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何とか邪馬台国の位置を特定したのだが、多くの学者先生が言うように、「では何故後の「古事記」や「日本書紀」に邪馬台国のことが触れられていないのか?」が分からないとその特定された邪馬台国の位置の正しさが証明されないと思うので、研究してみる。なお、厳密には古事記や日本書紀にも外国との関係からほのめかし程度には書かれているが、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国がその後どうなったかははっきりとは書かれていない。最初に必要なのは、魏志倭人伝は中国の書で中国人の立場で中国語で書かれているので、それを古事記や日本書紀と結びつけるには文字と読み方の理解が必要であるから、そこを考えてみる。そもそも古代の日本人の言葉さえ現代日本人には理解が難しい。Wikiを見ると、万葉仮名は現代の5つの母音ではなく8つの母音で、さらに現代では区別不可能な音節をはっきりと区別して書き分けているらしい。例えば「支」や「来」の「キ」と、「貴」や「記」の「キ」は違うものだったらしい。ここを理解していないと、もしかして現代にも残っている地名から過去の国名が理解できない。上代特殊仮名遣 - Wikipediaそう言えば我が家の奥様は東北出身なんだけど、僕とは「耳の構造」が違うらしい。上に書いた母音の違いではないのだけど「が」を使い分ける。僕には分からないけど。大学(だいがく)の「が」と学校(がっこう)の「が」は全く違うのだそうだ。そう、いわゆる「鼻濁音」である。僕には全く同じにきこえるのだけど。魏志倭人伝の中で、「壱岐(いき)」の「い」と「伊都国(いとこく)」の「い」で使い分けているのは、僕等には同じ「い」に聞こえるけど、明治時代以前は「ゐ」と「い」を使い分けていたように、話す古代日本人の発音、もしくは聞き分ける古代中国人の耳にとっては違うのかもしれない。ここの所が分からないと本当の理解はできないと思うのだけど、低レベルアマチュアの僕には無理がある。でも無理なりに少しづつ解明しようと思う。いきなり本題に入ってしまうが、魏志倭人伝に面白い記述が有る。東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家不彌國への行程である。僕はこれから不彌國は現代の宇美(うみ)市だと考えている。(広く隣の大宰府も当時は不彌國だったと考えている。近くには銅戈の鋳型を出土した 須玖タカウタ遺跡も有り、弥生時代のテクノポリスだからである。医療技術も発達して いたらしく、難産であった神功皇后もここで応神天皇を生んでいる。)副官の「卑奴母離」を「ひなもり」とよむからである。和名抄によれば、今の宇美市の北で現在の粕屋郡に「夷守駅」が有ったらしい。現在は日守(ヒモリ)神社が建っているそうである。現代の地名では福岡のひなもりと宮崎県小林市の「ひなもり」が有名だが越後にも有った。宮崎の夷守(ひなもり)は日本書紀の景行天皇の行幸の記述にも出てくる。この地には「弟夷守」と「兄夷守」が居たらしく、諸県君の一族であると言われている。つまり、当時環濠集落であった、その集落名が氏族名と地名として残っているのである。同様に魏志倭人伝を読んでいくと更に面白い記述が出てくる。南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸投馬國への行程の記述である。何が面白いか?官と副官の「彌彌(ミミ)」である。不彌國を「ふみこく」と読むならば「彌彌」は「みみ」。宮崎は明治時代まで「美々津県」と呼ばれていた。「津」は港と考えると「彌彌」の港で有る。「おぉーっ」と思ってしまう。さらに言えば、日向市美々津は神武天皇の船出の地である。おぉー!魏志倭人伝と古事記・日本書紀がつながりそう。もっとすごいことが魏志倭人伝には書いてある。南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸邪馬台国への行程である。何がすごいか。官の名前である。「伊支馬」伊都国(いとこく)から「伊」は「い」だと分かる。魏志倭人伝では壱岐の事を「一大國」と書いているが、大が支の誤りならば、「支」は「き」である。上記のWikiでも「支」は「キ」とされている。「馬」は時代により「メ」や「マ」と呼ばれているが「メ」でも読める。「伊支馬」は「いきめ」なのである。これが大事なのは、宮崎市にある生目(いきめ)古墳の中に異常に古い古墳が有る事である。第11代天皇垂仁天皇のお名前は、活目尊(いくめのみこと)『日本書紀』である。「垂仁天皇」は奈良時代につけられた漢風諡号なので活目尊(いくめのみこと)が正しい名。垂仁天皇は「伊支馬」の子か孫か曾孫に違いない。おぉー!魏志倭人伝と古事記・日本書紀がつながりそう。更に副官の「彌馬升」と「彌馬獲支」も面白い。同じように考えると「みめしょう」と「みめかき」である。「彌馬(みめ)」に注目したい。古代日本人の発音を古代中国人が記したので「馬」は「ま」と「め」に近い音だったのだろう。「みめ」に近い発音で「みま」であるが、垂仁天皇のお父さん?に面白い名前の方がおられる。第10代天皇で実在した最初の天皇であられる崇神天皇である。御間城尊(みまきのみこと)『日本書紀』と言うお名前で、崇神天皇は漢風諡号である。ここまでくると魏志倭人伝と古事記・日本書紀がつながっている?最後の副官が全ての答えである。「奴佳鞮」「奴」は奴国の「な」である。「佳」はそのまま「か」。最後の「鞮」は「たい」とか「とお」である。つまり「奴佳鞮」は「なかとうみ」つまり「中臣」後世の藤原氏である。つまり古事記や日本書紀には魏志倭人伝のことを書いてないのではなく、当時の人達、特に天皇家や藤原氏には誰でも知っている当然の事実なので、あえて「この人は魏志倭人伝に書かれたあの人の子孫だよ」とは書いていないのである。なんか真実にたどり着いたような気がする。<後日追記>このように書くと必ず、じゃぁ「纏向遺跡と箸墓はどうなるの?」と聞く人が居るので書く。纏向遺跡は「出雲王権及び初期ヤマト王権の遺跡である。え?出雲は島根県じゃないの?と思うかもしれないけど、古事記に書いてある。矢上姫の件で煮え湯を飲まされて、なおかつ出雲の王の地位の相続も危なくなった兄達は、2度にわたって大物主を殺す(殺そうとする)。その時に母親は(母は他の妃達よりも出身母体が弱いので)「このままでは兄達に殺されてしまいます。今のうちに逃げなさい」と言います。それで大物主は木の国(紀ノ國)経由で吉野に向かい、地元の首領の娘を得て、三輪山の麓に新たな出雲王権を打ち立てていたのです。(三輪山が大物主を祀った山だとは古事記や日本書紀にも書かれており、今も祀られている)古事記には以下のように書かれています。これを見ると、諸説ある中で素戔嗚命が島根の出雲に居たとか和歌山に須佐神社があると言う説、どれが本当なのか分からないのですが、時期によるのかも知れません。僕は「大国主命」や「須佐之男命」は個人名ではなく出雲の国における「称号」と考えています。「大国主命」は出雲の大王の称号、「須佐之男命」は出雲の征夷大将軍の称号です。そうでなければ6世代も違う須佐之男命の娘のスセリヒメと大国主命が結婚するはずはないです。これはオオナムチがその当時の将軍の娘と結婚して勢力を得て大国主命(大王)になった、そう言う話が誤って伝わり神話になったのだと思います。古事記の中でも須佐之男命の最後の試練に耐えてスセリヒメと逃げるオオナムチに、須佐之男命は「スセリヒメと一緒になり俺のあげた武器で兄達に勝ち大国主になれ」と言います。名前が大国主命ならば「大国主になれ」とは言いません。これは「俺の娘をやるから兄弟たちを滅ぼして出雲の国の王になれ」と言っているのです。(下の方に古事記の原文等を詳しく書いたので参照)で、味をしめたオオナムチは越の奴奈川姫まで嫁さんにして勢力を広げたのです。と言うことはももそ姫との結婚も最初はそうで、スセリヒメにいじめられたももそ姫が(箸で)自殺未遂したのを可哀そうに思った大国主命が、ももそ姫を愛するようになって最後は箸墓に一緒に埋葬されたのかなぁ?根堅洲国と言うのは伊弉諾尊・伊弉冉尊の逸話から死者の国と解されるのが一般的ですが、六月晦の大祓の祝詞では根の国は地下ではなく海の彼方または海の底にある国とされており、そもそも伊弉諾尊・伊弉冉尊は出雲(島根)には住んでいなかったので、(九州や淡路島やら伊勢やら諸説あり)根堅洲国は出雲(島根)ではないのではないかと思っています。八十神から逃げて紀ノ國に行き、さらに逃げた先が元の出雲とは理屈が合わないから。根堅洲国は和歌山か吉野かもしかしたら纏向ではないだろうか?それは根堅洲国につきものの「桃の種」が纏向遺跡で大量に見つかったらしいので。20180615_isee_1.pdf (nagoya-u.ac.jp)このレポートでは何とか邪馬台国と結びつけようとして無理をしていますが、僕はむしろ古事記の伊弉諾尊・伊弉冉尊の逸話から出雲がここに有ったと言うように読めます。伊弉諾尊が根堅洲国から逃げる時に桃を投げるのは古代の殯の儀式の一つではないでしょうか。いずれにしても大物主(大国主命)は出雲から紀ノ國を経て須佐之男命の元へ逃げます。古事記によれば最終的には三輪山に祀られるので、ここから纏向へ行くのでしょう。それはスセリヒメと共に須佐之男命の元から駆け落ちする際の須佐之男命の言葉から分かります。須佐之男命はこう言います。「その汝が持てる生大刀生弓矢もちて汝が庶兄弟どもをば、坂の御尾に追ひ伏せ、 また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大國主の神となり、また宇都志國玉の神となりて、 その我が女須世理毘賣を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底津石根に宮柱太しり、 高天の原に氷椽高しりて居れ。この奴」庶兄弟をわざわざ出雲(島根)まで滅ぼしに行ったのかどうかは不明ですが、(庶兄弟は大物主を追いかけて来ているので、和歌山の地で倒したのかも?)古事記では最終的には三輪山におられるので、この須佐之男命の言葉の中の「宇都志國」と言うのは大和の地であるのではないかと思います。(神武天皇も東征する際に大和に美しい土地があると言うのを理由にしています。)よく国譲りの際に大国主は巨大な社を出雲(島根)に作ってもらったと言われますが、古事記には建てた場所は書いていません。纏向の神殿かもしれないのです。日本書紀に至っては、一書の中で事代主とともに神武天皇の家来になったと書いてあるし、大国主命も事代主命も死んだとは本文にも一書にもどこにも書いてません。なのに通説では事代主が「かくれた」と言うのを勝手に死んだと解釈して、大国主の「事代主を大事にすれば出雲の神々は神武天皇に従うだろう」と言う言葉に反しており、出雲風土記等には国譲りはかかれていません。(出雲以外は譲ると書いてある。)何故、いつから2人は死んだことになったのだろう?約束が違うじゃないかと国津神が反乱を起こすではないか?かって纏向遺跡は「太田遺跡」と呼ばれていました。古事記によれば、世の中が荒れた時に崇神天皇は大物主の祟りだと恐れ、夢の中の大物主の言う、大物主の子孫「大田田根子」を探し出し、大物主を祀らせます。纏向遺跡の有る所は「大田田根子」が居た太田の里だから、昔は「太田遺跡」と呼ばれていました。でも纏向遺跡をどうしても邪馬台国だと言いたい人達は大田遺跡と言う名前は都合が悪く、(この部分は僕の想像です。)纏向遺跡と言う名前に変えたのです。(この部分は本当です。桜井市の観光協会のホームページに有ります。https://sakurai-kankou.jimdo.com/%E5%90%8D%E6%89%80%E6%97%A7%E8%B7%A1/%E5%B1%B1%E3%81%AE%E8%BE%BA%E3%81%AE%E9%81%93-%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%BB%E3%81%8B/%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1/昭和12年に発見された時には、出土地の大字太田」から「太田遺跡」と名付けられましたが、昭和46年~47年の発掘調査から「纏向遺跡」と呼ばれるようになったらしいです。時期的に笠井新也氏が昭和17年頃に「考古学雑誌」に箸墓=卑弥呼の塚説を発表し、彼を信奉する人達が勢いを得た後に改名されているので怪しいと思うのです。でも、「大物主を祀る三輪山」のふもとであり、「大物主を祀る大田田根子」が居た所だし、どう考えても大物主(大国主命)の開いた新しい出雲の都だと思います。箸墓についても古事記に書いてあります。大物主の奥さんの「倭迹迹日百襲姫命」の墓で、昼は人が作り夜は神が作ったと言われています。簡単に考えれば出雲王権の大物主と初期ヤマト王権のお姫様の政略結婚だから、昼は人(初期ヤマト王権)が作り夜は神(出雲王権)が作ったのでしょうけど、僕は意外にも2人は愛し合っていたのだと思います。恐らく大物主も箸墓に一緒に埋葬されているのではないでしょうか?よくヤマト王権は前方後円墳と言うシンボルにより国々を従えて大きくなっていった、そして箸墓がその走りだと言われています。本当にそうなんではないでしょうか?2人の墓が「愛の象徴である」と共に「国々の連合の象徴」にもなったんだと思います。崇神天皇は頭が良い人だったので、2人の墓である箸墓をうまく利用し、出雲の国の人達も従来からの自分のヤマト王権の人民として組み入れて行ったのです。その後、他の国々も前方後円墳をヤマト王権と自分達の国の連携の印として受け入れ、ヤマト王権は大きくなっていったのだと思います。<後日追記>邪馬台国畿内説の根拠は、いくつかの「十分条件」を満たしだから邪馬台国だと言うのだが、証明における条件は「必要条件」と「十分条件」両方が必要で、「十分条件」だけによる証明はほとんどの場合無理である。何故なら「十分条件」は先に答えが有って、その答えならばこういう「条件」を満たすと考えるのだが、答が先に有って思いつく条件は全てを探せないからである。(見つかった瞬間にうれしくて他の条件を探せなくなってしまう場合も多い。)現在までに提示されている邪馬台国畿内説の「十分条件」は他に大きな国が無かったが前提で、例えば、吉備や出雲(吉野)や尾張に大きな国が有ってそれが纏向に進出していたら、どの国であっても成立する条件ばかりである。箸墓が魏志倭人伝に書かれた大きさと時期に近いと主張するが、同じ時期の同程度の古墳は全国に有り、そもそも魏志倭人伝には前方後円墳とは書かれてない。むしろ前方後円墳のような特徴のある墓ならばその特徴を書くはずなので、ごくありふれた円墳だと思われる。唯一「魏から渡された鏡」は他の国は魏から倭王として認められていないので持っておらず、この鏡が三角縁神獣鏡ならば、これは「必要条件」になるので期待されたが、どうも三角縁神獣鏡は国産鏡らしく中国では見つからず、否定されつつある。この手の証明は、もう「親魏倭王」印の発見しか無いような気がするので、僕の宮崎説の方が魏志倭人伝の記載通りであり、方角を間違えた等とあれこれと誤記前提の畿内説よりは「まし」のような気がする。
July 26, 2021
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6月19日に「SI4732全周波数帯域ラジオを買ってみた。」で紹介したAmazonのラジオ、さすがに基盤のままでは恰好悪いのでケースに収納してみた。100均で買った透明アクリルケースに穴をあけて入れてみたのである。穴あけが大変だったけど、それなりに恰好がついた。穴の加工の際にちょっと力を入れたせいで割れた所は残念だけど、操作性には影響ない。気になるのは電池の交換だけど、リチウム充電池ならば何の心配も無かったのだけど、100均のエネループなのでもしかして交換する必要が有るかもしれないので、アンテナやイヤホンの出っ張りはフタを開けた時に邪魔にならない側にした。また。スイッチ等を強く押した時に負荷がかかってケースが割れないように、(実は既にヒビが入っているのだけど)基板に足を付けて高さを調整して底に足がつくようにした。これでほぼ完成なんだけど、今回は見送ったのだけど、arduinoのスケッチの改造をいずれやりたいと思っている。YOUYUBEを見ると海外の方だけど、バージョンアップした物を紹介している。バージョンアップをした物は、現在ボリュームの上下をスイッチでやっているのがロータリーエンコーダーでできる。その他も。スイッチで項目を指定してOLEDの項目を点滅させたあと、値をロータリーエンコーダーで変化させられるようになっており、便利。今のスケッチの作者はPU2CLRさんでバージョンはV1.1.5。YOUTUBEの外人さんはV3だと言っていたけど、arduinoIDEで検索するとPU2CLRさんのスケッチの最新版はV2.1.0みたい。なお、V2.1.0も現状とハードウエア的には同じみたいなのでいつかバージョンアップしよう。ラジオICのSI4732a10はSI4735と互換なので、PU2CLRさんは上の写真のように「SI473X」としてどちらでも使えるようにしている。回路はPU2CLRのホームページに載っており、こんな感じ。回路図は字が小さくて見にくいけど、元は大きい図なのでブラウザで拡大して見られる。Windows10なら右上の歯車のアイコンをクリックして+で拡大。見終わったら100%に戻すこと。ちゃんと確認してはいないけど、SW8とロータリーエンコーダーのスイッチが入れ替わっている程度の違いなので、間違っても少し書き換えるだけで使えるようになると思うので、いつかチャレンジしよう。<後日追記>回路図の見方は拡大するよりも、右クリックして出てくるメニューから「新しいタブで画像を開く」を選び、別のタブで見た方が良いです。すみません。
July 3, 2021
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