの参考になるとうれしいな。
May 2, 2021
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